ローリング父さんの富士探遊日記

富士宮に住んでる2児の父さんです。最近になって村山古道や岳南の歴史に興味ありです。

香貫山へ


久しぶりに奥さんと自転車散歩。
自転車で千本浜公園から香貫山へ。

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千本浜ではハマエンドウの花が見ごろ。場所によってはハマヒルガオの花も一緒に見られます。

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毎年恒例、狩野川の鯉のぼり。

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霊山寺に寄ります。お庭は小さいですがとても手入れが行き届いています。

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霊山寺の梵鐘。
貞治三年(1364年)の銘あり。静岡県下で4番目に古い梵鐘なのだそう。

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霊山寺のすぐ横に感じの良い洋菓子屋さん発見。おむすびしか持ってこなかったので食後の甘味を補給。良い素材を使って丁寧に作っている感じ。パイを買いましたがとてもおいしゅうございました。
お店を紹介したブログ→ デカヨーキーこてつの てくてく散歩

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道路を渡って向かいの霊山寺の墓地へ。
沼津市指定史跡の五輪塔。こんな大きい五輪塔みたことがない。

江戸時代の紀行文「東路記」に【此の川向を香貫云。霊山寺とて禅寺有。小松内大臣重盛の石塔有。平家都落の後、肥後守貞能、西国より重盛の遺骨をとりて首にかけ、東国に下りし、此の地にや納めし】とあり、昔からこの五輪塔は重盛の墓として有名だったようです。

しかし、近年の発掘で内部から青銅製(当時としては珍しい)の蔵骨器が発見され、元亨三年(1313年)に亡くなられたお坊様の墓と判明。重盛の墓ではなかったんですね。

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近くには、こちらも指定史跡の変形宝筐印塔(鎌倉時代後期)があります。

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霊山寺から北に少し行くと香貫山入口の看板あり。
すぐ激坂になるので自転車を降りあるいて展望台へ。

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途中に河童がいます。

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木漏れ日が太陽のかたちになって揺れてます。

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展望台到着。昼食。

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昔、NHK教育で、「ぼくのまち、わたしのまち」みたいな題名で社会科の番組をやっていて、香貫山からのロケーションを使ってました。海、川、山、市街地、住宅地、鉄道、港、という素材が一つの画面で説明できるところが選ばれた理由でしょう。

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香貫山より続く沼津アルプスの峰々。沼津アルプスは海底火山の名残。

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帰りは別ルートで。夫婦岩。凝灰岩なのしょうか?風化が進んでます。

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香貫山を降り再び自転車で千本浜へ戻ります。

富士山から阿蘇へ・アサギマダラの旅

畠掘先生からアサギマダラの情報が届きました。
熊本日日新聞の記事で、富士山周辺でマーキングされたアサギマダラが、なんと熊本は阿蘇で発見されたとのことです。

<熊本日日新聞:2013年11月20日 記事より>
世界文化遺産の富士山から世界農業遺産の阿蘇に飛来-。南阿蘇村の舛田誠二さん(73)は自宅庭で、富士山の麓で放たれたチョウ「アサギマダラ」を確認した。61日間で760キロを移動していた。
 アサギマダラは羽を広げた長さが約10センチ。長距離を移動することで知られ春に北上し、秋は南下して越冬する。全国の愛好家らがマーキングして移動ルートを調査している。
 舛田さんはチョウの研究者らでつくる日本鱗翅[りんし]学会の会員。10月中旬、庭のサラシナショウマの花に止まったアサギマダラに「Fuji 8・14 JET 2348」と標識があるのを確認。学会を通じて足跡を調べた。
 その結果、8月14日に富士山麓の山梨県鳴沢村の標高約1700メートル地点で放たれたオスと判明した。「世界遺産を旅したチョウにロマンを感じる」と舛田さん。
 学会理事で大阪府立大の平井規央准教授によると、2011年には和歌山~香港の約2500キロを飛行した記録がある。平井准教授は「天敵を避けたり、涼しい場所を選んだりしている可能性がある」と話した。(藤山裕作)
 富士山からチョウ 南阿蘇村でアサギマダラ確認の写真、図解
富士山麓から移動し、南阿蘇村の舛田誠二さんの庭で10月中旬に見つかったアサギマダラ。羽に標識がマーキングされている(舛田さん撮影)

フジコちゃんからは、「もしかして、この記事のマーキングはローリング父さんのもの?と期待しましたが残念でした。」とメールありました。
私は、なんとなく富士山周辺で生まれた個体は伊豆諸島とかもう少し北の方に行くのかと思っていましたが、九州へ飛んでいたとは驚きです。あんな薄い翅と、ヒラヒラ飛行で何百キロの旅がよくできるものだと感心します。

