2010年01月20日

勘違いだらけ。

このところ身辺の整理が何かと忙しく、今年に成って更新が疎かに成ってしまった。

さて、巷の話題は何と言っても、民主党の御両者のことが沸点に来ている。

多くを語るつもりはない。

巨悪と闘う革命児でもない、私利私欲の為に悪事を働いていただけの小悪党が何を血迷ったか、自分を歴史上のヒーローとオーバーラップさせて、『断固として闘う!』だって、笑うしかない。

何時まで、続けるお積りか、猿芝居ならぬ鳩と狸の臭い芝居を。


2010年01月07日

新生

3a00b30b.jpg遂に幕が開けた。

2010年、それは58歳になる私の再生の一年である〜と思っていた。
昨夜迄は。

私はずっと勘違いしていたと云う事に気が付いた。

今朝の事だ。

写真は敗戦直後の東京の風景だ。

写っているドームの様な建物は大相撲の殿堂蔵前国技館だろうか。
現在の両国に場所を移したのは戦後しばらくを経てからだったと思うが、何時の事だったのか、私はよく知らない。

東京は圧倒的な力量の違いを見せ付けるような米軍の爆撃を連続的に被り、完膚(かんぷ)無(な)き迄に叩きのめされた。
結果、帝都東京は全てがと云えるほどに焼き尽くされた。

欧米の、当時の識者達は、日本の東京、広島は復興に100年以上掛かるだろうと言ったとか。

しかし、東京も広島も、そればかりではない日本全土は、多くの学者や専門家の予測を覆(くつがえ)し、短日月のうちに奇跡的な復興を遂げた。

なにもかも焼き尽くされた廃墟の中から、我々の祖父や父達は、僅か20年を待たずに、オリンピックを開催した。
そのために、歴史的価値さえ有ろうかという体育施設を造り、首都高を張り巡らせ、世界最速の新幹線も完成させた。
更に、パリのエッフェル塔より高い東京タワーを建設した。

くどいようだが、正に奇跡と云っていい快挙である。

子供心に、至るところで工事が行われ、建設中のビル群の鉄骨が毎日のように立ち上がり、槌音があちこちで聞こえていた事を、今もはっきりと記憶している。
私は今、例えて云えば敗戦の焦土と化した日本のようなものだ。

多分、医者に診て貰えば、何かしら心の病の病名を下されるだろう。
いろいろな処で、これから罵倒されたり、嘲笑されることもあるに違いない。

臆病になり、打ちのめされ、訳もなく身体が震え、胃袋には慢性的に嘔吐感が住み着いている。

『あいつも終だ』
多くの人がそう思うだろう。

それでも私は、前に進もう。

諦めずに。

私に再生が効かないのなら。

私は、『新生』しよう。

最低の場所から、生きている限り上を、前を見て進もう。


2010年01月03日

謹賀新年

ec34e0d0.jpg私のblogを読んで頂いて居る皆さん。

新年明けましておめでとうございます。

昨年来の経済恐慌の風も、収まらないままに幕が開いた2010年です、まだまだ厳しい情況が続く様ですが、しっかりと前を見詰め前進したいと思います。

私も、今年一年を再生の一年にするべく前進しようと決意しております。

今年も宜しくお願いします。

写真のRyuチャン!1月末の新作の発売を待たずに3月発売の新作も決定しました。
ファンの皆さん宜しくお願いします。


2009年12月30日

記憶の中のプロレスの風景

a375bc68.jpg静かに2009年が終わろうとしている。

それにしても、最近は師走の風物詩といったものが、どんどん消えている、年末に限ったことではない。

季節感が壊れ、四季折々の風物詩と言われるものや、庶民の習慣等が、剥ぎ取られるように、ひとつひとつ消えて、世の中の様変わりの激しさに驚き、戸惑う。

ところで、私の幼い頃は、現在の様に、何処の家にも必ずテレビが有るという時代ではなかった。

私は、港区の三光小学校と云う処を卒業したのだが、確か三年生の頃、引越しをした。

行政的には、居住地の学区域内の小学校に転校しなければならなかったのだが、何故か私は引越し先から越境通学を続けた。

別に、私立の名門小学校でもない三光小学校へ、何故私が通い続けたのかは、覚えていないが、多分たいした理由ではなかっただろう。
単に転校することが嫌だっただけの事だったと思う。

その私の意見が、不思議に親の反対に会わなかったのだ。

三光小学校には、私以外にも越境通学をしている生徒が何人か居たようだ。

当時、通学中の電車やバス、今はもうないが、懐かしい都電の中で上級生の姿をよく見かけた。

時代は、高度成長期の真っ只中。

元気な日本は、1964年の東京オリンピック開催に向け邁進中、そのせいかどうか朝のラッシュは凄まじかった。
小学生の私にとって、体力的にはかなりきつかった筈だが、それよりも毎日、朝夕に眺める東京の繁華街の風景が楽しかった。

