「見送る人々」は1938年に二科展に初入選の作品とのこと。そして阿部合成の代表作となったのだという。日中戦争の出征の見送りを題材としているとのこと。

黒田猛「幻の画家 阿部合成と太宰治」より
・画面の左下隅に子供達、その後ろに中学生、青年、中年男。熱狂して日の丸を振る群衆は、くずれおちる怒涛のように鑑賞者の頭上におおいかぶさる。その人波のかげには泣きくずれる女達老人達。右上の空間には飢饉(ケガジ)で荒れた野面を遠去かってゆく雪ぞりの上の出征兵。ここには絵巻物の、時間的経過を同一画面上に同時存在させた手法がとり入れられている。
絵の中心、対角線の交点には孫絵里子を抱いた老父を、その後ろに右頬をかくして凝視するのは妻千代、左隅の中学生は教え子の小坂圭二がモデルになったと聞いている。
実際の津軽の見送り風景がこのままだったというのではない。この絵は見送る人々それぞれの心の中にひそむ「君死にたまふことなかれ」の真実を阿部合成は描いたのである。だからこそ会場では人々の足をとめ、目をひき、国際写真情報の口絵にとりあげられたのである。
********************************
1937年(昭和12年)の7月に杉並にアトリエが建てられ、秋に長男和唐が誕生して、充実した環境の中で完成された作品であった。
しかし、この「国際写真情報」に掲載されたことによって、28歳の阿部合成は反戦画家としての扱いを受けることになったらしい。 → こちら
日本人が悲壮な黒人もしくは無智な土人のような印象を与え聖戦に影響を与える・・・・・
1938年ならばまだ引き返すこともできたのかもしれないのに、外交官の一言は大きな影響があるという例ではないだろうか。
昭和13年に反戦画家とされることによって、活動の場が少なくなり、また軍に3度召集され、その3度目で中国・満州に転戦、シベリア、北鮮で抑留生活とのこと。
抑留されたときは、画家としてソ連兵の似顔絵を描いて部下を養うなどリーダーシップを発揮できたらしい。
しかしまた、その抑留生活の中で持ち前の大きな器が傷つけられた・・・・・ということがあったのではないだろうか。帰国後しばらく異常な行動があったとのこと。
さて、この「見送る人々」が描かれていたときは、太宰治は最初の(内縁の)妻小山初代と別れて美知子と結婚する前であり、杉並のアトリエをよく訪れていたらしい。
この絵の群衆の中に太宰治はいないものか・・・・・
右上の生気を失った手 これは太宰治の手ではないだろうか。
もしそうならば、なんとまあ、複雑な関係なのだろう。
黒田猛は、この絵とともに太宰治「風の便り」をあげている。「風の便り」は こちら
嫉妬とかでは説明できない、複雑な愛憎でしかも自分と相手の気持ちが入れ替わったりするような関係とでもいうべきか。
阿部合成は、自分の運命を予知して太宰治の手で表現した?
自分の運命というよりは、日本の運命であるのかもしれない。
阿部合成と太宰治の透視力が重なった絵・・・・・ということだろうか。
そしてまた、阿部合成のこの絵によって、気の小さな太宰治は覚悟ができたのかもしれない。
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黒田猛「幻の画家 阿部合成と太宰治」より
・画面の左下隅に子供達、その後ろに中学生、青年、中年男。熱狂して日の丸を振る群衆は、くずれおちる怒涛のように鑑賞者の頭上におおいかぶさる。その人波のかげには泣きくずれる女達老人達。右上の空間には飢饉(ケガジ)で荒れた野面を遠去かってゆく雪ぞりの上の出征兵。ここには絵巻物の、時間的経過を同一画面上に同時存在させた手法がとり入れられている。
絵の中心、対角線の交点には孫絵里子を抱いた老父を、その後ろに右頬をかくして凝視するのは妻千代、左隅の中学生は教え子の小坂圭二がモデルになったと聞いている。
実際の津軽の見送り風景がこのままだったというのではない。この絵は見送る人々それぞれの心の中にひそむ「君死にたまふことなかれ」の真実を阿部合成は描いたのである。だからこそ会場では人々の足をとめ、目をひき、国際写真情報の口絵にとりあげられたのである。
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1937年(昭和12年)の7月に杉並にアトリエが建てられ、秋に長男和唐が誕生して、充実した環境の中で完成された作品であった。
しかし、この「国際写真情報」に掲載されたことによって、28歳の阿部合成は反戦画家としての扱いを受けることになったらしい。 → こちら
日本人が悲壮な黒人もしくは無智な土人のような印象を与え聖戦に影響を与える・・・・・
1938年ならばまだ引き返すこともできたのかもしれないのに、外交官の一言は大きな影響があるという例ではないだろうか。
昭和13年に反戦画家とされることによって、活動の場が少なくなり、また軍に3度召集され、その3度目で中国・満州に転戦、シベリア、北鮮で抑留生活とのこと。
抑留されたときは、画家としてソ連兵の似顔絵を描いて部下を養うなどリーダーシップを発揮できたらしい。
しかしまた、その抑留生活の中で持ち前の大きな器が傷つけられた・・・・・ということがあったのではないだろうか。帰国後しばらく異常な行動があったとのこと。
さて、この「見送る人々」が描かれていたときは、太宰治は最初の(内縁の)妻小山初代と別れて美知子と結婚する前であり、杉並のアトリエをよく訪れていたらしい。
この絵の群衆の中に太宰治はいないものか・・・・・
右上の生気を失った手 これは太宰治の手ではないだろうか。
もしそうならば、なんとまあ、複雑な関係なのだろう。
黒田猛は、この絵とともに太宰治「風の便り」をあげている。「風の便り」は こちら
嫉妬とかでは説明できない、複雑な愛憎でしかも自分と相手の気持ちが入れ替わったりするような関係とでもいうべきか。
阿部合成は、自分の運命を予知して太宰治の手で表現した?
