2006年01月26日

無意識は目に見えるもの!?

98ef4183.JPG

 今回は、街角で見かけた変なチラシを激写してみました。

 場所は新宿御苑近く、 

「UFOを見る会」しかも「UFOおじさん」なる謎の講師まで現れて……

 これはかなりすったもんだしそうです。

 どなたか参加した人がいたら、会の全貌と謎の講師について教えてほしいものです。

 

 

 さて、今回はラカンのお話について書くことにします。

 タイトルの「無意識は目に見えるもの!?」というのは、ラカンの無意識の捉え方から来ています。

 フロイト以前から無意識というものは認識されていたようですが、彼らは皆一様に意識が上で無意識が下という図式で人間を認識していました。

 フロイトは、秩序ある意識を表層に出し、混沌としている無意識を奥底に閉まって人間は生きていると考えました。つまり、意識という抑止力によって、無意識という性衝動を抑制していると考えたのです。

 これは、彼が生まれた時代、つまり19世紀末の近代国家の倫理観から来ている考えです。フーコーの『性の歴史』に記されているように、賃金労働者であふれる近代は核家族の時代。性は全て家庭に封じ込められてしまいます。そして家庭を支配するのは家父長である父親。子供は常に母親への同化欲求(性欲)を表しますが、父親の権威によってそれを禁止されます。「もし母親を性対象とするならば、去勢するぞ」という脅しを父親は常に子供に向けます。父親が去勢という恐怖を通じて教える倫理観を内在化することで、子供は大人へと成長します。これがフロイトの心理学です。

 父親の去勢という意識によって、子供のエディプスコンプレックスという無意識を抑圧する図式が成り立っているのです。

 

 しかし、ラカンはこの図式をまるで反対にしてしまいました。つまり、無意識が上で意識が下だと示したのです。

 ラカンは「他者のまなざし」を持つことによって子供は大人になると言います。「他者のまなざし」を通じて自分を見ることは、自分を他人と同じだと認めることです。つまり「わたし」から「私」になる過程。

 「わたし」から「私」になる過程とは、「わたし」という唯一の呼び名を捨てて、(誰もが使う一人称としての)「私」という一般的で代替可能な呼び名で自分を呼ぶようになる過程のことです。

 この過程には3つの工程があります。「現実界」「想像界」「象徴界」というそれぞれの工程を経て子供は「わたし」から「私」へと成長していくとラカンは言っています。

 「現実界」とは、子供が始めて触れ合う他者、つまり母親がいる世界です。生後6ヶ月前後まで、子供は自他の区別が認識できないそうです。歩いたり、立ったり、しゃべったりしている母親を自分だと思い込み、子供は成長像を明確にしていきます。これを「鏡像」と言っています。

 「想像界」とは、「現実界」で見出した「鏡像」に自分が当てはめる世界です。他者である大人が自分だと想像しているけれども、「鏡像」とは絶対に重ならない状態。自分が他者と違うことは分っていても、どう違うのか認識できない段階です。それは、自分を「他者のまなざし」で見ることができないため。常に「鏡像」と他者の間にズレを感じているので情緒が不安定になりがちです。

 「象徴界」とは、「想像界」を抜けて「他者のまなざし」を獲得した世界です。「象徴界」は言葉の世界。代替可能な「私」ばかりが浮かんでいる言葉の大海。どこをつき歩いても「私」にぶつかり、振り返ったときには「わたし」はいなくなっている……

 

 とちょいと時間がなくなりましたので、続きはまた次回。

 こうしてみると、かなり分りにくいですね(^-^; 次回は分りやすく考察しますのでお待ちください。

 

 それではまたー

 

 

 

  

Posted by dream_of_dolphin at 23:42Comments(2)TrackBack(0)

2006年01月19日

ライターズ入門

1ee839b5.JPG

 今回の写真は、前々回にお話した平池の写真です。

 なかなかに大きいでしょう。

 画面右に見える団地にしめじは若かりしころ住んでいました。

 よく地元の兄ちゃんとフナ・バス釣りしたものです。

 

 

 

 それで今回は、小説のネタとしてこんな本のご紹介。

 

           
ライターになるための練習問題100

 

 この本は、現役ライターが現場で覚えたノウハウを惜しみなく書いている本。小説を書く上でも使える表現がたくさんあります。

 たとえば、第1問目

 向かって右の男は( A )。

 ( B )、左の男は( C )。

 Aにはいい男を意味する言葉を、Bには逆説の接続詞などを、

Cにはかっこ悪い男であることを示す言葉をそれぞれ10種類以上書け。

 

