2007年06月27日

予約投稿しています。

これが投稿されるまで、このサイトは残っているのでしょうか?

わかりません。

2006年12月29日

2006年総括!2007年の抱負

今年は、停滞の年でした。


来年は、上昇の年であることを願っています。

2006年11月03日

予約投稿できたか?

予約投稿できるかな?

2006年11月01日

すきな髪型は ★★

ぼーずだよ。

そう、ぼうずだよ




e000e0020 at 22:42|この記事のURL

2006年07月28日

テスト手巣

テスト手巣

2006年03月26日

浮標

するとその男は鉄梃(かなてこ)でとんとんあちこち突いて見てから、
「こゝら、岩も柔いやうだな。」と云ひながらすなほに私たちに貸し、自分は又上流の波の荒いところに集ってゐる子供らの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっち側で、手をあげたり脚を俥屋(くるまや)さんのやうにしたり、みんなちりぢりに遁(に)げるのでした。私どもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが鬼のやうにこはがってゐるのだと思って遠くから笑って見てゐました。
 さてその次の日も私たちはイギリス海岸に行きました。
 その日は、もう私たちはすっかり川の心持ちになれたつもりで、どんどん上流の瀬の荒い処から飛び込み、すっかり疲れるまで下流の方へ泳ぎました。下流であがっては又野蛮人のやうにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまふと、又昨日の軽石層のたまり水の処に行きました。救助係はその日はもうちゃんとそこに来てゐたのです。腕には赤い巾(きれ)を巻き鉄梃も持ってゐました。
「お暑うござんす。」私が挨拶(あいさつ)しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、
「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸(ちょっと)来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰(たれ)かが溺(おぼ)れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。だんだん談(はな)して見ると、この人はずゐぶんよく私たちを考へてゐて呉(く)れたのです。救助区域はずうっと下流の筏(いかだ)のところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにも行かず、時々別の用のあるふりをして来て見てゐて呉れたのです。もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿(ばか)げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。全くこの人は、救助区域があんまり下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及ばず、それにも係はらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、殊に小さな子供らまでが、何べん叱(しか)られてもあのあぶない瀬の処に行ってゐて、この人の形を遠くから見ると、遁げてどての蔭や沢のはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を雇ふかさうでなかったら救助の浮標(ブイ)を浮べて貰(もら)ひたいと話してゐるといふのです。
 さうして見ると、昨日あの大きな石を用もないのに動かさうとしたのもその浮標の重りに使ふ心組からだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさへ、今年になってから二人も救ったといふのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないやうになるかわからないといふのです。何気なく笑って、その人と談(はな)してはゐましたが、私はひとりで烈(はげ)しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺(おぼ)れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした。


2006年03月15日

タワー計画

「例の記事ですよね?今朝うちの(山崎昇)区長も区議会の冒頭で『放送事業者から(墨田区に決まったという)連絡はありません』と説明しましたよ」と14日、墨田区の広報担当者は困惑気味に語った。「例の記事」とは14日の読売新聞朝刊の記事「第2東京タワー墨田区に」のことだ。この記事では、地上デジタル放送の首都圏の発信拠点としてNHKと在京民放テレビ5局で構成する「在京6社新タワー推進プロジェクト」が計画する、高さ600メートル級の新東京タワー(仮称)を墨田区を含む「墨田・台東エリア」に建設することを「決定した」と伝えている。

 「新タワー推進プロジェクト」は2005年3月、新タワーの建設予定地として「墨田・台東エリア」を第1候補地に、「さいたま新都心」を第2候補地に選定した。当初、05年12月末までに最終決定する予定だったが、協議時間の不十分を理由に3月末まで延期されている。現在の各候補地の動きをまとめた。

墨田区長「私が決めることではないから、100%とは申し上げられない」

 新聞報道を受けて墨田区は、14日の午前中には同区のウェブサイト上に「放送事業者側から正式決定の報告を受けておりませんので、現在も協議中であると認識しております」とコメントを掲載した。「墨田・台東エリア」の事業主体に名乗りを挙げている東武鉄道の広報センターも「放送事業者からは決定の連絡はありません」と状況を語った。同社では新タワーの仮称を「すみだタワー」としている。

