つれづれなるままに

ろうあ協会のこと、福祉のこと、教育のこと、 日常に起こる些細な「あれ?」と思うことなど、 雑感を書き綴ります。  

13年ぶりの沖縄(2)

 大会後に行ったひめゆりの塔(糸満市)です。沖縄戦の戦跡としてはもっとも有名なものではないでしょうか。ひめゆり部隊の他、似たような任務に就き似たような運命をたどった部隊はたくさんありますが、ひめゆりは小説化により有名になりました。この塔の前に、多くの犠牲者を出した第三外科壕の入り口が残されています。
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 ひめゆり部隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の乙女たちによって構成されていました。看護要員として動員されるとき、女の子たちはペンなどの学用品も持参していました。学校での勉強の延長だと思っていたのでしょう。戦中とはいえ、ほんの数か月前までは学生としての生活をしていたのです。しかし瞬く間に戦局は激しくなり、彼女らの中にも任務の最中に砲弾の犠牲者になった者もいます。また、つらいことに、回復の見込みのない負傷兵に青酸カリ入りのミルクを配るなどの「処置」任務に就かされた者もいるといいます。
 6月18日に解散命令が出されましたが、鉄の暴風とも比喩された砲弾の飛び交う地下壕の外に出ることは死を意味しました。動員数は教師も含め290名とも240名ともいわれていますが、そのうちの226名が砲弾により、または自決により尊い命を落としました。ひめゆり部隊の女の子たちの死は、解散命令の出た後が圧倒的に多いのです。

 資料館の中には犠牲となった乙女たちの遺影が飾られた部屋もありました。
 どうあがいても彼女らの命は戻りません。犯してしまった過ちを正しく見つめ、戦争とは何なのか、平和はどう守ればよいか考え行動することが大切でしょう。かわいそうで終わらせずに後世にも伝えていかなければならない、ひめゆりの塔です。
 

13年ぶりの沖縄(1)

 第65回数額教育協議会の全国大会に合わせて、13年ぶりに沖縄へ行きました。
 大会は3日間だったのですが、その前後1日ずつを追加、合計4泊5日の日程を組みました。帰りには台風の影響で飛行機が欠航になり、もう一日追加することになりました。
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 琉球王国の最高の聖地と言われる斉場御嶽(せーふぁうたき)。沖縄県南城市にあります。三角岩の写真はどこでも見ることができるものですが、直下に立つとわけのわからない神聖な気持ちになります。暑い沖縄ですが、ここだけはひんやりしています。
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 この岩だけではなく、あちこちに意味の深くあったであろう場所があります。あまり時間がなかったのでよく調べずに行きました。ですが、中の道を歩いていると、「砲弾池」という、砲弾を受けて大きくへこんだ場所が一つ残っていました。戦争の傷跡も残している斎場御嶽です。

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 首里城守礼の門。
 首里城は、沖縄戦のときに軍の司令部が置かれた場所で、米軍の標的になり焼失しました。
 首里攻防戦の後、司令部はここから約14キロ南の海岸に移動しました。ひめゆり部隊などの現地防衛協力隊員や多数の住民を悲劇に巻き込んだ沖縄戦の地獄絵図のはじまりはここからであった、とも言えるでしょう。

教師によるしょうもない寸劇(2)

 一学期も終わりましたがこの一学期もまた、しょうもない寸劇を自立活動の時間にやってしまいました。

 「人を傷つける言葉」というテーマですが、傷つけるつもりがなくても傷つけてしまうことがあります。自閉的な傾向のある子が、ありのままを言ってしまう、これです。本人はその状態を表現しているだけであって、嘲笑しているとか、傷つけようとする意図は全くありません。ですが、傷つけてしまい、ときには変なトラブルに巻き込まれることがあります。

 自力通学の練習中、電車の中でその子が「あ、あの人毛が無いよ〜」と指さして言ってしまうことがあり、お母さんは冷や汗をかくやら恥ずかしいやら。また、毛染めした人を「赤い頭だよ」とか「黄色い頭だよ」とか。
 幸い今までトラブルに巻き込まれていませんでしたが、自立活動の時間に「あなたならどうする?」という寸劇をしてみました。

 泣き真似のうまい教師に、相手の役をやってもらい、何も言わなくても傷ついている様子とか、泣いてしまう様子とか、急に暴れだして殴りかかってくる様子とかを寸劇でやってもらいました。

 その後、そういう発言がなくなったかというと、
 「心の中で繰り返してます」とのことです。その後、「電車の中で我慢した」ことを自立活動の時間に報告してくれています。

