2007年08月
寧日記〔131〕
天智天皇の第一皇子である大友皇子は母親が采女であったという。
当時は母親の身分が子どもにそのまま継承されていたらしいのであるが、
天智天皇は実力主義で有能であった大友皇子を後継者としたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87
人質ともなる妃や采女たちをお互い交換するであろうことは想像できる。
天武天皇と額田王との間の娘、十市皇女が大友皇子に嫁いだ。
つりあいからして、額田王とは采女であったのだろう。
が、当時は女といえども妊娠中でも戦いに加わることがあったとか。
額田王とは宴を盛り上げる有能な外交官のような存在であったのかもしれない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E7%8E%8B
668年5月5日、天武天皇と額田王が天智天皇が催す薬猟の宴で
詠み交わされたという歌は十市皇女が翌年、葛城王を出産しているところを見ると
十市皇女の婚姻の席でもあったのか、と考えられる。
記録には5月5日が異例なほど強調されているのだという。
そういえば、端午とは中国の風習であった。
額田王:あかねさす紫野行き
天武天皇:紫のにほへる
旧暦の5月5日だから、紫とはやはりヤマアジサイではないだろうか。
野守(見張り)がつくという標野にヤマアジサイのような美しい娘を人質として送る
親が、相聞歌のごとく歌を交わしたと想像したりしてみた。
歌にしても句にしても、そのころの歴史の動きと照らし合わせてみると
のどかなものではなかったのだ、と思えてくる。
拾ってきた夏
寧日記〔130〕
龍穴というものがあるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%A9%B4
それにしては、原子力発電所の立地をみても、現代科学はお粗末だと
いわざるをえない。それとも、熟知していて建設したのだろうか。
天武天皇は道教の実践者であったようである。
道教は、入り口に立っただけでも雄大な思想であるような気がする。
あらゆる宗教の起源ではないのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
日本の豊かな自然が優しい母系社会と霊感を持つ人間を育んだ。
男たちは森を彷徨い、仙人として生きた。
日本が仙人の島であったらしい。その国はもっと北に広がっていて
千島がその名残をとどめているのかもしれない。
奥とは南西の隅という意味もあるという。
ある時期から寒冷化して、人々が南下した。
船を操る人々でもあっただろう。
大陸との交流も盛んであっただろう。
大海人皇子である天武天皇は蘇我氏の系統である。
大化の改新での政変は、大陸から波及してきたものではなかったのか。
古代日本人の性格をもつ天武天皇は争いを好まなかった。
それに対し天智天皇は中央官僚機構を整備し、東西南北を厳格に守る都を建設
するなど大陸からの人間の性格を強くもっているように感じる。
669年と671年の2度にわたって唐国使たちが2000人ずつ来日したとのこと
である。
日本で中国という名称はいつから使われたのかわからない。
中大兄皇子の中とは中国の中ではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
しかし、それは日本が侵略されたということではないだろう。
東アジアはほとんど親戚関係にあったのだから。
外に出て行った人間が戻ってきただけともいえるだろう。
天智天皇と天武天皇は一緒に国づくりをしようとしたようにみえる。
歴史書は争いごとのみを記録して、ともに生きようとした人間の心は
伝えない。その記録は威嚇のためだから実際より残忍なものであるだろう。
文学もまた、悲劇的恋愛や夭折した皇族の哀切さを伝えることに多くの文字を使う。
今、私たちの体を流れている血は、もっとたくましく、古代からずっと生き延びて
きたのである。生の喜びをその時代時代に感じていたはずなのだと思う。
ヨロシクね!⇒国際政治と内閣改造
しかし、よく考えてみると、それぞれの国ってみんな個性的だと思わない?
アメリカって、警察っていうよりはヤクザっぽいでしょ。
日本にはなんかこわそうな人ばっかりくるんだもの。
案外、北朝鮮や中国の方が警察っていう感じがする。
イギリスっていうのは流行遅れの仕立てのいいスーツの感じだし
ロシアっていうのは強面の国だから、笑っちゃだめなの。
フランスって遊び人で要領がいいんだけど、友人にはどうかしらね。
日本はって?
