2007年11月14日

世界をつかむ視野

 実に久しぶりの投稿である。すっかり更新をしなくなってから久しく、ついついそのままサボってしまっていた。一方、「箕川功貴のドラマセラピー」のblogの方は、結構更新し続けているのだが、娘の結婚式だ、仕事だ、他の原稿の締切りだと、何かと慌しく、なかなかここまで辿りつけなかった。
 
 忙しくなると、ついつい視野も狭くなる。視野が狭くなるとクリエイティブな身体性も衰える。じっと本やパソコンに目を向けていると、目が乾き、ショボショボし、視力が衰えていくように、アーティスティックな身体感覚が衰えていくのが分かる。
 この、ものを創造する身体感覚とは、どのようなものか。  続きを読む
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2007年09月07日

1/fゆらぎ演技

 ようやく秋めいてきた。関東を直撃した台風九号が去れば、あの過酷な猛暑からもようようおさらばできるのではないか。それにしても今夏は、たいぶエアコンのお世話になった。しかし、あまりにもエアコンに頼りすぎたので、体調もなんだかおかしい。我が家のエアコンには、「1/fゆらぎ」というセットボタンがある。このゆらぎには、いやし、安らぎという効果がある。ちょどホタルの光が、この1/fゆらぎになるらしい。その他に、2/f乗ゆらぎというのもあって、これは退屈、眠気を誘うゆらぎで、ツリーの電飾の点滅がそれにあたる。
 それにしても、日本のどのエンタメを観ても、すぐに退屈し、眠くなるのはどうしてか。エアコンに頼りすぎた体調のためか、1/fゆらぎに値する演技が消えたためか。何かやたらと押し付けがましい、あるいは、自己満足的て低劣、しかもやたらと刺激臭のする演技がはびこっているような気がする。
 ときには、1/fゆらぎ効果を発揮する演技に触れたいものだ。そんな演技を是非習得するためにminokawaメソードがあるということも知って欲しいナァ。  
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2007年08月03日

感覚のズレ

 参院選で自民党が大敗した。これは決して意外なことではなく、国民の多くが、選挙前からある程度は予測していたことだと思う。それは、この国を「美しく」引っ張ろうとしている安部首相のあまりの指導力のなさにうんざりしていたからである。しかも、今回の大敗でなおも居座ろうとしている。まさにシェイムである。
 「個」の優位性に欠け、他との相違を好まない民族的アイデンティティーを持つ日本人。私たちは、個人のアイデンティティー以上に、集団のそれを優先させる傾向がある。なので、個の責任を取って辞職するということは、まずなく、集団に留まって責任を果たそうとする奇妙な事態が起こる。個の優位性がないということは、大いに感覚のズレに直結する。常に集団としてのあり方を考えるために、個の感覚がそっぽにズレていくのである。そして、それはおのずと「被害者意識」という日本人特有の心理を生み出す。指導的立場にある人ほどこの被害者意識が強いと言われるが、安部首相もご多分に漏れず、自民の大敗に対する「個」の責任を棚に上げて、被害者意識を前面に出しての言動が目立っている。ここに感覚のズレが生じ、なんとも意味不明のスッキリしない事態に及んでいる。
 ここまでは、「また出たか。日本人特有の奇妙な責任の取り方が・・・。」と思うしかないのだが、念の入ったことに、これに加えて「空気が読めない」とはどうしたことか。国家のトップの人間が、空気を読めない。これはもはや致命的である。
 一介の俳優だって、空気が読めないのはまず使えない、というのに。
 安部首相には、是非次の空気を読めない度チェックを受けていただきたい。  続きを読む
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2007年07月06日

ダイ・ハード4.0

ダイ・ハード4.0

 先日、ダイ・ハードを観てきました。この手のハード・アクションものでいつも群を抜く演技をするのが、B.ウィリスだ。まだ売れない頃(彼は決してアクション専門ではなかった)から演技を見ているが、それなりに目立っていた。少なくとも、A.シュワルツネッガーやS.スタローンとは、別ものである。
 今回、特に見所は・・・  続きを読む
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2007年06月22日

シェイム!

