2009年5〜6月号
2009年06月14日
宣教の現場から追放されて、すでに2ヶ月になった。
しかし、あの時に起ったことが数日前の事のように思え、また忘れられない。
今も目を閉じれば、あの子供たちの顔が目の前に並び思い起こされる。
公安が私に訊いた。
「子供達の面倒を見るふりをしながら、脱北者が生んだ子供達だけを集めている理由は何だ?」と。
居場所のないつらい境遇の孤児たちを見れば脱北者の子どもたちばかり。
これは、脱北者の子どもたちが他の子供達と比べられないほどの多くの苦しみの中にあるという良い証拠だと答えた。
「中国まで来て、子供達の面倒を見るその目的は何なのか?」と皮肉りながら訊かれた時には、言葉で表現できないほど強く、胆大な気持ちにしてくださっている主をはっきりと感じることができた。
無駄な言葉で、この場を適当にごまかす気は少しもなかった。
「この子供たちに神様の愛が分かるように助けるために来た」と答えて「福音を伝えるため」こちらへ来たと率直に話した。
そして「それは洗脳ではなく、真理の話を伝える事だ」と言いながら「公安の方々にもキリストを信じれば、あなたとあなたの家庭が救いを得、恵まれた人生を過ごすとができるということをしっかり伝えたいのだ。これは私たち宣教師たちがする事だ。」といった。
その言葉を終えるやいなや、その中にひどく意地の悪く見える者がこう言った。
「歳がいってるから多めに見てやってるってことがわからないのか!」
「一体、私があなたたちに何か間違った事をしたというのか?どうせ私たちが今まで助けていた子供たちもあなたの国の民ではないのか?
あなたたちが面倒を見られない孤児たちを食べさせ、学校に行かせてあげているということが一体何の罪になるというのか?」何度も叫びたかった衝動を耐え、心の中に押さえつけるしかなかった。
公安から追われることや罰金を払い、身のまわりの品を皆沒収される事よりも何十倍もつらかったのは、この子供たちを置いて行かなければならないということだった。続きを読む
しかし、あの時に起ったことが数日前の事のように思え、また忘れられない。
今も目を閉じれば、あの子供たちの顔が目の前に並び思い起こされる。
公安が私に訊いた。
「子供達の面倒を見るふりをしながら、脱北者が生んだ子供達だけを集めている理由は何だ?」と。
居場所のないつらい境遇の孤児たちを見れば脱北者の子どもたちばかり。
これは、脱北者の子どもたちが他の子供達と比べられないほどの多くの苦しみの中にあるという良い証拠だと答えた。
「中国まで来て、子供達の面倒を見るその目的は何なのか?」と皮肉りながら訊かれた時には、言葉で表現できないほど強く、胆大な気持ちにしてくださっている主をはっきりと感じることができた。
無駄な言葉で、この場を適当にごまかす気は少しもなかった。
「この子供たちに神様の愛が分かるように助けるために来た」と答えて「福音を伝えるため」こちらへ来たと率直に話した。
そして「それは洗脳ではなく、真理の話を伝える事だ」と言いながら「公安の方々にもキリストを信じれば、あなたとあなたの家庭が救いを得、恵まれた人生を過ごすとができるということをしっかり伝えたいのだ。これは私たち宣教師たちがする事だ。」といった。
その言葉を終えるやいなや、その中にひどく意地の悪く見える者がこう言った。
「歳がいってるから多めに見てやってるってことがわからないのか!」
「一体、私があなたたちに何か間違った事をしたというのか?どうせ私たちが今まで助けていた子供たちもあなたの国の民ではないのか?
あなたたちが面倒を見られない孤児たちを食べさせ、学校に行かせてあげているということが一体何の罪になるというのか?」何度も叫びたかった衝動を耐え、心の中に押さえつけるしかなかった。
公安から追われることや罰金を払い、身のまわりの品を皆沒収される事よりも何十倍もつらかったのは、この子供たちを置いて行かなければならないということだった。続きを読む
durihanamission at 12:00
2009年06月09日
妻が北朝鮮から脱出した当時、彼女の母親は食糧難で飢えに苦しんで亡くなり、長女だった妻の金スニは、子供と夫も飢え死でなくしました。
また、妻も栄養失調で右目を失明するというつらい環境の中で、一人しかない父親を生かすため、大変なことを承知で1998年 8月に中国へ脱出しました。
その後、しばらく彼女とは友達の紹介による縁で一緒に住むようになりました。
中国で、私たち夫婦はそれなりに幸せに暮しました。
しかし、中国では身分がない脱北者である妻が公安に密告され、強制送還されるという恐ろしい想いで、いつも心細い一日一日を暮さなければなりませんでした。
そんなある日、妻が妊娠したという非常に嬉しい知らせをききました。
しかし、妊娠8ヶ月頃に不幸が迫って来ました。
誰かが、警察に妻のことを脱北者だと届けて、ついに公安につかまってしまったのです。
公安に駆け付けてみると、手や足をばたつかせながら、見逃してくれと言って哀願していました。幸い、誰かを通じて中国のお金で 1,000元を渡し、そこから釈放されました。
2000年 2月に、ようやく可愛らしい子供が生まれました。
子供の名前は、金ソンリョン…母親と共に名前をつけてあげました。
難しい状況の中でしたが、息子が成長する姿を見ながら力を得、熱心に暮らしていました。
一方では、常に心配でいらいらする不安な心を抱いて一日一日を暮らしていました。それでも、今日も無事に過ごせたな…と感謝と幸せを感じることができました。
こうしていつも不安と感謝と幸せが同居している生活の中で、2003年 11月に私が朝早く出かけた時に妻は 4歳が見る目の前で手錠をかけられ、公安に連れて行かれてしまいました。
あまりにも唐突で起きたことだったので、私は目の前がまっ暗になりました。
お母さんはどこにいったのと泣きながら聞く子供を見ながら、何もできない自分を恨み、心の中で止めどもなく涙を流しました。
やっと寝かしつけても、また泣きながらどうすれば子供が母親を救えるかと考えながら、母親が帰って来ることだけを待ちました。
次の日の朝、幼い子供は泣きながら起きて、母親を探しに行こうと服も着ないで外にを出ようと思いました。
子供を抱いて公安局に行きました。
事情により、50メートル位離れたところから母親を見ることができました。
鉄格子の中に閉じこめられている姿を見て子供は、母親を呼びながら泣き始め、妻は私に愛している、いつか必ずまた会おうと… 待っていてと言いながら涙を流しました。
強制送還される前、急いでお金を借り、中国のお金で 8,000元を借り、公安局に駆け付けました。
しかし、もう北送された後でした。
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また、妻も栄養失調で右目を失明するというつらい環境の中で、一人しかない父親を生かすため、大変なことを承知で1998年 8月に中国へ脱出しました。
その後、しばらく彼女とは友達の紹介による縁で一緒に住むようになりました。
中国で、私たち夫婦はそれなりに幸せに暮しました。
