2017年11月13日

一歩ん路@弘前市

89fb8abd.jpgラーメン
居酒屋のラーメン。
細いややストレート麺に動物系のパンチの効いたスープ。
ワカメのトッピングでさっぱり感も出ています。
この一杯を四字熟語で例えると、
「一歩拉麺」
1478杯目。

dorahari at 21:55|この記事のURLComments(2)弘前市 

2017年11月11日

Rcamp@弘前市

548b6eee.jpgASARI並
Rcampの貝を使ったあっさり系ラーメン。
アサリのダシ、海のおいしさが出ています。バターが溶けてまろやかに。麺は平打ち太麺。
鶏団子の梅が絶品。いい味を出している。
おいしゅうございます。
うわっうまい(╹◡╹)
この一杯を四字熟語で例えると、
「海沙愛璃」
1477杯目。

ドラ張りグッと!スポット。R camp編。
今回で16杯目。
2009年9月26日  濃厚鶏白湯ラーメン ひらかドーム
2010年11月6日  濃厚鶏白湯煮干しラーメン かだれ横丁
2011年9月17日  濃厚鶏白湯ラーメン
2011年12月20日 濃厚鶏白湯煮干しラーメン
2012年3月30日  濃厚鶏白湯煮干ラーメン
2012年8月26日  とまとナーラ
2013年5月24日  “SAKURA”
2013年8月24日  “SAKURA”
2014年3月23日  “SAKURA”
2015年4月4日    SAKURA
2015年7月12日   SAKURA
2016年8月19日   濃厚鶏白湯煮干ラーメン
2017年2月24日   濃厚鶏白湯煮干ラーメン
2017年6月2日    SAKURA並
2017年10月13日  SAKURA並極細麺
2017年11月11日  ASARI並

ドラトレ。
2017年11月12日、大相撲九州場所初日。
安美錦が39歳0か月で幕内復帰最年長記録となりました。
初日は琴勇輝に真っ向から当たり上手投げで勝利。

ドラトレ2。
2017年11月12日、大相撲九州場所初日。
向正面西側にスナック田じまの田島恵美子さんが観戦してました。
田島さんを見ると、今年も終わりだなぁと感じます。

ドラトレ3。
2017年の新語・流行語大賞の候補がノミネートされたが、稀勢の里横綱昇進や稀勢の里フィーバーがなかった。今年は稀勢の里に熱狂した年だったのだが。
dorahari at 12:24|この記事のURLComments(0)弘前市 

2017年11月06日

三笠食堂@平川市

379b109d.jpg自然薯ラーメン酸辣湯麺
黒酢のラーメン。ラーメンが届いた瞬間から黒酢の香り。麺はおなじみ自然薯が練りこまれた平打ち麺。チャーシューもおなじみ自然薯入りのオリジナルチャーシュー。
玉子も白菜もほうれん草もいただけます。
どうか有名になりすぎないで
ぼくの青森ラーメン。
と三浦春馬さんも言っています。
この一杯を四字熟語で例えると、
「美味黒酢」
うまビアーン。
1476杯目。

ドラ張りグッと!スポット。三笠食堂編。
今回で18杯目。
2005年10月2日  自然薯ラーメン ひらかドーム@平川市
2006年11月19日 自然薯ラーメン 猿賀公園@平川市
2007年6月7日   自然薯ラーメンと自然薯ゆでまたぎ餃子
2008年10月22日 みそラーメン
2009年10月12日 酸辣湯麺
2010年4月20日  もやし広東麺
2011年1月14日  自然薯タンメン
2011年7月28日  自然薯ラーメンざる
2012年4月25日  自然薯ラーメン担々麺
2013年1月11日  自然薯ラーメン味噌
2014年1月19日  自然薯ラーメンしお
2015年2月18日  自然薯ラーメン味噌
2016年2月24日  自然薯ラーメンしょうゆ
2017年3月8日   自然薯ラーメン酸辣湯麺
2017年5月16日  自然薯五目ラーメン
2017年8月12日  餃子入り自然薯またぎラーメン
2017年9月5日   広東麺
2017年11月6日  自然薯ラーメン酸辣湯麺
dorahari at 19:44|この記事のURLComments(2)平川市 

