あさっての事件簿/The Strange Case Files(旧・狼たちの門出)

"Think Globally,Act foolishly."をモットーに、主に「起きてほしい事件」をニュース風に書いています。それとメモです。

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去年ニューヨークに行ったとき、電車内でスマホを使っている人はほとんどいなくて、逆に分厚い本を読んでいる人を何人か見かけた。

「電車内でスマホを使っていたら簡単に盗まれてしまうからだ」とある人は言っていたけど、そうなのだろうか。

こないだ香港に行ったら、電車内のほとんどの人がスマホを使っていた。7人がけの席があったら、7人全員がスマホでビンゴするような感じ。要するに日本と同じくらいの比率だ。日本も香港も、電車内で本を読んでいる人は全然みかけなくなった。もしかしたらスマホで本を読んでいるのかもしれない。

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書籍のデザイナーと電子書籍の話をすると、みな一様に嫌悪感を示す。
露骨ではないのだが、電子書籍の台頭によって自らの仕事が奪われていく懸念を抱いているのだろう。

装丁の仕事のうち、かなり大事なのが、どんな紙にするかだと思う。
大量にある選択肢のなかから、1枚の紙を選ぶ。それによって本の印象が大きく変わってくる。
電子書籍にはそれがない。すべて1つのモニターで完結してしまう。
おそらくこのまま行くと、紙の質感などどうでもいい、というところに一旦落ち着くと思う。

でもそれはデジタルカメラが一度はフィルム以下の画素数で甘んじていたのと同じで、
一旦は電子書籍という、触覚的には貧しいインターフェイスに甘んじても、
これからは触覚に訴えるなにかがコンピュータの進化で出てくるようになるんじゃないだろうか。

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冷たい飲み物を手にしている人は、対話した相手を冷たく感じる傾向があるらしい。
逆に、温かい飲み物を持っていると、そのときに会った人をあたたかい人だと感じるという。

また、かたい椅子に座っている人と、柔らかい椅子に座っている人では、
やわらかい椅子に座っている人のほうが相手を信用しやすい。

ホントかよ?と疑いたくなるけど、もしこれが本当だとすれば、
紙の書籍で読む場合と、電子書籍では読書の印象も変わってくるはずだ。
触感的に貧しいスマホで読む人がつまらないと感じても、
紙の質感を感じながら読んだ人は面白いと感じる。

ぼろぼろの紙質の古文書を慎重に読み進める人は、その古文書の重要性をひしひしと感じるが、
電子化されたデータを流し読みする人は、その古文書をウィキペディアと同じ感覚で読む。

「で、だから何?」と思うところで終わりにしておこう。
ちなみに「So,what?」と言ってかっこよいのは、他の誰も「So,what?」と言っていないときだけだ。
歴史を紐解くと、他の全員が「だから何?」と思うようなことを、独自にやっている人が未来を切り開いている。

我が家のオリンピックが開催された。
ぼくとぼくの父さん、それから弟が参加した。母さんは見るだけで満足らしい。

近所の洋一が参加したいと言っていたけれど、これはあくまでもぼくの家のオリンピックだから、洋一は洋一で、洋一の家のオリンピックで金メダルを取ることを目指せと言っておいた。そしたら、あとになって母さんが、洋一くんも参加して良いのに、と言った。それはもうぼくがユニフォームに着がえて、準備体操をしていたときだから、そのときになって言われても遅いよと思った。

ぼくの家の前にある通りの端にならんで、3人いっせいに走りはじめた。横を見たら遅くなる。とにかく早く走るんだ。走る、走る、走る…!

