ローリング父さんの富士探遊日記

村山古道や岳南の郷土史を中心としたブログです。最近休眠していることが多いような・・・。

2012年03月

かげろうの道「便道」探索・蒲原編


「便道」のことが分かったところで、どんなところを通っていたのか探索に行きます。
明治20年測量の地図で便道をトレースして現在の地図に写し、これを参考にしながら道を辿ります。


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便道は蒲原から鈴川まで繋ぐ道なので、今日は蒲原宿から出発することにします。
新蒲原駅から旧道に入り、蒲原宿の碑に到着。ここから「便道」の痕跡を探しながら田子の浦へと向かいます。


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蒲原宿の旧道を東に行くと、蒲原宿の東木戸があります。ここが宿場の東端です。

便道接続部
東木戸を少し行くと、道が二手に分かれます。左上に向かう道は岩淵に向かう旧東海道で、真っ直ぐ行く道が便道の蒲原側の接続部になります。

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便道接続部から50mくらいで、県道396号線 富士由比線(旧国道1号線)にでます。明治20年の頃は、この道はありませんでしたので、矢印の方向に道が走っていたと思われます。

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道が走っていた方向を行くと大村フルーツセンターがあります。お店の方に話を聞いてみると、店の前を下る道は昔からあったそう。しかし踏み切りの無い線路を渡るのが危険であると、数年前にJRが通行止めにしてしまったそうです。

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明治の地図を見ても、この道が便道で間違いないでしょう。

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大村フルーツセンターの道を下って行くと、聞いたとおり線路で行く手を阻まれます。しかたがないので由比富士線に戻ります。

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富士由比線に戻って五見坂を少し上ると、駿河モータースの横に義経硯水(よしつねすずりみず)があります。ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、初代清實以後の蒲原一族と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。また、墓所内には湧き水があり、1174年(承安4年)に源義経が東に下る時に涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙をを書いたことから義経硯水の名がついたそう。以来、蒲原を通る旅人の喉をうるおしてきましたが、国道の工事で壊され、北側の現在の地に移転したようです。場所が移転したため現在、湧水はありません。

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五見坂架橋でJRを渡って反対側に行きます。線路脇におばあさんが座っていたので話を聞くと、以前は線路の向こうにお店が数件あって、日本軽金属工場の社宅があった頃は、みんなこの道を利用していたそうです。

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日本軽金属の社宅がなくなってからは利用する人も少なくなり、最後は近所の子供が使うくらいだったそう。子供だけが古い道の名残を感じとって利用してたのかもしれません。

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JR線路を渡ったところから線路沿いの道を富士川駅方向に行きます。

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畠掘先生御用達の「銘酒市川」を通り、五見坂の新架橋下を通過します。

便道 蒲原の写真[1]
「目で見る蒲原の歴史」に便道の写真が載っていましたので、同じ場所を探してみます。左に見える川は今も道路横を流れている堀川だと思います。堀川の左上に見えるのは東海道線でしょうか?旧国道はまだ建設されていないようです。

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左の山の様子が同じような場所を見つけました。たぶん古い写真はここから撮ったのでしょう。

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少し進んで、明治の地図だと、このあたりで道が右に曲がっているはずですが、道が改修されていてよく分かりません。とりあえず近くにある道を右折します。

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右折してすぐに、古そうなお店がありますので寄ってみます。お店は「荻田商店」で、パンやお菓子・タバコや雑貨がおいてあるレトロなお店です。店番をしているおばあさんにお話を伺います。

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おばあさんは蒲原生まれ蒲原育ちとのことで、この辺のことをよく知っていました。お店は築60年だそう。便道のことを聞いてみると、「べんろ」といって店の西側を通っていたそうです。

蒲原便道マーク
ここが便道跡。

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便道跡には、なぜか家は立っていません。道だったので区画が中途半端なのかも知れません。

