75トムクルーズ主演の映画で、アメリカ合衆国の建国の日、独立記念日の『7月4日に生まれて』という作品があった。それにもじってるほど尊大ではないが、今日は私の誕生日であるので、昨日、今日はせっかくログビレッジに来ても畑仕事も庭造りもできない雨降りで、頂いた誕生祝のお礼も兼ねて、最近、ブログやfacebookにも飽きてきたところだったが、久しぶりの晴耕雨読で書き込んでみようと考えた。(写真はそんなどんよりした遠くの山が見えない風景だ)

来週は台風が9号、10号、11号と続き、その相乗効果、影響がどんなものか。この時期の海水温度の上昇と北上が温暖化の影響とどうかかわっているのかはわからないが、少なくとも今の若い人たちが私の年齢になる頃の地球環境がどうなっているか、現実感をもった想像力が大事な時期になっていることだけは確かだろう。

こうした大きな時代の動きや環境問題などに、それが戦争であったり大災害であっても、まだまだ他人事、リアルな根源的な関心があるようには思えない。全体的に目先の関心や利害、それらの対処療法に振り回されているような気がする。

21世紀になり戦争のない、人類と地球が共存していける世界が作られる期待はあったが、冷戦終結でイデオロギー対立を克服するかと思ったところ、宗教や民族対立という先祖返りの亡霊のような紛争が、相変わらず多くの難民を作り出し、地球規模の大災害でも仮設の被災者対策程度の政治力しか作れない時代である。

多民族多言語世界のコミュニケーションをと、第一次世界大戦の中から生まれたいくつかの人類の理想の中にエスペラント語というザメンホフ博士の考案した人口言語があった。その流れもあって世界共和国や世界連邦というのひとつが国連であり、ヨーロッパのEC、現在のEUでもあるのだろう。その欧州連合も通貨統合しながら財政をどうするか、連携と分権のバランスをどうとるか、理想に対する現実的な解決を常に迫られている。その一つの回答が今日実施のギリシャでの国民投票であるのかもしれない。

欧州の先祖、オリンピックや民主制(奴隷前提だが)原型の国とも思われるギリシャが、先進国のEU加盟国では初のデフォルトで世界から信用をなくすのは残念だが、これは「借金」に対する信頼や国家に対する信用、参加意識など後進国並みの国民意識に起因すると思う。それは当事者意識の欠如であり、何事も自己中心的であくまでも他人事のような政治意識の低さだ。いまでは民主主義義国だと思われている経済成長躍進の韓国や日本も、まさに他人ごとではない。本当に民主国家であるのか、先進国と言えるのか自問すべき時期だろう。

さて、こうした地球規模での環境や災害、各地での紛争やテロはもちろん、最近関心があったのは、こうした現実的な対処療法に対する根源的な理念や理想を立脚点としなければならないこと。ギリシャが救われないのは、そうした人類史上の哲学発祥の地であるのだが、逆説的にはそのパラダイム転換そのものから再出発する必要があるのかもしれない。または、人類的なその思考法や表現法の大切さかもしれない。いまはその深い話はできないから、忘れないように思いつくままに関心ごとのメモだけでもしておこう。

一番新しいところでは、国会の多数政党である自民党の国会運営と安保法制。それに対する若者の動きである。これはどう中国の脅威や韓国の非合理的な主張を出して、その対処療法の軍備増強を唱えようが、まずは憲法第9条の法理論と戦前の歴史の総括を前提とした、しっかりとした議論がなければならない。次に、現状のシングルイッシュー的な代議制での議席獲得で、その政党の論理に白紙委任できる間接民主主義の問題だろう。国会での決議の仕方次第では、今のままでは国民の8割が反対や疑問があっても議員の日程で法案が成立し、既成事実が支配できる。これでは関東軍の独走やワイマール憲法下でのナチス台頭を止められなかった過去を繰り返すことができるということにならないか。

これに対してのわずかな希望は、70年代の対処療法で作られた大学立法を含めて政治離れを政策的に進めてきた中でも若者たちが少しずつ変わりつつあることだろう。その機会はIT革命、特に自分たちのメディアづくりがあると思う。この間の国会での学者の反対意見に対して、「政治家VS学者(マスメディアを含めて専門家)」の構造に、テレビで若いNGOの女性が発した、当事者である「市民」の意見や参加の仕方という意見に大いに同意したが、一部のNGOや若者の意見に目を見張るものがあり、ここへきて少し民主主義のグレードが上がるのではないだろうかという期待である。

