太宰治「惜別」は、私にとっては好きな作品の1つであるけれども
評価が分かれるようである。
「惜別」については こちら

評価には魯迅研究の竹内好からの批判が取り上げられてきたようである。
竹内好については こちら
この竹内好は筑摩書房から全集が出ていて第13巻には「太宰治のこと」が収められている。
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・そんなわけで『魯迅』を書きあげて間もなく召集がきたときは、跋を武田にたのみ、あわせて、寄贈者名簿に太宰治の名を加えた。知名人に自分の本を送るなど、私の性質としてできぬことだが、このときは生きて帰るあてはなかったし、それに『文学界』の一件があるので、気にかからなかった。しかし、太宰治がそれを読んでくれたかどうかは、昭和二十一年の夏に復員するまで知らなかった。
 太宰治は私の留守宅あてにはがきの礼状をよこしていた。そこに彼らしいきちょうめんな一面が感じられた。のみならず、彼に『惜別』という作品があり、そこで私の『魯迅』が利用されていることをはじめて知った。しかし『惜別』の印象はひどく悪かった。彼だけは戦争便乗にのめり込むまいと信じていた私の期待をこの作品は裏切った。太宰治、汝もか、という気がして、私は一挙に太宰がきらいになった。この作品が彼の命とりになるかもしれないという予感がした。
 1957年12月20日発行「太宰治全集」第3巻(筑摩書房)月報

この竹内好と太宰治について こちら に詳しくまとめられている。
この中で、太宰治が竹内好「魯迅」贈呈への返礼のハガキとともに「駈込み訴へ」の限定本と「思いは、ひとつ、窓前花」と墨書した色紙を送っていたことが書かれている。

太宰治の几帳面さというものはかなりのものであったわけである。

竹内好の「太宰治のこと」には後日談があって、亡くなっていた太宰治の側に立った反論があれこれあったらしい。
竹内好全集第13巻には「太宰治のこと」の後に「メモ二則」というものがあって
・たしかに私は、太宰治による魯迅思想の曲解に抗議した。しかし、その曲解を通してさえ太宰は太宰であった。つまり、毒はうすめられながらも最後まで毒であった。曲解をさらに曲解する人に私は何も言うことはない。太宰を温良中正化する大学教師の「客観的評価」などクソくらえだ。
とある。

「思いは、ひとつ、窓前花」は大きな働きをしたのかもしれない。
竹内好ならば、その意味するところをどう解釈したのか。
目に留まらなかったということもある?

「窓前草不除」が朱子学の思想からとのことであれこれ検索していたら
太宰春台なる人物が浮かび上がってきた。太宰春台については こちら
太宰治はもしかしたら太宰春台を目指したのかもしれない。

太宰治は、中国思想も学んでいたのだろうか。また太宰春台という名前から佐藤春夫と縁が深かった・・・のかもしれない。思いがけない展開である。


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