2013年01月25日

不殺生戒ー現代語訳のはしがきと凡例

十善法語の不殺生戒の現代語訳を半年にわたって取り上げ、1月初旬に終わりました。
ところが、「はしがき」と「凡例」の個所を記載しておりませんでしたので、今回それらの部分を一挙に記します。

はしがき
 江戸時代の高名な聖者として世に正法を説かれた慈雲尊者(1718~1804)の主著『十善法語』12巻は、文政七年(1824年)に版本で開版されました。以来、詳細な解説もなされず、その全容を知る手立てがないとの嘆きを多くの方々からお聞きしてまいりました。この間、僅か二百年の時の経過とはいえ、現代人にとって本来の仏教の教えは遠い存在となっています。しかしながら、現在に最も必要とされる《人の道》の根幹となる教えが、この『十善法語』によって我が国にまで伝承されているのは幸いなことです。この宝を埋もれたままにしないために、また、仏道の存在意義を再認識していただくためにも、現代語訳の必要性に迫られました。

 本書は題名の通り、十善戒を解説されたものです。しかし、この中で説かれている内容は、その一つ一つの戒を通じて、人間の存在そのものを問うことと、人として生きることの根本を考えることがテーマになっています。

 尊者が十善を通して明らかにされるのは、この世界の真実の有様(法)であって、それは、
 「正法の東流(とうる)せぬ已前(いぜん)も、道はかくれぬじゃ。仏出世にもあれ、仏未出世にもあれ、蔽ふて蔽はれぬじゃ」              『十善法語』第十二不邪見戒之下
とあるように、仏道が説き示す真実とは、仏がこの世に出られる以前から存在する道(法)を示したものであるという認識は、最も大切なことなのです。

 さて、私たちの生命とは一体どのようなものなのでしょうか。その命の重要さをどのように考えていけばよいのでしょう。また、しばしば子供たちが、なぜ生き物を殺してはいけないのかと質問しますが、それを大人がどれほど的確に答えられているでしょうか。なぜ、この世に、人間と動物と植物など、色々な形の命ある者に分かれて存在しているのでしょうか。また、人間と動物の違いとは何でしょうか。どのように生きることが人間らしいことなのでしょうか。これらの全ての疑問、否、現代人には問題のありかさえ漠然となっています。

 さらに、何ゆえに人は他の命を奪うことになってしまうのでしょうか。現在でも戦争を初めとして争いが絶えません。この争いの心の発端は何でしょうか。そこまで掘下げていかない限り、人間各個人の争いの心も救われることはないでしょう。

 その上『十善法語』には、この命の問題を通じて、万物の生命そのものである仏の境涯にまで至ることが説かれています。不殺生が「殺すなかれ」の一言に極まってしまうのではなく、この一戒を通じて仏の正知見にまで至る筋道を説かれるところが、この『十善法語』の醍醐味なのです。

お読みいただく前に、まず十善戒の内容を簡単にお示しいたします。

1.不殺生戒   全ての生物の命を奪わない。また、救済して解脱に導く。
2.不偸盗戒   他に属する物を盗まない。布施等の事前を行う。
3.不邪婬戒   妻または夫以外のとの交わりをしない。
4.不妄語戒   嘘を言わない。
5.不綺語戒   ことさらに面白く表現する雑談・戯れの言葉を言わない。
6.不悪口戒   粗暴な言葉で他人をののしらない。
7.不両舌戒   親しい人たちの親交を破ることを言わない。
8.不貪欲戒   衣食・金銭・名利等に愛着の心を起さない。
9.不瞋恚戒   怒ることなく、慈しみの心を持つ。
10.不邪見戒  この世界の道理を正しく見て、誤った見解を抱かない。

 本冊子は、『十善法語』の「第一不殺生」のみの現代訳ですが、其の前半は十善戒についての総論的な内容になっており、『十善法語』全十二巻の中でも大変重要なものです。続いて後半が不殺生戒の解説となっています。
 また、この冊子は、趙福来・英子夫妻が御子息の追善供養のために施本として発刊されるという因縁で成就したものであり、正法弘通の仏縁を感謝いたします。
訳者


凡例
1.本書は『慈雲尊者全集』第十一巻によって現代語訳したものである。
1.現代語訳に臨んで、原文の意味をできるだけ損なわないように努めたが、
多少の説明文を付加せざるをえなかった。
1.原文中、典拠仏典の細かい名称は一部を略した。
1.現代では馴染みの浅い中国の古典からの引用は、必要に応じてごく一部を略した。
1.訳文中の小見出しと段落は、読みやすくするための訳者の判断によるものである。



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2013年01月08日

あとがき  十善戒と慈雲尊者の仏道 4

今回は、あとがき、十善戒と慈雲尊者の仏道4を記載いたします。今回をもって、慈雲尊者示衆『十善法語』巻第一不殺生戒 −現代語訳− 小金丸泰仙 訳のすべてを掲載を終えます。


 つまり、仏道というものは、この迷いの自身をよく見つめ、因って来るところを知り、それをどのようにして解脱して救われていくかの道であり、初心の入門者は特に、この自己のありかを知るには、先ずこの十善の内容を熟知しなければならぬということなのです。
 ですから戒を受け護持するのみでは、まだ到底この自己を含めた全体の世界を知り得ることはできぬわけです。

 「たとひよくこの十善をまもるも、この根本が暗ければ、有漏の戒と云ふべし。三乗無漏(さんじょうむろ)の道にいることあたはず。」 『人となる道』
また、
 「菩提心なき戒行は、有為(うい)の楽報を得て人天(にんでん)の下業(げごう)なり。果報尽くる期あり、依然として生死(しょうじ)に落在(らくざい)す。  『慈雲尊者法語集』「菩薩戒」
という言葉は、この不殺生戒をただ守るだけならば、まさ凡夫のままの十善戒であり、いはば道徳・倫理の範囲を超出することなく、仏果を証することはないとされているのです。真実を求め、利他に及ぶ心であってこそ仏の戒を全うします。
即ち、
 「元来戒法は虚空の如きものじゃ。我戒法を持(たも)つと思う念あるやうなことでは、金剛の戒波羅密ではないじゃ。無念無想にして、戒と相応せねば金剛の戒ではない。そうでないと戒に繋縛(けばく)せられたようなものじゃ。・・・戒と相応したら。自然に戒は具わるものじゃ。」 『金剛般若経講解』

 ここに至ることが仏道の戒の極まるところであり、殺生をしないという規律に従うことだけではなく、自在なこころでありながら戒と一つ(相応)になっている仏の境涯を説かれるのです。

 更に、この人間界の十善も仏と別の世界ではなく、「(十善は)みな菩薩たる者の本性じゃ」(不偸盗戒)とあり、そこまでを含めてこの十善が『甚深なること、広大なること』と表明されたのです。

 慈雲尊者は『十善法語』の著述の後に、内容を短く要約されながら、次第に奥深く、また、神道の見地からも説かれていきます。その題名が『十善法語』から『人となる道』へと変遷しているのは、「人となる道とは、むかしより人間の分斉をうしなふ者おほし。大聖仏世尊(だいしょうぶつせそん)この世に出現し玉ひて、この人をして人たらしむ。これを人となる道と名づく。凡そ仏法は主として生死出離(しょうじしゅつり)の深義を説けども、初門はこの人となる道なり、もし深密の義によらば、この人間世界も仏浄土に異ならぬなり。  『人となる道随行記』
ということに表われており、更に、
「人は人となるべし。この人となり得て神ともなり、仏ともなる」
に至って、その全体の道筋を示されているといえるでしょう。


 仏道の正しい存在意義を知り、神の釈尊の正法をお知らせいたしたい想いでこの作業を進めました。
 「この十二巻、縁あって豊葦原千五百秋(とよあしはらちいほあき)の瑞穂(みずほ)の洲(くに)に興起し、実に像似(ぞうじ)の法をしてのそ正に復せしめ、正法をして永く滅尽せざらしむるなり。」『十善法語序文』
という尊者の高い志の一助となりましたら幸いです。また、読者の皆様が、仏道、自己、この世界、に対して新たな境涯をお持ちになることを願ってやみません。