お父さんが先にゴールラインを切った。その瞬間、車が勢いよくお父さんの前を走っていった。プオー!という音をたてて。お父さんは振り向いて、笑った。

ぼくたちのオリンピックは終わった。お父さんがストップウォッチを持っていたけれど、押し忘れたみたいで、秒数はわからなかった。「また4年後な」と父さんは言った。
ぼくは6才で、弟は4才だった。

代筆・母。

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いまからずっと昔に、『人は見た目が9割』という本が出て、自分はそれを読んでもいないのだが、おそらくどこかの心理学社が実験した結果に基づいて9割と言っている本である。ネットが発達した世界では、ちきりん氏のように見た目に左右されずに評価される人が増えているから、見た目はあまり関係ない。でも、テレビでは未だに見た目ばかりが問われている。ブスは公然とブスと言われるし、綺麗な人は綺麗だと言われ続ける。人間が見た目に左右される生き物だとわかったとき、人の意識は「では見た目に騙されないように気をつけねば」というふうには働かず、「では見た目で人を騙せるように気をつけよう」という方向に向いていく。騙されないように気をつけるのは受け身だが、騙すほうは自発的で、コントロール可能だから楽なのである。
自分には人を騙すテクニックはないが、もし人が勝手に良いふうに誤解してくれたとき、それを訂正する勇気はないだろう。

面白い人と面白くない人の違いはなんだろう?と考えていたところに、あるヒントが降ってきた。キーワードは、感動の総量だ。その人が今までにどれだけ感動してきたかが、その人の面白さに影響を与える。そして、その感動を記憶していることが大事だ。
心が動かない日々を過ごしていれば、どんな人でも、簡単につまらない人間になってしまう。ただその人がもし、かつて感動したことを覚えていたとしたら、そのことだけは面白く話すことができるだろう。

これは『文章は一行目から書かなくていい』(藤原智美・著)を読んでいて思ったこと。

毎月一回は書いているこのブログを、先月は全く開くことなく過ごしてしまいました。年明けから反省反省です。

誰も来ないので適当に文章を書き、月1回はお茶を濁していたのですが、そのお茶を濁すことすら面倒でやらなくなってしまったという始末です。

イラストレーターとしてどうやって生きていこうかなあと考えていても、なかなか新しいアイデアが降りてくることはなく、とにかく営業やるしかない、とか、とにかく絵をうまく描けるようになろう、という決意でその思考は終わります。

大前研一氏の言葉に、確か「新たな決意は全く無意味である」みたいなものがあります。人が変わるためには、時間の使い方を変えるか、住む場所を変えるか、付き合う人を変えるかしかない、という話の続きで、この言葉があったように記憶しています。
記憶はしていても、新たな決意を日々してしまいますよね。決意してませんか。僕は決意します。決意した翌日には、そのことをすっかり忘れて、新たな決意を繰り返す。まるで毎日記憶がリセットされてるかのような気分です。

大前氏の名言を聞いても、何を変えられるか?と疑問が出たところで思考が停止してしまいます。停止しませんか。僕は停止します。
最近は、自分は思考が停止してるんじゃないか?と思うことがしばしばあります。思考停止は、言葉の停止と同じで、こうして書いていても途中で言葉が出てこなくなります。

この文章を読む人には思考停止の痕跡が見えないかもしれません。文章には空白がないからです。会話のやり取りをしていると、もうダメですね。えーと…と悩んでるだけで次の言葉も出てこないし、返した言葉が的外れだったりすることが多々あります。コミュ障という言葉がありますが、俺がそれか?と思ってしまいます。

しかし、他人の会話を聞いていて、たとえそれが流れるような会話だったとしても、思考が停止しているということはありそうです。何度も同じ結論にたどり着く人、お互いわかりあっているようで、お互いが言いたいことだけ言って終わってることがあると思えるからです。

書き言葉にしても、話し言葉にしても、ただ単に言葉を並べていくことは簡単で、読み終わったあとに何も残らない、読む前と読んだあとが同じ状態なんてことはザラです。
だからこそ、書く以上は何か意味のあるものを書きたいし、話す以上は何か意味のあることを話したい。
この、意味のあること、て奴がクセモノで、意味のあることを…!と考えながら、言葉を重ねるのは至難のワザです。これをやるには、脳内でダブルチェックを行う必要があります。いま目の前に並べている言葉は、流れの中で必要とされているか?というチェック。次に、その言葉は意味があるか?というチェックです。

