つれづれなるままに

ろうあ協会のこと、福祉のこと、教育のこと、 日常に起こる些細な「あれ?」と思うことなど、 雑感を書き綴ります。  

ろう教育における教師の長話

 聾学校のとくに小学部低学年の授業で禁じ手とされるもの(笑)。

 耳の聞こえない児童たちは、話を聞くということは見るということで、最近は口話のみで授業をする教師はめったに見なくなったものの、手話があってもやはり話を見ているのだ。
 聴こえる人がもし、テレビが故障していて、音声が出なくて、次々移り変わる画面だけを40分間見るとしたら楽だろうか、と考えてもらえたらよい。

 授業は長々と知識を聞かせるものとなってはならず、伝えるべきことはできるだけ端的にする。そして、授業中に思考する時間をきちんと保障する、これが大切である。話を聞く(見る)だけだとそちらに意識が集中しすぎて、考える余裕がなく、学習効果は上がらない。
 厄介なことに、近年補聴器や人工内耳というテクノロジーの恩恵を受けて、いくぶんか、聞くことへの負担の軽い子が、教室に一部いることがある。
 悪いのは、その子らがわかっていることに引きずられ、わからない子たちの負担が増すことである。
 ICTや視覚教材を活用していても、それらを見ているときに話が聞こえている子と、それを見ていたら教師の口元や手話を同時に見ることができない子がいる。こういったクラスの中で、全員がわかるように授業することが求められるが、何分、一年目などの人はなかなかそういう実態が見えていないものである。
 
 ある日のこと。
 宿題を忘れた子に指導するからと、新人が放課後にその子を二人で話をした。そして30分後、帰ってきた。
 「あの子、質問に何も答えないんですよ。でもね、最後に分かった、ごめんなさいと言ってくれましたよ」
 質問してどれくらいの時間、あなたは沈黙してその答えを待ちましたか?と尋ねると
 「あ」
 分かったと答えたその子に、何が分かったのか尋ねてみたのかときくと
 「あ」
 多分その子は話が長いのが苦痛で「わかった、ごめんなさい」と言ったのであろう。翌日もその子は宿題を忘れてきた。

 

近々ある天体ショー

 今日はとても寒い一日でした。ここ、大阪でも、日中気温が3度くらいまでしか上がらず、昨夜から早朝にかけ氷点下となったため、教室のベランダに放置していた水入りバケツの水がかなり厚く凍っておりました。
 数年前、今の学校の赴任したばかりの年に、運動場が真っ白に染まる日がありましたが、今回は雪がありません。子どもたちは雪を期待していると思いますが、この点は残念でした。

 さて、今月末の31日の晩、皆既月食が見られます。
 晴れたらいいですね。

 夜の八時過ぎから月が欠けはじめ、赤胴色に染まる皆既食が長く続き、また月が完全に顔を見せるまで4時間ほどかかるそうです。
 そのことを、理科ニュースで取り上げようと、月食のことに絞って記事を書こうと奮闘している同僚がおりました。幼稚部から中学部まで、幅広い対象のあるこの学校ですから、月食と言ってもどういうことを取り上げればおもしろいニュースになるのか、でかなり悩んでいたようです。
 月食のメカニズムなどは一般的ですが、ある層には「そんなこと知ってるよ」になるでしょうし、ある層には「だから何?」ってことになるでしょうし。不思議だなあとか、おもしろいなあとか、もっともっと知ってみたいとか思わせるものを選ぶのは、なかなか大変な作業なのだなと思いました。
 見てみよう、ということに絞り、時間や方角を書いておいても、それが面白いものだという理解がなされなければ寒空なのにわざわざ長時間見ようとしないでしょうし。さて、どのように仕上がるのでしょう。楽しみです。

お正月遊び用の折り紙こま

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 折り紙3枚(一枚は両面)を組み合わせて作る独楽です。
 これなら、上手に立たせられない子でも回すことができるかなと作ってみました。回るだけなので飽きるだろうと、いくつかの色のを作ってみました。

 小三ともなれば、ひものついた独楽に挑戦したがるものですが、ひもをまくところから上手にできなかったり、独楽の軸を垂直に立たせることが難しかったりすると、独楽そのものをやりたがらないのですが、これは簡単に回せて、短時間ですが楽しんでもらうことができました。
 これを折ってみたいと、放課後少し残って作ってくれる子がいました。
 これと似た要領で作るお花も作ってくれました。

