Common Sense

常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう

2004年11月

胃縮小

 授業後、一年のとき語学で一緒だったやつと、七福神というラーメン屋につけめんを食いに行った。
 スープには唐辛子が少し入っていて魚介類系。コクがある。が、麺の量が半端なく多い。普通盛りで麺300グラム。死ぬ。こんなにラーメンを食べたのは初めてだ。あと大学生になってから量食べてなかったんだなあ、と感心する。高校のときはこれ位は食べてただろうに。もっと食べよう。
 
 久しぶりに食べすぎで腹を壊したので今日はこれくらいで。

キレる子供

 自分のことを省みてみよう週間もそろそろ終わらせようと思う。毎日書くのは辛い。まあ、でも20歳になるまで続けてみます。
 
 現在、キレやすい子供が増えている。親や先生の役割の希薄化、家族関係の複雑化、原因は無数に存在するけれども、親の手に負えないような凶暴化する子供がいる一方、親の枠にはめられた子供も増えているのだろう。お受験などが増えているのもその一因である。   
 子供の思考や行動は、直接的、婉曲的に拒否,否定され続けるうち、潜在意識下に発生する、周囲に反発したい、という衝動が起こる。そして他人からの注意、命令などが、それがどんなに些細なものであっても、反発行動の引き金となってしまうのだ。しかし、潜在的な衝動のため、反発行動をとってしまった本人さえ、なぜ自分が短絡的な行動を起こしたのか理解していない。

 私は生涯一度だけキレたことがある。小学5年生の、覚えている限りでは半袖だったので夏だったのだろう。
 そう確か一学期の夏だった。休み時間に漢字練習帳をやっていたのを覚えている。その頃は色々といじめられていた時期だった。
 漢字練習帳はすでに3学期くらいまで進んでいた。他にも計算ドリルとか終わらせていっていた。いつも通り、それを指摘され、からかわれていたように思う。そういうことが毎日蓄積され続けていった。
 ある時の休み時間、確かその時は次が移動する授業だった。音楽か、理科か、図工か、全く覚えていない。とにかく、教室の生徒たちは各々に筆箱やノートを持って教室を出て行った。
 教室は数人となった。いじめていたやつと、それにいつも便乗していたやつも残っていた。そいつが何か言った。この何を言ったかも覚えていない。その時、一気に血液は逆流したように、すべてが頭の方に上昇していくように感じ、体が椅子から跳ね上がった。
 殴り合いというよりか、こちらが一方的に殴っていた。相手は普通にびっくりしていた。いつもいじめている標的が初めて手を出したのだから。しかも全力で。生徒はほとんど出払っていたので、特別大きく問題になることもなく、すぐに忘れ去られていった。
 そのことがあって以来、比較的何もされなくなってきた。いじめてたやつとは仲直りしたわけではなかったが、特別無視する関係でもなく、今考えると奇妙なのだが、六年生のときには一回一緒に遊んだのも覚えている。
 一年前は毎日が苦しくて、心の中でそいつのことを死ねとずっと思っていたのに、そいつとファミコンをしたなんて可笑しいものだ。5年生の時のしこりをリセットできたのは、六年生の時の先生が割りと良い先生だったこともある。

 そういえば5年生のときは、学級崩壊というか先生がひどかった。新任の40前後の男だったが、意味不明な言動と行動をする、幼稚な先生だった。女子を味方につけようとして同じ部屋(たしか音楽室だった)に全員集め、男子を遠ざけてみたり、生徒の行動を見てはいつも持ってるノートに何かメモを取っていた。女子を含めみんなが嫌っていた。その先生は数年後、ガンで死亡した、とたまたま噂に聞いた。この事実を知っているあの時の5年生のクラスの人間がどれくらいいるのだろう。
 話がそれてしまったが、キレる、という感覚は、後にも先にもそれ一回だけだった。しかし、今でもあの感覚は覚えている。何もコントロールできない、何も見えない、ただ目の前の敵をつぶすだけ、冗談抜きで恐ろしい。そのような感覚を容易く覚えてしまう昨今の子供達の状況は、非常に危険である。

