言論の自由という欺瞞

 「日本には言論の自由がある」。よく聞く言葉だ。政治は思うようにならないが、中国や北朝鮮と比較して、言論環境だけはましだとの意見である。では、誰も彼もがこう口にしながら、なぜ政治に反映されないのか。

 結論から言うと、わが国には言論の自由はないと思っている。民主主義制度下において、言論の自由とは、報道の自由にほかならない。政治が顔の見える範囲、声の聞こえる範囲で行われていたアリストテレスの時代と違い、近代以降は社会事件も政治の動きも、文字通りメディア(媒介)を通じて知るほかないからである。 

 マスメディアは普通選挙とともに民衆支配の両輪をなす。新聞やテレビは情報による支配装置にすぎない。
 「それでも、今はネットも使えるし、街頭演説だってできるじゃないか」

 多くの人がそう反論するだろう。しかし、SNSにどれだけの影響力があるのか。人気ナンバーワンのブログの1日当たりのアクセスはせいぜい10万回程度。政治経済系で支配権力と逆の情報発信をするブログでは、5万回あれば間違いなく最高値である。そう見積もっても、NHKとは1000対1程度の差がある。一方、街頭演説で足を止めてくれる人は何人いるだろうか。

 社会科学者のマックス・ウェーバーによれば、普通選挙法の普及は大衆プロパガンダの必要性から政党における会計や広告についての戦略を強化するので、権力の分散という意味での民主化をもたらすことはなく、むしろ少数者による支配を強めるとされる。大衆は4年に1回小学校の体育館で名前を書く機会があるために、自分たちが政治を決めていると信じ込んでいるのである。

 民主主義のキーワードは欺瞞(ぎまん)である。アリとゾウほど違うものを同一視させて、「自由がある」と錯覚させるところに、民主政治の狡猾(こうかつ)さと恐ろしさがある。

■参考記事
ジャーナリズムの本当の目的
報道の自由に乾杯!

「陰謀」思考は不幸の源か

 一昨年、『新聞に載らなかったトンデモ投稿』(パブラボ)の原稿を売り込んでいたとき、大手出版社の社長から忠告された。

 「国際金融資本とか、フリーメーソンとか、そういう連中がマスコミや世の中を牛耳っているという考えは、捨てた方がいい。そういう考えをしている限り、君は成功しない」

 この言葉は心にずっと引っ掛かっている。同様のことは、国際政治学者の故高坂正堯(こうさか・まさたか)京大教授も言っている。彼は著書の中で、「一部の悪い連中が世界を動かしているという考え方をしては駄目だ」と書いていた。

 『富を「引き寄せる」科学的法則』の著者、ウォレス・ワトルズは、注意を集中したものが実現すると説く。貧困に意識を向ければ貧困が、病気に意識を向ければ病気が実現すると。ならば、社会問題に意識を向ければ、社会問題を実現することになる。他方、世界に富の不足はなく、豊かな思考は豊かさを増やすとも主張する。

 確かに、「陰謀論」者は痩身(そうしん)で貧乏そうな人が多い。無精ひげを生やし、声が小さく、独身の印象。思わずわが身を省みる。成功者の彼らと対照的である。被害者意識が強く、「自分が正しくて周りが悪い」との見地で社会の仕組みを攻撃している。社会矛盾は心のひずみみの投影なのかもしれない。

 しかし、国際金融資本家が世界を差配しているのが事実ならどうなるのか。冒頭の出版社の社長は安倍総理と会食を重ね、テレ朝の番組審議会で『報道ステーション』コメンテーターの恵村順一郎氏を攻撃し、古賀茂明氏とともに更迭している。高坂教授は、国際戦略研究所の客員研究員を務めた。彼らは奉公先をかばっているだけではないのか。

 世界権力の有無は、壮大すぎて確かめようもないが、TPPや戦争のための改憲には反対したい。関心をそらしたところで、これらが頓挫するとは考えにくいから。それとも、こうした負の意識が人生を暗くしているのか。

新聞に載らなかったトンデモ投稿 [ 高橋清隆 ]
新聞に載らなかったトンデモ投稿 [ 高橋清隆 ]

映画の力

 映画や小説は、基本的に作り話である。だからその威力を信じていなかった。もちろん、潜在的刷り込み作用はあるだろうが、疑似環境にだまされまいと、鑑賞を避けてきた。

 先日、新海誠監督『君の名は。』を見て、希望を与えられた。いや、そう思うことにしている。最近知り合ったゲーム制作会社の男性に小説や映画などSF作品を幾つか薦められ、目を通した。同作はその中の一つ。

