旧長岡藩筆頭家老河井継之助を描いた映画『峠 最後のサムライ』を6月18日、東京・有楽町の丸の内ピカデリーで見た。公開翌日の土曜日で、上映後には継之助を演じる役所広司と妻おすがを演じる松たか子ら日本を代表する6人の俳優と小泉堯史監督の舞台あいさつがあった。私にとっては因縁の映画で、この日を待ちわびてきた。コロナ騒動を受け、2年も延期された末の公開である。

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佐幕派の武士を描く意味

 映画の内容は総じて暗い。忠誠を誓っていた幕府にはしごを外され、大国イギリスを後ろ盾にした薩長土佐のゴロツキどもが礼節も哲学もなく物量に飽かせて佐幕側の領土を踏み付けていく。後に小千谷会談と呼ばれる官軍側との調停機会を慈眼寺でセットしたのは、売買が滞ったり店がつぶされるのを懸念した商人たちだった。

 長岡藩の中にも、継之助の和平路線に不満な人たちがいる。同作品に副題を付けるなら、「踏んだり蹴ったり長岡藩」といったところか。彦根藩や新発田藩は官軍に寝返り、米沢藩もそうなりつつある。寂しくつらく悲しい顛末(てんまつ)に、継之助の胸中はいかばかりかと思わずにいられない。

 人口に膾炙(かいしゃ)する幕末物の映画や小説に佐幕派を描いたものは少ない。NHKの大河ドラマで新撰組(しんせんぐみ)を書いた作家、三谷幸喜は「幕末の英雄を描いた作品は、主人公が出尽くしている感がある。まだ出ていない主人公はいないか調べた末に出てきたのが新撰組。しかし、採用してもらうまでの交渉が大変だった」と吐露している。今回メガホンを取った小泉氏は、「『峠』の映画化を思い付いてから映画会社に企画を持ち込むが、何度もはねられた」と完成記者会見で披歴している。

 今作品は小泉氏にとって侍を主題にした映画の集大成とも言える。『雨あがる』(2000年)、『明日への遺言』(08年)、『蜩(ひぐらし)ノ記』(14年)に続くもの。美意識を持って生きる武士の生き様を描きたいとの意欲がうかがえる。映画の題材を選ぶ基準について小泉氏は、「その物語の登場人物に会ってみたいかどうか」と明かす。

 原作者の司馬遼太郎は『峠』の後書きで、「私はこの『峠』において、侍とは何かということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた」とつづる。長岡市内を流れる信濃川の妙見堰(みょうけんぜき)近くにある司馬の碑の裏には、「武士の世の終焉(しゅうえん)にあたって、長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はない」とたたえている。

 長岡を舞台にした「北越戦争」は戊辰戦争の一部であり、官軍側兵力5万人に対し長岡藩側690人という初めから無茶な戦いだった。それを知りながら忠君と義理人情という価値を後生に残すため、河井総督率いる長岡武士たちは文字通り命を賭して戦った。ミニエー銃やガトリング砲に象徴される近代兵器と、高度な戦術を駆使して。


筆者にとっての継之助

 私にとって因縁の映画と言ったのは、私の4代前と5代前がこの690人に含まれるからである。長岡藩の下級武士であり、継之助の部下だった。5代前は「北越戦争」で戦死。4代前の長兄は行方不明。私の家は次男の系統で、当の次男も足に銃弾を受け20キロほど離れた旧吉田町の瀬戸物屋の娘の家に命からがら転がり込み、かくまってもらった。残党狩りを恐れ、名前を瀬戸物屋の苗字、高橋に変えて身元を隠し続けた。

 このことは、口頭とさび付いた刀一本のみで伝えられた。私が聞いたのも、つい14年前のこと。自分探しが流行っていたころである。当時、新潟の父と東京にいる叔父が2人で長岡市の古文書館で史実を調べた。すると、幕末の長岡藩の禄高表に、伝え聞いた4代前と5代前の名前がはっきりと記されていたのである。われわれは誇っていいんだということになった。ただし、唯一の物証である刀は私が家出していた10年ほど前、先人たちの思いを解しない母が「物騒だから」と処分してしまった。

 今になって思えば、祖父がなぜ寝室に兜(かぶと)のレプリカを飾っていたのか、なぜ激戦地の名を冠した「朝日山」を愛飲していたのかが分かる気がする。ついでに言えば、私がなぜイワナ釣りや山歩きを好み、継之助が最期を遂げる八十里越の辺りをふらふらするのが生きがいになったのか、知れば知るほど偶然とは思えなくなる。

 私は原作小説『峠』を読んでいない。生来の読書嫌いに加え、国際政治評論家の副島隆彦が『属国日本史 幕末編』で「司馬遼太郎はCIAの工作員、マリウス・ジャンセンからプロットをもらって作品を書いた」と暴露しているのを知っていたからである。ただし、『峠』は『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』などと違い、司馬の個人的な価値関心から出て来た作品の可能性も排除できない。前述の通り「賊軍」を主人公にしているのだから。ただし、今の私には、すでに思いが強くなりすぎて読むことができない。