他の国に比べて小動物系なんだから、舞の海みたいにあれこれ当惑させる
テに出ているんだって。
なに考えてるかわからないようにして、せっかくあれこれ秘密の約束しても
担当者が変わりましたので、ってとぼけたりして。
ほら、今までどっちかっていうと、変にくそまじめなところがあったじゃない。
計画達成とかなんとかして、それでアメリカなんかに持っていかれたりするとか。
なのでイメージチェンジっていうの?それだって。
今回の組閣って前とぜんせん方針が違うでしょ。
世界の国が???って思っているんだったら、大成功ね。
ヨロシクね!⇒寧日記〔129〕
太古の昔から、自分の中に蓄積されてきた莫大なものがあると考えるのは
楽しいことである。姓や家紋などというものではわからないさまざまな血脈が自分を
形作っていて潜在的な能力もまた与えられているのかも知れないのである。
その中では、貴賎もなく人種もなく、多くの人間がつながっているのだと思える。
調べていて、天武天皇のころのことが気になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%AD%90
戦前は日本史で壬申の乱というものがタブーであったらしい。
歌を見ると、ユニークで力強いのに百人一首では、天武天皇は選ばれていない。
万葉集での、天武御製歌というのが次の歌である。
淑き人の 良しとよく見て 好(よ)しと言いし 吉野よく見よ 良き人よく見
よく見なければ、とせかされているような気がする。
この歌について、実際には、よく見て⇒吉見 吉野⇒芳野 と書き表されている。
また、このころの万葉集の歌で
大君(おおきみ)は神にし坐(ま)せば水鳥の多集(たず)く見沼(みぬま)を
都となしつ (作者不詳) とあるという。
埼玉には吉見もあるし、三芳野もある。また、見沼もある。
多くの古墳がある埼玉は、天武天皇に所縁のある土地ではないのだろうか。
本気でランキングアップを図りたいと思います。クリックよろしくね!⇒セミの同窓会
芭蕉の名句 閑かさや岩にしみ入る蝉の声 は漢詩が下敷きになっているらしい。
しかし、ちょっと考えてみると、この句は観念的な感じもする。
セミが鳴くときは、うるさくて閑かさやとは、とてもいえないのではないだろうか。
どちらかというと、閑かさや闇にしみ入る虫の声 ではないかと思う。
さて、セミについての生態はよくわからない部分が多いらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9F
ただ周期をもっているのだとすれば、その周期ごとにはいつも同じメンバーで
合唱する可能性が高いことになる。
人間についても同じようなことがいえるのかもしれない。寿命の幅があるので
周期があっても違ってくるのかもしれないが、平均という意味では重なり合う
ものが多いのではないだろうか。
どこかで会ったような気がする人、あるいはひどくなつかしいという人は
いませんか。
はるか昔、恋人だったかもしれない人の住む町に爆弾を投下できますか。
はるか昔、家族だった人たちの住む町にミサイルを発射できますか。
はるか昔、一緒に夢を語った友人の住む町を破壊しつくして
快哉を叫ぶことができますか。
寧日記〔128〕
たとえ、荒唐無稽であっても、なぜ、と考えることは必要だと思う。
あくまでも物語であって、事実とは違うことをお断りしておきたい。
青森高等学校の歴史は興味深い。
私が入学した頃、男女共学であって自由な校風であった。
とくに校章が無限の記号∞をデザインしたもので、校歌がそれにふさわしい
ものであったと思う。
教室の南に向けられた窓には八甲田山が近くに見えた。
教師は生徒をさん付けで呼び、あまり受験にむけた勉強はしなかった。
それが当たりまえだと思っていたが、それは珍しいことであったのだ。
青森はアメリカによって民主的な教育をプレゼントされた、そう思える。
青森空襲によって青森は徹底的に焼かれた。
戦前の古い体質がかなりその火で消えたことは事実だと思う。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/
今のイラクをみるとき、日本の古い記憶がよみがえってくるのは当然のことで
多くの人間の思いが複雑な曲線を描いていて、しだいに像を形づくっていくような
思いがする。負けて虐げられた思いが表出してくるような・・・・・
しかし、歴史は地層のように重なっているのだから、もっと深い考察も
必要だと思う。
青森高等学校の前身である青森中学は当時合浦公園に隣接していた。
合浦公園には三譽の松があって、これは「御世を待つ」ということにつながる。
おそらく、先住の民族としての歴史、復古を目指しての歴史、
あるいは流刑地としての歴史があった。