 という問題です。

 なかなか面白いですよね。ぱっと10個以上挙げられたら、ライターとして

見込みがあるそうですよ(^o^)

 

 他には……

  A 暑い一日

  B 古い建物

 A・Bそれぞれ80文字程度で詳しい状況が分るように記せ。

 

 なんて非常に刺激的な問題です。

 前者はボキャブラリーの問題を、

 後者は情景描写の問題を

 それぞれ突きつけてきます。

 

 これはもちろんライターの仕事だけではなく、小説を書く上でも役に立つもんだいです。

 

 もし今日のブログを見て興味をお持ちになったら、ぜひコメントに解答してくださいな。恐れながら、しめじが採点させていただきますので。

よろしくお願いします(^_^)

 

 次回は、ラカンの心理学について書きたいと思います(^o^)

 

 

  
Posted by dream_of_dolphin at 23:43Comments(5)TrackBack(0)

2006年01月17日

宇宙一のうどん屋

山越え しめじです。

 今回は宇宙一のうどん屋の写真をUPしました(^.^)

 うどん屋の名前は『山越え』

 県外からわざわざ食べに来る人が多く、この日も前に並んでいた方は兵庫から来たそうです。

 写真は1月4日・13時半のもの。年始にもかかわらず相変わらずえらい人が並んでいました(^-^;

 このときしめじは38度だったのですが、香川に帰ったら是非に食べたいと言うことで、無理を押して食べに行きました。

 

 釜上げうどん1玉80円。

 

 この値段も魅力のひとつ。調子に乗って3玉頼みましたが、あっさり兄貴に譲り渡しました(T.T) 

 健康だったらなー

 母親に「言わんこっちゃない」

 帰ってきたらあっさり寝込んでしまいました(^-^;

 しかし、やっぱり

 うまい!!

 宇宙一の味!!

 香川の小麦畑口の中いっぱいに広がり、

 返す刀で瀬戸の潮風が鼻腔に漂う。

(ミスター味っ子風)

 とまあ言い過ぎなのですが、やっぱりこれはうまいです。

三年前に食べたときより少しだけ味が落ちていましたが、宇宙一はだてではなかったです。

 

 

 さてさて、忘れずに小説のネタコーナー

 今回は今日受けた「近代文学」の講義内容を備忘をかねて紹介します。

 今日やったのは、「カルチュラルスタディーズ」

 いわゆるカルスタ。

 カルスタとは、総合的な知識と多角的な視点から近代を問い直す学問です。カルスタの基本スタンスは、近代批判。近代という時代が人間疎外の上に成り立っているとして、マルクス主義的な人道主義を取りながら批判。個人の尊厳を主張しなおそうとしたのです。

 カルスタは、イギリスの階級社会主義批判を込めたプロレタリアートの研究に端を発しています。当時イギリスでは知識人階級の歴史や風俗の研究は進んでいても、プロレタリアートの研究は卑賤とされていました。しかし、国民の大部分を閉めているのはプロレタリアート。彼らの歴史や風俗を研究することこそが近代を問い直す最良の方法でした。もちろんそれを行ったのは、近代的国民国家に反旗を翻すマルクス主義者たち。よって必然的にカルスタは左翼思想に結びつきます。

 近代=国民国家が成立する時代。国民国家はすべからくナショナリストを製造します。彼らナショナリストは『想像された共同体』の中に存在し、「国民」というアイデンティティを主張するために国家の外部を否定し(文化の違いなど)、また国家内部の異端分子を排斥する(階級差別など)。そうすることによって、国民をオリジナル(統治者)に近い存在に画一化していくことが目標になっているのです。

 国民国家が成立するには、国民統合と国民化が必要になってきます。交通、憲法、戸籍、国語、報道機関、時間、習俗、身体能力、そして教育機関など。様々な装置や統治の技術を通じて、私たちひとりひとりが同一の文化、歴史、そして民族性といった「物語」を共有することによって国民統合と国民化が行われます。カルスタは、この段階に何らかのイデオロギー的操作が行われ、個の意思が国家にコントロールされていると批判するのです。

 

 つまり、カルスタは自己の起源とは何かを真に問い直す学問だといえます。

 

 少し難しい話になってしまいましたが、国語という言葉を例に取ると分りやすいと思います。国語を直訳するとnation language、どこの国の言葉でも国語になりうるはずです。しかし、国語は日本語でしかありえない。なぜか? それは日本語で記されているからです。なぜ日本語とせずに国語としたのか、そこに日本という国民国家が国民に強いた国民化の一端が見え隠れしているのはいうまでも有りません。一体国語の起源とはなんなのでしょう?

