1943年7月9日『ジュ・スイ・パルトゥー』新聞より

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 ブリノン氏 [フランス大使] がドイツ、また東部戦線でボルシェヴィズムと闘っているフランス人外人部隊兵士を訪問しに行く同伴をクロード・ジャンテと私に頼むという光栄に浴した時、それならばカチンの恐ろしい集団埋葬場に足を延ばすことできるかもしれないという考えが即座に私の脳裏をよぎったのは事実だ。しかしそのような行程は予定に組まれていなかったため、道中、私の期待した可能性は遠のいていく一方に思えた。旅は実に興味く、民間及び軍事機関がそれぞれ競い合うように隅々まで事細かく気を配りながら見事にオーガナイズされ、見ることなすこと山ほどあり、時間は限られていた。そのうえ暑気が訪れ、カチンの集団埋葬場はいったん閉じられていた。遺体の身元確認作業を続行するために穴を再び開くのは十月になってからとのことだった。カチンの現場には、まだ一人のフランス人ジャーナリストも訪れていない。スペイン人がジメネス・カバレッロのえぐるような報告に接する幸運に恵まれたのに対し、我々フランス人は、国際調査委員会の公式報告で満足せざるを得ずにいる。この委員会に参加したフランス人とは、一般医の肩書きを掲げる薬剤師だかで、彼は同僚達の見識をその信憑性を確認しようともせずに何から何まで認めながら、報告書に自ら署名する初歩的な誠実ささえ持ち合わせていなかった。

 私達が繰り返す懇願は功を奏して、ついに旅の最後にスモレンスクに一泊し、翌朝早く、カチンを見学できることになった。

  私は今ここで、錯綜する様々な映像の思い出を寄せ合わせることを試みる。旅の移動は夜行列車や軍の搬送車、”硬座車”、あるいは自動車で行なわれ、宿泊施設はウィーンの大ホテルのこともあれば、ベレジナ [ベラルーシの地名] の木製家屋であったりした。時には外人部隊の食事や駅で軍に配給されるスープをお裾分けしてもらい、またその一方で軍司令部のレセプションで私達のために特別用意された繊細なフランス料理に舌鼓を打つこともあった。多くの人と話す機会に恵まれた。国内の経済立て直しに携わる人々、兵士達、ベルリンやウィーンの労働者達。その山ほどの表情や印象を伝えなければいけないことを思うと、ほとんど絶望しそうになる。それでもなお、この旅の意義は、最後にロシアで私達が目にした光景にあり、まずそのことから語り始めなければならないと思うのだ。

  私はカチンの現場を見た。なにものにも代弁させることのできない生の実感を、私は得た。その情景を目にし、怖気を催す腐臭を嗅ぎ、これほど無数の死骸を覆う朗らかな木立を抜ける小道を歩き、早朝の風に吹かれながら黄土色の広大な墓穴と、野性の木々、木立を見た。見たという他に言うことはない。

死体埋葬場の腐臭

 ロシアの平原が、牧草地と沼地の暗い染みに覆われたわずかな森が遮るだけの単調な広がりであるのに対して、スモレンスク周辺地域は気持ちの良いコントラストを与えてくれる。魅力的な丘陵が親しげな森や庭園と交わって、新鮮な起伏を織りなす。カトゥン(と現地では発音する)の小村はおそらくロシアの他の村々とよく似たものなのだろう。私はだが村を見る機会に恵まれなかった…。見たのはただ雑木林と藪からなる五、六キロ近く広がる森だけだ。ソ連に週末制度があるならば、カトゥンは週末を過ごす場所としてうってつけである。まだ春の気配の濃い初夏のこの日、すべてが瑞々しい緑に覆われ、トルストイというよりはむしろジャン=ジャック[・ルソー] 風の手軽な自然の魅力に満ちていた。だがそれが現場なのだ。