これは非常に難しく、博士論文を書くレベルです。そんなもの、書いたことがありません。

で、ここへ来て浮上してきた(どこに?)考えが、人は意味のあるものを求めながら、意味のないものに向かう、という考えです。一度きりの人生。どうせなら有意義に送りたい。一瞬一瞬を大切に…というのが、まともに考えたときに出る結論だと思うのですが、実際に自分がやっていることはそれとは真逆か、60度くらいずれています。
あのスティーブ・ジョブズですら、朝鏡に向かって、今日自分がやるべきことは自分が本当にやりたいことなのか、自分に問いかけたそうです。毎日、自問したからこそ、偉業を達成できたのかもしれません。
もし自分に何も問いかけずに日々を過ごしていたら?一瞬一瞬を大事にしない。つまり、意味のないものに向かってしまうということです。

簡単に言い換えれば、意味のある勉強をするよりは、意味のないゲームをしちゃうよ、ということです。それはゲームが楽しいからということでもありますが、ゲームをやっている時間がずっと楽しいわけではありません。ある障害をクリアした瞬間だけが楽しいはずです。だからこそ、ゲームに慣れてくると、人の思考はどんどん自動化されて、判断のスピードが上がっていきます。ゲームの腕をあげるには、いかに思考を自動化するか?というところに鍵があると思います。
ゲームをクリアするという目的のためには、なるべく考えることを減らさないといけないのです。

もし、人生がゲームだとしたら?
毎日同じことをするのなら、考える必要はありません。それこそロボットのように機械的に動いたほうが効率的です。考えずに、自動的に動く。人間の脳みそにが1度に処理できることには限界があるので、自動化されていなければ生活が成り立たないと思います。
ここで問題になるのは、人生という名のゲームには、明確なゴールがないということです。ゴールは個人個人が決める必要があるのですが、それを決めるためには、自動化モードに入っている脳を一旦止めて、思考モードに入らないとたぶんダメです。
人間のスゴイところは、すぐに脳を自動化モードに入れられるということと、ゴールが曖昧でも自動化は進んでいくということです。なるべく省エネで生きていたいよと。省エネで生きることこそがゴールみたいになります。

だから、意味のない話でも延々と聞くことができるし、書くことができます。

今回のブログは、ただ単に書く、書き連ねる、を念頭に書いてみました。
書き連ねることによって、脳内のダブルチェックを高速で行えるようになるのではないか?という試みです。ダブルチェックしつつ、2番目のチェック(これに意味はあるか?)の基準を緩めることで、一切消去することなく書き連ねてきました。(誤字は訂正しました。)

一応これで、今日は何かしら考えたなという記録としておきます。考えても無意味なのに、考えたということにしたいんです。自分は考えてるんだ!と思うことで、幸せになれるのなら、それもまたアリなんじゃないかと。なんでもアリです。

mini1130-1-書く工事

先月、質と量について書いたのに、そのあとは毎日の仕事に追われ、
絵の質を向上させる手だてを考える暇を作れなかった。
何か壁をぶち破る手だてがほしいところである。
なんとなく、見えない壁にぶつかっている気がする。
質を求めると量が減り、量が減ると質も落ちる。
というサイクルもあるのかもしれない。

何かわかったと思っても、次の瞬間にわからなくなるようなことが起こるので、
だったらはじめから「わかったと思わなければ良い」と思うのだが、
わかったと思わないようにすると、ただのバカになってしまう。

言葉で整理しなければ次に進めず、言葉で整理しようと思うと停滞してしまう。

悩みどころである。

mini1002-1満月の夜


上達のためにはとにかく量を書くことだ、というアドバイスは良く見かけるが、下手に量を重ねると悪い癖がついてしまう、というアドバイスはあまり見かけない。

バスケットボールのシュートも、下手なフォームで量を重ねてもうまくはならない。それと同じで、下手に絵を描いてもうまくはならない。それでも量が必要だと言われているのは、そこが第一関門だからだ。プロとしての第一関門をくぐるために、量が必要になる。その先に行くためには、量だけでなく質も問われることになる。世界のトップクラスには、量も質も最高級のマイケル・ジョーダンやノバク・ジョコビッチのような人がいる。

