- 2018年08月06日 -

「『新しい政治学』の構想――大嶽秀夫の体制論とその方法」        -21:19-

 論文が出ました。
 大嶽秀夫論の第二弾です。

「『新しい政治学』の構想――大嶽秀夫の体制論とその方法」(『明治学院大学法律科学研究所年報』34号、2018年)

 いずれオープンアクセスで見れるようになるはずです。
 見れるようになりました。(2018/9/1)  

- 2018年01月14日 -

「日本政治学史の二つの転換――政治学教科書の引用分析の試み」        -19:10-

 論文が出ました。
 タイトル通りの内容ですが、数量的アプローチである引用分析(Citation Analysis)の手法を、政治学史研究に用いているものです。

  • 「日本政治学史の二つの転換――政治学教科書の引用分析の試み」(『年報政治学』2017-供

     なお、2017年日本政治学会大会の分科会「政治思想史研究は政治学にどう寄与できるか」の討論のなかで、次のような議論がありました。
    「政治思想史研究が政治学にどう『寄与してきた』かであれば、政治思想史研究が政治学研究に引用された回数を数えればよいのではないか?」(大意)
     そのものズバリではないですが、似たような作業を論文の中でやっています。  
  • - 2017年12月27日 -

    【御礼】阪野智一・近藤正基編『刷新する保守』        -21:29-

    刷新する保守-保守政党の国際比較刷新する保守-保守政党の国際比較
    阪野智一

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     城下賢一先生と近藤正基先生からいただきました。ありがとうございます。

    (参考)刷新する保守 | 弘文堂  

    - 2017年12月13日 -

    【御礼】佐々木研一朗「1930年代後半における政治学をめぐる政府と東京帝国大学」        -20:31-

     佐々木研一朗先生からいただきました。ありがとうございます。

  • 「1930年代後半における政治学をめぐる政府と東京帝国大学――法学部東洋政治思想史講座の設置過程を中心に」(『政治経済学研究論集』1号、2017)


     同論文は、丸山眞男が担当することとなる東大の「東洋政治思想史」講座設置をめぐる政治過程を分析するもので、日本の政治学史を制度面から明らかにしています。この分野の研究はまだ手薄なので、とても貴重な研究だと思います。  
  • - 2017年09月17日 -

    村松岐夫「地域社会と紛争」        -23:43-

  • 村松岐夫「地域社会と紛争――地域政治研究のための諸概念の検討」『法学論叢』90巻1〜3号、1971年12月。

     シリーズ・村松岐夫を読む(8)。
     本論文は、「地方政治研究のための準備作業として、地域社会における紛争あるいは対立(conflict)の過程についての研究」(156頁)を行うものである。


    1 実証主義の芽生え

     以前から何度か書いているように、ポリティカル・サイエンスの担い手という顔は、最初期の村松には当てはまらない。例えば、村松はサイモンの実証主義を批判しているし、また(実証主義よりは理念主義の系譜にあたる)パーソンズのシステム論を応用した論考を書いていた。また、彼の学問観においては、サーベイ中心というよりは、いまだ学問の体系化という伝統的課題を担おうとしているフシがある。村松は、最初から「レヴァイアサンの村松岐夫」だったのではなく、どこかでレヴァイアサンに「なった」と見ることができる。
     問題は、いつポリサイ方面へと軸足を移したかである。村松の文章のなかで、顕著な変化が生じるのは1970年代に入ってからだ。この点、1971年発表の本論文には、いまだ伝統的なスタイルをとりつつも、新たな実証主義のスタイルの萌芽がみえる。ちょうど、レヴァイアサンへと脱皮しつつある時期にさしかかっていたと考えられる。

    2 伝統的スタイルの残存

     まず本論文は、基本的には従来的なスタイルで構成されている。第一に、政治現象の体系的説明、あるいは演繹的説明がその論述の中心となる。つまり、村松は「開いた社会と閉じた社会」(ポパー)の検討から始め、次いで紛争プロセスについてコールマンの所説を紹介しながら、紛争という政治現象の一般理論を立てようとする。これは、政治社会の基本構造を抽象的に措定した上で、演繹的に問題を導き出す点で、(村松の批判する)長浜政寿にも通じる論理構成である(『地方自治』25頁)。あるいは、のちの「レヴァイアサン発刊趣意」にある表現のように、「日本政治の全体を『丸ごと』あるいは一挙に、しかも無限定に解釈し、特徴づけようとする傾向」を有していたと言えるかもしれない。
     第二に、規範的な政治モデルの構築にその関心がある。村松は本論文の意図につき、はっきり次のように述べている。
    「われわれの選択すべき開いた社会を検討するために、つぎに対立あるいは紛争を過程を分析してみようと思う。」(163頁)
     ここで彼の関心が「選択すべき」社会にあると名言されている。こうした規範的関心が強いからこそ、彼は論文の後半で、キャロル・ペイトマンの参加民主主義論を紹介し、その自由民主主義批判を検討するのである。こうした規範的社会像の提示という傾向は、例えば辻清明にも見いだされる、戦後政治学の一般的傾向といえる(『地方自治』22-23頁)。村松は、こうした先行世代にみられる諸点について、村松自身が体現・再現していたことは明確に確認される。

