写真には俳句や音楽のような特徴があるように思える。見る人聞く人によって解釈が異なるようなもの、ミロのヴィーナス的なもの。つまり余白の部分だ。


これは写真には多くを語る力がないからいえることかもしれない。一方で小説や映画には、あらすじを物語る力がおおむね約束されている。一つの解答に向かって進んでいくのが物語ならば、多様な解釈に発散していくのが写真や詩といえよう。路上に打ち捨てられた、撮影者不明、年代不明の写真ほど無限の想像力を与えてくれる体験が他にあるだろうか。僕は路上になにかしらの個人写真、例えば証明写真やプリクラの余りなどが落ちていると、拾ったり撮るようにしている。この写真に写った誰かは、きっとどこかで生きているのだという、他人の実在感を覚えるためである。
想像力が、試される。

 

他人の実在感というのは、演出によっては実現不可能な、ある種神聖な体験だと思う。テレビ画面に写っている物は、放送事故などを除いてほぼ99%が演出されているだろう。ゲームや映画も同様だ。非演出的な演出はあっても、絶対非演出はありえない。それはつまり、パフォーマンスされたものであって、現実ではない。と河津は思っている。疑心暗鬼。

 

では他人の実在感はどこにあるのか。ふつうは肉眼で見えた他人の姿から、実在感は生まれると思う。街中で出会う人々なら、自分と同じ世界に居るという事実がすんなりと受け入れられる。受け入れられる?それは本当なのか


街中の人達だって、あるいは友達であろうと恋人であろうと、いったん視覚外に消えていったら、ゲームみたいに消えていってしまうんじゃないか。なんて可能性も無くはないか。そうこう考えていくと、やっぱり一番落ち着くのが落とし物になっていく。落とし物は、演出されない。バッグからこぼれ落ち、手からすり抜け、無意識のうちに投げ捨てられる。
彼らこそが、究極のリアルだ。それ以外はすべてフェイクである。

 

出所不明の写真を拾う行為は、なんでもない瞬間に写真を撮る行為に近しいものを感じる。スナップショットによって現実から切り取られた写真は、現実空間すべての関係性から切り離され、独立する。例えば今日撮ったスナップ写真に誰かが写っていたとして、その人が誰で、何をしていたのか、何を思っていたのかを、その一枚から完全に把握することは不可能である。

 

落とし物も同様に、所有者から切り離され、別の誰かによって見つけられることで、元の所有者から完全に独立する。そこにあるのは最低限の情報だけだ。いくらその落とし物が、過去の文脈を強く訴えかけていても、僕はそこから完全にストーリーを把握することはできない。ただ、想像の余地だけが、砂漠のように広がっているだけなのだ。



IMG_0802 (1)