しかし、中国では身分がない脱北者である妻が公安に密告され、強制送還されるという恐ろしい想いで、いつも心細い一日一日を暮さなければなりませんでした。
そんなある日、妻が妊娠したという非常に嬉しい知らせをききました。
しかし、妊娠8ヶ月頃に不幸が迫って来ました。
誰かが、警察に妻のことを脱北者だと届けて、ついに公安につかまってしまったのです。
公安に駆け付けてみると、手や足をばたつかせながら、見逃してくれと言って哀願していました。幸い、誰かを通じて中国のお金で 1,000元を渡し、そこから釈放されました。
2000年 2月に、ようやく可愛らしい子供が生まれました。
子供の名前は、金ソンリョン…母親と共に名前をつけてあげました。
難しい状況の中でしたが、息子が成長する姿を見ながら力を得、熱心に暮らしていました。
一方では、常に心配でいらいらする不安な心を抱いて一日一日を暮らしていました。それでも、今日も無事に過ごせたな…と感謝と幸せを感じることができました。
こうしていつも不安と感謝と幸せが同居している生活の中で、2003年 11月に私が朝早く出かけた時に妻は 4歳が見る目の前で手錠をかけられ、公安に連れて行かれてしまいました。
あまりにも唐突で起きたことだったので、私は目の前がまっ暗になりました。
お母さんはどこにいったのと泣きながら聞く子供を見ながら、何もできない自分を恨み、心の中で止めどもなく涙を流しました。
やっと寝かしつけても、また泣きながらどうすれば子供が母親を救えるかと考えながら、母親が帰って来ることだけを待ちました。
次の日の朝、幼い子供は泣きながら起きて、母親を探しに行こうと服も着ないで外にを出ようと思いました。
子供を抱いて公安局に行きました。
事情により、50メートル位離れたところから母親を見ることができました。
鉄格子の中に閉じこめられている姿を見て子供は、母親を呼びながら泣き始め、妻は私に愛している、いつか必ずまた会おうと… 待っていてと言いながら涙を流しました。
強制送還される前、急いでお金を借り、中国のお金で 8,000元を借り、公安局に駆け付けました。
しかし、もう北送された後でした。
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durihanamission at 16:52
2009年06月07日
ろばは自分のえさ桶を知り、牛は自分の牛小屋を知っています。
人が獣でない限り、自分の故郷、祖国を知り、民族がわかります。
今日、多くの脱北者たちが韓国に定着しています。
そして、今では韓国だけではなく、アメリカ、カナダ、イギリスにまで定着をしています。
私たちは互い同志がわかるように、まことに言葉で表現できない程のつらい生活をして来ました。
「苦労のあとの楽」という昔の諺のように、やっと自由が与えられ、衣食住を得ることができる地に住めるようになったのです。
私たちは、これ以上、樹皮をはがすとか草を食べたりすることで、命を長らえるために悶えなくてもいいのです。
外を歩けば、派手な明かりの食堂とあちこちに大きいマーケットが整然と並び、お金だけあれば、どうやっても暮すことができます。
お金も政府からもらえ、また個人で仕事して儲ければ、食べ物や衣服を充分に買うこともできます。
ある人々は住むのが大変だと言いますが、そんな人々に聞きたいです。
北朝鮮より住みにくいのか?と。
人間の目と体は、良いことだけを捜して、それを手に入れることを願います。
収入以上の支出をし、後に買えばいいものさえも、今日、必ず買ったりして、生活が苦しいと言うのです。
私たちは、今、よく暮らせているというのに。
しかし、諺に「井の中の蛙」とあるように、脱北者たちの間から北朝鮮に置いてきた親族やその地を忘れようとする人々が現われ始めました。
一人でいい所でおいしい物を食べ、今いる所で安住していく中で苦しかった北朝鮮の生活を考えるのが嫌なのです。
しかし、自分だけのために生きて行き、過去を忘れ、現在をそっぽを向き、未来を見ないとしたら、もう人間らしく生きて行くことを拒否することと同じです。
昔、独立を叫んだ時代は過ぎ去りました。
あの当時は、朝鮮人民なら国内にいる者も国外にいた者も皆が独立を切望して独立のために暮らしました。
しかし、今日では日帝のように外勢が入って来たのではないです。
同じ民族の人々が、同族を染躪する時代になりました。
独立のために自分の身を投げ打つ独立闘士たちが泣きわめく事です。
三千里・八道江山が二つに分かれ、一方は死の洞窟になり、他の一方は自由の国になりました。
世の中を見まわせば、単一民族が国を成しているのは、そう多くない。
多くの民族が集まって国を建て、お互いが助け合い、うまく生きて行こうとしているのに、我が民族は単一民族にもかかわらず5000年の間に1000回にも及ぶ外勢の侵略をともに勝ち抜いてきたにもかかわらず、今日、二つに分けられていることを辛くも思わず、統一できないことを悲しみもしていません。
北朝鮮に生まれ、今も世の中のことが分からず、北朝鮮でそのまま苦痛を受けている人をとがめることもありません。
韓国に生まれて自由の中で暮らしながら、自由を悟ることができず、咎めも出来ないのです。
自分の都合で、昨日の苦難をともにした友を忘れる人は、これ以上人間ではありません。
今日、私はいい家に暮し、一日三食を食べながら働き、勉強してわずか5年になりますが、10年前の生活を忘れて、ただ自分の安全だけのために勉強してお金を儲ける人のことを、昔風に言えば、「民族を売ってぜいたくな暮らしをする者」です。
人ごとに生活する理由と目的があります。
今日の世の中は、それがお金と名誉であり、豊かに暮らすことだと人々を欺き、お金の奴隷を作ってしまいました。
目を凝らして捜してみても、この意味を解く若者達に会うことができず、耳を傾けても正しいことを言う人たちの声を聞くことができません。
皆が一つになり、ともに自分のお腹と財布だけのために、年中同じ人生をはかなく送っています。
人には道徳的義務というのがあります。
文字のどおり道徳的‘義務’です。
持った人には、ない人のための道徳的義務が、自由者には非自由者のための道徳的義務があります。
こうして見ると、韓国と多くの先進国に定着して暮している脱北者たちには、一番多くの道徳的義務があるということことです。
何故ならば、私たちは貧しさと抑圧を経験した人々であり、自由を呼び、享受する人々だからです。
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人が獣でない限り、自分の故郷、祖国を知り、民族がわかります。
今日、多くの脱北者たちが韓国に定着しています。
そして、今では韓国だけではなく、アメリカ、カナダ、イギリスにまで定着をしています。
私たちは互い同志がわかるように、まことに言葉で表現できない程のつらい生活をして来ました。
「苦労のあとの楽」という昔の諺のように、やっと自由が与えられ、衣食住を得ることができる地に住めるようになったのです。
私たちは、これ以上、樹皮をはがすとか草を食べたりすることで、命を長らえるために悶えなくてもいいのです。