ジョコビッチになるための方法はジョコビッチとそのコーチにしかわからないが、第一関門をくぐった人はたくさんいる。第一関門をくぐった人たちは、それなりに量をこなしたか、運だけでくぐったはずである。運だけでくぐれるよ、と言うのはなんだか寂しいので、量をこなすことだ、というアドバイスが世に出回ることになる。それは第一関門をくぐるための必要条件で、トップを目指すのはまた別の練習が必要になってくる。トップというか、第一関門の先に第二、第三の関門があり、たぶんそこは量だけではくぐれないのかもしれない。

最近、自分の描く絵に癖がつきすぎているのが気になって、こんなことを考えた。

mini0926-1ニーチェの肖像

最近、似顔絵を描く仕事をしたので、普段から似顔絵を描くようにしておこうと思い立った。
思い立ったは良いが、似せようと思ってもなかなか似ないというのが現実で、似せやすい顔と似せにくい顔がある。また、似せようとするあまりに自分のタッチから離れてしまい、似たのは良いけど誰が描いたかわからないような絵になってしまうこともある。

美人とはその時代の平均顔のことである、と何かの本で読んだ。
いろんな人の顔を足して平均を出すとバランスがとれていき、美しい顔になるのだそうだ。
似顔絵はその人の持つ個性を出す必要があるが、平均的であることが個性となると、非常に難しい。
だから美人や美男子を描いた似顔絵は、それが誰が描いたものであっても、大抵は実際よりもブサイクになっている。

上の似顔絵はニーチェ。ニーチェは美男子でもなんでもないのだが、写真によって特徴が異なり、どの写真を参考にするかによって描くべきポイントが変わってしまうのが難点である。

ウェブサイトをリニューアルしました。
http://yagiwataru.com/

まだ仕事の実績やオリジナルの画像を全然アップロードしていないんですが、
これから逐一更新していく予定です。

デザインはrhyme inc.の斉藤いづみさん。
http://rhymeinc.com/

僕が写真をやっていたときから、
的確かつ厳しいアドバイスをしてくれる貴重なデザイナーさんです。
今回ずうずうしくも、ウェブサイトのデザインやってくれまへんかとお願いしたところ、
快諾してくれまして、このようなステキなデザインを組んでくださいました。

今まではド素人感満載のウェブサイトで、だから仕事が来ないんですという言い訳もできましたが、
これからは仕事の有無が完全に自分の実力ということになり、プレッシャーをにわかに感じはじめております。

mini0724-2天気雨


7月は今年最速のスピードで1ヶ月を終えた。
自分の関わった出版物は何も発売されず、
いろいろと延び延びの方向で話が進んでいる。

延び延びで思い出したのだが、たまにのびのびとした絵を見ると良いなあと思う。
最近自分の絵が綺麗にまとまろうとしているような気がしている。

mini0527-4-サムライaブログ用

ある媒体で続いていた敬語クイズの挿絵で、サラリーマンを1年間11回ずっと描いてきたのだが、
今度は社会科クイズになって日本史や世界史を取り上げるということになって、江戸時代の町人や戦国時代の武士を描く可能性が出てきた。

もともとスーツ姿の人物を多く描いていたので、サラリーマンを描くのは自然にできる。
しかしある過去の人物となると勝手が違う。
今までアイデアを出すために使っていた脳が、「間違いのないように」描くために使われていると感じる。
スーツ姿の人物は何も見ずに描くことができる。だから何を描こうかを考える余裕があるのに、資料を見て、ここはどうなっているのかな?などと考えていると、正確に描くことにばかり意識がむいて、できあがるのは説明的な絵になってしまう。