 何かこちら側の都合や指導不足、あるいは、主催していることに関連するすべての事態で、ともかく相手側に不都合が生じたとき、「シェイム」(shame)という言葉を外人はよく使う。直訳すれば、「恥」だが、意外と使う幅が広く便利な言葉である。強いて言えば、日本人の「すいません」に近いが、日本人のそれは何かにつけ出てくるだけで、心底」すいません」と思って言うことはあまりないかもしれない。しかし、こちらの「シェイム」は、すべての人に心からの快適を提供できないようなこと、それが天気だろうと何だろうと、ともかく不測、あるいは、人間の力ではどうにもならない不可抗力な事態が起きた場合に、それこそが自らの「恥」という思いで、この言葉が出てくる。ただこれには、完全なミスは含まれない。ミスのときは、はっきりと謝罪することになる。
 例えば、このところこちらの勝手な都合でblogの更新が遅れているが、これこそ「Shame」で、実は「Sorry」ではない。
 北海道苫小牧で起きた偽の牛ミンチ出荷事件。食品加工卸会社ミートホープのあの社長はなんとみっともないのだろうか。恥も外聞もないあの不遜なな態度は、「利益を追求するならば、誰でもがそうなる」と言わんばかりである。あまりの不誠実に取締役の息子に、「そういう曖昧な態度ではなく、謝罪すべきことははっきり謝罪してください」と注意される始末。見ていてこちらが「シェイム」である。
 それにしても・・・
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2007年06月01日

再統一40年のあとさき

エルサレム

 イスラエル・ヨルダンとめぐって帰ってきた。帰国して、「焼けてますね。ハワイにでも?」と聞かれ、「いいえ。ちょっとイスラエルとヨルダンに」と応えると、「えっ?!よくもまあそんな危ないところへ」と驚かれる。日本では確かに世界中のニュースが耳に入ってくるが、それはほんのごく一部で、ましてや中東のニュースなぞアメリカ寄りの実に偏った伝え方しかしていない。私は、仕事の関係で世界中をまわってきたが、イスラエルはどこの国よりも美しく、息づいていて、心に平安と安らぎをもたらしてくれる国である。おかげで2年連続して行くことになり、今回はヨルダンにまで足を伸ばし、ますますイスラエルがわかり、そして好きになった。
 
 さて、その帰国前日、エルサレムは再統一40周年でもはやその前日から賑わっていた。まずこの40という数字は、実にいわくのある数字である。
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2007年05月04日

団塊世代 老後グラフィティ

 団塊世代がリタイヤしはじめ、時は大きな世代交代へと移り変わりつつある。
 この「団塊」とはどういう意味だろうか。どうやら作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』で、鉱物学で一塊の単位で採られる鉱物を指す「ノジュール(nodule )」の訳語を、世代を表す言葉として用いた事がはじまりらしい。世代的に見ると戦後のベビーブームを指し、特に1947年から1949年(1952年、または1955年まで含まれる場合あり)生まれの人たちがそれにあたる。
 いずれも受験、出世と激しい競争を生き抜いて、ようやく還暦を迎えようとしている人たちなわけだが、まさか私までもそこに含まれるのか。もう少し詳しく言うと、次のような分け方もあるらしい。

団塊       1947年(S22) 〜 1949年(S24)生まれ
ポスト団塊    1950年(S25) 〜 1953年(S28)生まれ

 そうなると1953年3月生まれの私は、ポスト団塊か。まあどっちでもいいが、ともかくこの団塊の世代が戦後の目ざましい経済的復興の流れを引き継ぎ、日本の経済的成長を支え、多くの流行をつくりだしてきた。今やいずれも50も半ばを過ぎて多少の余裕を持って老後を迎えようとしている。しかし、老後といってもこれまでのように静かに老いていくような老後ではない、激しい競争を打ち勝って一つの時代を築いてきた世代、転んでもただでは起きない負けじ魂が団塊となって火のついたよう老後。
 今、この老人パワーが新しい老後をつくりだそうとしている。
 この団塊をの世代を当て込んだ新しい産業も次々と生み出されてくるだろう。芸術・文化分野からは・・・  続きを読む
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2007年04月21日

