あさっての事件簿/The Strange Case Files(旧・狼たちの門出)

"Think Globally,Act foolishly."をモットーに、主に「起きてほしい事件」をニュース風に書いています。それとメモです。

数ヶ月前か何ヶ月前か忘れたが、初対面の人と話していたときに、「で、ヤギさんは何がしたいんですか?」と聞かれたことがある。

当時ぼくは文章をよく書いている時期だったので「本を書いてみたいですね」と答えた。するとすぐに「どんな本ですか?」という質問が返ってきた。どんな本か…??即答できず、その当時よく書いていた文章を思い出しながら少し考えて、「自分の意見みたいなことですかね…」と答えると、その人は「あぁ、オピニオンですね!」と言って、納得したようだった。

オピニオン…!

この言葉に衝撃を受けたぼくは、その日からずっとオピニオンという言葉を忘れられずにいる。自分の書きたかった文章とは、オピニオンだったのか?本当にそれで当てはまっているのだろうか。

「オピニオン」というとなにかこう、「高齢化やAI時代に備えてベーシックインカムを導入を検討すべきだ」とか「保育士の給料を引き上げるべきだ」みたいに、政治問題や社会問題に対する提言や反応のように感じる。ワイドショーでキャスターの横に鎮座している著名人が、ニュースのあとなにか言うアレとか、Twitterでニュース記事などを引用リツイートしながら、ほにゃほにゃ言うアレとかを思い浮かべる。
もしそれがオピニオンだとすれば、ぼくが書きたいのはオピニオンではないかもしれない。オピニオンではないと思いたいくらい、オピニオンという言葉には違和感がある。

ほにゃほにゃ


自分が何を書きたいかという問題は、自分は何を読みたいのかという問題と隣り合わせである。そして、どんなものを読みたいかは、どう生きたいかと隣り合わせにある。もしこの問題を考えずにいられると人がいるとすれば、それはその人が何か決定的な答えを無意識のうちに持っているからだろう。何も考えずに何かを読み、書いている。それは悪いことではない。

どう生きたいかどうありたいかどんなものを読みたいかどんなものを書きたいか…に対する決定的な答えを持っているのであれば、それを改めてじっくり考えなおすことよりも、それを実行することに時間を割いたほうが有意義である。

逆に考えると、どう生きたいかが決まっているから何を読むか読まないかを決断できる。「その情報なり知恵なりは自分の人生にとって必要か?」の判断は、どう生きたいかによって決まる。楽しく生きたい人にはエンタテインメントは必須だが、楽しくなくて良いのだという人にエンタテインメントは不要。そしてその情報なり知恵なりを咀嚼した先に、何を書きたいかが発生する(しないか?)。


「バスケがしたいです…」とみんなが言ってた時代


ぼくが中学生だったころ、『スラムダンク』というバスケットボールを題材にした漫画があった。当時ぼくの周りではそのマンガの影響でバスケ人気が高まっていて、中学校のグラウンドにあるバスケットボールコートで良く、バスケ部ではない友人同士と、日が暮れるまでバスケをしていた。それで高校生になってからぼくはバスケ部に入ってしまうのだが、大人になってから、当時ぼくと同じように、『スラムダンク』を読んでバスケ部に入る輩が大量に発生していたことを知った。バスケ部に入ろうと思ったのは、ぼくとぼくの近くにいる友人だけではなかったのだ!気づくのが遅いといえばそれまでだが、渦中にいると気づけないことは多い。

つまりぼくは、あるひとつの人気漫画に影響されて、「バスケをやりたい」と感化され、自分の欲望を決定づけていたのである。

どう生きたいか…


どう生きたいかどうありたいか何をしたいか?の問題を考えるとき、ぼくは「ぼくにとってのスラムダンク」のことを思い出してしまう。ぼくはとても影響を受けやすく、記憶の保持に難があり、人に流される気質を持っている。誰かがAが良いといえばぼくも「Aいいな」と思い、誰かが「B最高」といえばぼくも「B最高」と思う。そしてしばらく経つと、AもBも忘れている。