外を歩けば、派手な明かりの食堂とあちこちに大きいマーケットが整然と並び、お金だけあれば、どうやっても暮すことができます。
お金も政府からもらえ、また個人で仕事して儲ければ、食べ物や衣服を充分に買うこともできます。
ある人々は住むのが大変だと言いますが、そんな人々に聞きたいです。
北朝鮮より住みにくいのか?と。
人間の目と体は、良いことだけを捜して、それを手に入れることを願います。
収入以上の支出をし、後に買えばいいものさえも、今日、必ず買ったりして、生活が苦しいと言うのです。
私たちは、今、よく暮らせているというのに。
しかし、諺に「井の中の蛙」とあるように、脱北者たちの間から北朝鮮に置いてきた親族やその地を忘れようとする人々が現われ始めました。
一人でいい所でおいしい物を食べ、今いる所で安住していく中で苦しかった北朝鮮の生活を考えるのが嫌なのです。
しかし、自分だけのために生きて行き、過去を忘れ、現在をそっぽを向き、未来を見ないとしたら、もう人間らしく生きて行くことを拒否することと同じです。
昔、独立を叫んだ時代は過ぎ去りました。
あの当時は、朝鮮人民なら国内にいる者も国外にいた者も皆が独立を切望して独立のために暮らしました。
しかし、今日では日帝のように外勢が入って来たのではないです。
同じ民族の人々が、同族を染躪する時代になりました。
独立のために自分の身を投げ打つ独立闘士たちが泣きわめく事です。
三千里・八道江山が二つに分かれ、一方は死の洞窟になり、他の一方は自由の国になりました。
世の中を見まわせば、単一民族が国を成しているのは、そう多くない。
多くの民族が集まって国を建て、お互いが助け合い、うまく生きて行こうとしているのに、我が民族は単一民族にもかかわらず5000年の間に1000回にも及ぶ外勢の侵略をともに勝ち抜いてきたにもかかわらず、今日、二つに分けられていることを辛くも思わず、統一できないことを悲しみもしていません。
北朝鮮に生まれ、今も世の中のことが分からず、北朝鮮でそのまま苦痛を受けている人をとがめることもありません。
韓国に生まれて自由の中で暮らしながら、自由を悟ることができず、咎めも出来ないのです。
自分の都合で、昨日の苦難をともにした友を忘れる人は、これ以上人間ではありません。
今日、私はいい家に暮し、一日三食を食べながら働き、勉強してわずか5年になりますが、10年前の生活を忘れて、ただ自分の安全だけのために勉強してお金を儲ける人のことを、昔風に言えば、「民族を売ってぜいたくな暮らしをする者」です。
人ごとに生活する理由と目的があります。
今日の世の中は、それがお金と名誉であり、豊かに暮らすことだと人々を欺き、お金の奴隷を作ってしまいました。
目を凝らして捜してみても、この意味を解く若者達に会うことができず、耳を傾けても正しいことを言う人たちの声を聞くことができません。
皆が一つになり、ともに自分のお腹と財布だけのために、年中同じ人生をはかなく送っています。
人には道徳的義務というのがあります。
文字のどおり道徳的‘義務’です。
持った人には、ない人のための道徳的義務が、自由者には非自由者のための道徳的義務があります。
こうして見ると、韓国と多くの先進国に定着して暮している脱北者たちには、一番多くの道徳的義務があるということことです。
何故ならば、私たちは貧しさと抑圧を経験した人々であり、自由を呼び、享受する人々だからです。
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durihanamission at 14:45
生きていくべきか・・死ぬべきか・・・
私は咸境道 00時 00区域で生まれました。
私には弟と妹がいましたが、食べ物の未配給により亡くなりました。
北朝鮮で大変な苦難の行軍を越したころから、私たちの生活はそう大変ではありませんでした。
お母さんが市場で商売をしていたので、他人よりは少しいい生活をしていました。
そうして、2000年に父が病気になり、寝込むようになりました。
普段お酒が好きだったせいで肝臓の病気だという診断を受けました。
母は、どんな手段で使っても父を生かそうという思いで、財産と家をすべて売りました。
しかし、7ヶ月間病気で苦しんでいた父は、働いていた途中、仕事の現場で2000年8月に亡くなりました。
残された私たちは財産も家も亡くし、母方の家でお世話になることにしました。
そうして生活するうちに、私は中国に行けば、お金をたくさん儲けられるという話に心動かし、中国に脱北することになりました。
しかし、思った以上に豆満江を越えるのが大変でした。
2005年8月、梅雨の時期だったので豆満江を超えるのは難しかったです。
何も分からず豆満江を越えましたが、今思うと、お金をもらって売られたのでした。
「また家に戻りたい」という私を中国の案内人は、「お前はもう中国の国境を越えたんだから、また家に戻るなんて無事では済まないぞ」と脅迫をし、仕方なく従うしかなかったのです。
中国での生活は、北朝鮮の生活より 何倍も大変でした。
“主人”だという人は、本当に頭で計算できない人で、そんな中、“舅”だという人は、息子のそういう弱点を利用して私を求めてきました。
“姑”という人は、私が舅に色目を使ったといって、私をいたぶりました。
主人も私の言葉は信じないで、姑の言葉だけ聞いて、私のことをめちゃくちゃに殴りました。
死をも考えました。
しかし、そのたびごとに、4年前の友逹の家に遊びに行くと言ったまま北を出てきたこの娘を、今日は帰ってくるかと思いながら待っている母親のことを考えて、ただ耐えました。
生きていくべきか死ぬべきか、私もわからなくなりました。
昨日は、私の家から少し離れた村から同じ北朝鮮女性一人が逃亡し、家まで私を尋ねて来たら差し出せといたぶられました。
もし、その女性を捜す事ができなければ、私を公安に告発すると言っています。
一日一日が、とても恐ろしいです。
本当にこうしている中でも、北朝鮮に移送されようとしていると考えると恐ろしいのです。
逃亡をしようとしてもお金もなく、どうしたらいいのか分かりません。
助けてください。お願いします。助けてください。
私は咸境道 00時 00区域で生まれました。
私には弟と妹がいましたが、食べ物の未配給により亡くなりました。
北朝鮮で大変な苦難の行軍を越したころから、私たちの生活はそう大変ではありませんでした。
お母さんが市場で商売をしていたので、他人よりは少しいい生活をしていました。
そうして、2000年に父が病気になり、寝込むようになりました。
普段お酒が好きだったせいで肝臓の病気だという診断を受けました。
母は、どんな手段で使っても父を生かそうという思いで、財産と家をすべて売りました。
しかし、7ヶ月間病気で苦しんでいた父は、働いていた途中、仕事の現場で2000年8月に亡くなりました。
残された私たちは財産も家も亡くし、母方の家でお世話になることにしました。
そうして生活するうちに、私は中国に行けば、お金をたくさん儲けられるという話に心動かし、中国に脱北することになりました。
しかし、思った以上に豆満江を越えるのが大変でした。
