メゾフォルテからあなたへ

ちょっと違う視点から歴史を語りたい。

タグ:夏目漱石

地図を持たないでどこに行くのかわからない道を歩いてみるのは、けっこう楽しいものである。

読書でもそういったことがある。

新渡戸稲造が若いときに神経衰弱になり、カーライルの著作である「サーター・リサータス」(日本語訳では「衣服哲学」)を読んだら元気になったという記事を読んで興味を持った。

トーマス・カーライルについて、Wikipediaでは こちら
カーライル1

画像はWikipedia英語版より

さっそく、カーライル著 石田憲次訳「衣服哲学」 岩波文庫 を購入したものの
1946年第1刷  2010年第10刷
となっていて、古く小さな活字のため、婆さんには余計に内容が分かりにくくて門前払いされた気分。

こういう場合はめげずに、虎の巻を探すのが初心者の定石。
向井清「カーライルの人生と思想」 大阪教育図書 2005年 より

・カーライルは何よりも時代の「教師」(teacher)であった。そのことを明確に打ち出したのは、ジョージ・エリオットである。彼女は1855年に発表したエッセイ「トマス・カーライル」の冒頭で、「教育の最高目的」について書き、それを敷衍して「最も有効な作家」とは何かを論じでいる。論議の進め方はAではなくBである式の二項対立である。――まず教育の最高目的とは、結果そのものでなく、結果を得やすくするための精神状態を作ることが前提にあり、気高い行動をとるときの感情・共感を活性化させることにより、子供を道徳的にすることである。これと同じ理由で、最も有効な作家は、ある特殊な発見や結論を導き出す人ではなく、また、手段の正邪を示す人でもなく、発見に際して生じるはずの諸行動を人心に引き起こし、正邪への無関心から目覚めさせ、真理を求めてそれによって立つようにと鼓舞する人である。そのような人の影響はダイナミックであり、勇気で魂を奮い立たせ、肉体に強い意志を吹きこむものだ。だがそのような人は、気高い境地に到達しても冷静さと畏敬の念は失わずにいる。等々。それがカーライルであって、現代の優れた人で彼の著作によって考え方を修正されなかった者はほとんどいない。彼の意見に反対の者でも、その多くは『サーター・リサータス』の影響を強く受けている。


A.L.ルケーン著 樋口欣三訳 コンパクト評伝シリーズ10「カーライル」
教文館 1995年 より
・『衣服哲学』は分類も要約も拒む、不思議なロマン主義の傑作である。しばしば小説と呼ばれてきたが、小説という形式が現代においてもっているきわめて柔軟な概念にさえ当てはめることは無理であり、まして19世紀初期にはとうてい小説とは呼べなかっただろう。
・これは一見、奇怪なドイツ人の哲学者、ヴァイスニヒトヴォ(「所在不明」)大学、一般事物学教授ディオゲネス・トイフェルスドレッグ(「悪魔の翼」)が書いた「衣服についての哲学」に関する、その讃美者であるが当てにならない「編集者」が加えた解説にみえることだろう。

・(「衣服哲学」からの引用文として)
「その間、ごみ捨て場から毎年500万キンタルものぼろ切れが拾いだされ、水漬けして揉みほぐされ、加熱圧縮され、印刷され売られて、その過程で飢えた多くの人の口を満たしてから再びそこに戻ってくるのを見るのは素晴らしいことではないだろうか。かくてごみ捨て場、特にぼろ切れや衣服の廃品のあるごみ捨て場は、巨大な電池、動力源となり、そこを起点や終点として、社会活動が(陽電気と陰電気のように)大小それぞれ円を描いて、その活動が活性化している、強力な波状に渦巻き激しく動揺する混沌たる生の中を循環しつつ出入りするのである」――このような文章は、その著者を愛し、いささか尊敬もするわれわれをさえ非常に複雑な気持ちにさせる。
*キンタル:100キログラム  *「」内が教授の「衣服についての哲学」で続く1行が編集者の解説

******************************
「衣服哲学」からの引用のごみ捨て場の部分は、書かれた当時は違和感を持たれたようだけれど、現代では望ましいリサイクルとして感じるのだから、カーライルは100年以上も先を想像できた、ともいえる?

こうしてカーライルについてつまみ読みをしていて、
夏目漱石に「カーライル博物館」という紀行文があったのを知ってびっくり。
→ こちら
夏目漱石は紀行文のような文章の方が生き生きとしているように感じられる。
野上彌生子が夏目漱石は容貌を気にすると語っていたが
この中でも
カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖(けんがい)の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌(ようぼう)であった。細君は上出来の辣韮(らっきょう)のように見受けらるる。
と書いていて、思わず笑ってしまった。

ほんとうは夏目漱石は新聞小説を書きたくなかった?
欧米思想の深層について、欧米側からすれば漱石にも鴎外にも書かせたくなかった、ということはないだろうか。

芥川龍之介や太宰治は、漱石や鴎外の行間を読み、すぐには気づかれないように欧米思想に切り込んだ、といえるかもしれない。
野上彌生子もまた、欧米の女性よりも自立した女性の生き方を示そうとした、といえるかもしれない。



人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

NO to 5G

森鴎外「伊沢蘭軒」は新聞の読者に不評だったようである。

たしかに「明暗」に比べて、長編でもあり退屈というか当惑というかそういった感想を持ってしまう。

野上彌生子の「海神丸」を読んで、「伊沢蘭軒」の読み方に気づいた・・・つもりになった。
この「伊沢蘭軒」は森鴎外にとって特別な作品であり、並行する物語が隠されている。

1916年(大正5年)
  3月28日 母峰子死去
  7月9日 上田敏死去
  12月9日 夏目漱石死去

その中で書き続けていたのだとすれば、夏目漱石と森鴎外の対話とともに、後半には森鴎外の遺言といったものが織り込まれたようにも思える。
読者の不評は耳に入っていたらしく、その不評に対決するような頑迷さみたいなものが感じられたりする。
読者は「明暗」のようなはらはらするような場面を期待してしまうのだが、「伊沢蘭軒」は平凡な人間を淡々と描いて、頼山陽や菅茶山までの広がりを知っている、あるいは興味を持つ人間だけしか価値がわからない作品となっている。

最後の部分で
わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。と言い切ったりしている。
若いときの癇癪持ちが戻ったのか?
それとも・・・・睡眠を削っての仕事で、老化が早く訪れたのか。

奈良五十首は、最後の力を振り絞ったものであることは確かだろうけれど。

******************************

鴎外にとって母峰子の死は重圧からの解放でもあったのかもしれません。

しかし、上田敏や夏目漱石の急死は、かなりこたえたのではないでしょうか。
ウツにならないコツは、めりはりのない新聞小説を書くような、淡々と規則正しい暮らしを心がけることかもしれませんね。
夏目漱石のように、メリハリをつけて書こうと苦心すると胃潰瘍に悩んだりするとか。