キリシタンが逃亡の果てに死んでいった土地でもあっただろう。
雄大な古代の歴史は、宗教の起源をめぐっても隠したいものとなったのだろう。
古代キリスト教国があったかどうかはともかく、伝説の存在自体が許しがたい。
戦争になれば爆撃目標となる建造物が造られ、平和時には土木工事で破壊されて
いく。原子力関連施設がつくられ、レーダー基地がつくられていく。
人間にとって10本の指から、10は大事な数である。
かつて 三種の神器以前に、十種神宝といわれるものがあったのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D
旧約聖書にも似たようなものがあったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%81%AE%E7%AE%B1
どちらも失われている。
9月11日とは、失われた「十」を意味しているのではないだろうか。
それは、誰かが意図したものではなく、神の声なのだろう。
深い歴史の底から響いてくる神の声は
「汝、殺すなかれ」 と聞こえる。
その響きは、大きく津波のように広がっていく。
よろしくね!⇒寧日記〔127〕
西行の詠んだ、谷風の花の波をし吹きこせばゐせきにたてる嶺の村まつ
が、なぜか気になっている。(ゐせきとは堰のことだという。)
青森の三内丸山の近くの風景のような気がするからである。
与謝蕪村が芭蕉にならって旅をしているのだが、芭蕉とは逆に日本海側から
青森・外が浜(油川)に行き、岩手、宮城とたどっているようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91
西行は四国に行っているようだが、作為的に強調されている面もなきにしも
あらずであり、西行は東を目指しての旅が目的であったと思う。
では、なぜ、西行なのだろうか。起点が津軽なのではないか。
明治時代とは激動の時代であった。開国と同時に比べものにならない国力の差に、
日本をアメリカに委ねたい、あるいはアメリカから援助を引き出さなければならない
といったさまざまな思惑があっただろう。
アメリカからすれば、国王である天皇の勢力をなんとか排除したいと考えるだろう。
鉄道や道路を建設するとき、歴史的遺跡を破壊していったかのように見える。
歴史をあれこれ改竄していったかのようにも見える。
アメリカが、というより迎合しようとする日本がそうしたのだろう。それまでにも
時代が動くたびに、歴史は変えられていったのだから。
あたかも意志があるごとく歴史は偶然を生んでいく。
私の母校である青森高等学校の創立記念日が1900年9月11日であるのを知って
驚いた。
なぜなのだろう。9月11日にどういう意味があるのだろう。
ランキングに参加しています。ヨロシクね!⇒漂泊への憧れ
先日、まちづくりでご一緒の方たちと話をしていて、気がついたことが
ありました。
子育てでも、おもちゃの興味などの男女差を感じましたが、老後の過ごし方の
希望についても、男女差があるのでは、ということです。
どうも、男というものは漂泊願望があるらしいのです。
西行や芭蕉が根強い人気を保つのはそういう面があったのか、と思います。
動物のオスたちが漂泊する、あの名残のさらにしっぽのようなものを引きずって
いるんだ、うーむ。
確かに長年の仕事でがっちり組織に組み込まれていたら、あるいは家庭でも
気をつかって暮らしていたら、老後ぐらいは自由に羽を伸ばしたい、
となるでしょうね。
まちづくり活動で孤独死を防ぐにはと、あれこれ考える前に、よくよく観察が
必要なのかな、と思います。
女たちは、どちらかというと、氣の合う仲間とおいしいものを食べて茶飲み話で
老後を過ごしたいと思っているようです。
おしゃべりしていると、あれこれ健康についてとか、福祉についての情報とか、
理想的な亡くなり方の例まで見聞できますし ・・・・
かなりの男女差がありますね。
寧日記〔126〕
西行と芭蕉はよく似ている。まるで生まれ変わりではないかと思うほどである。
出自か感性か。ふと思った。大陸からきた貴族の血でもあるのではないだろうか。
芭蕉は明から来た人間かその子なのかもしれない。
西行も例えば母親が大陸から来た貴族で朝廷にいたとしたら、歌詠みとしては
それなりの地位を築けるだろう。
漢詩が日本にきて和歌や俳句に変身したということもできるだろうが、
その担い手は僧たちではなさそうである。
和歌や俳句は、傑出したものをつくるには普通とは違った見方が必要だと思う。
よくわからないが、漢詩のように絵画を想像させる働きが効果的であるように
思う。西行や芭蕉は漢詩に近い和歌や俳句をつくっているのではないか。
数々の和歌集や句集が教科書となって、和歌、俳句は日本語の練習に適して
いるだろう。