自分の運命というよりは、日本の運命であるのかもしれない。
阿部合成と太宰治の透視力が重なった絵・・・・・ということだろうか。
そしてまた、阿部合成のこの絵によって、気の小さな太宰治は覚悟ができたのかもしれない。
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コメント
コメント一覧
太宰治自身も意識して手を使ったのかもしれません。
ロダンの手、森鷗外の「花子」・・・・・当然、太宰治の頭の中にあったでしょうからね。
阿部合成の評伝は少ないだけに見る立場で分かれているのがはっきりとわかります。
私は太宰治の立場から読んでしまうようになっていて・・・・
しかも子育てや親や夫の見送りをしたという婆さんの目で・・・・
心の領域に踏み込む厚かましさをどうぞお許しくださいますように。
太宰治とその周辺については1つの事例として考えられるような気がします。
また男性間の友情?愛情?もっと別の表現があるのだと思いますが、磁力とでもいうべきものの分析はタブーであったのでしょうか?
支配欲というのものを自覚するようになれば、その抑制も可能かもしれません。
自分でもよくわからない支配欲が戦争への入り口?
多くの太宰治の評伝で、なぜ阿部合成が無視されたのか
やはり時間が必要であった、ということなんでしょうね。
忘却の時間だけではなく、(再びの道が感じられるときに)蘇るための時間
というか。
この「見送る人々」に太宰治が筆を入れたところがなかったのか・・・・・
あるいは太宰治の作品の中に阿部合成が書いたものが挟み込まれていなかったか。
合成という名前に想像が膨らんでしまいます。
太宰治もそういうところがあって、太宰治に引き付けられた人たちの間では太宰を独占したいという思いが強くなる?
また可愛さ余って憎さ百倍みたいなことになる?
しかも、戦争へと向かうようなときには男同士の結びつきが強まる?
兵士たちにそのような皇族軍人に対する熱烈な思いを抱かせる演出があった?
神秘的な存在にしておくとか。
それともヒトの集団での兵士というものが指令役のリーダーに忠誠心をもつのは本能のようなもの?
興味深いのは、太っている・・・・・
もしかしたら欧米の工作で太らされている?
心臓や足への負担が相当なものだと思いますけれどもね。
えっ、そういえばトランプ大統領も?
「大男総身に知恵が回りかね」というのは日本独特の感覚だったのか、みたいな反省というか、びみょー感があったりします。
ということは、むしろ小型の民族にとって有利☆
ということもあるのかもしれません。
一般的に、外国に在住している人間と国内にいる人間が分断?
とんでもない人間ばかりが日本に残っているので、早く日本はつぶれてしまえばよい、みたいな空気が作り出されている?
これは韓国でも中国でも事情は同じ様に感じられます。
日本は島国で比較的防衛しやすいところなので、日本をまるごと占領したい人達でもいるのかと思ったりするんですが・・・・・
しかし日本はそれなりに気難しい土地柄というかあれこれ災害が多いところだと思います。
また、解明されていない現象みたいなものがあったりします。
怨霊とでもいうべきもの、昔の人が怖れた祟りですね。
太宰治も阿部合成も、自分たちでも気づかずに、こういった怨霊を背負っていた、ということはないものでしょうか。
だからパワーがあったともいえるでしょうけれどもね。
集団存続のための生き残り策ということがあるのかもしれません。
後世から見れば、分断されてしまった・・・・・
となる?
その後の薩摩閥が存続したことからすれば・・・・・
いっぽうでは、何らかの囁きがあったりした?