2005年8月、梅雨の時期だったので豆満江を超えるのは難しかったです。
何も分からず豆満江を越えましたが、今思うと、お金をもらって売られたのでした。
「また家に戻りたい」という私を中国の案内人は、「お前はもう中国の国境を越えたんだから、また家に戻るなんて無事では済まないぞ」と脅迫をし、仕方なく従うしかなかったのです。
中国での生活は、北朝鮮の生活より 何倍も大変でした。
“主人”だという人は、本当に頭で計算できない人で、そんな中、“舅”だという人は、息子のそういう弱点を利用して私を求めてきました。
“姑”という人は、私が舅に色目を使ったといって、私をいたぶりました。
主人も私の言葉は信じないで、姑の言葉だけ聞いて、私のことをめちゃくちゃに殴りました。
死をも考えました。
しかし、そのたびごとに、4年前の友逹の家に遊びに行くと言ったまま北を出てきたこの娘を、今日は帰ってくるかと思いながら待っている母親のことを考えて、ただ耐えました。
生きていくべきか死ぬべきか、私もわからなくなりました。
昨日は、私の家から少し離れた村から同じ北朝鮮女性一人が逃亡し、家まで私を尋ねて来たら差し出せといたぶられました。
もし、その女性を捜す事ができなければ、私を公安に告発すると言っています。
一日一日が、とても恐ろしいです。
本当にこうしている中でも、北朝鮮に移送されようとしていると考えると恐ろしいのです。
逃亡をしようとしてもお金もなく、どうしたらいいのか分かりません。
助けてください。お願いします。助けてください。
durihanamission at 14:26
2009年06月06日
金ウンキョン (2008年入国・総神大神学科1年生)
私が、病院にいた時の事です。
誰も尋ねて来る人がいない病院のベッドの上で、看護もなく、大手術を受けたあとに一人ですべてをしなくてはならない私をとても哀れだと思いました。
他の患者たちは一日に何回もお見舞に来る人がいるというのに、私は一人。
面会に来る人々をうらやましく眺めていると、孤独とさびしさ、また苦痛と痛みの苦さを噛みながら、これからは強く暮さ生きていかねばという“一人立ち”を胸に思い、自分を慰めながら、強くなろうと努力しました。
実は、誰かに連絡して助てもらいかったし、慰めてもほしかったのです。
しかし、他の人の負担になるのが嫌だったし、また連絡すれば喜ばれないようだし、一方では他の人に弱って、あまりにも悽惨な自分の姿を見せたくなったのです。
動けなくても、出来る限りすべてのものを一人でやろうと努力しました。
夜がとても長く退屈で、一日が 1か月
のように感じました。
病院での時間は本当にゆっくり流れていきました。
こうして、なんとか10日という時間が流れました。
退屈な時間を無駄に過ごすよりは、インターネット検索やゲームなどをしながら時間を過ごそう。病院にいる間に休息部屋に行き、インターネット接続をして MSN メッセンジャーをつけましたら、誰かが私にチャットの申し出をしてきました。
‘ もう私のことなんて忘れちゃったかな〜?’と思っていたチョン牧師が私の名前を呼ぶました。
“ウンキョン!ウンキョンだよね?”
実は、チョン様が私の名前を憶えおられるとは思いもよらなかったのです。
多くの脱北者たちを韓国まで連れて来られていた話は聞いていましたが、その中に私の名前までは記憶しているはずないと思っていたのです。
中国を去る前にメッセンジャーで何度かチャットを交わしてから、すでに6ヶ月という時間が経っていたのでした。
私は非常に嬉しく、また一方では非常に申し訳ないと思っていましたので、何と申し上げていいのか思い浮かびませんでした。
韓国に到着してからも、感謝のあいさつを一回も申し上げに行く事ができなかったのです。
もちろん、ハナ院修了後、難しい手術を受けたにもかかわらず、電話する機会はいくらでもあったというのに。
牧師に感謝のあいさつをしたかったけれど、どうしてか電話することができなかったのです。
あの時、体の調子が良くないということもありましたが、訳もなく電話すれば心配をかけるようでもあり、またいろいろな理由と言い訳のために電話ができませんでした。
とても申し訳なくて何とも言葉が捜せないでいるというのに、牧師が今どこか?と訊いてきました。
私が、今、病院で癌の手術を受けて入院治療中だと言うと、なんで電話してこなかったのかと私を咎めました。
とても申し訳なくて何とも言葉が捜せないでいるというのに、牧師が今どこか?と訊いてきました。
私が、今、病院で癌の手術を受けて入院治療中だと言うと、なんで電話してこなかったのかと私を咎めました。
手術を受けて苦しかった時、誰とも話さずに一人でさびしく過ごした病院生活、私には面会に来る人も、看病してくれる人もいないと思って、自らを慰め、夜になると毎晩苦痛とともに押し寄せる悲しみと、家族たちを思うと堪えられないほとばしる悲しさのため布団の中でたくさんも泣いていました。
それらが雪とけるようになくなっていきました。
本当に義理もなく、初心者的な礼儀さえもない私を尋ねて来てくれて、親切にしてくださった牧師と教会の家族の方々に感謝しています。
しばらく話をしていると牧師が、今一番したいことは何だ?と聞いてきました。
その時、母にとても会いたかったし、家族たちがとても懐かしかったのです。
それで、「是非お母さんの声だけでも、ちょっとだけ聞けたらいいな。」といいました。
牧師が「分かった」といいながら、「北朝鮮の家と連絡を取って見る」といいました。
私はあまり期待をしないでいました。
そんな話だけでもありがたいと思って、中国にいれば分からなくもないけど、ここから北朝鮮にいる人と連絡は無理だと思っていたのです。続きを読む
私が、病院にいた時の事です。
誰も尋ねて来る人がいない病院のベッドの上で、看護もなく、大手術を受けたあとに一人ですべてをしなくてはならない私をとても哀れだと思いました。
他の患者たちは一日に何回もお見舞に来る人がいるというのに、私は一人。
面会に来る人々をうらやましく眺めていると、孤独とさびしさ、また苦痛と痛みの苦さを噛みながら、これからは強く暮さ生きていかねばという“一人立ち”を胸に思い、自分を慰めながら、強くなろうと努力しました。
実は、誰かに連絡して助てもらいかったし、慰めてもほしかったのです。
しかし、他の人の負担になるのが嫌だったし、また連絡すれば喜ばれないようだし、一方では他の人に弱って、あまりにも悽惨な自分の姿を見せたくなったのです。
動けなくても、出来る限りすべてのものを一人でやろうと努力しました。
夜がとても長く退屈で、一日が 1か月
のように感じました。
病院での時間は本当にゆっくり流れていきました。
こうして、なんとか10日という時間が流れました。
退屈な時間を無駄に過ごすよりは、インターネット検索やゲームなどをしながら時間を過ごそう。病院にいる間に休息部屋に行き、インターネット接続をして MSN メッセンジャーをつけましたら、誰かが私にチャットの申し出をしてきました。
‘ もう私のことなんて忘れちゃったかな〜?’と思っていたチョン牧師が私の名前を呼ぶました。
“ウンキョン!ウンキョンだよね?”