2つのランキングに参加しております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
DSC06553


DSC06554

たくさんの実をつけています☆



人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

NO to 5G

夏目漱石が12月に亡くなった1916年(大正5年)はどのような年だったのか。
3月に漱石の第五高等学校の教え子であり「早春賦」の作詞家である吉丸一昌が
7月に漱石の東大英文科の後輩である上田敏が
若くして急死している。
吉丸一昌については、フンドーキン醤油株式会社HPにも記事があった。→ こちら

夏目漱石は平穏な気持ちではいられなかったのではないだろうか。
以前の記事 太宰治を読む〔283〕は こちら

しかし、漱石の最後の作品である「明暗」はむしろ健康的な空気があったりする。
ある種の開き直りなのか、それとも周辺が補うことがあったのか。

夏目漱石「明暗」の冒頭は
・医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり搔き落として見ると、まだ奥があるんです」

それに対して、森鴎外「伊沢蘭軒」の冒頭は
・頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安芸国広嶋国泰寺裏門前杉木小路(すぎのきこうじ)の父春水の屋敷で、囲(かこい)の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屛禁(へいきん)せられて居り、文化二年五月九日に至って、「門外も為仕度段(つかまつらせたきだん)、存寄之通可被仕候(ぞんじよりのとほりつかまるらるべくそろ)と云う浅野安芸守重晟(あさのあきのかみしげあきら)が月番の達しに依って釈(ゆる)された。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。


漱石と鴎外の対話として深読みしてみると
漱石はわかり易く感じられるが、鴎外は歯が立たないというか(泣
頼山陽は漱石「草枕」で触れられている。また
大正5年10月18日の漱石から鴎外への手紙があるのだという。→ こちら
*三好行雄編「漱石書簡集」岩波文庫 1990年によれば、10月18日の手紙は森円月という人物宛になっている。ネットでの記事は間違いで円月は鴎外と別人? 名前を借りたとか?


新聞小説の書き出しで、頼山陽と冒頭に書けば、漱石宛ということになったらしい。

この「明暗」と「伊沢蘭軒」は新聞小説であった。
ネットやファックスのない時代、新聞は速さと確実性をもった伝達方法であったようである。

漱石と鴎外は草の枕、つまり情報収集や発信の役割があったのではないか。
2人で情報交換をし、また地方の草たちに情報を発信し、かつ教育もしていた・・・・・

日本のこれからのあるべき姿を文字通りの草の根から考えていた、といえるのかもしれない。

森鴎外の後期の小説は、福山藩に関わるものが多かったりする。
例えば廉塾については こちら
夏目漱石の妻鏡子は福山藩の士族の家柄だとか。


三島由紀夫が「鏡子の家」という題名を残しているのは、この鴎外と漱石の関係と思想を示したのだ、いずれそれがわかったときには、日本の奥深い防衛というものを誇ることができる、と考えたからではないだろうか・・・・。
三島由紀夫
写真はWikipediaから

**********************************
若いころに、中高年の婦人が指輪を全部はめて見せびらかした、などという話を聞いたりして私は決してそんなことはしない、と思っていたんです。

ところが、このブログはいつの間にかそれ以上の方向になっているようです(泣

この日本には見えないながらも守護神役をしてくださる方たちがたくさんいるんですのよ。ほほほ
と言ってみたくなっているとか。

誠にお見苦しい点をお詫び申し上げます。

2つのランキングに参加しております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

NO to 5G

野上彌生子の作品の中でも「海神丸」は、やはり目を引く。
(ブログ本文では彌生子とし、引用で弥生子とあるものはそのままとしています)

新潮日本文学アルバム「野上弥生子」 1986年
には、「海神丸」掲載の「中央公論」大正11年9月号の目次(部分)があり
さらにその部分がこの写真である。
DSC06545


今の時代に、この目次を見ていると、生き延びるには野上彌生子を参考にせよ、とほかの作家たちが口をそろえて語っているかのように感じられたりする。

説明文から
・弥生子の『海神丸』はこの時期を代表する傑作である。
大正五年十二月二十五日から、六年二月十九日まで小帆船、高吉丸が、佐賀関港を出航、宮崎県油津港至近の宮崎湾内細島に木炭船材を運ぶ途中、寒冷前線通過後に吹き出す西の突風にあおられて、日向灘海域赤江灘付近で東に流され、船長渡辺登久蔵(小説の小谷亀五郎)は高知県室戸港を目指したが叶わず、ミッドウェエー近海まで、千数百カイリを五十七日間流された。

・弥生子の弟小手川武馬(昭和四十六年七月六日没)が「毛筆一丈あまり」で事件の精細を書き送ったのは、大正九年の夏のことと思われる。

********************************

森鴎外が作家活動で下調べや校閲に妹や弟に手伝ってもらっていたように、野上彌生子も夫や弟から少なからずの助言をもらっていたので骨太の作品が書けたのかもしれない。と思ったりした。アルバムには弟と彌生子一家が写っている写真があった。(これも部分です)
DSC06548


野上彌生子全集 別巻二 岩波書店 1982年
文学史の余白に(対談 ドナルド・キーン)より
・私の弟はのちに臼杵の生家の仕事を継いで、酒造りを営み、二,三年前に亡くなったのですが、私の本当に仲のよい弟だったの。それが大学生のころは、私どものところに同居して、学校に通っていたんです。私たちは染井に、夏目先生はまだ西片町にいなすったことなのね。そのころ、西片町から染井というと、ちょうど秋の散歩などにちょうどよかったんでしょう。

 あるとき、先生がぶらっと寄って下すったんです。野上が留守で、先生はお上がりにならずにそのままお帰りになったんですけれど、ちょうど弟がいましたから、これが郷(くに)の弟でございますと紹介したの。弟は十八,九ぐらいでしたかね。

 ところがその次の木曜日に野上が先生のお宅に伺ったら、このあいだ会った弟さんは、彌生子さんの本当の兄弟じゃないだろう、腹違いだろうって、しきりに聞いていたというんです。弟はね、私の母に似て非常にきれいな美少年だったんですよ。だから、私はおかしいやら、腹が立つやら・・・・・。先生はふだん、どんなに私を変な顔の女だと思ってたのか、って。(笑)

先生は人の顔について本当に鋭敏だったんです。玄関先でちょっと会った男の子の顔を覚えていて、木曜会でちゃんと話題にするなんでいうところが、いかにも先生らしいのね。しかもそれを、弟の出入りまで気を配ってなどと、私の本の序文に書かれる・・・・・