これは慣れの問題で、資料を見ないでもわかるように描くことができれば、
アイデアもひねり出すことができるようになると思う。

まあちょっとくらい間違えたとしても、いちいちカリカリしなくても良いんじゃないかな?という考えもある。
自分の描くスーツも、実は微妙に正確さを欠いているところがあるのだが、見る人には違和感なく受け入れられていると思う。

mini0513-1風吹く大地d



短い間だったが、2006年に制作会社にいた。会社には不満ばかり感じていたが、結局この会社に行ったことが人生の転機になったんだなあとしみじみ思う。

あれからすでに9年が経過し、イラストレーターとして仕事をはじめてから考えても4年くらい経っている。

イラストの仕事をはじめたのは、自分にしかできないことは何か?と考えた結果である。
はじめは文章を仕事にしたかったが、仕事で書く文章は、自分が思っていたようなゆるい文章ではなかった。
写真を仕事にしようと思ったこともあったが、差別化の見通しが全く立たないことから断念した。

イラストレーションというジャンルでは、下手な描き手も熟練も等しく扱われる。熟練が常に必要とされるかというとそうでもなく、絵が下手でもそれは味になる(ように見える)。
その寛容さのためかわからないが、次々にイラストレーターが誕生しており、その中の1人が自分である。「下手ですがよろしくお願いいたします」と頭を下げてながら社会に甘えてしまう。

こんな形で誕生しておいてナンだが、仕事量に対してイラストレーターが多すぎ
るような気もしている。
自分に仕事が来ないのはイラストレーターが多すぎるせいなんじゃないかと、責任を転嫁したくなってしまう。

ここで仕事を続けていく上で大事なのは、新たな市場の開拓だと思いながら、その大変さに尻込みして、他のイラストレーターとの差別化に走りたくなる自分がいる。
差別化と称して新しい絵を描くのは、心理的に見てとても楽なことだ。楽な上に楽しいので、やるべきことが疎かになってしまう。

そんなわけで今回載せた絵は、写真との組み合わせを考えて作ったもの。どうしたらうまく写真と絵が融合してくれるのか、やるべきことを後回しにして、手探りを続けている。

ニューヨークに行って帰ってきた。
もう帰国から2週間ほど経ってしまった。
旅行ほど面倒なことはないなあと思いつつ、
旅行に行くのをやめられない。

人はなぜ旅行するのだろう?という疑問を前から抱いていたのだが、
違う価値観を求めて。というのがその暫定的な答えになると思う。
どんな人も何かを大事にし、何かを粗末に扱っている。

日々の暮らしでその価値観が培われていくが、
何が大事なのか、何が大事でないのかの見直しを、
同じ場所、同じ文化圏内でしてもおそらくうまくいかないと思う。

でもまあもっと大事なことは、
旅行で違う文化圏に行って相対化された価値観を踏まえて、帰国後に何をするかだ。
家での毎日に疲れ果て、毎日がつまらないなあと思いながら旅行に行って、
リフレッシュして帰ってきて、またつまらない毎日をおくるのだとしたら、
旅行は一時的に薬物で痛みを抑えているのと変わらない。
毎日も面白く、旅行に行っても面白い。これが一番である。


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東京の宅配ピザ店の配達員らが、ピザの配達の際にリムジンを利用し、配達を受けた客から「お忙しいところ、お越しいただきありがとうございます」などと過剰に感謝されるケースが相次いで発生していることから、東京都は20日、都内にある全ての宅配ピザ店に対し、配達でリムジンを使用する場合は、配達先の前に車を止めず、裏手に止めて客に見られないようにするなどの工夫をするよう通達を出しました。

東京都がこうした通達を出した背景には、リムジンで届けられたピザを食べた利用客から、「配達員になりたい」という問い合わせが急増していることが挙げられます。
東京の宅配ピザ店では、昨年から「より楽に。より安全に」をモットーに、ピザの配達にはバイクではなく、リムジンを利用してきましたが、それを知った一部の利用客が配達員に過剰にお礼を述べたり、お礼の品を用意するなど、必要以上に感謝され、現場からも困惑気味の声が上がっていました。今回の通達により、そうした過剰なお礼は減少することが予想されます。