実は、チョン様が私の名前を憶えおられるとは思いもよらなかったのです。
多くの脱北者たちを韓国まで連れて来られていた話は聞いていましたが、その中に私の名前までは記憶しているはずないと思っていたのです。
中国を去る前にメッセンジャーで何度かチャットを交わしてから、すでに6ヶ月という時間が経っていたのでした。
私は非常に嬉しく、また一方では非常に申し訳ないと思っていましたので、何と申し上げていいのか思い浮かびませんでした。
韓国に到着してからも、感謝のあいさつを一回も申し上げに行く事ができなかったのです。
もちろん、ハナ院修了後、難しい手術を受けたにもかかわらず、電話する機会はいくらでもあったというのに。
牧師に感謝のあいさつをしたかったけれど、どうしてか電話することができなかったのです。
あの時、体の調子が良くないということもありましたが、訳もなく電話すれば心配をかけるようでもあり、またいろいろな理由と言い訳のために電話ができませんでした。
とても申し訳なくて何とも言葉が捜せないでいるというのに、牧師が今どこか?と訊いてきました。
私が、今、病院で癌の手術を受けて入院治療中だと言うと、なんで電話してこなかったのかと私を咎めました。
とても申し訳なくて何とも言葉が捜せないでいるというのに、牧師が今どこか?と訊いてきました。
私が、今、病院で癌の手術を受けて入院治療中だと言うと、なんで電話してこなかったのかと私を咎めました。
手術を受けて苦しかった時、誰とも話さずに一人でさびしく過ごした病院生活、私には面会に来る人も、看病してくれる人もいないと思って、自らを慰め、夜になると毎晩苦痛とともに押し寄せる悲しみと、家族たちを思うと堪えられないほとばしる悲しさのため布団の中でたくさんも泣いていました。
それらが雪とけるようになくなっていきました。
本当に義理もなく、初心者的な礼儀さえもない私を尋ねて来てくれて、親切にしてくださった牧師と教会の家族の方々に感謝しています。
しばらく話をしていると牧師が、今一番したいことは何だ?と聞いてきました。
その時、母にとても会いたかったし、家族たちがとても懐かしかったのです。
それで、「是非お母さんの声だけでも、ちょっとだけ聞けたらいいな。」といいました。
牧師が「分かった」といいながら、「北朝鮮の家と連絡を取って見る」といいました。
私はあまり期待をしないでいました。
そんな話だけでもありがたいと思って、中国にいれば分からなくもないけど、ここから北朝鮮にいる人と連絡は無理だと思っていたのです。続きを読む
durihanamission at 17:58
ヨム・グァンジン(2001年入国)
今から8年前、私たちはチョン牧師を通じて3か国を経て、韓国の地に足を踏み入れた。
あの時、牧師は私に他の話はせず、ここで一生懸命住み、教会によく通いなさいと言った。
私は「はい…。」 と力なく返事をしたが、そのように住めなかった。
感謝のあいさつさえまともにできなかった。
ときどき連絡が来たが、教会に出席したのは多分十本の指で数えられるほど。
自分一人の力で、何でもできるように思った。
お金を儲けるためにどんな仕事でも選ばずにした。
ドュリハナ教会で信仰生活を送りながら、神様の僕になると訓練を受け、いつのまにか 1年 5ヶ月になる。
その頃、私の中には汚れた世の中の汚いほこりだけだった。
多くの苦難のあげく、それでも神様が愛してくださり、また私を呼んでくださったのだ。
今回、美しく新しい教会に引っ越した。
小さい事務室を経て、どんどん拡張されてきたドュリハナを見てみれば、本当に驚かざるを得ない。
本当に、神様が生きていらっしゃることを感じざるを得ない。
奇蹟だ。
私は、今回の新しい教会工事を一緒にしながら多くのことを学んだ。
古い建物で湿気による悪臭が出て 1階と2階、3階をすべてを崩し、また工事をしなければならない状況の中に唖然とした。
人力も足りないようだし・・。
青年たちの何人かで仕事を引き受けて、ほこりを払い落とし、ごみを出して石膏ボードを運んだ。
セメントと砂などを運びながらの大変な工事だった。
切って、打ちこんで、つかんで、掃除する日々が繰り返され、帰ってアイロンをかける力まで抜けて、手が震えるほどだった。
資材が来れば、一日中、その資材だけを3階まで背負って運ばなければならない。
それのみか資材を積んだ台車が階段でカーブを回ることができなければ全身を九十度に横たえ、それを持ってまた上がらなければならない。
私がどうしてこんな大変な事をしなければならないか?と考えてしまう試練にも遭った。
このように働いていることを人々は認めてくれるのか?