2017年11月03日

函館朝市 味の一番@函館市

5b715ce9.jpg朝市ラーメン
函館の朝市のラーメン。函館に着いた時から、グレイのハウエバーを自然に口ずさんでいた。
カニ一匹ごと乗った豪快なラーメン。カニの他にもトウモロコシ、イカ、ホタテ、ワカメ、エビもトッピング。そして隠れて丼にいて静かに主張しているのが、タマネギ。
これらのダシが効いたあっさりしょうゆスープ。
麺は丸く黄色い弾力麺。
なまらうまいじゃけんのう。
この一杯を四字熟語で例えると、
「豪北海道」
1475杯目。

ドラ張りグッと!スポット。函館グルメ編。
2017年11月3日 かね久 山田@函館市で、かけもりセット

ドラトレ。
2017年11月4日、ソフトバンクが3勝、横浜が2勝で迎えた日本シリーズ第6戦は延長11回4対3でソフトバンクが2年ぶり8度目の日本一を決めた。
スコア速報はこちら。
横浜が勝利ならず。第7戦までの夢が消えた。バラエティーを観るより日本シリーズを観たかった。
横浜は記録に残るミス、記録に残らないミスが目立った。こういう試合だと勝利が逃げていく。
横浜2回の攻撃1死1・3塁の場面、バッター嶺井。嶺井が三振、1塁ランナー白崎が盗塁死の三振ゲッツー。犠牲フライでも、ただバットに当てて転がすだけでもよかった。
横浜4回の攻撃1死1・2塁の場面、バッター柴田。初球をあっさりピッチャーゴロ併殺打。送りバントができればよかった。
横浜8回の守り、1死3塁バッター柳田の場面でピッチャー砂田を投入。。砂田は柳田をひっかけされてピッチャーゴロ。ここで砂田は3塁ランナーを気にしながらも1塁でアウトを取る間に3塁ランナーの城所がホームイン3対2となり横浜のリードは1点。
横浜11回の守り、1死1・2塁の場面でバッター松田。ピッチャー三上を投入。松田はひっかけてサードゴロ。サード宮崎が3塁ベースを踏んで2アウト、1塁送球でロペスの足がベースから離れ、タッチも追いつかず2アウト1・2塁となる。
この後に川島のタイムリーでソフトバンクの勝利となる。

ソフトバンクは先発東浜が5回途中で降板。早い交代にも見えたが、東浜は球数も増えいい交代だったと思う。
9回に同点ホームランを打った内川はさすがである。筒香もこういう1発を打ってほしい。
横浜にも収穫があった。この日DHに入った白崎がホームランを含む2安打1打点の活躍。乙坂、細川がいる中でのDH起用に応えた。倉本にポジションを取られたが、力のある大型内野手。今後の活躍に期待。
横浜先発の今永は7回2安打11奪三振1失点の好投。横浜のエースは今永である。
横浜は見応えのある試合をした。セリーグの3位から勝ち上がり強いチームになった。

ドラトレ2。

司法書士に転身した近鉄ドラフト1位の軌跡

清原の「外れ1位」、桧山泰浩の異色キャリア

元永 知宏 : スポーツライター  2017年11月2日 東洋経済オンラインより。

11月1日、2017年度の司法書士試験最終合格発表があった。出願者数1万8831人のうち最終合格者数わずか629人。合格率3.3%の難関資格だ。その狭き門を突破し20年以上司法書士として活躍する元プロ野球選手、桧山泰浩氏に『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』の中で話を聞いた。

