January 07, 2010
栄養教諭制度を実現させた政治的運動について。 (2)学校栄養職員制度の確立
日本栄養士連盟の自民党から民主党支持への鞍替え記念。
「ちょww。 『天地人』とか本気で見てたの(笑? 義とか(爆。 人生、勝ち馬に乗らなきゃ意味ないのよ。 バイバイ自民ww。」って言ってたオバサンを理解するための自習です。
前回に引き続き、平成17年に始まった「栄養教諭制度」の実現に至るまでに50年もの歴史の中で「政治的運動」がいかに必要であったのか、について。
えーと、ここで出てくる団体は「日本栄養士連盟」じゃなくて「全国学校栄養士協議会」です。
昭和36年の設立以降、その大事業であった「栄養教諭教諭制度」を10年以上もかけて大物国会議員に対するの選挙協力を実施、国会議員との係わりを深めていき、その成果が少しずつ現れていきます。。
たとえば、昭和45年学校給食主事制度に関する陳情を行っています。
栄養士は「調理師免許」がないので、学校給食主事に不適当である、という当時の考え方に対して、栄養士は食事の調整にあたって調理師の業務を包括的に指導し得ることを前提としているもので、栄養士免許取得者は調理師の資格を要求される理由には当らない、という主張を展開したのです。
学校給食主事の資格には調理師の資格要件は必要なく、管理栄養士、または栄養士の資格のみを要件とするという提案を行いました。 果たして、その提案どおり「調理師の資格要件」は取り下げられたのでした。
運動が成果を上げ、そしていよいよ昭和48年に栄養教諭制度を実現するための足がかりができたのであります。
ところが。
当時の文部科学省の給食担当者は次のように指導したのでした。
「単独校だけなら栄養教諭が実現しやすい。センターの栄養士の了解を得られるか協議会で相談してほしい。 センター・市町村教育委員会の栄養士の待遇改善は栄養教諭との格差是正運動として行うということでよいではないか。 高い地位へ少しでも近づける途を閉ざしてはいけない。」
確かに。 単独校の栄養士であれば、すぐそばに児童生徒がいます。 授業を行う教室もあります。 ところがセンターではそれがありません。 センターでも栄養教諭がいてしかるべき、というところまでのストーリーと雰囲気を醸成できていなかったのです。 ここはひとまず妥協してくれないか、と文部科学省が諭したのです。
これを受けて学校栄養士協議会は直ちに臨時支部長会を招集し「単独校だけ栄養教諭を実現する」という案について諮ったのでした。
「全員が栄養教諭にならないのであれば、この案は断る。」
という意見が支部長たちの大勢を占めました。
千篇一隅の好機を蹴る・・・。 田中信先生は、協議会の会長としてこの機会を逃すと栄養教諭が実現するかわからないという思いがありました。
しかし、支部長からは「現場で苦楽を共にしたセンター栄養士を見捨てられない。」「センターが弁当屋になってしまう。」という意見が相次ぎました。
「栄養教諭が実現するまで50年でも100年でも待つ。」
苦渋の決断でした。
議論の結果を聞いた文部省の役人は残念そうに言いました。
「そうですか。 単独校だけでも栄養教諭になれれば、センターも第一ステップになったというのに。」
そして、文部省の担当者はこう言いました。
「それなら自力でおなりなさい。 何年かかるかわかりませんが、国会、文部省はもちろん、学校栄養士自身にも変わらない決意を持ち続けなさい。」
田中信先生は、その言葉どおり実践していきます。 選挙協力、陳情、献金。 悲願達成のためになりふりかまわず邁進していったのです。
しかしながら、田中信先生は、当然現場の栄養士でもありました。 ある日、当時勤務していた小学校の校長から言われます。
「いちいち言わなくていいので、貴方が外に出て全国の子供たちのために働くほうがよいか。 この学校にいて。ここの子供のために働くのがよいか、それを考えて、外出するなら黒板に行き先を書くだけでいいから、出かけてください。」
もちろん、この運動は全国の子供のためにやっているんだという信念がありました。 だからこそ政治に近づいたのです。
さらに校長は言いました。
「協議会の団体だけでは、そんな大きなことは無理じゃないですか? 校長会や教員組合に頼んではどうか。」
このとき田中信先生はこう答えるのです。
「このような大事業は自力でなければできません。 人に頼めばそれだけチカラが弱まります。 まして。 組合は社会党だからダメです。 私たちは政府与党にお願いしているのです。」