大森総理大臣は昨日、記者団に東京都の対応の見解を尋ねられると、「ノーコメント。ホント、ピザ、ノーコメント」と片言で答えました。

※久しぶりにどうでも良いフィクションです。


mini0223-1鈴木大拙館

前回に引き続き、写真を使ってイラストを作る実験。
まだ実験段階なので仕事用のウェブサイトに載せるまでには至らない。
ここまで写真的な要素を排除すると、もうどんな風景なのかすらわからないけど、
人物と背景の相性は良くなった。

ちなみにここは、金沢の鈴木大拙館。

mini0219-1台湾の風景1

子どもの頃、マンガ家になりたいと思ってノートにマンガを描いたことがあった。
でも何コマも同じ絵を描いていくのが面倒だし、同じ顔を描くのは難しかった。
そして何より、風景が描けないため、場面の転換ができない。
引きの絵が描けないという致命的な欠点を抱えていたせいで、マンガ家への夢は道半ばで頓挫した。

子どもの頃はマンガは全て手描きが当たり前で、マンガを描くためにはGペンで描ける能力が必要だと思っていたが、今のマンガを見みてみると、そうでもないようだ。背景に写真使ってるなあというものがたくさんある。
というわけで、自分も写真を使って風景を描く方法を摸索していくことにした。

今回は実験の第一弾。
これは先日旅行した台湾の風景。
本当はさらに後ろに山があって木々が生い茂っていたのだが、消してしまった。
もはや台湾の名残はない…。


mini0112-5自らの階段

またドーキンスの『進化とは何か』の話。
ドーキンスは、「進化とは一歩一歩、山に登ることだ」というようなことを言っている。
麓から頂上に一気にジャンプして行く道はなくて、正面からゆっくりと登らないといけない。
面白いことに、山には多くの峰があり、
一度その峰に登ると、降りてはこられない。峰が大きければさらに先へと進むことができるが、峰が小さければすぐに登りきり、進化も終わる。
進化とは山を登っていくことであって、に下ることはできない。
そして、いま前にある道が本当に山の頂上に続く道なのか、それとも山の一部の小さな峰に続く道なのか、その時点ではわからない。


人間の暮らしも日進月歩で、昨日ナウかったものが今日はナウくないということが多々ある。
進化した技術を手にすれば、それを手放すことはできない。

イラストを描いていると、以前よりうまくなっていると思うことがある。
確かに何かの基準に即して言えばうまくなっているのだろうけど、
それは何かの基準があってはじめて言えることで、
基準がなければ変化しているだけだとも言える。
山があると言えば頂上に近づいているように思えるが、
山も何もなく砂漠であれば、いくら歩いてもそれはただ歩いただけである。

絵をうまく描けるようになったと思うことがある一方で、毎日描いているのにうまくならない、何も変わらない、と思うこともある。
それはもしかしたらそれは、小さな峰に登りきった状態なのかもしれない。


ドーキンスの山の例えは、進化を視覚化したものとしてわかりやすい。
でも本当は、自分がいま山のどこにいるのか、誰にもわからない。
何かに息詰ったとき、いま険しい崖を登っているのか、それとも小さな峰に登ってしまったのか…
その時点でどちらかを判断することは至難の業だ。

でも普通は前にしか進めないところに、後退する選択肢があることに気づけば、
道を拓く可能性が二倍ある、とも言える。

mini0112-1ラップトップバード

リチャード・ドーキンスの『進化とは何か』という講義録を最近読んで、
種の進化と自分の進化を重ね合わせて考えたりしている。

種の進化は何世代も経て徐々に変化していくもので、
その長さを考えると、自分が普段考えている時間の長さは驚くほど短い。
自分があまりにもちっぽけな存在に思えて、逆に感動した。