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反対側にまわると、なんとなく道の名残があります。

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こんな感じで道が通っていたのだと思います。

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おばあさんの話では、便道の幅は狭く、リヤカーが通れる位の道だったそう。道は小池川を越えるのだが、小池川は今のように広くはなく、太鼓橋のような小さい橋がかかっていたそう。また、一方通行の道は、日本軽金属へ物資を輸送する鉄道(現在は廃線)の軌道跡で、地元の人は「軽金ポッポ」と呼んで親しんでいました。

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以前、「たにやん」さんからの質問で、「便道」はどう読むのですか?とあったので、私は「びんどう」ではないかと回答していました。
おばあさんに「びんどう」って言わなかったの?聞いても、みんな「べんろ」と呼んでいたとはっきり覚えているとのこと。「べんろ」は「便路」のことだと思いますので、ひょっとして「便道」も「べんどう」と呼んでいたとも考えられますがなんともわかりません。ネット辞典で調べると、中国語で「便道」と「便路」は同義語で、近道・歩道・仮設道路という意味があるのだそう。東海道より近道という意味で「便道」と名づけたのかもしれません。

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荻田商店のおばあさんには、便道以外にもいろいろ教えていただきました。お礼を言って先に行きます。
小池川を上原橋で渡るとジャトコ蒲原工場に突き当たります。工場ができる前はここに道が通っていましたが、工場ができたときになくなり、代わりに工場周りに側道が作られたそうです。

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ジャトコ工場をぐるっと回り込み、2車線道路に出てジャトコ正門方向に行くと「東部コミュニティーセンター」の看板があります。ここに便道がまた出てきます。

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興国インテック工場南側の道を行きます。地震山探索で海抜13.6mの看板があったところです。おばあさんの話だと、昔ここに一本松があって目印になっていたそうです。

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鈴与物流センターを過ぎ、静岡ガスサービスの南側の道を行くと、富士川河川敷に出ます。

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ここから、富士川に向かって道がありました。今は河川敷のスポーツ公園になっています。

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地図によると、河川敷を斜めに横断して、このあたりに便道が通っていたようです。

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便道は現在の国道1号線新富士川橋の北300mくらいのところを平行して東進し、五貫島に繫がっていました。

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当時、富士川を渡るには、しっかりした橋があったわけではなく、渇水期には中州に仮橋を作って渡していたようです。この絵葉書は岩淵付近にかかっていた橋の様子。便道もこのような橋だったのでしょう。

蒲原 船渡し風景絵葉書[1]
しかし、少しでも水が多くなると仮橋はすぐ流失してしまうので、ほとんどの時期は渡船で富士川を渡っていたようです。この写真は、当時の富士川渡船の様子。

蒲原 船渡し石畳[1]
「富士川誌」(2005年発行)の中に、このあたりに船渡し跡の石畳があるとして写真がありましたので、周辺をかなり探してみましたが見つかりませんでした。また、この石畳は便道が通る際に渡船場として整備したのか、それ以前からあったのかも不明です。

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河川敷の農園にいた方に尋ねてみましたが、みなさん「石畳なんか知らないね」とのこと。河川敷が整備されて石畳は埋め立てられてしまったのでしょうか?

明治20年 国土地理院地図 便道マーク2[1]
今回行った場所を、明治の地図にマークしてみました。

ゼンリン便道蒲原マーク[1]
現在の地図にしてみると、こんな感じでしょうか。次は富士川を渡って富士市に行きます。

かげろうの道・「便道」

花粉の飛散がピークのようで最近なかなか外に出られません。先週、半日ほど外にいたら、翌日目がパンパンに脹れて、「昨日寝てないの?」と同僚に言われたほど。
しかたがないので、今日は図書館にこもって調べ物をします。

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ブログの蒲原地震山のところで紹介したら「たにやん」さんから明治20年の地図にある「便道」とはなんですか?と質問がありましたが、私も「便道」のことがよく分かかりません。