    3 仮説検証型モデル

     しかし、以上で話は終わらない。本論文でいう「モデル」は、必ずしも規範的な意味ばかりではなく、仮説検証のためのモデルという意味も含まれている。村松は、ダールの多元主義論を参照したうえで、次のように「仮説」を提示する。
    「紛争がはじめから抑圧されたり回避されず、また紛争が社会の分裂や崩壊にいたる前に収束されていく場合に、紛争は社会の安定に貢献し合理的な問題解決を導くというのが本稿の仮説である。」(182頁)
     仮説というには、あまり操作的定義がなされていないかもしれない。しかし、村松はここでサーヴェイ調査に触れ、実証研究につなげる可能性を示唆している。
    「抽象的に紛争に対応する意思決定のモデルを考えてきたため、具体的な地方政府の権力構造やそこでの政治過程について本稿では考察していない。もし具体的にとりあげるとすれば、……実証的な研究が必要である。」(187頁)
     もちろん、村松がここでその「仮説」を検証する実証的検討を行っているわけではない。一事例(フッ素問題)が簡単に検討されるにとどまっている。しかし、ここでの「モデル」の用法は、実証研究のための作業仮説として理解するのが自然である。
     村松が言うように、ここでの「モデル」が仮説検証のためのモデルであるとするなら、前段で見たような「開いた社会」に関する議論、規範的社会モデルの提示は、全く別種の作業にあることになる。その限りで、本論文における「モデル」の地位は、一貫していない。
     しかし逆に、こうした「ちぐはぐさ」は、村松の中に新たな問題関心ないしパースペクティヴが生まれつつあったことの証左かもしれない。伝統的スタイルからの過渡期にある試行錯誤の一つとして、本論文は位置づけられうるように思える。

    4 おわりに

     ところで、こうした村松の実証主義の観点は、本論文ではロバート・ダールの所説との関わりから提示されたものである。そのため、ダールの議論がなんらかの影響を与えたと推定するのは自然なように思える。
     ただこの時期、村松にとってはより直接的に大きな転機を迎えていた。それが三宅一郎による「三宅プロジェクト」、すなわち同年(1971年)7月に第一回調査が行われた京都市民意識調査への参加である。この三宅プロジェクトについては、別途検討してみたい。  
  • - 2017年07月23日 -

    村松岐夫「日本の地方自治における住民参加運動の意味」        -22:35-

  • 村松岐夫「日本の地方自治における住民参加運動の意味――参加行動論ノート」『都市問題研究』23巻3号、1971年3月。

     シリーズ・村松岐夫を読む(7)。
     本論文は、『都市問題研究』誌の1971年3月号の特集「地方議会と住民参加」に発表されたものである。


    1 政治はどこにあるのか?

     前々回に引き続き、本論文もまた市民(住民)運動がテーマである。村松はこの時期、繰り返し住民運動の意義について論考を書いている。今回の本論文もその一つである。
     なぜ彼は、何度も市民運動について考察を加えているのだろうか? もちろん市民運動は、行政学界で注目を集めるテーマでもあった。後年、村松は『行政学教科書』のなかで次のように書いている。
    「行政学における市民の位置づけは難しい。……行政学では市民の概念は今後の研究テーマである。」(『行政学教科書 第二版』280頁
     この引用文では「今後の研究テーマ」だと村松は述べているが、実際には、市民運動については1970年頃からの彼の関心事だったことは明らかである。当時、住民運動の拡大に伴い行政学者からの注目度は高まり、『都市問題研究』誌でも特集が組まれるようになった。本論文は、その特集に掲載された論考である。
     こうした住民運動への学問的関心の高まりを背景としながら、村松の視角はどのようなものだったのだろうか。それはやや特異なもののように思える。しばしば指摘されるように、市民(住民)運動は「政治とは何か?」「政治はどこにあるのか?」という政治学的な問い直しを迫る現象である。村松の考察の関心もまた、この点に焦点が当てられている。