*********************************
野上彌生子は、複合小説というか並行したり付け足したりの物語をつくるのが得意のようです。
1つだけでは面白くない、長生きしたから付け足すことができた、ということもいえるけれども。

序文とは 夏目漱石『傳説の時代』序 こちら
出入りとは、収入と支出という意味なんでしょうか?
夏目漱石は顔だけではなく能力にも鋭敏だった・・・・・
野上彌生子自身でも商家の生まれで金銭の管理はしっかりしていると書いています。

そういえば、夏目漱石は弟子たちの働き口にかなり気を配っていたようです。
弟子たちは手を焼かせるタイプが集まった・・・・・
そのせいで夏目家の台所事情は苦しかったのだとか。

野上彌生子の弟である小手川武馬は2代目金次郎として、大分・フンドーキン醤油の経営者の役割を立派に果たしたようです。→ こちら

夏目漱石との関係からも、野上彌生子の人を動かすのが上手な経営者的才能が見えてくるようにも思います。
地方創生や女性の生き方の参考になりそうです。

*****************************
というわけで「海神丸」をどうぞ。
岩波文庫の中古本が入手可能。付け加えられた後日物語のあとがきには

ひろくて狭いこの世の不思議なさだめを示す
との言葉があります。
高齢になって多くの人間が感じることではないでしょうか。



ランキングアップにご協力をお願いいたします(汗


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


NO to 5G

野上彌生子全集 別巻二
妻と母と作家の統一に生きた人生 記述 竹西寛子

 ・「あなたはリアリストとしての賢明さから、自分の特別条件のよい境遇の価値というものを十分理解していたと思われます。嘗て『青鞜社』の活動の旺んであった時代、伊藤野枝があなたのとなりに住んでいた時代、近くは急速な思想的動揺、歴史の展廻の時代、あなたはいつも其等の新興力に接触を持ち、作家として其等に無反応であるまいとする敏感性を示されましたが、しかしそれは常にあなたとして一定の間隔をおいてのことでした。或る時は理解ある母として、またあるときは理解ある友として、常に一種のグッド・センスをもって現実の自身の家庭生活に処しておられる。これも、婦人作家としての生きかたとして注目されるべき点です。」
 これは、「含蓄ある歳月―野上彌生子さんへの手紙」と題して『帝国大学新聞』(昭和11年11月)に発表された宮本百合子の文章である。絶えず世界の動きに関心を示し、特定の主義主張にはよらず、作家でありながら自由で鋭い政治的発言をしつづける野上として、知識人として一貫した姿勢にふれた、貴重な文章といえるだろう。


野上豊一郎「闘牛」は こちら
野上豊一郎は、細かく観察したことをしっかり文章で復元できる能力があるのではないだろうか。
野上彌生子にとっての初期の師は野上豊一郎であったそうである。

伊藤野枝の隣に住んだり、夏目漱石の弟子や妻である夏目鏡子とつきあったり、芥川龍之介や宮本百合子と付き合うことになったのは、すべて偶然であった・・・・ともいいきれないような。

となると、田辺元についても?

グッド・センスでもって、影響力が強い人物たちに寄り添ってコントロールするという役目を自らに課した、ということはないものだろうか。
*********************************

佐藤優「学生を戦地に送るには」の帯の裏側は
DSC06476


悠久の大義のために死ねば、永遠に生きられる とあるけれども 
悠久の大義がほんものであるかどうかが難しい

アマゾンで、戦後に出された、田辺元「歴史的現実」こぶし文庫 2001年
を購入した。(原本は1940年に岩波書店で出されている)
編者は黒田寛一  → こちら
わかりにくい難解な文章が並んでいる。 
革命家にとっては魅力のある文章ということなのだろうか。
古本で購入したため、あちこちに鉛筆で傍線が引かれている。
田辺元の影響力はかなり強力であるらしい。

この傍線を引いた人へ
その大義がほんものかどうか、立ち止まってよく考えてほしいと思います。

2つのランキングに参加しております。(汗
低迷気味ですのでよろしくお願いいたします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

NO to 5G

さて、野上彌生子のところに戻りたい。
野上彌生子は99歳まで生きた。

野上彌生子も芥川龍之介と同様に、漱石と鴎外に認められた新人であったといえる。
第1作は「明暗」、未完の遺作を「森」としたのは、題名に着目せよということだろうか。

芥川龍之介「三つのなぜ」は こちら (1927年4月、サンデー毎日掲載)
この中で
シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモンはかの女と問答をするたびに彼の心の飛躍するのを感じた。それはどういう魔術師と星占いの秘密を論じ合う時でも感じたことのない喜びだった。彼は二度でも三度でも、――或は一生の間でもあの威厳のあるシバの女王と話していたいのに違いなかった。
 けれどもソロモンは同時に又シバの女王を恐れていた。それはかの女に会っている間は彼の智慧(ちえ)を失うからだった。少くとも彼の誇っていたものは彼の智慧かかの女の智慧か見分けのつかなくなるためだった。

片山広子は美人だったので、シバの女王にあてはまるのは野上彌生子のように感じる。

佐々木亜紀子「野上彌生子の<準造もの>――(去私)の方法――
(愛知教育大学学術リポジトリ)は こちら 
によれば、芥川龍之介と野上彌生子は
1924年4月には「少年」と「お加代」
1925年1月には「大導寺信輔の一生」と「狂った時計」
が「中央公論」に同時に作品を掲載されているのだという。

1922年7月に森鴎外が亡くなって、8月に芥川龍之介はいわゆる保吉ものを開始し、
9月に野上彌生子は「海神丸」を発表する。
この骨太の作品に、体力が衰えつつあった芥川龍之介は圧倒された思いがしたのではないか。

視点を変えると、無防備のまま保吉ものを開始した芥川龍之介の助太刀に野上彌生子が・・・・
ともいえる?

1927年7月24日に芥川龍之介は「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」という短冊を主治医である下島勲に残したことがよく知られている。

新潮日本文学アルバム「野上弥生子」によれば、野上彌生子の実家である小手川家も同じ句が書かれた短冊を所有しているのだとか。かなり以前から準備をしていて短冊は複数あった?

野上彌生子が長命だったのは芥川龍之介のサポートがあったから、ということになる?

