増村保造監督の「氾濫」を観た。何年か前に観て面白いなあと思ったのをまた観てまた面白いなあと思った。ハッピーエンドとか全然考えてない。楽しませようといって小手先の技術を使うこともしてない。ただ登場人物の欲望をむき出しにして、勝手に人物が動いてドラマが起こってる感じだった。大発明をしてそれが会社に認められて重役になって裕福になった科学者と、裕福になりたくていつか自分も発明して重役になれるような科学者になりたいと思ってる大学生。裕福になった科学者の周りにはお金を目的にたくさんの人が集まってくる。裕福な科学者はそれが嫌になって純粋なものを求める。大学生は立身出世のためには何でもやる。純粋なものを求める女に対しても構うことはない。みんなの欲望が勝手に渦巻いて、それがぶつかりあって、お互いに傷つけていって虚しくなったりする。虚しくならないためには早いこと次の欲望を駆り立てることだ。
映画で理性的で安直な結論を言われてもつまらねえなと思うけど、欲望むき出しにして動いている人たちがやっていることを観るのは面白い。それが登場人物にとって幸せかどうかなんて関係ない。

登場人物が幸せになるのを願っている人は無論ハッピーエンドを望む。前にもちょっと書いたけど、ハッピーエンドというのは基本的に問題がなくなったということで、ハッピーになった瞬間に人生は面白くなくなる。ハッピーエンドじゃない映画は最後まで「この先どうなるんだろう?」と思わせる力がある。「この先どうなるんだろう?」と思うからエンターテインメントも成り立つんだけど、最後はその不安が払拭されるのがハッピーエンドだ。ハッピーエンドの映画は、「エンターテインメントは映画の中だけにしときな!」というのと同じことを言っているのだ。「この先どうなるんだろう?」と一番強く感じるのは映画じゃなくて自分たちの人生だから、映画の中だけで解決されて、解決されることに慣れてしまうと、自分の人生に対しても受身になってしまう。

ところでこの映画はタイトルクレジットがまず出たあとに、警備員が門を開け、綺麗な外車が会社の敷地に入るところから始まる。警備員は車が敷地内に入ったことを確認して、門を閉める。するとスタッフクレジットが出てくる。画面はぼろぼろの実験室に切り替わり、スタッフクレジットがいろいろ出ているところに、背広姿の佐分利信が入ってくる。して、部下と挨拶したあと、白衣に着替えるところまでがスタッフクレジット。クレジットが終わるとすぐに部下が話しかける。映像にクレジットをかぶせると、その間に映画を見るうえで必要な情報を観客に与えることができる。この映画の場合は佐分利信は警備員が門を開けるような大きな会社で働いている科学者だが、実験室はぼろぼろ、ということを伝えている。
シドニー・ポラック監督の「トッツィー」も同じく映像にクレジットを被せている。あっちはダスティン・ホフマンが化粧をするところから始まって、ほかの役者に演技指導したり、オーディションに落ちたりしているのをポンポン見せて、ダスティン・ホフマン演じる主人公は、人に演技を教えるような優秀な役者だが、実際はなかなか仕事をもらえていない、ということを伝えている。これがクレジットなしだと観るほうも気合を入れてみることになるので、ポンポン切り替えていくのに都合が悪いのだ。
それから、この映画はシーンが切り替わるところが面白い。
立身出世を夢見る学生の最初の登場シーンは、部屋に貼られた外人のピンナップ写真のクローズアップからだ。佐分利信が昔付き合っていた愛人と会うシーンでは、遊んでいる子供を映したあと、カメラがパンすると佐分利と愛人がお茶を飲んでいるというふうにしてある。