メゾフォルテからあなたへ

ちょっと違う視点から歴史を語りたい。

大佛次郎(おさらぎ・じろう)について全くといいほど知らなかったのだけれど
鎌倉に地図を持たないで出かけて気の向くまま歩いたら、寿福寺の墓地に出て
そこに大佛次郎の墓があった。
その後、気になっていたので、大佛次郎「天皇の世紀」全10巻 朝日新聞社 2006年 を購入して本棚に並べておいたのだが、何年もその本を開くことはなかった。

森鷗外「能久親王事蹟」から、明治維新のあたりを詳しく知りたくなって「天皇の世紀」を手に取ってみた。思っていたよりもずっと読みやすい。
また、年表と地図とともに総索引(内容索引・人名索引・史料索引)が約200ページほどつけられていてありがたく感じる。
新資料の出現があったりして、異なっているというところがあるだろうが、流れとしてなるほどと思うようなことが書かれていて、未完となってしまったのは残念としかいいようがない。

たとえば
第10巻 
p.96
・もと立派に存在した徳川幕府が、現在は崩れてしまっていたものである。崩壊した幕府が輪郭のない混沌たる勢力となって在るだけである。新政府もまた、東日本を治下に置いていないから、日本全体を支配する地位にある充分な権力ある政府とは考えられなかった。大政奉還の後もどちらが日本の政府なのかが、まだあいまいであった。
・列国は日本に政府が二つあるものと見ぬわけに行かぬ。その内に、もとの幕府は消滅し影が薄れたが、列国が新政府として外交関係にも入った京都の政府も、局地的に限られた権力を持つだけで、真実はまだ権威ある政府とは承認し難い。つまり、消えた政府と、まだ確立してない政府とが並立していたのが実状である。
・フランス公使のロッシュは、最初から幕府を援護してもり立てる方針だったので、大政奉還の後も旧幕府を日本の政府と見るように努めていた。これに反し天皇政府の肩を持つイギリス公使等は、幕府を見捨てる方向に向った。しかし、政府としてまだ成熟せぬものに肩を入れたのだから、外交問題についても、信頼を置けぬ不安がつきまとうわけである。

p.104
・幕末から明治初年にかけて日本に来た外国人の中には、社会的地位のある者でも二重国籍の者が時たまあった。この二重国籍の者は珍しくなかったと、その道の調査研究をされた方から注意して下さった。国籍法が今日ほど厳格に考えられていなかったせいであろう。もちろん素性いかがわしい一旗組が上げ汐に乗って寄せて来た。渡り者で、ひと当て当てるのを目ざした人間である。シナ大陸に留まらず、もう一度海を渡って極東の日本まで来たとなると、これは尋常一様のネズミではなかった。その者たちが国籍をあいまいにしておくのは、具合悪い事件を起した時、別の国籍を名乗って韜晦するための抜け目のない用意だった。
・エドワード・スネルが、ある場合には、オランダ国籍で、別の場合にはイタリア人で、生れはプロシャだと当人が称したとしても、別にあやしむには値しない。その為に、何か事件が起ると、裁判の手続きなどがみだれて進めにくくなる。領事裁判なので、真先に国籍を問われるわけであった。
・米澤藩に、火器を多量に売込んだ廉で、官軍から戦後に訴追されたエドワード・スネルが保護を依頼したのは和蘭(オランダ)領事ファン・ポルスブルックだったところを見ると、その時はオランダ国籍だったと見える。彼は一時プロシャ公使館の三等書記官として住込んでいたこともあるから、その時はプロシャ籍を名乗っていたのだろう。

大佛次郎について こちら大佛次郎



太宰治が長生きをしたなら、戦中戦後について「天皇の世紀」のようなものを書いたかもしれない。
何となくではあるけれど、目配りのようなものが似ているように思うからである。




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松本清張は、森鷗外を師のように感じていただろう。
松本清張全集は66巻(文藝春秋)、森鷗外全集は38巻(岩波書店)

ふと松本清張は66巻の中に埋め込んだものがかなりあるのかもしれない、それは森鷗外を見習ったのではないか、などと思ってみた。
ブログ「椿峰のまち」で寛永寺での上野戦争を調べて、森鷗外がそのときの寛永寺貫主であった輪王寺宮、のちの北白川宮能久親王について「能久親王事蹟」というものを残していることを知った。

北白川宮能久親王については こちら

森鷗外は日露戦争に出征し、奉天会戦で軍医を務めている。1905年の奉天会戦については こちら
「能久親王事蹟」(鷗外全集第3巻 p.497からp.620)より
・弘化四年二月十六日、京都御車通今出川下るといふ町なる御館(みたち)にて、伏見宮第十九代邦家親王の第九子として生(あ)れまししぞ、後に北白川宮能久親王と稱(たた)へまつる御子(みこ)におはしける。
・二十八年乙未、四十九歳。はじめ大阪、次に東京、次に満州、後臺南におわす。是より先き近衛師団長に補せられさせ給ひ、二月二日大阪より東京に至り、霞關なる海軍大臣官舎に入らせ給ふ。三月二十五日東京を発せさせ給ひ、二十七日廣島に至らせ給ふ。四月十日宇品にて乗船せさせ給ひ、十四日柳樹屯にて上陸せさせ給ふ。五月二十二日旅順を発せさせ給ふ。三十日臺灣三貂角にて上陸せさせ給ふ。十月二十八日臺南に薧ぜさせ給ふ。


文語調で淡々と記録文が書かれているだけなのだが、戦争の記録が多く詳細で生々しい。
上野戦争という小さな戦闘が太平洋戦争までつながっているとすれば、その源としての貴重な記録ということになるのかもしれない。
あるいは伏見宮、北白川宮といった皇族の軍人とその周辺についての記録が必要であると考えたのだろうか。

日露戦争から帰還してまもなくの1908年に出版とのことで、行間に森鷗外の隠された気迫といったものを感じる。森鷗外が軍の仕事の合間に睡眠の時間を削ってほんとうに伝えたかったものの1つではないか、と考えるのだけれど、どうだろうか。


DSC03817

1905年奉天(瀋陽)での森鷗外
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