神様が認めてくれるのか?などと思いながら・・・。
しかし、神様が私の心に喜びをくださった。
肉体的には大変だったが、日増しに美しい教会の姿として作られて行くのを見た時、その喜びは到底言葉で言えなかった。
私の教会、私の福音の席・・・
私が汗を流しところで信仰生活を遅れると思ったら、力が出て、神様に感謝した。
「私を新しい教会の工事に
お使いくださって、ありがとうございます。」と…。
いよいよ新しい教会と福音の席が誕生した。
脱北者たちの憩い場である建物には9個の部屋がある。
そのうちの一つは私の部屋だ。
世の中で一番美しい教会。
今回、工事を買って出てくださった中央教会の執事のおかげだ。
こぎれいながらも丈夫で、精巧によく作られて、非常に感謝している。
ドゥリハナが歩いて来た道を見れば、感動と涙の道だ。
これからも、より一層の神様の驚くべきな奇蹟とみわざの
今から8年前、私たちはチョン牧師を通じて3か国を経て、韓国の地に足を踏み入れた。
あの時、牧師は私に他の話はせず、ここで一生懸命住み、教会によく通いなさいと言った。
私は「はい…。」 と力なく返事をしたが、そのように住めなかった。
感謝のあいさつさえまともにできなかった。
ときどき連絡が来たが、教会に出席したのは多分十本の指で数えられるほど。
自分一人の力で、何でもできるように思った。
お金を儲けるためにどんな仕事でも選ばずにした。
ドュリハナ教会で信仰生活を送りながら、神様の僕になると訓練を受け、いつのまにか 1年 5ヶ月になる。
その頃、私の中には汚れた世の中の汚いほこりだけだった。
多くの苦難のあげく、それでも神様が愛してくださり、また私を呼んでくださったのだ。
今回、美しく新しい教会に引っ越した。
小さい事務室を経て、どんどん拡張されてきたドュリハナを見てみれば、本当に驚かざるを得ない。
本当に、神様が生きていらっしゃることを感じざるを得ない。
奇蹟だ。
私は、今回の新しい教会工事を一緒にしながら多くのことを学んだ。
古い建物で湿気による悪臭が出て 1階と2階、3階をすべてを崩し、また工事をしなければならない状況の中に唖然とした。
人力も足りないようだし・・。
青年たちの何人かで仕事を引き受けて、ほこりを払い落とし、ごみを出して石膏ボードを運んだ。
セメントと砂などを運びながらの大変な工事だった。
切って、打ちこんで、つかんで、掃除する日々が繰り返され、帰ってアイロンをかける力まで抜けて、手が震えるほどだった。
資材が来れば、一日中、その資材だけを3階まで背負って運ばなければならない。
それのみか資材を積んだ台車が階段でカーブを回ることができなければ全身を九十度に横たえ、それを持ってまた上がらなければならない。
私がどうしてこんな大変な事をしなければならないか?と考えてしまう試練にも遭った。
このように働いていることを人々は認めてくれるのか?
神様が認めてくれるのか?などと思いながら・・・。
しかし、神様が私の心に喜びをくださった。
肉体的には大変だったが、日増しに美しい教会の姿として作られて行くのを見た時、その喜びは到底言葉で言えなかった。
私の教会、私の福音の席・・・
私が汗を流しところで信仰生活を遅れると思ったら、力が出て、神様に感謝した。
「私を新しい教会の工事に
お使いくださって、ありがとうございます。」と…。
いよいよ新しい教会と福音の席が誕生した。
脱北者たちの憩い場である建物には9個の部屋がある。
そのうちの一つは私の部屋だ。
世の中で一番美しい教会。
今回、工事を買って出てくださった中央教会の執事のおかげだ。
こぎれいながらも丈夫で、精巧によく作られて、非常に感謝している。
ドゥリハナが歩いて来た道を見れば、感動と涙の道だ。
これからも、より一層の神様の驚くべきな奇蹟とみわざの
durihanamission at 15:33
死なずにしっかり生きなさい!
ジュン山に到着し、私たちの入所後に、護送した先生が帰り際、私たちに“死なずにしっかり生きなさい””と手をしっかり取って涙ぐみながら言った。
私は、その言葉がどういう意味なのか監獄に入ってから分かるようになった。
一緒に過ごし、慣れ親しんだ関係のせいか、別れ際には私たちもたくさん泣いた。
ここで死んでしまって、家へ戻ることができなければ、可哀相な私の両親と二度と会えないかも知れないと思うと涙が取り留めもなく流れた。
本所では、また服を脱いでポンプ行動(立ち上がったり座ったという運動)をさせられて、持って来た荷物検査をされ、お金や持って入れない物はすべて回収された。
私たちは3科に配置されたが、そこは女性監獄だった。
3科に派言って行った瞬間、私がここで生きていけるかどうかと考えたらぞっとした。
そこにすでにいた女性囚人たちは、みんなぼろぼろの服を着、顔は凍り切れたせいで真っ黒くなり、男か女かも見分けることができなかった。
顔には、肉がついておらず、骨ばり、目だけがギラギラしていた。
私はあまりにも恐ろしくて身の毛が立ち、がたがた震えた。
皆が生きる屍(しかばね)たちだった。
3科は、全部で11班であったが、3班は一番大変な稲作をしなければならなかった。
残りの3班は、皆が越境罪の囚人たちだった。
まず入所し、新しい班に入って行くのだが、1ヶ月間その中で守らなければならない項目や秩序をなどを学ぶ。
そして新しく入った班では、毎日総和に参加する前に、何の罪を犯したのか率直に言い、反省しろという。
そこでは寛大に容赦してくれるというのだ。
それを真に受けた何人かの女子たちが、総和に入る前に、犯した罪を率直に言って容赦を受けようと思ったが、むしろ刑罰が加えられて教化所に行った。
一般の囚人たちは他のたやすい事をいうことができたが、私たちみたいな者たちは大変な仕事ばかりしなければならなかった。
ありとあらゆる罪を犯して入ってきた人たちがいた。
売淫、ごろつき、詐欺等ない罪がなかった。
私はそんな罪があるということを初めて知った。
また、ある女性は男のように見えたが、男に装って結婚を三度もし、詐欺罪で入って来た人もいた。
150人ほどいたが、 70パーセントが越境罪に入って来た女性たちだった。
一般の囚人たちは、ほとんど再犯者たちだったが、売春して入って来た子たちが多かった。
そんな女性たちは、主に親がおらず、さまよい歩いてからどこかの旅館に名前を書いておき、売春する中で取り締まりに遭い、2〜3度入って来た女性たちが多かった。
私の班にいたあるおばさんは、北朝鮮の道案内者にだまされて豆満江を一人で渡り、捕まえられた人だった。
そのおばさんは、中国で一回も食べ物にあり付けないでつかまって悔しいと鬱憤をぶちまけてた。
ある子たちは豆満江を渡り、延吉に入って来た途中、車の中や道を歩いている途中に検問にあい、つかまって来た人たちだった。