 話がそれるようですが、年末くらいから急に字を丁寧に書くことができるようになった子がいました。それまでは、「もうちょっときれいに書いてみたら」と言っても言っても全然直らなかったのですが、一週間ほどの推移で急にきれいに書けるようになり、字を書くことを以前よりずっと楽しんでいます。その子がその同時期にはまりはじめたのが折り紙です。その子は教室の中に折り紙で作ったものがあると、やってみたいと、休憩時間はハマってそれに時間を費やしています。うれしい変化です。

2018年あけましておめでとうございます

 2018年あけましておめでとうございます。
 といっても、これを書いている時点ですでに七草も過ぎております(笑)

 Facebookのほうではよく、短かい文を載せるのですが、ブログとなると、考えたことをちゃんとまとめなければならない、土台となる情報も正しいかどうか見極めていなければならない、など、ハードルが高いなと感じるようになっていました。
 しかし、ある一定の情報量をもとに、考察に至る経過などをまとめる作業を怠らないようにしなければと思ってはいます。

 ということで、今年は昨年よりも多くの投稿をしたいと考えています。
 本年もよろしくお願いいたします。
 

人工内耳者に対する興味

 11月17日、市内で自主的に開かれている、聴覚障害福祉の研究グループの集まりにお邪魔しました。いつもは10名ほど、と聞いていましたが、この日は20名近くの方が参加していました。
 僭越ながら私が、聴覚支援学校の風景と題して様子を報告させていただきました。
 私としては、ひとくちに聴覚支援学校の児童と言ってもニードがさまざまであることを紹介したのですが、中でも人工内耳に対する興味が高いということがわかりました。
 私の担当する児童たちの半分近くが人工内耳の手術をしていますが、言えることは、もしその手術がなければ聴覚からほとんど情報の入らない重度の聴覚障害であったこと、それが耳からの情報がよく入るようになっているが、その度合いは個人差があることを紹介しました。また、だからといってろう教育がしているような支援が全く必要ではないとは言えないことも併せて紹介いたしました。

 人工内耳については、「聴覚障害を否定する」というように捉えられる方もいます。また、人工内耳を未だ自己決定できない乳幼児に施すことを「虐待だ」という人もいます。それについては論議の余地があるとして、現場では、目の前にいる児童が学力を身に着けたりコミュニケーションを身に着けたりすることができるように支援しています。そして、ろう者、難聴者に対して正しい理解が広がるようにという努力をしたように、同様に人工内耳の人に対してもするべきと言えます。
 人工内耳のことを知りたい、といわれるとき、その問いをする人は私に何の答えを求めているのかと、以前はとても気を遣いましたが、今ではあまり気にしないようにしています。聴覚障害のある人は、どの時代にも生まれてきました。その長い時代の中で、ろう教育が始まり、手話で話すことができるようになったのはごく最近のことと言えるでしょう。その前の時代から見たら、そうして生きる聴覚障害者が新しい人たちであったのと同様、今、人工内耳を装用して生きる人たちは新しい人たちであるともいえます。

 その新しい人たちは、長い間聴覚障害の人が、特に、聴覚を存分に活用することができても聞こえにくさと対峙しなければならない人の悩みを引き続き背負うのでは、と、私の狭い経験の中では思えます。
 手話を全面的に必要とするとは言えないものの、新しいその人たちは、聴こえない友達に伝わるように手話を使います。日本語ではしゃべれない友だちの手話を読み、聴こえる親たちに伝えます。聾学校の中ではそうです。いくつかの手段を併せ持つことでユニバーサルな関係作りができるからと言えるでしょう。

 医療面でもこれから進歩して、いつかは人工内耳が古い技術となるのかもしれません。そして、聴覚障害を負ってもそれが治るという日がいつかくるのかもしれないと思います。しかし、現時点では聞こえやすくなったが聴こえにくさを抱えている人としてとらえたほうが良い、であるのに聞こえる人と同じという誤解を周囲も本人もしてはならないのではないかと思います。

中秋の名月

 中秋の名月。仕事帰りに撮影しました。
 「中秋」をうっかり「仲秋」と黒板に書き、それは古いと、歳がばれそうになりました。

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 お月見団子ですが、給食室から作り方のチラシをもらってきた児童が、皆に紹介していました。
 「おうちでも作ってもらえるかなあ?」と、言いますと異口同音に
 「だめだめ、ママはめんどくさがりだから」だそうです。