DSC05969




NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

森鴎外「細木香以」は、1917年に「東京日日新聞」および「大阪毎日新聞」に発表されたとか。
「細木香以」は こちら
この作品で、森鴎外は、芥川龍之介との関係について触れているのはよく知られている。

14回目で
頃日(このごろ)高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉(よ)ってこの稿の謬(あやまり)を匡(ただ)すことを得ば幸であろう。
最終部の冒頭で
右の細木香以伝は匆卒(そうそつ)に稿を起したので、多少の誤謬(ごびゅう)を免れなかった。わたくしは此(ここ)にこれを訂正して置きたい。
 香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。


芥川龍之介「森先生」は こちら


江口渙「わが文学半生記」より
 名刺には「森林太郎」とあるだけで、ほかになんにもない。私は名刺をそっと芥川の前におきかえた。芥川の目が名刺と鴎外の顔をみくらべた。と、思った瞬間、するどい緊張感が顔面一面にあふれ、そのひとみは異常な光をはなって鴎外の顔を見つめた。われわれも丁重なあいさつをかえした。だが、それっきり私も芥川もしばらくものを言わなかった。そして、鴎外の後ろ姿がやや遠のいたとき、芥川がはじめて息をはずませてはなしかけた。
−−−あれが森さんかあ。
−−−そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。
−−−うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。
芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかきあげると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。

*************************************

芥川龍之介は夏目漱石の葬儀のときに初めて森鴎外に会ったと嘘をついた?
江口渙は芥川龍之介に複雑な感情を持っていたらしいので、なかなか判断は難しい。

もしかしたら夏目漱石が芥川龍之介をほめたのは周辺の反応を観察するためではなかっただろうか。
野上彌生子に夏目漱石がブサイクな京人形を土産にした、というエピソードがあったことと
野上彌生子は芥川龍之介に同情しているからである。


夏目漱石は1916年に亡くなっていて、森鴎外「細木香以」はその翌年に書かれている。
芥川龍之介は1917年、海軍機関学校教官であったが10月20日から大阪毎日新聞に「戯作三昧」を連載したのだとか。「細木香以」と同時掲載になっていたのだろうか。
芥川龍之介は漱石と鴎外から認められた新進作家として大いに目立ったことだろう。

しかし、陸軍医務局長を辞任していたとはいえ森鴎外は海軍を挑発しているようにも感じられ、また若い芥川龍之介にとっては無防備ということにならなかっただろうか。
上田敏は1916年に急死していて、森鴎外にしては思いきった行動ともいえるのだが・・・


以前の記事 太宰治を読む〔68〕は こちら

浅野和三郎は芥川龍之介の海軍機関学校での前任者であった。
浅野和三郎については こちら
評伝として「神の罠」がある。
DSC05889


Wikipediaの出口王仁三郎の記事に、このころの経過が書かれている。 → こちら

浅野和三郎の布教により海軍の多くの幹部が「大本」に引き込まれていった時期に、森鴎外が危機感から芥川龍之介に情報収集を求めただろうことは当然のようにも思われる。

芥川龍之介の運命であったのだろうか。
晩年の作品「保吉の手帳から」は こちら

太宰治が感動したのは、この作品かもしれない。
軍を批判するような言動は死を覚悟しなければできないことのような気がする。
このときには、戦争を止められたのかもしれなかったともいえるだろうか。


浅野和三郎の早逝した息子は新樹という名前であったとか。
太宰治は「新樹の言葉」という作品がある。→ こちら
内容は浅野和三郎との関係は感じられないものではあるけれども・・・

明るくて浅野和三郎と芥川龍之介への手向けとしてはふさわしいともいえる。

NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

「随筆 鬼女山房記」の引用に戻りたい。

芥川さんに死を勧めた話 より

・うすい肩で、長いマントをやっと支えた、ビアズリの画の人間のような恰好で、ほそぼそと、前こごみに表口へ引き返した後姿を、今でもはっきりと思い出すことが出来る。
 その日は夫もひまであったので芥川さんは長話をした。彼は心身の衰えを嘆いた。話の間でも人の名前を容易に思い出せなかったりした。こういうことはこれまでの芥川さんには見ないことであった。どうも頭が悪くて、何度もそう云い、はたきのような長い髪毛をかぶった頭を傾けた。

・家に関する内輪話を聞かされたのも、その時がはじめてであった。年寄を幾人も抱えて大抵ではないと云う愚痴も出た。しかし彼のような行き方をしている文人なら、貧乏をするのはむしろ当然だ、という結論を私たちはした。それが厭なら、菊池さんのように勇敢にやって行くまでだし、――

・その時私は云った。
――芥川さん、そんなにお金が欲しければ、大いに儲かる方法を教えてあげましょうか。
――何です。
――あなたがお亡くなりになるのよ。自殺ならなお結構ですわ。そうして、全集の印税がとっさり入った頃を見はからって生き返るのよ。旨い方法でしょう。

・芥川さんは凄く冴えた眼で、にやにやした。それは自分でも考えて見たことだと云った
――しかし全集を出すにしたところで、僕のは短いものばかしですからね、書簡集を入れても四巻とはならないらしいから悲観してるんです。
 いくら四巻でも死にさえすれば、その四巻が彼を金持にするに相違ないと私は主張した。
――うちでも、その時には予約に入ってあげますわ、ねえ。
 私が笑い笑い夫の同意を求めると、夫は云った。
――そうだな、芥川君のなら買ってもいい。
 芥川さんは同じくにやにやした眼で、額の毛を掻きあげた。
――それじゃ、ひとつ思いきって死ぬんですね。

・三月のほこり風に鳴る硝子戸の中で、私たちはこの冗談をおもしろがった。
 十数ヵ月の後、彼がほんとうに死をえらんだ時、いちばんに私を打ったのはその日のことであった。

・とにかく、私たちは彼とのその日の約束を忠実に守った。彼の全集は、漱石、子規、鴎外に隣して、二階の書棚に並んでいる。
               『文藝春秋』昭和六年三月号に掲載

***********************************

クールな彌生子が突き放した言い方をしたと思っていたのだが、そうではないようにも思える。
文章の一部を切り取ることで印象が変わるという例になっているようだ。

少しずつ野上彌生子の随筆などを読んでみると、彌生子の目からは夫豊一郎は嫉妬深い性質であるらしい。
ん? 彌生子は芥川龍之介をどう思っていたのだろうか。
あるいは芥川龍之介は彌生子をどう思っていたのだろうか。

その日の約束は他にはなかっただろうか。
また、芥川の全集は漱石の隣ではなく、鴎外の隣に置かれた?


DSC05838



NO WAR


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
タグ :
#夏目漱石
#芥川龍之介
#野上彌生子
#太宰治

野上彌生子については、多くの方たちが語っていることとは少し違った思いを抱く。

彌生子は日記を遺したこともあって、日本の女性にしてはかなり率直な人物評などがあるようだ。

厚かましく私も率直に書いておきたい。

太宰治から派生したあれこれを考えているせいか、野上彌生子と太宰治は共通するものが多くあると感じられてならない。
とくに郷里の家を時代の波から守りたい、という点では同じなのではないだろうか。

また、国際的な情報収集といった面で大きな働きをしたのではないだろうか。
太宰治が森鴎外の向いの墓に眠ることになったのと同様に、野上彌生子は最後の作品を「森」として、漱石人脈ではなく森人脈に連なっていることを示した?