 願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

  平成二十四年五月
                         心空院 文客堂にて
                               小金丸泰仙 識


以上で、慈雲尊者示衆 『十善法語』 巻第一不殺生戒 − 現代語訳 − 小金丸泰仙 訳 の全部をこのブログにアップしてまいりました。
一人でも多くの方に小金丸泰仙師の現代語訳を読む機会を提供できれば幸いです。



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2013年01月07日

あとがき  十善戒と慈雲尊者の仏道 3

今日は、あとがき、十善戒と慈雲尊者の仏道の3回目を記します。前回に続く部分です。少し長くなりましたがぜひお読みください。

 『十善法語』を拝読して注意すべきことは、因果を知ることは、自己の天命を知り、この世の道理を知るということではあっても、これは決して宿命論ではないということです。人の心も体も、精進や怠惰によって変化し続けていくものです。もし、全てが決まっているものならば、努力や修行は無駄なこととなり、また、個々の人間性に違いが出来てくるはずはありません。このことを憶うだけでも真実の道理に近づくでしょう。

 先ずは、自分がどこから発してどこにいるのか、この『十善法語』を通じてよく憶念してみる必要があります。そして、「この因果を知るということは、自分や他人の過去の因を探ることでもありません。因果の道理を憶念することは、現在の自己の足元の問題であり、今をよりよく生きることと同時に、今後どのように踏み行うべきかのヒントでもあるのです。これまでの心の経験の違いによって、現在の各々の心の違いがあります。それは現在の行為と思慮によって、自己の心の内容が将来に向けて決定していくということでもあります。これは僅か数十年の自分の人生を振り返っても察せられる事実です。

 この世でしばしば見聞することの一つは、因果を否定し現在のみを頼りに刹那的に生きる人。もう一方では、物に変化しない絶対の実在を認めて、音がに引きずられ常に因果のせいにして自由を失っている人です。信心深い人や僧侶でさえも、だいたいこのどちらかであると尊者も語っておられます。この理解には、『十善法語』「不邪見戒」(巻十〜巻十二)を十分に拝読しなければなりません。このことからも、十善戒の根本は不邪見戒にあるといえます。もし、この『十善法語』を読むことで因果に捉われるような結果になれば、尊者に意図とは全く違った方向になってしまうでしょう。

 そこで最も大切なことは、本論の中にもしばしば触れられるように、この甚深広大な因果でさえも、これを明らかにすることだけが仏道の目的ではないということです。十二巻「不邪見戒之下」に大変重要な一文があります。
 「世尊は十八難(じゅうはちなん)を答へたまはずとある。死後さることありさることなきは、自知せしむべき趣じゃ」

これは、十善法語において因果をこれほど詳細に説き示されながら、実は釈尊は死後のことに対する質問には答えられなかった(無記)、という事実をここに出され、その理由を、因果の道理は知っておくべきことで、仏道はこれを前提に説くのであるという尊者の見解を明確にされているのです。

 それならば、その知った上で釈尊や尊者が説かんとされていることとは、畢竟いかなることでありましょうか。
 「因縁というものも総じて生滅に属して虚妄なものじゃ」  『慈雲尊者法語集』「楞伽心印」
 「業報も元来不可得じゃ」  『金剛般若経講解』
と説かれていることに注意すべきです。


次回は、あとがき、十善戒と慈雲尊者の仏道4を記します。


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2013年01月06日

あとがき  十善戒と慈雲尊者の仏道 2

今日は、あとがき十善戒と慈雲尊者の仏道の2回目、前回に続く部分です。

 さて、第一「不殺生戒」本文全体の前半は、十善戒の総論、後半は不殺生戒の詳説という形になっています。前半では十善戒の戒としての意義や善悪の問題など重要なことも説かれています。その中で注目したいのは『法華経』の「今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子」(今この三界は皆是れ我が有、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり)によって法の平等性を説き明かにしておられることです。この平等性は法性の等流(とうる)を示すもので、因果の道理そのものの本性でもあります。

 この平等性は、地位も年齢も性別も分け隔てなく、どのような人にも同じように平等であるからこそ、善の行為は楽の結果となり、悪の行為は苦(く)の結果を生む、ということになります。ところが世の人々がしばしば現実の中で目にするように、表面上では結果が必ずしも報われないと見えることがあり、その結果だけで因果はないものだと判断されてしまうものです。努力しても報われない結果となるのは、不平等ではなく、それは別に理由があってのこととは知りえないからです。
「縁起をさまでもないことゝ思うであろうが、この縁起は甚深(じんじん)なことで、ただ仏のきょうがいじゃ。小根劣機(しょうこんれっき)の者の知るところではない。信解する所ではない」−『慈雲尊者法語集』「神祇の出現」−という言葉も合わせて憶念するべきところでしょう。


次回は、あとがき十善戒と慈雲尊者の仏道3を記します。



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2013年01月05日

あとがき  十善戒と慈雲尊者の仏道 1

あとがきとして「十善戒と慈雲尊者の仏道」について詳しく解説されておりますが、長いので4回に分けて記します。

『十善法語』の内容を正しく理解するために、仏道が本来何を伝えようとしているのかということ、それに加えて、尊者が十善に託された趣旨を正しく認識していなければならないでしょう。なぜなら、この『十善法語』が因果説を主張したものに過ぎないとし、または一般の人には関わりのない仏教の戒律の解説書であると受け取られかねないからです。尊者は冒頭に、
「この十善は甚深なること、広大なることじゃ。」
と述べられ、また、この世界全体(人間以外の世界も含む)の真実の姿を。
「知らぬ者が知らぬばかりじゃ」
ともあります。実はこの尊者の御言葉の背景には私たちの想像を超えた深意があると共に、殊更に《人の道》を説かれた理由もあります。

 私たちがこの世界に誕生し死を迎えるまでに、この現世を注意深く観察して、思惟し、心を深め、自己の何たるかを明確にするということが仏道における一生の課題とも言えましょう。そしてこの世界には動かしがたい道理があり、その道理に随って全ては展開しています。事故は本来その道理と一体のもので、その本性が平等であることを仏道のほうは示しています。しかしこの事実を如実に知り得ることは、日々精進し続ける修行者でさえも容易には明らかに成し難いことで、仏菩薩の導きなしには成就することはないといってもよいでしょう。そこで、ここにその不可思議なる世界の道理を説き出されたのが『十善法語』であります。これについては、
「この十善は慈雲の説にあらず。諸仏賢聖より相承を述ぶるのみ。」 『不殺生戒記』
とあり、尊者が私意を混ぜず説き出されたものであることを知ることができます。




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不殺生戒本論 結語

今回は、不殺生戒本論のまとめとして、結語を記します。

 世間の人が、生まれながらに持っている善の功徳を全うすることができず、畜生などの心になるのは、実に悲しむべきことである。

 総まとめとして言うならば、仏と異ならない心を持ちながら、みずから迷って、わずかなことから業の姿を造り出し、その中で浮いてたり沈んだりして、生と死を繰り返し、業の風に吹き乱されて、少しも安らかでない。どのような時でもどのような所でも、実際には消滅ということはない所に、わざわざ自分から生と死が繰り返す世界を造り出しては様々な所を転々と迷っていく。これとあれ、という対立したものなどはない平等の世界に分け隔てをして、自分で自分の造り出した窮屈な世界に入り込んでいる。

 「今此の三界は皆是れ我が有、其の中の衆生は悉く是れ吾子なり」(この三界は我が所有するところであり、其の中の衆生は全て我が子である)であるのに、その子供たちがお互いに言い争いし、競い合っている。それがはなはだしくなれば、人の道から外れていく。すでに自分の心に大安楽の境涯のあることを知らずに迷っているのである。