感化されやすい自分に気づくと、自分の人生の(若干の)虚しさを感じる。
ぼくはイラストレーターで、ついついさびしげな人物を描いてしまうのだが、それは自分が人生に(若干の)虚しさを感じているからでもある(もちろん仕事ではその虚しさと無関係に描いてます)。

人間はひとりでは生きられず、人に影響を与えたり与えられながら生きている。しかし「自分の好きなように生きろ」という言葉を聞いて育ってきた世代のぼくとしては、「いや、その好きという感情でさえ、自分以外の何かに影響を受けているのだ」と思い、「自分の好きなように生きる」は「自分以外の何かに影響を受けて生きる」と同義だと感じるのだ。そこに人生の(若干の)虚しさがある。

自分の卑近な話と、過去の壮大な話を絡める


ここまで自分の卑近な話を書いてきたが、ここでちょっと歴史の話を絡める。


「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉がある。ドイツのアドルノという哲学者の言葉で、片山杜秀さんの『歴史という教養』(河出新書)で紹介されていたものだ。
アウシュビッツはユダヤ人収容施設があった土地として有名で、「アウシュビッツ以降」とはユダヤ人の大量虐殺以降という意味。で、ここで言う「詩を書く行為」とは、人生の喜びや人間の素晴らしさをうたったりするような言葉のこと(たぶん)。つまり、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」は、自分たちがあんなにひどいことをした人々(ナチスドイツ)と同じ人間という存在であることを知り、かつ、多くの人が犠牲になったことを知ってしまったあとは、人生の喜びを心の底から謳歌することはできない、という意味になる(たぶん。詳細は各自調べてください)。

日本では若さを褒めそやす傾向がある。「若いときは楽しかった」という人が多くいる。そしてそのカウンターとして「大人になったほうが楽しい」という意見もある。
しかし大人になる過程で、我々は何度も大なり小なりの悲劇に出くわす。人を傷つけ、傷つけられ、人の死を見たり、苦しみに出会す。大人として生きるということは、その悲劇を記憶の中に保持したまま、次の人生を歩んでいくということだ。そのとき、「楽しい〜フォー!」と叫ぶのは、ぼくにはどうしても憚られるのである。

それが若干の虚しさをキープしながら三等身の人物を描いているぼくのスタンスと通ずるものがある。三等身なのは、端的にぼくの未熟さの表れでもあるし、そもそもぼくの絵とアウシュビッツと比較するのはあまりにもバランスがおかしいのだが…

???


そんなわけで、ぼくは「本を書きたい」という願望を一旦脇に置いて、どう生きたいかどうありたいか、それはなんの影響で、自分は誰かに影響を与えているのかいないのか、などを今は考えたり考えなかったりしている。


(noteに投稿したものを一部編集して掲載した)

mini0530-1

去年ニューヨークに行ったとき、電車内でスマホを使っている人はほとんどいなくて、逆に分厚い本を読んでいる人を何人か見かけた。

「電車内でスマホを使っていたら簡単に盗まれてしまうからだ」とある人は言っていたけど、そうなのだろうか。

こないだ香港に行ったら、電車内のほとんどの人がスマホを使っていた。7人がけの席があったら、7人全員がスマホでビンゴするような感じ。要するに日本と同じくらいの比率だ。日本も香港も、電車内で本を読んでいる人は全然みかけなくなった。もしかしたらスマホで本を読んでいるのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

書籍のデザイナーと電子書籍の話をすると、みな一様に嫌悪感を示す。
露骨ではないのだが、電子書籍の台頭によって自らの仕事が奪われていく懸念を抱いているのだろう。

装丁の仕事のうち、かなり大事なのが、どんな紙にするかだと思う。
大量にある選択肢のなかから、1枚の紙を選ぶ。それによって本の印象が大きく変わってくる。
電子書籍にはそれがない。すべて1つのモニターで完結してしまう。
おそらくこのまま行くと、紙の質感などどうでもいい、というところに一旦落ち着くと思う。

でもそれはデジタルカメラが一度はフィルム以下の画素数で甘んじていたのと同じで、
一旦は電子書籍という、触覚的には貧しいインターフェイスに甘んじても、
これからは触覚に訴えるなにかがコンピュータの進化で出てくるようになるんじゃないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冷たい飲み物を手にしている人は、対話した相手を冷たく感じる傾向があるらしい。
逆に、温かい飲み物を持っていると、そのときに会った人をあたたかい人だと感じるという。