一軍登板なしで引退した清原の「外れ1位」

 いまから30年以上前のドラフト会議で、福岡県で有数の進学校である東筑高校のエースが1位指名されたことをどれだけの人が覚えているだろうか。1985年ドラフト会議の目玉はPL学園(大阪)の清原和博。清原と相思相愛と言われた読売ジャイアンツが同じPL学園の桑田真澄を1位指名したことで大きなニュースになった年だ。その年、近鉄バファローズに1位指名されたのが、桧山泰浩だった。

 1985年春に甲子園出場を果たした桧山は、将来を嘱望された大型投手だった。1位指名競合のすえ、清原を獲得できなかった近鉄の「外れ1位」だったことが期待の大きさを表している。しかし、バファローズに6年間在籍しながら、一度も一軍マウンドに上がることなく、ユニフォームを脱いだ。

 福岡市の大濠公園のすぐそばに「桧山泰浩事務所」はある。ドラフト指名から32年、引退してから26年――元プロ野球選手としては意外すぎるセカンドキャリアを歩んでいた。合格率3%ほどと言われる難関の試験を突破し、司法書士として事務所を構えて20年が経つ。

 清原はプロ1年目からレギュラーの座をつかみ、打率3割0分4厘、31本塁打、78打点をマーク。その後、ライオンズの黄金期を支える主砲として不動の地位を獲得していく。一方の桧山はずっと二軍暮らしが続いた。

「私には、ほかの選手のようなガムシャラさがありませんでした。野球に対する情熱が足りなかったのかもしれない。なんとしてでもライバルを蹴落として、一軍にはい上がってやろうという気持ちがなかったですね」と桧山は振り返る。

 ドラフト1位にかかるプレッシャーもまた大きかった。「自分の野球の能力を考えたら、プロでも『やれる』と思いました。すぐには無理でも何年か後には一軍でプレーできると。でも、実際には、投げては打たれ、投げては打たれの繰り返しです。そこで課題を見つけて練習に打ち込めばよかったんでしょうが、野球に対して、努力をすることに対して『なんか、嫌やな』という気持ちになってしまいました」(桧山)。

 高校を卒業した新人がすぐに通用するはずがない。誰もが壁にぶつかったあとにもがき苦しみ、はい上がっていくのだ。ところが、桧山は最後まで浮上のきっかけをつかむことができなかった。

 プロ3年目の1988年に仰木彬が監督に就任。1986年ドラフト1位の阿波野秀幸を中心にリーグ優勝を狙える投手陣が構築されつつあった。桧山は完全に蚊帳の外にいたという。

「いくら頑張っても、人間は180度変われるものじゃない。そう悟っておりました。プロでの4年間が終わって、もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない」

練習後に飲み歩き、遊びほうける日々

 5年目のシーズンも、6年目のシーズンも代わり映えしなかった。何かを変えようという意思もなく、これまでと同じ日々をただ過ごした。「私自身はもうやる気は全然ありません。毎日毎日、遊びほうけ、飲みまわっていました。練習にも身が入りませんでした。ほかの人には迷惑をかけないようにして、『あとは死を待つだけ』でした」(桧山)。

 その後、桧山は韓国プロ野球に移籍したものの、右ひじを故障し、ユニフォームを脱いだ。選手時代に稼いだ年俸は遊興費で消えていた。もう遊んでいる暇はない。しかし、次の仕事が簡単に決まるはずがなかった。

「プロ野球選手は、おカネは稼いでいるけど、社会人ではありません。言ってみれば、子どもの延長みたいなもの。野球をやめて日本に帰ってきても、自分には何もない。すぐに知り合いから電話がかかってきたので、そこで働かせてもらいました。大阪で2年間、衣料品関係の会社に勤めました」と桧山は話す。

