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人類終末後の世界を舞台にした世界観は、終末系などと呼ばれ、1つのジャンルとして確立している。僕もその手のジャンルの作品が好きである。とりわけ終末系には終わった時代の記憶を呼び起こすようなアイテムや遺構などが出てくる。そういうものを見ると、何かこうノスタルジーのような感情が生まれてくる。不思議なことに、それが直接目で見たり、経験したもので無かったとしても。

 

実際に自分の人生経験に含まれていないものでも、古ぼけた印象にレタッチされたり、あるいは他のコンテンツによって間接的に経験したことによって、虚構のノスタルジーとして味わうことは可能だろう。昭和レトロのようなものはまさにその代表例だ。

 

 

終末系に出てくる風景にはだいたい廃墟が出てくる。そして廃墟には終わった時代の足跡が部分的に残っている。一方実世界の廃墟では、それはとてつもなく繊細で具体的だ。






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小さな傷跡や、消えかかった文字、そこから我々の想像は広がっていく。廃墟が昔、人々が行き交う空間であったこと、どんな人がそこにいて、どんな会話が聞こえていたとか、そんなことが空間に充満されていく。ある程度は転がっている遺物に基づいて、しかしそこから先は我々の自由気ままな想像力によって余白は埋められていく。

 

自由気ままな想像力には、時に過度な期待が添えられる。ようするに思い出補正だ。きっとこんな顔の人が座っていたのだろう。今よりずっとロマンあふれる生活だったんだろう。

我々は自分の人生のつまらなさをある程度知っている分、自分の経験よりも、経験外の世界、例えば見知らぬ土地の廃墟や終末系の作品世界に思い出補正をかけやすい。僕はその前に立って、たくさんのノスタルジーを抱きながら自分の人生の空虚さを嘆く。

ひょっとするとノスタルジーは空虚なマゾヒストのための趣味なのかもしれない。

 

少し話がそれた。

結局何が言いたいかというと、僕は「揺らぎ」のようなものを求めているということだ。

不完全であること、消えかかっているもの、どこかに行ってしまいそうなもの。軸を失い、柔らかくゆらゆらと踊り、最後は風に飛ばされるようなもの、例えるならカーテンのようなものだと思う。廃墟や終末世界も、その「揺らぎ」のようなものを持っているだろう。






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誰かが「男はみんな揺れているものが好きだ」と言っていた。間違いないと思った。強く頷いた。でもなんでだろう。僕も揺れているものを見るとなんだととても恋しくなる。追いかけたくなる。揺らいでいることは、消えていくことの前触れのように思えるから?

長い髪の毛やスカートに魅力を感じるのもこのためだろうか。

 

「揺らぎ」は物というよりも、もっとあやふやな形の伴わない存在、例えば記憶のようなものだったり、誰かが残していった匂いのようなものかもしれない。揮発性物質なのかもしれない。空気に触れた瞬間、不完全になっていく。消えていくことで、想像の余地が生まれていく。そこから揺らぎをめぐる旅は始まる。

 

 

写真は揮発を防ぐためのものだ。だから僕は写真を好む。完全に揮発していく前に、保存していくために。