また、かたい椅子に座っている人と、柔らかい椅子に座っている人では、
やわらかい椅子に座っている人のほうが相手を信用しやすい。

ホントかよ?と疑いたくなるけど、もしこれが本当だとすれば、
紙の書籍で読む場合と、電子書籍では読書の印象も変わってくるはずだ。
触感的に貧しいスマホで読む人がつまらないと感じても、
紙の質感を感じながら読んだ人は面白いと感じる。

ぼろぼろの紙質の古文書を慎重に読み進める人は、その古文書の重要性をひしひしと感じるが、
電子化されたデータを流し読みする人は、その古文書をウィキペディアと同じ感覚で読む。

「で、だから何?」と思うところで終わりにしておこう。
ちなみに「So,what?」と言ってかっこよいのは、他の誰も「So,what?」と言っていないときだけだ。
歴史を紐解くと、他の全員が「だから何?」と思うようなことを、独自にやっている人が未来を切り開いている。

我が家のオリンピックが開催された。
ぼくとぼくの父さん、それから弟が参加した。母さんは見るだけで満足らしい。

近所の洋一が参加したいと言っていたけれど、これはあくまでもぼくの家のオリンピックだから、洋一は洋一で、洋一の家のオリンピックで金メダルを取ることを目指せと言っておいた。そしたら、あとになって母さんが、洋一くんも参加して良いのに、と言った。それはもうぼくがユニフォームに着がえて、準備体操をしていたときだから、そのときになって言われても遅いよと思った。

ぼくの家の前にある通りの端にならんで、3人いっせいに走りはじめた。横を見たら遅くなる。とにかく早く走るんだ。走る、走る、走る…!

お父さんが先にゴールラインを切った。その瞬間、車が勢いよくお父さんの前を走っていった。プオー!という音をたてて。お父さんは振り向いて、笑った。

ぼくたちのオリンピックは終わった。お父さんがストップウォッチを持っていたけれど、押し忘れたみたいで、秒数はわからなかった。「また4年後な」と父さんは言った。
ぼくは6才で、弟は4才だった。

代筆・母。

o1613

いまからずっと昔に、『人は見た目が9割』という本が出て、自分はそれを読んでもいないのだが、おそらくどこかの心理学社が実験した結果に基づいて9割と言っている本である。ネットが発達した世界では、ちきりん氏のように見た目に左右されずに評価される人が増えているから、見た目はあまり関係ない。でも、テレビでは未だに見た目ばかりが問われている。ブスは公然とブスと言われるし、綺麗な人は綺麗だと言われ続ける。人間が見た目に左右される生き物だとわかったとき、人の意識は「では見た目に騙されないように気をつけねば」というふうには働かず、「では見た目で人を騙せるように気をつけよう」という方向に向いていく。騙されないように気をつけるのは受け身だが、騙すほうは自発的で、コントロール可能だから楽なのである。
自分には人を騙すテクニックはないが、もし人が勝手に良いふうに誤解してくれたとき、それを訂正する勇気はないだろう。

mini1130-1-書く工事

先月、質と量について書いたのに、そのあとは毎日の仕事に追われ、
絵の質を向上させる手だてを考える暇を作れなかった。
何か壁をぶち破る手だてがほしいところである。
なんとなく、見えない壁にぶつかっている気がする。
質を求めると量が減り、量が減ると質も落ちる。
というサイクルもあるのかもしれない。

何かわかったと思っても、次の瞬間にわからなくなるようなことが起こるので、
だったらはじめから「わかったと思わなければ良い」と思うのだが、
わかったと思わないようにすると、ただのバカになってしまう。

言葉で整理しなければ次に進めず、言葉で整理しようと思うと停滞してしまう。

悩みどころである。

mini1002-1満月の夜


上達のためにはとにかく量を書くことだ、というアドバイスは良く見かけるが、下手に量を重ねると悪い癖がついてしまう、というアドバイスはあまり見かけない。

バスケットボールのシュートも、下手なフォームで量を重ねてもうまくはならない。それと同じで、下手に絵を描いてもうまくはならない。それでも量が必要だと言われているのは、そこが第一関門だからだ。プロとしての第一関門をくぐるために、量が必要になる。その先に行くためには、量だけでなく質も問われることになる。世界のトップクラスには、量も質も最高級のマイケル・ジョーダンやノバク・ジョコビッチのような人がいる。