相性が良いとは思えない伊藤野枝や宮本百合子と付き合いがあったのはそれなりの理由がなかったかどうか。
明治女学校は、きわめて有能な日本女性の育成するための学校であったらしい。

「森」の主人公の名前は菊地加根である。

未完で終わることが予想されたこの作品で、題名と主人公の名前については野上彌生子が長い間温めていたものであった可能性があるだろう。

えっ、まさか、と思ったのだけれど・・・・・
菊池寛の妻は包子(かねこ)であった。どこかで接点があったのだろうか。
あるいは辛口に、菊池寛→金 という意味があった?

菊池包子はの実家である奥村家は高松藩士の家柄であるとか。
この奥村家の先祖は大石内蔵助とつながるらしい。
→ こちらの5ページ目
江戸時代のネットワークは今のネットに負けない力を持っていたのかもしれない。

野上彌生子には「大石良雄」という作品があるようだから菊池包子と何らかの接点があったということだろうか。

女性のネットワークづくりが森鴎外の仕事の1つであったとか?

DSC05840



NO WAR


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

夏目漱石と森鴎外の関係をもっと知りたいと思い、あれこれ調べた。

野上彌生子は夫野上豊一郎とともに夏目漱石の弟子とされていて、その第1作は「明暗」だというので、アマゾンで購入しようとしてびっくり。

野上彌生子全小説第14巻 岩波書店 1998年 は「森 明暗」であった。
DSC05778


野上彌生子「森」は最後の未完の作品である。
野上彌生子はどちらかというと森鴎外に近いタイプに感じられたりする。

野上彌生子については こちら

野上豊一郎・彌生子夫妻のところに晩年の芥川龍之介がやって来て経済的な苦しさを述べたところ、冗談として「じゃあ、死ねば」と彌生子が言った、というのはよく知られている。
それゆえに、ついつい敬遠してきてしまったが・・・・・

このごろの新型肺炎をめぐって動揺を隠せない日本の中では
野上彌生子の99歳まで生きた怜悧な強さから何か学ぶべきものが多いのかもしれない。

野上弥生子
60歳代の彌生子
写真はWikipediaから

NO WAR


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

以前の記事では、智は三島由紀夫 情は太宰治にあてはまるなどとということにしてしまったが
夏目漱石による「草枕」でのこの名文は、もしかしたら森鴎外に向けられたものであったということはないものだろうか。

夏目漱石の友人や弟子に宛てられた手紙を読んだりすると、ややお節介気味の夏目漱石が見えたりする。
お節介なのか心理操作といえるものなのかよくわからなかったりするけれど。

若いころの森鴎外と夏目漱石は将来の人材として目立っていたことだろう。

それぞれが囲い込まれて、対ドイツ語圏、対英語圏と分かれた道を歩むことになった。

森鴎外は陸軍、夏目漱石は海軍という色分けはできる?


単なる翻訳ではなく、思想の領域にまで踏み込んだ翻訳ができるような教育といったことを2人とも考えたのではないだろうか。

作品が教材となっている?
夏目漱石には「草枕」「虞美人草」「道草」など草のつく題名が多い。

森鴎外にも「しがらみ草紙」「めさまし草」「かげ草」といった題名のものがある。

森鴎外について詳細に調べた松本清張の全集の最終巻に「草の径」という題名がある。

「草」には工作員という意味があって、森鴎外と夏目漱石はそれぞれ外国にも通用する工作員の養成に関わっていたように感じられる。
芥川龍之介は双方から期待された草であった?

太宰治は、芥川龍之介の何らかの仕事を知って、草となり、また草の養成の仕事もした、のかもしれない。

松本清張の全集の最終巻には、目立たないように
 
 わが力なきをあきらめしが、されど
  草の葉で織る焔(ほむら)文様

という2行がある。

太宰治には才能がきらめく「葉」という作品がある。

この2行により、松本清張は森鴎外と太宰治を目標に多くの作品を遺した、といいたかったのではないだろうか。

DSC05323
青森・善知鳥神社にて

NO WAR


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

今まで見てきたことを大くくりに考えてみると
例えば、欧米思想研究室というものがあって
森鴎外(ドイツ・ロシア担当) 夏目漱石 (イギリス担当)
太宰治(アメリカ担当) 三島由紀夫(フランス担当)
といった面が隠れている?と思ったりする。
ほんの氷山の一角として、という意味なのだけれど。

情報収集には、文学・芸術からという面も必要だと森鴎外は考えたのではないだろうか。
それとも江戸時代の日本の情報収集のスキルが国際的にも通用した、ということでもあるのだろうか。

国際的な情報収集には、まず自国民の目を欺く必要があるのかもしれない。
自国民の中に欧米への情報提供者がいるのは当然だから。 

というわけで、鴎外と漱石はほとんど会ったことがない
三島由紀夫は太宰治が嫌いである
それぞれの作品もごく和風の味付けにしてある
ということになっていて、実際は違うのではないかと疑う必要はないだろうか。

日本の文学は深読みが必要で、それには歴史のあれこれの情報と多くの視点が役立つ・・・・・

防衛のためには、支離滅裂で煙に巻くような結論にしておくほうがいいのかもしれない。

DSC05581

朝靄の神戸港

NO WAR


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

所沢古本まつりは駅前のビルの最上階のかなり広いワンフロアで開催される。

最終日の午後、それほど時間がないためもあって、目に留まった本を選んでかごに入れていったのだが・・・・
欲しかった森鴎外関係の本や雑誌は見つからなかった(泣
夏目漱石はたくさんあるのに。

秀吉と太宰治などをかごに入れて、少し離れたところで、阿川弘之の単行本が目に留まった。今までの経験から、そういった本には何か見つかる・・・・

阿川弘之「故園黄葉」 講談社 1999年
は多くの著作と同様に随想集であって、今でいえばブログ記事のようにも感じられる淡々とした短い感想文が並べられていた。
ざっと読んだところでは、ひっかかるものは何もない。
それでも「井伏鱒二生誕百年記念展」と「志賀直哉交遊録」に太宰治の名前が出ている。