明治20年 国土地理院地図 便道 拡大2[2]
明治20年測量の蒲原の地図を見ると、地震山を横切るように道があり、「便道」と書いてあります。辿って行くと富士川を渡り、対岸まで繫がっているようです。また、地図上では、便道の道幅が太く書かれていて主要道路のような感じを受けます。しかし、現在、このような主要道路はこのあたりに見あたらないので、ちょっと不思議に思っていたのです。

そこで、図書館で調べてみると、「便道」は明治の初期にだけ賑わい、その後すぐに廃れてしまった街道で、「まるでカゲロウのような道だった」と書いてありました。昔繁盛今廃れというのが村山古道に通じて、ちょっと探索心をくすぐりますね。
そして、便道のことを調べていくと、富士川や東海道の歴史がこの道に大きく関係していることがわかりました。

kouku fujikawa マーク
まずは富士川の変遷からです。
以前の富士川は現在の川筋とはかなり異なりました。現在のように、北から南へまっすぐ流れていなかったんです。

富士川  雁堤以前の地図
雁堤ができる前の富士川は、水神社の付近で川筋を東に大きく変え、何本もの支流を派生させながら、今よりずっと東側、現在の田子の浦港付近から駿河湾に流れ込んでいました。支流と支流の間は「島」と呼ばれていて、流れが変わった現在でも富士市には五貫島、川成島、宮島など「島」がついた地名が多く残っています。

阿仏尼[1]
古い富士川の様子がわかる文献は少ないのですが、有名なのが鎌倉時代、阿仏尼が書いた「十六夜日記」です。「十六夜日記」によると、阿仏尼は建治3年(1277年)10月27日に富士川を渡っており、風が冷たい早朝に富士川を渡り、その瀬は15にのぼったとしています。
また「海道記」(作者不明:1223年)では、蒲原から馬で富士川を渡り田子の浦に着いたことが記されています。

絹本 渡船3[1]
また、川の水量が多い時は、船で富士川を越えることもあったようです。絵図は室町時代の絵図(絹本著色富士曼荼羅図)で、拡大部は当時の富士川渡船の様子ではないかとのこと。

絹本曼荼羅拡大
海が穏やかなときは、蒲原から田子の浜に直接上陸する場合もあったようです。絵図には、海を行く船も描かれています。昔の富士山修験の道者もこのように富士川を渡って田子の浜にたどり着き、海岸で禊をして香具山(富士塚)に石をおさめて富士山へと出発していたのかもしれません。

このように江戸時代以前の東海道は、蒲原吹上浜付近から富士川下流の浅瀬を選んで徒歩や馬で越し、吉原湊(現在の田子の浦港付近)を渡船で越えていました。吉原湊は深くて広い河口となっていたため、船でしか渡れなかったようです。
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写真は明治時代の吉原湊の様子。中世の吉原湊も写真のように流れは穏やかで、渡船は容易だったようです。交通の要所だった吉原湊には、鎌倉時代初期にはすでに見付が構えられ、渡船や伝馬を管理していました。戦国時代になると、北条・今川・武田が吉原湊をおさえようと何度も戦いを繰り返しました。
そして、この蒲原-富士川下流域-吉原湊という道が、この頃の旅人のメインルート、つまり古東海道だったのです。このルートは鎌倉時代から江戸時代初期まで400年以上利用されました。

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慶長5年(1600年)、関が原の合戦で天下を掌握した徳川家康は、翌年の慶長6年に、全国統一政策のひとつとして、東海道に五十三の宿駅を定め、新たな交通制度を確立します(宿駅伝馬制度)。
そして岳南の東海道においては、慶長7年に川成島が請け負っていた渡船役が上流の岩淵村に移され、同時に吉原湊の渡船が廃止されたことで東海道のルートが大きく変わることになります。新たな東海道のルートは吉原湊を渡れないため、沼川と和田川に橋を架け、北にいったん迂回してから西に向かうというものでした。

yoshiwara[1]
この浮世絵は有名な「左富士」です。東から吉原宿へ向かう旅人が、いつも右側に富士山を見ていたはずなのに、いつのまのか左側に富士山を見るとして有名になった場所です。この「左富士」は、吉原湊の渡船が廃止され、東海道が北に迂回したことで生まれた名所なのです。