受胎告知

ef5d8fa0.jpg 先日、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」を観に、東京国立博物館に行ってきました。平日の午前中だと言うのに、ただこの一点の本ものを観るために長蛇の列。クリスチャンが1%にも満たないこの日本で、聖書の中身もよく知らないだろう方々がただ本物観たさに並んでいる、という実に不思議な光景でした。これが聖書を知って観たらどんなに素晴らしいか、と思います。日本人は、比較的物見遊山、本もの、行列に弱いです。

 それにしても、やはり本物の迫力はすごい!
 衣服の襞の細やかさ、驚きと喜びを超えたマリアの表情の柔らかさ、天使ガブリエルの気高さ、神々しさは、身に迫るものがあります。
 そして、マリアが手を置く書見台には、イザヤ書が開かれているそうです。
 この一枚の絵からどんな演技が切り取れるでしょうか。
 体験したい方は、ふるって稽古場にいらしてください。
 ちなみに、書見台のイザヤ書のはたしてどこが開かれていたのか。
 想像するに・・・。
 
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2007年03月30日

いのちの華やぎ

 今日、家族に朝から「お誕生日おめでとう!」と言われました。
 年はもう取りたくなくても、そう言われるとなぜか嬉しいものです。しかも、誕生日のその日というのは、自分の意志に関わらず、自分のいのちが華やごうとしている。そんな気がします。そう実感すると、やはり人のいのちの誕生というのは特別なんだナァ、とつくづく思わされます。特に、この時期桜が満開になると、ことさらいのちの華やぎを覚えます。やはり、桜には他の花々にはないいのちの華やぎがありますよね。その代わり散るのも早い。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」
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2007年03月16日

追いつめる

 芝居の稽古場というのは、ピーンと張り詰めたものがある。その雰囲気は、すべて演出家によるものだが、比較的日本では俳優を追い込んでいく厳しい稽古が多い。人は追い込まれるとモチベーションが高くなるものだが、逆に言えば追い込まれないとなかなか窮鼠猫を噛むような意外なことは起こらない。
 かくいう私も30代の頃までは、「カミソリ箕川」と悪名を取るほど、厳しい稽古をしたものだが、果たして厳しく相手を追い込むことでどれ程の効果があるのだろうか。心を科学的に分析すると、厳しさから即効性は期待できるかもしれないが、その人のもっと奥底に潜んでいるスケールとか想像を超えた意外性というのは出にくい。
 なぜなら、心には次のような法則があるからだ。  続きを読む
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2007年03月02日

アンサー効果=その絶大なる影響力=

 前回、反応と応答の違いについて書き、アクターのレッスンなどでここにポイントを集中させたところ、リアクション(反応)とアンサー(応答)では、演技の質やその展開がまるで違ってくることがよくわかりました。通常アクター向けのレッスンでは、このあたりのことについては注意はするけど、わざわざこれだけを取り上げることはありません。しかし、ドラマ・セラピーの講義には欠かせないもので、リアクションを中心に生きるのと、アンサー中心に生きるのとでは、それこそまるで人生の展開が変わってきます。これに刺激されて、ちょっとアクターのレッスンでもここにスポットを当ててみたわけです。アクターの場合、一般社会人と比べ、さすがに感覚もシャープなのでその影響力も顕著に出てくるわけです。
 ここにはどんなポイントが隠されているのでしょうか。
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2007年02月16日

反応と応答

 せりふを覚えたての若い俳優たちは、相手の演技に何の反応もせずに、必死に自らが研究しつくした演技に没頭するケースがほとんどです。そんなときに注意(これを「ダメだし」と言います)することは、自分のせりふは忘れて相手のやること、言うことにリアクションするようにということです。このリアクションとは、反応ということです。このダメだしに対して比較的感性の良い俳優は、すぐに応答してしだいに自然なリアクションをしはじめるわけです。この応答をリプライ(reply)と言います。つまり、ある刺激に対してきちんとアンサー(answer)することを応答というわけです。
 さて、人生を生きる上でも演技を成立させる上でも、この反応と応答をしっかりと使い分けていくのはけっこう大変です。  続きを読む
Posted by dt_blog3 at 23:27Comments(0)世界のアクター

