2009年09月20日
手稲山にも出た!
シルバーウィークのすがすがしい秋晴れの日です。久々に手稲山に登ってきました。夏の蒸すような暑さは過ぎ去り、悪さをする蚊などの虫たちもいません。まあホントしばらく行ってないんで、わたしの体力も実は消え去っているんですけどね…。
というわけで、平和の滝登山口から歩きはじめまして、ちょっと歩くとこんなものが。

あららー。出ちゃってます。ごていねいにビニールテープで無言のプレッシャーです。「登らない方がいいんじゃない?」って感じですか。岐阜の乗鞍スカイラインでも熊でひと騒動起きてますしね。
しかも、

『この場所でヒグマ目撃』!
なんと、昨日ですか…。
登山道の上ですよ。
にゃろー、熊のくせに楽しやがって!
ことし、手稲山周辺では、ポツポツと目撃情報が聞かれます。

あ〜あ、今日もいい景色でよかった、よかった。いい汗かきました。
日曜日とあって、結構登山者が入ってました。
これだけ人が登っていれば熊も出てきませんよ。たぶんあそこで引き返した人は一人もいなかったでしょう。なにせここは北海道ですしね(意味不明…)。甘く見ちゃだめだけど、恐がりすぎるのも違うんですよ。
2009年09月18日
国をつくるという仕事
久々にすごいノンフィクションに出会いました(って、しばらくノンフィクションとは疎遠だったけど…)。前世界銀行副総裁の西水美恵子さん著『国をつくるという仕事』がそれです(英治出版、1,800円+税)。
だいたい、世界銀行って言葉は聞いたことあるような気がするけど、何するところ? 世界銀行という名前自体なんだか大掛かりで、一歩間違えたら子供銀行と同じレベルじゃないの、なんてバカなことを考えてしまうくらいの認識しかありませんでした。
世界銀行=世銀は加盟国の国民を株主として金融業を営む正真正銘の事業体で、市場的に信用がない発展途上国に低い金利で融資を行い、良い国づくりをバックアップしています。
ところが、です。やはり巨額の金が絡むことはそう簡単にはいかないんですね。最大の問題は、融資を求める発展途上国の権力者の腐敗と悪統治です。一国の統治を任されている彼ら、彼女らは、国民の貧困や苦しみなんて見てみぬふりで、私腹を肥やすことばかりを考えている。そんなケースが多いんですね。
この西水さんが、その国に入ってまずすることは、その国の首脳に会うことじゃなく、その国の最も辺鄙な地方の貧しい家族へのホームステイなんです。世銀の有力者なんですよ。そんな人がNPOなど貧困解消のためにがんばっている組織の力を借りながら、ほぼお忍びで現地に入ってそこの生活を実体験するんです。文字通りの実体験。同じものを食べ、ともに働き、生の声を聞くんです。
そのうえで、必要があれば為政者にも会います。そしてガンガンと意見を述べるわけです。為政者がいくらカッコいいことを言っていても、やっていることが違えば(実際に見て、体験しているわけですから)、正面から喧嘩を買って出て、はっきりと反論し、改善を求めます。
貧困をなくすために融資を行うのであって、権力者の私腹を肥やすためではない、という明確なメッセージを発するのです。
この本は世界各国を自分の足で歩き、そこで出会った心あるリーダーたち(為政者であるとは限りません。地域のリーダーであったり、非政府組織のリーダーであったりします)、貧困から抜け出そうともがく一般の人たち、希望に燃える子供たちらとの交流、協働の記録です。
西水さんは言います。「国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う。(中略)リーダーの仕事には夢と情熱と信念がある。頭とハートが繋がっているから、為すことが光る。心に訴えるものがあるから、まわりの人々にやる気と勇気をもたらす。そのリーダーの善し悪しが、開発途上国の発展に決定的な差を生む」
国づくりに限らず、およそ組織と名のつくところなら、どこででも通用する言葉ですね。
そして、世銀で働くきっかけになったある出来事。その後の西水さんの生き方を決定づけることになった出会いと別れ。わたしも少なからず心を動かされました。
西水さんが世銀で働くかどうか考えていたときに、たまたま訪れたエジプトのカイロで、病んで弱っているナディアという幼女に会いました。看護に疲れきった母親から抱きとったとき、ナディアの羽毛のような軽さに驚き、手配した医者も間に合うことなく、彼女の腕の中で静かに息を引き取りました。原因は下痢から来る脱水症状。貧困でさえなければ十分手当てが可能なことでした。
「誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富があふれる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。
