2018年01月

2018年01月22日

緩。

はいはい。

ドリデは2018年でMTBレースのシリーズを終了します。
既にダウンヒルは終了しているので、92年くらいから継続されていた北海道内でのMTBレースのシリーズ戦が消滅することになります。
正直、その幕引き係が自分になるなどということはライダー時代には考えもしませんでした。

思い出せば89年くらいから2年間開催していた「MTBシリーズ戦」ってのが、今までドリデを続けられた原動力だったのかもしれません。
オリオンとロードスターのライダーが中心のシリーズでした。
年間4回くらいやったのかな。

クロスカントリー的なコースはほぼゼロで、不整地を走るだけとか、ターマック(舗装路)のみのこともありました。
基本的にはタイムトライアル。
チーム組んでの耐久とかもやりました。

会場は当時工事中だった石狩湾新港の工事中の道路だったり、前田森林公園の駐車場だったり、消防局の訓練所(現札幌市消防学校)の運転練習コースだったり。
ロードスターの佐々木さんと春木君が「あそこも面白そうだった」とか言って見に行ったり。
雪を踏み固めてコース作ったのに気温が上がって水の泡になったり。
楽しかったですな。

当時普及し始めたワープロで勤務中にリザルトやレポート作って、職場の青焼きやリソグラフで印刷して配布したりしてました。

その後HMA(北海道マウンテンバイク協会)が立ち上がってシリーズを展開。
豊富、豊頃、士幌、天狗山、大沼、白滝、サホロ、トマム、夕張、アンヌプリ、岩見沢、キロロ、滝野、幕別、石狩、白旗山・・・。
道内各地を転戦して本当に楽しかった。
その裏でエライ尽力してる人達が居ることにも気付かないほど。

マウンテンバブルが終わり自治体の「町おこし」的な要素が強かったMTBレースは一気に減少していきます。
以前自分達で小さなレースを開催してた私達は「自分達でもレース開催すればいいじゃない?」的な軽いノリで開催を始めます。

初レースは確か2001年の春の「ファットボーイクリテリウム」。
テイネハイランドの駐車場でした。
ハイランドに大量に有った古タイヤを置き、スズランテープで仕切ったコース。
今思えば相当にグダグダな運営だったはずですが、参加者のほとんどがHMAのシリーズ戦で走っていた顔見知りだったので「生暖かく」見ていてくれたようです(笑)。

本格的にHMA(当時は既に連盟絡みの北海道マウンテンバイク委員会だったかも)のレースが減ってきて危機感を持った私達は、既にレース開催を止めていた士幌で開催できないか画策します。
何故士幌だったのかと言えば、基本的に専用コースで開催が容易に思えたからなのです。

東北海道車連の親分だった鎌田利道さん(鎌田輪業のオーナー)に相談したところ、士幌町に話をつけてくれて何枚かの書類に署名捺印するだけで開催にこぎつけました。

それから勢いづいた私達は拡大を続けます。
HMAや北海道マウンテンバイク委員会の中心だったアイサムの石黒さん達が敷いてくれたレールを走っただけのような気もしますが。

拡大を続けたものの収支は安定せず、大幅な黒字になることはほとんどありませんでした。
表現は良くないかもしれませんが汲々としていたと言うのが正しいような気がします。

ハナゾノのJが終わったくらいから「疲れた」って考える事が多くなったのも事実で、己の加齢と終わりの見えない感に疲弊させられて行ったような気がします。

レースは楽しい。
でもそれ以外の部分が本当に辛くなってきた。
精神的にも体力的も、もちろん金銭的にも。

内心「60くらいまでは」って考えていたのだけれど、現状のレース数では無理だと気付いたのは2016年。
でもレースを楽しみにしているライダーが居る。
もちろん自身も楽しみにしてる。
止めるきっかけが見つけられなかった。

きっかけはキンタロウの一言だった。
「カズは家に居るときに疲れたしか言わない」
気付かなかったが、確かに言っていた。

それでも全部一気に止めようとは思わなかった。
実際に開催準備が大変で、そのせいで収支が厳しいのはクロスカントリーなので、減らそうと。
逆に開催準備が比較的楽な耐久は残そうと。
それなら「疲れた」が口癖にならずに済むのではと思った。
冷静に考えれば、今までの開催数が異常だったのだ。

HCFに頼れないから自分達で何とかしようと歩んできたが、十分頑張ったと思う。
シリーズ戦という形式が無くなるだけで、北海道からMTBレースが無くなるわけではないのだ。
新興勢力も出てきたようだし、年配者は進む速度を落としても良いのでは思っている。

ともあれ2018年は例年通りのスタンスでバリバリやる。
カッコ悪い終わり方にならないように。

老体に鞭打って頑張るわぁ(笑)。

と、いうことで。

ではでは。