 生きがいも楽しさも仕事には求めなかった。社会勉強のつもりで、2年間黙って働いた。そうするうちにやっと「次」を考えられるようになった。

「プロ野球選手の引退後の仕事というと、飲食業が多いけど、自分には合いそうもない。180度違う世界はないかと考えたときに、資格士業が浮かびました。いろいろなものがありますが、飯を食えないと意味がない。『食える資格』というのは、どれも難関です。

 検討してみると、司法書士、弁護士、税理士、公認会計士が残りました。目指すべきは、この4つのうちのどれかだと思ったのですが、私は大学に行ってないんです。司法書士以外は大学の卒業資格がいる。正確には、教養課程を修了すればいいんですが、いまから大学に入る時間がもったいない。でも、司法書士なら、大学に行かなくても取れる」(桧山)。

 はじめは、司法書士の勉強方法、傾向も対策もわからなかった。「自分で勉強するようになって、やっとどんな仕事かがわかりました。好きとか嫌いとか言える立場ではないから、スムーズに入れました。民事訴訟をしたり、登記関係をしたり、『こんな仕事もあるんか』というのが第一印象です」(桧山)。

 司法書士試験の合格率は3%ほどだと言われている。桧山は2度目の挑戦で合格したが、働きながらの受験勉強は苦難の道だったことだろう。「みなさんにそう言われるんですが、そうではありません。私には野球界での苦労や挫折がありましたから、それに比べたら受験勉強なんか、屁みたいなもんでしたよ」と桧山は振り返った。

勉強はやればやるだけ結果が出る

 司法書士の受験勉強は、ゼロからのスタート。競い合う相手もいない。ひたすら自分との勝負だ。

「自分が勉強すれば、1+1が2になる。2+1は3になりますよね。絶対にマイナスになることはありません。野球の場合は、1+1が2になるとは限らない。5になる可能性もあるけど、マイナスになることもある。いくらピッチャーがいいボールを投げても、バッターに打たれたらマイナスです。

 少なくとも、私の野球人生はそんなことばかり。でも、勉強は、やればやるだけ結果が出ます。すぐに加点法だと気づきました」(桧山)

 幸いなことに、桧山には学ぶための基礎があり、学習の方法も知っていた。中学時代に偏差値70だったという頭脳がここで生きたのだ。

「野球に限らず、スポーツの厳しさからすれば、受験勉強の大変さはどうってことはありません。私自身、試験勉強の経験がありますから、コツのようなものもわかるし、プレッシャーもありません。やればやるだけ実力がつくんだから。本当に受験勉強の苦労はありませんでした。野球界のほうが厳しかった。体力的にも精神的にも」(桧山)

 知識がつけば面白さが増えていく。はじめの頃は薄かった仕事への興味もまた増した。

「私には合っていたんでしょう。勉強を始めてからは、ある意味、トントン拍子でした。この資格を取ってもお客さんが来なければ商売になりませんが、おかげさまで1年目から予想以上によかったですよ。29歳で合格したんですが、同世代のサラリーマンよりも収入はあったんじゃないでしょうか」と桧山は言う。

 1997年に開業し、現在に至る。「開業してから、苦労という苦労はありません。うまくいった理由は何かわかりませんね。結果的にそうなっただけで。この仕事は紹介によって成り立っているので、プロ野球選手だったことも役に立っているでしょう。でも、もう誰にも野球選手だったと思われません。『ご出身は九州大学ですか?』とよく聞かれます(笑)」(桧山)。

 野球の世界だけで生きられる人間などほとんどいない。そのときに頼りになるのは何か。桧山の場合は、学力であり、試験勉強の経験だった。

「そもそも、日本の高校球児が勉強をしないということがいちばんの問題じゃないでしょうか。野球の強い野球学校に入ったら、勉強はそっちのけで野球ばかり。学生の頃に勉強したことがないから、自信がないんですよ。だから、野球界にしがみつく。制度の問題だと思います。高校生にはちゃんと勉強させないと」(桧山)。

