メゾフォルテからあなたへ

ちょっと違う視点から歴史を語りたい。

2015年11月

徳田秋声「風呂桶」は こちら

津島という姓はそれほど多くはないと思われる。
大正13年当時、太宰治は本名である津島修治として旧制青森中学に在学していて、教師や同級生たちをその作文力で驚かせていたのだという。

興文社「近代日本文藝讀本」での編集で、徳田秋声から抗議を受け、芥川龍之介は謝罪の手紙を何通か書くなど対応に苦慮したらしい。 → こちら
この「近代日本文藝讀本」は当然トラブルが予想されたのではないだろうか。
生真面目な芥川龍之介に、次々と苦難が浴びせられていったように思われる。


昭和18年11月21日の徳田秋声の葬儀に太宰治は出席している。(つづく)

ひきつづいて、岡富久子「作家の横顔」 ――菊池寛氏の思い出―― より

・菊池先生が、戦争中、文藝春秋社の社長であったために、戦争に協力したという名目で、戦後GHQの追放リストにのせられ、おもてだった執筆を禁じられた時、父はチラッと涙を浮かべたようであった。
「あれほど自由主義のために、民間人で政府とたたかった人間も少いんだよ。アメリカの手で、彼を文部大臣にするぐらいでなければいかんなあ」
と父は歎いた。
・私は自分が、まるっきり世間知らずで無智で甘い、ということに気がついた。しかし、政府の奨学資金だけは貰えることにきまったので――当時は奨学生は少数だったせいもあり、その頃の物価の関係かなりの額で、相当有効であった――当分、何とかなる、と私はのんきであった。学校の事務関係の封筒書きをしたり、家の中で理科の学生に英語を教えたり、学校の同窓会からお金を借りたり、疎開先の家から持ち出して来た衣類を売ったりして、細ぼそと暮しがたっていた。
 すると、突然、ある夜十時であったが、菊池先生の使いの人が、先生のお手紙を持って寮に訪ねて見えたのである。お手紙には、「使いの者と一緒に至急来るように」とだけ書いてある。舎監に届けると、何事が起こったのでしょう、とびっくりして、夜遅いのに例外を設けて外出を許可してくれた。使いの人に事情をきいてもさっぱり分からない。私の学校は郊外で遠いから、雑司ヶ谷の先生のお宅に着いたのは夜ふけであった。そして、先生は私にどかっと盛りだくさんの調べものの仕事を与えられたのであった。
 反抗されると、ぷいとお怒りになるけれど、それが無法な反抗ではないと認められると、許して今度は積極的に援助してくださる、そんなふうなかただったろうか、と私は思う。

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東京・小平にある津田塾大学の寮に、わざわざ夜遅く使いを出すという菊池寛のひらめきとは、岡富久子に何らかの役割を与えようとしたからではないだろうか。

岡富久子の両親は、岡栄一郎と野口綾で、この2人の結婚には芥川龍之介夫婦が媒酌人を務めている。
岡富久子が誕生してまもなく、この夫婦は嫁姑問題で離婚したのだとか。
この離婚は、弱っていた芥川龍之介にとってけっこう負担に感じるものであったらしい。

岡富久子は、父親と祖母に育てられ、戦争もあって経済的にもかなり苦労したようである。
岡栄一郎は芥川から小説よりも劇作家になることを勧められたとのこと。
映画作りにも参加したのだとか。

その岡栄一郎の娘ならば、自分の最期について淡々と映像のように描写してくれる、と菊池寛は期待したのかもしれない。

岡栄一郎は徳田秋声の甥なのだとか。徳田秋声については、こちら

もしかしたら、岡富久子の起用はもっと深い意味があるのかもしれない。


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岡富久子「作家の横顔」 垂水書房 1964年

序文 池島信平 より
・雑誌記者という職業は、作家に近づくことから商売をはじめなければならぬが、その近づき方が、たいへんむつかしい。遠くてはダメだし、甘えて溺れてもいかぬ。そのかね合いのところに、ベテラン記者のネウチがあるのだが、岡さんのこの文章は、少々甘えの方に傾いている。だから、こうした、よい本が出来上がったともいえよう。
 岡さんという人は、正直で、素直で、オトコノコみたいで、「まあ、一杯、飲みましょう」という気を人に起こさせるところがある。