能力の発揮される環境とは

 今日から新年度です。
 昨年度は小2を担任いたしました。子どもも教師も楽しそうにやれているね、と評された一年でしたが、別に秘訣などはありません。ただ毎日楽しかったです。
 子どもらはほんとうにかわいらしかったし、教師集団もそんな彼らに魅了されていました。
 障害についていえば、耳が聞こえないだけではなく、他に自閉症や身体障害を併せ持っていたり、知的な障害もあるのではないか、LD的なところがるのではないかと目される子もいました。それは過半数に上りました。
 私の方針としては「厳しくしつけていこう」ではなく、ある程度彼らをリラックスさせて、間違ったことも含めていろいろと行動したり発言したりできるようにはからいました。この方針は私一人が持つだけではだめで、学年団全体で納得されなければなりません。その点、昨年度は、それが受け入れられる学年団であったと言えるでしょう。恵まれておりました。そして、子どもらも楽しく過ごし、教師も楽しく過ごす中で、教師自身も自分の力を発揮する機会がたくさんありましたし、子どもらもどんどん、発揮していきました。

 断っておきますが「リラックスさせて」とか「厳しくしつけるのではない」というのは基本であって、四六時中そうだったわけではありません。子どもらが「間違った」「しまった」と思うことについては、ちゃんと指摘しています。この指摘は子どもらが「間違った」「しまった」と思ったその判断を肯定する形でやっています。また、「間違った」「しまった」と気づかないようであれば、気付くように何らかのアクションをしてみました。
 新年度、彼らを担任するのはいかような教師であるかはわかりません。
 もし、百八十度違った指導方法をする教師であっても、それはそれでよい経験になるのでは、と校内を見渡して思っています。

 一年間ありがとう。
 この組み合わせで同じことができることはもうないけれど、どうかこれからも明るく素直に育っていってほしいと願っています。

 年度末、片付けをしていて、昨年度に作ったあれこれの手作り教材を眺めてみました。眺めてないでさっさと片付ければいいのですが、いろいろな思い出に浸る時間がありました。残そうかと思いましたが、今までの経験だと、その場の子どもに合わせて作っているので、同じものを使うことがなくたまっていっています。また、それが素晴らしい出来で、他の誰かの役に立つとも思えません(笑)。ですから、思い切って大半を捨てることにしました。

 実際の新年度スタートは3日からです。
 今年はどんな子どもたちと過ごすことになるのか、楽しみです。

 

青い空はありがたい

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 2月です。
 一月末に私自身がインフルエンザになり、けっこう仕事を休んでしまいました。受け持ちの学年は学年閉鎖となりました。
 9年ぶりのインフルエンザは結構きつく、「熱が下がってからは仕事に行こう」と思っていたのに、全身の倦怠感と関節痛、時折下痢もしたりして、動けませんでした。今は元気になっていますが、子どもがこんな病気にかかるのですから、かわいそうなものです。

 そういえば、ある人に日本をほめられました。
 日本は空がきれいだそうです。中国籍の方ですが、中国はスモッグがすごいということで、青い空を見ることはあまりないということでした。彼女のスマホの写真ギャラリーには、いろいろな空が写っていました。大阪の空といえば、私が大阪にやってきて、阪急だかの高いビルに上って見下ろしたら、スモッグに薄く覆われていたのを思い出します。最近ハルカスに上って(高いところが好きというわけではないですよ)見下ろしたらそれがないのです。
 今は当たり前に思っている空もちょっと昔はすこし曇っていたということなのでしょうか。
 空を取り戻す努力、排気量を抑えるとかが少しずつ行なわれて積み重なって今のようになったのでしょう。

 青い空のありがたみ、今回インフルエンザから回復した私が真っ先に思い出したエピソードです。

三学期スタート

 1月10日、三学期がスタートしました。
 今年の冬休みは長めで12月23日から1月9日まででした。18日間もありました。冬休み中は出勤しても惚けておりましたが子どもの顔を見ると引き締まり、また、気分も高揚してまいりました。

 冬休みの最初の二日間、同僚を故郷・松山にご案内しました。
 12月の後半のわずかな時期に収穫されているという噂の「紅まどんな」というみかんを買って宿屋で食べ、松山城、坂の上の雲ミュージアムなどを見て過ごしました。道後温泉本館は私の小さいころと姿が全く変わらず、懐かしい懐かしいと思いながら湯につかりました。
 新年には鳥取までカニを食べに同僚と7人連れで、それだけのために日帰りで行きました。

 また今年も幸せに過ごせますように。
 本年もよろしくお願いいたします。

 

2016年も もうすぐ終わり

 早いもので、今年、2016年もあと2日で終わりです。

 4月に新しく担任となった学年は、今までの高学年の児童とちがい、かわいさだけで何でも許せてしまうくらいのかわいさでした。この学年の子どもは学力的に難しい、などと前評判はあまりよくなかったのですが、始業式の日に一目で私を魅了したかわいさぶり。確かに、授業中にうろうろしたり、給食を食べるのがものすごく遅かったり、朝の準備をするのも帰りの準備をするのもとても遅かったりしました。学力的にも大変と言われるだけあって、ワタクシも試行錯誤の毎日でしたが、こんなにやりがいがあり、腕の鳴る気持ちになったのは久しぶりのことでした。
 終業式の時、「みんなと仲よく遊べたのはよかった。うれしかった。冬休みに会えないのは寂しい」と、児童らが言うほど仲良い学年に育つことができました。