現役引退後にチームに残れるのはひと握り

 全国には野球部のある高校が4000校近くある。そのなかで甲子園に出られるのは、多くても49校だ。野球の実績だけで進学することも、就職先を探すことも簡単ではない。なのに、野球優先の生活を送る選手は数え切れないほどいる。「勉強しなさすぎです。ガリ勉をしろと言っているわけないですよ。普通の学生くらいの勉強はさせないと。野球の練習が授業だという学校もあると聞きます。そういう高校には勝ち上がってほしくない」(桧山)。

 現役引退後に監督やコーチとしてチームに残れるのはほんのひと握りだ。

「プロ野球経験者のほとんどは、いずれ野球とは別の世界に行かないといけない。そうなることは頭のなかではわかっていても、現実は見たくない。

 勉強のべの字も知らないから、自信が持てないんです。プロ野球で実績を残した選手でもそうなんですから、私みたいに活躍できなかった人間はしっかりと自分で考えないといけない。将来を約束された人間なんかいませんから」(桧山)。

 力の衰えを自覚した選手も、能力の限界を悟った人間も、1年でも長くユニフォームを着たいと思うもの。だが、その執着が未来への一歩を遅らせることにもなる。「早いほうがいいんです。早く自分で見切りをつける勇気も大事なんですよ。球団も、ダメだと思う選手は、クビにしてやったほうがいい。それが親切心です」と最後に桧山は語った。

 1つのことに打ち込むことは尊い。その経験を通じて得るものもたくさんある。だが、もっと広い視野で自分を見つめることが必要なのではないか。思いだけでは世間を渡ることはできない。才能がなければ知恵をつけろ、知識を増やせ――元プロ野球選手として異色のセカンドキャリアを進む桧山はそのことを教えてくれる。

ドラトレ3。
受け継がれた“隆の里魂” 西岩親方が語る師匠の教え 
2017年11月4日 スポーツ報知より。

今年初場所で19年ぶりの日本出身横綱に昇進した稀勢の里(31)=田子ノ浦=を入門から育てた、先代の鳴戸親方(元横綱・隆の里)が59歳で急逝してから、11月7日で丸6年になる。現役時代は糖尿病を患いながら綱を張り、当時大人気だったNHK朝ドラのヒロインと重ね、“おしん横綱”と呼ばれた。自らを律した姿勢は弟子にも受け継がれており、元関脇・若の里の西岩親方(41)も、そうした一人。同じ青森県出身で約20年も指導を受け、39歳まで現役を続けた鉄人が、命日を前に亡き師匠の生き様を明かした。

 稀勢の里と高安を連れて病院に駆けつけた、あの日から6年が過ぎようとしている。西岩親方は命日が近づくにつれて、亡くなる直前まで一緒にいた師匠のことを思い出す。

 「突然でしたね。朝も稽古場にいましたので、まさか亡くなるとは思わなかった。九州場所の1週間前の夕方ですかね。師匠に呼ばれて普段の私生活とか部屋のこととか、色々なことをいつものように話し初めたんです」

 ―そういう会話は多かったのですか

 「特に自分が30歳を過ぎたころからでしたね。将来のことを考えて僕を呼んで、『こういうやり方で部屋を』と話していました。その日も2時間ほど色々な話をしたんです。当時は35歳。僕は分かっているつもりなんですけど、師匠にしたらまだまだ物足りなかったんでしょうね。最後は2人きりで説教されながら、いろんなことを指導されたあとに、『俺ちょっと体調悪いから』と病院に行かれて、それで病院で亡くなってしまったんです。一番最後の会話は『お前は俺の言っていることは分かっていない』。その後で何か言われたかな…。とにかく説教されていなくなってしまわれたんです」

 ―先代師匠はどんな方だったんですか

 「僕にとっては世界一怖くて、世界一厳しい人。部屋にいる力士も全員、足音が聞こえただけで震え上がっていましたね。稽古場だけ厳しいとか、そういう人ではなかった。稽古場も私生活もちゃんこにも、すべてにおいて厳しかったですね」