次回は、「あとがき 十善戒と慈雲尊者の仏道」について記します。


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2013年01月03日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 10

今回は、人間界における十善の顕現10として、不邪見戒の功徳を記します。


10.動物と比較した人間の不邪見の功徳

 第十に、人は、善か悪か、邪か正かを思惟すれば判断ができる。心を正そうとすればできる。不邪見戒の果報の現われた姿とはそのようなことである。

 畜生などをよく見よ。体全体に苦しみがあり、心を調える余裕もないのである。勿論、道理にかなっているかどうかを判断することのできないのだ。全身の苦しみは、その息づかいを見て知るがよい。仏の言葉に、畜生は息が安らかでない、とある。邪見の行為による果報の姿とはそのようなものである。

 経典や論書、また、その他の伝に、龍が報を聞くという類、『獅子月経(ししがつきょう)』にあるような、猿が三帰(さんき−仏・法・僧に帰依(きえ)をする受戒の儀式)を受けた類は特別な因縁があってのことである。



次回は、結語を記します。


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2013年01月02日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 9

今回は、人間界における十善の顕現9として、動物と比較した不瞋恚の功徳について記します。

9.動物と比較した人間の不瞋恚の功徳

 第九に、この人間界はどこでも親愛の情のあるところである。恐れることはない。外国の人がこの国に来ても仁愛の心で接する。この国の人が海を漂って外国に行っても接待を受けて送り迎えされる。不瞋恚戒の果報の現われた姿とはそのようなことである。

 畜生が相手を見るなり怒りを起こし、逢うなり咬みつきあうのを見よ。瞋恚の行為による果報の姿とはこのようなものである。

 『唐書』の中に、象には礼節があることを記録したものや、仏典や世間の書物に、熊が人を救ったという話があることなどは特別なことである。


次回は、「動物と比較した人間の不邪見の功徳」について記します。


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2013年01月01日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 8

平成25年、新年明けましておめでとうございます。

今日は人間界における十善の顕現8として、動物と比較した人間の不貪欲の功徳について記します。

8.動物と比較した人間の不貪欲の功徳

 第八に、大部分の人の日常の生活は不足のないものである。この人間界では、酒や食べ物によって体をこわす者は十人のうち五・六人あり、飢えて死ぬ者は百千人の内一人も希である。わずらいや災難の苦しみで死ぬ者は十人に一人か二人であって、勝手気侭で怠(なま)けて死ぬものは十人に七、八人もいる。

 すでに足りていることを知り、貪ることがなければ、大抵は生涯を全うすることができるのである。不貪欲戒の果報の現われた姿とはそのようなことである。

 畜生は常に食べ物を求めるばかりで、十のうち八、九は腹を減らしている。祇耶多尊者(ぎやたそんじゃ)が人々に話されたことがあるが、自分は過去に色々な生まれをしてきたが、犬に生を受けている時に食べ物に満足したことは、わずか二度だけであった、と。仏の言葉に、畜生は飢えの欲望が常に燃えているとある。貪欲の行いの果報果報とはそのようなすがたである。

 馬小屋に肥えた馬がいたり、鷹が肉を食らうのに満足しているようなことは普通ではなく、前の例を以て理解せよ。



次回は、「動物と比較した人間の不瞋恚の功徳」について記します。


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2012年12月31日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 7

引き続いて、人間界における十善の顕現7として、動物と比較した人間の不両舌戒の功徳について記します。

7.動物と比較した人間の不両舌戒の功徳

 第七に、大部分の人は親愛の言葉で話す。たまに怒りの声を発するのは通常の声ではない。賢人・君子には障害怒りの声をあげない人もある。また、多くの人は喜びの声をあげるのであって、たまに悲哀の声を出すのは、通常の声ではない。また、徳のある人や長生きの人には一生悲哀の声がない人もある。不両舌戒の果報の現れた姿とはそのようなことである。

 畜生は、大部分が怒りの声と悲哀の声である。両舌を行った果報はそのような姿である。

経典の中に、水鳥が穏やかな上品な声で鳴き、三宝(仏・法・僧)の声で鳴くとあるのは特別のことである。



次回は、「動物と比較した人間の不貪欲の功徳」について記します。



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2012年12月30日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 6

今回は、人間界における十善の顕現6として、動物と比較した人間の不悪口戒の功徳について記します。

6.動物と比較した人間の不悪口戒の功徳

 第六に、舌の動きも柔軟である。それによって歌を詠んだり吟詠することも可能である。楽器も演奏できる。経や陀羅尼(だらに)も読もうとすれば読むことができる。不悪口戒の果報の現れた菅と都はそういうことである。

 畜生は舌が粗雑であるから、仏典や世間の書物を読むことも出来ず、善良なことに活用することができないのである。鶯やオホトギス、山ガラなどの鳴き声は、人間の耳を楽しませてはくれるけれども、彼らの自然の声は実は苦悩の声なのである。悪口の果報の現れた姿とはそのようなことである。オウムが人の言葉をよく話すということも、この類のことと知るべきである。



次回は、「動物と比較した人間の不両舌戒の功徳」について記します。


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2012年12月29日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 5

今回は、人間界における十善の顕現5として、動物と比較した不綺語戒の功徳について記します。

5.動物と比較した人間の不綺語戒の功徳

 第五に、言語が正しく、五声(宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)の五つの音律)と七音(しっとん)(五声に変宮(へんきゅう)・変徴(へんち)を加えたもの)を使い分けて発音することができる。その正しい道筋が具わっている。不綺語戒の果報の現れた姿とはそのようなものである。

 畜生では、牛は牛、馬は馬、杜鵑は(ほととぎす)は杜鵑、鶯は鶯、それぞれが同じ一つの声だけであって、ことごとく十分ではない。綺語の果報の現れた姿とはそのようなものである。

 経典の中に、動物が言葉を話す因縁のことが出ている。世間の書物の中にも、雀が孔子の門人である公冶長(こうやちょう)に対して、南山に虎がいる、と言ったとあるようなことは特別のことであって、動物の普通の姿ではない。



次回は、「動物と比較した人間の不悪口戒の功徳」について記します。



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2012年12月28日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 4

今回は、人間界における十善の顕現4として、不妄語戒の功徳について記します。

4.動物と比較した人間の不妄語戒の功徳

 第四に、国を治め、家を治め、身を修めるために言葉が具わっていることである。国の王や有徳の人は一言で国を興したりする。または永遠の法則を教え授ける者もいる。不妄語戒の果報の現れた姿とはこういうところである。

 畜生道ではただ食物を得ては親しみ、食物を争っては互いに傷つけ合う。ただ物惜しみと貪(むさぼ)りと嫉妬の声を出し、メスとオスの呼び合う声ばかりである。妄語の行いの果報の姿とはそのようなものである。

 経典等の中に、一切の動物たちが君主と臣下の命令を守るとあることなどは、畜生の中でも一部分に人間の徳を得て失っていないのである。動物の普通の姿ではない。



次回は、「動物と比較した人間の不綺語戒の功徳」について記します。


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2012年12月26日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 3

今回は、人間界における十善の顕現として不邪淫戒の功徳について記します。

3.動物と比較した人間の不邪淫戒の功徳

 第三に、この人間の世界にはそれぞれの地位があり、その礼儀が乱れない。一般の民家に至るまで、冠婚葬祭などのふさわしい儀式がある。親族にも序列がある。身内にも親好がある。不邪淫界の果報が現れた姿とはそのようなことである。

 畜生道では、同類でも異類でも、互いに争うだけであり、そのメスとオスをよく見よ。邪淫の行いを具えた姿である。

 古書に、鳳凰が飛んで来て舞う時には、全ての鳥たちが助け従うなどとあるが、これは畜生のなかでも一部分に人間の徳を得ていることである。畜生の普通の姿ではない。雁が飛んでゆく時に、列を乱さないことも同じように知るがよい。


次回は、「人間界における十善の顕現」の4として、人間の不妄語戒の功徳について記します。


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2012年12月24日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現 2