阿川弘之に関する以前の記事 太宰治を読む〔228〕は こちら
阿川弘之が太宰治の弟子である小山清の結婚披露宴に出ていたのが不思議であったのだが・・・・

「井伏鱒二生誕百年記念展」を何度か読み返してみた。
・(記念展で)文士連中の新春寄せ書が眼についた。昭和二十三年正月二日、酒宴の席の色紙で、井伏さんの他十一人が名前を墨書してゐる。小山清、河盛好蔵、伊馬春部、小山祐二、今官一、石井立、木山捷平、小田嶽夫、亀井勝一郎、戸石泰一、小沼丹――。六ヶ月後に入水自殺する太宰治は、此の席へ来てゐないらしい。

山内祥史「太宰治の年譜」 大修館書店 2012年
によれば、
・昭和二十三年 元旦 美知子とともに井伏鱒二宅に年始の挨拶に行った。「帰ってから茶の間で泣いた」という。

小山清は夕張にいたのではなかったのか・・・・

DSC05548

所沢・狭山丘陵 12.14



NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
タグ :
#阿川弘之
#井伏鱒二
#小山清
#夏目漱石
#太宰治

「明暗」と「伊沢蘭軒」を一緒に読み進むにはしばらくかかりそうだから、寄り道を。

 「木下杢太郎随筆集」講談社文芸文庫 から「森鴎外」を読んで、木下杢太郎は、森鴎外の嘆きを感じて寂寥感というものをもった、と書いている。
木下杢太郎について こちら  鴎外も認める弟子と思われる。

この「森鴎外」が書かれたのは1932年、60歳で亡くなった木下杢太郎が47歳のときのようだ。
私は、木下杢太郎の寂寥感という感想に対して、心が満たされていく思いがする。
鴎外の嘆きを、弟子が時間をおいて静かに受け止めている。継承とはこういうものかもしれない。

太宰治はおそらくこの「森鴎外」を読んで、自分も弟子を育てようと思ったのではないだろうか。
結果としては、小山清が森鴎外にとっての木下杢太郎にあたるだろうか。

優秀とはいえない小山清を育てたということは、さすが太宰先輩!と声を上げたい気がする。


さて、木下杢太郎は1903年一高に入学し、ドイツ語やゲーテに関心をもった。英語の教授が夏目漱石であったとのこと。ドイツ文学志望であったが実家に理解が得られず、一高から東京帝国大学医科大学に入学。
在学中に、与謝野寛らの新詩社同人に参加して「明星」に詩を発表するなどして、上田敏の外遊送別会で森鴎外と話すようになったのだとか。
大学卒業後の進路については森鴎外の助言を受けたとのこと。
森鴎外は、木下杢太郎が社会の大きな変動に飲み込まれないように特別に配慮したように思われる。

1915年、30歳で初の小説集「唐草表紙」を刊行。序は夏目漱石と森鴎外とある。
夏目漱石による序は 青空文庫で読める。
夏目漱石は森鴎外よりも生真面目であった?
また木下杢太郎の思慮深さというものは(反省を込めた)森鴎外による直伝かもしれない。

夏目漱石も森鴎外も、このときの木下杢太郎の計らいに感謝するべきのような・・・・・

DSC05254

あちこちに咲いていて気になる花ですが、モミジアオイ (アオイ科フヨウ属)という名前のようです。


NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  

小島信夫は第一章の第一節で、夏目漱石「明暗」から、新聞小説第3回目にある次の部分を引用している。
 角を曲って細い小路(こうじ)へ這入(はい)った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊(ほそ)い手を額の所へ翳(かざ)すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚(びっくり)した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた。それから心持腰を曲(かが)めて軽い会釈(えしゃく)をした。
 半なかば細君の嬌態(きょうたい)に応じようとした津田は半ば逡巡(しゅんじゅん)して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅(うち)の二階の庇(ひさし)に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖(ステッキ)」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後に跟(つ)いて沓脱(くつぬぎ)から上った。


そして第一節の末尾は
・しかし読者はあとになって、そうは書かれていなくても、津田はこの情景を絵姿としておぼえたように思われる。
と締めくくられている。

*********************************

実は、私はここまで読んで、「明暗」を読まなくっちゃと思ったのである。
えっ、漱石も「雀」を?

若いときに「こころ」などの小説を読んだことがある、といってもよくわからなかったのは当然で、今はどうかというと、深読みをし過ぎになっているかもしれない。

たしかにこの部分は際立って漱石の上手さを感じるところだと思う。
女性が描けている、と評されることもあるかもしれない。
ひょっとして、この部分をブロックとして埋め込んだのではないか。
それこそが「雀」にこだわる鴎外への漱石からの名案=明暗であったかもしれない。


1916年あたりには、鴎外は「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」にあれこれ連載していて
夏目漱石は「朝日新聞」に5月26日から「明暗」の連載を始めたとのこと。
森鴎外は「東京日日新聞」および「大阪毎日新聞」に6月25日に「伊沢蘭軒」の連載を始めている。読者からすれば、それまでも森鴎外は難しく退屈であったのではないか。

まだ「明暗」も「伊沢蘭軒」も読んでいないのに厚かましく想像してみると
対話もしくは果たし合いのようなものがありそうな気がする。
連載中に上田敏の急死があったりして、それがどう埋め込まれたのか埋め込まれなかったのか
漱石の死はどう埋め込まれたのか。

知性に優れていた2人は、それぞれ見えない独房に囲い込まれてしまったかのように見えたりする。 
細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた

漱石の催眠術のような筆に、鴎外は頑迷な姿勢を崩さなかった・・・・のかどうか。


NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

小島信夫「漱石を読む 日本文学の未来」 福武書店 1993年
は、太宰治のことが書いてあるとのことで以前に購入したものである。

DSC05266


作家大庭みな子が、太宰治の弟子である桂英澄の姉桂ゆきと親しくしていて
「斜陽」のモデルは桂ゆきだと語っていたとのこと。
作品の登場人物について複数の人物を合成して書くことはありそうである。
太宰治は女性の気持ちを書くのがうまいと言われているが、女性の本音を引き出したりする機会が多かったということだろうか。

さて小島信夫は、この分厚い著書で漱石の「明暗」を論じている。
未完の遺作となった「明暗」については こちら
夏目漱石も小島信夫も、かなり膨大な量の中に何かを埋め込むタイプの作家らしい。
それをめげずに見つけるには、読者や評論家が多いので、その中からこれは、という読み手を探すというテが・・・・やはり小島信夫のように似たタイプの人間がよさそう。


例によって厚かましく勘繰りを働かせると、身体の不調から完成できない可能性を感じていたため、漱石は初めの部分にあれこれ盛り込んだ、ということがありうる。
小島信夫は「漱石を読む」のあとがきで、自分の本の第1節、それも冒頭を読んでくれ、と書いている。なるほどなるほど。

