2006年02月02日

無意識は目に見えるもの!? 後編

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 しめじです。

 今回の写真は知る人ぞ知る名曲喫茶「ライオン」の概観写真です。

 ここはいいですよー 中世の古い洋館を思わせるような内観(中は写真NGです)、静かな館内には最高の音質で鳴り響くクラシックの名曲。非常に創作意欲が沸き立てられます!!

 しめじは詳しくないのですが、きっとオーディオマニアには涎ものなスピーカーみたいで、それだけでも行く価値があるそうですよ。

 そして、リクエストもやっていて、お好きなクラシックを最高音質で聞けるという粋なサービスつきです。しめじはヴィヴァルディの『四季』の夏がすごい好きなのですが、なんとなくメジャーすぎて頼むのもなーいやだな(かっこつけしいですね)と思って他の曲を頼もうと思っていたんです。そしたら、他の方がリクエストしてくれて、久しぶりに震えました。今まで夏は嵐の激しさだと思っていたのですが、夏の日差しの激しさともとれますよあの演奏は。もうただただ眩暈が襲ってくる。プレストの激しさ。最高でした。

 ともあれ、あの時代ですから、農民の日照りの厳しさというよりは貴族が熱くて辛いというような共感しかない季節だったのでしょうが、ヴィバルディはやってくれますね。

 この他の方がリクエストしてくれたというのが今回のラカンの話に関わってきます。ラカンの用語に「転移」というものがあります。これは欲望がクロスする、つまり他者と自分との間で欲望の交換が行われるという考えなのです。まさに今回しめじがライオンで経験したのは見知らぬ誰かにしめじの欲望が「転移」したと考えても差し支えないと思います。

 

 前置きが長くなりましたが、今回は前回に引き続きラカンの無意識の捕らえ方についてです。

 

 前回は「象徴界」の話まで進んだかと思います。今回はその他者が住む「象徴界」について詳しく掘り下げていきたいと思います。

 

 「象徴界」とはずばり言葉の世界です。世界は言葉で成り立っているとウィトゲンシュタインが述べていますが、ラカンも似たような立場を取ります。大人の世界・ルールは全て言葉が作っているとラカンは考えるのです。

 この考え方は、アルチュセールというマルクス社会学者が『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』という論文の中で「呼びかけ」に答えた人間は呼びかけた人間が属する共同体のイデオロギーに自動的に属すると考えを元にしていると思われます。全ての社会的認知は言葉によって出来上がる。そしてその言葉を作るのはイデオローグである共同体の統治者であるのです。

 たとえば『太平記』を例に挙げてみましょう。『太平記』は戦前には必ず楠正成が「七生報国」を誓って死ぬ場面が教科書に取り上げられていたそうです。しかし、戦後の教科書には一切『太平記』を載せていません。これはイデオローグが天皇から国民国家を統治する内閣総理大臣に移ったからに他ありません。つまり、子供への伝える話をコントロールすることによって国民の価値観を操作することが可能だということです。

 話がそれてしまいましたが、言葉の力というのはそれだけ大きな力を持っているとアルチュセールは考えたのです。発話される言葉一つをとってもなんらかの権力の力が加わっている、そう考えて出した答えが呼びかけ論でした。

 

 さて、話を戻します。そのような強い影響力を持つ言葉。しかしそれ自体まったく意味を持っていないと考えたのがウィトゲンシュタインです。彼の後期の言語ゲーム論からは言葉の成り立ちは全てメトニミー構造(言い換え)で出来上がっている考えたのです。

 たとえば「美しい」という言葉の意味を表してください。という質問を受けたときにどう答えればいいでしょうか? きれい、可愛い、見た目がいい、そして美しくないものではないものと堂々巡りが繰り返されます。仮にシャガールの『レジスタンス』の絵画が美しいと答えたとしても、それは対象であり、意味ではなく。しかも「美しい」という単語がなければ「美しい」対象にもなりえないのです。

 つまり、言葉はどこまで行っても言い換えを繰り返さなくては意味を成すことができないのです。これはどことなくインターネットの世界に似ている気がします。インターネットはつながりがなくては存在する意味すらない。他人と共通の言葉があるからこそ成り立つ言語ゲームと言えなくもないのではないでしょうか。

 

 少し話が飛躍しましたが、そこでようやく「象徴界」に戻ってきます。「象徴界」とは言葉の世界。言い換え可能な「主体」を手に入れる世界です。「美しい」という言葉同様に「私」という「主体」も他人に言い換えられることによって成り立つ世界です。言い換えられるということは同時に意味を失っています。

 ここで意識と無意識の関係に戻ります。意識は意味を持った存在、無意識は意味のない存在。言葉はどうですか意味がある存在でしょうか? 言い換え可能な言葉の群れはひとつひとつでは意味を成しません。つまり無意識の群れ……逆に意識はいつのまにか無意識の裏側に回っている。人間が無意識を認知できるのは、言葉という無意識がそこらじゅうに飛び回っているからだとラカンは考えます。言葉だけではありません。