1月になると、その年の目標を掲げる人も多いだろうけど、
他の生き物は何も目標を立てない。そこが人間と他の生き物を大きく分けている。

生き物の進化は目標にあわせて成し遂げられるものではなく、
あくまでも進化できないものが自然に淘汰されていくだけだ。
目的にあったものを作れるのは人間だけで、
それをドーキンスは「デザインする」と言っていた。
どんな生き物も、デザインされたわけではなく、
自然に発生しただけなのである。

自然は確かに尊いが、自然に身をまかせて生きるとなると、
おそらく自分は環境に淘汰されてしまうだろうと思う。
淘汰されないように、自分は自分をデザインしていく必要がある。
その計画は1年ではなく、最低でも数年単位。
もしかしたら数十年は必要なのかもしれない。
ただ、あくまでも環境は変化していくことを前提に。

むかし、のどかな自然が広がる小さな村に、ウソをつくのが大好きな少年がいた。ある日少年は、村人たちに「狼が来た!」と叫んだ。村人は大慌てで放牧していた牛や羊を小屋に入れて隠れたが、狼は来なかった。それは少年のウソだったからだ。騙されたとわかって多くの村人が激怒した。しかし、村長は村人を制して言った。「狼が来るとわかってから、何分で避難が終わったのか?」と。村人たちは顔を見合わせたが、その答えをはっきりとわかっている者はいなかった。「狼は何分で来ると思うか?」と、村長はさらに尋ねた。口を開く者はいなかった。

その日から、村では狼が来るという万が一の事態に備えて対策が取られるようになった。緊急避難用の小屋が作られ、警告を知らせる鐘が設置された。そして月に1度、狼が来たという想定のもと、避難訓練が行われるようになった。

ウソをついた少年は村長に呼び出され、警鐘を鳴らしたことを讃えられた。「あなたが警鐘を鳴らさなければ、我々は全ての家畜を失っていたでしょう」と。
少年はまさか自分のついたウソが称賛されたり、それがきっかけで村が変わるとは思っていなかったので、何かもどかしい気がした。
今度はどういうウソをつこう?家までの帰り道、彼はそんなことを考えていた。

そうして、平和でありながら人々の危険に対する意識が高まっていたとき、腹を空かせた狼が森から人里に現れた。狼は人々の予想をはるかに上回るスピードで村にやってきた。

警報システムが作動し、村に鐘の音が鳴り響いた。村人たちは迅速に、家畜を小屋に避難させた。
が、狼は一頭ではなかった。スピードも村人の予想を上回っていたが、数の点でも想定を越えていた。
家畜は避難ギリギリのところで襲われ、死者も出た。村は甚大な被害を受けた。

悲しむ村人たちを前に、少年は言った。「狼から逃げるなんてバカだったね。狼なんて、飼いならせば良いのにって僕は思ってたよ」

狼を飼いならす?何をバカなことを言っているんだこの小僧は。村人たちの悲しみは小僧への怒りに変わった。羊たちを守れなかった悔しさは、少年への怒りで消えていった。

少年は村人たちが手をあげる前にその場から逃げていった。こうしてウソをついて人を怒らせることで、少年は生きているという実感を得ていた。

少年がどこかに行ったあと、村長は村人たちに、狼を飼いならす方法を考えてみるよう促した。もしかしたらそれが最も安全な方法かもしれないと。
何頭も羊や牛が犠牲にはなったが、少年のウソはやがて現実となり、いつしか羊を小屋に入れる役割は狼が担うようになっていった。しかし飼いならすまでにあまりにも長い年月が経ってしまったため、その様子を少年が見ることはなかった。

イラストレーターとしてどんな仕事をしたかをtumblrを使ってまとめました。
書籍以外はまだまとめられていないので全部ではありません。

http://yagiwataru.tumblr.com/

「あいつに頼んどけばなんとかなる」と認識されるようなイラストレーターでありたいなあと思っています。

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