 ううむ、これも時代と言えるのか。

ザリガニでアクティブラーニング

今度は、教育のホットな話題も取り上げましょうか。
 東京オリンピックが開催される予定の2020年、教育関係では学習指導要領の改訂がされます。学習指導要領とは、日本のどこで教育を受けても同じ基準の到達度になるように定められたもので、各学校ともこれを参考にしてカリキュラムを組んでいます。この、学習指導要領に書き加えられるのが、教育方法の一つである「アクティブラーニング」で、細かな指導方法まで言及するのは異例なことと思われます。
 「アクティブラーニング」は、従来の、教師が教壇に立って、必要な知識を教えるというスタイルとは違い、子どもが参加して授業を作っていく、たとえばグループディスカッション(5〜6人のグループで話し合って発表する)、グループワーク(5〜6人のグループで調べ物をしたり作品を作ったりして発表する)、ディベート(二つの意見のグループに分かれて、なぜその意見が正しいと思うのかをまとめ、たたかわせる)などがあります。「課題の発見と解決に向けて主体的に共働的に学ぶ学習」といわれていて、知識や技能の定着や学習意欲を高める上でも効果的だとされています。
 さて、難しそうだけど低学年の子どもでもできるのかな?ということで、昨年度、小学二年生を相手に、アクティブラーニングの手法を取り入れてみました。「自分の力で考えて、相手の意見も取り入れながら動くには言葉(この場合日本語)が必要でしょう。難しいでしょう」と、当時の校長先生に言われましたが、そんなことはない、日本語力だけが考える力のベースではない、とわたしは考えていたので、楽観的にとらえていました。日本語力で言えばたいへん難しい児童も、算数の難しい問題を解いたり、自分たちで行事を考えて意見を言う(ただし手話)ことができていました。
 5月末に、「生活」(理科分野と社会分野の初心者版のような授業)で、ザリガニ釣りに行きました。釣ってきたザリガニを教室で飼ううち、自然と愛着が生まれ、名前をつけてみたり、話しかけてみたり、子どもらはザリガニを自然と観察するようになりました。授業で、ザリガニを描かせてみたり、日本語で表現できる範囲でまとめさせるより、子どもたちがいろいろなことに気付いているということに気付きました。
 そういう毎日が何週間か過ぎ、ある日、大事にしていたザリガニが不自然な姿で死んでいるのを子どもらは見つけました。当然、子どもらは嘆きまして、校庭の隅にお墓を作りに行き、お別れをしました。そして「なんで死んだのかな」「病気だったのかな」と疑問を持ち、「だれにきいたらわかりますか」と言ってきたのです。
 あ、これは調べ学習をさせてみよう、と思いつきまして、この調べ学習をアクティブラーニングの方法(グループワーク)でやってみることにしました。
 調べ学習、といっても、あまりやったことがないことをいきなりするのは難しいので、小学生向けの事典や関連の本(絵や写真がたくさん入っていて分かりやすいもの)を複数選んでおいて、その中から二つのグループに分かれて相談しながら、該当する箇所を見つけてみるところから始まりました。子どもたちの選んだテーマは「ザリガニにも男と女はいるの?」と「ザリガニの脱皮」でした。脱皮のことは知らなかったようです。ザリガニたちは夜の間にこっそり脱皮していたようで、脱皮する姿を子どもたちに見せていなかったからです。しかし、ザリガニの死んだ姿が、脱皮の途中経過の写真とよく似ていたので子どもらはぴんと来たようです。
 絵や写真がたくさんあってわかりやすいとはいっても、日本語で書かれた説明文を読める子は読める、読めない子は読めないといった感じでした。わからないところは、訊きにきてもいいよということにしておいたら、どういう意味かといっぱい尋ねに来ました。それらを一年生にも教えてあげたい、というので、簡単に模造紙にまとめることとしました。

