2016年06月

ほんとにいろんなことを振り返る間もなく次!次!って感じだ。相変わらずインプットはできてないけど頭の中を外に出せているから不必要なことを悶々と考えることがない。



ブログのzine出したのは1つの区切りだったなあって思う。今までやってきた、文章にしてまとめることは、抗うつ状態とか思春期の上手くいかない状態を吐き出して整理して納得できる答えを見つける術だった。たくさん考えた印だったから、それをまとめたってことはもう苦しい季節から抜け出したんだなあってことだ。誰に届いたかもわからないからダイレクトに反応が来なくて、振り返るにも振り替えられないくて、やって良かったなあとも思えないけど。でも作ってよかったし格好いいものを作れるんだなあ私は、っていう自信になった。



まだまだやらなくちゃだけど後回しにしてることあるから、夏は加速させていかないと。夏を加速させる。





無為に過ごしていても時間は過ぎてあっという間に年をとる、という誰もが年をとってから若年に諭す言葉。なにもやらなくて後悔した人からしか聞いたことなかったけど、初めて、色々やってきてやり遂げてる人からその言葉を聞いたから胸に火がついた。やりたいって気持ちがあるなら大なり小なりビジョンを作ってそれに近づく努力をしていくんだよ、って言っていて、そうだ、って思った。私のことをピュアなハートを持っていそうだから、と言ってくれた。女だとしたら結婚して子供を産んでしまったらやりたいこと出来なくなるのは承知だから、やりたいことやりまくるしかない。お肉屋さんじゃ勿体ないよって言われたけど今それは1つの手段なんだよ。私はいつか仕事でも誇れることをするぞ。



これはもともとわかってることだけど、たくさんいろんなもの見て視野を広げる。

そうじゃなくて意味を摂取し過ぎると無意味に焦がれるってことかも。

謎のモヤモヤだ。気持ちが忙しいのかもしれない。


私は無意味教の信者なのだろうなって思う。




虐待を受けていた子供が大人になって、虐待についての絵本を書いて、その出版の際に何十年か越しに親と和解し、親から「愛していたよ」と言われたという記事。愛していたよという言葉を使える人間。



事件を起こした犯人が自分の生い立ちを社会的に分析した記事。自己肯定感を感じず、小さい頃に安心できなかった子たちは、それが原因で萎縮し、いじめられ、自分がダメなやつだからこうなってるんだと合理化し、生きる気力がどんどん無くなっていくらしい。勝ち負けのレールにさえ乗れない戦いを放棄した人間。


 


安心したい、穏やかに暮らしたいっていうのが一番だけど、穏やかな暮らしってなんなんだろうか永遠に分からない気がする。じゃあ私は何をしたいのか。辛い気持ちになりたくないだけだね。21年間で精神がへにゃへにゃになっちゃったからね。




去年は愛情飢餓状態だったし何が楽しいかわからなかったし全てが辛かったからお酒飲んで騒いだりしてしまったけど、今は愛を感じて受け止めているので精神が安定している。次から次へ新しいものを吸収できる人のこと羨ましく思う。私はそこに行きたいという野心さえ持てないと思い込んでいる。




やっぱり自分ができること以上のことをできるようにならないと達成感満足感は得られないんだと思う。私はなかなかチャレンジや挑戦をしない。人から見たらしてるんだと思うんだけど、私がしてること、体力を消耗することという意識でやっててチャレンジや挑戦だと思えない。全ては認識の仕方なんだろうな。





死や、日々の生活の終わりなんであっけなく来てしまうのだろうし、全てが自由な今なら出来ること、をやることが先決なのかなあ。私の想いはどのように変容していくのかなあ。なにを絶対だって思って意地になってるのかなあ。私は全てに意味を考えてしまって、ってそれ無意味教の信者ではないじゃん。




力が失われつつあるから抱きしめられて安心したい。

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