『narcissu』感想をみていただければわかりますが、
私はnarcissu side 2ndに対してそれほど好意的感情を持っていなかったりします。
その理由は、作者である片岡ともさんの発言に端を発したものなのですが、
何となく書いてみようかなと。
まぁ、感想に書いたことと同じことをまた書くだけなのですけれど。
感想の前半と後半との違和感に気づかれた方にとっては特にそうなるかと。
子供じみた感情論なので、あんまり気にしないで下さいと書くのもこれを書いておいてあれですが、
そんなノリのお話です。
私が2ndで特に気に掛かっているのは、主人公とセツミの母親と面会するシーン、そのときの母親の台詞です。
この母親の発言は私にとって鬼門であり、片岡ともさんの以下の発言や
推奨とされた2nd⇒1stのプレイ推奨順序がそれに輪をかけました。
(※)
『 旧ナルキでは描かれなかったけど、本当は、セツミさんも、明るくて優しい人達に、
囲まれていたんだってことを表現したかったんだと思います。
もしくは、そうあって欲しいという願いからです。 』
何度でも主張します。私はこの作品は1st⇒2ndでプレイするべきだと。
2ndはセツミの物語をよりヒロイックにするように思えてならないのです。
そして,1stの主人公とプレイヤーとが離れ過ぎているように思えてならないのです。
互いを詳しく知らない2人の夏のあの日、あの瞬間の輝きが,、
セツミへの同情とそのことによる主人公の希薄化によって奪われてしまうように思えてならないのです。
2ndはセツミを幸福にするための物語だったのではないか、私はそう考えています。
けれど、それは私にとっては素直に受け入れられるものではないのです。
だって、narcissuを描いたのは片岡ともさんなのですから。
後からそんなものを描こうだなんて、作家の傲慢ではないのか、
そんなことを当時思っていましたし、今でもその気持ちはあるように思います。
作品を好きと言いながら、作者を非難する、我ながら面倒くさい奴だなぁと思いますが(苦笑
さて、母親の台詞に話を戻しましょう。
私には,母親から主人公に告げられた言葉、感謝は、片岡ともさんの言葉の代弁ではなかったか、
そう思えてなりませんでした。
自分でもきっかけは定かではありませんが、おそらくは(※)を知ってしまったからなのだと思います。
母親の台詞がセツミと主人公の選択を作品内世界の答えとして肯定する、
そして、そうすることでセツミの生を祝福するもののように思えたのです。
意識過剰なのは自覚しながらも、意識せずにはいれませんでした。
なぜそこまでにそのことが気になるのか、と問われれば、
母親の言葉がセツミの言葉に代わるものではないかとも感じているからです。
もしそうなのだとしたら、それはエコーに言葉を持たせる行為ではないかと思うからです。
私にとっては蛇足に思えてならなかったのです。
私にとってnarcissuとは『眩しかった日のこと、そんな日のこと』がすべてです。
私は、それをある人の日常であり、ある人の非日常、
日常であって、非日常でもあるもの、そんなふうに考えています。
主人公とセツミにしかわからない、かがやいていた瞬間、それが眩しかった日であり、
二人以外にはわからない、そんな日のことがこの作品の美しさだと私は思っているのです。
『眩しかった日のこと、そんな日のこと』は、
‘二人だけ’と書いたように、読者であるプレイヤーや母親ももちろん
その場に居ない者の倫理感や価値観では不可侵なものだと私は思っています。
何が言いたいのかといえば、主人公がセツミの行為を止めなかったということの善悪や正しさに関係なく、
それは『眩しかった日のこと、そんな日のこと』だということです。
それゆえに私にとっては蛇足であり、エコーの言葉がエコー以外の者から発せられたような気がした
その台詞が気に掛かって仕方がありませんでした。
母親の言葉がその(私にとっての)かがやきを貶めるものではないでしょう。
けれども、私には強く意識されてならなかったのです。
以上が、私がnarcissu side 2ndを苦手としている理由です。
この感想って、実のところ、作者本人の介入ですら否定しているので、ひでぇ感想です。
急展開があった漫画とかで、原作者に○○はそんなことをするやつじゃない、あんた間違ってる
って言うのと程度の差こそあれ、変わりないのではないかななんて。
まぁ、とんでもなくめんどくさい野郎だなぁと自分でも思いますが、
思ってしまうもんは仕方がねぇーと開き直っております。
好きなんですよ?