今回は、人間界における十善の顕現△魑します。

2.動物と比較した人間の不偸盗戒の功徳

 第二に、この人間界は福徳のある場所である。人間の世界には桜・桃・棠梨(とうり)の花がある。五穀と美しい果物がある。建物には宮殿楼閣があり、布には美しい模様の絹や薄い絹がある。不偸盗戒の十善の果報の現れた姿とはこのようなものである。

 畜生の世界を見よ。桜・桃・棠梨の花も畜生には、芳しく美しいという世界はない。美しい模様の駆ぬや薄い絹も、彼らの眼には色や模様という世界はない。このような豊かさを感じる福分がないので、満足を知ることなく他人の物を盗む有様となる。偸盗の行いの果報の姿はそのようなものである。

 毛の長い牛が自分の尾を愛したり、孔雀が自分の羽毛を惜しむことなどは、畜生の中でも一部分に人間の徳を得ていることで、畜生の普通の姿ではない。



次回は、「動物と比較した人間の不邪淫戒の功徳」を記します。


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2012年12月23日

不殺生戒本論 人間界における十善の顕現  1

今回から「人間界における十善の顕現」と題して、動物と比較した人間の十善戒について記します。

1.動物と比較した人間の不殺生戒の功徳

 第一に挙げるのは、人間には慈愛の心が、その姿として現れているということである。身体には鋭い爪や牙がない。頭には角がない。身体も柔軟である。坐っても正しく、歩いても正しく、寝ても正しく、装束の礼式も正しい。不殺生戒の果報の現れた姿とはそういうことである。

 畜生を看よ。ライオン・トラ・オオカミから蛇・蛙、ごく小さい虫に至るまで、その大きさの違いはあっても、みなお互いに喰らい傷つけあう毒を持っている。角があるものもあり、牙をもっているものもあり、鋭い爪があるものもある。大きなものは小さなものを押し伏せ、強いものが弱いものをおさえ、互いに喰らい咬み合う。殺生の行いによる果報の姿はこのようなものである。

 古来から麒麟は生物を害することなく、穀物を踏みつけることがないという類は、畜生の世界の中でも一部分に人間の徳を失っていないのである。これは畜生の普通の姿ではない。また、釈尊が初めに説法された鹿野苑(ろくやおん)では、鹿も説法を聞いたという話が経典の中に書かれているが、これなどは更に特別のことである。



次回は、「動物と比較した人間の不偸盗戒の功徳」について記します。



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2012年12月22日

不殺生戒本論 人間界と三悪趣

今回は、人間界と三悪趣について記します。


 この業によって縁起している世界の中で、まず人間というものをよく見てみれば、その姿に十善が表れている。そしてこの人間が住んでいる世界にも十善は顕われているのである。

 経典の中に「三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)の者は、その身体も荒々しくて臭くて汚いとある。その住んでいる世界も熱鉄として火の河で出来ていて、そこでは暴風が吹き、熱い砂ばかりとある。この三悪趣の中の地獄と餓鬼の世界は、人間には見えないことなのでそのままにしておき、ここでは畜生と比べながら人間の姿を知るがよい。



次回は、「人間界における十善の顕現」について記します。


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2012年12月20日

不殺生戒本論 心と体

今回は、「心と体」について記します

 眼が自分の眼を見ることはできない。外の物に対してのみ眼のはたらきがある。耳が自分の音を聴くということはない。外の声に対してのみ耳のはたらきがある。鼻が自分の鼻を嗅ぐことはない。外の香りに対してのみ鼻のはたらきがある。身体が自分の体に触れることはない。外の物に対してのみ身体のはたらきがある。全てはただ多くの縁が結合しただけであって、それに実体はなく、それを統一しているものもなく、常にただ業の影に使われて自分の自由などないのである。これは興味深いことである。生まれて死ぬまで業の姿に使われて自分の自由などない。興味深いことである。

 経論の中に------無色界(物質を超えた世界)の衆生は、山林や大地の中に住んでいても、実際には常に虚空の中にいる。餓鬼界の衆生にはこの山林も池や沼も、みな火の集まりに見える------とある。『維摩経』に------舎利弗(しゃりほつ)の見るものは草木や瓦礫であっても、梵天はそれを七宝荘厳とみる------とあるのも興味深いものである。



次回は、「人間界と三悪趣」について記します。


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2012年12月19日

不殺生戒本論 因果の根拠

今回は、因果の根拠について記します。


 要するに、身体や自然界(外)と心(内)とは二つのものではないということである。人は、心と体とを二つに分けて考えるが、本来は二つではない。二つのものではないので、心に思うことが必ず身体のはたらきとなり、口の動きとなる。また、体と口が動くところに必ず心は応じていく。心は尽きることなくはたらくので、其の中の業も無人に続いて行き、それによってその果報が出現してくる。心と自然界は本来これといった固定的な実体があるものではないので、身心がはたらけば、それに応じて国土も変化するのである。

 人間界の善と悪の行為に天体の現象は応じる。天が天命を下せば人間界はそれに応じるのである。この世界の働きに平和と乱世とがある。年にも穀物の出来がよい年もあれば、実らぬ年もある。平和の時には誰もが枕を高くして安心しすぎるほどである。乱世では英雄が走り回っても足りない。作物の豊かな年には誰もが腹いっぱいで余るほどである。飢饉の年には、粕や糠のような粗末な物さえも十分に食べられない。すべて天の道は定まっており、人為で変えることは難しいのである。

 窓には雲が出たり消えたりするが、これはただ風に随っているだけで、自分自身の自由はないということは興味深いことである。草木が地上で繁殖したり枯れたりするのも、ただ風や太陽の光や霜や霧に任せているだけで、自分の自由で行っているのではないことは興味深いことである。



次回は、「心と体」について記します。


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2012年12月18日

不殺生戒本論 増上果(ぞうじょうか)

今回は、増上果(ぞうじょうか)について記します。


 また教義を解説する論書の中に、異熟果(いじゅくか)、等流果(とうるか)、増上果(ぞうじょうか)の三つを挙げて殺生の果報を説明している。

 初めに異熟果(因と果の性質が異なる)、次に等流果(因と果が同種類)、この二つは『華厳経』の経文の通りである。増上果というのは、この殺生の業が、身の回りの道具類にまで及んで潤わないということである。初心の人には、業の報に依る因縁が、住んでいる世界や生活の道具にまで及ぶことは信じがたいことであろうが、仏教の経典以外でも、大乱の後には必ず飢饉があると書いてあり、歴史上にもその例がある。この乱の後に飢饉があるという道理に照らして増上果があることを知るがよい。

 一国の主が過去世において殺生の業があれば、その国の五穀には味わいがなく、花や果物までも潤いがすくない。一般の人でも、過去世からの殺生の業があれば、人によっては五穀を植えても実りが少なく、家を建てても思い通りにならず、仕官を求めても昇進することができない。商人に利益がなく、医師の薬功がないなど、全て増上果である。どのような立場の人でも、びょうどうにその果報が現れ出るのである。


次回は、因果の根拠について記します。


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2012年12月17日

不殺生戒本論 人は十善の影

今回は、「人は十善の影」について記します。


 この業は十善の影として現われ出たもので、不可思議なものであるが、一度その果報が決定したならば変更されることはない。
看よ、多病の人が色々な薬を使って治療しても、多くの人はその効果が得られない。身と心を投げ捨てて神によりすがっても、多くはその恩恵にあずかることはない。
薬が効果がないというわけではない。神に徳がないのではない。
ただ業の力が強くて変えることができないのである。初めの行為のときに慎んでおかなければ、果報が成立してしまったら免れることはできないのである。



次回は、増上果(ぞうじょうか)について記します。


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2012年12月16日

不殺生戒本論 余業(よごう)

今回は、余業(よごう)について記します。


 長い時間をかけてこの報の苦を受けおわった後に、もし人間界に還って生まれても、その殺生の業の残りがまだ身心に残っていて、ある者は母親のお腹の中で胎児のまま死んだり、ある者は生まれてすぐ死んだり、ある者は若くして死んだりする。これを経典の中に短命とある。