    2 行政のなかの政治

     村松がこだわるのは、住民運動の要求が行政に向けられていること、これの政治学的意味である。前掲論文「自治体行政と住民参加」においても、論述の中心は、住民運動が行政に与える影響についての考察であった。それを再度引用すれば、
    (1) 行政のプロフェッショナリズムへの挑戦
    (2) 行政の中立性概念への挑戦
    (3) 行政組織の人間の在り方を問う
    (4) 官僚制の秘密主義批判
    (5) 分権化の要求
    ということであった。こうした観点は、住民参加運動の広がりに政治文化の変容を見出す視点(篠原一『日本の政治風土』など)とは異なり、住民運動を徹底して行政との関わりにおいて考察するものである。
     ではなぜ、住民運動の要求は行政に向けられるのだろうか。一般的な政治過程においては、市民がアクターとしてこれに参加することは少ない。村松は次のように説明する。
    「行政にとって外的な団体が市民と結びついて、あるいは市民が自らの組織して都市行政のあり方を討論し相互の利害を調整する政治過程を形成していくことは稀である。ここでは、政治はissueごとに関係住民の間で展開されるというよりは、行政機構の争奪という頂点での戦いという形で展開されざるをえない。その戦いが終わったあとは、政治はすべて終り、行政と市民の『接触』があるだけである。」(38頁)
     ところが日本においては、そうならないと言う。それは、日本では「政治」が行政の中で進行している、という論点に関わってくる。
    「しかし、わが国では、市民の生活環境やその他の利益に影響を与える『政治』(=問題についての複数の価値の間の対立・選択)が行政の中で進行しており、行政の中の『政治』にどのように市民が参加していくか、というのが参加論の最大の問題であるように思われる。」(38頁)

    3 議会の政治

     なぜ住民運動は行政に対する運動となるのか。それは行政の中に「政治」があるからだ、という認識が上記の引用文からは読み取れる。このように、行政自身が政治を行う、つまり何らかの価値選択を行っている、という命題自体は珍しくないだろう。村松自身も1964年に次のように述べていた。
    「しかし、現代行政の問題は、社会の複雑化に対応して、政策形成において、より高度な専門技術が必要とされる結果、行政がますます政策形成への参加を通じて価値選択の領域に介している点である。」(「行政学における責任論の課題」81頁
     行政自身が「価値選択」を行っている。サイモンの用語でいえば、決定過程における「価値前提」を行政が提供していることとなる(「サイモンの『行政行動論』について」)。これは、行政自身が「政治」を行っていることに他ならならない。
     しかしこうした「強い行政」観は、後年村松が主張する議会優位論とは、相当ニュアンスが異なるように思われる。『戦後日本の官僚制』では、こうした行政が議会に優位する権力を持つとする認識を批判し、これをサーベイ・データによって示したのであった。そこで「政治」を行うのは、あくまで「議会と政党活動」とされていた。
    「政治の安定は、単に有効な政策をつくるということにとどまらず、個人と社会集団の要求や不満を解消し、イデオロギーを調整してその基本的ニーズに応えているときに得られるのであるが、これらの点で役割をになえるのは画一性の枠にしばられ、その枠を出ることのできない官僚制ではなく、議会と政党活動である。」(『戦後日本の官僚制』ii頁
     ここには、「政治」の所在に関する、村松の認識の変化を見出すことができる。いまや「政治」は行政のなかで進行するのではなく、議会と政党活動のなかで展開するものとされている。これは、当初の村松の認識とは、まったく異質な考え方といえる。

    4 おわりに

     このように、「政治」の所在についての認識は、村松の中で大きく変化していた。彼の市民運動についての記述は、この変化の痕跡を残している。
     よく知られるように、『戦後日本の官僚制』ii頁は、インタビュー等に基づく実証的手法によって、議会優位論を主張したことに研究史上の画期的な意義があった。ただ、こうした議会優位論への転換は、行政学史上の転換であっただけでなく、村松自身における「政治はどこにあるのか」に関する認識の変化でもあったと見ることができる。

     しかしそのことは他方で、「なぜ市民運動は行政に向かうのか」という当初の問いに対して、「行政の中に『政治』があるから」という回答は有効でなくなってしまう。そうすると、この問いの回答は、振り出しに戻ってしまったのではないか。『行政学教科書』で市民運動についての記述に自信がなさそうに見えるのは、こうした彼自身の研究履歴に照らすことで、理解できるように思われる。  
  • - 2017年07月17日 -

    村松岐夫「自治体行政における公聴の役割」        -21:38-

  • 村松岐夫「自治体行政における公聴の役割」『都市問題』61巻9号、1970年9月。

     シリーズ・村松岐夫を読む(6)。
     本論文は、『都市問題』1970年9月号の特集「市政と公聴」に発表された論考である。


    1 「最初期」の村松岐夫

     「最初の著作には、その著者の全てが詰まっている」という言い方がされることがある。確かに、大成した学者の業績を検討していると、最初の著作にその後の議論のエッセンスが見出される、ということは珍しくないように思える。例えば、大嶽秀夫の『現代日本の政治権力経済権力』(1979)にしても、イデオロギー、社会的権力、リーダーシップ、といったその後のキー概念が既に萌芽的に含まれていた。その意味で、最初の著作は、その学者が後にどれほど最初の出発点から前進したのかを測定する、一つの目印になると言えるかもしれない。
     しかし、村松の場合には、そうした「最初の著作」についての議論が成り立たない側面が多い。そもそも、村松にとっての「最初の著作」とは何だろうか。通常考えれば『戦後日本の官僚制』(1981)が挙げられるだろうが、これは村松が41歳の時の著作である。それ以前に、村松は『行政学講義』という編著を1977年に出していた。また、彼の最初の学術論文は、1963年の「サイモンの『行政行動論』について」であった。もし、村松の「最初の著作」として『戦後日本の官僚制』を位置づけてしまうと、それ以前の論考があまりに多いことになってしまう。
     そして事実、村松は『戦後日本の官僚制』以前に、数多くの論文を書いている。それらは、単行本に再録されることもほとんどなく、また『戦後日本の官僚制』の文章に直接組み込まれているわけでもない。言い換えれば、この「最初期」村松は、未だ行政学のさまざまなテーマで試行錯誤を繰り返していた時期だった。ある意味でそれは、「迷い」の時期と言えるかもしれない。(この点、三宅一郎との出会いがきっかけとなり、政治・行政サーベイを手がけたことが転機となったことは、村松自身が述べている。『戦後とは何か(上)』57-60頁「政治学の窓から(9)」。)