セールスマンになれ

 電車の中で考え事してたら寝てしまって、乗り越してしまった。最近考えることが無限にありすぎる。

 人は誰かと話すとき、何を話題にするのか。友人の話、サークルの話、恋愛話、本や映画や漫画や音楽の話、芸能人の話、時事的な話、将来の話、バイトの話、人は色んな話をする。どういう話が面白いのか、もうわからなくなってきている。話すこと自体怖がっている節がある。何が面白いかわかって話している人は多いわけではないだろうが、こういう話は面白くないな、こんな話は面白いなという認識は、もちろんその人によって変化するだろうが、本質的な部分は共通に、暗黙に存在しているはずだ。
 自分が小学生の頃はNHKしか見させてもらえなかったので、当時流行っていたアニメ番組とかはイマイチわからない。その話題が上っている時、少しの疑問ならば聞けばいいのだが、わからない情報量があまりにも多すぎると無難な反応で流すしか他ない。
 小学校4年生の時、それが何の授業だったか覚えていないけれども、1番好きなテレビ番組は?という質問があり、その頃日曜日に放送していたクイズ日本人の質問という番組を毎週楽しく見ていたので、それを答えた。一人一人順番に答えていく形式だったか、当てられたのかは定かではない。
 言った途端、雰囲気は周りのクラスと先生から小ばかにされたような感じだった。実際はそんなことは無かったのかもしれないけれども。
 何を言うか、言わないほうがいいのか、それらを考える以前に、言うことに対して多かれ少なかれ圧力を受けてきた気がする。発言することに対してより慎重になり過ぎていったのだ。
 
 社会問題は話としては取り上げやすい。例えば未成年の処遇方法、少年法の改正に加え、少年たちが万引きしたり、タバコを吸ったり、ひったくりをしたりと、少年犯罪が増えているのは一体何故か。そしてその凶悪化。それらを止めるには私たちはどうすればよいのか。
 確かに、そういう話をすることが面白いこともあるだろう。最近の少年事件に絡めれば話は進む。しかしそればかりというのはやはり否定されるのである。そのような話題しか話せない人はつまらない人間なのだろうか。少なくとも一般的にはつまらないとされている。
 こういうことを聞いたことがある。というか私が言われたのである。セールスマンになれ、と。セールスマンはものを売るとき、自分に興味を引くために相手に合わせた話を常にしなくてはならない。そのためにも、どんなことであろうとも引き出しに入れていく。面白い面白くない、必要不必要、信念やポリシーなど、そんなものに囚われることは論外であって、あらゆる分野において、相手に合わせられる能力が必要に迫られているのだ。
 私は否応無しにセールスマンにならなければならないのだろう。そうしなければこれから先、生きていくことが苦し過ぎる。すべてが一方通行なんて無意味である。しかし、セールスマンになるためには、果たしてどうすればよいのだろうか。
 自分というものをすべて捨て去ること。何一つ残さないこと。それができれば楽になれるかもしれない。きっと楽になれる。

雑記

7894fc64.jpg 割と盛りだくさんな一日だった。朝7時起きから夜10時まで用事が。午前中はバイトの面接。翻訳会社です。絵本とかなら楽しいんだけども、著作権の文章とか法律系の文書とかそんな感じ。それはそれで良し。欧米にいくつもの支社を持つ、意外と大きな会社であることに驚き。まあまあ好感触と言って良いのだろうか。
 昼食は去年体育のテニスで同じだった友人と1年ぶりに会ってとる。彼は公認会計士を目指し、週6でスクールに通う勉強家、といってもまじめなわけではなく、至って軽いノリの、言わば異端児だ、と自らの口で言っていた。
3、4限と過ぎ、5限の経営学は最高に面白く、レジュメは素晴らしい。他の教授もこれくらいのレベルになってほしい。
 夜は学習塾。逆にこっちがかなり癒されている。
 で、リポビタンDは毎日欠かせない。中でも特にWINSがローヤルゼリー入りで、値段も手頃でお勧め。ちなみに写真は中国のリポビタンD。
 ジョギング。この頃は結構寒くなってきた。手袋がそろそろ欲しい。
 