冬には主に肥料生産をして、翌年の農業のためのお金を作るらねばならなかった。
凍りついた氷を割って溶かした土を竹かごに入れ、背負って運ばねばならなかったが、その土が臭い、来ていた服までにも染み込んだ。
しかし、その汚れた服をそのまま着て寝なければならず、翌日も、そのまま仕事をしなければならない。
ある子たちは、寒さゆえに洗顔せずにいたら、顔に垢がべたべた付き、よく熟したじゃがいものように顔の皮が剥けていた。
畑で仕事をする時には畑の4つの角に旗をさしておいて、自動銃を担いだ軍人たちが見張っている。
その旗の外に出ようものなら、逃げるとされ、どれだけ銃で撃たれるかわからない。
トイレもぼろで小さく選り分けてあるだけで、そこで見えるようにする。
とうもろこしを蒸したものをご飯だと与えられていたが、囚人となった私たちは海水を沸かした塩のつゆをご飯にかけて食べていた。
食べ終わって、体の方向を変えればもうすぐにお腹は空いている。
食事する時も見張られ、ご飯に湯をかけないでそのまま食べてしまうと、無条件にそのご飯を取りあげられ、汁椀に入れられる。そのまま食べれば虚弱になるというのだ。
そうしたとしても虚弱になっていった人たちは、1日にも2〜3人はいた。
私が出るまでの毎日、監獄に入って来る人たちは10人、死んで出る子たちが一日に2〜3人はいた。そこで死ねば、3科で少し下った所に花園があるので、そこに埋めてしまう。碑石もない。
死ねば、汚い布で死骸をくるくる巻き、牛車に積んで行き、窪みを掘り、そこに適当に置く。
背がちょっと高い人が死ねば、窪みが小さくて入りきれず、死骸を窪みに投げこんでシャベルで足を折って埋めてしまう。
そこでどれだけ多くの人々が死んで行くのかといえば、1日にも10人程はいる。
11号鍛錬所には男性科が五つ、女性科が6つだったが、死んだ人々はすべてその花園に埋めてしまう。
やや小さいペニシリン注射器に名前を書き、死骸上に投げてそのまま埋めてしまう。
そのように死ねば、家族たちに知らせてくれない。
私がいた班も、4人いた。
死んだ人を横において一緒に夜を明かし、翌日、埋めに死骸を運ぶ。
私は死んだ人をあの時に初めに見たのだ。
二人は同じ日の同じ時間に死んだが、私と一緒に入所したおばさんたちだった。
仕事もよくやると先生がよく誉めていたが、下痢をするようになり、それから横になって4か月で亡くなった。
その日、死んだおばさんの息子が、おばさんが死んだ翌日に面会に来たとうちの班に連絡が来た。
そのおばさんを思い出して、班の者たちも一緒に泣いた。
息子が面会に来たが、少しだけお待ち下さいと言いながら、私の班の人たちもたくさん泣いた。
ところで、そのおばさんの体の調子は死ぬほどではなかったが、横になったあるおばさんが息を引き取るのを見て、そのおばさんも大きなショックを受けてしまったのだ。
面会に来た息子が、母親に会うことができずに泣きわめいて行ったと言う。
そのように死んだ人々がどれほど多いか数え切れない。続きを読む
ジュン山に到着し、私たちの入所後に、護送した先生が帰り際、私たちに“死なずにしっかり生きなさい””と手をしっかり取って涙ぐみながら言った。
私は、その言葉がどういう意味なのか監獄に入ってから分かるようになった。
一緒に過ごし、慣れ親しんだ関係のせいか、別れ際には私たちもたくさん泣いた。
ここで死んでしまって、家へ戻ることができなければ、可哀相な私の両親と二度と会えないかも知れないと思うと涙が取り留めもなく流れた。
本所では、また服を脱いでポンプ行動(立ち上がったり座ったという運動)をさせられて、持って来た荷物検査をされ、お金や持って入れない物はすべて回収された。
私たちは3科に配置されたが、そこは女性監獄だった。
3科に派言って行った瞬間、私がここで生きていけるかどうかと考えたらぞっとした。
そこにすでにいた女性囚人たちは、みんなぼろぼろの服を着、顔は凍り切れたせいで真っ黒くなり、男か女かも見分けることができなかった。
顔には、肉がついておらず、骨ばり、目だけがギラギラしていた。
私はあまりにも恐ろしくて身の毛が立ち、がたがた震えた。
皆が生きる屍(しかばね)たちだった。
3科は、全部で11班であったが、3班は一番大変な稲作をしなければならなかった。
残りの3班は、皆が越境罪の囚人たちだった。
まず入所し、新しい班に入って行くのだが、1ヶ月間その中で守らなければならない項目や秩序をなどを学ぶ。
そして新しく入った班では、毎日総和に参加する前に、何の罪を犯したのか率直に言い、反省しろという。
そこでは寛大に容赦してくれるというのだ。
それを真に受けた何人かの女子たちが、総和に入る前に、犯した罪を率直に言って容赦を受けようと思ったが、むしろ刑罰が加えられて教化所に行った。
一般の囚人たちは他のたやすい事をいうことができたが、私たちみたいな者たちは大変な仕事ばかりしなければならなかった。
ありとあらゆる罪を犯して入ってきた人たちがいた。
売淫、ごろつき、詐欺等ない罪がなかった。
私はそんな罪があるということを初めて知った。
また、ある女性は男のように見えたが、男に装って結婚を三度もし、詐欺罪で入って来た人もいた。
150人ほどいたが、 70パーセントが越境罪に入って来た女性たちだった。
一般の囚人たちは、ほとんど再犯者たちだったが、売春して入って来た子たちが多かった。
そんな女性たちは、主に親がおらず、さまよい歩いてからどこかの旅館に名前を書いておき、売春する中で取り締まりに遭い、2〜3度入って来た女性たちが多かった。
私の班にいたあるおばさんは、北朝鮮の道案内者にだまされて豆満江を一人で渡り、捕まえられた人だった。
そのおばさんは、中国で一回も食べ物にあり付けないでつかまって悔しいと鬱憤をぶちまけてた。
ある子たちは豆満江を渡り、延吉に入って来た途中、車の中や道を歩いている途中に検問にあい、つかまって来た人たちだった。
冬には主に肥料生産をして、翌年の農業のためのお金を作るらねばならなかった。
凍りついた氷を割って溶かした土を竹かごに入れ、背負って運ばねばならなかったが、その土が臭い、来ていた服までにも染み込んだ。
しかし、その汚れた服をそのまま着て寝なければならず、翌日も、そのまま仕事をしなければならない。
ある子たちは、寒さゆえに洗顔せずにいたら、顔に垢がべたべた付き、よく熟したじゃがいものように顔の皮が剥けていた。
畑で仕事をする時には畑の4つの角に旗をさしておいて、自動銃を担いだ軍人たちが見張っている。
その旗の外に出ようものなら、逃げるとされ、どれだけ銃で撃たれるかわからない。
トイレもぼろで小さく選り分けてあるだけで、そこで見えるようにする。