 ―最初の頃の指導はどのようなものでしたか

 「なんだろう。でも師匠に稽古をつけてもらいました。僕が入ったとき師匠が39歳とか40歳。まわしを締めて稽古場おりてましたので、実際に胸を出してもらってね。引退して5、6年たっていたのかな。まだまだ体に張りがあって、『横綱って強いんだな』と思いましたね。横綱・隆の里? もちろん知っていましたよ」

 ―どんなときに褒めてくれたのですか

 「いやぁ、1回も褒められた覚えはないですね。ただ本場所中は勝っても負けても師匠にあいさつにいくんです。負けるとやっぱり怒られて、指導されてって感じですけど、勝つと褒めることはしないけど例えば『おかげさまで勝ち越しましたとか』言うと、ただ一言『うん』。これだけ。これが=褒めていたのかもしれないですね、今思うと。師匠なりの褒め方というかね」

 ―先代の鳴戸親方は現役時代に糖尿病を克服したり、相撲界では“ご法度”と言われていたウエイトトレーニングを取り入れました。

 「稽古中は『水はよく飲め』と言われてました。意外にね、新しいことを取り入れる人だったんです。だから『ウエイトトレーニングは相撲取りはやるもじゃない。四股、てっぽう、すり足だ』と言う人もいるけど、うちの師匠には入門したときから『ウエイトトレを毎日やれって』と言われていたんです」

―具体的に指導も?

 「教えてもらっていました。部屋にトレーニングルームがあったので、そこに師匠が来て教えてくれた。よく言われたのは(現役時代は)師匠に体つきが似てきたといわれたので、似たような筋肉は鍛えられたのかな。やり方全部、師匠からまねしてというか教えられてやっているから」

 ―ちゃんこに人一倍こだわりがあったと聞きます

 「買ったものは全部ダメ。コンビニもそうだし総菜もダメ。インスタント食品も絶対ダメ。師匠の前では食べたことはない。こっそりは? それはあります(笑い)。例えば麺類もすべて。うどん、そば、ラーメン…。買ってきたものは食べたことがない。どうやって? 自分たちでうったんですよ」

 ―そこまで徹底したのはなぜなんでしょうか

 「師匠がよく言っていたのは自分が糖尿病で苦労したじゃないですか。それでも横綱になれたんですが、『自分の部屋から糖尿病は出さない』ってよく言っていました」

 ―師匠自身の経験が反映されていたんですね

 「だから細かかったんですよね。メニューは師匠が全部チェック。まず作る前。昼も夜もなんですが、ちゃんこ番がメニューを全部決めて決めたら紙に書いて持っていく。師匠がバランスを見て、ダメならメニューを考え直せ、OKなら作り始める。師匠のGOサインがなかったら作り始められなかったんですよ。で、作り終わっても、まず全部の種類を師匠が食べて、味見してからじゃないとみんなが食べられない。味付けが悪かったら、『もう少し塩、しょうゆたせ』。全部チェックしてなおかつ直してから、食べ始めたという」

 ―私生活でも指導は細かかったと聞いていますが

 「とにかく『相撲しか知らない人間になるな』と言われました。色んな人と食事に出かけても、相撲の話しかできない人間になるなと言われました。師匠は色々な本を読んでいましたね。一番好きだったのは歴史じゃないですか。中国が大好きだったですね。だから(部屋の旅行で)兵馬俑を部屋の旅行で見に行ったんです。話は長かったですね。どれくらい? 1時間は平気です。歴史の話に相撲を重ねたり」

 ―相撲に対する研究も熱心だったと聞きます

 「ただやみくもに本場所で相撲をとるんじゃなくてちゃんと準備が必要だと。『相手の癖をよんだり研究して準備をしないと勝てるもんじゃない。俺はビデオデッキが壊れるまで千代の富士との取組を見た』としょっちゅう言ってました。実践? しましたよ。若い頃は相撲を終えて帰ってくると、一緒にビデオを見ながら指導してもらいました。反省会、毎日やりました」