 割と元気になりました。心配してくれたみんなに感謝しています。ありがとう。

持って行くもの

 今週日曜はTOEICの試験。受けるのが久々。こういうのは定期的に受けないとなあ、とつくづく思う。
 
 そろそろ引越しの準備を始めないと、という感じです。ようやくこの家から出て行けると思うと、嬉しさのあまり玉川上水にでも飛び込んでしまいそうです。
 引越しにはあまりいい思い出がありません。今まで動いたのは3回くらいですが、何分狭い家のために物理的に量を持っていけないので、小学校の時のモノはすべて捨てられました。プリントも一枚残らず。かろうじて残ってるのは卒業アルバムくらいです。ただ小学校の卒業式自体出てないので、何とも言えない・・・
 子供の頃に遊んだ玩具とかもすべて灰になりました。転勤族とはそんなものです。
 中学校のものはまだましに残ってますが、やっぱりモノとして残されているものは少ないです。学校のものはほとんど無く、書道の作品や作文などの賞状類くらいです。
 高校になってようやく形になっています。写真や手紙といったものはこの頃からようやく出現してます。クラブの試合結果とかそっくりそのまま残ってる。
 一度忘れてしまったものをモノを見て思い出すという行為ができないのは、結構寂しいものです。自分が何をしてきたのか、何を感じてきたのか、記憶しているのは自分の頭、そして心だけです。
 あの頃、本当は持って行きたいものがあったかもしれない。学校が閉まる時間まで、教室や運動場に残ってたり、休み時間にしょーもない遊びをしていたこととか。でも実際は思い出を次へと持って行けなかった。そのまま置いてきてしまったように感じるのです。
 楽しかったこと、辛かったこと、人間は一度に持っていけるものは決まっているけれども、思い出だけは持って行きたい。
 文体がメチャクチャ。今日は19℃。小春日和でした。

初!プレステ2

 木曜日だったか、次の授業まで少し空きができたので部室に行った。そこにはいつものように、机を挟んで正面のテレビと正対する2人がいた。1人はいつも通りのギタリスト(だっけ?)の二年生、そしてもう1人はあまり遭遇率は高くない、理工学部の一年生である。
 2人は熱心にテレビ画面を見つめていた。そして握られているのは紛れも無くコントローラーである。画面下に映っているのはサッカー選手の名前だった。2人はプレステ2を、そしてウイニングイレブンという名(だっけ?)のゲームに興じていたのだ。略してウイイレ。
 そうか!たまに部室ノートに出てきたウイイレという言葉は、部室でいつも誰かがやってるこれのことだったんだ!と一人ではしゃぎつつも、世間知らずを恥じる。というか前に一度知ったのにもうすっかり忘れていた。
 で、2試合くらい二人が戦ったあと、俺も理工の彼と対戦してみた。レアルマドリード対アルゼンチン戦。豪華なメンバーだ。ベッカムがいる。どーでもいいがさっき誤ってベッカムを変換したら別科無となった。
 それにしても進歩している。グラフィックが凄い。一般的な知識や情報と実際自分でやってみて感じるのとは違う。一歩間違えれば仮想現実の世界に入り込んでしまう。ゲームの弊害は中毒性があること、そして何より現実と仮想世界の境界線が曖昧になっていくことである。って、いつもこんな感じに考える癖は良いのか悪いのか。
 兎にも角にも、ギタリストに0-5で負けてた理工の彼に0-4で負けましたとさ。めでたしめでたし。


 簿記の試験が終わりました。受験生全員が一斉に電卓打ってる光景は客観的に見て面白い。隣はパチパチパチとかそんな生易しい音ではなく、ダダダダダダという爆撃音を鳴らしながらアホみたいな速さで打っていた。正直怖すぎる。

集団凝集性における意識(下)

 集団凝集性が高いことによる利点は前回に書いた通り、団結力が生まれることにより目的達成を促進したり、役割分担による効率性の向上が挙げられ、欠点は集団思考現象が生まれることである。その集団が不完全であればあるほど、集団思考に陥りやすい。言わばその集団の弱点を隠すため、例えは悪いが、天敵を威嚇するために魚が群れをなすようなものである。
 
 それでは凝集性の低いことの利点とは何であろうか。これは前述の逆となり、集団思考に囚われないため誤りに気づきさえすれば軌道修正をしやすい、また日々の対立を避けることができる。

 しかし、これは凝集性が低い=社会性に乏しいと置き換えられるのではないか。確かに凝集性が乏しくても社会において生きていくことは可能である。ただそれはとても窮屈な世界であり、またその世界で生きていく人は、小説家や芸術家といった特別な領域に限られるだろう。

