映画の中の静寂が好きです。何かを言いたげな表情や体の動き、風景を何秒も写し続けるようなカット、そういうものに何故か憧れます。けど、現代メディアにそういうシーンを見る機会はあまりに少ない。なぜだろう。眠たくなるから?無意味な自己満足だから?

いやいや、映画における静寂には必ず意図するものがあるはず・・・。

無駄なカットが一秒も許されない120分間という世界の中で、あえて静寂を挿入するということは、それだけの覚悟と伝えたいテーマがあるに違いない。
「一つの映画にどれだけの静寂を注ぎ込むか」という所で、
監督の腕が一番試されるような気さえします。


いい映画には、いい静寂がある。こう思うわけであります。

 

 

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好きな映画監督がいます。アンドレイ・タルコフスキーというソ連の映画監督です。この世にはもう居ません。代表作は「ノスタルジア」「惑星ソラリス」など。とても難解で象徴的な映画を残しています。

そんなタルコフスキーの映画では、必ずと言ってもいいくらいに空間の音が強調されています。これは後期の作品に特に多くみられる傾向です。

例えば、『ノスタルジア』について

外から運ばれてきた風が木のドアを揺らす音、水たまりを踏んだ時に土が飛び散る音、遠くのほうで聞こえる犬の遠吠え…。
そんな全人類誰しも一度は聞いたことのある共通言語的な音が、最初から最後まで散りばめられています。しかもそれが、全体のテーマを語る上での下地を作っている。
その音によって僕はある種の潜在記憶を呼び起こし、その記憶の先にあるテーマにのめり込む事ができるわけです。テーマに潜っていくための環境作りを、タルコフスキーが丁寧に整えてくれているんですね。
後期の作品になってくると、そこに殆ど劇伴音楽が入っていないことにも気が付きます。そのかわりに、
自然の音や人間の音が一つの音楽のように流れ続けるわけです。もはやメロディによる大袈裟な抑揚は必要ないと気が付いたんでしょう。

彼はどこまでも静謐な映画監督であり、どこまでも音響的な映画監督だった、と僕は思うわけです。

 




 

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ところで静かな邦画と言えば、誰でしょうか。僕が真っ先に浮かぶのは北野武です。彼の初期の作品群がとても好きなんですが。
「ソナチネ」「
HANA-BI」「BROTHER」「あの夏、一番静かな海。」などなど、初期の作品には極めて意図的な静けさがあります。

 

セリフを極力そぎ落として、表情で語りきる。自然の音をちゃんと聴かせる。

そして一番の見せ場である「静」と「動」の対比も丁寧で、そこではストーリー的な次元から、美術的な次元にまで映画を飛躍させている。

そこでは、「静」を一番贅沢に味わうために、「動」である暴力や悲劇が機能しています。

つまり暴力は「静」を味わうための最高のスパイスだというわけです。

こと風景に関しても、舞台を沖縄の海にした『ソナチネ』は「静の海」と「動のヤクザ」を効果的に対比させています。ヤクザという醜悪なものを沖縄の海という美しい世界の中に立たせることで、心地よいコントラストを生み出しているわけです。おすすめの一本。

 

しかし、美と醜を掛け合わせる演出って案外多いですよね。「エヴァ」の残虐なシーンにはG線上のアリアが流れているし、「リリーシュシュ」にはドビュッシーの甘ったるい音楽が使われている。

そんな過激なコントラストで心が躍ってしまうのはなんでだろう。緩急、抑揚、スパイス、刺激。結局人間に好まれるのはそういうものなんでしょうか。

 

 

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そんな静謐な音響演出を、現代において表現できている監督はいるのか、僕は京都アニメーションに見つけてしまいました。その名もNAOKOYAMADA。この監督は、本当にすごい。

 

NAOKOYAMADAにおける音響演出は、タルコフスキーや北野の映像感覚を受け継いでいるような感触があります(その源泉にあるのは小津やパラジャーノフなんでしょうが)。
彼女は人や空間から発生する音をひとつひとつシミュレーションし、それをアニメーションの中に生かしている。例えば女子高校生が登下校するときの音は、鞄の中に入っているであろうアルミ製のペンケースを想定して、実際にペンケースの入った鞄を揺らした音を録音している。そんな細かな事を、一つ一つの動作ごとに丁寧に拾い上げている。意味が分からないくらい徹底的に。一人のキャラクターから発生する音をここまで愚直に追い求める姿勢はもはや恐ろしさを覚えます。

勿論音響効果だけにとどまらず、足元や、表情で語ったりということもアニメで平然とやってのける。そこには当然静寂が付きまとってくる。一番気持ちが良い瞬間がまさにその静寂です。もう何もしゃべんな。

セリフで多くを語りすぎない
彼女の映画には、いつもそんな意志が透けて見えてきます。

 

架空のキャラクターを、静寂によってどこまで存在たらしめるか。

そんな素晴らしい演出をしている尚子山田の最新作は、『リズと青い鳥』
この映画の中には、尚子山田のオリジナリティをまとめたようなセリフが出てきます。
音楽には楽譜に書ききれない間合いがあります。譜面の隙間を流れる心を汲み取って下さい。

つまり動作Aから動作Bに移る時の余白のことです。彼女はその空白に潜む感情を丁寧に拾い上げていく職人なわけですね。

 

 

ここまで書いていると、なぜ自分が静寂を好むのかが少し見えてきました。現実問題として、僕は一般的なフィクションに比べて、極めて静寂の中で生きているんだなあと思いました。この文章は今二時間ぐらいかけて書いているのですが、その間耳に届いた音と言えば、カーテンの揺れる音、近所のピアノのインベンション。野良猫の喘ぎ声。このくらいです。人間の声は、皆無です。

 

なんなら今日は、誰とも話すことなく眠りにつくことになりそうです。冷たいアクアリウムみたいな自動販売機で、乾燥パンとスナックと栄養ドリンクを買って、それで一日持たせたわけだから、今日は本当に人類最後の終末世界の気分でした。そんな人間が求める映画が、静寂、静謐に行き着くのは、ある種必然なのかもしれないという、こう思うわけでありました。完。