やはり、ここでも政府与党・・・。 栄養教諭制度の実現までもう少しというところで後退した昭和48年には、こういうこともありました。
当時の文部省体育局長が田中信先生に声をかけました。
「教職員定数標準法第5ヵ年計画策定にあたり、栄養職員を定数法に入れたいのだが実現が難しい。 どうしますか?」
「どうしますか?」とは「相談すべきヒトに人に相談しときなさいよ。」ということです。
協議会は常任委員会を開催。 ?定数繰り入れ(栄養職員の義務教育の水準を維持向上するため必要な職員として明確に位置付けること)、?適正配置の促進(財政力のばらつきが大きい市町村に職員として配置することにより、配置人員が不均衡にならないよう、全国的に同一水準で配置を進めること)、?待遇改善(給与水準の向上を図ること)という3点を定め、国会と大蔵省へ陳情をおこないました。
その結果、翌年の昭和49年4月10日、第二次田中角栄内閣の文部大臣であった奥野誠亮が、文教委員会で「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案」の提案理由を次のように説明しています。
「学校給食の栄養に関する専門的事項をつかさどり、その適正な配置を推進する必要のある学校栄養職員について、新たにその配置基準を定めるとともに、給与費等を都道府県の負担とし、その二分の一を国庫負担とすることといたしたのであります。」
まさに、協議会による陳情内容に沿うものでした。 そして、昭和49年6月22日に公布された本法には、学校栄養職員の配置数、職務、資格、給与の負担区分が明確に位置づけられたのでした。
こうして栄養職員はこの法律によって、従来のような市町村採用で配置が曖昧だったことに比べれば、画期的な地位を確立されたのです。
このことで協議会の田中信会長は「今回お世話になった諸先生方のご恩は決して忘れず、国会の先生方にはご恩返しについて真剣に行動するよう」全国の支部長に通達しました。
栄養職員制度はこうして確立された経緯があったのです。 学校栄養士協議会はこれまで紹介してきたような政治的な運動を契機に、自民党との結びつきをますます強めていき、さらなる政治的運動を続け、やがて「栄養教諭制度」を実現することになるのです。
昭和36年に「栄養教諭制度の実現」を掲げ全国学校栄養士協議会を立ち上げ、平成17年に実現してやっとの思いで悲願を達成しました。
協議会の幹部が陳情する時には必ず花柄の服を着ていきました。 そこに列席していた学校栄養士議員連盟のセンセイたちは彼女たちを「花柄軍団」と呼んでいました。 そこに動員された栄養士たちは田中信先生を「花柄軍団の総帥」と呼んでいました。 全ては田中信先生による、国会議員たちに印象を残すための「戦術」でした。
栄養教諭制度が実現し、その創設祝賀会が開催されました。 田中信先生はもちろんピンクをベースにした花柄の服で登場します。 そして、冒頭からこの運動を始めた頃からのエピソードを30分。 とにかく話は続きます。
ようやく来賓挨拶、乾杯ができたと思ったら、田中信先生の独演会第2部が始まります。 なにしろ50年の運動です。
参加者はみんな田中信先生の独演会を当然のように温かい目で見守ります。 フィールドは違えど同志であった森喜朗元首相も例外ではありません。
延々と話続ける花柄軍団の総帥。 その半生をかけて、その時ようやく花が咲いたのでした。
学校栄養職員の研修では、娘のような世代の栄養士を前にして、「キチガイといわれそうなくらいやってきた。」と話します。 彼女は相当の戦略家だったのです。
議連の名称は「学校栄養士議連」から「栄養教諭議連」と改称されました。 そして、栄養教諭制度の実現から5年。 政府与党は自民党ではなくなりました。
現在は全国学校栄養士協議会の名誉会長である田中信先生の胸の内にどのような思いが去来するのでしょうか。
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この記事へのコメント
新採用で学校に赴任した瞬間に有無を言わさずに領収書を渡され、会費徴収されました。
正確には「まだ団体についてよくわからないので、加入しなくてもいいですか?」と言ったのですが、「そういう人はいない」と押しきられる形でした。
まあ、入ってないと何の情報もないので、仕方ないのかもしれないけど。
ノブ様は、自分たちを「教員」と言っていました。
「教員」て「教諭」と何か違うのかな?と思って、辞書を引いた覚えがありますが、違いが分からなかったです。
「教員」と「教諭」の違いはググればオケ。