2007年02月02日

パフォーマンスの目覚め

 いかにパフォーマンスを楽しむか。こう言うと、なにやら表現に関わっている人たちの世界かと思われそうだが、欧米では早くから普通にスピーチや講演をする人たちの間で、いかにパフォーマンスを展開するかということはもはやお約束になっている。日本では、講演などでは未だ講壇がドーンと構えられていて、講演者はそこから出て来ようとしない。もし、話している最中にこの講壇がスーッと動いて退場してしまったら、どうだろうか。
 それはもはや、屋台で夜鳴きそばを食べていたら、屋台だけが動いて、人だけが道の真ん中に取り残され、そばをすすっているというような図。まったく絵にもならず、所在がないだけ。実際、講壇がなくなってしまうと、なんだか足元が涼しくなって、どうして良いかわからなくなる。最近では日本でもそのようなレクチャー・パフォーマンスの必要が多々あるようで、そんな場合どのように動けば良いのか、じっと突っ立ているわけにも行かず、動いてみるわけだが、これがなかなかうまくいかない。そこでその辺の演出を企業のVIPの方々からよく頼まれることになる。
 こうした場合、外人は実にスムーズで、自由に動きながらしだいに会場と一体になっていく。講壇がない分、演者は縦横無尽に動き回れるので、話しのパフォーマンスを楽しむことができるのである。こうしたパフォーマンスでさすがと思ったのが、最近観に行った映画「不都合な真実」で、これは・・・  続きを読む
Posted by dt_blog3 at 18:27Comments(0)世界のアクター

2007年01月19日

オリジナリティーとバランス感覚

 いきなりですが、日本人はこの両方にえらく欠けていると思います。その理由は簡単です。日本人は、あまりはみ出さないので、バランスを取るほどのこともない。また、オリジナリティーに関しては、個人のIDよりも集団のIDを優先させる日本人にはムリ。むしろ、「オリジナリティーがないからバランス感覚もない」と言った方が正しいかもしれません。つまり、充分に(はみ出さんばかりに)自己を発揮するから、当然そこでバランスを取らないと転んでしまうので、バランス感覚が必要になってくるわけです。
(以下、およそアクターネタとは関係ないような文章が続きますが、ここに日本人のアクターの弱点につながっているキー・ワードが隠されています。それを探してください。)

 居酒屋に入っていくと、よく聞くのが「とりあえずビール」という言葉ですが、この「とりあえず・・・」がかなりの曲者です。最近は、実に想像を絶する突拍子もない事件が毎日のように紙面を賑わせていますが、これも真相をよく究明しないうちから「とりあえず批判」体制を取り、過剰なまでのマスコミ攻勢をかけていく、というのがあたりまえになっています。どの新聞を読んでもチャンネルをひねってもどこもほぼ右へ倣えでオリジナルの意見がまるで出てきません。それは批判の対象者や加害者なりを、ちょっとでも擁護と言うか、客観的な意見を言おうものなら総すかんにあううからです。なので、番組を進行する司会者自ら、申し合わせたように有無も言わさず「とりあえず批判」体制に持っていくので、どの番組も天気予報のように同じになってしまうのです。実は、政治不信も、理解を超えた凶悪な事件も最近に始まったことではなく・・・  続きを読む
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2007年01月05日

今年こそ!

