トンボ
久しぶりにトンボを見つけました
過ぎ行く時を愛おしむ
それとも
誰かを想う
確かにトンボの姿がふさわしい
それにしても
時間が止まることがあるんですね
それなら
戦争を止めることができるかもしれません

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スパイの活動の内容がよくわからないながら、不思議とゾルゲが悪人だと
思えないというのはたいていの人の感想ではないだろうか。
もしかしたら、ゾルゲは他の誰よりも世の中をどうしたらよいのか、と考えていた
のかもしれない。
スターリンの砕氷船理論というものがあったのだという。
しかし、スターリンは日本占領ができなかった。
これは、ゾルゲが日本にくれたプレゼントであったのではないか。
1933年にゾルゲがドイツから来日した。
石原莞爾は1932年に国際連盟総会臨時会議帝国代表(松岡洋右全権大使)の
随員としてジュネーブへ 出かけ、翌年に帰国している。
不思議なことに竹久夢二も同じ時期ベルリンにいた。
そのころ、多くの日本人の青年たちがベルリンにいたのだという。
1929年から1930年代の世界恐慌はこちら
1930年~1934年 日本を冷害が襲う。
1932年~1933年 ウクライナ飢饉についてはこちら
1933年のベルリンでの国会議事堂放火事件は興味深い。
この1930年代のできごとを、つい歴史上の点でとらえていたような気がする。
時間の長さや範囲について、大きくとらえる必要があると思う。
日本人に限らず、ソビエト連邦に夢を託した多くの若者たちがいただろう。
しかし、理想と現実の落差がかくも大きいとは ・・・・・
理想に向かって暴走するのをくい止めるには、強圧しかなかったのかもしれない。
どれほどの深いため息の時間が、どれほどの命が、理想のために費やされた
のだろうか。
石原莞爾とゾルゲは、どこかでつながっていただろう。
そして蒋介石もそこににつながっていたのだと思う。
国とはどうあるべきか。
戦争はなぜ起きるのか。
自由主義国にしても社会主義国にしても、道は違っても多くの人がみた夢に
向かって歩もうとしていることは確かである、と信じたい。
結局のところ、ゾルゲは、当時のソビエトとドイツのどちらも選びたくなかったはず
である。
緑豊かな多磨霊園に、ゾルゲの魂は、日本人の同志たちの名が刻まれた碑の
ある墓で眠っている。
そこには、木々の葉をゆらして5月のさわやかな風が吹いているだろうか。

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日本にとってテロよりも周辺国の崩壊こそ怖れるべきことである。
その際、政権周辺の人々が軍隊とともに日本に押し寄せてきたなら
ひとたまりもないだろう。
その政権周辺の人々はアメリカと予め約束を取り付けておくだろう。
台湾の歴史を見つめる必要があると思う。台湾については こちら
このとき、蒋介石は日本には向かわなかった。
日本側、例えば石原莞爾や松井岩根、安岡正篤といった人たちの
思いが日本を守る壁となったと感じる。
ロシアについても、万が一、盤石なるプーチン体制が崩れたとき
富裕層は軍隊とともに北海道へ来ないとも限らない。
まるで歓迎するべくあちこちに道路や空港をつくってしまった。
その代わり、中国周辺やロシア周辺に原発を輸出して、核をもたせればよい
崩壊したとき他国に核を使わせればばよい
冷酷でかつ利権を貪る心が抑止力となりうるだろうか。
やはり、軍を動かす人間同士の心の交流が必要であり
どこの国も格差をなくする努力をするように提唱することが大事ではないか。
ヨーロッパは、東アジアが不安定になったとき世界が不安定になる
という繰り返しの歴史を思い起こすべきだと思う。
東アジアから収奪することは、いずれ自らの足元に及ぶことを考える
必要があるのではないか。
もちろん日本は、亡命者は受け入れるとしても軍隊とともには認めない
という断固たる姿勢も取るべきだと思う。
そのためには、自衛隊と米軍の力は必要である。
日本の防衛について、明確な姿勢が抑止力といえるのではないか。
民主党が政権維持のためにベトナムやインドに原発を輸出するのは
大きな間違いだと思う。

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きょうの月は温かな光に満ちて
さまざまな屈折した思いを照らしているかのようです。
そう きょうは一年の終わり
多くの出会いに 心から感謝を
心の奥底まで照らす光に力を得て新しい年を創りだすような気分に
なってみませんか。
竹里館 王維
独坐幽篁裏 独り坐す 幽篁の裏
弾琴復長嘯 琴を弾じ復た長嘯す
深林人不知 深林 人知らず
明月来相照 明月 来たって相照らす

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津田塾大学を卒業して35年の月日が流れた2008年、母校でのクラス同期会が
開かれた。母校での同窓会や同期会はよく開かれている。
津田塾大学HPは こちら
学内あちこちの写真を撮ってみると、これこそがよきアメリカの姿であろうと気づいた。
これらの建物は、津田梅子と彼女を支えたハーツホンや大山捨松の夢を実現した
ものといえるだろう。
アナ・ハーツホンについては こちら
会費2000円でお弁当とお菓子を幹事の人たちに用意してもらって教室で
行なわれるアルコールなどがないつつましい同期会である。
学生時代と同様に楽しく充実した時間が流れる。
さりげなく、けれども思い出に残る時間というものは貴重だと思う。
大学周辺は玉川上水をはじめ多くの緑がそのままに残っている。
津田梅子の墓がキャンパスの隅に梅林とともにぽつんとある。
梅子は1929年大恐慌の年に小平のこの校舎の完成を見ることなく亡くなっている。
本来は隣に眠るはずであったアナ・ハーツホンは戦争勃発のためアメリカに帰国した。
教育について、よきアメリカの大きな恩恵に私たちは浴したといっていいのだろう。
以下は1913年、女子英学塾での津田梅子の卒業式のスピーチの結びとのこと。
May each one of you have:
"Eyes to behold the light,
A seeing sense that knows the eternal truth,
A heart with pity filled,and gentlest truth,
Faith that makes the darkness bright."
あなたなら pity 、truth 、faith を どう訳すだろうか。
今のアメリカならどういう意味を表すと考えるか、 という問いになるのかもしれない。
それとも、あなたの心のあり方に対する問いになるのかもしれない。

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