 恋愛物は男女が簡単に出会うことに説得性の弱さを感じる。現実世界では、周りの男全員に勝たなければ、一番いい女を射止めることはできない定めにある。そればかりか、ほかの女子も口を利いてくれないことが多い。必ずしもけんかを要しないが、クラスや職場で強いとみなされることが重要である。

 それが、運命の糸で結ばれていて、自動的に目の前に現れるのだから、こんなに楽なことはない。思春期に三角関係のトラウマを持つ私は嫉妬を恐れ、人前でついにこにこへらへらする。すると周りに軽んじられ、いまだに結婚できない。物語のおめでたさを感じる。

 私が認める物語作品の利点は、現実が新鮮に映ること。いい話なら、普段の家での食事が、街を歩く行為が、職場で仕事することが、友人と交歓することが、尊く美しいものに見えてくる。自分を銀幕の主人公に重ね、酔いしれる。何となれば、恋愛だってできる気がしてくる。

 新海監督の強みは、絵がきれいなことと、科学的知識に裏付けられたロマンチックでどこか切ない展開である。新宿御苑(ぎょえん)の緑や、代々木駅に止まる総武線の車両、甲州街道の渋滞がこんなに素晴らしいとは、と感嘆する。そうして、あり得ない立場に身を置いて、引き離される関係に泣く。

 私は未来を悲観して、働くことも勉強することも、書くことも、運動することにも意欲をなくしていた。精巧な洗脳を利用して、ときめく世界でまた生きてみよう。

「ながおか映画祭」が始まる 9月17〜19日

 「ながおか映画祭」が新潟県長岡市の長岡リリックホールで9月17日から3日間の日程で開かれる。地元在住の小林茂監督『風の波紋』の完成版は17・18の両日上映され、18日夕方の終了後には、ゲストとの対談が予定されている。

 この映画祭は1992年に始まり、アジア映画を中心に上映してきた。2012年に現在の名称に改め、多文化共生と異文化理解を進めることを目的に毎年開催している。21回目を数える今年は、パレスチナから『オマールの壁』や、オーストラリアから『あまくない砂糖の話』、ハンガリーから『サウルの息子』などが参加する。

 日本映画ではほかに、東日本大震災による津波被害を主題にした『波のした、土のうえ』や、メキシコ現代画家の足跡をたどった『フリーダ・カーロの遺品』などが上映される。前者の編集は『風の波紋』と同じ秦岳志氏、後者の監督は同作のパンフレットに絵と文を寄せた小森はるか・瀬尾夏美の両氏が務める。

 最終日の19日には、全国から意欲に満ちた自主上映作品が集結する「第18回長岡インディーズムービーコンペティション」の授賞式と上映が行われる。

 『風の波紋』は3月から全国の劇場で公開されているが、前回映画祭では未完成版での上映だった。小林氏は同作品に込めた思いを4月、『雪国の幻灯会へようこそ——映画「風の波紋」物語』(岩波書店)で発表している。

■参考サイト
「ながおか映画祭」公式ホームページ
■参考記事
アウトサイダーたちの山里暮らし 小林茂監督『風の波紋』

感謝

 NK様、14日にご支援くださり、誠にありがとうございました。
 一時は筆を折ろうと思いましたが、踏みとどまることにします。

スポーツに根性は禁物?

 私は九年前、ハーフマラソンの大会で半月板を損傷した。普段走り込んでなかったのに、本番で根性を出したからである。病院で診てもらった結果、三十分のリハビリをしなければ走れなくなった。

 十五キロを過ぎたあたりで、右膝に熱い痛みを覚えた。靱帯(じんたい)が炎症を起こしたのかと思ったが、走ることはできる。あと二十分強苦しむくらい、何ともない。学生のころは水も飲まずにウサギ跳びをした世代だ。スポーツが評価するのは技術でなく、不屈の精神力を備えているかどうかである——ずっとそう信じていた。

 しかし、この一件で、反省を促された。格好をつけた代償は大きい。プロ選手は今日は駄目だと思うと、途中であっさり棄権する。このような光景を目にすると「根性なし」と思っていたが、長期的な視点に立った戦略として、実に合理的なことに気付く。スポーツに根性は禁物である。

 しかし、私の好きなスポーツ選手は、いずれも非合理な戦い方をする人ばかりだ。私の場合、サッカーの岡野雅行やボクシングの辰吉丈一郎に憧れた。岡野は絶対に無理なボールを全力で追った。その動きが相手キーパーの動揺を誘い、味方に好機をもたらすこともあった。