 ―考えて相撲をとることを強調されていたんですね

 「良く言っていました。『考える力がなければ相撲はとれない。相撲は力仕事じゃない』って。『力士は頭、政治家は体力』とよく言っていましたね。やっぱり…、頭は使いますよ。ただの力仕事じゃないですよ」

 ―出稽古をさせなかったという話は

 「それはウソなんですよ。出稽古は毎日、行きました。佐渡ケ嶽部屋に同じ松戸市だったから、幕下の頃から場所前に通っていましたね。親方の車で一緒に行ったかな、自転車で行ったこともある。出稽古禁止=鳴戸部屋とかね、稀勢の里が出稽古したから“出稽古解禁”だって記事を見たけど、出稽古禁止なんて一切ないんです。次第に部屋に関取が増えてきて、自分の部屋で稽古ができたから行かなくなくなっただけ。そうしたらいつの間にか『出稽古しない部屋だ』となって、そのあと『出稽古禁止』になってしまった。よく朝青龍関や白鵬関も来ていましたしね。松戸の部屋にも、地方場所もよく来ていましたよ。どちらかと言うと、みんなが来てくれる感じになっていったんです。全然だれも受け付けないわけじゃないんです」

 ―接し方は稀勢の里と西岩親方とは違いましたか。

 「違っていましたね。兄弟で例えたら僕が長男。怒られ役であり、『お前がしっかりしないとダメだ』というね。稀勢の里は10年後輩になるので弟というか、2番目の子供みたいな感じの接し方でしたよね。高安? 怒られたことはないと思います。ほとんど怒られたことないんじゃないですか。関取になって1年くらいで亡くなってますから。5、6年しか一緒にいないと思う。僕は20年一緒にいたんですよね。稀勢の里でも10年ですから。僕は一番先頭を行く者として風当たりが強い感じはしていました。それも自分の置かれた立場というか、そういうものだと思っていましたから」

 ―でも師匠の教えが生きて横綱、大関が誕生したんですね

 「それは本当、指導力がすごいなと思います。なぜか? 関取になったのはみんな中卒なんですよ。僕も、隆乃若も隆の鶴も。親方という立場になって、何も知らない中学を卒業したばかりの子を育てるのは大変ですから。そのあたりはすごいなって思います。

 ―それだけに今の稀勢の里、高安の姿を見ると存命だったら喜んだことでしょうね

 「そうですね。でも実際は2人の昇進、何も見ていないから、師匠にしてみたら残念でしょうがないでしょうね。亡くなったときは稀勢の里は、ちょうと大関取りの場所だったし、場所直前に亡くなっているじゃないですか。あと1か月で昇進を見られた。最低でもあと1か月くらい生きてね、稀勢の里が大関になる姿を見てもらいたかったって思いますね」

 ―それでも師匠からの期待、愛情は感じていたはずです

 「十両に上がったときにしこ名を頂いたんです。師匠の師匠の「若乃花」の若という字と、師匠の「隆の里」の里という字をとってですよ。両方とも横綱でしょ、師匠にしてみれば自分と自分の師匠の名前を一文一文字ずつ、つけた。その名前をもらったときはうれしかったし、それだけ期待してくれてたんだなっていう。気持ちは感じましたね」

 ―親方として教えを受け継いでいこうという気持ちでしょうか

 「『土俵にはすべて埋まっている。お金も地位も、全部。でもね、それを掘り起こすのはお前たち自身なんだよ』と言っていました。稽古して強くなれば全部自分に返ってくるんだよと言っていましたね。自分がこれから親方としてやっていく上で師匠の教えと自分の考えをミックスさせた考えでやっていくことになると思います」