 彼らも今年末を迎え、ちゃんとお母さんたちのお手伝いをしているかなあと思いつつ、離れても気になるところです。
 皆様もよいお年を。
 今年の教訓は「仲良さや励ましあいがお互いのモチベーションを高める」でした。


教師によるしょうもない寸劇(1)

 言葉で体験していないことを伝えるより、劇化したほうがよく伝わる。
 ということで、朝の自立活動の時間にこの手法をよく採用しています。

 よくやるのは不審者に対する心構え、対処の仕方。
 あの手この手で子どもをだまし、悪いことをする大人の役はだいたいワタクシ。で、無垢な子どもの役は他の教師にやってもらいます。
 
<変質者編>
 ワタクシ「おじょうちゃ〜〜ん♡かわいいな〜♡おじちゃんが、ホラ、飴あげるよ♡ついておいで」
 教師「わーい」
 ワタクシ「へっへっへ♡おじょうちゃ〜〜ん♡ちょっとさわらせてえや」(といって、さわさわと指を動かす)
 教師「いやああああ。たすけてえ」(つかまってしまう)

 と、こうなるかもしれません、と説明。そして、対処方法を次に。

 ワタクシ「おじょうちゃ〜〜ん♡かわいいな〜♡おじちゃんが、ホラ、飴あげるよ♡ついておいで」
 教師「いや!」
 ワタクシ「へっへっへ♡そないなこというなや、おじょうちゃ〜〜ん♡ちょっとさわらせてえや」(といって、さわさわと指を動かす)
 教師「いやああああ。たすけてえ」(大声で叫ぶ)(防犯ブザーを鳴らす)
 ワタクシ「まずい!退散や」(といって逃げる)

 ついていかない。大声で助けを呼ぶ。防犯ブザーを鳴らす、などの重要なところは最後にちゃんとおさえておきます。

 が、放課後。
 他の教師からよく言われるのは「ブラック先生の演じる大人って最低ですよね」


 

暑い暑い夏休み

 8月9日です。長崎の原爆忌でもあります。
 7月末に、大阪の平和資料館(ピース大阪)で、ずいぶん前の映画でしょうか、「明日」というタイトルの映画を見ました。人々の日常や思い、生まれ出る命、これから願う幸せや約束などをすべて一瞬にして奪ってしまった原爆の、最後の瞬間の映像を見たとき、筆舌に尽くしがたい怒りと悲しみが湧きました。何百年たっても忘れてはならない出来事として、語り継ぎ検証しなければならないものだと感じます。

 さて、今年の夏はとても暑いですね。
 毎日35度や36度の最高気温は当たり前、熱帯夜も当たり前、で、学校は夏休みというのに体は疲れ果てています。
 6,7日と京都で開かれた全国障害者問題研究会に参加しました。
 委員長の荒川さんから、相模原で起きた障害者多数殺傷事件についてお話があり、黙とうも致しました。
 分科会では、生徒や利用者の一人一人をあたたかく見つめ、その人の内面について深く考えている実践者の皆さんのお話を聞きました。
 ろう関係の分科会でした。
 ろう教育関係の研修は、仕事柄いくつも受けることがありますが、日本語をどう教えるか、覚えさせるか、という課題が先行したものとは対照的で、教育者の原点とは、この分科会で語られていたようなものではないか、と思えました。もちろん、課題そのものは生徒や児童の将来を思い、考えられていることです。それをおろそかにしようというのではないのです。

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 暑いので、ちょっと涼しそうな画像をアップしておきますね。

君がうろうろする理由

 新年度スタートから早くも2か月。
 初対面ではないけれど、それまで見かけるだけで話したことのなかった学年の子どもたちの担任となり、最初の印象は「うろうろする子ばかりやな〜」。でも、今ではその「うろうろ」の理由がわかり、彼らのことが大好きになっています。

 好きな先生を探している。
 好きな友達を探している。
 これがうろうろの理由でした。

 朝からランドセルの口をあけたままで、あちこち行ってしまうのは、昨日とりくんだ宿題がうまくできたから見てほしいと、ほめてほしいと、大好きな担当の先生の姿を探しているから。大好きな友達に伝えたいことがあったり、大好きな友達の顔が見たかったりして探しているから。
 行動の順番は「それでいいのか」と思われても、それでも目的を達成したらちゃんと帰ってきてくれる子なんだとわかると、こちらもあまり心配しなくなりました。

 「○○先生に宿題を見せたかったんだね〜」というと、「きのうの宿題、がんばったよ」と私にも伝えてくれます。
 

 そのうち、「手伝いできることを探す」という「うろうろ」にも気づきました。
 今までの担任の先生が、ちゃんとその気持ちを認めてほめてくれてきたからでしょう。黒板を消してくれたり、教室移動の時に私の荷物を持ってくれたりと、とても親切。ただ、それに気を取られて自分の筆箱を忘れてしまったりとか(苦笑)ありますが、「ありゃー筆箱忘れたみたいねえ」とは言っても、手伝いはやめなさいとは言えません。行動的に落ち着きがないとか見えても、心はそんなに落ち着きのないわけではなく、抜けていることが多くても気持ちを認めてもらうことで子どもらの気持ちは落ち着いているようです。
 