 国語問題に関してはイ・ヨンスクの名著『国語という思想』を読んでからまた後日論じたいと思っています。

 

 今回も長くなってしまいました(^-^; それではまた次回に(^o^)/~~~

  
Posted by dream_of_dolphin at 01:35Comments(0)TrackBack(0)

2006年01月11日

帰郷ってのはいいものですね

た  今回は帰郷の思い出話など。

 とは言いながらもインフルなんたらのせいで、何もできなかったのですが(^^;)

 

 それでも郷愁という感情は面白いもので、3年間変えるのを渋っていたしめじが、いざ帰りの瀬戸大橋線に乗っているとどんどん香川の思い出がよみがえってきます。

 小学校のときにどぶに落ちて虫まみれになったことや、

 中学校のときに体育館でうどんをこぼしてしかられたことや、

 高校生のときに告白してフラれたこと……

 

 

 悪い思い出ばっかりやね(^^;)

 

 そんことはないのですが、不思議と思い出が押し寄せてきて、海に光る太陽の光がまぶしくてまぶしくて。帽子を目深に被って思い出に浸っていました。

 次はいつ帰るのやら……

 

 そうそう、3年間も帰っていないと色々と家族も変わるもので、家に帰ったら物凄く気に食わないやつに出くわしたので写真に収めておきました。名前はターちゃんだそうです(安易な名前ですね)。

 

 もちろん寝ていたのですが、しっかり小説のネタを仕入れてきました。

 香川県にはため池が多くて、しめじの生まれ育った地区にも大きなため池がありました。そのため池、平池と言うのですが、平清盛が作ったという伝承が残っています。

 もちろんそれも話のネタにはなるのですが、その平池には人柱伝説があるのです。

 香川は日照時間が日本一(天日の塩でうどんが上手い!!)。日照りが多かったわけです。そこで数多くのため池が作られました。

 平池もそんな理由で作られたのですが、肝心の雨が降らなかったのです。どんなに祈祷をしても雨は降らない。そこで一人の女性が「人柱を立てては」と提案したのです。

 村人達はそれは妙案、と合点して早速人柱になる人間を募集しました。

 しかし、誰もがわが身恋しく人柱になる人間は現れませんでした。結局言い出した女性が責任を取るべきだとなじられ、捕らえられ、そしてわずかにたまった水の中に沈められました。

 

 これは悲劇なのか喜劇なのか、しめじにはまったく検討がつきません。この素材を現代にマッチさせて次回の小説を書いてみようかと思っています(^_^)

 まだまだプロットすらできていないのですが(^-^;

 

 次回も香川の写真をUPしたいなと思ってます(^_^)

  
Posted by dream_of_dolphin at 23:47Comments(2)TrackBack(0)

2006年01月08日

ブログはじめました。

 

 さて、しめじもブログとやらに手を出してみたいと思います。

 本当は1月1日から始めようと準備をしていたのですが……

 

 年明け早々流行り病(インフルなんたら)にかかりました(^^;)

 

 やったー(T.T)

 

 おかげで3年ぶりに実家(香川)に帰ったのに、ほとんど寝てすごし、うどんしか食べられませんでした(美味かった)。

 

 

 しめじブログでは、小説のネタになることを書き留めていきたいと思っています。それは書籍のレビューであったり、一日のできごとだったり、思いつきだったり、色々になるかと思います。

 目的は明確に。これは何事においても重要です。今回はブログの目的を明確にしてみました。

 

 これで終わるのも寂しいので、小説のネタになるような本の紹介。

 しめじの大好きな安部公房の短編集『水中都市・デンドロカカリヤ』から『詩人の生涯』を紹介します。

 

 「ユーキッタン、ユーキッタンと三十九歳の老婆は油ですきとおるように黒くなった糸車を、朝早くから夜ふけまで、ただでさえ短い睡眠時間をいっそう切りつめて、人間の皮をかぶった機械のように踏み続ける」