第1章 『明暗』、その再読
 情緒の波の形 日常これすべて事件 堂々たる秘密 ・・・・・・
と続いている。

数学者岡潔が「私の読んだ中では、文学者で女性が本当に描けていると自信をもっていい切ることのできる人は、日本では漱石、外国ではドストエフスキイぐらいではないだろうか・・・・」と
『春宵十話』で語っていることを紹介している。
小島信夫はこの発言におどろいたとのことで、肯定しているわけではない。以下本文から引用。
・博士は、男と女はとりわけ情緒の波の形が違う。「波の形が違う」とは数学者らしくて面白い。そのように波の形が違うので、男性が性の感情をそのままにして、女性の感情を理解しようとすることはむずかしい。とくに日本の場合は近代になってまだ日が浅いためによけいそうだ。
・・・・・そのあと博士は、なぜ二人に女性の波が描けたのか。と問いかけている。「二人に」といっているところが面白い。そして結論はこうである。
 漱石は「則天去私」を標榜し、一方ドストエフスキイは諸徳の中でも「謙虚さ」を大事にしているということに思い当って氷解した。
 こうして「則天去私」とか「謙虚さ」という言葉を書き写しながら、これは分り易いようでありながら、説得力は弱いだろう。


************************************

つまりは、夏目漱石の作品はどのようにでも読めてしまうという性質があるのかもしれない。
岡博士の感想に対して現代の女性からは、「則天去私」や謙虚さを女性にばかり求めるってどうなの?と声があがりそう・・・・・それとも、正解かもしれないと反省してみるとか。

「明暗」は、女性が多く登場していて、その会話が自然だと感じる。
漱石夫人鏡子がそばに付き添っていたからではないか。
登場人物の清子は鏡子に近い響きであり、清子は好ましい人物として描かれている。

かなり横暴であったという漱石の罪滅ぼしであったかもしれない。

とはいえ、夏目漱石は1916年12月に49歳で亡くなった。
同じ年の7月に上田敏は41歳で亡くなっている。

「明暗」には何かが埋め込まれていることはないものだろうか。
書き出しが

医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。

この「医者は探りを入れた後で」に注がつけられていて、
・漱石は明治四十四年(一九一一)、大阪・和歌山などを講演旅行後九月十四日帰京、神田区錦町一丁目にあった佐藤病院で痔の手術を受け、翌年春まで通院、さらにその年の九月二十六日から十月二日まで再手術のためこの病院に入院した。明治四十四年十一月から大正元年(一九一二)十月までの日記には、この時の病院通いや病院生活で聞いた話についての詳しいメモがあり、それらがこの「明暗」の材料として用いられている。

(角川文庫 昭和29年初版 平成29年改版初版より) 

手術の苦痛の生々しい表現があって
・「この肉体はいつ何時(なんどき)どんな変に会わないとも限らない。それどころか今現(げん)にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
・「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」


夏目漱石は神経衰弱とされ、その経過を作品に埋め込むことになった? 

テレビなどの映像がほとんどない時代には、小説を熱心に読む若者が多かったのではないか。
心理操作に注意ということを夏目漱石は遺言としたかったのではなかろうか。

それとも医療不信が大きくあったということだろうか。
自身が医者である森鴎外も病気の治療を避けていたようだから。


森鴎外が歴史の中に何かを埋め込んだように、夏目漱石は読者層を広げるために、男女関係の中に埋め込んだともいえそうである。



NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

森鴎外の遺言にある「石見人」はさまざまな意味があるのではないか。
生まれた土地が運命に大きく関わることは言うまでもない・・・・・
いっぽうで最期に「石見人」と感じたのならば
もしかしたら夏目漱石との関係かもしれない、とひらめいた。
夏目漱石

写真はWikipediaからです。明治天皇の大喪の礼の日とのことで、この写真を残した何らかの意味があるのかもしれません。



正直なところ、これから夏目漱石を細かく読んでいくのは道草じゃなくて迷路に入り込むのは必至。
学生時代に読んだときには、脆弱な自分の精神力には敬遠するべき作家のように思えたということがある。

さて、厚かましくなった今、森鴎外が夏目漱石をどうみたのかを少しだけ想像してみると・・・・
森鴎外が人脈をつくるのに用心していたのに対して、夏目漱石は外交的であったのかもしれない。
偏屈で神経質というのとは少し違うようにも感じられてくる。
夏目漱石について、Wikipediaでは こちら

自分で人生を切り開く、という友人たちが多かった?
中村是公(なかむら よしこと)→ こちら
正岡子規(まさおか しき) → こちら
正岡子規の友人として
秋山真之(あきやま さねゆき)→ こちら
勝田主計(しょうだ かずえ)→ こちら
人脈のこの一部だけでも大日本帝国の命運にかかわった人たちのように感じられる。


夏目漱石は森鴎外よりも早く亡くなったけれども、その人脈から目を離すな、と森鴎外はいいたかった?

芥川龍之介はこの2人の弟子であったかとみえるときがある。
ひょっとして、知らん顔をしつつ夏目漱石と森鴎外は、情報収集の同志であったのかもしれない、とも思えたりする。

弱小国日本は、情報収集に日本の頭脳を結集し、その副産物として日本の文学があった
そう思って読んでみると新たな発見がありそうである。

もしかして日本の文学には、戦争を止める働きがないだろうか。

NO to 5G


ランキングにご協力ください。戦争をやめてもらいたい方はクリックをお願いします。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

日本近代文学館「春の特別展 生誕110年太宰治創作の舞台裏」に出かけた。
DSC05008


若いころの落書きが書かれたノートや原稿があれこれ展示されていて、その中で興味深く思われたのは、1935年(昭和10年)4月、太宰治が急性盲腸炎に腹膜炎を併発し手術を受けたのち、鎮痛剤パビナールを注射され、その後中毒になっていった経緯についてである。

船橋薬局パビナール購入簿とのちに妻となった美知子が薬の量と購入頻度を分析した結果が残されている。太宰治が留守中でも購入されていたりして、食い違う部分があるようである。

少なからずの人間がさまざまな方法で、太宰治を通じて津島家からお金を引き出した?
それとも地主階級が生き延びるためには、さまざまな理由をつけてばら撒きが必要であった?
青森はロシア革命後の影響というものがかなりあったはず。

今回の展覧会の図録と共に、1988年に開催された「太宰治展」の図録を購入できた。
その中に、評論家である奥野健男「なぜ今日、太宰治展か」という文章を寄稿している。
一部抜粋してみると
・太宰治が巫女(イタコ)などが居た深いえぞの日本、稲作文化以前の縄文時代の中核だった津軽に産れ、育ったということが太宰文学のキーワードではないか。パラドシカル(ママ)であるが、もっとも土俗的な文学者からもっともインターナショナルな、普遍的な文学がうまれる。文学者井上靖氏が、もし日本の文学者から文学オリンピックの代表を一人えらぶとすれば、漱石でも川端康成でもなく、ちょっと小さいが太宰治だね、と語った言葉も忘れ難い。


NO WAR!