 たとえば顔。顔の裏側の筋肉を動かすことはできても表に表れている表情はコントロールできません。しかし、コミュニケーションをする上では筋肉よりも表情を読み取ることに意味を見出します。そこには顔の持ち主が想定していない表情も表れます。いきなり写真を撮られたときに物凄い間抜けな顔で写っていることがよくありませんか? それは全て無意識です。その無意識を読みあいながら人間はコミュニケーションをしているのです。

 ラカンは「象徴界」という言葉の世界に移ることでようやく大人になれると考えました。その世界は常に無意識と向き合う世界です。

 

 しかし、しめじは置き忘れた「鏡像」と「象徴界」での他者としての私にはどこか相容れないズレがあると思います。他者と同じであるのに違うという奇妙なズレを感じながら私たちは生きていかなくてはなりません。そのはけ口、主体を探す旅は表現行為にあるのではないかなと思っています。

 

 今回はかなり長くなってしまいましたね(^-^;

 明日からは夢日記をちょいとやってみようかなと思っております。

 安部公房は夢を小説の題材に使っていたそうです。『笑う月』には夢を捕まえるためにテープレコーダーを枕元においたなんておいうエピソードも。本当かどうかこの人は分りませんけどね(^-^; ダリなんかはカンバスの前に座ってスプーンを持ってねたらしいですよ。ともあれ、起き抜けにかけるように枕元にパソコンをスタンバイ状態で置いておこうかなと。ちなみに今朝はまんまと成功しました。しかし、あまり面白い夢ではなかったですねー

 ともあれそれならば毎日更新できるだろうという目論見でひとつやってみることにします。

 

 それではまたー

  

Posted by dream_of_dolphin at 02:57Comments(0)TrackBack(0)

2006年01月26日

無意識は目に見えるもの!?

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 今回は、街角で見かけた変なチラシを激写してみました。

 場所は新宿御苑近く、 

「UFOを見る会」しかも「UFOおじさん」なる謎の講師まで現れて……

 これはかなりすったもんだしそうです。

 どなたか参加した人がいたら、会の全貌と謎の講師について教えてほしいものです。

 

 

 さて、今回はラカンのお話について書くことにします。

 タイトルの「無意識は目に見えるもの!?」というのは、ラカンの無意識の捉え方から来ています。

 フロイト以前から無意識というものは認識されていたようですが、彼らは皆一様に意識が上で無意識が下という図式で人間を認識していました。

 フロイトは、秩序ある意識を表層に出し、混沌としている無意識を奥底に閉まって人間は生きていると考えました。つまり、意識という抑止力によって、無意識という性衝動を抑制していると考えたのです。

 これは、彼が生まれた時代、つまり19世紀末の近代国家の倫理観から来ている考えです。フーコーの『性の歴史』に記されているように、賃金労働者であふれる近代は核家族の時代。性は全て家庭に封じ込められてしまいます。そして家庭を支配するのは家父長である父親。子供は常に母親への同化欲求(性欲)を表しますが、父親の権威によってそれを禁止されます。「もし母親を性対象とするならば、去勢するぞ」という脅しを父親は常に子供に向けます。父親が去勢という恐怖を通じて教える倫理観を内在化することで、子供は大人へと成長します。これがフロイトの心理学です。

 父親の去勢という意識によって、子供のエディプスコンプレックスという無意識を抑圧する図式が成り立っているのです。

 

 しかし、ラカンはこの図式をまるで反対にしてしまいました。つまり、無意識が上で意識が下だと示したのです。

 ラカンは「他者のまなざし」を持つことによって子供は大人になると言います。「他者のまなざし」を通じて自分を見ることは、自分を他人と同じだと認めることです。つまり「わたし」から「私」になる過程。

 「わたし」から「私」になる過程とは、「わたし」という唯一の呼び名を捨てて、(誰もが使う一人称としての)「私」という一般的で代替可能な呼び名で自分を呼ぶようになる過程のことです。

 この過程には3つの工程があります。「現実界」「想像界」「象徴界」というそれぞれの工程を経て子供は「わたし」から「私」へと成長していくとラカンは言っています。

 「現実界」とは、子供が始めて触れ合う他者、つまり母親がいる世界です。生後6ヶ月前後まで、子供は自他の区別が認識できないそうです。歩いたり、立ったり、しゃべったりしている母親を自分だと思い込み、子供は成長像を明確にしていきます。これを「鏡像」と言っています。

 「想像界」とは、「現実界」で見出した「鏡像」に自分が当てはめる世界です。他者である大人が自分だと想像しているけれども、「鏡像」とは絶対に重ならない状態。自分が他者と違うことは分っていても、どう違うのか認識できない段階です。それは、自分を「他者のまなざし」で見ることができないため。常に「鏡像」と他者の間にズレを感じているので情緒が不安定になりがちです。

