しめじです。
今回の写真は知る人ぞ知る名曲喫茶「ライオン」の概観写真です。
ここはいいですよー 中世の古い洋館を思わせるような内観(中は写真NGです)、静かな館内には最高の音質で鳴り響くクラシックの名曲。非常に創作意欲が沸き立てられます!!
しめじは詳しくないのですが、きっとオーディオマニアには涎ものなスピーカーみたいで、それだけでも行く価値があるそうですよ。
そして、リクエストもやっていて、お好きなクラシックを最高音質で聞けるという粋なサービスつきです。しめじはヴィヴァルディの『四季』の夏がすごい好きなのですが、なんとなくメジャーすぎて頼むのもなーいやだな(かっこつけしいですね)と思って他の曲を頼もうと思っていたんです。そしたら、他の方がリクエストしてくれて、久しぶりに震えました。今まで夏は嵐の激しさだと思っていたのですが、夏の日差しの激しさともとれますよあの演奏は。もうただただ眩暈が襲ってくる。プレストの激しさ。最高でした。
ともあれ、あの時代ですから、農民の日照りの厳しさというよりは貴族が熱くて辛いというような共感しかない季節だったのでしょうが、ヴィバルディはやってくれますね。
この他の方がリクエストしてくれたというのが今回のラカンの話に関わってきます。ラカンの用語に「転移」というものがあります。これは欲望がクロスする、つまり他者と自分との間で欲望の交換が行われるという考えなのです。まさに今回しめじがライオンで経験したのは見知らぬ誰かにしめじの欲望が「転移」したと考えても差し支えないと思います。
前置きが長くなりましたが、今回は前回に引き続きラカンの無意識の捕らえ方についてです。
前回は「象徴界」の話まで進んだかと思います。今回はその他者が住む「象徴界」について詳しく掘り下げていきたいと思います。
「象徴界」とはずばり言葉の世界です。世界は言葉で成り立っているとウィトゲンシュタインが述べていますが、ラカンも似たような立場を取ります。大人の世界・ルールは全て言葉が作っているとラカンは考えるのです。
この考え方は、アルチュセールというマルクス社会学者が『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』という論文の中で「呼びかけ」に答えた人間は呼びかけた人間が属する共同体のイデオロギーに自動的に属すると考えを元にしていると思われます。全ての社会的認知は言葉によって出来上がる。そしてその言葉を作るのはイデオローグである共同体の統治者であるのです。
たとえば『太平記』を例に挙げてみましょう。『太平記』は戦前には必ず楠正成が「七生報国」を誓って死ぬ場面が教科書に取り上げられていたそうです。しかし、戦後の教科書には一切『太平記』を載せていません。これはイデオローグが天皇から国民国家を統治する内閣総理大臣に移ったからに他ありません。つまり、子供への伝える話をコントロールすることによって国民の価値観を操作することが可能だということです。
話がそれてしまいましたが、言葉の力というのはそれだけ大きな力を持っているとアルチュセールは考えたのです。発話される言葉一つをとってもなんらかの権力の力が加わっている、そう考えて出した答えが呼びかけ論でした。
さて、話を戻します。そのような強い影響力を持つ言葉。しかしそれ自体まったく意味を持っていないと考えたのがウィトゲンシュタインです。彼の後期の言語ゲーム論からは言葉の成り立ちは全てメトニミー構造(言い換え)で出来上がっている考えたのです。
たとえば「美しい」という言葉の意味を表してください。という質問を受けたときにどう答えればいいでしょうか? きれい、可愛い、見た目がいい、そして美しくないものではないものと堂々巡りが繰り返されます。仮にシャガールの『レジスタンス』の絵画が美しいと答えたとしても、それは対象であり、意味ではなく。しかも「美しい」という単語がなければ「美しい」対象にもなりえないのです。
つまり、言葉はどこまで行っても言い換えを繰り返さなくては意味を成すことができないのです。これはどことなくインターネットの世界に似ている気がします。インターネットはつながりがなくては存在する意味すらない。他人と共通の言葉があるからこそ成り立つ言語ゲームと言えなくもないのではないでしょうか。
少し話が飛躍しましたが、そこでようやく「象徴界」に戻ってきます。「象徴界」とは言葉の世界。言い換え可能な「主体」を手に入れる世界です。「美しい」という言葉同様に「私」という「主体」も他人に言い換えられることによって成り立つ世界です。言い換えられるということは同時に意味を失っています。
ここで意識と無意識の関係に戻ります。意識は意味を持った存在、無意識は意味のない存在。言葉はどうですか意味がある存在でしょうか? 言い換え可能な言葉の群れはひとつひとつでは意味を成しません。つまり無意識の群れ……逆に意識はいつのまにか無意識の裏側に回っている。人間が無意識を認知できるのは、言葉という無意識がそこらじゅうに飛び回っているからだとラカンは考えます。言葉だけではありません。
たとえば顔。顔の裏側の筋肉を動かすことはできても表に表れている表情はコントロールできません。しかし、コミュニケーションをする上では筋肉よりも表情を読み取ることに意味を見出します。そこには顔の持ち主が想定していない表情も表れます。いきなり写真を撮られたときに物凄い間抜けな顔で写っていることがよくありませんか? それは全て無意識です。その無意識を読みあいながら人間はコミュニケーションをしているのです。
ラカンは「象徴界」という言葉の世界に移ることでようやく大人になれると考えました。その世界は常に無意識と向き合う世界です。
しかし、しめじは置き忘れた「鏡像」と「象徴界」での他者としての私にはどこか相容れないズレがあると思います。他者と同じであるのに違うという奇妙なズレを感じながら私たちは生きていかなくてはなりません。そのはけ口、主体を探す旅は表現行為にあるのではないかなと思っています。
今回はかなり長くなってしまいましたね(^-^;
明日からは夢日記をちょいとやってみようかなと思っております。
安部公房は夢を小説の題材に使っていたそうです。『笑う月』には夢を捕まえるためにテープレコーダーを枕元においたなんておいうエピソードも。本当かどうかこの人は分りませんけどね(^-^; ダリなんかはカンバスの前に座ってスプーンを持ってねたらしいですよ。ともあれ、起き抜けにかけるように枕元にパソコンをスタンバイ状態で置いておこうかなと。ちなみに今朝はまんまと成功しました。しかし、あまり面白い夢ではなかったですねー
ともあれそれならば毎日更新できるだろうという目論見でひとつやってみることにします。
それではまたー