     さて、本論文もまた、そうした最初期に書かれたものである。ここには、主著『戦後日本の官僚制』には直接には結びつかない、当時の村松の問題関心を見出すことができる。そこには、いわゆる「レヴァイアサン・グループ」の一人となった後とは少し異なる姿がある。以下見てみよう。

    2 システム論批判

     本論文のテーマは公聴である。公聴とは、市民から情報を収集する行政活動のことであり、広報とともに自治体のPR(Public Relations)活動を構成している。こうした公聴概念は、「上意下達」なコミュニケーションとは異なる情報流通を伴うため、近代化、民主化の観点からも当時注目されていた(14-15頁)。
     こうした事情に加えて、公聴概念が注目を浴びたのには、もう一つの背景があったという。それはイーストン的なシステム理論の発展にある。村松は、行政学で公聴が注目を浴びた理由について、次のように説明する。
    「行政管理論におけるサイバネティックス的思考が発展し、システムズ・アナリシスの理論の導入された段階で、公聴機能が入力要件を出力によって修正するフィードバック過程として位置づけられ、行政の科学的管理および制御の必須の過程という視点を加えて議論されるようになった。」(14頁)
     このように当時、公聴概念は、システム理論との関わりで理解され、そうした潮流が主流となりつつあった。このことは、この分野の古典である井出嘉憲『行政広報論』(1967)や、その他本論文注で引用される先行研究においても、はっきりと確認される。
     ところが村松は、こうしたシステム理論による公聴理解に対して、はっきりと批判的である。それは、たんに公聴との関連にとどまらず、「機能主義的思考」そのものへの批判へと向かう。
    「システムズ・アナリシス志向は、こうした拡大しつつある公聴機能にフィードバック過程というひとつの有力なイメージを与えた。……しかし、このような機能主義的思考には、行政管理の改善のモデルとしての有用性はともかく、現実の統治過程全体をそれにより診断し処方するための方法としては問題がある。」(22頁)
     なぜシステム理論には問題があるのか。村松によれば、機能主義的思考は、「行政の責任」を曖昧にしてしまう。システム論は、行政と市民を「連続的」なものと捉えてしまうために、「近代行政管理の原理である“権限と責任の一致”、“権限・責任範囲の明確化”に貢献」しない、という(24頁)。一言でいえば、行政責任明確化の観点からの批判である。

    3 システム論の模索

     このような批判が的を射ているかどうかは、横に置こう。むしろ、ここで着目したいのは、システム論に対して(批判的にせよ)村松が強い関心を示していることである。
     一般に、レヴァイアサン・グループは、システム論への評価は高くないといわれる。その一因には、「モデルの抽象度のあまりの高さゆえに、実証分析と関連させることがほとんど不可能になっている」というシステム論への評価がある(大嶽他『政治学』213頁)。おそらく、村松も、こうした評価を共有するだろう。
     しかし、意外なことに、この頃の村松は、システム論に対してより好意的な側面があった。次の文章は、本論文と同じ1970年に発表されたものである。
    「T・パーソンズに代表されるアメリカ社会学の機能主義の理論は、大都市圏広域政府の機能を分析するに際して多くの示唆を与えてくれる。第一節においては、その概念を借り、また、その概念にヒントを得て、大都市圏広域政府についての議論を進める。」(「アメリカにおける大都市圏広域政府の形成(三)」6頁
     ここから村松は、一節(約8ページ)を割いて、「体系」の維持、入力と出力、といった「抽象的」な機能主義的な議論を展開している。詳細は割愛するが、村松はここで、機能主義の理論をいわば「発見的」に使うことにより、自身の問題関心に役立てようとしているように見える。
     こうした議論からすれば、本論文におけるシステム論批判も、機能主義に強い関心があることの裏返しのように思える。つまり、システム論によって公聴概念の役割が明確となったことを評価する一方、その限界を指摘するものとも読める。そうだとすれば、本論文で行っているのは、システム論の批判的継承という側面がある。少なくとも、村松自身の意図としては、そうした要素があったのではないか。
     言い換えれば、「最初期」の村松には、システム論への少なくない関心があった。それは、後年の彼のイメージにはそぐわないが、この頃の模索の一幕として見ることができるように思われる。