 「象徴界」とは、「想像界」を抜けて「他者のまなざし」を獲得した世界です。「象徴界」は言葉の世界。代替可能な「私」ばかりが浮かんでいる言葉の大海。どこをつき歩いても「私」にぶつかり、振り返ったときには「わたし」はいなくなっている……

 

 とちょいと時間がなくなりましたので、続きはまた次回。

 こうしてみると、かなり分りにくいですね(^-^; 次回は分りやすく考察しますのでお待ちください。

 

 それではまたー

 

 

 

  
Posted by dream_of_dolphin at 23:42Comments(2)TrackBack(0)

2006年01月17日

宇宙一のうどん屋

山越え しめじです。

 今回は宇宙一のうどん屋の写真をUPしました(^.^)

 うどん屋の名前は『山越え』

 県外からわざわざ食べに来る人が多く、この日も前に並んでいた方は兵庫から来たそうです。

 写真は1月4日・13時半のもの。年始にもかかわらず相変わらずえらい人が並んでいました(^-^;

 このときしめじは38度だったのですが、香川に帰ったら是非に食べたいと言うことで、無理を押して食べに行きました。

 

 釜上げうどん1玉80円。

 

 この値段も魅力のひとつ。調子に乗って3玉頼みましたが、あっさり兄貴に譲り渡しました(T.T) 

 健康だったらなー

 母親に「言わんこっちゃない」

 帰ってきたらあっさり寝込んでしまいました(^-^;

 しかし、やっぱり

 うまい!!

 宇宙一の味!!

 香川の小麦畑口の中いっぱいに広がり、

 返す刀で瀬戸の潮風が鼻腔に漂う。

(ミスター味っ子風)

 とまあ言い過ぎなのですが、やっぱりこれはうまいです。

三年前に食べたときより少しだけ味が落ちていましたが、宇宙一はだてではなかったです。

 

 

 さてさて、忘れずに小説のネタコーナー

 今回は今日受けた「近代文学」の講義内容を備忘をかねて紹介します。

 今日やったのは、「カルチュラルスタディーズ」

 いわゆるカルスタ。

 カルスタとは、総合的な知識と多角的な視点から近代を問い直す学問です。カルスタの基本スタンスは、近代批判。近代という時代が人間疎外の上に成り立っているとして、マルクス主義的な人道主義を取りながら批判。個人の尊厳を主張しなおそうとしたのです。

 カルスタは、イギリスの階級社会主義批判を込めたプロレタリアートの研究に端を発しています。当時イギリスでは知識人階級の歴史や風俗の研究は進んでいても、プロレタリアートの研究は卑賤とされていました。しかし、国民の大部分を閉めているのはプロレタリアート。彼らの歴史や風俗を研究することこそが近代を問い直す最良の方法でした。もちろんそれを行ったのは、近代的国民国家に反旗を翻すマルクス主義者たち。よって必然的にカルスタは左翼思想に結びつきます。

 近代=国民国家が成立する時代。国民国家はすべからくナショナリストを製造します。彼らナショナリストは『想像された共同体』の中に存在し、「国民」というアイデンティティを主張するために国家の外部を否定し(文化の違いなど)、また国家内部の異端分子を排斥する(階級差別など)。そうすることによって、国民をオリジナル(統治者)に近い存在に画一化していくことが目標になっているのです。

 国民国家が成立するには、国民統合と国民化が必要になってきます。交通、憲法、戸籍、国語、報道機関、時間、習俗、身体能力、そして教育機関など。様々な装置や統治の技術を通じて、私たちひとりひとりが同一の文化、歴史、そして民族性といった「物語」を共有することによって国民統合と国民化が行われます。カルスタは、この段階に何らかのイデオロギー的操作が行われ、個の意思が国家にコントロールされていると批判するのです。

 

 つまり、カルスタは自己の起源とは何かを真に問い直す学問だといえます。

 

 少し難しい話になってしまいましたが、国語という言葉を例に取ると分りやすいと思います。国語を直訳するとnation language、どこの国の言葉でも国語になりうるはずです。しかし、国語は日本語でしかありえない。なぜか? それは日本語で記されているからです。なぜ日本語とせずに国語としたのか、そこに日本という国民国家が国民に強いた国民化の一端が見え隠れしているのはいうまでも有りません。一体国語の起源とはなんなのでしょう?

 国語問題に関してはイ・ヨンスクの名著『国語という思想』を読んでからまた後日論じたいと思っています。

 

 今回も長くなってしまいました(^-^; それではまた次回に(^o^)/~~~

  
Posted by dream_of_dolphin at 01:35Comments(0)TrackBack(0)