でも、本当にこの作品が好きなのか、ただの自分の妄想なのかよくわからなかったりしたりしなかったり
そんな感じなので、とりあえず残しておこうと思いアップしてみましたのでした。
予定より長くなりましたが、最期にひとつだけ、1st⇒2ndのプレイ順を進める理由補足。
narcissu(無印)の魅力は、かみ合わない二人が最期に得たものにあると思います。
『眩しかった日のこと、そんな日のこと』は、互いに互いのことを深く知らない、
誤解さえしているふたりだからこそより眩しいのだと思います。
セツミのことを深く知らない主人公ですが、誰も知らないことを知っているのです。
それさえあれば、彼女と接した時間は問題ではないのではないでしょうか。
3万5千人の中の1人であろうが、2人の中の1人であろうが、1人なのです。
そこに何を見出すかは人により違うでしょう。
けれど、確かに1人なのです。
私は、主人公により近い位置で読者になって欲しいと思いました。
セツミの過去を知っていなければならない道理はないのです。
ひとりおいていかれた主人公がそれをみることができたのですから。
できることならば、セツミだけでなく、主人公に思いをはせて欲しいのです。
この作品は、主人公とセツミだったからこそ素晴らしかったと思うのです。
姫子とセツミの物語、セツミ(だけの)物語では違うのです。
narcissuは、あくまで主人公とセツミの物語だと思っています。
セツミの過去を知ってからでは主人公が薄くなってしまう、そう思えてしまうのです。
これが1st⇒2ndのプレイ順を進める理由です。
(‘べき’なんてものはないはずなのですけれど、少しは反省しています)
私はnarcissu side 2ndに対してそれほど好意的感情を持っていなかったりします。
その理由は、作者である片岡ともさんの発言に端を発したものなのですが、
何となく書いてみようかなと。
まぁ、感想に書いたことと同じことをまた書くだけなのですけれど。
感想の前半と後半との違和感に気づかれた方にとっては特にそうなるかと。
子供じみた感情論なので、あんまり気にしないで下さいと書くのもこれを書いておいてあれですが、
そんなノリのお話です。
私が2ndで特に気に掛かっているのは、主人公とセツミの母親と面会するシーン、そのときの母親の台詞です。
この母親の発言は私にとって鬼門であり、片岡ともさんの以下の発言や
推奨とされた2nd⇒1stのプレイ推奨順序がそれに輪をかけました。
(※)
『 旧ナルキでは描かれなかったけど、本当は、セツミさんも、明るくて優しい人達に、
囲まれていたんだってことを表現したかったんだと思います。
もしくは、そうあって欲しいという願いからです。 』
何度でも主張します。私はこの作品は1st⇒2ndでプレイするべきだと。
2ndはセツミの物語をよりヒロイックにするように思えてならないのです。
そして,1stの主人公とプレイヤーとが離れ過ぎているように思えてならないのです。
互いを詳しく知らない2人の夏のあの日、あの瞬間の輝きが,、
セツミへの同情とそのことによる主人公の希薄化によって奪われてしまうように思えてならないのです。
2ndはセツミを幸福にするための物語だったのではないか、私はそう考えています。
けれど、それは私にとっては素直に受け入れられるものではないのです。
だって、narcissuを描いたのは片岡ともさんなのですから。
後からそんなものを描こうだなんて、作家の傲慢ではないのか、
そんなことを当時思っていましたし、今でもその気持ちはあるように思います。
作品を好きと言いながら、作者を非難する、我ながら面倒くさい奴だなぁと思いますが(苦笑
さて、母親の台詞に話を戻しましょう。
私には,母親から主人公に告げられた言葉、感謝は、片岡ともさんの言葉の代弁ではなかったか、
そう思えてなりませんでした。
自分でもきっかけは定かではありませんが、おそらくは(※)を知ってしまったからなのだと思います。
