日本未来の党の亀井静香元郵政改革・金融相の古里、広島県庄原市を今年2月、筆者が訪ねた。6月下旬上梓の『亀井静香——最後の戦いだ。』(K&Kプレス)に紙幅の制約で収録できなかった現地ルポの原稿を全10回の予定で掲載する。年末の大掃除で書類を処分するためである。

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亀井静香氏の生家。現在は空き家で、地区の人が管理する(2012.2.26高橋清隆撮影)

雪の山道を7キロ歩き通学

 国民との約束を守り、国民新党を追い出された亀井静香元代表。くしくも政界の異端児となった亀井氏は、どんな子供だったのだろう。地元民の声を通し、知られざる素顔を追った。

 亀井氏は父、素一(そいち)と母、静枝の下、4人兄弟の末っ子として1936(昭和11)年に生まれた。長姉は広島で被爆し「白血球 測る晩夏の 渇きかな」を詠んだ歌人の出井知恵子(いずいちえこ)氏、もう1人の姉、勢津子(せつこ)氏は後に地元後援会事務所に勤務する。兄は元衆議院議員の郁夫氏である。

 素一氏は旧制中学を出て旧山内北村(やまのうちきたそん)の助役を長らく務めたが、敗戦の責任を取って辞めた。その後は開拓団を支援し、集落の建設に尽くした。亀井氏の小学校の同級生で元庄原市職員として素一氏の下で働いたSさんは、「お父さんは笑顔を絶やさないネアカな人。聡明で倹約家でした。お母さんは子供思いの優しい方」と振り返る。

 亀井家の祖先は戦国大名である尼子氏の筆頭家老、亀井吉助。尼子氏が敗れると「二君に仕えず」と日本海側から山を越えて今の広島県内に移り、神官になって帰農した。幕末は剣道に凝って武道場を造り、全国から浪人や武者修行者を集めた。「それで田畑全部無くなっちゃって、明治以降は田んぼ4反3畝」(1997年12月、朝日新聞インタビュー)の貧乏農家になった。

 静香氏の母は4人の子供を養うため、夜なべして働いた。俵を編んだり、山に薪を集めに行ったり。やがて広島市内に兄弟姉妹四人が進学し、一緒に暮らすことになるが、仕送りの負担はかさむ。「親が寝ている姿を見たことがない」と亀井氏は語る。

 亀井氏の生家は、須川(すがわ)集落の山すそに残る。赤い屋根瓦がふいてあり、みすぼらしくはない。数年前に増築したそうだ。現在は地区の人が管理しており、庭の松がきれいに手入れされていた。数年前までダム建設の話があり、予定地にかかっていた。いびつに広くなった道幅が、計画に翻弄(ほんろう)される寒村の苦境を物語る。

 山あいの小さな集落に生を受けた亀井氏はどんな子供だったのか。川北(かわきた)尋常小学校に入った静香少年は「シーちゃん」と呼ばれた。その性格は「がんぼ」という地元の言葉に集約される。庄原弁で頑固者、乱暴者といった意味が込められている。

 学校まで6、7キロの山道を歩いた。比和川の谷筋から川北川の谷筋へ山を一つ越える道程で、現在は廃道になっている。片道約一時間半、雪があれば4、5時間かかる。上級生から並んで、新雪かき分けて進む。帰りは暗くなる寸前にうすら寂しい道をたどった。

 「シーちゃんは6年生になると、先頭に立って友達や下級生を大事にしました。仲間を守ろうとする気持ちが強く、皆から慕われ、頼りにされた」とSさんは当時の印象を話す。