下街道 上街道1[1]
新しい東海道のルートですが、吉原湊が廃止された当初は、富士川に向かう街道が二つありました。
新たな街道の道筋は、沼川を河合橋で渡り、北に進んで依田村の南のはずれで西に折れ、和田川を依田橋で渡り、田島村を経て中河原村の山神社あたりで道が二手に分かれます。

一つは、山神社から右手の道を西に進み、蓼原-本市場-柚木を通って岩本海岸で渡船して富士川を渡る道。これを上街道と呼びました。上街道は主に馬、籠が通う東海道の正規ルートです。

もう一つは、山神社から左手の道を西に進み、潤井川を四軒橋(今の前田橋)で渡り、前田-柳島-川成島の順で富士川東岸に行き着きます。これを下街道(浜街道)と呼びました。下街道は主に人が通る道で、多くの旅人で賑わっていたそうです。

 この下街道は鎌倉時代から続いた古い東海道とほぼ同じルートで、吉原湊の渡船が廃止された後も、下街道という名で旅人に利用されていたのです。しかし天和2年(1682年)、津波被害で中吉原宿が新吉原宿に所替えすると、下街道は廃止されてしまいます。富士川下流域の渡船や徒歩渡りは厳しく禁止され(下流域では徒歩渡りする旅人と区別ができないとして、やな漁を行うことですら禁止された)、鎌倉時代から続いてきた古い街道は、ここでいったん途絶えます。

街道推移
ちなみに吉原宿は津波や高波に度々襲われ、元吉原宿→中吉原宿→新吉原宿というように宿場が移転しています。宿場が移るたびに街道も少しづつルートを変え、 最終的には沿岸部を避けるように大きく迂回するルートが定着しました(上街道)。これは宿便制度を維持するためやむを得ない策でしたが、上街道は下街道に比べおよそ2里も遠回りしなければならず、徒歩が基本の旅人にとっては不便を極めたと想像されます。

4[1]
しかし、明治維新により江戸幕府は瓦解します。そして明治4年、宿駅制度が全面的に廃止になると、東海道の交通・運輸は目だって不便になり、そのため明治政府は、民営の陸運会社を発足させたり、新道を開いたりしました。
そして岳南においても新道を作ろうという動きが活発化し、明治6年に蒲原・貫島村・宮島村・川成島村・柳島村・森島村・鮫島村・田子村・鈴川村の有志が発起人となり、蒲原と鈴川を直接結ぶ道の自費開通を連名で願い出て、翌年の明治7年に「便道」として開通しました。便道は、東海道に比べて距離が短く、起伏が少ないということで人荷馬車の往来に大変に便利な道で、まさに便道であったわけです。
また、便道のルートは古東海道・下街道に近いものでした。つまり、いったんは途絶えていた古い街道が、「便道」と名を変えて再び東海道のメインルートとして復活したのです。

便道 明治の地図 拡大マーク[1]
便道が利用され始めると沿道の村々は大いに賑わいました。なぜなら、吉原宿を通るより便道は8キロも近道だったので、当時の旅人は少しでも近道をしようと、こぞって便道を使ったからです。
便道沿いの農村はこのバブルに大喜び。いままで静かだった農村に商店ができ、茶屋が開店し、旅籠屋までできました。ときには五貫島や吉原湊まで旅籠屋の客引きが出張っていたほどだったそうです。

たまったものでないのが東海道沿いの人々でした。特に吉原宿は深刻で、明治6年には、「新道(便道)を開くことは、弊害ここに極まり悲嘆この上なし」としいう書き出しで、「宿場近隣の地区民は入会地を開墾して生活の道を開きたいので資金を融資してもらいたい」という内容の嘆願書を静岡県令に出しています。
また、明治19年には、平垣外八ヶ村の戸長が富士郡長に手紙を出しています。その内容が、「最近、便道沿いの村人が勝手に店を開いたり、自分の家の軒先で商品を売ったりしているのは法律に違反しているのではないか云々」というものです。東海道沿いの村々がやっかんで商売に因縁をつけたほど便道沿いの賑わいは大変なものだったようです。