ああ、春だ

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 学校近くの公園の桜、半分ほどがもう満開です。
 明日から新年度スタート。さあ、どうなりますやら・・・・

 昨日までに、親しくしていただいた同僚との別れを惜しみました。
 「がんばってるつもりだったのに、認めてもらえていなかったんだ」という悲しみを語りながら、別の学校に去っていきました。その人も明日から新生活を迎えるのでしょう。どうか、いやすい場所、やりがいのある職場でありますように。

京都市立学校歴史博物館

 特別支援教育の展示がされているなんて・・・と、足を向けたのは京都市の河原町駅近くにある学校歴史博物館。企画展で京都の特別支援教育のむかしの紹介がありました。また、特別講演もあり、そのむかしの、我々からすると偉人ともいえる糸賀一雄氏とともに近江学園を立ち上げた一人、田村一二さんについての詳しいお話がありました。

 「この子らを世の光に」の言葉で有名な、糸賀一雄さんのことは知っていましたが、当時、学校で展開されていた特別支援教育についてあまり知らなかったので、昔のことに対する知識にさらに肉付けがされたような感じです。発達保障思想が個人の思い付きでぱっと出てきたものではなく、歴史的背景があったことを裏付けるものであり、また、当時、特別支援教育が京都大学などの有名な大学での研究とともにあったことなどは、あまり知られていないことなのかもしれません。
 地元堺の歴史を調べていると、篤志家による提案で堺市立聾唖学校が戦中存在していたことがわかるのですが、戦中、ごくつぶしとまで言われた障害児に対して、きちんとその支援をしていこうという思想は途切れることなくあったのだとありがたく痛感させられる事柄です。もちろんその当時、障害児教育にあずかれた障害児は、一部の恵まれた人だったのかもしれませんが、表面的に後退させられた障害児教育が、戦後だけのものではないということに喜びを感じます。

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 学校歴史博物館の外観です。もともと小学校だったところを一部改築して使用されていますが、むかしながらの校舎の風情はなんだか懐かしくもあります。

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 特別展では特別支援教育の歴史の展示があったのですが、常設展ではこのように、時代時代の教科書の展示もあります。今とはずいぶん違いますね。
 また、学校給食の時代ごとのサンプルもあり、私は経験がないけれど、私よりだいぶ先輩の方々が経験したという脱脂粉乳などもありました。こんなのはとても飲めるものではなかったそうです。今の牛乳のほうが数百倍もおいしいそうです。

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 京都市は、日本で初めての盲聾教育が行われた場所でして、このような、京都盲啞院で用いられていた「手勢五十音」の表も展示されていました。日本の最初の聾教育は手話や指文字を使って行われていたのです。今使われているのは、大阪市立聾唖学校の大曽根源助氏が考案したもの。これは片手だけで指文字を表せるので、カバンを片手に持っていても表せる便利なものです。

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五代五兵衛墓

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 昨年は、霊場高野山開創1200年でした。これに合わせてというわけではありませんが、晩秋に高野山へと出かけました。

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 南海高野線で橋本や九度山を通り、ケーブルカーに乗り継いで行きます。こちらは南海高野線沿いに住まっておりますが、それでも道のりは2時間ほどあります。この日は祝日で、精進料理の店へと思っていましたが、どこも満員で入ることができませんでした。残念。
 しかし、これに出会うことはできました。
 奥の院を歩いていくと、よく見ていたら見つけられる五代五兵衛のお墓です。
 この人は何なのかというと、現在の大阪市立聴覚特別支援学校、大阪市立視覚特別支援学校の前身である、大阪盲啞院を創設した人物。もともとは津山藩の米問屋の裕福な家の長男ですが、17歳の時、目を患い、視力を失ってしまいます。その後相次いで父を失い、家業も廃業に追い込まれました。しかしそんなどん底から、実業家として成功します。
 彼は、目の見えない者には特別な教育が必要と考え、私立の大阪盲啞院を設立します。1900年のことです。これが、大阪の障害児教育の始まりと言われています。

 その後公立となり、盲聾分離され、大阪市立聾唖学校となりますが、戦中、全国の聾学校が「口話教育こそ正しい」として手話を否定した中で、この大阪市立聾唖学校だけは手話を守ります。つまり、全国の聾学校の中でただ一つ、手話を守った輝かしい伝統を持つ学校なのです。

 しかしながら、大阪市立の特別支援学校が大阪府へ移管される流れがあり、来年度から「大阪府立中央聴覚支援学校」となることが決まっています。「大阪市立」の名がなくなるとは何とも残念なことです。ですが、名前は変わっても、学校創立の理念や、手話教育を守った輝かしい伝統はなくなることはないでしょう。私たち教師も、そのように後輩の教師を育てることといたしましょう。