賃金奴隷たちが演出するコロナ脅威


 残念なのは、継之助を取り巻くコロナ対応だ。予備校講師の林修が今回の作品を講義形式で紹介しているが、次の発言が含まれる。「今、われわれが苦しんでいるコロナの状況というのは、われわれの力ではどうにもならないことがたくさんあります」と前置きし、「それでも当時と比べれば情報も選択肢も沢山あるわけだから、『頑張れよ』と励ましてくれていると思うのは私だけではないはず」とゆがめたエールを送っている。テレビでは決してCO2温暖化のうそやコロナ対策の偽善性に言及しない武田邦彦と同様に、電波芸者の本質が表れている。

 昨年、お盆に帰省した際、初めて長岡市内にある河井継之助記念館を訪れた。マスク着用と検温に応じることを求められ、係員と押し問答を余儀なくした。ここは私設機関だから憲法を盾に取って争っても弱い。ロボット仕掛けの彼女たちに科学的根拠がないことをいくら説明しても通じない。警察を呼ばれる気配を察したので、詮無いことだと自分に言い聞かせ、仕方なくマスクを着けた。彼らはふ抜けな政治家と役人の犠牲者であり、メディアに洗脳された大衆の一部にすぎないのだから。「継之助先生がこの対応を見たら、きっと泣いてるよ」と言い添えて。

 舞台あいさつでも、理不尽極まりない光景が展開された。登壇した7人の間には背丈以上の高さのパーティションがそれぞれ設置された。そして、司会者との問答が終わりメディアによる写真撮影の段になると、パーティションがすっかり取り払われたのである。しかも、問答時より密着している。

 子供が100人ほどいたら嘲笑の的になってただろう。しかし、来月の給料をもらうために目の前の小さな理不尽に目をつむることに慣れ果てた大人たちは、誰一人「おかしい」と表明しない。この曲がった態度が、継之助を描いた作品のお披露目で展開されているのである。彼は次の言葉も残している。

 「今、正しいと思ったことをせよ。評価など考えるな」

 継之助は時代を超えて天涯孤独な存在になった。彼はこんな賃金奴隷たちのために命を捧げたのか。


魅力的な人物が秘める哲学

 継之助が世界情勢や幕府の崩壊を予見しながら新政府軍と勝ち目のない戦争をしたのは、陽明学に傾倒したことが大きく影響している。王陽明は「知行合一」を唱えた。不正だと知ったなら必ず正さなければならないし、世の中が不正にまみれているなら、これを正すために敢然と立ち上がらなければならないということである。薩長側の吉田松陰や西郷隆盛などもまた、陽明学を学んだ「知行合一」の体現者だった。

 私は魅力的な人物を取材して記事を書く癖があるが、考えてみれば哲学に裏付けられ立ち上がった者が多い。亀井静香元金融相は、尊敬する人物に大塩平八郎やチェ・ゲバラを挙げていた。大塩はわが国における「知行合一」の最初の実践者ではないか。連立を組む旧民主党が消費税増税に同意するよう求めてきた際、亀井氏はこれを拒否し、亀井亜紀子以外の国民新党所属議員全員に追い出された。離党会見で「自分の心にうそまでついて政治家でいたいとは思わない」と告白している。

 東洋大学のキャンパスに「竹中平蔵教授による授業反対!」の立て看板を出した船橋秀人君はデカルトの実存主義に傾倒していた。「今自分がいる場所で戦わなければ、自分が存在しないのと同じ」という世界観を持っていた。くしくも東洋大学の前身「哲学館」は、米百俵で開設した長岡洋学校(現在の県立長岡高校)で学んだ井上円了が創設した。船橋君は円了に憧れて同大学に入学している。

 コロナウイルス脅威のうそを暴き、遺伝子組み換えワクチンの危険性を告発しているナカムラクリニック(神戸市)院長の中村篤史医師は、大阪大学哲学科に入り、自分が世の為に成し得ることは何かを考え、苦闘した。その結果、医者になることを決意して中退。医学部に入り直した。自らが持つ知見と思想に背くのは、もはや生きていないのと同じであるとの強い覚悟が察しられる。


運命を引き受ける


 先ほど継之助の言葉を紹介したが、同じ趣旨のことをデーヴィッド・アイクが反コロナ集会などで述べている。

 「今、正しいと思ったことをせよ。結果など考えるな」

 ほぼ同じ教訓を説く異人に、翻訳本を出すほどにひかれたのは偶然だろうか。私の山歩き癖と同様に。

 上映会と舞台あいさつが終わり、私はパンフレットを3冊買った。父上と叔父に送る分を含めて。映画のサントラCDも販売されていた。値段の割に使用価値が乏しいだろうと通り過ぎようとしたが、ある考えがふと頭によぎった。

 「俺が買わなかったら誰が買うんだろう」

 自分が聞くために作られた気がいよいよしてきた。交通系で決済して劇場を出ると、やけにビニール袋が重い。中を見ると、誤ってパンフレットが5冊入っていた。私の言い方か女性係員の聞き方が悪かったのだろう。しかし、なぜか返品に戻るという選択をする気が起きなかった。全て運命として引き受けることが最良の策に感じられたからである。

 渡すべきあと2人は必ずひらめくはずだと、根拠のない確信が胸の奥に小さく湧いてきた。


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