    4 おわりに

     以上のように、この頃の村松には、機能主義的な社会理論への関心が見え隠れしていた。つまり、システム論的な思考枠組をヒントにして、行政理論をより精緻化、発展させようとした痕跡を見出すことができる。
     しかしその後、村松の議論のなかで、システム論の要素は後退していく。例えば、本論文の論述はのちに『行政学教科書』(1999)に部分的に組み込まれるが、ここではシステム論への言及は姿を消している。(わずかに「行政システム」の語が見える程度である。)
     こうした変化は、一面では彼が「実証主義」にシフトしたことと相関しているだろう。ただ、その後の彼の思考枠組に、システム論的な発想が残されていないか、これを検討することも興味あるテーマのように思える。  
  • - 2017年07月02日 -

    村松岐夫「自治体行政と住民参加」        -21:23-

  • 村松岐夫「自治体行政と住民参加――参加行動論ノート(序)」『都市問題研究』21巻12号、1969年12月。

     シリーズ・村松岐夫を読む(5)。
     本論文は、『都市問題研究』誌の特集「市民参加・市民運動」の巻頭論文である。

     
    1 圧力団体論の村松岐夫

     圧力団体の研究は、村松の主要な研究テーマのひとつである。彼は継続的に圧力集団(や行政官僚や政治家)を対象にサーベイ調査を行っており、その成果は、例えば『戦後日本の圧力団体』(伊藤光利・辻中豊との共著、1986年)『政官スクラム型リーダーシップの崩壊』(2010年)として結実している。こうした村松の研究史のなかでも、市民(住民)運動を検討対象とする本論文は、その最初期に位置するものといえる。
     しかし、本論文のアプローチは、そうした後年の「実証的」研究とはスタイルがかなり異なっている。冒頭で村松は、その目的を次のように述べている。
    「本稿は行政学の立場から、住民運動の『噴出』によって提起されている問題点をひろい出して検討してみたい。」(2頁)
     こうして本論文では、インタビューやアンケート調査に基づく分析手法ではなく、住民運動の意義について理論的考察を行うものとなっている。その狙いは、以下でみるように、ある側面では当時の政治学者たちの語り方と共通するものの、その一方で新世代の感覚がここに反映されていると見ることができる。以下整理してみよう。

    2 住民運動の政治学的意義

     住民運動は、公害の深刻化などに伴い、また革新自治体の登場ともあいまって(岡田一郎『革新自治体』)、当時衆目を集めながら広がりつつあった。こうした住民運動の政治学的意義を見定めようと、政治学者たちからも注目を集めていた。例えば、本論文でも紹介されているように、松下圭一や篠原一は、住民運動の勃興のなかに民主主義を活性化させる可能性を見出している(松下圭一「直接民主主義の論理と社会分権」『シビル・ミニマムの思想』篠原一『日本の政治風土』)。
     こうした民主主義などに関わる論考に対して、村松の視角はやや異なる。村松は次のように書く。
    「こうした住民参加・運動への関心の広がりの中で比較的触れられていないのがその行政の組織や過程に対する影響についての分析である。」(4頁)
     ここから村松は、住民運動が行政に与える「影響」の考察を始める。ただし、ここで「影響」といっても、ダール流のinfluenceとは異なるものが想定されている。村松によれば、住民運動は「伝統的な行政の理念とその実際に対する挑戦」として理解可能であり、その「挑戦」という意味での「影響」がここでの検討対象となる。具体的には次の5点が挙げられる。

    (1) 行政のプロフェッショナリズムへの挑戦
    (2) 行政の中立性概念への挑戦
    (3) 行政組織の人間の在り方を問う
    (4) 官僚制の秘密主義批判
    (5) 分権化の要求

     個別の内容については詳述不要だろう。いずれにせよ、これらは「現代の官僚制のマイナス機能を指摘するもの」(10頁)であり、住民参加はこうした行政の「理念」を揺さぶるものと理解される。そして、「住民参加の問題提起に答える新しい官僚制論を展開する可能性」が期待されるとしている(12頁)。
     以上のような村松の立論は、住民運動の参加形式を捉えて、それらが行政の理念にどう「挑戦」するかを検討するものであった。これは、政治システムへのインプットの形式(およびそれが政治システムに与える影響)に着目するという意味では、先の松下・篠原の民主主義論と同様の着眼点にあるといえるかもしれない。