常識 非常識 ――菊池寛氏の思い出―― より
・菊池先生の亡くなられた時、私は編集者をしていたわけではない。それは私が津田塾の二年の終りであった。
 私の父は大正の文士くずれで、「文藝春秋」の初期の同人でもあった関係で、菊池先生とはずっとおつきあいがあった。父が途中から文壇とは無関係になったために、利害を伴わないから、かえって友情が純粋に続いていたというようなこともあるかもしれない。
・とにかくそんなふうで、父を通じて、ごく幼少の頃から菊池先生を知り、終戦と同時に、私の家は経済的に崩壊したので、私は菊池先生にお願いして、先生の秘書のそのまた秘書のような仕事をいくばくか与えていただいていて、学費や学校の寮費の補ないにしていた。補ないというよりは、政府の奨学金とアルバイトの稼ぎだけで戦後の学校生活を通した私にとって、それは重要な生活費であった。
・(1948年 3月7日 日曜日)
 今、寮に帰ってきたところ。お茶を飲んでやや元気が出た。全身綿の様に疲れ、熱っぽく苦しい。(註=のちに判明したことだが、当時私は栄養失調という病気におちいっていた。年中原因不明にけだるくて熱っぽく風邪をひいたような具合いなのであった。)
・昨日夕方、菊池邸に行った。外泊のつもりにて。第二応接室で夕飯を食べた。ご飯の上にまぐろの刺身がのっているので、おや、今日は御馳走だな、と思っていた。そのうち、私も此の間会ったことのあるミスター・ボード(註=アメリカのシビリアンで菊池氏の文学の理解者)が現れ、第一応接間の方で、英樹さんやナナ子さん(註=菊池氏の令息と令嬢)も一緒に饗応しているらしい様子。
・9時少し前であったろうか。菊池氏ちょっと姿をあらわす。あ、と立ち上がってお辞儀をすると、例のくしゃくしゃと縮んだ表情でそれを受けとめ、また向うの部屋に帰って行く。そのうち、お顔の色が真青だという様な声が聞え、みんなバタバタと二階に上って行くらしい様子。聞くと、此の間から2週間」ばかり胃腸をこわして寝ていたという。が3日程前から起きられるようになり、今日はその床上げのお祝いだという。道理で奥の方ではお酒を飲んでいるらしい様子だし、御馳走のあったのもうべなるかなと思い、多分お客と接したりしたので気分でも悪くなったのだろうと簡単に考えていた。
・と、廊下をもう一人のチビの女中が泣きながら走って来る。「あら、どうしたの」と尋ねている。「先生が死んじゃった」そして、あとはわあーっという泣き声。私ははっと棒立ちになったままどうしてよいか分らない。何の感情も湧いては来なかった。一片の悲しみも一片の歎きも私の心をかすめはしなかった。全くの無表情。
・ミスター・ボードがおろおろして、藤澤閑二氏(註=女婿)に「病院にでもお連れしたら、いかがですか」とおぼつかない日本語で言っている。「いや、もう駄目なんです。もう死にました」「そうでしゅか、でも」「もう死にました、駄目なんです、有難うございました。あなたに最後をみていただいて最も好きな人だけに会って死んだんでしょう・・・・・・・・いや、もう駄目なんです」 閑二氏の高い声の調子がびんびんと耳に響いて来る。私はふと、理由のない怒りを感じていた。死んだ、死んだという言葉が、妙に冷たく、奇怪に響くのだ
・私は家の人達が、菊池氏の横たわっているベッドをぐるりと取り巻いているその部屋に入ることは入ったが,さてどうしてよいのやら分らず、ただ入口に立ったまま当惑していたが、ああ黙禱でもするのが常識なのだろうと思い、黙って数分首を垂れていた。本当は菊池さんの枕もとに駈けよって、やはり私はその顔を見たかったのだ。慕っている、といえば嘘になる。しかし、ある種の愛情がやはりあったらしい。だが、私にはそれが出来なかった。家人の表情のみが意識されて、私は石像の様な、血の一滴もない無表情をしてしまったのだ。(つづく)