 グループワークの方式で模造紙にまとめるとき、書ける人ばかりが書いて書けない人は見てるだけになるんじゃないか、と心配していました。よくアメリカの映画などで、この学習方法についていけない子どもがいじめられているシーンとかありましたので、そうなるかもしれないとひやひやしておりました。ですが、次の生活の時間でまとめるとき、子どもたちは上手に役割分担を自然にやっていて驚きました。二つのグループで、リーダー的になる子どもはだいたい予想したとおりだったのですが、その子どもらが実に上手に、他の子の得意にあわせてやることを分けていました。字を書くのも絵も(他の子に比べたらですが)上手にできない子どももいますが、その子どもは、資料になる本を運んだり、紙の端を押さえたりして、協力していました。ザリガニの細かいところが分からない、絵が進まない、と友だちが手話でぼやいたのを見て、ザリガニを水槽ごと持っていって見せてあげたりもしていました。そうして、またたくまにすてきな「ザリガニ調べ」のポスターが出来上がりました。
 このような協力関係が授業の場ですぐに出来上がるためには、それまでにクラスの仲間のことをよく知っておくとか、クラスの中で仲良く(それは強制ではなく、おのずから)過ごせるように配慮しておくとか、下地作りが不可欠です。下地を作っていくためにはクラスのみんなが分かる方法でいつもコミュニケーションを取っていることが大切で、それは子どもらだけではなく教師も同じで、その方法とはやはり手話なのです。手話は見る言葉で、少し斜めから、つまり会話の当事者でなくてもちょっとは見えて、そのことから判断して、行動をすることができます。こういう下地の上に、言われたから、という理由以外で、つまり自分が出会った場面を解釈して行動し、そのことによって友だちから感謝されたり先生からほめられたりすることを重ねていけるように配慮しています。まあ、読みが外れて望まないことをやってしまって、しかめっ面されたり嫌がられたりすることもありますが、それはそれで経験ですので、そういったことも大切にしています。
 アクティブラーニングの話に戻りますが、確かにこの方法は楽しくて、やりたい気持ちを引き出すことのできる方法だな、と思います。しかし、その場だけを切り取っては論じられない側面やそれまでの経過が大いに関わってきます。文科省がアクティブラーニングを推奨しているけれど、ああそうですか、ということでその方法でずっとやる必要があるとは思いません。ときにはこうやって学習意欲が持てるようにしたらよいけれど、算数なら算数の理論の体系、理科なら理科で科学的な考え方の獲得など、その学年にふさわしい知識の内容がありますので、それをアクティブラーニングだけで学んでいくのは難しいのでは、というのが私の意見です。ザリガニについて、興味関心から出発し、興味関心の範囲で意欲的に学ぶことができましたが、ザリガニについての知識の積み重ねはその範囲以上なので、それを学べるように教師から提案してみるとか、体系的な授業の中にこのアクティブラーニングを取り入れるかするべきであると思います。また「できる人だけがやる構図になるのでは」という不安ですが、今回は確かにうまく全員が機能できていましたけれど、重ねるうち、書ける人は書く、絵を描ける人は描く、という分担が固定化するのではとも思いました。できるかできないかに関わらずいろいろなことを個々の子どもには体験してほしいので、その点もアクティブラーニングの長所とはいえない点なのかなと思います。

13年ぶりの沖縄(2)

 大会後に行ったひめゆりの塔(糸満市)です。沖縄戦の戦跡としてはもっとも有名なものではないでしょうか。ひめゆり部隊の他、似たような任務に就き似たような運命をたどった部隊はたくさんありますが、ひめゆりは小説化により有名になりました。この塔の前に、多くの犠牲者を出した第三外科壕の入り口が残されています。
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 ひめゆり部隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の乙女たちによって構成されていました。看護要員として動員されるとき、女の子たちはペンなどの学用品も持参していました。学校での勉強の延長だと思っていたのでしょう。戦中とはいえ、ほんの数か月前までは学生としての生活をしていたのです。しかし瞬く間に戦局は激しくなり、彼女らの中にも任務の最中に砲弾の犠牲者になった者もいます。また、つらいことに、回復の見込みのない負傷兵に青酸カリ入りのミルクを配るなどの「処置」任務に就かされた者もいるといいます。
 6月18日に解散命令が出されましたが、鉄の暴風とも比喩された砲弾の飛び交う地下壕の外に出ることは死を意味しました。動員数は教師も含め290名とも240名ともいわれていますが、そのうちの226名が砲弾により、または自決により尊い命を落としました。ひめゆり部隊の女の子たちの死は、解散命令の出た後が圧倒的に多いのです。

 資料館の中には犠牲となった乙女たちの遺影が飾られた部屋もありました。
 どうあがいても彼女らの命は戻りません。犯してしまった過ちを正しく見つめ、戦争とは何なのか、平和はどう守ればよいか考え行動することが大切でしょう。かわいそうで終わらせずに後世にも伝えていかなければならない、ひめゆりの塔です。
 

13年ぶりの沖縄(1)

