赤穂浪士討ち入りは、本能寺の変に似ている。

5.15事件や2.26事件もまた同じような印象である。

先行する事件が影響を与えていったということはあるのかもしれない。

 

本能寺の変について本城惣右衛門覚書というものが存在するのだという。

テレビのワイドショーの事件現場のレポーターのような働きをしていているの

だけれど肝心なことがわからない ・・・・・

 

本能寺の変からだいぶたってからとはいえ、江戸時代、見ざる聞かざる言わざる

の時代に語れることはほとんどないだろう。

行間から無理やり推理してみるという余地が大いにあるとも考えられる。

以下は、その本城惣右衛門覚書である。

 

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、

 ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、

 それハミなうそにて候ハん、と存候。

其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、 ゆめともしり不申候。


 明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、

本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものが

いたらそれはみな嘘です。  その理由は、信長様を

ねらうとは夢にも知らなかったからです。


其折ふし、たいこさまびつちうニ、 てるもと殿御とり相ニて

御入候。 それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。


 その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに

侵攻していました。その援軍に明智光秀が行こうと

していました。


山さきのかたへとこゝろざし候へバ、 おもひのほか、

京へと申し候。 我等ハ、其折ふし、いへやすさま

御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。

ほんのふ寺といふところもしり不申候。


 ところが山崎の方に行くと思いましたのに、

そうではなくて京都へ命じられた。我らはその時は

家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つ

とばかりに思っていました。(目的地の)本能寺と

いうところも知りませんでした。


人じゅの中より、馬のり二人いで申候。

たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、

 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、

我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。


 軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。

誰かと思えば、斉藤くら介(利三)殿御子息と小姓でした。

本能寺の方に行く間、我らはその後に付き、

片原町へ入っていきました。


それ二人ハきたのかたへこし申候。 我等ハミなみほりぎわへ、

ひがしむきニ参候。


 そして二人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ

東向きに行きました。


ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、

 其まゝ我等くびとり申候。


 本道へ出ました。その橋の際に人一人がいたので、

そのまま我らはその首を取りました。


それより内へ入候へバ、もんハひらいて、 ねずミほどなる

物なく候つる。 其くびもち候て、内へ入申候。


 そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて

鼠ほどのものもいませんでした。先ほどの首を持って

内へ入りました。


さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたより

はい入、 くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、

をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。

かやばかりつり候て、人なく候つる。


 おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、

「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、

(堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないでした。

蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。


くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、

我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。

 うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、

のぶながさまとハ不存候。 其女、さいとう蔵介殿へ

わたし申候。


庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を

我らは捕らえましたが侍は一人もおりません。

(女は)「上様は白い着物をお召しになっています」

と申しましたが、それが信長様だとは存じませんでした。

その女は、斎藤蔵介(利三)殿に渡しました。


御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、

 もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。


(信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、

股立を取り、二三人が堂の中へ入ってきました。


そこにてくび又一ツとり申候。 其物ハ、一人おくのまより出、

おびもいたし不申、 刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。

其折ふしハ、もはや人かず入申候。 それヲミ、くずれ申し候。

我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、 かの物いで、

すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。


 そこで首を又一つ取りました。  その者は、一人奥の間より

出てきて、帯もしていませんでした。 刀を抜いて浅黄色の

帷子を着て出てきました。 その時に、かなりの人数の(我らの)

味方が入ってきました。 それを見て敵は崩れました。

我らは吊ってある蚊帳の陰に入り、この者が出てきて

通り過ぎようとしたときに後ろから切りました。


其時、共ニくび以上二ツとり申し候。 ほうびとして、

やりくれ被申候。


その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。

褒美として槍をいただきました。


のゝ口ざい太郎坊ニい申候。


 のの口ざい太郎坊の配下にいたときのことです。

本能寺の変について、信長の嫡子信忠の動きがフロイスによって詳細に述べられて

いることから、キリシタンとなった信忠が信長を討ち、その後に信忠が光秀との戦いで

敗れたのではないか、と思ってみた。

しかし、なぜ用心深い信長がその日に警備を手薄にしたか、という

点が疑問である。

 

秀吉が後に天下をとったことからすれば、信長にとって秀吉は警戒すべき存在であった

と思われる。子煩悩であったといわれる信長は秀吉を排除する必要があっただろう。

しかし、秀吉は忠実にふるまい、その口実をなかなか与えなかったはずである。

信長は秀吉の留守に寧々を招いたのではないか。

光秀の反逆の理由として、光秀の妻を信長が望んだという話があるという。

しかし光秀の妻熙子は痘瘡のためあばたがあったといわれている。

 

信長が寧々にあてた手紙は寧々との関係を感じさせ、秀吉に手紙をみせろと

いっているものであった。

信長の寧々への手紙については こちら

いっぽう光秀による愛宕百韻は、読み様によっては寧々への指示ともとれると

感じられる。

フロイスにそそのかされた信忠に朝廷が協力するふりをしてあれこれ場面を設定し

たのではないか。

光秀や寧々は朝廷に近い人物である。

 

多くの人間たちが凡庸な信忠が後継となることについて

再び戦乱の世にするわけにはいかない

国を滅ぼさせるわけにはいかない

何とかしなくては、と思っていただろう。

 

 

本城惣右衛門覚書に「北のかた」が2度出てくる。

どこへ向かうのか知らないまま先導されて京都に入り、方角がすぐわかるもの

だろうか。わかったとしても、方角が意味のあることとは思えない。

「北のかた」とは寧々のことをいいたかったのではないか。

 

さらに斉藤利三殿ご子息とは信忠についていたという斎藤長龍のことではない

だろうか。

斎藤長龍については こちら

 

戦国時代を生きた人間は、おそらく今を生きる我々より何倍もの能力があり

英雄色を好むといわれるように情においてもその深さというものは想像以上

のものだと思われる。

 

信長は自らの運命を予知していたのかもしれない。

 

是非に及ばず ・・・

急襲をうけて立ち去る寧々に信長がかけた言葉ではなかったか。

白い輝くような背中を目に焼き付けて、信長の口をついて

出た言葉であったとすれば、悔いはない、という意味であっただろう。

 

寧々は秀吉あるいは光秀より信長に魅かれていたような気がする。

信長から寧々にあてた手紙が残っているところをみると。

 

本能寺の恋、そういったものがあったことにしてみたい。

それにしても恋よりも濃い感情をなんと呼べばいいのだろう。

 

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