 それがどのように発見されたのかはよく知られている。平凡きわまりない話である。何度か作業が実施され、土が掘り返された結果、ポーランド人将校達の遺骸が日の下に晒された。ドイツ人達は周辺地域の住民に尋ねてまわった。長いためらいの末(ソビエトに対するかつての恐怖は時に舌を麻痺させる)、彼等が打ち明けたところによれば、かれこれ三年ほど前のこと、囚人を満載した列車が森の中に到着した。中にはロシア人も混じっていた。さらに調査が進められ、巨大な穴の底に何千という遺体が頭を互い違いに積み重ねられ、埋められているのが発見された。そのうち二、三千人の身元が確認された。それから少しずつ、さらなる墓穴が発見された。作業はいったん中止されていたのだが、私達のためにその晩、再びその一つが開かれた。朝。私達は五時半に起床した。前夜床に就いたのは二時半、ロシアでは極めて早い夜明け、地平線がすでに白み始める頃だった。雨が降り、空は灰色をしている。大虐殺にふさわしい古典的な夜明けだ。ほとんど寒いほどである。墓場へ通じる道は今では囲いを建てて森から隔たれた。さほど長くない。私達は無言のまま森を抜け、溝のそばまで連れて行ってもらった。

 即座に私達を襲ったのは、臭気だ。この旅を以前経験している私達の運転手が予告した通りだ。運転手は小娘ではない。「二日間は食事ができなかった」と私達に語った彼は、冬の勲章の持ち主、遠征にも参加した国家社会主義のベテラン闘士である。
 壮絶な臭気をごまかすために皆が葉巻を吸い始める、その彼等の多くは前の大戦に参加し、今回の戦場も体験している。それでもほとんどが呆然としている。だが私達は身を屈め、覗き込まねばならないのだ。感じなければならない。
 私はこの腐臭を、ボルシェヴィズムに傾倒する大司教らの香に染み込ませたい思いにかられる。
 圧倒的な臭気、どす黒く鼻を刺す、忘れることのできない遺体安置所の臭気。死体をあまり損傷させないこの土壌で、長い時間をかけて腐ったその匂いは、獣のように生きているかと思える。穴の底に圧縮され、積み重ねられた彼等から立ち昇る、手に取れそうなほどの重み。それを時折風が、私達の顔に吹きつける。すると手で拭いたい想いにかられるほど、夥しく、べとつく。匂いに過ぎないのに。腐肉が、蛆虫に覆われた猟獣の肉が、膿んだ古い壊疽が、吐瀉物が、発酵物が、順を追って猛烈な苦い混合物を生成する。最も近いのは、腐った魚かもしれない。だが一匹、二匹ではない、膿みと血膿の臭気、毒素が流れ出る緑色の傷口と共に潮の苦味の中で腐った途方もない大群だ。そう、私達に襲いかかり、包み込むのは臭気であり、あたかも墓穴そのものの中に降りていくかのように、私達は匂いの底に引きずられていく。ぞっとする汗にまみれながら、一日中私達は服に、靴にまとわりつくこの脂ぎった、決して消えようとしない、名状しがたい汚臭を連れて歩かねばならなかった。

最後の審判

 何ヶ月も経過しながら、これほどの臭気? そうなのだ。カトゥン周辺の土壌にはどうやら特別な保存性質があるらしい。作業を請け負う人々が、哀れなポーランド人らの遺骸を揺り動かし、鉤の先でその一体を釣り上げると、同時にこの臭気がまるで顔にシャベルいっぱいの土が放られるように降りかかる。そしてまるでリジエ・リシエ [16世紀のフランスの彫刻家、死体像で知られる] の骸骨のごとく、歯の剥き出た、乾いた、無言の亡霊が仁王立ちとなって、我々に腐臭を吹きつける。
 頭を互い違いに交差させ、彼等は横たわる。土に汚れ、色褪せた軍服、長靴、長い外套からすぐに見分けがつく。私は [ドイツでの]戦争捕虜時代にポーランド人将校達と何ヶ月も共に過ごしたから、これが彼等の兄弟であるのがよくわかる。うつぶせに横たえられた彼等のうなじの弾痕に、私達の注意が促される。写真ですでに見たことがあったが、缶詰のように規則的に並べられ、幾重にも機械的に積み重ねられた死骸の層は、想像の域をはるかに超える。まるでゼリー状の物質によって死体同士が一つに寄せ合わされたかのようだ。それを一体、また一体と、農業用フォークの先で引き剥がす。その度に油紙を破るような音がする。 無感動な墓堀人が砂の上を歩きながら、死体を揺り動かす。二本のフォークで一体を釣り上げ、私達の足元に投げ出す。乾いて、軽い、まるで巨大なニシンだ。
 またも私の頭に、海洋民族の表現を借りた喩えが思い浮かんだ。比較せずにはいられないほど衝撃的なのだ。胎児は海水の中で形成されるという話が本当ならば、私には死体もまたいずれは、そうした奇妙な緑色に凝固した冷血動物に戻るかのように思えてきたのだ。乾いた化け物のようなニシンが、仲間のゼリーから引き剥がされ、私達の目前に横たわる。服の下に透けて見える肋骨は、まさに魚の骨だ。屈んで、注視する。私はとうの以前から口でしか息をしていない。このような状況ではそうすることをお薦めする。同行者の何人かは、やっとのことで嘔吐をこらえているのがわかる。