三光神社

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 NHKで大河ドラマ「真田丸」が1月から始まりました。それにゆかりのある場所として名乗りを上げる三光神社。大坂冬の陣で築かれた「真田丸」があった場所・・・・といいますが、実はこの三光神社の近くにある場所こそそうであったという説が濃厚で、ここは離れていたそうです。真田の抜け穴あとが写真のように公開されていますが、真田の抜け穴とは本当なのか?との疑問もあります。
 真田丸の跡地として名乗りを上げているのに残念!とか思わないでください。ここは大坂冬の陣のかつての激戦地でもあり、幸村大好き人間の時代を超えた縦のつながりが感じられる場所です。

 大坂冬の陣、大坂夏の陣はともにほかのドラマでは詳細には描かれず、まるで大阪はあっさり負けたような印象を持っていましたが、家康が自害したいと思うほど拮抗した場面もあったそうで、そうなると、大阪はそのころどんな凄惨な状況になっていたのか、と心が痛みます。

 黒田長政がのちに「大坂夏の陣図屏風」を描かせていますが、秀頼や淀殿の悲劇はもちろんのこと、大阪にいた民衆が虐待され殺されていく様子が描かれているそうです。いつの時代も民衆は戦争の犠牲になってきたということですね。「真田丸」終盤では、大坂の陣がどのように描かれるでしょうか。楽しみです。

あさえとちいさいいもうと

 今うけもっている国語グループで、簡単に読めておもしろい物語はないかと物色して、数年前大先輩とも神様とも言える先生から紹介された「あさえとちいさいいもうと」(筒井頼子 作、林明子 絵)という絵本を、文と絵を切り離して扱うことにしました。
 読み聞かせなら、幼稚園くらいの子どもが対象。自分で読むなら小学校3年くらいまでが対象の作品です。
 物語を一度、トップダウンで理解するため、全文を読み、その後、場面ごとに細かく読んで行きます。妹のあやちゃんがねんねしている間にすぐに帰ってくるよーンと言っていたお母さんが出かけてすぐ、あやちゃんが眼を覚ましてしまいます。あやちゃんと「しゅっぽしゅっぽしよう」と汽車ごっこに誘ったあさえさんですが、あやちゃんを喜ばせようと、線路の絵を凝りすぎて、その間にあやちゃんの姿が見えなくなって…必死であやちゃんをさがして走るあさえさんが遭遇する場面を細かく読んでいきますが、今回はあさえの気持ちを軸に、読み進めていきました。
 あさえとあやちゃんという登場人物が、小学校4年生から見たらかなり幼いので、おもしろく読めるのかどうかちょっと不安でしたが、けっこう、もう少し幼い時を思い出しながら、ハマって読んでいました。「ねえ、先生。今日はどこまで読むの?」と朝から楽しみにしている様子でした。グループの子らが同学年教科書に対応せず、下学年の教科書内容か、または私が選んだ独自教材で進んでいる子ですので、大丈夫だったのかなと思っていましたが、教科書に対応したグループの子が、紙板書の文を読んでおもしろがっていたので、この年齢でもけっこう楽しめる内容だったようです。ただし、教科書対応のグループの子は、教師の助けがなくとも自分ですらすら読んでしまいました。

 この教材は内容がおもしろいだけではなく、文が端的です。
 主語は何か、述語は何か、といった文法学習にも応用できます。
 それだけではなく、文には現れない気持ちを想像するだけの余裕もありますので、このときの気持ちはどうだった?という子どもたちの想像を、お互いに交流することもできました。

 今となっては、使い方として、あやちゃんが公園にたどり着くまでの物語を想像させたり、二人がいない家に帰ってきて、お母さんはどうなっただろうと想像させたり、幅を広げることができたのではと思いますが、またいつか、どこかでこの教材を扱う機会があったら、さらに研究しておもしろい授業を提供したいものだと思います。

ことばを選ぶ

 6ヶ月ぶりの更新です。
 ブログを書き始めてから、文章がうまくなくてもすぐ思いつくようになっていたのですが、このところ、それもあまりなかったことから、スランプに陥っていたのかななんて思っていました。
 紙媒体のものでは、地元ろうあ協会の新聞にコラムを書く程度、あとは、仕事に必要な文章を書く、くらいですが、前者はちょこっと自分らしさが出せるロマンがあるものの、後者にはそれがありません。なのに、ヤバいことばを使っていないか、短く端的におさまっているかどうか、言わなくてもいいことを書いてしまっていないか、などと、気を遣いますので楽しいとは言えません。