 この殺害の業は他人の身心を苦しめるので、その行の残りが自分の身心に伴っていて、生まれ変わっても悩み苦しむ。これを経典の中で多病というのである。今日、この人間の世界で現に見る短命の人、多病の人は、過去世に造った殺生の業の残りが、そのまま続いてきて現れているのである。



次回は、人は十善の影について記します。


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2012年12月14日

不殺生戒本論 業報(ごうほう)

今回は、業報(ごうほう)について記します。


 また、『華厳経』で、十不善業によって長期間にわたって苦の報(むくい)が続くことを説いている中に、「殺生の罪は衆生を地獄・畜生・餓鬼の世界に落としめる。もし人間界に生まれたとしても二つの酬がある。一つは短命であり、もう一つは多病である」とある。

 殺生の罪は仏性に背いているので、天地の生育の道理にも外れ、人としての道にも背いている。それで、本来生まれたままで清浄である心に地獄を造ることになる。そこに火の地獄を出現させる。水の地獄を出現させる。百千万年という長い迷いの時間を造り出し、その中に浮いたり沈んだりするのである。水や穀物という言葉さえ聞くことがない餓鬼の世界を造り出す。道理をわきまえもせず、互いに咬みつき害しあう畜生界を造り出す。これを三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕(お)ちるという。

 以上が殺生の行為による正しい報である。この悪業が報によって満たされないうちは、三宝(さんぼう‐仏・法・僧)という言葉もこの耳に聞くことなく、一切の道理をわきまえることもできず、この身心にただ強烈な苦があり、自分の意思にかなうことなど一つもないのである。



次回は、余業(よごう)について記します。


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2012年12月13日

不殺生戒本論 持・犯・開・遮(じ・ぼん・かい・しゃ)

今回は、持・犯・開・遮(じ・ぼん・かい・しゃ)について記します。


 全ての戒には、持(戒をたもつこと)・犯(戒を犯すこと)・開(許される行為)・遮(許されぬ行為)があり、一つの戒をどのような場面でもただ一様に解釈すべきではない。『涅槃経』に、「よく一字を理解して、上手に解説する人を律師という」とある。この一事は昔より今に至るまで解釈し難いのである。


次回は、業報(ごうほう)について記します。


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2012年12月11日

不殺生戒本論 在家と出家の戒

今回は、在家と出家の戒について記します。


 おおよそ十善が行われている世の中では、国を乱す臣下と親に逆らう子供の話さえ聞かない。法を乱すような人民や、孝行の道から外れた若者も、みずから恥じて自分で改める。あるいは動物まで人に馴れてなついているので、うちとったりすることがない。在家の戒の中では慈悲の心で、下は小さな昆虫類に至るまで救う。また、慈悲の心で悪人の命を断つ。一時逃れで情けをかけて許したり、臆病な心で一人二人を許して大乱に及んだりするようなことはしない。十善の道の道理は深い趣のあるものである。

 朱家の僧の戒では、全く殺生しない。心を寄せる所はただ道だけである。身体を寄せる所はただ賢人・聖人の行いだけである。世間の人々の師となるべきであり、世間的な交わりに心身を置いてはならない。




次回は、持・犯・開・遮(じ・ぼん・かい・しゃ)について記します。




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2012年12月09日

不殺生戒本論 賢人・聖者の境涯

今回は、不殺生戒本論の賢人・聖者の境涯について記します。


 また『涅槃経(ねはんぎょう)』の中にあるが、人々が世尊(せそん)に次のように質問をした。「仏の堅固で壊れることのない身体はきわめて奥深く微妙です。仏は過去世においてどのような善行によってこのような身体を得られたのでしょうか」と。世尊は答えられた。「私が国王であった時、正法を護持して道理から外れない戦いをしたので、この堅固で壊れない身体を得たのである」と。

 真実の理法とはこのようなものである。広く大きな慈悲の心そのものが賢人・聖人の心のはたらきである。そしてこの賢人・聖人の心のはたらきそのものを戒というのである。このような高徳の人の持戒は一般の者が知り得ない境涯である。菩薩の志は波の能力では知り得ないのである。



今回は、在家と出家の戒について記します。


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2012年12月08日

不殺生戒本論 殺生の心の善悪

今回は、殺生の心の善悪について記します。


 ここで一つの疑問があるであろう。菩薩は出家して俗世間から離れているので、そのような不殺生も可能であるし、その徳も得られるであろう。しかし、もし俗世間で国の政治に関わっている時に、盗賊が徘徊したり、悪人の集団もないとはいえない。その時にそれ等を殺せば、仏戒を軽んじることになる。もし、それ等に寛大であれば政道が成り立たないし、人民の害にもなる。この二つの道のどちらに従うべきであろうかと。ここは明らかになるまで考え抜くところである。

 経典の中には、善の心で悪人を殺すのは、悪の心で蟻を殺すよりもその罪は軽いとある。罪がないどころか、功徳を得るとあるのである。『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』や『正法念経(しょうぼうねんきょう)』などに詳しく説かれている。



次回は、賢人・聖者の境涯について記します。


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2012年12月06日

不殺生戒本論 不殺生戒の究極

今回は、不殺生戒の究極について記します。


 自分にも人情があることから、生きているものには情欲があることを察する。この憶念の中に不殺生戒が自然に顕われてくる。さらに宿福が多くある者は、そこから因果の道理を信じることができるようになり、縁起の有様が明らかになってくる。生死輪廻(しょうじりんね)の迷いの中で永遠に浮き沈みすることを知る。

 ごく小さな虫類に至るまで、生きているものの本性は平等であるということにまで到達する。これを欠け目のない完全な不殺生戒という。この小殺生まで慎みたもつところに、おのずからその徳を得ていくことは、例えば薬の製法で精密であればその効力が極めてたかいように、また刀剣を作るときの鉄の鍛錬がよければ、その先が鋭利であるようなものである。ひっくるめて戒法とは、悪事を止めるということでついた名称であるけれども、この悪を止める中に、その功徳を得るのである。



次回は、殺生の心の善悪について記します。


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2012年12月04日

不殺生戒本論 人としての情愛

今回は、人としての情愛について記します。


 自分自身がこの人間界に生まれたことに対して尊重の心があれば、自暴自棄になるような苦しみはない。どの国であろうとも父母のない子供はいないし、親族が可愛がり育てることなしに成長する人はいないので、自暴自棄にならなければ、自然に父母親族に対して尊重の心が生じる。親族に尊重の心があれば、孝悌(両親に孝行し、兄弟の仲が良いこと)の道が成り立つ。孝悌の道が成り立てば、忠義(真心で仕えること)も慈愛の心も出てくるのである。

 この心を世界全体に広く行き渡らせれば、動物や虫の類にいたるまで母と子の愛情があることが見えてくる。雌雄の親があることが見えてくる。全ての生き物が生を楽しみ死を怖れることが見えてくる。



次回は、不殺生戒の究極について記します。


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2012年12月02日

不殺生戒本論 人への尊重心

今回は、人への尊重心について記します。


 憶念することによって、真実の法が身に具わってくる。身に具われば徳が具わる。信がある者は、先ず人は尊ぶべきものであることを憶念するがよい。『易』では、人を天と地に加えて三才(さんさい‐天・地・人)と言っている。
 仏や菩薩もこの人間界に出現する。賢者や聖人もこの人間界に出現する。天地の神々もこの人間を守護する。このような憶念さえ続けていれば、おのずから初めの不殺生戒は全うすることができる。

 人間界を尊重する心があれば、自然に怒りの心を離れ、人を叩いたりののしったりすることもないので、方便罪を犯すことはない。方便罪がなければ、自然に根本罪に至ることもない。徳のある人に対して尊重の心を起こすだけでなく、一般の人たちも尊重すべきである。一般の人たちだけでなく、下々の人、又は暴悪の人にも尊重の心を失わないほうがよい。このような慈しみの心をすべての人たちに広く及ぼせば、自然にその徳が欠け目なく備わる。これが不殺生戒を守る姿である。