放課後、クラスの仲間と陽が沈む迄遊び、バスや電車を乗り継いで渋谷や新宿の雑踏を抜けて帰宅する。

夕飯が済んだ頃、我が家には近所の住人がやって来る。

子供が多かったが、大人も混じっていた。

目的は、我が家のテレビである。

毎夜、誰かしらがやって来てテレビ観賞に興じていた。

とくに、プロレス中継の放映日には、集まる人の数もいつもより多かったようだ。

なんと云っても、力道山の人気は凄まじいものが在った。

力道山が、悪役外人レスラーを、伝家の宝刀『空手チョップ』で薙ぎ倒す場面は、胸が躍った。
吉村道明、遠藤幸吉、東富士、そして怪力・豊登。

銀髪鬼・F・ブラッシー、覆面の魔王デストロイヤーにメキシコの巨像オルテガ、バスを引きずるパフォーマンスで日本中を驚かせたグレート・アントニオ。
みんなが、魅力的なオーラを放っていた。

懐かしい。

あの時代のプロレス人気は、その後、G馬場A猪木に受け継がれたプロレス人気のそれとは根本的に違っていたと私は思う。

もはや戦後ではない。
と、時の総理大臣に言わしめた程、戦後日本の復興は目を見張るものが在った。

世界一の東京タワーも焼け野原の東京に10数年でそびえ立った。

日本人の真骨頂である。
目に見える復興は奇跡と云える域を超えてしまうほどの勢いで遂げることが出来たが、それでも尚、あの当時の大人達の多くの心には、払拭することが出来ない敗戦の屈辱感が在った筈である。

リングの中の金髪で青い目の巨漢レスラー達を、空手チョップで薙ぎ倒す力道山の活躍に、会場に集まった観客も、街頭テレビに群がる人々も、皆が溜まりに溜まった溜飲(りゅういん)を下げた筈である。

それは、猪木や長州に群がった熱狂的なファンのムーブメントとは違っていたと思う。

G馬場も、A猪木も、長州力も、そしてその時々のヒーローは居た。
確かにみんなヒーローだった。

プロレス・ファンの。

力道山は、国民の英雄だった。

それは、根本的に違うカテゴリーの存在だった。

私の遠い想い出の中に、父親に連れられた幼い私が、場末のラーメン屋の天井近くに据えられたテレビを、麺を啜(すす)りながら、食い入るように観ている情景がある。

映っているのは、もちろんプロレス中継である。

画面の中にモノトーンの英雄が居た。

滴(したた)り落ちる汗を拭いながら、勝利者トロフィーを掲げて…。

それを見上げる父の横顔が懐かしい。

僅か八歳の私には、自分が将来、プロレスの業界に身を置く事など予想だにしなかった。


2009年12月26日

嘘つき

fbb080f5.jpgやっぱり予想通りだった。

ここまで、自分の発言に責任を持たないで居られる事に対して、正直驚いたというレベルは越えた。

司会進行役の国会議員に、わざとらしく総理と呼ばせず、衆議院議員と呼ばせたり、わざわざ首相官邸を使わず都内のホテルで記者会見。

その内容がまた、何のひねりも無い。

文学青年が書き上げた学園祭の寸劇のシナリオの様なレベル。
揚句の果てに、過去の発言との整合性を問われれば『私は、私腹を肥やした覚えは無い…』って、そんな問題じゃ無いだろう。

全てが、お坊ちゃまの芝居がかった展開。

元宝ジェンヌの奥様のアドバイスもあるのかと、つい勘繰ってしまうのは私だけだろうか。
日本人は、諦めやすい国民性なのか、よく暴動が起きないものだ。
立派な大人、しかも一国の総理、どんなに歳を重ねたとしても親の気持ちからすれば、とおっしゃりたい気持ちは解りますが、陰ながら息子を支援したいならば、今まで息子の為に投げてきた莫大な金額を、内外の貧しく飢える人々のために使っていたらと思う。

友愛の精神とは、所詮血族の垣根を越える事の無い狭量なものなのか。


2009年12月25日

ぐらー様への答え

8a7ed8b1.jpg埼玉県の東松山市で、 キャバクラのような店をやっています。

以前は3店舗ほど、やっていましたが、今は此処だけです。

『マイ・ドリーム』と云う店です。

〓0493(22)3915
です。


Ryu〜2010【発進】

1c56ccfd.jpgタレント・モデル事務所に所属していないRyuは、あまりチャンスに恵まれているとは云えません。

元々、未だ19歳に成ったばかりの彼女が私の経営する店に入店した自分の友人を送って来た事がきっかけで、私と出会いました。

当時の彼女は、いわゆるプー。

やがて時は流れて、頑張っていた彼女の友人も辞めて、気がつけば彼女が私のところへ来てから、永い時間が経ちました。

いろいろな事が有りました。

病気も経験しました。
すっかり大人になったRyuチャン。

来年は、来年こそは勝負の一年にして欲しいと思います。

ファンの皆様、応援宜しくお願いします。


2009年12月22日

嘘八百

d514a9b4.jpg私のblogには父親のことを話題にしたものが多い。

私自身が60歳を数年後に控えて尚、乳離れ〜ではなく、父離れが出来ないと云うだけのことなのだが、それほど私の父は、私にとっては、男として人間として魅力的な人だった。
その父親から言われたことの中に、こんな言葉が有った。