詩をつくったものを直してもらって納得する、語学教育としてはよい方法かも
しれない。考え方そのものも学べるだろうから。
単語や語法だけではなく、境遇の嘆きや男女の機微を先人に学ぶ。
時代は遡るが、とくに万葉集はそういう働きがあったのではないか。
言葉が違う若い男女が思いを伝えたい、、なんとか新しい社会でとけこもう、
あるいは権力者の寵愛をほしい、そういった強い思いが凝縮したともいえる。
日本の風土では、権力を持ってしても漢字だけではどうにもならなかったのか。
あるいは、表音の字をもった先住の人たちがその部分は主張したのか
なにやら男女のかけひきのようなものが和歌だけではなく、文字そのものにも
感じられる。
江戸時代、明の滅亡により、かなりの人間が日本にきたようである。
入国には厳しい面もあっただろうが、労働力として利用したい藩があり、商人たちも
いたはずである。
一般の庶民は、川柳とか落語とかで日本語を覚えたのだろうか。
人間の心の動きが原動力となって、歴史は動き、文化が栄える
その仕組みを垣間見たつもりになっている。
暑いですが、省エネを☆
原子力発電所でひとたび大きな事故が起きれば
近海の魚が長期にわたって放射能汚染されるかもしれません。
飲料水、農作物も心配です。
生まれてくる子どもへの影響も不安です。
ガンが多発する可能性があります。
それは何百万人という規模だともいわれています。
責任のある人たちは、安全なところに真っ先に避難するでしょう。
かつての満州と同じことが繰り返されるでしょう。
原子力発電所はできるだけ早く停止するべきです。
クーラーは本当に暑いときだけにして、スダレなど日よけをして
部屋に風をいれるように工夫しましょう。
首に冷やしたタオルを巻くと効果的です。
食事や睡眠をとって体調をよくしましょう。
野球の応援などは暑いはずですがなんとかできるところをみると
みんなで、というところがいいのかもしれません。
☆みんなで省エネに取り組みましょう☆
よろしくお願いします!⇒寧日記〔125〕
芭蕉の名句 秋深き 隣は何をする人ぞ について
ちょっと見つけたことを書いてみたい。
新古今和歌集に、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
哀傷歌として、2つの歌がセットとして選ばれているものがあって
・殷富門院大輔
久我内大臣春頃失せて侍りける年の秋土御門内大臣中將に侍りける時遣はしける
秋深き 寝覺にいかがおもひ出づるはかなく見えし春の夜の夢
・土御門内大臣
返し
見し夢を忘るる時はなけれども秋の寝覺はげにぞかなしき
「秋深き隣は何をする人ぞ」とは、この土御門内大臣、源通親のことを
示している、と思えるのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E9%80%9A%E8%A6%AA
芭蕉は時代は違うものの、西行、藤原定家、式子内親王の側の人間であり、
源通親は糾弾したくなる人物であったのではないか。
芭蕉の俳句とは、考える以上に奥深いもののような気がする。
連歌を好んだ明智光秀もまた、芭蕉のような人間であったのだろうか。
なお、芭蕉については、こちらにたいへんなご労作のHPがあります。
土一升に金一升
「土一升に金一升」は主人の母からきいたことわざですが
そのとき主人の母は、土が貴重であるものだと教えてくれました。
しかし、辞典を見ると、土地が高額であるたとえであるといいます。
日本において、土地神話は根強いものがあります。
土地神話とは土地と金に踊らされた人間の悲劇である、ともいえます。
地価の高騰による錬金術はもはや時代遅れです。
土壌汚染はどの程度の範囲でどうなっているのか、克服する技術はあるのか、
農薬をどのように減らしていくか、環境問題として重要なことだと考えます。
土をつくる産業はこれから大事になってくるでしょう。
まちづくりでも腐葉土をつくって販売したらどうか、という案が出たりしております。
庭にはついつい外来種の色鮮やかな草花を植えてしまいますが、ハーブ類を
もっとつくるべきだと思います。日本古来のシソ、木の芽、ミョウガなど。
また、アレルギーを克服するためには、ハブ茶やはと麦がよさそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E6%98%8E%E5%AD%90
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%AE
もっとこういったものの研究を奨励する必要があるのだと思います。
古代の人々は薬草を大事にしていたようです。
ほんとうに土は貴重だと思います。
温暖化対策としての脱車社会を
お盆で帰省する車の渋滞のニュースを見ながら、やはり日本には
車が多すぎるのではないか、と思いました。