 この中に、中・下の類をも尊重するというのは、人間の全てを一束にして区別しないのではない。目上の人を呼ぶ時は、目上の人として呼びながら尊重するのである。同輩に対しては、同輩として呼びながら尊重し、目下の人に対しても、目下の人として呼びながらも、心の内では尊重の心を失わずにいるのがよい。

 上を尊敬し下を愛し、賢者を尊く思い、愚かな者を憐れむ。そのようにそれぞれの立場はあるけれども、人が人であるからこそ備わっている徳を尊重し、そのことを憶念することに変わりはない。

 暴悪の者にも尊重の心を失わないということは、その者の暴悪を尊重するのではない。暴悪は憎み軽蔑すべきことではあるけれども、その人がこの人間界に生まれてきたという善根を尊ぶのである。人間の人間としての当然の位を尊重するのである。要するに、人間界に生まれた人の尊さを憶念することは、道に到達するための重要なことなのである。



次回は、人としての情愛について記します。


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2012年12月01日

不殺生戒本論 天道と人道

今回は、天道と人道についてです。


 この中に、初めに人間としての生き方を全うして不殺生戒をたもつと、天には天の道があることが自然に知れてくる。この天道は完全であるので、自己とこの世界の本性が見えてくる。そうすると、この迷いの生死が続いている縁起本来の姿が知れてくるのである。

 
 天地が天地として存在していること、大人(徳の高い人)が大人として存在していることは、あらゆる命ある衆生に、その者たちのあるべき姿を会得させることにある。それは万物をそれぞれ育て続けて止まないところである。このような真実の道は、仏がこの世に出られようと出られまいと、常に世間に存在しているのである。



次回は、人への尊重心について記します。


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2012年11月30日

不殺生戒本論 持相(じそう)

今回は、持相(じそう)について3つに分けて記します。


世間相応の持戒者(じかいしゃ)の持相

 殺生が人道に背き、天命に背き、正しい道理に逆らうことであると知って、それを心に憶念し護持して、わけもなく殺さず、わけもなく他を悩ますことがないのが世間一般の持戒者である。


出世間少分相応の持戒者の持相

 この殺生の行いの結果が必ずあることを信じ、互いに永遠に繋(つな)がり合って生死(しょうじ)の迷いの海に繰り返し沈んでいくことを恐れ、殺さず悩ませることなく、憎んだり怒ったりしないのが、出家の僧の中で戒をわずかにたもつ清らかな持戒者である、


出世間真正の持戒者の持相

 もし、衆生の姿がそのまま法性(ほっしょう‐存在の真実の本性)そのものであることを信じ、法性が衆生のさまざまな姿そのものであることを知るならば、すでに法性の現れとしての衆生なのであるから、衆生は自己の戒相(戒をたもっている姿)と等しくなる。衆生が自己の慈悲心となる。それで自身の戒をたもっている本体が、この衆生が存在することで倍増していく。慈悲心もこの衆生の存在があって増上する。

 この濁った末世において、忍び難きことをよく忍ぶ。なし難いことや怒りが起こることを忍ぶからこそ忍力(にんりき)が出てくる。賢者や善人と共に交われば、その人たちに慈悲と忍辱の心があることは珍しくもないことだ。恩に背くような人を見れば、かえって自分の忍力ができる。暴悪の人にたいすれば自分に忍力ができる。驕慢の人を見れば忍力ができる。一人の衆生から一切の衆生への慈悲心が生じてくる。ここにまで至って出家本来の正しい持戒者というべきである。



次回は、天道と人道について記します。



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2012年11月27日

不殺生戒本論 犯相(ぼんそう)

今回は、少々ボリュームが多くなりますが、不殺生戒本論の犯相(ぼんそう)について記します。


 一切衆生は、本来は安らいだ解脱の世界の存在である。そこでは自と他とを分けて区別することはない。同一であるとか異なっているということすらもない。同一であるということも迷いの世界の妄想であり、言語文字の上での分別である。異なっているというのも同じく迷いの妄想、言語や文字の上で分別である。そうではあるが、仮にこれを平等と名づけた上で、その平等とはどういうことかを説くだけである。

 この法界の本性が本来平等である中に、これまでに造ってきた自分の心の価値を基準とした自分(我)を立てる。すると、それに対応する他ができる。そこに自と他ができて、二つに分かれるのでこの世界に差別が起こる。

 人間は万物の霊であり、尊ぶべきものであるから、これを殺せば重罪となる。もし、戒律を受けようとする者がこの重罪を犯せば、沙彌(二十歳未満の出家の男子)戒や比丘((男子の出家者)戒を受けることができず、世間の福徳の本となるに値しない。

 畜生等は劣っているものであるから、これを殺す者は軽罪(きょうざい)となる。

 また、罪は懺悔すべきである。懺悔すれば本来の清浄の心にもどる。懺悔した人がその後に志を起こせば沙彌戒や比丘戒を受けることができる。宿福がある人ならば禅定の知恵を得て、世間の福徳の本となることも出来る。戒を受けていない人は、善悪の行いで差別されることなく受戒できるが、戒を受けることができないのは五逆罪(ごぎゃくざい‐父を殺す・母を殺す・聖者を殺す・仏の体を傷つけて出血させる・教団の和合を壊す)を犯した人だけである。軽殺生(きょうせっしょう)を犯した人については論ずることはない。

 他の偸盗・邪淫・妄語の戒についても、その罪の軽重と影響の違いを同様に知るがよい。ここまでは戒を犯す様子を説いたのであるが、次に戒を保っている姿(持相)を憶念せよ。



次回は、持相(じそう)について記します。


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2012年11月18日

不殺生戒本論 殺生の軽重

今回からしばらくの間、不殺生戒本論 について記します。
最初は「殺生の軽重」についてです。

 十善戒のあらましは今述べた通りに信解し憶念(日々念頭に置いて忘れず工夫する)するがよい。今日は先ず不殺生戒を説こう。「殺」というのは、何らかの方法を企てて他の生き物の命を奪うことである。天命によって定められた一定の期間続くべき命を断ってしまうという意味である。「生」とは、感情や意識の心がある生き物のすべてを名づけていう。

 この中で、人の命を断つことを大殺生(だいせっしょう)といい、動物の命を断つことを小殺生(しょうせっしょう)という。大殺生の中には、更に罪の軽いものと重いものとが分かれており、君主や父、聖者、菩提心を起こした人を殺すのが大殺生の中の重罪である。普通一般の人を殺害するのは大殺生の中の軽罪である。小殺生の中にも軽重が分かれていて、能変形(のうへんぎょう)の者を殺すのは小殺生の中の重罪である。不能変形(ふのうへんぎょう)の者を殺すのは小殺生の中の軽罪である。

 能変形というのは、例えば龍などが変化(へんげ)して、人の姿となって現れている者をいうのである。これは他の動物とは違うのである。不能変形(ふのうへんぎょう)というのは極めて低い地位の動物の類である。

 殺生の行為を完全に行ってしまったならば、これを根本罪(こんぽんざい)という。それに対して、初めに殺生の心が起こっても、行動や言語、または心を動かして相手を悩ませる程度までであったならば、これを方便罪(ほうべんざい)または助罪(じょざい)という。



次回は、犯相(ぼんそう)について記します。


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2012年11月17日

十善戒総論 十悪の果報

今回は、十善戒総論の最後として十悪の果報について記します。


  上品(最上)の十悪は地獄界の極めて激しい苦をつくりあげる。

  中品(普通)の十悪の畜生界の噛み合い傷つけ合う苦をつくりあげる。

  下品(下位)の十悪は餓鬼界の飢えと渇きの苦をつくりあげる。

 このような真実を見通す知恵の目のない者は、ここに語られている仏の言葉を信じよ。

 この上・中・下品ということは、自分の心に上中下があるということなのである。悪心の甚だしくつよいのと、一日中悪心があるなどは上品である。悪心のまだはっきりと定まらない場合や、事柄に出くわした時に行為を止めることができないのは中下品である。