 年賀状をもらうとただ年賀状だけでつながっている人たちの近況がわかったり、今年の抱負を見て「相変わらずだなぁ」と思う人たちもいます。この年賀状には、近況または抱負のどちらかが必ず書かれているわけですが、そのほとんどの賀状に見られるのは、「今年こそ」という言葉です。ある人は、毎年「今年こそ」とあらたまってみせるのですが、なかなかあらたまれない。きっと「今年こそ」の抱負を実践できる人たちもいるのでしょうが、たいていの場合は、正月も15日を過ぎていくとそんなあらたまった気持ちもどこかに吹っ飛んでいってしまうというのが関の山かもしれません。
 しかし、世界の民族の中でも勤勉な日本人は、転んでも倒れてもいつもいつも自分をリセットしようと必死です。新しい年のはじまりには、このリセット・ラッシュがついにピークに達します。これを強迫的と言います。強迫的神経症といえば、最近蔓延している「うつ」のことで、日本人は特にこの強迫的傾向が強いといわれています。私の周りのアクターたちも新年になると「今年こそ売れる役者に」とか「今年こそ自分に厳しく」とかご多分に漏れず、歯を食いしばって強迫的に自己をリセットをしようとしています。
 この強迫的をもっとわかりやすく言うと・・・  続きを読む
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2006年12月15日

いじめと演技のメカニズム=義理・人情からの考察=

 義理と人情という言葉は、いかにも演歌調で日本人特有の感覚ではないでしょうか。実際、人情という言葉はなかなか英語にしにくく、人情が厚いはせいぜい「warm-hearted」、逆に薄いは「cold-hearted」あたりなのでしょうが、これは日本人がいう「人情」とはまるでニュアンスが違います。また、義理にしてもjustice(道理)とかduty(義務とかがせいぜいで、これもまるでニュアンスが合いません。
 「忠ならんど欲すれば考ならず、考ならんと欲すれば忠ならず、進退ここに窮まれり」とは、平重盛の有名な言葉です。これは義理と人情のしがらみでどうにもならない心情を実に端的かつ的確に言い表わした名言と言えます。しかし・・・  続きを読む
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2006年12月01日

声の表情

 前回、声について書きました。
 さて、世の中にはさまざまな発声法があります。確かに、みなさん訓練の甲斐があってとても上手に発声をしますが、中には上手いけど「つくられた声」としか思えないような声にもよく出会います。
 これはどうしてでしょうか。  続きを読む
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2006年11月17日

 いやはや、こんなに長く風邪でダウンし、苦しんだのは恐らく初めてではないかと思います。これまでにもだいたい1年に1回ほどのペースで、風邪をひき、ダウンするということはありました。今回のように声が出なくなったこともありましたが、どれも2〜3日でなんとかなっていました。しかし、今回は一週間もズルズルと引きずり、未だにボヤボヤとしています。まぁ、それだけ年を取り、勢いと気力で治すなんていくら思っても、もはや体力がまるでついてこない。その回復力のなさに呆然と時を過ごすしかありませんでした。
 なかでも、今回は声をやられて閉口しました。そうでなくても声を使う仕事なので、どれもこれもキャンセル。しかし、どうしてもキャンセルできないものがありました。それは・・・  続きを読む
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2006年10月20日

深い気づき

 自分の変化、状況の変化にシャープに気づくこと。これは表現に関わるものにとっての必須条件です。しかし、ここまではなんとかなっても、「深い気づき」となるとなかなか難しくなります。この段階で大きくふるいにかけられ一気にライバルが脱落していきます。
 前回の記事でご紹介したセレンディピティーという能力。これは、要するに脳というのは、逆境になればなるほど力を発揮するということです。なぜなら、順境のときにはまったく気づかなかったことも、逆境になると、そこに「深い気づき」が出てくるからです。この「深い気づき」とは、いったいなんでしょうか。
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2006年10月06日

セレンディピティ=メタモしてますか?=

 いやはや、何かと気ぜわしくしているうちに、いつの間にか秋になり、更新日も過ぎていきます。ここのところ、特に仕事が忙しいというわけでもないのに、なぜこんなに気ぜわしいのか・・・。実は、「潰瘍性大腸炎」という難病になり、それとの格闘もあって何かと苦労しているわけです。
 さて、そんな状態にあってもヘコムことがないのは、一つにはクリスチャンであることと、もう一つは「セレンディピティ」にあります。
 セレンディピティとは・・・  続きを読む
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