とうもろこしを蒸したものをご飯だと与えられていたが、囚人となった私たちは海水を沸かした塩のつゆをご飯にかけて食べていた。
食べ終わって、体の方向を変えればもうすぐにお腹は空いている。
食事する時も見張られ、ご飯に湯をかけないでそのまま食べてしまうと、無条件にそのご飯を取りあげられ、汁椀に入れられる。そのまま食べれば虚弱になるというのだ。
そうしたとしても虚弱になっていった人たちは、1日にも2〜3人はいた。
私が出るまでの毎日、監獄に入って来る人たちは10人、死んで出る子たちが一日に2〜3人はいた。そこで死ねば、3科で少し下った所に花園があるので、そこに埋めてしまう。碑石もない。
死ねば、汚い布で死骸をくるくる巻き、牛車に積んで行き、窪みを掘り、そこに適当に置く。
背がちょっと高い人が死ねば、窪みが小さくて入りきれず、死骸を窪みに投げこんでシャベルで足を折って埋めてしまう。
そこでどれだけ多くの人々が死んで行くのかといえば、1日にも10人程はいる。
11号鍛錬所には男性科が五つ、女性科が6つだったが、死んだ人々はすべてその花園に埋めてしまう。
やや小さいペニシリン注射器に名前を書き、死骸上に投げてそのまま埋めてしまう。
そのように死ねば、家族たちに知らせてくれない。
私がいた班も、4人いた。
死んだ人を横において一緒に夜を明かし、翌日、埋めに死骸を運ぶ。
私は死んだ人をあの時に初めに見たのだ。
二人は同じ日の同じ時間に死んだが、私と一緒に入所したおばさんたちだった。
仕事もよくやると先生がよく誉めていたが、下痢をするようになり、それから横になって4か月で亡くなった。
その日、死んだおばさんの息子が、おばさんが死んだ翌日に面会に来たとうちの班に連絡が来た。
そのおばさんを思い出して、班の者たちも一緒に泣いた。
息子が面会に来たが、少しだけお待ち下さいと言いながら、私の班の人たちもたくさん泣いた。
ところで、そのおばさんの体の調子は死ぬほどではなかったが、横になったあるおばさんが息を引き取るのを見て、そのおばさんも大きなショックを受けてしまったのだ。
面会に来た息子が、母親に会うことができずに泣きわめいて行ったと言う。
そのように死んだ人々がどれほど多いか数え切れない。続きを読む
durihanamission at 12:52
こんにちは。
先日、チョン牧師がニューヨークにある SUNY の学校で北朝鮮の人権についてセミナーしてくださり、私たちのバプテスト教会にもお越しくださり、貴重なお話をしてくださいました。このお話を通して、北朝鮮宣教に対するビジョンを持つようになりました。
韓国にいる間、ドゥリハナで仕えることができたらと思い、連絡をいたしました。
月曜日の祈祷会のような祈祷会の時間と場所を教えて下さり、私もともにお祈りしたく思います。
定着地域チーム、社会奉仕チーム、定期集会チーム、国際人権チームなど、私が少しでも神様の仕事ができることがあったらと願っています。
短く私の紹介をしますと、ビンハモン・バプテスト教会で大学部の牧者として教会では仕えており、SUNY Binghamtonで医大への進学準備をしています。
専攻は生物・看護学科です。
韓国にいる時には、通訳・翻訳の仕事で世界映画祭のような所で働いていました。
予備校で留学生の大学進学や入試などを教えていたので、北朝鮮から来た方々に英語で聖書勉強、もしくは一般教育の勉強をお手伝いすることができると思います。
一日も早く神様のための仕事をしたいと思っています。
ID*花束さん / : 2009. 05. 31
消息誌送ってくださってありがとうございます。
しかし、一方サイドだけが開かれていて、詳しい内容が見られなくて切ないですね。
こちらニュージーランドでも、北朝鮮に向けた神様の愛によって準備している方たちがいらっしゃいます。たぶん、来月からはドゥリハナに物質的にも参加できるようになるようです。
夜明けごとに叫ばれる祈りを神様が聞いてくだしますね。
ドュリハナ家族のみなさん頑張ってください。
信仰で勝利してください。
ID:gracefulさん: 2009. 05. 11
ドゥリハナ教会の新しい礼拜とても気に入りました。
必要なものが揃っていて、外部もとても美しく、とても素敵な空間をくださった神様に感謝いたします。
讃美団も恵みにあふれ、みなさん、本当にお疲れ様でした。
神様の祝福が、これからもいろいろな所にあふれ現れるように期待しています。
改めてもう一度、お祝いさせていただきます。
ファンジェヨン 2009. 06. 08
先日、チョン牧師がニューヨークにある SUNY の学校で北朝鮮の人権についてセミナーしてくださり、私たちのバプテスト教会にもお越しくださり、貴重なお話をしてくださいました。このお話を通して、北朝鮮宣教に対するビジョンを持つようになりました。
韓国にいる間、ドゥリハナで仕えることができたらと思い、連絡をいたしました。
月曜日の祈祷会のような祈祷会の時間と場所を教えて下さり、私もともにお祈りしたく思います。
定着地域チーム、社会奉仕チーム、定期集会チーム、国際人権チームなど、私が少しでも神様の仕事ができることがあったらと願っています。
短く私の紹介をしますと、ビンハモン・バプテスト教会で大学部の牧者として教会では仕えており、SUNY Binghamtonで医大への進学準備をしています。
専攻は生物・看護学科です。
韓国にいる時には、通訳・翻訳の仕事で世界映画祭のような所で働いていました。
予備校で留学生の大学進学や入試などを教えていたので、北朝鮮から来た方々に英語で聖書勉強、もしくは一般教育の勉強をお手伝いすることができると思います。
一日も早く神様のための仕事をしたいと思っています。
ID*花束さん / : 2009. 05. 31
消息誌送ってくださってありがとうございます。
しかし、一方サイドだけが開かれていて、詳しい内容が見られなくて切ないですね。
こちらニュージーランドでも、北朝鮮に向けた神様の愛によって準備している方たちがいらっしゃいます。たぶん、来月からはドゥリハナに物質的にも参加できるようになるようです。
夜明けごとに叫ばれる祈りを神様が聞いてくだしますね。
ドュリハナ家族のみなさん頑張ってください。
信仰で勝利してください。
ID:gracefulさん: 2009. 05. 11
ドゥリハナ教会の新しい礼拜とても気に入りました。
必要なものが揃っていて、外部もとても美しく、とても素敵な空間をくださった神様に感謝いたします。
讃美団も恵みにあふれ、みなさん、本当にお疲れ様でした。
神様の祝福が、これからもいろいろな所にあふれ現れるように期待しています。
改めてもう一度、お祝いさせていただきます。
ファンジェヨン 2009. 06. 08
durihanamission at 00:14