◆鳴戸 俊英(なると・としひで)本名・高谷俊英。1952年9月29日、青森・浪岡町(現青森市)生まれ。二子山部屋へ入門し、68年名古屋、初土俵。71年春場所で高谷から隆ノ里に改名。74年九州、新十両。75年夏、新入幕。79年名古屋場所から隆の里に。82年初場所後に大関、83年名古屋場所後に59代横綱昇進。86年初場所限りで引退し年寄・鳴戸襲名。89年2月に二子山部屋から独立して鳴戸部屋を創設。関脇・稀勢の里ら7人の関取を育てた。優勝4回、殊勲賞2回、敢闘賞5回。幕内在位58場所で464勝313敗81休。現役時代は182センチ、159キロ。享年59。

 ◆西岩 忍(にしいわ・しのぶ)本名・古川忍。1976年7月10日、青森・弘前市出身。41歳。92年春場所で鳴戸部屋から初土俵を踏み、97年九州場所で新十両、古川から若の里に改名。98年夏、新入幕。最高位は関脇。15年秋場所前に39歳で現役を引退。通算914勝783敗124休。年寄・西岩を襲名し、現在は田子ノ浦部屋付きの親方で稀勢の里、高安らを指導。
dorahari at 12:43|この記事のURLComments(0)函館市 

2017年11月01日

うの食堂@青森市

5a6d2e7b.jpg小さいラーメン
この小さいラーメンはチャーシュウが入ってません。
煮干しの酸味が効いたサラリとしたスープ。麺は自家製の細縮れ麺。
レジェンドの域に達している一杯。
この一杯を四字熟語で例えると、
「簡素最良」
1474杯目。

ドラ張りグッと!スポット。うの食堂編。
今回で15杯目。
2007年12月2日  もやしラーメン
2010年6月9日   つけめん
2010年8月10日  中華ざる
2012年6月17日  中華ざる
2013年2月6日   ラーメン
2013年3月3日   みそラーメン
2013年9月6日   中華ざる
2014年6月1日   五目ラーメン(塩味)
2014年7月2日   タンメン(塩味野菜入り)
2014年9月6日   中華ざる
2015年8月16日  冷やし中華そば
2017年1月26日  ラーメン
2017年5月23日  もやしみそラーメン
2017年10月1日  小さいラーメン(チャーシュウあり)
2017年11月1日  小さいラーメン

ドラトレ。
2017年11月1日、ブランデュー弘前FCの#7吉本岳史選手兼監督の契約満了につきの退団が発表された。
ブランデューを愛し、ブランデューに愛された男、吉本選手兼監督の退団は残念である。
元J1サッカー選手の経験を生かし、チームを作り上げてきた。吉本選手はアンカーやディフェンダーのポジションでチームを守り、安定感を与え、大きな声でチームに指示を出し鼓舞していた。吉本選手のプレーやチームへのアドバイスはサッカーとはこうやればいいという私への道しるべとなった。
吉本選手は練習でも率先して用具をセットし、プレーに戦略的、技術的な意味合いを持たせていた。
「パスは通ればいいんじゃない。」
練習の言葉に深い意味があった。
今シーズンのホーム最終戦での監督の挨拶で、吉本監督は、
「来年も指揮することができれば………。」
と言っていた。私はてっきり来年もチームを指揮するものと思っていた。
吉本監督はブランデューをもっと強くし、JFL昇格させてくれると信じていただけに、残念であるが、吉本選手兼監督の新たなステージでの活躍を祈って送り出したい。
吉本監督で作り上げたブランデュー第1章を終えて、ブランデューの第2章が始まろうとしている。
吉本選手は私が握手をしてもらった初めてのJリーガーで、ねぷた祭りの時も、「監督」と叫んだら、手を振ってくれた。
#7吉本岳史選手兼監督、ありがとう、お疲れ様でした。
dorahari at 19:35|この記事のURLComments(0)青森市 
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