 資本主義社会においては特に、社会的共行動を避けることはできない。なぜなら競争を原理としているからだ。また理論としては他者存在がいることにより、緊張や興奮は誰にでも生まれる。それらから生じる優勢反応がどちらに存在するか、つまりその緊張が成功に繋がるか、それとも失敗になるのか。他者の存在がより重視される今日の社会では、前者の反応が大きな能力となりえる。

 集団凝集性の有無に関わらず、人間は集団の中で生活していくほか無い。ということは凝集性を高めなければいけない、という結論に至るが、そんなことはない。私は凝集性は低いとは思うが、生活していくうえで困ることは無い。ただそれは私の凝集性の低いことを私自身が集団思考を行うことにより、そのことを否定しているだけなのかもしれない。それを許容するためにはまだまだ未熟である。


 引越しまだ何も手付かず。時間が無さ過ぎる。

集団凝集性における意識(上)

 人間は集団で生活する生き物である。集団には家族や友人関係など自然発生的に生まれた非公式なもの、会社や組織、学校といった共通な目的の達成を主とした公式的なものがある。ある程度は避けることが可能であっても、必ず何かの集団には属せざるを得ない。私自身も家族、親戚、地域、大学、サークル、バイト、幼稚園から数えれば多数の集団に属して生きてきたのである。

 集団には人々の持続的相互作用により、規範が形成され、地位や役割の分化が見られ、目的達成のための協力関係が存在し、社会的アイデンティティを共有して外部との境界が意識され、集団への魅力や愛情を感じる、という諸特性がある。

 これを私の所属する映画サークルを例にとってわかりやすく言えば、サークルという集団において、メンバー同士話し合いやお酒を飲んで交流を深めることにより、そのサークル独自の規範、撮影機材の使い方のような表面的なものから、暗黙の了解である、あの先輩には触れないほうがいいよ、セクハラするから、などという仲間内でのきまりごとが形成され、またその中で、私は役者、私は監督という役割や、幹事長、会計などの地位が確立される。

 その後、映画を創るという目的達成のためにスタッフで手伝うという関係が生じ、そのサークルでの創作活動という一体感を生じさせ、外部である他の映画サークルとの境界線がサークルの自我を確立させるために引かれ、魅力や愛情を感じるようになり、卒業して呼ばれても無いのに先輩が来たりするようになるのだ。

 果たしてそうか。
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初!簿記

04e8b6e4.JPGデザインを変更してみました。写真は沖縄のパクリ商品アミノエブリ。

 簿記3級を受ける。勉強自体簡単なんだけど張り合いが無い。簿記なんて今時・・・なんて思っていたが、それ程バカにするほどのものでもなかった。知識としては知っておいて損は無い。まあ会計学の基本なので。日曜日朝7時に起きられるかどうかだけが心配。

引越し

上石神井に引っ越します。かみしゃくじいなんて読めない。最初は。

■上石神井(かみしゃくじい)

 上、下石神井村はもとはひとつであった。『小田原衆所領役帳』に「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北條氏綱の娘、当時江戸随一の在地土豪であった。永禄6年(1563年)、北條氏康に反抗したが安房に敗走した。『新編武蔵風土記稿』には、その時この辺は闘いの衢(ちまた)となり、田畑、屋敷は荒廃した。のち、徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などという人たちが開墾した、とある。
 明治22年、町村制施行で石神井村大字上石神井となり、昭和7年、板橋区成立のとき上石神井1、2丁目となった。2丁目は石神井川の北、今の石神井台である。1丁目は昔のままの上石神井の地名で、昭和60年6月1日に住居表示が実施され、1〜4丁目の新しい街区ができた。
 石神井川を北にのぞむ早稲田高等学院(上石神井3−31)は、文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻めたとき布陣した愛宕(あたご)山である。愛宕橋の愛宕はその名残りである。
 智福寺(同4−9)は昭和40年、港区芝田町から現在地に移った。境内に江戸時代から有名な塩を上げて願いごとをかなえてもらう「塩上地蔵」がまつられている。
(The official web site Nerima Cityより引用。)

さらば三鷹。ジブリ美術館、トトロとのお別れ。
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