 4月に2年間担任していた学年を離れ、そのすぐ下の学年へ。
 ことばを使う使い方は学年独特の文化もありますし、習得状況なども違ってきますから、このことば選びからスタートしたように思います。共通することとして、子どもたちはおもしろいことが好きですが、何がおもしろいと感じているのかもそれぞれ少し違うように思います。何がおもしろいと感じているのか、それをつかむことは授業の進みを楽しくすることと重なりますので、私個人としては重要なことだと思っているわけです。
 今担当している子どもたちは、執拗に細かい指示を求めたり、行動するたび「これでいいのか」という確認をしてきたり、「次はどうすればいいの」とすぐに尋ねてきたり、ということが多くありました。教師が言うことを信頼しているからというと聞こえはいいのですが、果たしてこれは楽しいことなのかなあ、などと思いつつ、毎日過ごしていました。
 「これでいいのか」というのは、裏を返せば「これでいいでしょう?」と成功したことへの同意を求めている場合もあれば、「これでいいのかどうかわからない」という自信のなさを、教師の同意で埋めようとしている場合もあります。「次はどうすればいいの」というのは、「このあとどうしたらいいのかわからない」という見通しの立ちにくさであったり、見通しが立っていたとしてもそれを表に出すことが怖くて、教師の顔色をうかがっている場合もあります。以前に、自分なりの見通しでよかれと思い行動したにもかかわらず、叱責されたことがあるのかもしれません。見通しを立てようと思えば立てられるのに考えるのがめんどくさくて、他者に頼る傾向が強いのかもしれません。
 「次どうすればいいの」に対して「自分で考えたら〜」などと突き放すのもいいかもしれませんが、その子がどのような背景でそのことばを口にするのかを考えないと、考える材料すらどのようにそろえていいか分からないかもしれないではないですか。自分で考える材料を少し提供してから考えさせる方が良いのでは、と思っています。もし、それでもとんちんかんな答えをした場合でも、考えたことそのものはよく受け止めるべきでしょう。「あなたは、こういわれたからこう考えてみたのだね」というように。考えることそのものがよいとされたりほめられたりしたら、また次も考えてみよう、ということになるのではないでしょうか。

 さて、二学期の最初の大きな行事、運動会が終わりました。
 高学年の児童には、組み体操を成功させるという大きな課題があったのですが、「下手」とか「もっとがんばれ」では、何をどうがんばったらよいのか、適切な指示になっていない場合が多いです。なのに、小学校の教師は組み体操の技術や難しさの何を知っているのだ、というくらい、ほとんどがそれに対して専門的な知識が予めあるわけではありません。体育専門教師ではない人が大半で、にもかかわらず、巨大ピラミッドをやってみたりして、最近問題になっていました。あの怪我は痛いです。怖いはずです。教師が補助に入っていますが、一人一人に補助しているわけではありません。
 また、全員でやっているとき、1人だけ、または数人だけその技ができないことがあるのは当たり前のことです。「毎日練習しよう」といって、それだけでそのうちできるようになる子もいれば、どうやら関節の稼働域が少なくて、なかなかできるようにならない子もいます。ほとんどがきれいに決まっている中、自分だけができないというその落胆や恥ずかしさで、やる気を失ってしまう場合もあります。
 技、一つ一つで、どうしてできていないのか、どこを鍛えればいいのか、また、前の日より改善しているならばちゃんとそれを指摘して、モチベーションを上げて行くためのことば選びを二学期始まってから毎日吟味していました。結果、運動会では練習よりも数段上手にできて、観衆を感動させることができたようで、運動会が終わってから私も正直に「見ていて感動した」ことを伝えました。

 不思議なことに、こういう行事をきっかけに児童が伸びて行くことが多いのです。組み体操ができるようになった、だけではなくて、他の面でもそれは影響していて、やり遂げるまでの過程で私だけではなく教員が力を合わせてこの「ことば選び」を積み重ねていったからなのでしょう。
 
 というわけで6ヶ月ぶりの更新でした。
 

 

 
 
 

初雪のふる日

 2月終わりから3月にかけて扱う、小学四年国語(光村)に掲載されている「初雪のふる日」という物語文。
 文はこれまで扱ってきた教材の中でとびきり長く、また、題材そのものも秋の終わりの日ということで季節的にミスマッチと感じつつとりくみます。
 ろう教育現場では、一般的に文の長いものは子どもたちにはハードルが高く辟易させてしまうという先入観がありますし、今年度に限っては教科書対応といえども、対応学年の教科書は少々難しいのではないかという評価を受けているグループを担当しましたので、どの教材に力を入れて深めるか、どこは扱うにしてもさっと流すか、と年度当初に考えまして、初雪のふる日は外せないという結論に至りました。
 もちろん、文がすらすらと読めて理解できることに越したことはありません。ですが、少々分からないからこそ授業で取り扱うことに強みが出ることもあります。ヴィゴツキーという心理学者が「最近接領域」ということをいいましたが、うまいことを言っているものだと思います。ただ、年度末頃にそれが最近接領域に入ってきているかは年度当初分からないものです。
 