 哀れな死人のコートのポケットが、中身を確認するためにナイフで裂かれる。ポーランドの硬貨。それから財布。身分証名書。捕虜収容所に宛てられた身内からの送金。消印がまだ読み取れる。1940年のロシアの新聞。どれも汚れ、染みに覆われ、様々な物質に触れたために湿っている。それでいながら原形はわかる。

 我々は冷静に思考する。冷静さというものがこの場で可能であるならばだが。これらの死体がポーランド人のものであることには疑いの余地はない。この点はごまかしようがない。だがこれがプロパガンダ目的に仕掛けられたとんでもない残虐なやらせである可能性はあるのだろうか。私達の目の前でわざわざ掘り起こされた死骸は、とても事前に“用意”できるような代物ではない。衣服は遺体にぴったりと貼り付いて、ナイフを使わないと引き剥がせない。ロシア人の墓堀作業人達は、さしたる嫌悪感も見せずに、ポケットを引き裂いては中身を私達に見せてくれる。出てくる書類も日付けも本物であることは疑いの余地がない。新聞、手紙。1940年4月以後のものは一つもない。処刑はその数日前、早くともその数週間前に行なわれたのだろう。下手人として断罪されるべきは唯一人。ソ連の死刑執行人である。
 この論を今一度確認することをお許し願いたい。蛇足ではないのだ。カチン虐殺が [ドイツによる反ソ・プロパガンダのための] 作り話だと信じている人が未だにいるのだから。これが作り話だとしたら、ソ連人がロンドンのポーランド亡命政府とこの事件をめぐる交渉を断絶する必要があっただろうか。だがあらゆる抽象的な思考は、目前に横たわる押しつぶされた遺骸の姿に凌駕される。顔は、まだ骸骨には達していないが、損傷してもやは見分けがつかない。一方、切り裂かれた衣服の下から現われる身体は、砂地に保存されて、未だに皮膚と筋肉を保っている。緑色、桃色、黄色をした、時には凝固した、時にはゼラチン状の堆積物である。正直に言うと、私はむしろ生きた人間の被った傷や火傷、四肢の切断と言った肉体的恐怖の方に心動かされる。今、目前にあるすでに人間を超越した異様な遺骸の上には、さほど嫌悪感に捉われずに身を屈めることができた。だが彼はここにいるのだ。きっと力強い男だったに違いない立派な体躯の証人が、砂浜のように砂の上に投げ捨てられる。その微動だにしない無言の姿こそが、まるで最後の審判におけるかのように、彼に対して行なわれた犯罪を雄弁に物語っているのだ。