また、都心の高いビルから空気の濁っているのがよくわかります。
光化学スモッグや酸性雨をこのままにしておくわけにはいきません。
主人も私も車の運転に適性がない人間なので、免許証も持ちませんでした。
郊外のニュータウンに住んでも、さほど不便は感じないですみました。
車をもつよりも、必要なときタクシーを利用した方が安くつきました。
車はあまり適性がない人間にとっては凶器です。
ある時期から視力、視界が衰えるだろうし、注意力、反射力が衰えるでしょう。
睡眠不足や感情が高ぶっているときでも運転せざるを得ないときもあるようです。
首都圏や都市中心部では車を思い切って手放しませんか。
ヨーロッパでは、カーシェアリングというものがあるようです。
日本でも少しずつ導入されているとのこと。
http://www.cs24.jp/carshare.html
経済的にも楽そうですし、環境にもいいでしょう。
高齢化社会を迎えて、小さめのバスを住宅街で走らせるか、タクシーの有効的な
利用を考えることも必要だと思います。
また、歩く部分を最大限考えるようにすることが健康にとっても大事でしょう。
高齢者にとって、木陰とときどき腰掛けられるものがあるまちにするべきです。
若い人たちは将来に備えて新車をローンで買うことは少なくなってきているし、
環境に配慮する人たちが増えてきました。
車のメーカーにとっても、10年後を考えれば国内では売れなくなるだろうから、
むしろ、環境に優しい交通システムの構築を考えて、世界の都市に提案できる
ようにしたほうがいいのでは、と考えます。
情念のゆくえ
藤原定家と式子内親王を題材にした能「定家」から名づけられたという
テイカカズラを近くで探してみたものの見つけることができなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9
それにしても、夏の盛りに、ツルをのばす植物たちは元気である。
人間の情念のごときものと一緒にされちゃ迷惑だ、といっている
みたいに感じるのは私だけだろうか。
それとも、それだけ年をとったということだろうか。
愛しきものはふえているというのに。
なにかに囚われている若い人には、これらの写真が
その感情を客観視できるものになるのかもしれない。
植物たちは、その人間にふさわしい言葉を優しく語りかけている。
その言葉に耳を傾ければ、憎しみも不安も和らぐはずである。
寧日記〔124〕
(宗良親王の新葉集に採られている和歌である。)
年をふる鄙(ひな)のすまひの秋はあれど月は都を思ひやらなん(新葉321) (奥の細道の第一句 草の戸も 住み変わる代ぞ ひなの家 にある「ひなの家」はこの歌が念頭にあるものと考えられる。 第二句は 行春や 鳥啼魚の目は泪 魚の泪とは、謡 「合浦」に出てくるものであるという。 青森に合浦公園という公園があり、和歌で外ヶ浜で通じるのであれば 合浦も津軽の地名で有名であったのではないか。 合浦公園については http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%B5%A6%E5%85%AC%E5%9C%92 写真は http://www.city.aomori.aomori.jp/koho/takara/tkaa002.html 杉山杉風の名前を挙げてあることからも、津軽への旅であると思わせるもの になっていると思う。 世阿弥が能「善知鳥」をつくった理由を考えたのだが、おそらく津軽では能が 盛んであり、宗良親王の係累や公家たちがいたのだとも考えられる。 世阿弥も佐渡から津軽へと向かったのではないだろうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5 当時の津軽は、貿易で栄え、豊かな地であったはずである。 しかし、南朝につながる歴史は消されていって、江戸時代ですらも細道であった ということであろうか。 )
寧日記〔123〕
日本の歴史において、今なお南北朝時代は踏み込みにくい区画であるらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
1352年の小手指河原の戦いについてはよくわからなかったが、住みついて
20年以上もの間、考えてみれば南北朝時代がすぐ身近にあったのだと感慨
深いものがある。
引越ししてきた当時、主人が武士の夢を見たなどといって、家の敷地の隅に
塩を置いてみたりしたことがあったが、
確かに知らせたい思いがこの地に宿っているのかもしれない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%89%8B%E6%8C%87%E6%9D%91
6月に近くの北野天神社で写真を撮ったことがあった。