 聴覚障害のある子たちは「ほほ」や、「ほんのり」など、よく使うだろう言葉も、文中でちょっとわかっていませんでした。こんなのは、留意して他の言葉に置き換えたりすると、すぐのみこめます。はじめに全体を読んで、それから細かく読んで、もういちど全体を見る(トップダウンからボトムアップそして再度トップダウンへ)。これが大切です。
 作中の人物になってみたり、動作を再現することで、その動作に対して意見を言いあったり、また、その動作を選んだ理由について説明してもらったりすることを場面ごとにしながら読んでいきます。そして、最後に作品全体を振り返り、読後感を発表していく。このような計画で進んでいきました。
 読後感の発表のあと、子どもたちは「雪うさぎの世界」と名付けた世界を、現実の世界の中で起こるこわいことや、いやなことに置き換えていました。これは自然にそういう意見が出てきました。
 助けてほしいのに一本のすじにしか見えないために、他の人には気付いてもらえない場面をとりあげて「困っているのにわかってもらえないことがある」と言った子もいました。では、どうしてそんなことになってしまったのに、女の子が助かったのか、これについても子どもたちは論議しあいました。
 結局のところ、草のいぶきやおばあちゃんの話や、だれかが与えてくれたよもぎの葉が女の子を助けてくれたのでしょうか、という問いに対し「女の子が思い出した」「おまじないを唱えようとした」「なぞなぞを思いついた」と、文に立ち返らずとも文の中に書かれていたことを想起して、女の子が逃れようと必死であったことを言い出しました。
 そして「私ももしこんなことがあったらがんばる」「困っていたら助けてあげようと思った」と、子どもたちの言葉が出てきて、授業は終わりを迎えました。

 物語文なので、その世界に入り込み、その世界を堪能するという点で、細かいところが表面的に流れてしまったところもあると思っています。
 しかし、この物語文からいろいろと子どもたちは考えることができたのだと思うと、ホッとしています。


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 以前、ろう教育の研究会に参加したとき、「思考の自動化」が課題であるといった方がおられ、印象に残っています。授業の中では教師が存在し、問いかけをするので答えられるようになる。しかし、それがなければ、その活動も消滅し、また、同じ問いかけをしても最初は答えられない。思考の自動化を勝ち取る上で何が必要なのか、ずっと考えていまして、授業の中では考える活動を重視してきました。
 文法の勉強で、接続詞もありました。
 二つの文をつなぐ接続詞を考え、そしてどうして、その接続詞をもってくるのか発表させてみますと、同じ意味の接続詞でもニュアンスがちょっと違うという意見を言ってきたり、この方が似合うとか、説明は科学的ではないけれども、自分なりの基準を発表する子もいました。
 また、ニュースのことばや、本で読んだことから考えたことを、休み時間に聞いてほしいとやってくる子もいました。どんな考えであれ、子どもだからとそれは間違っていると一蹴せず受け止めていく。そして議論する。正しい答えを教えてあげるだけが教師の仕事ではないと考えています。
 

ウナギのなぞを追って

 小学四年(光村)掲載の「ウナギのなぞを追って」という説明文教材。
 ウナギの幼生である「レプトセファルス」などという一般的にはあまり知られることのないような用語が出てきたりしましたが、子どもたちにとっては授業で扱う言葉には区別がないと言いますか(平易な言葉であっても「それなに?」といわれることの多いろう教育現場ですので)、これがなんだかすごい言葉であるように思えたのか、すぐに覚えてしまいました。
 まず全文を読み、細かく分けて読み、そしてまた全文を読む。
 専門用語が出てくるものの、文章そのものは理解しやすく、だいたい何が言いたいのかは最初の段階で子どもたちは分かっていました。
 細かく分けて読む時に「いつの話か」「どこで調査したのか」「みつかったもの」「そこから考えたこと」を整理していきます。しかしながら、時折「ウナギ丼おいしいよね」とか話がそれていきます。「ウナギ丼をたくさん食べたいなら、ウナギがどうやったらたくさんとれるようになるか考えなければ」といいますと、「じゃあ、役に立つ研究なんだ」というように、単純なものでして、笑うところなど一切ない文章なのに、笑いを交えながら進んでいきました。そして見つかるレプトセファルスはどんどん小さくなっていくのに、喜びは大きくなっていく…
 そして最後の方で、仮説を立て、ウナギの産卵場所をここと仮定して調査をするのですがいっこうにとれない時期があり、そしてより小さなレプトセファルスがようやくとれましたという文章に至ると子どもたちは拍手!「ウナギ丼万歳!」「いやいや、ウナギ丼を見つけたわけじゃないだろ」という互いのボケとツッコミ。

 そして、著者の塚本さんの、研究にかけた年月と忍耐に話が及んだ時には「ぼく、できないわ、こんなこと。もし、行くんならゲーム持って行かないと」「でも、船の上でウナギ丼が食べられるかも」「レプトセファルスでウナギ丼できないやろ…」と互いにボケとツッコミをしてみたり…

 一部は、いつかたらふくウナギ丼が食べられる日を夢想したのでありました。

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 さて、科学読み物として、どのへんを重視するかと言うと、調査した事実とそれから推測した仮説の関係と、仮説をたてたあとに検証を経なければ断言できないこと、そして生き物の生態の不思議そのものである。
 文の最後にはまだわかっていないことがあることが告げられる。

 「ほんまや!なんでやろ。わざわざこんなところにきて卵を産むのはなんでやろ」
 「あれ?養殖できると思ってたけど」
 「海と川とは水が違うのになんで?なんで大丈夫なん?」
 「お母さんウナギは卵を産みにくる途中で食べられたりしないんかな」
 