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しかし、便道の賑わいも長く続きませんでした。それは明治22年に東海道線が開通したからです。
歩いて旅をする時代はここに終わりました。鉄道が開通すると、便道を通る旅客はばったりとだえてしまします。そして便道は明治24年に県道から村道に降格し、農民が利用するだけの静かな田舎道に戻ってしまいました。十軒ほどあった旅籠屋も廃業が相次ぎ、明治の終わり頃にはすべてなくなってしてしまいます。

富士川橋開通
そして大正13年、国道1号線富士川橋が開通すると便道はさらにさびれ、しだいに人々の記憶からも忘れられていきました。結局、便道が賑わったのは明治7年頃から22年頃までの15年間程でした。

探索編に続く・・・。

参考文献
富士市歴史散歩(山口稔)、鈴川の歴史(鈴川区管理委員会)、郷土誌 ききょうの里(富士市富士南地区まちづくり推進委員会)、富士川誌(和田嘉夫)、富士川とかりがね(鈴木富男)、富士川を渡る歴史(富士市立博物館)、史話と伝説 富士山麓編(松尾書店編)、幕末の問屋役・鈴木香峰の生涯をめぐって(富士市立博物館HP)、昭和44年広報ふじ50号

菜の花と富士山

雁堤は菜の花が満開。

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秋にはコスモス、春は菜の花を育てているようです。

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菜の花と春霞みの富士山がいい感じです。 

稲村の火
さて、「稲むらの火」のことをブログで書いたら、フジコちゃんからメールがありました。

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以前フジコちゃんが仕事の関係でヤマサ醤油株式会社に行った際に、「稲むらの火」のモデルは実在の人物で、それがヤマサ醤油の先祖、濱口儀兵衛(濱口梧陵)と知ってビックリしたとのこと。

早速ネットで調べてみると、濱口梧陵はとても立派な人だったようです。
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濱口梧陵は紀州広村の生まれ。ヤマサ醤油7代目という実業家の顔だけでなく、佐久間象山に学び、勝海舟、福沢諭吉などとも親交があり、「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という学校を私財で創設するなど教育活動にも熱心だったようです。

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そして安政南海地震後の際には、村人を救おうと奔走し(このときの話が「稲むらの火」の元になった)、また地震翌年からは、私財をなげうって全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤「広村堤防」を築きました。そしてこの防波堤は、昭和21年に発生した南海地震の津波から住民を守り抜いたのだそうです。

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この行為に感動したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。後にハーンの本をもとにして小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、昭和12年から22年まで尋常小学国語読本に採用されました。
そして東日本大震災により「稲むらの火」は再び注目され、2011年から再び教科書に掲載されることになりました。

フジコちゃんからもう一つ。
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これまた以前、フジコちやんが友人に誘われて目黒の庭園美術館(旧朝香の宮廷)で開催された、浜口陽三という銅版画家の作品展を見に行き、とても感動したそうなのです。

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数年後、浜口陽三が「醤油王」と謳われたヤマサ醤油10代目の濱口儀兵衛濱口梧洞の三男であると知って、またビックリしたそうなのです。

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調べると陽三の父、10代目儀兵衛は南画収集家で、自らも南画を学んだ人でした。さかのぼれば、5代目濱口灌圃は江戸後期に活躍した南画家で、濱口家は芸術に秀でた人物を多く輩出した家柄でもあるようです。*ヤマサ醤油の当首は代々「濱口儀兵衛」を襲名するそうで、現在は12代目。

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浜口陽三は、 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者として国際的にも評価が高いそうです。メゾチントとは 銅版の全面に細かく交差する線をあらかじめ刻み込み、その線をつぶしたり、削ったりして明暗をつける技法。