 という始まりで物語は始まる。若い老婆には老けた39歳の息子がいて(夫婦だと考えられる)、彼は働いていた工場を不当に解雇され、抗議文をばら撒く闘志だった。そんなプレタリアートの物語。

 彼らは貧しかった。貧しさは命をすり減らし、糸織りを続けていた若い老婆はついに自分が糸になってしまう。

 その糸を隣の女工が取りに来た。ジャケットにするのだ。

「それを持っていかれては困る気がする」

 老けた息子は女に訴えるが、聞き入る余地はない。糸はジャケットになり、路傍で売られる。それはとても寒い冬。ジャケットを欲しがる人たちはたくさんいたが、誰もが貧しかった。

「人は貧しさのために貧しくなる」

 そんな不条理な貧しさが支配している世界。いまや倉庫の中は売れないジャケットであふれていた。ジャケット業者は考える。なぜジャケットが売れないのか? いっそ戦争でもして外国にうりつけるか……

「気象学の法則に加えて、以上のような一切が、内と外の両側から夢と魂と願望の雲を冷却させ、それらは凍って結晶した。ある日それは雪になって降りはじめた」

 「液体空気」よりも冷たい雪は町全体に降り出し、全てを凍らせていく。凍らなかったのは、外国製のジャケットを着ている人間たち。かれらブルジョワ達は雪を防ぐ立派な家を持っていた。

 しかし、労働者のいなくなった世界ではブルジョワも力を持たない。石炭は底をつき、ついに全てのものが凍りついた。

「こうして、今ではほとんどありとあらゆる生物が凍りついてしまったはずなのに、不思議に一匹の鼠だけが以前と変わらぬ生活をつづけていた」

 それは老婆のジャケットがしまわれてある倉庫のネズミだった。ネズミは巣の材料にするべく、老婆のジャケットを噛み切る。すると突然ジャケットから血が流れ出した。ネズミの歯が老婆の心臓にあったのだ。ジャケットは自分の血で真っ赤に染まる。そしてひとりでに空へと舞い上がった。

「老婆のジャケツは、やがて一人の青年を雪の中に探し当てる工場の門のわきで、小脇いっぱいにビラをかかえ、出てくるものに手渡そうとする姿勢のまま凍りついていた、彼女の息子の前に」

 赤いジャケットは、息子の体をすっぽりと包み込む。まばたきをして、自分のきている赤いジャケットを見る。突然彼は自分が詩人であることに気づいた。

「貧しいものの言葉は、大きく、複雑で、美しく、しかも無機的に簡潔であり、幾何学のように合理的だ。貧しいものの魂だけが、結晶しうるのは当然のことだ」

 彼は貧しいものの魂である雪の言葉を目で聞き、言葉を書きとめた。「ジャケツ、ジャケツ」と雪は彼に訴えて消えていく。意味を持った雪はやがて消え去り、春が来た。動き出した人々はみな一様に「ジャケツ」と呟き、微笑みあう。

 やがて持ち主のいなくなった多くの倉庫からジャケットが運び出され、町中ジャケット来た人々であふれかえる。喜びと力にあふれた讃歌が広場を埋め尽くし、雪は消え、彼の仕事も終わる。

「彼は完成した詩集の最後の頁を閉じた」

 詩集の最後の頁に吸い込まれて物語は終わる。

 

 絶対的な美しさをもつ水分子の結晶。その力強く、繊細で、ほころびやすい性質をプロレタリアートの中に安部公房は見出したのではないでしょうか。

 また、息子は老婆との結合により真の詩人となり、行動を完遂しています。この図式は、言葉だけでなく老婆の貧しさによる死を受け止めたことにより、言葉に普遍性と美しさを帯びることができたと解釈できるのではないでしょうか。

 この作品は、安部公房の作品の中で一番ロマンティックな作品だと思います。結構レトリックに力が入っていて、後半の詩人になる辺りから危ないほどに攻めてきます。

 実は、しめじはこの作品が1番好きです。2番目は『砂の女』3番目は『人間そっくり』です。

 

 ぜひみなさん機会があれば読んでみてください。この短編集に入っている作品はどれも良いものばかりなので。『水中都市』など、「ショウチュウを飲みすぎると、人間は必ず魚類に変化するんだ。現におれのおやじも、おれの見ている前で魚になった」なんていう刺激的な会話が出てきます。シュール好きにはかなりお勧めな一冊です。

 

  
Posted by dream_of_dolphin at 01:17Comments(0)TrackBack(0)