母親の台詞がセツミと主人公の選択を作品内世界の答えとして肯定する、
そして、そうすることでセツミの生を祝福するもののように思えたのです。
意識過剰なのは自覚しながらも、意識せずにはいれませんでした。
なぜそこまでにそのことが気になるのか、と問われれば、
母親の言葉がセツミの言葉に代わるものではないかとも感じているからです。
もしそうなのだとしたら、それはエコーに言葉を持たせる行為ではないかと思うからです。
私にとっては蛇足に思えてならなかったのです。
私にとってnarcissuとは『眩しかった日のこと、そんな日のこと』がすべてです。
私は、それをある人の日常であり、ある人の非日常、
日常であって、非日常でもあるもの、そんなふうに考えています。
主人公とセツミにしかわからない、かがやいていた瞬間、それが眩しかった日であり、
二人以外にはわからない、そんな日のことがこの作品の美しさだと私は思っているのです。
『眩しかった日のこと、そんな日のこと』は、
‘二人だけ’と書いたように、読者であるプレイヤーや母親ももちろん
その場に居ない者の倫理感や価値観では不可侵なものだと私は思っています。
何が言いたいのかといえば、主人公がセツミの行為を止めなかったということの善悪や正しさに関係なく、
それは『眩しかった日のこと、そんな日のこと』だということです。
それゆえに私にとっては蛇足であり、エコーの言葉がエコー以外の者から発せられたような気がした
その台詞が気に掛かって仕方がありませんでした。
母親の言葉がその(私にとっての)かがやきを貶めるものではないでしょう。
けれども、私には強く意識されてならなかったのです。
以上が、私がnarcissu side 2ndを苦手としている理由です。
この感想って、実のところ、作者本人の介入ですら否定しているので、ひでぇ感想です。
急展開があった漫画とかで、原作者に○○はそんなことをするやつじゃない、あんた間違ってる
って言うのと程度の差こそあれ、変わりないのではないかななんて。
まぁ、とんでもなくめんどくさい野郎だなぁと自分でも思いますが、
思ってしまうもんは仕方がねぇーと開き直っております。
好きなんですよ?
でも、本当にこの作品が好きなのか、ただの自分の妄想なのかよくわからなかったりしたりしなかったり
そんな感じなので、とりあえず残しておこうと思いアップしてみましたのでした。
予定より長くなりましたが、最期にひとつだけ、1st⇒2ndのプレイ順を進める理由補足。
narcissu(無印)の魅力は、かみ合わない二人が最期に得たものにあると思います。
『眩しかった日のこと、そんな日のこと』は、互いに互いのことを深く知らない、
誤解さえしているふたりだからこそより眩しいのだと思います。
セツミのことを深く知らない主人公ですが、誰も知らないことを知っているのです。
それさえあれば、彼女と接した時間は問題ではないのではないでしょうか。
3万5千人の中の1人であろうが、2人の中の1人であろうが、1人なのです。
そこに何を見出すかは人により違うでしょう。
けれど、確かに1人なのです。
私は、主人公により近い位置で読者になって欲しいと思いました。
セツミの過去を知っていなければならない道理はないのです。
ひとりおいていかれた主人公がそれをみることができたのですから。
できることならば、セツミだけでなく、主人公に思いをはせて欲しいのです。
この作品は、主人公とセツミだったからこそ素晴らしかったと思うのです。
姫子とセツミの物語、セツミ(だけの)物語では違うのです。
narcissuは、あくまで主人公とセツミの物語だと思っています。
セツミの過去を知ってからでは主人公が薄くなってしまう、そう思えてしまうのです。
これが1st⇒2ndのプレイ順を進める理由です。
(‘べき’なんてものはないはずなのですけれど、少しは反省しています)