今回は、街角で見かけた変なチラシを激写してみました。
場所は新宿御苑近く、
「UFOを見る会」しかも「UFOおじさん」なる謎の講師まで現れて……
これはかなりすったもんだしそうです。
どなたか参加した人がいたら、会の全貌と謎の講師について教えてほしいものです。
さて、今回はラカンのお話について書くことにします。
タイトルの「無意識は目に見えるもの!?」というのは、ラカンの無意識の捉え方から来ています。
フロイト以前から無意識というものは認識されていたようですが、彼らは皆一様に意識が上で無意識が下という図式で人間を認識していました。
フロイトは、秩序ある意識を表層に出し、混沌としている無意識を奥底に閉まって人間は生きていると考えました。つまり、意識という抑止力によって、無意識という性衝動を抑制していると考えたのです。
これは、彼が生まれた時代、つまり19世紀末の近代国家の倫理観から来ている考えです。フーコーの『性の歴史』に記されているように、賃金労働者であふれる近代は核家族の時代。性は全て家庭に封じ込められてしまいます。そして家庭を支配するのは家父長である父親。子供は常に母親への同化欲求(性欲)を表しますが、父親の権威によってそれを禁止されます。「もし母親を性対象とするならば、去勢するぞ」という脅しを父親は常に子供に向けます。父親が去勢という恐怖を通じて教える倫理観を内在化することで、子供は大人へと成長します。これがフロイトの心理学です。
父親の去勢という意識によって、子供のエディプスコンプレックスという無意識を抑圧する図式が成り立っているのです。
しかし、ラカンはこの図式をまるで反対にしてしまいました。つまり、無意識が上で意識が下だと示したのです。
ラカンは「他者のまなざし」を持つことによって子供は大人になると言います。「他者のまなざし」を通じて自分を見ることは、自分を他人と同じだと認めることです。つまり「わたし」から「私」になる過程。
「わたし」から「私」になる過程とは、「わたし」という唯一の呼び名を捨てて、(誰もが使う一人称としての)「私」という一般的で代替可能な呼び名で自分を呼ぶようになる過程のことです。
この過程には3つの工程があります。「現実界」「想像界」「象徴界」というそれぞれの工程を経て子供は「わたし」から「私」へと成長していくとラカンは言っています。
「現実界」とは、子供が始めて触れ合う他者、つまり母親がいる世界です。生後6ヶ月前後まで、子供は自他の区別が認識できないそうです。歩いたり、立ったり、しゃべったりしている母親を自分だと思い込み、子供は成長像を明確にしていきます。これを「鏡像」と言っています。
「想像界」とは、「現実界」で見出した「鏡像」に自分が当てはめる世界です。他者である大人が自分だと想像しているけれども、「鏡像」とは絶対に重ならない状態。自分が他者と違うことは分っていても、どう違うのか認識できない段階です。それは、自分を「他者のまなざし」で見ることができないため。常に「鏡像」と他者の間にズレを感じているので情緒が不安定になりがちです。
「象徴界」とは、「想像界」を抜けて「他者のまなざし」を獲得した世界です。「象徴界」は言葉の世界。代替可能な「私」ばかりが浮かんでいる言葉の大海。どこをつき歩いても「私」にぶつかり、振り返ったときには「わたし」はいなくなっている……
とちょいと時間がなくなりましたので、続きはまた次回。
こうしてみると、かなり分りにくいですね(^-^; 次回は分りやすく考察しますのでお待ちください。
それではまたー