ここのところ、X(旧Twitter)やYoutubeに気を取られて、こちらはコメント欄だけになっておりましたことをお詫びいたします。

高齢になってみないと高齢者の身体や心理というものがわからないのだ、ということを痛感するこの頃なのですが、自分の若いころと比べて知識というものは何倍にもなっている、と思うことも確かです。
役立つかどうかはわかりませんが、耄碌する前に発信しておきたいと多くの高齢者が思っているのではないでしょうか。

絶版となった本でも簡単に安価に入手できる、それも読みたいと思ったらすぐ手に入り、読む時間もある、これは「自由」の具体的な1つの例であるかと思います。
家事や育児、介護それに伴う雑用といったものに追われて、新聞さえも読む時間がなかった私にとっては、ほんとうにありがたい境遇に感じたりします。これは男女ともに少し形を変えても同じなのかもしれません。気が付くともう残された時間は少なくなっていた、目や耳、記憶力が衰えていた、ということになるのですね。

現代の日本では、老若の分断があって、若い人たちに危うさを感じてもそれを伝えることが難しくなっているように感じられます。また、高齢者も地位にこだわるあまり、間違えた判断をする場合が多かったりします。男性社会である日本では、高齢の上司に対して抗いにくい仕組みが多いようです。
何かを変えたいと思ったとき、若い人たちは高齢の女性を味方につけるべきだと思ったりしますがいかがでしょうか。

知識が蓄えられてくると、本の選択も無駄が少なくなり、また若いときには理解できなかった著者の意図が想像できたりで、最近は読書で納得や感動を得ることがあったりします。

今まで評価されなかった、あるいは悪人とされてきた人たちの言い分も理解できるときもあります。

とりわけ災害多発の折、過去の知恵を知ることは大事であり、また具体的な思考力や実践力を鍛える機会とするべきではないでしょうか。
「絶望を与えよ」という大きな力でも働いているのか、と思ったりしますが、と同時に時空を超えて多くの励ます声に耳を傾けることが必要だと思います。

ときには海や山、空に目を向けて、100年、1000年という時間を感じることができる日本の恵みに気づくと、日常の難問を乗り越える力が湧いてくる・・・・ということもありそうです。

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(2024.10.15 東海道新幹線から)