 第65回数額教育協議会の全国大会に合わせて、13年ぶりに沖縄へ行きました。
 大会は3日間だったのですが、その前後1日ずつを追加、合計4泊5日の日程を組みました。帰りには台風の影響で飛行機が欠航になり、もう一日追加することになりました。
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 琉球王国の最高の聖地と言われる斉場御嶽(せーふぁうたき)。沖縄県南城市にあります。三角岩の写真はどこでも見ることができるものですが、直下に立つとわけのわからない神聖な気持ちになります。暑い沖縄ですが、ここだけはひんやりしています。
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 この岩だけではなく、あちこちに意味の深くあったであろう場所があります。あまり時間がなかったのでよく調べずに行きました。ですが、中の道を歩いていると、「砲弾池」という、砲弾を受けて大きくへこんだ場所が一つ残っていました。戦争の傷跡も残している斎場御嶽です。

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 首里城守礼の門。
 首里城は、沖縄戦のときに軍の司令部が置かれた場所で、米軍の標的になり焼失しました。
 首里攻防戦の後、司令部はここから約14キロ南の海岸に移動しました。ひめゆり部隊などの現地防衛協力隊員や多数の住民を悲劇に巻き込んだ沖縄戦の地獄絵図のはじまりはここからであった、とも言えるでしょう。

教師によるしょうもない寸劇(2)

 一学期も終わりましたがこの一学期もまた、しょうもない寸劇を自立活動の時間にやってしまいました。

 「人を傷つける言葉」というテーマですが、傷つけるつもりがなくても傷つけてしまうことがあります。自閉的な傾向のある子が、ありのままを言ってしまう、これです。本人はその状態を表現しているだけであって、嘲笑しているとか、傷つけようとする意図は全くありません。ですが、傷つけてしまい、ときには変なトラブルに巻き込まれることがあります。

 自力通学の練習中、電車の中でその子が「あ、あの人毛が無いよ〜」と指さして言ってしまうことがあり、お母さんは冷や汗をかくやら恥ずかしいやら。また、毛染めした人を「赤い頭だよ」とか「黄色い頭だよ」とか。
 幸い今までトラブルに巻き込まれていませんでしたが、自立活動の時間に「あなたならどうする?」という寸劇をしてみました。

 泣き真似のうまい教師に、相手の役をやってもらい、何も言わなくても傷ついている様子とか、泣いてしまう様子とか、急に暴れだして殴りかかってくる様子とかを寸劇でやってもらいました。

 その後、そういう発言がなくなったかというと、
 「心の中で繰り返してます」とのことです。その後、「電車の中で我慢した」ことを自立活動の時間に報告してくれています。

能力の発揮される環境とは

 今日から新年度です。
 昨年度は小2を担任いたしました。子どもも教師も楽しそうにやれているね、と評された一年でしたが、別に秘訣などはありません。ただ毎日楽しかったです。
 子どもらはほんとうにかわいらしかったし、教師集団もそんな彼らに魅了されていました。
 障害についていえば、耳が聞こえないだけではなく、他に自閉症や身体障害を併せ持っていたり、知的な障害もあるのではないか、LD的なところがるのではないかと目される子もいました。それは過半数に上りました。
 私の方針としては「厳しくしつけていこう」ではなく、ある程度彼らをリラックスさせて、間違ったことも含めていろいろと行動したり発言したりできるようにはからいました。この方針は私一人が持つだけではだめで、学年団全体で納得されなければなりません。その点、昨年度は、それが受け入れられる学年団であったと言えるでしょう。恵まれておりました。そして、子どもらも楽しく過ごし、教師も楽しく過ごす中で、教師自身も自分の力を発揮する機会がたくさんありましたし、子どもらもどんどん、発揮していきました。

 断っておきますが「リラックスさせて」とか「厳しくしつけるのではない」というのは基本であって、四六時中そうだったわけではありません。子どもらが「間違った」「しまった」と思うことについては、ちゃんと指摘しています。この指摘は子どもらが「間違った」「しまった」と思ったその判断を肯定する形でやっています。また、「間違った」「しまった」と気づかないようであれば、気付くように何らかのアクションをしてみました。
 新年度、彼らを担任するのはいかような教師であるかはわかりません。
 もし、百八十度違った指導方法をする教師であっても、それはそれでよい経験になるのでは、と校内を見渡して思っています。

 一年間ありがとう。
 この組み合わせで同じことができることはもうないけれど、どうかこれからも明るく素直に育っていってほしいと願っています。

 年度末、片付けをしていて、昨年度に作ったあれこれの手作り教材を眺めてみました。眺めてないでさっさと片付ければいいのですが、いろいろな思い出に浸る時間がありました。残そうかと思いましたが、今までの経験だと、その場の子どもに合わせて作っているので、同じものを使うことがなくたまっていっています。また、それが素晴らしい出来で、他の誰かの役に立つとも思えません(笑)。ですから、思い切って大半を捨てることにしました。

