メゾフォルテからあなたへ

ちょっと違う視点から歴史を語りたい。

堀辰雄の画像を探してみた。
なるほど知的で端正な顔だと思う。
DSC01299



不思議なことに堀辰雄の写真は伏し目がちのこちらが使われる。
堀辰雄


芥川龍之介の系統であったからだろうか。
2枚の写真を並べただけで、旧制高校由来の教養主義というものが力ずくで潰されたのではないか、と思わないでもない。

外国に潰されたのか、それとも日本が外国の顔色を見つつの自主規制が過剰だったのか。

考えてみれば、たとえば評論家の文芸批評文が採用されるにはそれなりの理由、背景があったりしたのかもしれない。
評論家なら公平な読み方をするとは限らないと思う。
評論家を持ち上げた仕組みといったものにも目配りが必要そうである。


NO WAR!

ランキングにご協力ください。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに 
万葉集 作者不詳

太宰治が伊馬春部に遺した伊藤左千夫の歌
池水は濁りににごり 藤波の影もうつらず 雨降りしきる

について、何度か記事にしてきたのだけれど・・・・・

死の間際に書いたのだとすれば、上に掲げた歌から
ただ一目のみ 見し人ゆゑに
なのだろうか。

それは誰であったのか、となると 芥川龍之介 というよりも、堀辰雄ではなかっただろうか。

堀辰雄については こちら
堀辰雄「かげろふの日記」は折口信夫の指導があったという。
伊馬春部は折口信夫の弟子であった。

堀辰雄「芥川龍之介論――藝術家としての芥川龍之介を論ず――」について こちら

実際、堀辰雄と太宰治は1度だけ会う機会があったのだとか。

とすると、池水は濁りににごり とは 女性たち全体のことだったりして。
太宰治は、戦争を経て、男性よりも生存本能が強い女性たちを濁っているように思ったのだろうか。

堀辰雄の作品は、若いときに読んだ印象とは少し違っていて、芯に何か厳しさといったものを感じる。
誰にでも優しい性格で、佐多稲子や片山広子と親しかったとのこと。

佐多稲子や片山広子は、晩年の芥川龍之介にとっては敵方のような存在であったと思われるのに・・・・・
堀辰雄は自らの作品の中で、それとはわからないように芥川龍之介の仇を討っているように見える。

男同士の濃い関係というものの背景にはやはり戦争があるのだろうか。
人口過多を口実に戦争を起そうとする人間たちがいて、そのプロパガンダが浸透していけば、男性の女性嫌いが多く発生するといったことがありそうである。

それとも男性には、一定の割合で繊細な人たちがいて、長生きができないかわりに優れた作品を残すとか。
性同一障害とは少し違う、女嫌いという潔癖性のタイプがいるのかもしれない。

太宰治が亡くなった1948年には、堀辰雄は病臥の状態にあったようである。
それでも堀辰雄は1953年5月まで生き延びた。
ただ一目のみ見し人ゆゑに に励まされたか。


しかし、よく考えてみると、太宰治と1度だけ会ったことがあるという人間はかなり多いはず。
その中には自分のことかもしれないと考える、歌に詳しい女性もいたかもしれない。

そういう女性に対して、太宰治は堀辰雄と同じようにこっそりと毒づいた・・・・・とも考えられる。


NO WAR!

ランキングにご協力ください。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