ジョコビッチになるための方法はジョコビッチとそのコーチにしかわからないが、第一関門をくぐった人はたくさんいる。第一関門をくぐった人たちは、それなりに量をこなしたか、運だけでくぐったはずである。運だけでくぐれるよ、と言うのはなんだか寂しいので、量をこなすことだ、というアドバイスが世に出回ることになる。それは第一関門をくぐるための必要条件で、トップを目指すのはまた別の練習が必要になってくる。トップというか、第一関門の先に第二、第三の関門があり、たぶんそこは量だけではくぐれないのかもしれない。

最近、自分の描く絵に癖がつきすぎているのが気になって、こんなことを考えた。

mini0926-1ニーチェの肖像

最近、似顔絵を描く仕事をしたので、普段から似顔絵を描くようにしておこうと思い立った。
思い立ったは良いが、似せようと思ってもなかなか似ないというのが現実で、似せやすい顔と似せにくい顔がある。また、似せようとするあまりに自分のタッチから離れてしまい、似たのは良いけど誰が描いたかわからないような絵になってしまうこともある。

美人とはその時代の平均顔のことである、と何かの本で読んだ。
いろんな人の顔を足して平均を出すとバランスがとれていき、美しい顔になるのだそうだ。
似顔絵はその人の持つ個性を出す必要があるが、平均的であることが個性となると、非常に難しい。
だから美人や美男子を描いた似顔絵は、それが誰が描いたものであっても、大抵は実際よりもブサイクになっている。

上の似顔絵はニーチェ。ニーチェは美男子でもなんでもないのだが、写真によって特徴が異なり、どの写真を参考にするかによって描くべきポイントが変わってしまうのが難点である。

ウェブサイトをリニューアルしました。
http://yagiwataru.com/

まだ仕事の実績やオリジナルの画像を全然アップロードしていないんですが、
これから逐一更新していく予定です。

デザインはrhyme inc.の斉藤いづみさん。
http://rhymeinc.com/

僕が写真をやっていたときから、
的確かつ厳しいアドバイスをしてくれる貴重なデザイナーさんです。
今回ずうずうしくも、ウェブサイトのデザインやってくれまへんかとお願いしたところ、
快諾してくれまして、このようなステキなデザインを組んでくださいました。

今まではド素人感満載のウェブサイトで、だから仕事が来ないんですという言い訳もできましたが、
これからは仕事の有無が完全に自分の実力ということになり、プレッシャーをにわかに感じはじめております。

mini0724-2天気雨


7月は今年最速のスピードで1ヶ月を終えた。
自分の関わった出版物は何も発売されず、
いろいろと延び延びの方向で話が進んでいる。

延び延びで思い出したのだが、たまにのびのびとした絵を見ると良いなあと思う。
最近自分の絵が綺麗にまとまろうとしているような気がしている。

mini0527-4-サムライaブログ用

ある媒体で続いていた敬語クイズの挿絵で、サラリーマンを1年間11回ずっと描いてきたのだが、
今度は社会科クイズになって日本史や世界史を取り上げるということになって、江戸時代の町人や戦国時代の武士を描く可能性が出てきた。

もともとスーツ姿の人物を多く描いていたので、サラリーマンを描くのは自然にできる。
しかしある過去の人物となると勝手が違う。
今までアイデアを出すために使っていた脳が、「間違いのないように」描くために使われていると感じる。
スーツ姿の人物は何も見ずに描くことができる。だから何を描こうかを考える余裕があるのに、資料を見て、ここはどうなっているのかな?などと考えていると、正確に描くことにばかり意識がむいて、できあがるのは説明的な絵になってしまう。