 同日午前10時から行われた区議会の予算委員会で、山崎区長は新タワーについて「99.9%(墨田区に)決まったととらえている」と発言し、残りの0.01%の理由については「私が決めることではないから、100%とは申し上げられない」と答弁した。また、報道内容について新タワー誘致を担当する同区の拠点整備課には、問い合わせが殺到したという。前述の広報担当者は「このまま(報道内容が)本当になってくれると良いのですが」と本音も。「発表するのであれば1社のスクープではなく、記者会見を開いて皆様にお知らせしたい」と区の姿勢を話した。

さいたまの事務局には新たに2グループが提案

 「第2候補地」のさいたま新都心にも動きがあった。県・市・地元経済界を中心とする誘致団体「さいたまタワー実現大連合埼玉県・さいたま市合同事務局」(総代表・石原信雄元内閣官房副長官)に、IT関連企業など2グループが提案を持ちかけている。同事務局では「放送事業者には以前の3案に加え、このような話があると伝えたが、具体的な内容を放送事業者側に提案するには至っていない」とし、現時点では新たな2案は同事務局で検討している段階だという。

 また、来年度予算で埼玉県とさいたま市は、それぞれ1354万1000円を調査費として計上している。

東京タワーはどう出る?

 現在地上デジタル放送の電波を送出する東京タワーはどう出るのか。タワーを運営する日本電波塔では、04年の新タワー構想発表直後に放送事業者へタワーの改修計画を提案している。現在のアナログ放送用アンテナを、11年7月のデジタル放送完全移行後に撤去、アンテナ部分の高さを約100メートル高くして、タワーの全高を333メートルから360メートル程度にする計画。

 さらに年明けには、東京タワーの敷地内に別棟で送信設備を新築し、災害対策として千葉県君津市に緊急用タワーを建てる計画を放送事業者へ提案している。これらの費用はすべて同社が負担する見込み。

練馬では1000メートルのタワー計画

 05年3月の候補地選定でもれた練馬地区では、民間誘致団体「東京ワールドタワー推進協議会」(会長・奥山則男元都議会議長)が、高さ1008メートルの「東京ワールドタワー」計画を05年11月末に発表した。建設予定地選びの大詰めを迎えた3月に入るとタワーの概要を公表した。

 敷地は西武鉄道グループの娯楽施設「としまえん」内で、地上350メートルと650メートルの高さに展望室を設ける予定。事業主体には菓子大手のロッテ(本社:東京都新宿区、重光武雄社長)に協力を要請した。だが、西武鉄道広報部は「現時点では検討まで至っていない」、ロッテは「具体的な内容はこれから」と誘致団体の熱意とは温度差が見られる。

放送事業者の見解は

 墨田区、東武鉄道、さいたま大連合の担当者の話を総合すると、現時点では放送事業者側の正式見解はまとまっていないもようだ。ある放送事業者によると、1年前に第1、第2候補地を選定しているので、これらを基に検討しており、最低限3月末には何らかの発表を行う予定だという。


2006年03月11日

繙(ひもと)く

 石川啄木が歿(なくな)つてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、況(いは)んや石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。
 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。
 石川の歌集を繙(ひもと)く人は、その作品の中に小奴(こやつこ)といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。
 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従(こせう)して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。その時東京からの扈従記者は新聞では国民新聞の坂本氏、通信社では電報通信の小山氏、日本通信の吉田氏らであつた、その時の新聞班の係長はつい先ごろまで、千葉県や群馬県の県知事をしてゐた県忍氏で県氏はその当時北海道庁の事務官であつたため新聞班の係長に選定されたのである。
 そこで我等扈従(こせう)記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼(まるまんろう)で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。
 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓(げいしや)も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢(とし)は二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。

ようこそ、e000e0020さん

ようこそ、e000e0020さん

2006年03月05日

たくさんの機能がある

たくさんの機能がありますね。

それから、どれを使えばいいのか

難しいですね。