ランキングにご協力ください。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
タグ :
#夏目漱石
#太宰治

文京区立鴎外記念本郷図書館
所蔵資料図録第2集「手回品・生前記念品・家蔵品ほか」
鴎外愛用の品々 より 
ジョッキ
DSC04828

 留学1年目の明治18(1885)年4月、鴎外はライプチッヒの軍医会食でザクセン軍軍医部長ヴィルヘルム・ロート(Wilhelm Roth)に出会い、彼の招きで同年10月から翌19年3月までの5ヶ月間、ドレスデンのザクセン軍軍医講習会に参加した。ドレスデン滞在中、ロートは鷗外をしばしば自宅に招いて夕食を共にし、公共の場で日本のことを講演させる等、非常に可愛がった。ことに明治19年1月19日の鴎外の24歳の誕生日を記念して、翌20日、自宅に20余名の客を招いて盛大なバースデイパーティーを開き、いくつものプレゼントを贈った。その日付の入ったこのジョッキもその時の贈り物のひとつであるが、鴎外は終生これを書斎の机のわきの違い棚に飾っていた。

RMモノグラム型板
DSC04825

 布に頭文字の刺繍をする時の型板。森林太郎の頭文字RMの様々なモノグラム(組みあわせ字)がくりぬいてある。(追いかけてきたエリスが刺繍したハンカチとともに置いていったもののようです)

************************************
几帳面な森鴎外は、ドイツ人に好かれるタイプだったようです。
夏目漱石にとってロンドン留学はつらい体験となったようですが。

2人の性格といったものもあるのかもしれませんが、当時のドイツとイギリスという背景というものがあったのかもしれません。
かつて宣教師がウィーンの宮廷で日本を題材とした演劇をしていたり、ケンペルの日本の旅行記が読まれていたりして、ドイツにとって日本は魅力があった?

 それにしても2つの品にはそれぞれ並々ならぬ好意というものが感じられます。
 黄禍論はどうなっているのか、と思うほどです。



戦争のない世界に!

ランキングにご協力ください。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
タグ :
#夏目漱石
#森鴎外

青森近代文学館HPに秋田雨雀の年譜がある。→ こちら
また新宿中村屋HPでの秋田雨雀については こちら
黒石市HPでの秋田雨雀については こちら

太宰治の2倍の年月を生き、妻2人だけではなく娘や孫娘にも先立たれた一生であったようだ。
この秋田雨雀の自伝や日記によって、さまざまなことが浮かび上がってくるような思いにとらわれる。

太宰治が選んだ時代の1つの鍵となるような人物だといえるのではないだろうか。
作品に埋め込むほどであるから、日本の隠された部分にいた、といえるのかもしれない。
上にあげた3つのHPでも、それぞれ違う面から取り上げているように思われる。


再び「雨雀自伝」から
p.50
大正四年(一九一五)三十三歳
私の家庭はこの三月、厳格にいえば、半年の間ほとんど定収入なしに暮していた。二人の私の児は、餌をくわえて帰る親鳥を待つように私を待っていた。私はこの旅行中に名目上ではあったが数千円の興行場の借財を背負うて帰ったが、実際上の責任者が責任を回避したために、ほとんど毎日のように債権者の督促に苦しめられた。

ワシリー・エロシェンコが私の前に現れたのはこの時であった。エロシェンコは、小ロシヤ、クールスク生れの盲目の青年であったが、熱心なエスぺランティストであった。私は全く人生に絶望して極端にニヒリスティックになっていたとき、エロシェンコは盲人でありながら、世界のエスぺラント運動のために熱心に働いているのを知った。私はすぐにエスペラントの勉強をはじめた。私は三月ほどでほぼこの言葉を会得した。私はこの言葉を知ったおかげで、人生を別な眼で見ることが出来た。そしてたくさんの仕事が私の前に現れて来た。

私はこのころエロシェンコの関係で、バハイ教徒のアグネス・アレグサンダー女史に逢っている。この女は有名なアメリカの歴史家アレクサンダー教授の孫にあたる人であったが、純白の着物に紫の帯をしめた印象的な容姿をした五十歳に近い婦人であった。バハイ教徒は「人種平等」「消費経済の均等」「言語の統一」を主張していたので、アレクサンダーのところへはエスぺランティストが多く集まっていた。望月百合子や神近市子などもときどき彼女を訪うた。

p.54
大正五年(一九一六)三十四歳
生死の問題については、私はこの年にもっとも多くの経験をしている。第一は神近市子の事件で、第二はこの時代に最も多くの読者を持ち、ある意味で時代の寵児でもあった文学者夏目漱石の死であった。
 
神近は南方的な熱情をもった、そしてこの時代としては最もインテレクチャアルな女性の一人で、私たちのグループでは誰にでもよく愛されていた女性だった。十一月九日の彼女に関するニュースは私たちを驚かした。
新聞報道によれば、彼女は恋愛の三角関に悩んだ結果、八日の夜、その恋人である大杉栄を殺害する目的で短刀をもって彼の咽頭を突いて果さず、捕縛されたというのであった。
この事件は、社会運動者に対する意識的なデマゴギーの性質をも加味して、かなり誇張されて報道された。私は数日前に神近の家を訪うたとき、彼女は恋人に贈るのだといって、華美なメリンスの布団を縫っていたのを思い出した。彼女の恋愛の敵手は、これも南方的な女性の伊藤野枝であった。神近は横浜根岸監獄にいた。

この時代の日本の文壇は、小ブルジョアの半幻想主義的・否定的リアリズムである自然主義が自己崩壊を起しているときであった。最初から自然主義運動とは別個に、封建趣味的、徘徊趣味的立場から、一種の写実主義を発見して行夏目漱石およびその一派であった。
私は十二月十日に夏目漱石の納棺の式に列している。小宮、森田、野上、阿部、安倍、久米ら漱石門下の人々に囲まれて納棺される夏目漱石の四角なココア色の顔と、前額にちぢれあがった特徴のある髪の毛を今もはっきり思い出せる。

***********************************

神近市子は津田塾大学の前身の津田英学塾出身である。神近市子については こちら
悲劇的な死により伊藤野枝が大きく取り上げられてきたため、評価されることはあまりないように見えるが、もしかしたら神近市子の働きは大きいものであったのではないだろうか。
DSC00600 (2)





みんなで築こう 人権の世紀



人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