これは慣れの問題で、資料を見ないでもわかるように描くことができれば、
アイデアもひねり出すことができるようになると思う。

まあちょっとくらい間違えたとしても、いちいちカリカリしなくても良いんじゃないかな?という考えもある。
自分の描くスーツも、実は微妙に正確さを欠いているところがあるのだが、見る人には違和感なく受け入れられていると思う。

mini0513-1風吹く大地d



短い間だったが、2006年に制作会社にいた。会社には不満ばかり感じていたが、結局この会社に行ったことが人生の転機になったんだなあとしみじみ思う。

あれからすでに9年が経過し、イラストレーターとして仕事をはじめてから考えても4年くらい経っている。

イラストの仕事をはじめたのは、自分にしかできないことは何か?と考えた結果である。
はじめは文章を仕事にしたかったが、仕事で書く文章は、自分が思っていたようなゆるい文章ではなかった。
写真を仕事にしようと思ったこともあったが、差別化の見通しが全く立たないことから断念した。

イラストレーションというジャンルでは、下手な描き手も熟練も等しく扱われる。熟練が常に必要とされるかというとそうでもなく、絵が下手でもそれは味になる(ように見える)。
その寛容さのためかわからないが、次々にイラストレーターが誕生しており、その中の1人が自分である。「下手ですがよろしくお願いいたします」と頭を下げてながら社会に甘えてしまう。

こんな形で誕生しておいてナンだが、仕事量に対してイラストレーターが多すぎ
るような気もしている。
自分に仕事が来ないのはイラストレーターが多すぎるせいなんじゃないかと、責任を転嫁したくなってしまう。

ここで仕事を続けていく上で大事なのは、新たな市場の開拓だと思いながら、その大変さに尻込みして、他のイラストレーターとの差別化に走りたくなる自分がいる。
差別化と称して新しい絵を描くのは、心理的に見てとても楽なことだ。楽な上に楽しいので、やるべきことが疎かになってしまう。

そんなわけで今回載せた絵は、写真との組み合わせを考えて作ったもの。どうしたらうまく写真と絵が融合してくれるのか、やるべきことを後回しにして、手探りを続けている。

ニューヨークに行って帰ってきた。
もう帰国から2週間ほど経ってしまった。
旅行ほど面倒なことはないなあと思いつつ、
旅行に行くのをやめられない。

人はなぜ旅行するのだろう?という疑問を前から抱いていたのだが、
違う価値観を求めて。というのがその暫定的な答えになると思う。
どんな人も何かを大事にし、何かを粗末に扱っている。

日々の暮らしでその価値観が培われていくが、
何が大事なのか、何が大事でないのかの見直しを、
同じ場所、同じ文化圏内でしてもおそらくうまくいかないと思う。

でもまあもっと大事なことは、
旅行で違う文化圏に行って相対化された価値観を踏まえて、帰国後に何をするかだ。
家での毎日に疲れ果て、毎日がつまらないなあと思いながら旅行に行って、
リフレッシュして帰ってきて、またつまらない毎日をおくるのだとしたら、
旅行は一時的に薬物で痛みを抑えているのと変わらない。
毎日も面白く、旅行に行っても面白い。これが一番である。


mini0420-5-DSC01269
mini0420-4-DSC01439mini0420-3-DSC00652mini0420-1-DSC01079bmini0420-2-DSC00627mini0420-1-DSC00622mini0418-DSC00612mini0418-1-DSC00863

東京の宅配ピザ店の配達員らが、ピザの配達の際にリムジンを利用し、配達を受けた客から「お忙しいところ、お越しいただきありがとうございます」などと過剰に感謝されるケースが相次いで発生していることから、東京都は20日、都内にある全ての宅配ピザ店に対し、配達でリムジンを使用する場合は、配達先の前に車を止めず、裏手に止めて客に見られないようにするなどの工夫をするよう通達を出しました。

東京都がこうした通達を出した背景には、リムジンで届けられたピザを食べた利用客から、「配達員になりたい」という問い合わせが急増していることが挙げられます。
東京の宅配ピザ店では、昨年から「より楽に。より安全に」をモットーに、ピザの配達にはバイクではなく、リムジンを利用してきましたが、それを知った一部の利用客が配達員に過剰にお礼を述べたり、お礼の品を用意するなど、必要以上に感謝され、現場からも困惑気味の声が上がっていました。今回の通達により、そうした過剰なお礼は減少することが予想されます。