    3 産業化社会の公と私

     しかし村松は、さらに議論を次のように進める。本論文の核心部分は、むしろ次のところにある。
    「住民の多面的な直接行動の頻発は……現代社会において社会成員に対する政府の責任範囲はどこに限界があるのか、という極めて重用な職能国家の本質に触れる問題の考察を迫る。」(12頁)
     ここには、現代産業化社会の「行政国家化」すなわち国家機能の拡大をめぐる論点がある。村松が言うように、現代では「諸都市問題は個々の住民によってではなく、公共的責任=政府の責任によって解決されることが自明のこととされている」(3頁)。近代初期においては、個人ないし社会の問題であったことが、現代では公共的問題として対応される範囲が拡大している。
     よく知られるように、「個人的なことは政治的である」という第二派フェミニズムの言葉にあるように、公共性の範囲は歴史的に変化しうる。こうした指摘は、90年代以降の「公共性」論の興隆を通して今では常識化しているが(例えばレイモンド・ゴイス『公と私の系譜学』参照)、村松が本論文(1969年)でこれを指摘しているのは非常に早い時期にあたり、著者の鋭いセンスが現れているものといえる。
     さて、本論文の結語は、次の文で結ばれている。
    「心配なのは、あらゆる問題を国家におしつけることにより、人は国家活動の中に窒息してしまわないだろうか、ということである。」(13頁)
     ここには、「市民の論理」(篠原一)を体現するはずの住民運動が、そのアウトカムとして国家活動の拡大を帰結してしまう、というある種のパラドックスが指摘されている。確かに、第二派フェミニズムにおいても、DV対策として政府の施策を拡大することは、家庭領域に国家権力を呼び込むことになると懸念されていた。村松の場合は、おそらくアメリカ地方自治論の影響から、同型の懸念を示しているものといえよう。

    4 おわりに

     以上のように、住民運動への注目という意味では当時の政治学者たちと共通しつつも、村松の着眼点は当時としても鋭い感覚に裏打ちされていたと見ることができる。
     もっとも、こうした産業化社会の公と私を総体として捉えるという視点は、その後の村松の研究においては前面には出てこなくなる。ここには、おそらく研究におけるモデルと方法の洗練化が関係すると思われるが、この点は別途検討してみることとしたい。  
  • - 2017年06月25日 -

    村松岐夫「アメリカにおける大都市圏広域政府の形成(一)〜(三)」        -18:21-

  • 村松岐夫「アメリカにおける大都市圏広域政府の形成(一)〜(三)」『法学論叢』84巻5号、85巻3号、87巻5号、1969〜1970年。

     シリーズ・村松岐夫を読む(4)。
     本論文は、バークレーから帰国後に発表された、最初の本格的論考である。全3回6章構成で連載が開始したものの、第5章と第6章は「別個に論文執筆の予定」とすることが最終回で明らかにされ、執筆されなかった。


    1 広域政府論と村松岐夫

     広域政府論は、バークレー滞在時に村松が本格的に取りくんだテーマの一つである。当時、アメリカ行政学では、広域政府をめぐってホットな議論があったらしい。
    「帰国後、バークレー滞在の二年間に行ったmetropolitan governmentに関する調査を論文にした。広域政府論は、当時のアメリカ行政学者の一部で人気のテーマであった。」(村松岐夫「アメリカ行政学と自分史」『季刊行政管理研究』157号、62頁
     広域政府とは、大都市圏化と郊外への人口移動に対応して、旧来の自治体を超えて創設される政府体のことである。人口移動により中心都市の財政が悪化したことを受け、その解決策として、広域政府というアイデアが運動家、研究者の間で模索されていたという(同62頁)。
     本論文で村松が行うのは、第一義的には、これらの広域政府をめぐる議論の整理である。とりわけ、トクヴィル的な地方自治の伝統と、これに対する改革派との対立を素材として、アメリカにおける地方自治(論)の変容とその意義を見出そうとした。
     こうした本論文での作業は、村松にとって、アメリカ行政学の摂取という意味があったと思われる。しかし実は、村松にとって、アメリカ行政学自体はそれほど重要でなかったようである。村松は最近次のように述べている。
    「1966-68年にかけての二年間のアメリカ留学をしたが、帰国後、アメリカ行政学は一度忘れることにした。アメリカ行政学が日本の行政を知るのに好都合には思われなかったのである。」(同63頁
     この述懐に表れているように、村松にとっては、日本の行政研究に対して、より強い関心が置かれていた。そして実は、本論文についても、日本の行政学――とくに地方自治論――への(必ずしも明示的ではない)暗黙の意識を見て取ることができる。以下、この点をトレースしてみよう。