 何を対象に悪を犯すかにも上中下がある。殺生戒でいうならば、人を殺すのを上、蛇なでを殺すのを中、小さな蚊やブヨなどを殺すのが下である。

 人を殺す中でも、父母などの恩のある人を殺すことを逆罪と名づける。これは究極の重罪である。その他の恩ある人を殺すことも上の上品とする。一般の人を殺すことを上の中品をする。悪人を殺すことを下品とする。このような例から考えて、すべての戒には、戒を犯す有様に上中下品があることを知るがよい。

 また、善の心で善人を殺すこと、悪の心で善人を殺すこと、善の心で悪人を殺すこと、悪の心で悪人を殺すことなど、その罪の軽重の違いは経典や戒律を集めた書物や、仏の教義を解説した書物で詳しく検討されている。


これで十善戒総論が終わります。


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2012年11月16日

十善戒総論 餓鬼と畜生界

今回は、餓鬼と畜生界について記します。


 また餓鬼という者も、人間の目には見えないけれども、山や川の間に存在するまたその他、特別に餓鬼の世界というものがある。梵語ではこれを閉戻多(へいれいた)と言う。中国の書物では鬼神と言ってある。その中の極めて力の弱い霊魂は、人間の与える供物を食べることができない。

 畜生とは現に見ている鳥や獣、魚、甲殻の類である。その中でも業の軽重があって、この人間界に居る畜生は苦と楽を同時に経験しながら生きている。これとは別に鉄圍山(てつちせん 仏教の世界説の中の鉄でできた山)の暗黒の場所に畜生界があって、そこではもっぱら苦を受けるばかりである。


次回は、「十悪の果報」について記します。 



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2012年11月14日

十善戒総論 法性の平等性と因果の理

今回は、長くなりますが、法性の平等性と因果の理について記します。


 心がなければ起こらないが、少しでも心があるならば、残忍な思いは強くはならないはずである。
もし、残忍の心はよくないことだと分かれば、生きとし生ける者に慈愛の心が起るはずである。この慈愛の心が増していけば必ず仏法への信が生じる。この信心が増せば、必ずこの世界の根本の性質が平等であることが知れる。平等が本性であることを知れば、業(行為)より果が生じることを知る。この業果が事実であることを知れば、業によって現れ出るものが増していくことを知る。

 これを経の中にその喩として、「尼拘律樹(にくりつじゅ)の種は芥子粒の三分の一くらいであるけれども、それが大きな木に成長すれば、商人が五百人乗れる車を覆い隠してもまだ余裕がある」とある。

 現に見てみるがよい。この世の護国や花の実など、その種は小さいけれども、実と成った時には、人々がこれによって命を保つほどである。この業の様子も、初めは微かなものであるが、後に果となってしまうと永遠にそれに縛られることになる。

 人間も受胎した初めは父母の肉血の一部として極めて小さいものであるが、出産の時には六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が具わっている。また、出産の時には小さい赤子であるけれども、成長して聖者・賢人となって世の中を救い、人々を助ける。または、悪人となって人の道を破り家を乱す。このようなことから考えてみても、業の種が果となっていくことは、信じようとすれば信じられるものである。

 孔子が「始めて俑(よう、殉死者の代わりに埋めた人形)を作る者の子孫はたえたであろう」といったと『孟子』に書いてある。俑(よう)を作り出した者さえ子孫がないとあることでも考えてみよ。罪のない人を殺害すれば必ずやその報があって、それを免れることは出来ない。もともと道理に背くのは自己の本性に背くのである。この道理を広く世界全体にわたって考えてみれば、ほぼ理解できることだ。この地獄のことを詳しく知ろうと思うならば『正法念処経』・『瑜伽論』などを見るがよい。


次回は、「餓鬼と畜生界」について記します。




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2012年11月11日

十善戒総論 殺生業道の蹤跡(しょうせき)

今回は、殺生業道の蹤跡(しょうせき)について記します。

 真実の世界というのは、すべてが平等の世界であるけれども、そこにこの不思議な縁起の道理がある。

 此れがあれば彼がある。ここで行ったことは向こう側で応じる。鐘を打てば音が出るように、また陰と陽とが関係して雷が発生するように、臨終の苦しみと命が同時に消滅するとこの業の種ができる。
殺害された人の恨みや怒りの心は痛みとともに消滅するが、この業の種は、輪廻を繰り返す毎に心身と一緒に増していく。この殺害という一瞬に、長い苦悩の時間を造ってしまうのだ。
夢のような迷った心でさまざまな苦しみの世界を見ていくことになる。このような迷いの世界に堕ちて行く業の種があるという道理を推察して知るがよい。

 この苦しみの状態には、水や火に苦しめられるということがある。また、中でも道理に背いた殺害や、尊い人や恩のある人への殺害は、特別の苦しみを受けるのが道理である。



次回は、「法性の平等性と因果の理」について記します。


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2012年11月05日

十善戒総論 死苦の業

今回は、死苦の業について記します。


 死は苦の極みである。腹痛の病でさえ、その痛みで全身が発熱する。死ぬ時には全身の関節と血管に極大の苦が生じる。老衰して長患いの人も、介抱されて死ぬ人も、この死の苦から免れることはできない。まして心身ともに健康な人が殺害されるということになれば、その苦痛たるや更に大きいものであろう。世間には様々な種類の生物がいるが、死を恐れて生を楽しむのはみな同じである。

 人は万物の中で最もすぐれた心をもつものである。人は本来天地と一体のものであり、人が天地のはたらきを助けて、その道を実現するのである。

 もし、残酷で無情の心が強く、罪のない人をわざと殺害し、極めて強い苦悩と怨みの念いを起させるならば、この時にその業の種が出来て、その後の別の時間、別の日に自分の身にその業の種が集まってくる。このようなことが無いとは言えないのである。



 次回は、「殺生業道の蹤跡(しょうせき)」について記します。



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2012年11月04日

十善戒総論 現代の因果撥無(いんがはつむ)の間違い

今回は、現代の因果撥無(いんがはつむ)の間違いについて記します。


 『華厳経』に「仏弟子である菩薩はまた次のように念うのである―――十不善業(十善を行わないこと)は地獄・畜生・餓鬼に生まれる原因である」とある。
 
 俗世において、世間の知識ばかりが豊富で利巧なものは、餓鬼の世界などあるはずがなく、おどしで言っているだけだと思っている。
今の時代では仏法を説く僧も、多くは一般の人々の情に流されて説法をするので、この地獄・餓鬼ということがさほど重大ではないことのように聞こえる。
もし縁起の道理が、人の考えでは到らないものであることを固く信ずるならば、こととさらに神通力の眼で見なくとも地獄が存在することは分かるはずである。餓鬼の世界も存在するのである。

 この地獄の縁起は甚だ深い道理であって、自分の心の有りさまそのままが出現したものなのである。本来は清浄であるこの心の中に、なぜ地獄の世界ができあがるのか。初心の者は、先ず、十善の第一番目の殺生の行為について憶念してみよ。


次回は、「死苦の業」について記します。


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2012年11月02日

十善戒総論 十善護持の上中下の果報

今回は、十善護持の上中下の果報について記します。

 また、次の経文に、「十善の行為は人間界・天上界及び有頂天(天界の頂)に生を受ける因である」とある。
 十善を

 上品(じょうぼん−最上) にたもてば天上界に生じたり世界を統一する王の位を得る。

 中品(ちゅうぼん−普通) にたもてば人間界の中でも王の位を得る。

 下品(げぼん−下位)   にたもてば人間界の中でも、すぐれて貴ばれる生まれとなる。

 十善の中の幾つかをたもつ者も人間界に生まれて、それに応じた果報が必ずあるものである。これに反して、十悪の行いを上品になせば地獄界に堕ちる。中品になせば畜生界に堕ちる。下品になせば餓鬼界に堕ちる。