 実際の新年度スタートは3日からです。
 今年はどんな子どもたちと過ごすことになるのか、楽しみです。

 

青い空はありがたい

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 2月です。
 一月末に私自身がインフルエンザになり、けっこう仕事を休んでしまいました。受け持ちの学年は学年閉鎖となりました。
 9年ぶりのインフルエンザは結構きつく、「熱が下がってからは仕事に行こう」と思っていたのに、全身の倦怠感と関節痛、時折下痢もしたりして、動けませんでした。今は元気になっていますが、子どもがこんな病気にかかるのですから、かわいそうなものです。

 そういえば、ある人に日本をほめられました。
 日本は空がきれいだそうです。中国籍の方ですが、中国はスモッグがすごいということで、青い空を見ることはあまりないということでした。彼女のスマホの写真ギャラリーには、いろいろな空が写っていました。大阪の空といえば、私が大阪にやってきて、阪急だかの高いビルに上って見下ろしたら、スモッグに薄く覆われていたのを思い出します。最近ハルカスに上って(高いところが好きというわけではないですよ)見下ろしたらそれがないのです。
 今は当たり前に思っている空もちょっと昔はすこし曇っていたということなのでしょうか。
 空を取り戻す努力、排気量を抑えるとかが少しずつ行なわれて積み重なって今のようになったのでしょう。

 青い空のありがたみ、今回インフルエンザから回復した私が真っ先に思い出したエピソードです。

三学期スタート

 1月10日、三学期がスタートしました。
 今年の冬休みは長めで12月23日から1月9日まででした。18日間もありました。冬休み中は出勤しても惚けておりましたが子どもの顔を見ると引き締まり、また、気分も高揚してまいりました。

 冬休みの最初の二日間、同僚を故郷・松山にご案内しました。
 12月の後半のわずかな時期に収穫されているという噂の「紅まどんな」というみかんを買って宿屋で食べ、松山城、坂の上の雲ミュージアムなどを見て過ごしました。道後温泉本館は私の小さいころと姿が全く変わらず、懐かしい懐かしいと思いながら湯につかりました。
 新年には鳥取までカニを食べに同僚と7人連れで、それだけのために日帰りで行きました。

 また今年も幸せに過ごせますように。
 本年もよろしくお願いいたします。

 

2016年も もうすぐ終わり

 早いもので、今年、2016年もあと2日で終わりです。

 4月に新しく担任となった学年は、今までの高学年の児童とちがい、かわいさだけで何でも許せてしまうくらいのかわいさでした。この学年の子どもは学力的に難しい、などと前評判はあまりよくなかったのですが、始業式の日に一目で私を魅了したかわいさぶり。確かに、授業中にうろうろしたり、給食を食べるのがものすごく遅かったり、朝の準備をするのも帰りの準備をするのもとても遅かったりしました。学力的にも大変と言われるだけあって、ワタクシも試行錯誤の毎日でしたが、こんなにやりがいがあり、腕の鳴る気持ちになったのは久しぶりのことでした。
 終業式の時、「みんなと仲よく遊べたのはよかった。うれしかった。冬休みに会えないのは寂しい」と、児童らが言うほど仲良い学年に育つことができました。

 彼らも今年末を迎え、ちゃんとお母さんたちのお手伝いをしているかなあと思いつつ、離れても気になるところです。
 皆様もよいお年を。
 今年の教訓は「仲良さや励ましあいがお互いのモチベーションを高める」でした。


教師によるしょうもない寸劇(1)

 言葉で体験していないことを伝えるより、劇化したほうがよく伝わる。
 ということで、朝の自立活動の時間にこの手法をよく採用しています。

 よくやるのは不審者に対する心構え、対処の仕方。
 あの手この手で子どもをだまし、悪いことをする大人の役はだいたいワタクシ。で、無垢な子どもの役は他の教師にやってもらいます。
 
<変質者編>
 ワタクシ「おじょうちゃ〜〜ん♡かわいいな〜♡おじちゃんが、ホラ、飴あげるよ♡ついておいで」
 教師「わーい」
 ワタクシ「へっへっへ♡おじょうちゃ〜〜ん♡ちょっとさわらせてえや」(といって、さわさわと指を動かす)
 教師「いやああああ。たすけてえ」(つかまってしまう)