 辰吉はいつも打ち合いの死闘を演じた。普通、パーリングでかわすところを、一番難しいスエーバックやウイービングでよける。ガードを上げて距離を保てばあんなに苦しまなくてもいいものを。相手の懐に飛び込んで曙や小錦を投げた小兵の舞の海や、得点にならないイナバウアーを大舞台で繰り出した荒川静香だって、私を感動させた。

 勝利は合理的なプレーにもたらされるもの。しかし、常軌を逸した振る舞いをする彼らを、好きにならずにいられない。練習嫌いのくせに、強心臓に憧れる私が体を壊すのは、時間の問題だったようだ。

落ち着きのない人

 子供の頃、私は「落ち着きのない人」と評されていた。授業中にドッジボールを投げて窓ガラスを割り、突然嬌声(きょうせい)を上げたり、先生が話す途中に「うるせえ、ばーか」などとやじを向けた。

 小学三年生から中三の一学期の終わりまで、ほぼ全ての期間、先生の隣の特別席か、廊下に立たされていた。退屈になって校舎の外に出たり、一度は消化器を校内に噴射したこともある。通信簿の備考欄に「情緒不安定で、時折授業を妨害する」と書かれた。そんな私は、今となっては至っておとなしい。

 先日、図書館で度を越した落ち着きのない人を見た。制服を着た男子生徒で、長いすに寝そべり返っている。と、突然起き上がって教科書を開く。勉強し始めたかと思うと、スマホを取り出し、貧乏揺すりを始める。耳にイヤホンを挿し、「ラハハー」などと口ずさむ。今度はかばんを床に投げつけ、また横になる。これでは何も身にならないのではないか。

 彼は区内屈指の落ち着かない男かもしれない。世界一落ち着きのない人とは、どんなレベルだろうかと想像する。座禅を組んでいたかと思うと、突然拳銃を発砲したり、聖書を読んでいたかと思うと、いきなりインターナショナルを歌いながら火炎瓶を投げつけるといった具合か。

 大衆単位では、確実に落ち着きのない時代になったと感じる。コーヒーショップに行くと大勢の学生・生徒が勉強しているが、過半の人がスマホで音楽を聴いている。私など、店のBGMだけで読書に集中できず、同じ行を何度も戻る。仲間といても端末をいじっているし、電車や車の中でも映像を見ている。

 街を歩けば、スマホを手にしたおばさんがぶつかってくるし、耳にイヤホンをした片手運転の自転車をよけなければならない。「ちょっと」と注意しても、別の方を見て気付かない。私の方がよほど落ち着きがある。

ホリエモン考

 敬愛する先輩がブログで堀江貴文氏の講話を紹介していたので見た。某大学の卒業式で祝辞として述べたもので、「未来を恐れず、過去に執着せず、今に生きろ」と説く。その言葉に、私も感化された。



 堀江氏が「今に生きろ」と説くのは、「時代が不確実性を増している」との認識からくる。タイと日本の経済格差が埋まっている事例を挙げ、「世界はどんどんグローバル化している」と強調する。時代状況を所与のものと捉え、全力で生き残る対策を自分に講じなければと訴える。未来を悲観して怠け癖のついた私の耳に痛い主張だ。

 なるほど、経済で世界一、二を争っていたわが国が安い買い物をしに来た外国人の滞留場になることなど、誰が予測できただろうか。しかし、堀江氏の訓示にどうしても引っ掛かるものがある。生き残り策を講じるのは分かるが、なぜ彼は不確実性を後押しするのだろうか。

 日本が貧しくなったことを嘆くくせに、国民金融資産をハゲタカにさらす郵政民営化を推進してきた。経済大国だった時代を「よき時代」と言うなら、なぜ規制緩和や関税撤廃によるグローバル化に味方するのか。それなら、少しでも自由化を遅らせる勢力に荷担すべきではないか。

 彼が矛盾に満ちる理由は察しがつく。子供の頃いじめられるか仲間外れにされたか知らないが、世間一般の人を憎んでいる節がある。いじめられて左翼思想に走ったことのある私の直感である。周りを見返すための武器が、彼の場合、ITなのだ。本心では年金が早く崩壊し、終身雇用はなくなり、英語が標準語になり、貧困化が進んでほしいのではないか。

 盗賊は表玄関から入れないと、内側に裏切り者を見付け、中から開けさせる。そのとき利用するのが怨念である。不安な時代を生き抜くには強い自立性が求められるが、自立には恨みから自由になることも含まれる。
高橋清隆の新著!
高橋清隆の前作
『偽装報道を見抜け!―世論を誘導するマスメディアの本質』
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        高橋清隆

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