大森総理大臣は昨日、記者団に東京都の対応の見解を尋ねられると、「ノーコメント。ホント、ピザ、ノーコメント」と片言で答えました。

※久しぶりにどうでも良いフィクションです。


mini0223-1鈴木大拙館

前回に引き続き、写真を使ってイラストを作る実験。
まだ実験段階なので仕事用のウェブサイトに載せるまでには至らない。
ここまで写真的な要素を排除すると、もうどんな風景なのかすらわからないけど、
人物と背景の相性は良くなった。

ちなみにここは、金沢の鈴木大拙館。

mini0219-1台湾の風景1

子どもの頃、マンガ家になりたいと思ってノートにマンガを描いたことがあった。
でも何コマも同じ絵を描いていくのが面倒だし、同じ顔を描くのは難しかった。
そして何より、風景が描けないため、場面の転換ができない。
引きの絵が描けないという致命的な欠点を抱えていたせいで、マンガ家への夢は道半ばで頓挫した。

子どもの頃はマンガは全て手描きが当たり前で、マンガを描くためにはGペンで描ける能力が必要だと思っていたが、今のマンガを見みてみると、そうでもないようだ。背景に写真使ってるなあというものがたくさんある。
というわけで、自分も写真を使って風景を描く方法を摸索していくことにした。

今回は実験の第一弾。
これは先日旅行した台湾の風景。
本当はさらに後ろに山があって木々が生い茂っていたのだが、消してしまった。
もはや台湾の名残はない…。


mini0112-5自らの階段

またドーキンスの『進化とは何か』の話。
ドーキンスは、「進化とは一歩一歩、山に登ることだ」というようなことを言っている。
麓から頂上に一気にジャンプして行く道はなくて、正面からゆっくりと登らないといけない。
面白いことに、山には多くの峰があり、
一度その峰に登ると、降りてはこられない。峰が大きければさらに先へと進むことができるが、峰が小さければすぐに登りきり、進化も終わる。
進化とは山を登っていくことであって、に下ることはできない。
そして、いま前にある道が本当に山の頂上に続く道なのか、それとも山の一部の小さな峰に続く道なのか、その時点ではわからない。


人間の暮らしも日進月歩で、昨日ナウかったものが今日はナウくないということが多々ある。
進化した技術を手にすれば、それを手放すことはできない。

イラストを描いていると、以前よりうまくなっていると思うことがある。
確かに何かの基準に即して言えばうまくなっているのだろうけど、
それは何かの基準があってはじめて言えることで、
基準がなければ変化しているだけだとも言える。
山があると言えば頂上に近づいているように思えるが、
山も何もなく砂漠であれば、いくら歩いてもそれはただ歩いただけである。

絵をうまく描けるようになったと思うことがある一方で、毎日描いているのにうまくならない、何も変わらない、と思うこともある。
それはもしかしたらそれは、小さな峰に登りきった状態なのかもしれない。


ドーキンスの山の例えは、進化を視覚化したものとしてわかりやすい。
でも本当は、自分がいま山のどこにいるのか、誰にもわからない。
何かに息詰ったとき、いま険しい崖を登っているのか、それとも小さな峰に登ってしまったのか…
その時点でどちらかを判断することは至難の業だ。

でも普通は前にしか進めないところに、後退する選択肢があることに気づけば、
道を拓く可能性が二倍ある、とも言える。

mini0112-1ラップトップバード

リチャード・ドーキンスの『進化とは何か』という講義録を最近読んで、
種の進化と自分の進化を重ね合わせて考えたりしている。

種の進化は何世代も経て徐々に変化していくもので、
その長さを考えると、自分が普段考えている時間の長さは驚くほど短い。
自分があまりにもちっぽけな存在に思えて、逆に感動した。

1月になると、その年の目標を掲げる人も多いだろうけど、
他の生き物は何も目標を立てない。そこが人間と他の生き物を大きく分けている。

生き物の進化は目標にあわせて成し遂げられるものではなく、
あくまでも進化できないものが自然に淘汰されていくだけだ。
目的にあったものを作れるのは人間だけで、
それをドーキンスは「デザインする」と言っていた。
どんな生き物も、デザインされたわけではなく、
自然に発生しただけなのである。