菊池夏樹「菊池寛急逝の夜」 中公文庫 2012年
2009年4月に白水社から出版されたものだとのこと。

菊池夏樹は菊池寛の孫であり、昭和23年3月6日の菊池寛の亡くなった夜に焦点を当てて、という評伝の書き方は興味深いものがある。

裏表紙から
・昭和二十三年三月六日、人気作家で文藝春秋を興した稀代の出版人であった菊池寛の自宅では、快気祝いの宴がひらかれていた。身内が集まり主治医もまじえての歓談の最中、席を立った主役を襲った突然の悲劇。
文壇の大物の急逝に、周囲は騒然となった――。孫である著者が、その破天荒な生涯を愛情をこめて描く。

p.122
・百々生は、英樹の妻である。
 包子は、百々生を嫌っていた。家庭人は化粧をするものではない。化粧をするような女は水商売の者だけと考えている包子のところに、よりによって映画女優が嫁に来た。
 包子は、彼女のすることなすことが気に入らなかった。
 しかし、今日の包子はいつもと違ってそんなそぶりを見せなかった。久しぶりに親戚の女性が集まるからか、どこか浮き浮きしているようであった。
 彼女の話しぶりや女中たちに支持する様子から、彼女が前々日まで家出していたと考えるのはむずかしかった。
 包子は、夫の浮気が原因で半年前に家出をして、石神井にある別荘に逃避し、以後、雑司ヶ谷の家には戻らなかったのである。二週間前に夫が倒れたという知らせを受けても戻ろうとしなかった。
 病気になって弱気になった菊池寛は「快気祝い」を家で開くということを口実に、次女のナナ子を迎えにやらせたのだった。
 その間、親戚筋には、妻の包子が実家のある四国の高松へ行っていることになっていた。
p.131
・呼び鈴の音がした。女中の「ハーイ」と言う返事とともに玄関の扉の開く音が聞こえた。二人の米国人が入ってきて、祖父や英樹に握手を求めた。
 一人は、進駐軍の軍医でトロッターという。背の高いほうが、ロバート・ボイドといった。ボイドは、現在のCIA、当時のCIG、アメリカ諜報機関の勤務で、パージを受けた菊池寛のお目付け役である。しかし、菊池寛と交流している間に菊池に惚れ、ほとんど毎日この家に入り浸るようになった。何もない時代に、この家に外国製の缶詰や菓子類があったのも、この男のおかげであった。
p.145
・客の中に、津田塾大学の学生がいた。後に文藝春秋の編集者となる岡富久子である。
 富久子の父栄一郎は作家で、菊池寛とは若いころからの友人だった。彼が結婚するときの媒酌人を務めたのは芥川龍之介である。
 彼女は、幼少時代から数年に一度という割合であったが、散歩のついでに父に連れられて遊びに来ていた。成人してからは、一人でやってきた。
その岡富久子が、当夜のことを日記に生々しく書き記している。その文章はのちに「婦人画報」に連載され、昭和三十九年九月に単行本化された。『作家の横顔』(垂水書房)の中の「常識 非常識――菊池寛氏の思い出」がそれである。

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なお、英樹とは菊池寛の長男で、その息子が菊池夏樹である。

昭和二十三年三月六日、菊池寛の快気祝いの場にいたのは、『菊池寛急逝の夜」によれば
菊池寛・包子夫妻 3人の子どもと2人の孫、2組の甥夫婦 
池島信平(文藝春秋)  岡富久子(津田塾生)
軍医トロッター  ロバート・ボイド(CIG) 
主治医大堀  料理人宮内 女中たち
ということである。

ふと、菊池寛は、自分の最期を一幕ものの劇として仕立てなかったか、という思いが浮かんだ。

なぜなら、岡富久子は、菊池寛の最期の語り手として選ばれたのではないか、と感じるからである。
その文体は若いころの菊池寛が上田敏について書いたものに似ている。

もしかしたら、岡富久子にもっと踏み込んで批判的に書いてもらうつもりであったかもしれない。
上田敏や芥川龍之介に対する罪滅ぼしのために。


世田谷方面にはほとんど出かける機会がなかったのですが
東急電鉄の株を買ってみたら、株主優待の切符や美術館のチケットが送られてきたので
思い切って出かけてみました。

