地図を持たないでどこに行くのかわからない道を歩いてみるのは、けっこう楽しいものである。
読書でもそういったことがある。
新渡戸稲造が若いときに神経衰弱になり、カーライルの著作である「サーター・リサータス」(日本語訳では「衣服哲学」)を読んだら元気になったという記事を読んで興味を持った。
トーマス・カーライルについて、Wikipediaでは こちら
画像はWikipedia英語版より
さっそく、カーライル著 石田憲次訳「衣服哲学」 岩波文庫 を購入したものの
1946年第1刷 2010年第10刷
となっていて、古く小さな活字のため、婆さんには余計に内容が分かりにくくて門前払いされた気分。
こういう場合はめげずに、虎の巻を探すのが初心者の定石。
向井清「カーライルの人生と思想」 大阪教育図書 2005年 より
・カーライルは何よりも時代の「教師」(teacher)であった。そのことを明確に打ち出したのは、ジョージ・エリオットである。彼女は1855年に発表したエッセイ「トマス・カーライル」の冒頭で、「教育の最高目的」について書き、それを敷衍して「最も有効な作家」とは何かを論じでいる。論議の進め方はAではなくBである式の二項対立である。――まず教育の最高目的とは、結果そのものでなく、結果を得やすくするための精神状態を作ることが前提にあり、気高い行動をとるときの感情・共感を活性化させることにより、子供を道徳的にすることである。これと同じ理由で、最も有効な作家は、ある特殊な発見や結論を導き出す人ではなく、また、手段の正邪を示す人でもなく、発見に際して生じるはずの諸行動を人心に引き起こし、正邪への無関心から目覚めさせ、真理を求めてそれによって立つようにと鼓舞する人である。そのような人の影響はダイナミックであり、勇気で魂を奮い立たせ、肉体に強い意志を吹きこむものだ。だがそのような人は、気高い境地に到達しても冷静さと畏敬の念は失わずにいる。等々。それがカーライルであって、現代の優れた人で彼の著作によって考え方を修正されなかった者はほとんどいない。彼の意見に反対の者でも、その多くは『サーター・リサータス』の影響を強く受けている。
A.L.ルケーン著 樋口欣三訳 コンパクト評伝シリーズ10「カーライル」
教文館 1995年 より
・『衣服哲学』は分類も要約も拒む、不思議なロマン主義の傑作である。しばしば小説と呼ばれてきたが、小説という形式が現代においてもっているきわめて柔軟な概念にさえ当てはめることは無理であり、まして19世紀初期にはとうてい小説とは呼べなかっただろう。
・これは一見、奇怪なドイツ人の哲学者、ヴァイスニヒトヴォ(「所在不明」)大学、一般事物学教授ディオゲネス・トイフェルスドレッグ(「悪魔の翼」)が書いた「衣服についての哲学」に関する、その讃美者であるが当てにならない「編集者」が加えた解説にみえることだろう。
・(「衣服哲学」からの引用文として)
「その間、ごみ捨て場から毎年500万キンタルものぼろ切れが拾いだされ、水漬けして揉みほぐされ、加熱圧縮され、印刷され売られて、その過程で飢えた多くの人の口を満たしてから再びそこに戻ってくるのを見るのは素晴らしいことではないだろうか。かくてごみ捨て場、特にぼろ切れや衣服の廃品のあるごみ捨て場は、巨大な電池、動力源となり、そこを起点や終点として、社会活動が(陽電気と陰電気のように)大小それぞれ円を描いて、その活動が活性化している、強力な波状に渦巻き激しく動揺する混沌たる生の中を循環しつつ出入りするのである」――このような文章は、その著者を愛し、いささか尊敬もするわれわれをさえ非常に複雑な気持ちにさせる。
*キンタル:100キログラム *「」内が教授の「衣服についての哲学」で続く1行が編集者の解説
******************************
「衣服哲学」からの引用のごみ捨て場の部分は、書かれた当時は違和感を持たれたようだけれど、現代では望ましいリサイクルとして感じるのだから、カーライルは100年以上も先を想像できた、ともいえる?
こうしてカーライルについてつまみ読みをしていて、
夏目漱石に「カーライル博物館」という紀行文があったのを知ってびっくり。
→ こちら
夏目漱石は紀行文のような文章の方が生き生きとしているように感じられる。
野上彌生子が夏目漱石は容貌を気にすると語っていたが
この中でも
カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖(けんがい)の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌(ようぼう)であった。細君は上出来の辣韮(らっきょう)のように見受けらるる。
と書いていて、思わず笑ってしまった。
ほんとうは夏目漱石は新聞小説を書きたくなかった?