    2 日本の地方自治論

     日本の当時の行政学、とくに地方自治論について、村松はどのように見ていたのだろうか。1988年の『地方自治』では、次のように戦後の議論の流れまとめている。
    「長浜や辻が新しい憲法体制の下で地方自治の政治的位置づけを模索していた頃から40年が経過した。40年前の問題が、アメリカを通じて日本に導入されたアングロ・サクソンの諸地方制度を踏まえて新しい地方自治の法理論を形成することであったとするなら、現在の問題は、その後に発展した政治的諸事実をもとらえることのできる地方自治の政治理論を形成することであるといえよう。」(村松岐夫『地方自治』26頁
     戦後初期、辻清明は、J.S.ミルの「権力は分化するも知識は集権化されねばならぬ」という理念を引きながら、あるべき中央地方関係を構想していた(辻清明「地方自治の近代型と日本型」『新版日本官僚制の研究』所収)。ここで、地方自治の危機は、主に中央政府との関係のなかにある。
     しかし、こうした戦後初期の地方自治論は、「その後に発展した政治的諸事実」をとらえていないという。つまり、
    「新しい発展とは、高度産業社会化および都市化である(松下、1971)。」(村松岐夫『地方自治』26頁
     現代では、「高度産業社会化および都市化」が地方自治の新たな危機をもたらす、と認識されている。こうした問題提起は、村松が最初ではない。松下圭一は60年代後半、都市の肥大化が「伝統的自治体の制度空間をこえる広域行政」を生むとし、これが「都市民主主義の崩壊」という「先進工業国に共通にみられる」問題をもたらすと指摘していた。(松下圭一「都市創造の構想」『シビル・ミニマムの思想』204頁
     要するに当時、「都市化」は広域行政を生み、地方自治の理念を危うくすると指摘され始めていた。松下の用語系でいえば、「近代」とは別に、地方自治の「現代」の問題が現れつつあった。

    3 松下圭一との重なり

     こうした日本の議論に対して、本論文は明示的な引用を行っているわけではない。しかし結果的には、これらの議論状況に対する応答であったと見ることができる。
    「この研究の目的のひとつは、本章で論じるアメリカにおける大都市圏広域政府の形成をめぐる論議の中に含まれている地方自治の理論の現代的問題を探ることにあった。」(本論文(三)、2頁)
     これが「現代」の問題であることを、村松は明確に意識している。
    「今日、都市の諸問題は、地方自治体の範囲をこえて波及していく性質をもつということである。……従って、そうした問題に対処する統治機構・過程も変化せざるをえない。あらゆるレベルの政府間関係の再編成がアメリカにおいて討論されているのはそのためである。」(同3頁)
     都市の巨大化に伴い、公共の問題は一自治体で処理可能な範囲を超えてしまう。例えば、「計画的な土地利用、交通、住宅などの都市問題対策」は、広域的な対応が必要となる(本論文(一)、9頁)。
     これに伴い、伝統的な地方自治の理念もまた変化を余儀なくされる。かつて、農村生活の問題の多くは市民らによって担われ、行政サービスは限定されていた。しかし、都市化の進行によって、多くの都市問題について行政の施策が求められ、行政機能は拡大・広域化する(本論文(三)、2-3頁)。そして、伝統的な地方自治の理念は、都市化の現実に適合しなくなっていく。
    「我々はトクヴィルのモデルでアメリカの地方政府の理解を続けることはできない。」(本論文(一)、8頁)
     ここにあるのは、中央地方関係の中での「地方自治の危機」というよりは、自治体自体の「都市化」による、自治の理念の危機である。そして、こうした議論展開は、先に見た松下圭一の指摘と重なるものであり、後年の『地方自治』(1988)では明示的に松下の議論を参照し、関連づけを行っている。本論文で村松は、アメリカの議論を整理・検討しつつも、その裏側においては日本の行政研究に対する応答だったともいえよう。

    4 おわりに

     以上のように、地方自治の新たな「現代」的課題について、村松はアメリカ行政学のフォローを通して指摘した。これは、単なる「外国理論の紹介」ではなく、日本の行政研究の文脈を踏まえたものだったといえる。
     こうした村松の研究には、「現代」に対する鋭い感覚が表れているとともに、日本行政学史の蓄積を適切に踏まえるという研究姿勢を見て取ることができる。「そんなことはやって当たり前だ」と言ってはいけない。そうした研究規範は、日本政治学史のなかで常に確立されてきたわけではないから。  
  • - 2017年05月14日 -

    村松岐夫「Civil Disordersに関する国家諮問委員会報告書」(1968)        -17:44-

  • 村松岐夫「Civil Disordersに関する国家諮問委員会報告書――アメリカ合衆国における黒人騒乱の調査報告」『法学論叢』84巻2号、1968年11月。

     シリーズ・村松岐夫を読む(3)。
     本論文は、いわゆる「カーナー報告書」の紹介である。


    1 バークレー留学1966-1968

     アメリカ留学は、この時期の他の若い政治学者と同様、村松にとって転機の一つとなったようである。京大で猪木正道から、「村松君、これからの時代はアメリカだよ。行く気があるなら言いたまえ」と言われたことが、きっかけになったという(『戦後とは何か(上)』55頁)。1968年6月から68年6月まで、村松はカリフォルニア大学バークレー校客員研究員として滞在した。そして、帰国後に最初に発表したのが、この紹介論文である。
     この報告書は1968年の「カーナー報告書」と呼ばれるもので、人種対立に基づく暴動等に関して諮問委員会が大統領に提出したものである。当時はまだ報告書が出たばかりで、村松もまた、黒人問題に関心を寄せていたことが窺われる。しかし、その関心の持ち方は、例えば大嶽秀夫とはやや異なるように思えるので、以下ちょっと比較してみたい。