西武池袋線小手指駅から元町・横浜中華街行きの電車に乗ると、自由が丘駅乗り換えで東急上野毛駅に到着。
いつの間にか便利になっていたのですね。

五島美術館については こちら

起伏に富んだ広い庭園がすばらしいと思いました。
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こうして写真を並べてみると、日本のあちこちに平和への願いというものがあるのだ感じます。
空爆にさらされるシリアやIS国がかつての日本の姿なのであったのではないか、と複雑な思いがします。

たとえば、この門が平和への門とならないものでしょうか。
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絶望してテロへと向かう若者に伝えたい、とどこかで森鷗外は思ったのではないでしょうか。

森鷗外に限らず、日本の明治時代に生きた若者たちの勉強量はどれほどのものであったのでしょうか。
欧米の書物が日本語に翻訳され、多くの人々が学んだことでしょう。

欧米の思想を理解し、それを翻訳できる人間が多くいたというのはほんとうに不思議な気がします。


きょう家に古本屋さんに来てもらい、主人の残した本の一部の買い取りをお願いしました。
古本の市場は活発なのだとか。洋書についても市場で買ってもらえて、その先で役に立ちそうだとか。

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テロが続いている今、広島で原爆に遭遇して戦争というものを見つめた主人は、
もし、テロに向かおうとする若者がいたなら、まだまだ多くの勉強が必要だというのではないかと思います。

もしかしたら日本語を学ぶことは、「急がば回れ」となるかもしれません。
明治以降、日本は多くの教訓を蓄積してきた国だからです。


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樹木と対話を試みる必要があるのではないか、とときどき思うことがあります。

共存のあり方をぜひ教えたいと思っているかもしれませんね。





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展示部会の後片付けです。
年を取ってくると、祭りの余韻ともいうべき空気が心地よかったりします。

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この床材を巻き上げる作業がたいへんなのです。
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巻き上げがきれいにできたりできなかったりです。この1本がけっこう重いんですよね。
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この山口地区文化祭が始まったころの日本は、平和のありがたさというものを感じていたのだと思います。
今から思うと、その昭和30年代には、皆活き活きしていたような気がします。

山口地区文化祭では、そのころの空気をしっかりと感じることができます。



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例年と同様に菊花展が行われていて、たくさんの菊の鉢が並んでいました。

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3本仕立ての菊は、「天地人」を現しているのだとか。
天地人については こちら
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芸能部会では2日間で26サークルの舞台発表が行われていました。
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模擬店の一角で、Hさんという方が似顔絵を描いておられました。
Hさんは、山口地区文化祭のユニークなポスターを作成されています。
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この右に写っている手の方に誘われて、描いていただきました。
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その方に写真を撮っていただきました。
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完成した似顔絵です。
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仕上がりにビミョーな気がしないでもないのですけれど・・・・


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模擬店部会によるお店がにぎわっていました。
比較的暖かな2日間だったのでよかったですね。
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この文化祭の準備のために3回の実行委員会が開かれます。
実行委員会は、総務、展示、芸能、模擬店、イベントの5つの部会から成り立っています。

展示部会は文化祭の2日前に体育館に床を敷き、掲示板をつくります。

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さまざまな力作が展示されます。これはほんの一部です。
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高齢者と子どもたちが自然に交流しています。

こういった文化祭や学校の課外授業だけではなく、地域で日常的な居場所づくりを進めるのはいかがでしょうか。



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第57回所沢・山口地区文化祭での餅つきの様子です。

日本はあちこちの祭りを世界に向けて発信する必要があるのだと思います。
義務といってもいいのかもしれません。

平和の姿というものを見てもらいたいと思います。
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10月末の午後、境内は静かでした。
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本堂後ろには、小笠原家の墓があります。
狭山市HPから こちら

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旗本とはどういう存在であったのでしょうか。→ こちら
大番については こちら
この天岑寺のすぐそばに自衛隊入間基地が広がっているのは偶然なのでしょうか。→ こちら

小笠原一族や徳川家康の守りにかける執念ともいうべきものが感じられました。



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西武新宿線新狭山駅から徒歩で15分ぐらいのところにある天岑寺(てんしんじ)へ出かけました。
天岑寺については こちら

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東アジアの融合というものが強く感じられました。



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