さて、この記事で思い出したことがあります。

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今年8月に奥さんと倒木地帯まで散歩に行った時、マーキングされたアサギマダラを発見したんです。

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奥さんと倒木地帯まで上がり、そろそろ帰ろうかという時、翅になにやら書いてあるアサギマダラを発見。「あっ!マーキングがある!」とアサギマダラに近づいたら、パッと飛び立ってしまいました。
翅が動いていて文字はうまく読めなかったですが、パッと見で「HIROSIMA」と書いてあるようでした。広島から来た個体となれば大発見です。これはなんとしても捕まえないとと、奥さんの帽子を奪い取り倒木帯に飛び込みます。
飛んでいく蝶の行方を見失わないよう、倒木帯の中をコケまくりながらも目を離さず追いかけます。しかし、そんなに苦労して追いかけても2メートルまで近づくのが限界。それ以上近づくと、あざ笑うがごとくヒラヒラと飛んでいってしまいます。補虫網があればなんてこと無いのですが、今あるのは奥さんの帽子だけなので、とにかく接近しないと勝負になりません。
そんな追いかけっこをしているうち、アサギマダラに連れられてどんどん森の奥に引き込まれてしまいました。村山古道からもだいぶ離れてしまったので、奥さんから「ちょっと大丈夫なの?」と心配そうな声が聞こえます。
そして、これ以上追いかけられない斜面まで来た時、捨て身のダイビングキャッチを決行。見事捕まえることができました。しかし、冷静になってわが身を見ると、手足は血だらけ。どうやら蝶を追うのに夢中で痛みが分からなかったようです。

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ドキドキしながら、翅に書かれた文字を読むと、「HASI051」と読めます。HIROSIMAは、私の読み間違えだったようです。採取者が「ハシ」さんという方で個体番号が51と言うことでしょうか。

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反対側の翅には、「FUJI8.10」とあります。どうやら、富士周辺で、8月10日にマーキングされていたようで、遠くから飛んで来た個体では無いようです。採取日が8月17日ですから、マーキングから1週間目ということになります。
一応、採集地の報告です。日時は2013年8月17日(土) 午後12時00分 富士山:村山古道大倒木帯 標高1890m地点。天候は晴れ。オスの個体で、発見時はヒヨドリ花を吸蜜していました。

さて、村山古道のアサギマダラはいったい何処に飛んでいくのでしょうか?やはり九州の方へ飛んでいくのでしょうか?来年は気合を入れてマーキングしてみますか。

*昨年のマーキングの様子:http://blog.livedoor.jp/dzb16113/archives/51836076.html

富士山と酒を愛した画家・神戸麗山

今年の1月に購入した絵図版画の「富士山表富士眞面之圖」ですが、実物を見ているうちに、「これを描いた画家はどんな人だったんだろう」と興味が湧いてきました。

購入時のブログ・・富士山表口眞面之圖を買っちゃいました

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そこで、富士山表口眞面之圖の作者について探索してみることにします。

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絵図を見ると左下に作者の名が書かれています。読んでみると「麗山白石 図?」と書いてあり、その下に「白石」の落款印があります。ちなみにすぐ横には、世界文化遺産登録された三保の松原が描かれています。

まずは、「麗山白石」をGoogle検索してみますが、私のブログが先頭にきてしまうほどで、ほとんど情報がありませんでした。その後、ネットでいろいろ調べていたら、富士宮市郷土資料館のホームページ(桜岳と麗山)に、麗山は神戸麗山とあったため、今度は「神戸麗山」で検索すると麗山の経歴と描いた絵が少しばかりヒットしましたが、それ以上詳しい情報はありませんでした。
 どうやら麗山は全国的にはそれほど有名な画家ではないようです。

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そして、2月に「とん忠」で行った郷土近代交通史のミーティングの際、富士川の岩淵から来た方が偶然にも神戸麗山のことをご存知で、松野の神戸醤油店が麗山の生家ではないかと教えてくれました。
いいことを聞きました。生家に行けば、麗山のことがもっと詳しく分かるかもしれません。

ということで、今日は松野の神戸醤油店へ突撃訪問してみます。

つづく・・・

フジパク・明治維新の郷土交通革命を歩く

3月10日、フジパクの「明治維新の郷土交通革命を歩く」という歴史散策を兼ねたウオーキングに参加しました。
今回は、近代交通史がテーマで、明治維新後に作られた鈴川便道と堀川・富士川運河の痕跡を追って、田子の浦~蒲原~富士川駅まで歩く予定です。