    2 大嶽秀夫との対比 文民権運動)

     まず、大嶽青年も黒人運動には関心を寄せていた。あまり知られていないが、初期大嶽にはアメリカ公民権運動に関する論文がある。1973年にシカゴから帰国後、その翌年に、Latent Interest in the Pluralist Political System: American Liberalism and the Rise of a Social Movement.(『アメリカ研究』8号、1974年)を発表している。ここで大嶽は、SNCCなどを素材に、主に社会運動の側からその多元主義システムを考察している。この論文は邦訳されていないが、その後の『現代日本の政治権力経済権力』(1979)の枠組につながる理論的検討を含んでいる。大嶽の最初の学術論文が、アメリカ公民権運動がテーマであることは、当時のアメリカへの関心の高さを示唆するものといえる。
     これに対して村松の本論文は、同じ黒人問題に関わるものとはいえるが、その視角はどちらかといえば行政側のものである。村松は報告書中の次の文章を、冒頭で引用している。
    「これがわれわれの基本的結論である。すなわち、われわれの国は、一つは白人の、もうひとつは黒人の、二つの社会――互いに別個の不平等な――に分離しつつある。」(85頁)
     この文章を村松は、他の論文でも再度引用している(村松「アメリカにおける大都市圏広域政府の形成(一)」1969年、9頁)。ここで注目されているのは、政治過程というより、社会問題としての黒人運動である。報告書ではここから、人種間の融和策が検討されていく。村松も結論部分で、二つの「注釈」を行っている。
    「第一は、白人社会と黒人社会の対立を解消するための努力の問題である。……必要なことは、何よりまず両者の理解であり、融合の努力である。」(101-102頁)
    「第二の問題は、この報告書に対するアメリカ人一般の、又、政府当局の態度である。……アメリカ社会のこれ迄の一般的な報告書に対する反応は冷たいものであるといわねばならない。」(103-104頁)
     ここでは、大嶽のような政策決定過程への関心というより、政策の内容や、行政やその環境に関心が向けられている。行政学者としては不思議なことではないが、大嶽との比較の上では興味深い対照といえる。一言でいえば、大嶽は運動側、村松は当局側からこの問題に接近している。

    3 大嶽秀夫との対比◆奮慇険親亜

     なぜこうした対照が生まれたのか。研究分野が異なることが理由といえばそれまでだが、ここではあえて、彼ら自身の学生運動との距離の取り方と対照させてみたい。
     このブログでも何度か紹介したように、大嶽は学生時代、何度も学生運動に直接関わっている。高校2年の時には60年安保闘争のデモ、京大時代には大学管理法闘争で社学同のデモに参加し、68年東大紛争では(全共闘からは距離をとりつつも)大学院生として関わっている。その立場は一貫して、学生運動側からの関与である。大嶽はこうした空気を吸い込みながら、修士課程にかけて学問的関心を成長させた。このことが、アメリカ公民権運動の関心に接続したと推定することは、比較的容易と考えられる。
     これに対して、村松は運動側には参加しなかった。60年安保については、次の回顧がある。
    「私は京都大学に1958年に入学して62年に卒業したのですが、途中安保が60年にあって、現実の『政治』に関心が向かう機会はあったわけです。ただ私には自治委員が『情勢判断』とともに主張する安保がそれほど重要な問題にも見えず『学問』の方がより重要でした。」(『戦後とは何か(上)』52頁
     その後62年には助手採用となり、以後、学生運動にコミットしたという証言は見当たらない。大学闘争の折、(学生運動というより)大学問題については関心を寄せ、後に1971年に『イギリスアメリカの大学問題』(深田三徳・佐藤幸治との共著)を発表してもいるが、これも大学組織(バークレー)の紹介に徹している。また75年には、高坂正堯と学生運動家が、京大の正門前で討論を交わすのを目撃してもいる(村松「同僚としての高坂さん」『高坂正堯著作集』第6巻月報所収)。しかし、「弟子」の真渕勝の次の証言のように、「実践」はなかったものと思われる。
    「村松先生ですが、私の師匠ですから若いころの話を随分聞いております。守秘義務がありますので(笑)詳しいことは言えませんが、学生運動や市民運動の実践経験はお持ちではないと思います。」(飯田敬輔・加藤淳子・川人貞史・辻中豊・真渕勝・大西裕・増山幹高「近年の政治状況・政治学動向と『レヴァイアサン』の役割」133頁
     こうした学生運動との接し方の差異も、その後の学問的関心の持ち方に影響を与えた側面があるかもしれない。

    4 おわりに

     同世代の政治学者として、村松と大嶽は一括りに見られやすい。しかし、彼らは1940年生まれと1944年生まれの4歳の差であり、また学部卒業後も異なるコース(助手と院生)を辿った。こうした微妙とも思える差は、彼らが青年時代を過ごした60年代においては、その後にも大きな影響を与える意味を持った可能性がある。