十万…

 別の墓穴に連れて行ってもらう。前のよりも小さく、後ろ手に縛られた遺体が一体ある。別の一体は上着を顔に被せてある。別の場所で発見されたロシア人達の遺体には弾痕はなく、その代わり口いっぱい泥が詰まっていたそうだ。生き埋めにされたのだ。
 ポーランド人将校について奇妙な疑問が沸き起こる。私達のために掘り起こされた遺体のポケットからは、身内から収容所に宛てられた手紙が出てきた。ということは1939年秋から1940年春までの数ヶ月間、この哀れな犠牲者は、通常の戦争捕虜という身分を享受していたことを意味する。ドイツ兵とその同盟国の軍人にはソ連が決して適用しなかった身分である。彼は家族との交信を許され、小包や送金まで受け取っていたのだ。それなのにある日突然すべてに終止符が打たれた。ソ連人達は一万二千人を列車に乗せ、カチンの穴の中で彼等を機械的に次々処刑していった。この急激な方針の転換は何か?
 答えは一つしか考えられない。ソ連はしばらくの間、ポーランド軍の支持を獲得できることを期待していた。ソ連に占領された地域の出身者のみならず、ワルシャワなど、ドイツに占領されている地域の将校のものもだ(私の見た手紙はポーランド総督府[ドイツに併合されたポーランド領]から送付されたものだった)。このことは多くの姦計の存在を疑わせる。だがある日ソ連は、ポーランド人がボルシェヴィズムを憎悪してやまないことを悟ったのだ。ポーランド人、このあまりに多くの場において無思慮で軽はずみ、悲劇的なほど軽はずみな民族が、ヨーゼフ・ピルスドゥスキーによる反共産主義の教訓を忘れることは決してなかったのだ。またピルスドゥスキー以前にもポーランドの歴史とは、常に本質的に反ロシアであった。この事実を確認したソ連人は、それ相応に応酬した。つまりポーランドのエリート層の根絶を完遂したのだ。バルト海沿岸諸国のエリート層を根絶やしにしたのと同じように。
 私達は森を抜けて歩く。何枚かのポーランド紙幣が風に舞っている。価値を失い、身元証明の役にも立たないため、保管されないのだ。私はその何枚かを拾いたい。教会に寄付をするために…。世界のいたるところ(アメリカですら)でポーランド人達は、同胞のための祈りを要望したことを私は覚えている。それにもかかわらず外国では、カトリック教徒に対するこの虐殺に対して、ただ一人の枢機卿も大司教も非難の声をあげることはなかったのだ。バチカンですら。ふだんあれほど饒舌なフランス司教団はだんまりを決め込んだ。ボドリアール大司教ならば口を噤むことはなかっただろう。スペイン内戦での虐殺を断罪したピウス十一世も。カトリック教会は人材に不足している。
 新たな墓穴が私達の目前に広がる。まだ掘り始めたばかりの新たな山。表層近くに横たわるのは農民の遺骸だ。書類も身分証名書も持たないロシア人、おそらく1937年または38年に殺害されたと推測される哀れな村人達だ。いったい何の<咎>によってなのか、私達の知ることは永遠にない。
 
「墓はいたる所に見つかります」と、発掘作業を指揮する将校が私達に言う。「適当に掘っただけでも見つかるでしょう。この森の面積と墓場の密度から計算すると、おそらく六万から十万体が埋葬されていると私達は今では推測しています。」 
十万の遺骸。ヴァンセーヌやフォンテヌブローとまるで変わらない朗らかなこの森に…!

哀悼と考察

 ドイツ人達は集団埋葬場の入り口に、何千もの掘り起こされた遺体を集めた。そのうちおよそ三千体の身元が確認されている。身元確認に使えそうなものは書類等、すべて集めた後、ドイツ軍は彼等に相応の墓地を用意した。大きな十字架のそびえる、規則正しい広大な軍人墓地である。その中には百五十名の医師が含まれる。二名の将軍のためには、別に特別の墓が設けられた。そこでポーランド人の礼拝堂付き司教がミサをあげた。そこに我々も招かれ、フランス大使と共に、戦争犠牲者達に敬礼を行なった。この黙祷の数分間、我々フランス人があらゆる政治思想を越えて思い起こさなければならないのは、1939年9月に戦争が開始した時、ここに眠る者達が我々の側で武器を取っていたことである。彼等は浅はかな国家元首達の、アメリカの扇動者達の、そして野蛮なボルシェヴィズムの犠牲者である。哀悼以外の感情に場を与えてるべきではない。
 だが考察も必要だ。英国の最も重要な媒体『ナインティーンス・センチュリー』誌6月号は、なぜポーランドがドイツ側につかなかったのかと単刀直入に疑問を呈した。ドイツに好意を示したポーランド人達が皆、特別な恩恵に恵まれたのだからなおのことであると、粉飾無しに付け加えている。私達がパリに帰国してすぐに耳にしたのは、ロンドンのポーランド亡命政府リーダーで、カチンに関する調査を要請するイニシアティヴを取っていたシコルスキー将軍が、彼の参謀長と共に飛行機事故で死んだニュースだった。もしかすると将軍は、カチン虐殺最後の犠牲者だったのかもしれない。ちょうどフランソワ・ダルラン大尉[1942年12月24日アルジェで暗殺された]が、メルス・エス・ケビル事件 [1942年7月フランス海軍が連合国であるはずのイギリスに攻撃され1295名の海兵が戦死した] 最後の犠牲者だったのと同じように。
 ポーランド人医師の指揮下、ポーランド赤十字社が遺体の掘り起こしと身元確認作業に積極的に協力したことが知られている。またドイツ軍の戦争捕虜となっているポーランド将校達が飛行機で現場に連れて行かれ、確認作業を行なったことも知られている。彼等は心底憤慨し、ボルシェヴィズムに対して武器を取る用意があることを宣言したと伝えられる。『ナインティーンス・センチュリー』誌が示す危惧は非現実的なものではないのだ。シコルスキー将軍の死がそれを証明している。私達はフランス人として、ヨーロッパ人として、そしてキリスト教の教育を受けた人間として、この動きがさらに大きくなることを願っている。