ちなみに、フジパクって何かって言うと、富士山博覧会のニックネームです。フジパクでは、岳南の文化や歴史・グルメやお酒・岳南鉄道のイベントなどを幅広い内容で、この地域の魅力を知ってもらえる体験型のプログラムを行っているのだそうです。 富士山博覧会

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今回の案内役は竹村さん。
竹村さんは岳南の歴史にとても詳しい方で、私がネットで便道や鈴川の歴史を調べると、たいがい竹村さんのブログに行き当たるというほどで、良く参考にさせていただいています。
竹村さんとは、昨年の畠掘先生の講演会のとき始めてお会いしたのですが、私が便道を探索しているのをブログで知って、今回の企画に誘っていただきました。

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前田の田子の浦港漁港に集合。
まず、竹村さんから明治初期に賑わった鈴川便道の解説があります。

鈴川便道
便道は明治の始め、東海道に変わるメインルートとして開通しました。ルートは鈴川から吉原宿を通らずに、田子の浦湊に橋を架けて蒲原まで至る道で、江戸期に使われていた東海道より短いルートとして一時期大繁盛した街道なのです。
写真は田子の浦湊にかけられた便道の木橋。当時は通行料を取っていたのだそう。

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便道は田子の浦から前田橋方向に向かうのですが、今日は時間の都合で海岸沿いの松林に向かいます。

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松林にある遊歩道みたいな土手を歩いていくと、春日大明神の碑があります。
実は今歩いてきた土手は自然にできたものではなく、比奈村の名主・野村一郎が度重なる高波の被害から人々の生活を守ろうと作った防潮堤の跡とのこと。この春日大明神はその工事の安全と成功を祈願して奉られたものです。

湊口防潮堤[1]
防潮堤の構築は野村一郎が発案し、近隣三十四ヶ所の村人が参加する大工事となりました。工事は当時最新の工法を取りれ、その様子はまるで築城工事のようだったと言い伝えられています。そして防潮堤は慶応3年(1867年)に無事完成し、村民はこれで、どんな高波が来ても大丈夫と安堵しました。(郷土の先覚者 野村一郎:昭和51年 野村一郎顕彰会発行より)

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しかし、自然の猛威はすさまじく、2年後の台風により防潮堤は一晩のうちに壊れてしまいます。しかも、壊れてしまった堤防の工事費用をめぐって村民に訴訟を起こされてしまい、野村一郎は私財を投げ打って借金を返済しています。
しかし、野村一郎が凄いところは、その後も用水路の工事や茶業育成など、民衆がより良い生活ができるように生涯にわたって尽力されたのだそうで、どんだけ民衆思いなんでしょうね。今の政治家はこの土手を見に来るべきですな。

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次に松林のすぐ下にある林正寺へと行きます。お寺の敷地の中に、明治32年10月7日この地域を巨大な波が襲い大変な被害があったことを記録した碑があります。この波は巨大な低気圧によって引き起こされたもので、鈴川においても、砂山沿いの別荘が破壊されたり、鈴川駅(現在の吉原駅)が浸水被害にあったりしているのだそう。

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竹村さんから、「今は皆忘れてしまっているが、過去には何度となくこの地域が高波被害にあって苦労していた歴史を忘れないよう、この碑を大切にしたい」とおっしゃっていました。

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今度は、海岸沿いから北上し、富士由比バイパスを横断して柳島郵便局に到着。ここから蒲原まで便道を辿っていきます。実は竹村さんから、「便道に入ったら説明よろしくお願いします」とお願いされていたため、ここから私が案内人になります。


フジパク便道
初ガイドなので皆さんに上手く説明できたか自信ないです・・
人に分かりやすく説明するのは難しいですね。説明しているうちに混乱したりして、自分の知識不足を痛感しました。(写真はフジパクのHPより)

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新蒲原駅に到着したところで、再び竹村さんと案内役を交代。ちょっとホッとします。
新蒲原駅から西の路地を行きます。路地に入ると小さい水路がありますが、これが明治維新後に作られた堀川運河跡とのこと。

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堀川運河は、便道と同じ明治初期に作られたのだそう。
江戸時代、甲斐の国で作られた年貢米(この年貢米のことを廻米といった)は富士川を船で下り、岩淵(旧富士川町)に陸揚げされ、蒲原まで陸送した後、蒲原から再び船に乗せられ清水湊に運ばれていた。当時は、甲斐からの廻米を扱うのは岩淵に権利があり、不利な条件にも甲斐や蒲原は物申せず、不満があったと思われる。