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浜口陽三の作品は、日本橋にある「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」で見ることができます。
4月3日からは、「浜口陽三 名品展」が開催します。 http://www.yamasa.com/musee/ 

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ブログで色々な方に情報をいただき、入山瀬断層→地震山→安政地震→稲むらの火→浜口陽三と話が広がってきました。まるで「わらしべ長者」のようで面白いですね。情報を頂いた方々に感謝です。

真っ白な富士山

今日は久しぶりの晴天となり富士山が良く見えます。

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岩本山に寄って富士山を撮影。

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週末の悪天候で、山頂付近にはしっかり雪がついています。

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雁堤に行くと河津桜が咲いていました。今年は寒さが厳しいので、河津桜の開花がかなり遅れました。

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今日は3月と思えない真冬の寒さです。北風が強くて桜の花も寒そう。

日本の世界遺産
ところで、先日、畠掘先生からメールがありました。
昨年ご一緒したときに、「富士山をテーマにした雑誌に記事を書くことになった」と先生からお聞きしていましたが、とうとうその雑誌が出版されるそうなのです。

書名は、朝日新聞出版の「日本の世界遺産&暫定リスト」 で3月15日創刊です。
創刊号は「小笠原諸島」で、その後週刊誌形式で順次発売していくそうです
詳しくは http://publications.asahi.com/isan/ をご覧ください)

そして、4月12日発売・第3号「富士山」の中の2ページを畠掘先生が担当されたそうでなのです。すごいですね。テーマはもちろん「村山古道」。
先生がどんな切り口で「村山古道」を紹介するか今から楽しみです。

今回、朝日ビジュアルのようなメジャーな雑誌に掲載されることで、村山古道が全国的に知られるきっかけになるかも知れませんね。

蒲原地震山・「まつわる話(安政地震)」 

蒲原地震山のことを調べていて、わかったことがあったのでちょっと紹介します。

明治20年 国土地理院地図 字地震山を拡大
まずは、蒲原地震山ができる原因になった地震のお話です。

江戸時代末期は、世の中のしくみが大きく変わっていく激動の時期でしたが、時代と同期するがごとく災害も多く起こりました。
ペリー来航

安政と年号が変わる前年、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる軍艦四隻が浦賀に来航しました。そして黒船来航以降、日本には天変地異が続きます。
とくに安政東海大地震の被害は甚大で、あまりの被害の大きさに年号を変えて出直そうとしたらしく、嘉永7年の11月に年号を「安政」に改めています。世の中が安泰になるようにという願いがこめられていたのかもしれませんね。しかし願いも空しく、その後も災害や疫病が相次いでおきました。

年表にしてみると・・・

嘉永6年(1853年)
2月2日 小田原地震(小田原で被害大)
6月3日 ペリー率いる艦隊が浦賀来航

嘉永7年(安政元年)1854年
6月15日 伊賀上野地震
11月4日 安政東海地震 (蒲原地震山ができる)
11月5日 安政南海地震
11月7日 豊予海峡地震
11月27日 あまりの地震被害で年号を「安政」に変更

安政2年(1855年)
  2月1日 飛騨地震
10月2日 安政江戸地震(江戸で大火発生)

安政5年(1858年)
2月26日 飛越地震(飛騨で被害大)
6月頃   長崎から発生したコレラが急速に全国に拡大

*赤字の地震は特に被害が大きかった地震で、安政3大地震と呼ばれている。

また、地震後には台風や大雨による洪水被害も各地で多発。地震で地形が変わった富士川下流域も大雨により度々氾濫している。
安政の洪水
図は安政3年(1858)の洪水の様子。この洪水により利根川や渡良瀬川の各所で破堤し、多くの人が犠牲になりました。安政江戸地震により川堤が弱くなっていたのかも知れませんね。

疫病では、「コレラ」のほかにも「はしか」や「インフルエンザ」も大流行しています。相次ぐ災害による住環境の悪化や食料不足による体力の低下と、開国による新たな病原菌の侵入が重なって病気が蔓延したのかと思われます。


