太宰治の隠れたテーマとして、医療問題があったように思われる。

山内祥史「太宰治の年譜」 大修館書店 2012年 より
・明治21閏年(1888年)
 8月21日 西津軽郡木造(きづくり)村三十二番戸の屋号松樹堂の薬種問屋松喜屋
      八代七右衛門とその妻ひさとの四男永三郎が、津島家に婿養子として
      迎えられ、夕子と婚姻。
・明治25年(1892年)
 6月 父永三郎が源右衛門と願済改名した。
・大正11年(1922年)
 12月12日 ・・父源右衛門は貴族院議員となることが決定した。・・
 12月17日 金木の自邸でも祝宴会が催された。源右衛門は、12月20日頃上京、
       12月25日の帝国議会開院式に臨んで、流行性感冒にかかり、
       病勢日ましに昂進して入院。
       そののち、感冒は全治したが、発熱が衰えなかったという。
・大正12年(1923年)
 3月4日 東京市神田区小川町三十三番地佐野病院に入院中であった父源右衛門の
     容態が険悪となり、午後四時、ついに不帰の客となった。享年五十三歳。
     貴族院議員在任わずか四か月目の出来事であった。
 3月9日、10日付の「弘前新聞」は、死因を、「肺臓癌腫」と報道した。
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 縁が薄かった親子関係であったのかどうか。
 太宰治は、兄弟の中でもっとも政治に関心があったように見える。

 もし太宰治が源右衛門に似ているのなら、源右衛門は勘が鋭くて太宰治の素質を
見抜いたかもしれない。
 太宰治は小学校卒業後、旧制青森中学に入学する前の1年間を、金木町郊外にある高等小学校で過ごして、放課後、国語や算術の個人指導を受けたのだとか。
 
 この源右衛門の死因は、スペインかぜということは考えられないだろうか。
 スペインかぜについて こちら
 大山捨松は1919年にスペインかぜで亡くなっている。以前の記事は こちら
 日本でのスペインかぜについて、1918年から1921年までの統計は こちら
 
源右衛門が亡くなった1923年にはおさまったようにも思えるのだけれど・・・・・
9月に関東大震災があって、スペインかぜの集計どころではなかっただろう。

父源右衛門が亡くなったのち
1929年 弟礼治が敗血症のため急逝。享年18歳
1930年 三兄圭治が肺結核のため逝去。享年28歳
1937年 三姉あいが逝去。享年34歳
と家族の死が続いた。

スペインかぜとアスピリンの関係について見つけた記事は こちら

父源右衛門の実家が薬種問屋であったこともあるのか、太宰治は薬に詳しかったようである。
もしかしたら、自ら実験とか、病院に潜入とかを考えなかっただろうか。

 
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