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しかし、明治維新にて幕府の影響力がなくなると、甲斐と蒲原が結託して、富士川から蒲原まで水路を作り、岩淵を経由しないで直接蒲原に荷を入れる計画が起こり、明治8年に堀川運河が完成し、河岸が作られた。
開通式には山梨県令(今でいう県知事)が出席するなど盛大を極めたという。そして蒲原河岸ができると荷や客が集まり、わずか4年で河岸が手狭になって改築工事を行うというほどの盛況ぶりだった。
しかし、蒲原の盛況とは反対に、岩淵では、今まで陸送に関係していた馬子や人足のほとんどが失業し大打撃を受けた。

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ところが、明治22年、国鉄東海道線が開通し、岩淵駅(現在の富士川駅)ができたことで再び荷や人の流れが岩淵側に移ってしまった。しかも岩淵側は、富士川の河川と岩淵駅の間に水路を作り(富士川運河)、山梨からの船運も蒲原側から奪ってしまった。
このため、一時期は繁盛していた堀川運河・蒲原河岸も次第に使われなくなり、ついにはさびれてしまった。

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次は新蒲原駅から富士川駅まで電車で移動して、富士川運河の跡を見に富士川第一中学へ行きます。

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ここには今でも富士川運河の跡が敷地の中に残っているそうで、中学の正門を入って右側の花壇になっているところが運河跡とのこと。

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花壇から東に行って、体育館の裏にも跡が残っています。ここは、なぜかオブジェのように水路跡が保存されていました。

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運河は、富士川ふれあいホール横にある水路に繫がっていたとのこと。珍しいことに当時の水路がそのまま残ってます。

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これが岩淵水門です。ここから富士川に船が出入りしていました。レンガは当時のままで、全国的にも例が少ない河川船運に関する近代土木工事遺産とのこと。

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ちなみに、今でも蒲原と岩淵はあまり仲がよろしくありません(私の印象です)。ずっと以前の話ですが、由比町・蒲原町・富士川町が合併して市になれるチャンスがあったのですが、上手くいかなかったこともありました。
これは私の想像ですが、富士川船運をめぐる遺恨の記憶が子や孫にまで影響し、現在まで続いているのかなと、思いましたがどうでしょう?

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その後、便道も運河も、結局は新しい交通手段に押されて廃れてしまい、人々の記憶からも忘れられてしまします。
しかし、明治維新後、いろんな人が新しい時代を夢見て一斉に盛り上がった時代のことを、これからも忘れないで残していきたいものですね。

そして、このイベントもここで終了。竹村さん、フジパクの皆様、参加者の皆様どうもありがとうございました。

紙よ!

最近、仕事の忙しさにかまけてブログ更新をしていませんでした。調べたことも溜まってきたし、そろそろ復活しなくちゃですな。
さて、村山道ファンの皆様にはちょっと残念なお知らせがあります。


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千貫松にある2番目の村山道の道しるべを過ぎて、すぐの交差点にあるローソン富士大渕店が、5月31日で閉店するそうなのです。

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村山道の後半は店がなく、村山道を歩く人にとってオアシス的なコンビ二だったので、無くなるのはとても残念です。今後、村山道を歩かれる方は、吉原でしっかり補給をしてくる必要があります。
しかし、トイレはいかんともしがたく、どうしてもとういう方は、千貫松の交差点を右折して600mくらい行くとファミリーマートがありますので、そこを利用するしかありませんね。

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2006年に刊行された「富士山・村山古道を歩く:畠堀操八著」には、トイレや食料補給に便利なよう村山道沿いにあるコンビ二がもれなく紹介されています。
でも、本が刊行されてから、ミニストップ富士鈴川店とセブンイレブン富士市依田橋店が相次いで閉店してしまいました。この2店の閉店は、まだ村山道の前半ということもあり、さほど影響はなかったのですが、今回のコンビ二閉店はちょっと困りましたね。

畠掘先生はこの事態を予想されていたのか、本のなかでこんなことを書いていらっしゃいます・・・

「・・・本書には沿道のコンビ二はすべて掲載した。ただし、巨大銀行だって1日で消えるご時勢である、せっぱ詰まって駆けつけたけれど、紙よ!と祈りたくなることもあろう。くれぐれも油断めさるなよ。」
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