なまず絵
この絵図は、地震を起こす大ナマズを抑える力がある「要石」を拝む庶民の姿が描かれています。相次ぐ大地震をなんとか抑えてもらいたいと祈っているのでしょう。

安政東海地震絵図
中でも被害が大きかったのが、嘉永7年(安政元年)11月4日の東海地方を中心とする地震、安政東海地震です。11月4日は旧暦なので、今の暦にすると12月23日になります。発生時刻は五ツ過ぎとあるので、午前9時過ぎに起きたようです。震央は遠州灘の東海底で、マグニチュード8.4という巨大地震でした。
この地震により、死者10万人、焼失家屋44万件という甚大な被害がでました。当時の資料によると、伊豆北西端から駿河湾沿岸沿い天竜付近まで激烈な被害があり、三重、山梨、長野でも倒壊した家屋があったそうです。この地震のときに蒲原地震山ができました。

安政大地震による津波
また地震後、千葉房総半島から四国土佐湾にいたるまで津波が襲来しました。特に伊豆下田と伊勢志摩、熊野浦沿岸は被害が甚大だったようです。上図は伊豆下田港若の浦に停泊していたロシア軍艦ディアナ号が津波により大破したときの状況を描いたもの。

東日本大震災 津波
3.11東日本大震災の写真の中に、ディアナ号の絵と酷似したものがありました。歴史は繰り返すのかも知れません。

安政南海地震 津波[1]
そして、なんと翌日の11月5日の午後5時、今度は震源地を南海沖とするマグニチュード8.4の巨大地震が起きました。このときも大きな津波が発生して、東は房総半島、西は九州の北東部沿岸まで津波が襲来したそうです。
被害の最も大きかった土佐領内では推定波高5~8m、紀伊田辺領内では推定波高7mの津波が襲来しました。また、紀淡海峡を抜け大阪湾に入った津波は、道頓堀・掘江川などにも流れ込み、橋や船、川岸の家を押し流したほどだったそうです。
上の絵図は紀州広村(現・和歌山県広川町)を襲った津波の様子。

稲村の火
この村の人々を津波から守った人の話が「稲むらの火」という物語になって語り継がれ、津波防災の大切さを今に伝えています。

3連動 
安政東海地震と翌日起きた安政南海地震は、現在、発生が迫っていると予想され注目が集まる、東海・東南海・南海の連動型地震でした。11月4日が東海プレート(東南海プレートを一部含む)、11月5日は南海プレートが動いたようです。
 
この安政東海地震から遡ること150年程前、宝永4年(1707年)10月4日にも大地震があり大変な被害がでました。この地震は宝永地震と呼ばれ、これも安政東海地震と同タイプの連動型地震だったことが知られています。このときは時間を置かず同時にプレートが動いたようです。また、地震活動に続き富士山の噴火活動も連動して起きています。
宝永噴火
宝永地震の翌日から富士山周辺で地震が多発し、宝永地震から49日後の12月23日、富士山側面から噴煙が上がり始め、その後大噴火となりました。この噴火の跡が現在の宝永火口です。

安政江戸地震[1]
まだ地震は続きます。安政東海地震の翌年、安政2年10月2日に安政江戸地震が起きました。この地震はマグにチュードは6.9と安政東海地震より規模は小さいものの、首都直下型だっため被害が甚大になりました。江戸の死者7000人、倒壊焼失家屋1万5千という大きな被害がでました。絵図は地震による江戸の火災の様子を描いたものです。

わずかな期間に立て続けに大地震がおきたことで、当時の人はこの世の終わりのように感じたことでしょう。この頃の日本列島は、ちょうど地震の活動期だったようです。

無題
そして、政府の地震調査委員会が発表している「長期評価」でも、21世紀前半には、多くの地域で大地震が起きる可能性が指摘されています。
安政東海地震から150年以上が経過した現在、どうやら
日本列島は再び地震の活動期に入ったようです。

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