自然は確かに尊いが、自然に身をまかせて生きるとなると、
おそらく自分は環境に淘汰されてしまうだろうと思う。
淘汰されないように、自分は自分をデザインしていく必要がある。
その計画は1年ではなく、最低でも数年単位。
もしかしたら数十年は必要なのかもしれない。
ただ、あくまでも環境は変化していくことを前提に。

むかし、のどかな自然が広がる小さな村に、ウソをつくのが大好きな少年がいた。ある日少年は、村人たちに「狼が来た!」と叫んだ。村人は大慌てで放牧していた牛や羊を小屋に入れて隠れたが、狼は来なかった。それは少年のウソだったからだ。騙されたとわかって多くの村人が激怒した。しかし、村長は村人を制して言った。「狼が来るとわかってから、何分で避難が終わったのか?」と。村人たちは顔を見合わせたが、その答えをはっきりとわかっている者はいなかった。「狼は何分で来ると思うか?」と、村長はさらに尋ねた。口を開く者はいなかった。

その日から、村では狼が来るという万が一の事態に備えて対策が取られるようになった。緊急避難用の小屋が作られ、警告を知らせる鐘が設置された。そして月に1度、狼が来たという想定のもと、避難訓練が行われるようになった。

ウソをついた少年は村長に呼び出され、警鐘を鳴らしたことを讃えられた。「あなたが警鐘を鳴らさなければ、我々は全ての家畜を失っていたでしょう」と。
少年はまさか自分のついたウソが称賛されたり、それがきっかけで村が変わるとは思っていなかったので、何かもどかしい気がした。
今度はどういうウソをつこう?家までの帰り道、彼はそんなことを考えていた。

そうして、平和でありながら人々の危険に対する意識が高まっていたとき、腹を空かせた狼が森から人里に現れた。狼は人々の予想をはるかに上回るスピードで村にやってきた。

警報システムが作動し、村に鐘の音が鳴り響いた。村人たちは迅速に、家畜を小屋に避難させた。
が、狼は一頭ではなかった。スピードも村人の予想を上回っていたが、数の点でも想定を越えていた。
家畜は避難ギリギリのところで襲われ、死者も出た。村は甚大な被害を受けた。

悲しむ村人たちを前に、少年は言った。「狼から逃げるなんてバカだったね。狼なんて、飼いならせば良いのにって僕は思ってたよ」

狼を飼いならす?何をバカなことを言っているんだこの小僧は。村人たちの悲しみは小僧への怒りに変わった。羊たちを守れなかった悔しさは、少年への怒りで消えていった。

少年は村人たちが手をあげる前にその場から逃げていった。こうしてウソをついて人を怒らせることで、少年は生きているという実感を得ていた。

少年がどこかに行ったあと、村長は村人たちに、狼を飼いならす方法を考えてみるよう促した。もしかしたらそれが最も安全な方法かもしれないと。
何頭も羊や牛が犠牲にはなったが、少年のウソはやがて現実となり、いつしか羊を小屋に入れる役割は狼が担うようになっていった。しかし飼いならすまでにあまりにも長い年月が経ってしまったため、その様子を少年が見ることはなかった。

イラストレーターとしてどんな仕事をしたかをtumblrを使ってまとめました。
書籍以外はまだまとめられていないので全部ではありません。

http://yagiwataru.tumblr.com/

「あいつに頼んどけばなんとかなる」と認識されるようなイラストレーターでありたいなあと思っています。

mini1024-1-DSC_3283

今までずっとフラットな感じでベタっと色を塗ることが多く、イラストでは光について考えたことがなかった。そもそも実在のシーンをリアルに描こうという欲求がなかったからだが、漫画家が背景を写真から作成しているという話を聞いて、背景をほぼ加工なしの写真で作成してみたところ、イラストのほうに影をつけないとうまくはまらないということに気づいてしまった。写真は光がないとそもそも撮れないもので、光が一番大事な要素だと思う。だからこそイラストにも同じ光りが当たっていないと、写真にはそぐわないようだ。でも逆に、写真から光の要素を排除すれば、たぶんイラストにもうまくはまるだろう。

このページのトップヘ