「便道」のことが分かったところで、どんなところを通っていたのか探索に行きます。
明治20年測量の地図で便道をトレースして現在の地図に写し、これを参考にしながら道を辿ります。
便道は蒲原から鈴川まで繋ぐ道なので、今日は蒲原宿から出発することにします。
新蒲原駅から旧道に入り、蒲原宿の碑に到着。ここから「便道」の痕跡を探しながら田子の浦へと向かいます。
蒲原宿の旧道を東に行くと、蒲原宿の東木戸があります。ここが宿場の東端です。
東木戸を少し行くと、道が二手に分かれます。左上に向かう道は岩淵に向かう旧東海道で、真っ直ぐ行く道が便道の蒲原側の接続部になります。
便道接続部から50mくらいで、県道396号線 富士由比線(旧国道1号線)にでます。明治20年の頃は、この道はありませんでしたので、矢印の方向に道が走っていたと思われます。
道が走っていた方向を行くと大村フルーツセンターがあります。お店の方に話を聞いてみると、店の前を下る道は昔からあったそう。しかし踏み切りの無い線路を渡るのが危険であると、数年前にJRが通行止めにしてしまったそうです。
明治の地図を見ても、この道が便道で間違いないでしょう。
大村フルーツセンターの道を下って行くと、聞いたとおり線路で行く手を阻まれます。しかたがないので由比富士線に戻ります。
富士由比線に戻って五見坂を少し上ると、駿河モータースの横に義経硯水(よしつねすずりみず)があります。ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、初代清實以後の蒲原一族と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。また、墓所内には湧き水があり、1174年(承安4年)に源義経が東に下る時に涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙をを書いたことから義経硯水の名がついたそう。以来、蒲原を通る旅人の喉をうるおしてきましたが、国道の工事で壊され、北側の現在の地に移転したようです。場所が移転したため現在、湧水はありません。
五見坂架橋でJRを渡って反対側に行きます。線路脇におばあさんが座っていたので話を聞くと、以前は線路の向こうにお店が数件あって、日本軽金属工場の社宅があった頃は、みんなこの道を利用していたそうです。
日本軽金属の社宅がなくなってからは利用する人も少なくなり、最後は近所の子供が使うくらいだったそう。子供だけが古い道の名残を感じとって利用してたのかもしれません。
JR線路を渡ったところから線路沿いの道を富士川駅方向に行きます。
畠掘先生御用達の「銘酒市川」を通り、五見坂の新架橋下を通過します。
「目で見る蒲原の歴史」に便道の写真が載っていましたので、同じ場所を探してみます。左に見える川は今も道路横を流れている堀川だと思います。堀川の左上に見えるのは東海道線でしょうか?旧国道はまだ建設されていないようです。
左の山の様子が同じような場所を見つけました。たぶん古い写真はここから撮ったのでしょう。
少し進んで、明治の地図だと、このあたりで道が右に曲がっているはずですが、道が改修されていてよく分かりません。とりあえず近くにある道を右折します。
右折してすぐに、古そうなお店がありますので寄ってみます。お店は「荻田商店」で、パンやお菓子・タバコや雑貨がおいてあるレトロなお店です。店番をしているおばあさんにお話を伺います。
おばあさんは蒲原生まれ蒲原育ちとのことで、この辺のことをよく知っていました。お店は築60年だそう。便道のことを聞いてみると、「べんろ」といって店の西側を通っていたそうです。
ここが便道跡。
便道跡には、なぜか家は立っていません。道だったので区画が中途半端なのかも知れません。
反対側にまわると、なんとなく道の名残があります。
こんな感じで道が通っていたのだと思います。
おばあさんの話では、便道の幅は狭く、リヤカーが通れる位の道だったそう。道は小池川を越えるのだが、小池川は今のように広くはなく、太鼓橋のような小さい橋がかかっていたそう。また、一方通行の道は、日本軽金属へ物資を輸送する鉄道(現在は廃線)の軌道跡で、地元の人は「軽金ポッポ」と呼んで親しんでいました。
以前、「たにやん」さんからの質問で、「便道」はどう読むのですか?とあったので、私は「びんどう」ではないかと回答していました。
おばあさんに「びんどう」って言わなかったの?聞いても、みんな「べんろ」と呼んでいたとはっきり覚えているとのこと。「べんろ」は「便路」のことだと思いますので、ひょっとして「便道」も「べんどう」と呼んでいたとも考えられますがなんともわかりません。ネット辞典で調べると、中国語で「便道」と「便路」は同義語で、近道・歩道・仮設道路という意味があるのだそう。東海道より近道という意味で「便道」と名づけたのかもしれません。
荻田商店のおばあさんには、便道以外にもいろいろ教えていただきました。お礼を言って先に行きます。
小池川を上原橋で渡るとジャトコ蒲原工場に突き当たります。工場ができる前はここに道が通っていましたが、工場ができたときになくなり、代わりに工場周りに側道が作られたそうです。
ジャトコ工場をぐるっと回り込み、2車線道路に出てジャトコ正門方向に行くと「東部コミュニティーセンター」の看板があります。ここに便道がまた出てきます。
興国インテック工場南側の道を行きます。地震山探索で海抜13.6mの看板があったところです。おばあさんの話だと、昔ここに一本松があって目印になっていたそうです。
鈴与物流センターを過ぎ、静岡ガスサービスの南側の道を行くと、富士川河川敷に出ます。
ここから、富士川に向かって道がありました。今は河川敷のスポーツ公園になっています。
地図によると、河川敷を斜めに横断して、このあたりに便道が通っていたようです。
便道は現在の国道1号線新富士川橋の北300mくらいのところを平行して東進し、五貫島に繫がっていました。
当時、富士川を渡るには、しっかりした橋があったわけではなく、渇水期には中州に仮橋を作って渡していたようです。この絵葉書は岩淵付近にかかっていた橋の様子。便道もこのような橋だったのでしょう。
しかし、少しでも水が多くなると仮橋はすぐ流失してしまうので、ほとんどの時期は渡船で富士川を渡っていたようです。この写真は、当時の富士川渡船の様子。
「富士川誌」(2005年発行)の中に、このあたりに船渡し跡の石畳があるとして写真がありましたので、周辺をかなり探してみましたが見つかりませんでした。また、この石畳は便道が通る際に渡船場として整備したのか、それ以前からあったのかも不明です。
河川敷の農園にいた方に尋ねてみましたが、みなさん「石畳なんか知らないね」とのこと。河川敷が整備されて石畳は埋め立てられてしまったのでしょうか?
今回行った場所を、明治の地図にマークしてみました。
現在の地図にしてみると、こんな感じでしょうか。次は富士川を渡って富士市に行きます。