 ロシアの灰色の空の下、陰鬱な死の影に包まれる光景の中、私達の想いは、狂人と誇大妄想狂に引きずられた国で、本来の慎ましい、穏やかな人生を奪われた哀れな犠牲者の運命に馳せられる。だが特に私達の頭をよぎるのは、このおぞましい死体埋葬場が、私達自身を待ち受けているものかもしれないということだ。ここに埋められているのは反ボルシェヴィズムの将校達だけではない。彼等の傍らには何万というロシア人が眠る。もしかしたら革命家だったのかもしれない。あるいは死刑執行人の助っ人か。誰も彼も混ぜこぜだ。西ヨーロッパを[ボルシェヴィズムから] 守る砦が崩れることがあれば、共産主義者の神父と金持ちのドゴール派、さらには日和見的な、あるいは信念からの対独協力者達も同様に一緒くたに埋葬されることになるのだろう。そしてカチンの臭気が、フォンテヌブローやロワール河畔に立ち上るのだ。

 これが私達の目にしたものである。何よりもまずこの事実を報告することに固執したのは、私たちにはこれこそが現在の戦争の本質であるように思われるからだ。この戦争は、ロシアの民衆に対して行なわれているものではない。このことは何度も繰り返してきた。この戦争の目的は、カチンが象徴する血も涙もない機械的な蛮行を粉砕し、終了させることにあるのだ。ロシア紀行の最後、肌寒い夜明けの中、私達は、この大虐殺の腐った臭気と、森の砂地にみっしり積み重ねられ、窒息した魚のようにぽっかりと口を開いた敗者達の織り成す広大な層の光景を我が身に焼き付けた。バチカンから、パリから、リヨンやリールから巡礼を組織できないものか。祈るために。そして、理解するために…。

                                  ロベール・ブラジヤック

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ロベール・ブラジヤックはフランス”解放”後、1944年に敵国との協力の罪のために逮捕され、1945年2月6日銃殺刑に処された。

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「英国情報部は1940年当初から、ドイツ軍ではなくソ連によって4500人のポーランド人将校が虐殺されたことを知っていたが、連合国であるソ連の機嫌を取り、敵国ドイツの評判を落とすために、これがドイツ軍による犯行であるという噂を流布させるままにしたばかりでなく、戦後のニュルンベルク裁判では、七名のドイツ人将校と兵士を虐殺の執行者と断罪し、絞首刑に処した。エルンスト・ベーメ、エルンスト・ゲヘラー、ヘルバルド・ヤニケ、ハインリッヒ・レムリンガー、エルヴィン・スコトキ、エドゥアルド・ゾンネンフェルド、カール・シュトリュフリングが処刑され、アルノ・ディーレ、エーリッヒ=パウル・フォーゲル、フランツ・ヴィーゼの無実の三名が二十年間の強制労働の判決を受けた。」 (フィリップ・ゴーチエ『反独主義』より)



1946年の『レヴュー・ドゥ・パリ』紙は、ニュルンベルク裁判の敗者の絞首刑に立ち会った二人のフランス人のうちの一人デロッシュなる人物の次のような言葉を掲載している:「カチンの森事件とは、ヨーゼフ・ゲッペルスがその倒錯した才能を駆使して見事にでっちあげたものだが、(ニュルンベルク)裁判で事件の真相を知るために、両陣営からそれぞれ三人の証人が召喚された。彼等が提示した決定的な証拠によってようやくヒトラーとその一味の有罪が我々の目に明らかとなったのだ。」 (ピエール=アントワーヌ・クストー『イントラ・ムロス』より)



「これが、我々がかれこれ半世紀にわたって生きている偽善と噓のシステムが行なった最初の犯罪だった。(…)[ブラジヤックに対する死刑判決をめぐっては] ブラジヤックが反ボルシェヴィズム外人部隊を訪問した事実、カチンの森に関する真相を公表したことに対する彼の責任と、その結果連合国ソ連のイメージを傷つけたことがドゴール将軍に対して今一度強調されたのだろう。ロベール・ブラジヤックの死刑は、都合の良い暗殺だったのだと私は思う。」(モーリス・バルデシュ『思い出』より)