 と、こうなるかもしれません、と説明。そして、対処方法を次に。

 ワタクシ「おじょうちゃ〜〜ん♡かわいいな〜♡おじちゃんが、ホラ、飴あげるよ♡ついておいで」
 教師「いや!」
 ワタクシ「へっへっへ♡そないなこというなや、おじょうちゃ〜〜ん♡ちょっとさわらせてえや」(といって、さわさわと指を動かす)
 教師「いやああああ。たすけてえ」(大声で叫ぶ)(防犯ブザーを鳴らす)
 ワタクシ「まずい!退散や」(といって逃げる)

 ついていかない。大声で助けを呼ぶ。防犯ブザーを鳴らす、などの重要なところは最後にちゃんとおさえておきます。

 が、放課後。
 他の教師からよく言われるのは「ブラック先生の演じる大人って最低ですよね」


 

暑い暑い夏休み

 8月9日です。長崎の原爆忌でもあります。
 7月末に、大阪の平和資料館(ピース大阪)で、ずいぶん前の映画でしょうか、「明日」というタイトルの映画を見ました。人々の日常や思い、生まれ出る命、これから願う幸せや約束などをすべて一瞬にして奪ってしまった原爆の、最後の瞬間の映像を見たとき、筆舌に尽くしがたい怒りと悲しみが湧きました。何百年たっても忘れてはならない出来事として、語り継ぎ検証しなければならないものだと感じます。

 さて、今年の夏はとても暑いですね。
 毎日35度や36度の最高気温は当たり前、熱帯夜も当たり前、で、学校は夏休みというのに体は疲れ果てています。
 6,7日と京都で開かれた全国障害者問題研究会に参加しました。
 委員長の荒川さんから、相模原で起きた障害者多数殺傷事件についてお話があり、黙とうも致しました。
 分科会では、生徒や利用者の一人一人をあたたかく見つめ、その人の内面について深く考えている実践者の皆さんのお話を聞きました。
 ろう関係の分科会でした。
 ろう教育関係の研修は、仕事柄いくつも受けることがありますが、日本語をどう教えるか、覚えさせるか、という課題が先行したものとは対照的で、教育者の原点とは、この分科会で語られていたようなものではないか、と思えました。もちろん、課題そのものは生徒や児童の将来を思い、考えられていることです。それをおろそかにしようというのではないのです。

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 暑いので、ちょっと涼しそうな画像をアップしておきますね。

君がうろうろする理由

 新年度スタートから早くも2か月。
 初対面ではないけれど、それまで見かけるだけで話したことのなかった学年の子どもたちの担任となり、最初の印象は「うろうろする子ばかりやな〜」。でも、今ではその「うろうろ」の理由がわかり、彼らのことが大好きになっています。

 好きな先生を探している。
 好きな友達を探している。
 これがうろうろの理由でした。

 朝からランドセルの口をあけたままで、あちこち行ってしまうのは、昨日とりくんだ宿題がうまくできたから見てほしいと、ほめてほしいと、大好きな担当の先生の姿を探しているから。大好きな友達に伝えたいことがあったり、大好きな友達の顔が見たかったりして探しているから。
 行動の順番は「それでいいのか」と思われても、それでも目的を達成したらちゃんと帰ってきてくれる子なんだとわかると、こちらもあまり心配しなくなりました。

 「○○先生に宿題を見せたかったんだね〜」というと、「きのうの宿題、がんばったよ」と私にも伝えてくれます。
 

 そのうち、「手伝いできることを探す」という「うろうろ」にも気づきました。
 今までの担任の先生が、ちゃんとその気持ちを認めてほめてくれてきたからでしょう。黒板を消してくれたり、教室移動の時に私の荷物を持ってくれたりと、とても親切。ただ、それに気を取られて自分の筆箱を忘れてしまったりとか(苦笑)ありますが、「ありゃー筆箱忘れたみたいねえ」とは言っても、手伝いはやめなさいとは言えません。行動的に落ち着きがないとか見えても、心はそんなに落ち着きのないわけではなく、抜けていることが多くても気持ちを認めてもらうことで子どもらの気持ちは落ち着いているようです。
 

ああ、春だ

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 学校近くの公園の桜、半分ほどがもう満開です。
 明日から新年度スタート。さあ、どうなりますやら・・・・

 昨日までに、親しくしていただいた同僚との別れを惜しみました。
 「がんばってるつもりだったのに、認めてもらえていなかったんだ」という悲しみを語りながら、別の学校に去っていきました。その人も明日から新生活を迎えるのでしょう。どうか、いやすい場所、やりがいのある職場でありますように。