 文を読むのが終わっても疑問は尽きない。科学読み物の醍醐味かもしれない。

妖怪ウォッチの電車

環状線妖怪ウォッチ
 大阪環状線に毎日乗っていると、たまにラッピング車両に出会うことがあります。写真は妖怪ウォッチのラッピング。
 こんなのに出会ってしまったら、子どもは大喜びでしょうね。他にこんなのもあるようです。大阪環状線103系「OSAKA POWER LOOP」,2014yaotomi_ (4)
 あとユニバーサルスタジオ仕様とか、スパイダーマンとかがあるようですが、お目にかかったことはありません。

 大阪環状線の駅、新しくなったところがあります。私が知る範囲では、森ノ宮駅がとても新しい仕様になっています。
 こうしてみると、ちょっと楽しそうな大阪環状線。
 朝の通勤も夜の退勤時も混雑していて、あまり私は楽しくないですが、妖怪ウォッチはよく出会いますので、この電車に出会った時は心の中でつぶやきます。
 
 どうしてこんなにぎゅうぎゅうだ?
 どうしてこんなにぎゅうぎゅうだ?
 どわっはっはっはー
 妖怪のせいなのね(そうなのね?)

 

花燃ゆ 第三、四話

 第三話はオンデマンドで、第四話はテレビで視聴しました。
 先週は個人的な理由で更新せず、ようやく今日、書くことができます。

 まだ始まったばかりで評価するにもどうかと思いますが、吉田寅次郎が見ている壮大な世界と、杉家が見ている世界のかけ離れ方、それから親友の小田村が考える正統な手続き論とそれに反して衝動的に行動してしまう行動様式のかけ離れ方、現実の世界の動向と幕府や藩の世界の見方のかけ離れ方、それらがどうもちぐはぐな感じもいたしまして、感想を書くにも戸惑いがあります。
 幕末とはそういうものではありますが、一介の視聴者がこう申すのも失礼でありますが、もうちょっとわかりやすく描いてほしいと思うのであります。

 第二話で結婚することとなった小田村と杉家の寿さんでありますが、第三話ではどうも、夫婦としてちぐはぐな感じがいたします。これでこの先大丈夫なのかな?と思いましたら、最後の方で子どもはちゃんとおなかの中にいまして…ホッといたしました。小田村は寿に仕事のことや外の世界のことなどあまり語らぬ様子だし、丹精込めて作ったお食事を湯漬けでも食らうようにして食べてしまうシーンなどあり、ほんとに心配いたしました。
 吉田寅次郎は、いろいろとおとがめを食らって大人しくしていなければならないはずなのに、別のことを企んでいる様子で。梅太郎や伊之助が諭しにいくんですがねえ。
 主人公の文の方は、のちに夫となる久坂玄瑞との出会いがあります。
 久坂玄瑞は朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の西門悠太郎を演じた東出昌大さんが演じています。文の見ている前でおみくじの凶を引いた久坂玄瑞は、お仲間と黒船を見に行くと企てますが、お仲間は決行当日来てくれませんでした。そしてなぜか、文が来て、いっしょに見に行こうと山を登っていきます。が、見えず。黒船を見ることと己の運命を変えることをなぜか重ねていたので、落胆する久坂玄瑞。そこでおみくじもう一度引こうとか、もしまた凶だったらさらに落ち込ませるだけじゃないのと思いますが、ドラマですからよくできてます。大吉を引くことができるのです。

 第四話は寅次郎が黒船に乗り込んだ、国禁をおかした、という知らせで父百合之助が憔悴し切っています。ここまでやったらもう許されまい、どうなるんや、どうなるんやと周りの者も憔悴し切っているようです。いやーこれでは、梅太郎か百合之助が今回で最後になってしまうのではと心配いたしました(史実を知っていれば安心してみれるのですが)。耳の聞こえない敏三郎が「江戸へ行く」と文に告げるシーンもありました。
 寅次郎が黒船に乗り込んだ動機が、語られなさすぎだったかと思います。
 無謀な家族の一員を持った家族の悲劇、みたいになってしまいます。また、寅次郎を崇拝する文の気持ちも、これにより描き方がおろそかになってしまい、これでは、のちの人はちょっとわかるけれど、ただのお兄さんを無条件に支持する妹という感じになってしまってます。
 吉田寅次郎は無謀なことをやったかのように見えて、その他いろいろな働きもあり、明治維新を拓く立役者の1人なのですから、丁寧に語らなければならなかったのではと、これまた一介の視聴者の失礼な感想ではありますが、そう思います。
 結局ペルリの温情で幕府からは蟄居の言い渡し。梅太郎も百合之助も切腹しないですみます。しかし長州藩では彼の処遇をめぐってまた議論。寅次郎は投獄されることとなります。

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吉田松陰:1830〜1859
 杉百合之助の二男。幼名は寅之助。吉田家に養子として入って以後の通称は寅次郎。
 叔父の玉木文之進のひらいた松下村塾で教育を受ける。1850年佐久間象山に師事。1854年黒船密航事件では、師佐久間象山とともに死罪を検討される。助命され野山獄に投獄されるが、出獄後、1857年から松下村塾でのちの明治維新を担った伊藤博文、山県有朋らの人材を教育する。
 
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カウンター(07年5月4日より)
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