『出来ないような事を簡単に口にするな、口にしたら、どんな事があっても実行しろ。』
中々難しい事だが、男たるもの、かく在りたい。

いや人間たるもの、そう在るべきだろう、それが国の舵取を担う立場の宰相ならば、なおの事だ。

言い訳が通用するような問題ではない。

数ヶ月前には白だった事が、今は黒に成るほど、世の中が変化しているとでも、云うのか。
数ヶ月後の世の中の変化も察知出来ないというのであれば、何おか況やである。

権力の伏魔殿の住人には、正義の心など微塵も無い。

政権を奪取する為に彼等は国民にマニフェストを翳(かざ)した。

国民は彼等に未来の安泰な生活を託した。

彼等は、その国民の思いを得て、政権の座に就いた。

今彼等は、彼等を信じた人々との約束を、外連味(けれんみ)たっぷりの言い訳で反古にした。
我々が、地域・社会で約束を破ったらどうなるか、信用を著しく失墜させるばかりか、場合によっては、法的処置を被る事になる。

言い訳など通用しない。
これ以上書いても、虚しくなるだけだろう。
『君は、日本国憲法を知っているのかね!』居丈高に記者会見で語る傲慢なあの人の物真似で云えば、『君は、人間の良心とか正義とは何か知っているのかね』

虚しくやるせない年の瀬である。


幻想?

80649e06.jpgアメリカ合衆国の永い選挙戦が終了してオバマ大統領が誕生した時、私はその就任演説をテレビで観ながら、彼のマーチン・ルーサー・キング牧師のことを思い出していた。
アメリカ合衆国初の黒人大統領(今は、この言い方はまずいのかな?)。
新大統領の誕生に、何かが変わるぞと、期待したのはアメリカの国民だけではなく、世界中の善良な庶民も同じだったろう。

昨夜、永くアメリカに暮らし、大手証券会社の敏腕管理職としてウォール街で活躍し、現在もアメリカ合衆国と日本を股に掛け、優雅に、かつ精力的にビジネスを展開している友人に会った。
その彼から、オバマ大統領について、成る程と云う話を聞いた。

『彼の父親はケニア出身の所謂、アフリカ人なんですヨ、そしてエリートです。その父親が早世して、オバマは白人の、教養の有る母親に育てられたんです。彼はアメリカの黒人では無いんです。』

オバマ大統領は、奴隷としてアメリカに連れて来られ、何世代にわたってアメリカ合衆国に生きた黒人の一族ではないという事なのだ。

マーチン・ルーサー・キングと重なる部分など、無いのだ。

幻想。

なのである。


2009年12月21日

片山右京の試練

faa5d335.jpg随分と会っていない知人の言葉を思い出した。
彼は山に登る男だ。

『富士山って、日本一高い山なんですよ。あの美しい姿には、怖さなんて微塵も感じられないけど、日本一高い山に登るという心構えは必要だし、甘く考えていては危険です。日本一高い山と云う事は、日本一の危険が潜んで居るという事なんです。』

20年も前に、彼が雑談の中で語った言葉だ。その雑談の中で彼は、こうも言った。

『日本アルプスにスニーカーで登る人など居ない。なのに、それよりも高い山だと云うのに、富士山では信じられない程軽装の登山客を多く見かける。』

元レーサーの彼と二人の仲間は別に軽装で富士山に登った訳ではない。

むしろ、ベテランと呼べる部類の人達だったのではないだろうか。
富士山は、その彼等さえ予測出来なかった程の恐ろしさを見せ付けた。

二人は不帰の人となった。
彼一人が、白銀の地獄から戻った。

ニュース番組の彼の映像から、悲しみと苦悩が伝わって来る。

取り囲むリポーター達からも、あまり質問は飛ばない。

南極に在る山を登攀(とうはん)するための事前訓練のような性質のものだった今回の富士山。

全ての計画が白紙に為った様だが、不帰の二人の事を思うなら、彼は南極を目指す可きであろう。

二人は、彼の為に、彼の成功の為に頑張り、その途上で無念にも帰らぬ人と為ったのだ。
二人の死が報われるのは、彼、片山右京が、悲しみを乗り越え、南極の大地にそびえる山を登攀する意外にない。

頑張れ。