京都市立学校歴史博物館

 特別支援教育の展示がされているなんて・・・と、足を向けたのは京都市の河原町駅近くにある学校歴史博物館。企画展で京都の特別支援教育のむかしの紹介がありました。また、特別講演もあり、そのむかしの、我々からすると偉人ともいえる糸賀一雄氏とともに近江学園を立ち上げた一人、田村一二さんについての詳しいお話がありました。

 「この子らを世の光に」の言葉で有名な、糸賀一雄さんのことは知っていましたが、当時、学校で展開されていた特別支援教育についてあまり知らなかったので、昔のことに対する知識にさらに肉付けがされたような感じです。発達保障思想が個人の思い付きでぱっと出てきたものではなく、歴史的背景があったことを裏付けるものであり、また、当時、特別支援教育が京都大学などの有名な大学での研究とともにあったことなどは、あまり知られていないことなのかもしれません。
 地元堺の歴史を調べていると、篤志家による提案で堺市立聾唖学校が戦中存在していたことがわかるのですが、戦中、ごくつぶしとまで言われた障害児に対して、きちんとその支援をしていこうという思想は途切れることなくあったのだとありがたく痛感させられる事柄です。もちろんその当時、障害児教育にあずかれた障害児は、一部の恵まれた人だったのかもしれませんが、表面的に後退させられた障害児教育が、戦後だけのものではないということに喜びを感じます。

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 学校歴史博物館の外観です。もともと小学校だったところを一部改築して使用されていますが、むかしながらの校舎の風情はなんだか懐かしくもあります。

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 特別展では特別支援教育の歴史の展示があったのですが、常設展ではこのように、時代時代の教科書の展示もあります。今とはずいぶん違いますね。
 また、学校給食の時代ごとのサンプルもあり、私は経験がないけれど、私よりだいぶ先輩の方々が経験したという脱脂粉乳などもありました。こんなのはとても飲めるものではなかったそうです。今の牛乳のほうが数百倍もおいしいそうです。

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 京都市は、日本で初めての盲聾教育が行われた場所でして、このような、京都盲啞院で用いられていた「手勢五十音」の表も展示されていました。日本の最初の聾教育は手話や指文字を使って行われていたのです。今使われているのは、大阪市立聾唖学校の大曽根源助氏が考案したもの。これは片手だけで指文字を表せるので、カバンを片手に持っていても表せる便利なものです。

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五代五兵衛墓

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 昨年は、霊場高野山開創1200年でした。これに合わせてというわけではありませんが、晩秋に高野山へと出かけました。

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 南海高野線で橋本や九度山を通り、ケーブルカーに乗り継いで行きます。こちらは南海高野線沿いに住まっておりますが、それでも道のりは2時間ほどあります。この日は祝日で、精進料理の店へと思っていましたが、どこも満員で入ることができませんでした。残念。
 しかし、これに出会うことはできました。
 奥の院を歩いていくと、よく見ていたら見つけられる五代五兵衛のお墓です。
 この人は何なのかというと、現在の大阪市立聴覚特別支援学校、大阪市立視覚特別支援学校の前身である、大阪盲啞院を創設した人物。もともとは津山藩の米問屋の裕福な家の長男ですが、17歳の時、目を患い、視力を失ってしまいます。その後相次いで父を失い、家業も廃業に追い込まれました。しかしそんなどん底から、実業家として成功します。
 彼は、目の見えない者には特別な教育が必要と考え、私立の大阪盲啞院を設立します。1900年のことです。これが、大阪の障害児教育の始まりと言われています。

 その後公立となり、盲聾分離され、大阪市立聾唖学校となりますが、戦中、全国の聾学校が「口話教育こそ正しい」として手話を否定した中で、この大阪市立聾唖学校だけは手話を守ります。つまり、全国の聾学校の中でただ一つ、手話を守った輝かしい伝統を持つ学校なのです。

 しかしながら、大阪市立の特別支援学校が大阪府へ移管される流れがあり、来年度から「大阪府立中央聴覚支援学校」となることが決まっています。「大阪市立」の名がなくなるとは何とも残念なことです。ですが、名前は変わっても、学校創立の理念や、手話教育を守った輝かしい伝統はなくなることはないでしょう。私たち教師も、そのように後輩の教師を育てることといたしましょう。
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カウンター(07年5月4日より)
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