次回は、「現代の因果撥無(いんがはつむ)の間違い






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2012年10月25日

十善戒総論 菩薩の十善業道は利他

今日は、菩薩の十善業道は利他について記します。


 『華厳経』の中に、「仏弟子である菩薩は、十善の行為を常に絶え間なく行っている。そして次のように念うのである−この一切衆生の悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生界)に堕ちている者は十善の行いを成さなかったからである。そこで我は正しい行いをして、それを他の人にも行わせるようにしよう。なぜならば、自分が正しい行いをしていないのに他の人にそれをおこなわせるという道理はまちがいだからである。」とある。これは離垢地(りくじ−煩悩の垢を離れた)菩薩の修行の境地である。

 菩薩は衆生の心を自分の心としている。菩薩は善を行うことを自分の行いとしている。衆生と心を平等にしているので、衆生を同じ姿をとりながら世間に存在する。菩薩にとって、衆生が悪を行ったために悪趣に堕ちていくのを見るのは、例えば、家の規則に背いてさまよっている我が子を見る父母の心と同じであり、また赤子が母の手を離れて水や火の中に堕ちて行くのを見るようなものなのである。この菩薩の行いは必ず善なるものであるから、身に行うことは不殺生・不偸盗・不邪淫である。口に行うことは不妄語・不綺語・不悪口・不両舌である。意に行うことは不貪欲・不瞋恚・不邪見である。このことを菩薩は正しい行いを修行することとしているのである。



次回は、十善護持の上中下の果報について記載します。


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2012年10月23日

十善戒総論 人間に具足の十善

これまで十善戒の平等性について各戒について紹介してきました。
続いて、人間に具足の十善について記します。


 ここに十善を説くといっても、結局それはただ一仏性(人間に本来具わっている仏の本性)のことである。一法性(真実の道理)のことである。この法性に随って心が起こるのを善といい、これに背くのを悪という。悪は必ず法性に背いているものである。

 法性という表現は抽象的な言葉になって難しいかもしれぬ。身近なことで例えてみるならば、悪というのは人間の生まれたままの心に背いているということである。

 よく見てみるがよい、子供でもむごいことはよく知っている。泥棒には腹を立てる。淫事は恥じる。嘘を言うといえば赤面する。面白おかしく言うのは卑しいことだと知っている。荒々しい言葉もよくないことを知っている。人の仲を裂くことは言ってはいけないことも知っている。物を欲しがることも恥じるものだ。善いことは悦び悪いことは恐れる。なぜならば、この十善とは生まれた時からすでに具わっているものだからである。『孟子』にも「すぐれた人は子供のような純粋な真心を失わない」とある。



次回は、「菩薩の十善業道は利他」について記載します。


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2012年10月17日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不邪見戒

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不邪見戒


10.仏の平等の境涯と不邪見戒

 この席の道理と自己とは一つであり迷いがないので、不邪見戒が十分に具わる。邪見である断見(善悪の果報はなく、来世もないという見解)でも常見(世界も我も永遠であると執着する見解)でも、自分という実体(我)があると捉えることから生じてくる。この自己も実体を認めると同時に他ができるので、相対的な立場に堕ちてしまわねばならなくなる。
真実の道理のあるがままであれば、我というものは立てようもなく、有か無かという二つの見解から自然に離れるものである。有か無かのどちらかの偏った立場に立つことがないので、自然に因果応報に堅い信が起こるのである。


ここまでで、 十善戒の平等性について記載してきました。
次回は、人間に具足の十善について記載します。


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2012年10月15日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不瞋恚戒

今回は、十善戒の平等性の9回目として、仏の平等の境涯と不瞋恚戒について記します。


9.仏の平等の境涯と不瞋恚戒

 この世の何事にも楽しみがあるので瞋恚を離れる。およそ瞋恚というものは、心の悩みから起こる。心の悩みは自我への執着から生ずる。その自我への執着は、一念一念と続いて起こっていく心を捉えることから生ずる。

 自我に執着せず、真実の世界のあるがままの通りに行えば、どのような時でもどのような所でも楽しみはあるものである。楽しみがあれば悩みはなく、心の悩みがなければ瞋恚は生じないものである。


次回は、仏の平等の境涯と不邪見戒について記します。


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2012年10月14日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不貪欲戒

今日は、十善戒の平等性の8回目で、仏の平等の境涯と不貪欲戒です。

8.仏の平等の境涯と不貪欲戒

 現世の富や地位は、全て自分の行為の結果の姿ということを知れば、常に不満なく、すでに足りていることを知るものである。この心がそのまま不貪欲戒となる。『論語』にも「富を追求してもよいならば、それを得るために鞭を執る足軽のような役目でも甘んじて勤めよう。しかし、富が求めて得られるものではないならば、自分の心のままに生きたい。」とある。


次回は、仏の平等の境涯と不瞋恚戒について記します。


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2012年10月13日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不両舌戒

今回は、十善戒の平等性の7回目として、仏の平等の境涯と不両舌戒について記します。

7.仏の平等の境涯と不両舌戒

 他の人々が親しみいつくしむことを喜びとするので両舌がない。一切衆生の父という心であるならば、その衆生は兄弟のようなものである。兄弟の仲がよいのを悦ばない親はいない。兄弟が不和であることを憂えぬ親もいない。『論語』にも「世界の人々はみな兄弟である」とある。


次回は、仏の平等の境涯と不貪欲戒について記します。


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2012年10月11日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不悪口戒

今日は、十善戒の平等性の6回目として、仏の平等の境涯と不悪口戒について記します。

6.仏の平等の境涯と不悪口戒

 目に映る物に対して憎悪の心がないので悪口を離れる。一切衆生を我が子とするならは、必ず憎悪の心は自然に離れるにちがいない。たとえ離れなくとも、そのような気持ちは薄くなるはずである。『墨子』にも「私は明徳(天から受けた曇りのない徳)を心に思っている。声を大きくしたり、顔色を変えるようなことはしない」とある。



次回は、仏の平等の境涯と不両舌戒について転載します。


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2012年10月09日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不綺語戒

今日は、十善戒の平等性の5回目として、仏の平等の境涯と不綺語戒について記します。

5.仏の平等の境涯と不綺語戒

 常に真実の道理を楽しみとするので、自然に綺語から離れる。世間の人が楽しみをよこしまに求めて、心が乱れながらもそれを楽しみとするのは、愚かなきわみである。

 本来の自己の心さえ明らかであれば、楽しみは自分の心身に備わっているものであるから、自己の外の楽しみを借りてくるようなことではない。

 国王であれば、その国土や人民のことが自己の楽しみとなる。士農工商であれば、それぞれの仕事が自分の楽しみとなる。出家の僧であれば、禅定・智恵が自分の楽しみとなる。



次回は、仏の平等の境涯と不悪口戒について転載します。


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2012年10月07日

十善戒総論 十善戒の平等性−仏の平等の境涯と不妄語戒

今日は、 「十善戒の平等性」の4回目として、仏の平等の境涯と不妄語戒について記します。

4. 仏の平等の境涯と不妄語戒

 この迷いの世界の様子はそのままで真実の姿なのである。例えば、山は高く海は深い。竹は真っ直ぐに伸び、トゲのある木は曲がっている。天は上にあってこの世界を覆い、地は下にあって世界を載せている。それにもかかわらず、人間は一切を分別して分け隔てをするが、虚空はからりとしてどこにも捉われがない。そこは元来言葉など必要のない世界であるが、もし、そこから言葉を発するとすれば、それは必ず真実の言葉である。

 おおむね妄語というのは下劣なことで、人を欺く前にすでに自分を欺いているものである。それは天地に背くことであり、天地の神にも背くことである。わずかに一人二人を欺くのに天地の神の守りをも失うのである。


次回は、仏の平等の境涯と不綺語戒を転載します。


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