言葉と写真の違いを考えてみたときに、まず初めに浮かんでくるものは、恥の有無です。

自分が昔撮った写真を見返しても、そんな感情はありませんが、自分が昔書いた日常的な文章は何故かどうにもならないほど恥ずかしい。おそらく、写真より言葉のほうが、主観的な表現力が高いのでしょう。文章にすれば、その一瞬の強い感情や、態度を簡単に表現できてしまう。しかしながら、例えば風景を撮っていたとしても、その風景を見ていた時の喜怒哀楽を、風景写真に落とし込むのは至難の業だと思います。自分の顔とか体を入れれば、話は別かもしれませんが。

 

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僕のブログというのは、日々の旅行を更新するものでありましたから、その時々の主観的な感情が、何のフィルターも通されず吐き出されています。今何年か経って、過去の記事を読むと、その一瞬一瞬の喜怒哀楽が、あられもなく羅列されているはずです。はず、というのはつまり、僕が閲覧不能の状況にあるということです。ちょっと恥ずかしいので、見たくもないということです。これが、誰か不特定多数の目に晒されるような空間ではなく、机の中の日記帳にだけ記述されている物であれば、いくらか状況は違っているのかもしれませんが。

しかし、写真だけは、見られるのです。僕の撮る写真はあまり感情がこもってないからでしょうね。こもってないというか、感情の起伏が少ないのかもしれない。この辺は、いはゆる情緒的とか呼ばれるものでしょうか。自分で言うのもなんですが。

 

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何かの本で、感情と情緒の違いを学んだのですが、感情を大雨だとすると、情緒は梅雨に例えられると書いてありました。なるほどと思いました。つまり、明日には変わってしまうような気持ちが、感情。慢性的な気持ちが情緒だというのです。不機嫌も一日で治れば問題ないですが、それが何か月も続くから、鬱という病気になるのでしょう。ただしこれは、あくまで時間軸で見た違いであって、これが全ての情緒例に当てはまる訳ではないでしょう。例えば一瞬におきた小さな感情の起伏も、情緒なんて呼ばれている気がします。でないと、上野の美術館の絵を見て、「あら情緒的ですねこの絵」なんて、言えないはず。突き詰めていくと、人間の感覚を二つの言葉で隔てようとすること自体、不毛なことかもしれない。

ちなみに僕は今、この文章をなるべく情緒的な気分で書いています。来年も読み返せるようにするためです。

 

僕が、これから追及したいと思っているものは、情緒の伝えかたです。写真を撮るという行為に関しては、今までもそうやってきたつもりです。しかし、文章に関しては、そうとは言い切れないでしょう。そもそも感情を抜きにして、旅はできませんからね。自転車旅というのも、テンションを上げないと、スピードもでないので、あまり情緒に適した旅では無い気がします。従って、僕はしばらく自転車旅をやめることにしました。

そう思ってから、一年が経ちました。あと数年経ったら、気が変わるかもしれない。

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