欧米思想の深層について、欧米側からすれば漱石にも鴎外にも書かせたくなかった、ということはないだろうか。
芥川龍之介や太宰治は、漱石や鴎外の行間を読み、すぐには気づかれないように欧米思想に切り込んだ、といえるかもしれない。
野上彌生子もまた、欧米の女性よりも自立した女性の生き方を示そうとした、といえるかもしれない。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
NO to 5G
読書でもそういったことがある。
新渡戸稲造が若いときに神経衰弱になり、カーライルの著作である「サーター・リサータス」(日本語訳では「衣服哲学」)を読んだら元気になったという記事を読んで興味を持った。
トーマス・カーライルについて、Wikipediaでは こちら
画像はWikipedia英語版より
さっそく、カーライル著 石田憲次訳「衣服哲学」 岩波文庫 を購入したものの
1946年第1刷 2010年第10刷
となっていて、古く小さな活字のため、婆さんには余計に内容が分かりにくくて門前払いされた気分。
こういう場合はめげずに、虎の巻を探すのが初心者の定石。
向井清「カーライルの人生と思想」 大阪教育図書 2005年 より
・カーライルは何よりも時代の「教師」(teacher)であった。そのことを明確に打ち出したのは、ジョージ・エリオットである。彼女は1855年に発表したエッセイ「トマス・カーライル」の冒頭で、「教育の最高目的」について書き、それを敷衍して「最も有効な作家」とは何かを論じでいる。論議の進め方はAではなくBである式の二項対立である。――まず教育の最高目的とは、結果そのものでなく、結果を得やすくするための精神状態を作ることが前提にあり、気高い行動をとるときの感情・共感を活性化させることにより、子供を道徳的にすることである。これと同じ理由で、最も有効な作家は、ある特殊な発見や結論を導き出す人ではなく、また、手段の正邪を示す人でもなく、発見に際して生じるはずの諸行動を人心に引き起こし、正邪への無関心から目覚めさせ、真理を求めてそれによって立つようにと鼓舞する人である。そのような人の影響はダイナミックであり、勇気で魂を奮い立たせ、肉体に強い意志を吹きこむものだ。だがそのような人は、気高い境地に到達しても冷静さと畏敬の念は失わずにいる。等々。それがカーライルであって、現代の優れた人で彼の著作によって考え方を修正されなかった者はほとんどいない。彼の意見に反対の者でも、その多くは『サーター・リサータス』の影響を強く受けている。
A.L.ルケーン著 樋口欣三訳 コンパクト評伝シリーズ10「カーライル」
教文館 1995年 より
・『衣服哲学』は分類も要約も拒む、不思議なロマン主義の傑作である。しばしば小説と呼ばれてきたが、小説という形式が現代においてもっているきわめて柔軟な概念にさえ当てはめることは無理であり、まして19世紀初期にはとうてい小説とは呼べなかっただろう。
・これは一見、奇怪なドイツ人の哲学者、ヴァイスニヒトヴォ(「所在不明」)大学、一般事物学教授ディオゲネス・トイフェルスドレッグ(「悪魔の翼」)が書いた「衣服についての哲学」に関する、その讃美者であるが当てにならない「編集者」が加えた解説にみえることだろう。
・(「衣服哲学」からの引用文として)
「その間、ごみ捨て場から毎年500万キンタルものぼろ切れが拾いだされ、水漬けして揉みほぐされ、加熱圧縮され、印刷され売られて、その過程で飢えた多くの人の口を満たしてから再びそこに戻ってくるのを見るのは素晴らしいことではないだろうか。かくてごみ捨て場、特にぼろ切れや衣服の廃品のあるごみ捨て場は、巨大な電池、動力源となり、そこを起点や終点として、社会活動が(陽電気と陰電気のように)大小それぞれ円を描いて、その活動が活性化している、強力な波状に渦巻き激しく動揺する混沌たる生の中を循環しつつ出入りするのである」――このような文章は、その著者を愛し、いささか尊敬もするわれわれをさえ非常に複雑な気持ちにさせる。
*キンタル:100キログラム *「」内が教授の「衣服についての哲学」で続く1行が編集者の解説
******************************
「衣服哲学」からの引用のごみ捨て場の部分は、書かれた当時は違和感を持たれたようだけれど、現代では望ましいリサイクルとして感じるのだから、カーライルは100年以上も先を想像できた、ともいえる?
こうしてカーライルについてつまみ読みをしていて、
夏目漱石に「カーライル博物館」という紀行文があったのを知ってびっくり。
→ こちら
夏目漱石は紀行文のような文章の方が生き生きとしているように感じられる。
野上彌生子が夏目漱石は容貌を気にすると語っていたが
この中でも
カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖(けんがい)の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌(ようぼう)であった。細君は上出来の辣韮(らっきょう)のように見受けらるる。
と書いていて、思わず笑ってしまった。
ほんとうは夏目漱石は新聞小説を書きたくなかった?
欧米思想の深層について、欧米側からすれば漱石にも鴎外にも書かせたくなかった、ということはないだろうか。
芥川龍之介や太宰治は、漱石や鴎外の行間を読み、すぐには気づかれないように欧米思想に切り込んだ、といえるかもしれない。
野上彌生子もまた、欧米の女性よりも自立した女性の生き方を示そうとした、といえるかもしれない。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
NO to 5G