少しは涼しさを感じていただけるだろうか。
そのとき、宗良親王とはだれなのかよくわからなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
南朝が正統だとすれば、宗良親王は、南朝の後継として最も近い人物であったはず
である。
「奥の細道」とは、もしかしたら、6代将軍徳川家宣が宗良親王の血を引く人物で
あることを示すものであったのではないか。
寧日記〔122〕
「奥の細道」での芭蕉の歩いた後をたどるとき、
夏草や兵どもが夢の跡(6月下旬) と 五月雨をあつめて早し最上川(7月中旬)
の句をみると、実際は違う旅程であったのはという疑いも生じる。
松尾芭蕉の本名は宗房であるという。また同行した河合曽良からも、後醍醐天皇の
子である宗良親王を連想させる。芭蕉は前述のように木曽義仲にこだわってもいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
また、芭蕉の漢詩や能、和歌の深い教養は、身近に公家出身者がいたからか、もしくは
公家の出身であったからなのかもしれない。
公家でも武家でも長子以外は大変であったようである。結婚もままならなかっただろう。
津軽家では自分たちを近衛家の傍流と考えていたようである。
おそらく公家の子どもの養育、場合によっては実子として育てるなどの役目があったの
ではないか。
芭蕉と曽良はだれか公家の子を同行して送り届ける旅だったのかもしれない。
当時、近衛基熙が神田御殿というところにいて、津軽家も神田にあったようである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99
「奥の細道」が出版されたのは1702年で芭蕉が亡くなってからの後である。
そういった公家の子の動きあったことを知らせる目的があったのではないか。
5代将軍綱吉から6代将軍家宣へと移りつつある時期であった。
家宣は公家に近い人間と考えられ、正室は近衛基熙娘である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3
綱吉の末期には、徳川開幕から100年、天候不順もあり各藩は惨憺たる状態に
なっていた。儒学が盛んとなって、堅苦しいものがあっただろう。
体制の硬直化が見え隠れする。
徳川時代といっても、武家と公家の主導権争いがあったのである。
河合曽良は家宣が将軍になってから巡見使随員という厚遇を得たが、
その後すぐ亡くなった。芭蕉が生きていれば同様なこともあったと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%90%88%E6%9B%BD%E8%89%AF
夏草や兵どもが夢の跡
とは、もしかしたら、公家からみての「兵ども」という意味をもっていたのかもしれ
ない。
戦いに明け暮れて兵どもが夢見た世とはこれほどのものか・・・・・
しかし、現代において、平和とはこのような空しいものとしてはいけないのだと思う。
もっとひとりひとりが実感できるものを平和というべきである。
それがあの戦争で亡くなった人たちの思いだろうから。
ランキングに参加しております。どうぞよろしくね!⇒祝 日米軍事情報保護協定発効
あんまり日本の情報漏洩がひどいから、アメリカがなんとかくい止めようとして
水漏れ防止みたいに協定を結んだのかと思っていたら、違うんですって。
もう日本の漏洩体質にはあきれ果てているので、今更っていうことがあるんだけれど
ほら、あれこれ高い兵器を買ってもらいたいでしょ。
日本には性能のいい最新の兵器なんか売ったら、すぐ漏れちゃってたいへんじゃない。
そこで、情報が漏れても大丈夫なように、欠陥のある兵器とか、古い兵器をちょっと
リメイクしたのなんか取り混ぜて売りたいわけよね。
そうして売ったら、気がついた防衛省はまさか騙されました、っていう訳にはいかない
ので内部告発っていう形もあるし、国民が調べてなんだこれは、とか言い出さない
とも限らないし。まあ、当面ばれないための絆創膏としての働きらしいのね。
ここのところ、日本は今までと違った戦略で動いているのにどうも気づかれちゃった
みたい。ほら、アメリカ側の目の色が変わってきたでしょ。
っていうか、だいぶ日本の防衛省の隠れた顧問になる外国人たちがいて
なかには、アメリカのかつての政府高官たちもいるらしい。
日本に平和憲法をもたらしたっていうDNAが動いているんじゃないかしらね。
それに日本人の芝居好きっていうのも侮れないんだわ。
なんか、ニコニコしてて見切りをつけるのは早いところがあるんだし。
ま、アメリカもそろそろ看板を架け替える時期じゃないかっていうのが
世界中の見方らしいけど、日本は、「いつまでもアメリカが大好き!」