問題は、政治家の世襲問題以来の国民、市民の階層の固定化である気がする。政治家に限らず、新しい身分制ともいえる世襲や階級の問題と社会の安定の課題だろう。バブルまでの高度経済成長時代は、親が中卒でも息子を塾にやり、「末は博士か大臣か」幻想が生きていた。そのおかげで猛烈な受験戦争はあったが、学力や学歴が立身出世の流動化を作り出してきた。しかし、最近、政治家の世襲を含めて高学歴、大企業や官僚の世襲、富裕層の再生産は、子どもの貧困の連鎖問題、まさに状況は、ピケティの「21世紀の資本論」である、新しいブルジョアジーを作っている。経済的格差による身分制の固定化である。

貧困の連鎖と資本的蓄積の固定が、労働よりも優位性がある現状は、まじめに働く人間を作らず、ベンチャーや自立したリスクより、寄らば大樹か、他人依存の評論家や投資顧問のような口から出まかせタイプ、汗をかく労働よりお金を操る、自己中心的トレーダー的思考タイプが増える。周りは詐欺師ばかりで誰も信用できない世間が出来上がるというわけだ。落ちこぼれた底辺では過当競争で、勝ち組への願望、ねたみや怨みの世代が増える。だから何でも政治や体制、他人のせいにする。

一方で、カネ、地位や不動産と好きなものを手に入れられる階層でも、家柄や血縁といった手の届かないものへの渇望がロイヤルコンプレックスに出る。欲望は手に入らないものへと増幅され、全てが欲求不満社会である。超えられないものは血と過去、歴史だろう。

だから新しい身分制は、江戸時代の被差別階級を必要としたように、その自己満足できるヘイトスピーチや脅威論で盛り上がるのかもしれない。まさにスティグマ(烙印)社会であり、「あいつがウサギだ」ゲームのようないじめ社会が横行する。敵を作ることでしか自己満足の安定が生まれない、精神病の病魔に侵される。大体どんなドラマでも意地悪で嫌な奴は、金持ちか貴族趣味の差別主義者と相場は決まっている。

もう数十年すると人類の6割以上が都市に住むことになるといわれている。こうした中で新しい流動化した「故郷喪失者」である市民の多くはどんなコミュニティを形成できるのだろうか。
そこで考えられる力が「ボランティアの社会」だろう。多様な市民の目が、いつでもどこでもお互いを助けられる社会を形成できる気がする。むしろ、そのとき邪魔になるのが専門家であり、市民を不能化させる専門家や政治家に問題がある。「政治に市民の声を」「裁判に市民感覚を」という掛け声のいくつかの試みも、最近の裁判員裁判ではないが、結局は高裁で専門家との判断の対立が出て覆っては意味がない。
「ボランティア」が作るコミュニティを研究する必要があるのではないだろうか。

救いはどこにあるのだろうか。それが私の問題意識かもしれないが、一方で人類が幸福に同じように貧富の差がなく生きられる、地球やすべての動植物と共存できる世界は、以前の反対に、恐らく全てが標準化され、人類的コモンセンスの世界市民が究極の管理社会を作り上げるという方向だろうと思いながら、他方で、やはり昔ながらの小さな単位で自分たちの等身大の分権が認められた、つまり自由に好きなように生きられる社会である。この両方を満たすユートピアが、私の理想だろう。これがアンビバレンツな目標だとしても、そらが許される多種多様な寛容さを求めたいところか。

そのために、近代的自我でない、新しい「市民」という人間像、あるエートスを共有できる自律的な人間のあり方を考える。明治期にそれまでわずか国民の6%に過ぎなかった武士のエートスをすべての国民的なエートスにした、明治維新の志士の政策を検討するのが現実的なのだろうか。武士とかサムライとかの身分は、封建制度の中での位置づけにとどまらず実は多様で寛容な人間性のアーキタイプ(原型)であると思える。そうした単なる制度上の階級としての武士でなく、そのエキスをどう思想的に再構築できるか。

昔、好きだった逸話に、フランス貴族の屋敷に、ある嵐の夜更け、親友の貴族が訪問する。パジャマ姿の主人は片手に剣を、もう片手には全財産の金貨を携え玄関へと迎い出る。そして、こんな夜更けに馬を走らせるほどの君に何があったかを尋ねると同時に。「決闘ならここに剣がある。今すぐ共に闘おう。命を懸ける用意はできている。」「それとも金が必要なら、ここに全財産ある。これを使いたまえ。」という。
これはまさに貴族の心構えであり、武士のエートスであったろう。それが志、同志というものなのかもしれない。その意味で新しい市民社会は、誰かの造語だろうが「志民」社会と呼べるものなのだろうか。