脊髄に火がついたような気がした」
西水さんは、そう記しています。
心が震える、一冊です。おススメです!
2009年09月03日
1Q84は、一休やーよ?
前回まで、なんと4回にわたって村上春樹の『1Q84』について、極私的な記事をしたためてしまいました。当初は普通にレビューしようと考えていたんですが、いざ書きはじめようとすると、パシヴァとしてのわたしにリトルピープルが降りてきたらしいのです(悪乗り!)。
まだ読んでいない人にこの本を紹介するというよりも、すでに読んだ人に少し面白がってもらえばいいかなって感じで書いていました。それと、書くことで自分の中に湧き上がってきたものをあらためて自ら観察してみたいという思いもあったんです。
この物語で語られていることはもっとたくさんありますから、まだまだいろいろな切り口があるでしょう。実際、関連本が一気にどどっと出ましたよね。さすがにその手の本を読む気はしませんが…。
次回からは、また気楽な記事に戻ることと思います(一体いつのことになるやら?)。そろそろ『ハリーポッター』のことでも書こうか、なんて考えてます。英語のお勉強にからめてということですが。
2009年09月01日
村上春樹が青豆と天吾に託したもの
どれだけ強く望もうとも、この世の中から人々を蹂躙する凶暴な力がなくなることはないでしょう。人間が社会を形成する限り、それは絶え間なく再生産されていくものだからです。また、ある出来事が善なのか悪なのか、二元論で簡単に片付けてしまうこともできません。ただ、凶暴な力に晒され、苦しむ人が常にいるということだけは、変えようのない事実です。
青豆も天吾も、子供のときに、子供社会から孤立せざるを得ない家庭環境に置かれ、そのことによって形成された心のしこりのようなものを抱えたまま成長していくことになります。
大人になった彼らは、善なる人間でもなく、また、悪しき人間でもありません。いうならば、誰しもと同様に少し歪んだ感覚を持った、ごく普通の人間たちだといっていいでしょう。振る舞いとしては、傍から見て異常だと思える部分がもちろんないわけではありません。しかしそれは、人間らしいといってしまえばそれまでです。
では、このある種救いのない世界の中で、村上春樹が青豆と天吾の二人に託したものはなんだったのか。それは、「手をつなぐこと」だったのではないでしょうか。しっかりと強く握り、その温もりが伝わり、感情が大きく動く。その心を揺さぶる体験が、二人の命を結びつけ、この荒々しい世界を優しく、特別なものにしました。
物語では、小学4年生の秋の放課後(二人は同級生でした)、教室でたまたま二人きりになった時に青豆は突然天吾の手を無言で握り締めました。きっと自分という存在の全てをかけて、彼女は天吾の手を握ったのでしょう。そのときはただ驚くだけだった天吾も、それがその後生きていく中での芯になっていたことに、あるとき気づくのです。
「手をつなぐこと」でお互いの手の温かさ、柔らかさ、力強さを実感すること、そして今ここに生きている魂が一瞬にふれあうこと、同じ世界に立っている奇跡を楽しむこと、喜び悲しみを深く共感すること、ができます。
それは、救いのない世界をもたらす「リトルピープル」の力を無力化し、わたしたちが立っているこの場所を、生きるに足る世界に変えていく力を持ちます。それを「希望」と言い換えることもできるでしょう。こびりついた手垢をしっかり落としたうえで、「愛」と呼ぶことだって可能かもしれません。
天吾は『1Q84』の最後で、自分の奥深くに沈めたままでいた青豆への思いにようやく気づきます。新しい世界が生まれるのはたぶん、これからです。


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2009年08月30日
THE SYSTEMとは…
『1Q84』を読み終わった後、ついに読み頃が来た!と思いまして、ずいぶん前に買ったまま本棚にしまいこんで放置していた『アンダーグラウンド』のページをようやく開きました。村上春樹が地下鉄サリン事件で被害に遭った人たちを丹念にインタビューしてまとめたノンフィクションです。実に丁寧な取材で、正直言ってとても胸を打たれました。犯罪の被害者、それも皆ごくごく一般の人たちですが、の聞き取りをこれだけ克明に記した書物は相当にまれだと思います。
一人ひとりの肉声が伝わってくるような生々しいレポートです。オウム真理教の非道さが述べられることはもちろんですが、読みすすめていくうちに、少なからず違和感も感じはじめます。それは、加害者としてのオウム、被害者としての個々人、という単純な図式だったものが、その図式があらぬ方向に拡大していくためです。
加害者がオウムに加えて会社、世間、マスコミと、どんどん拡大していくとともに、被害者の多くも直接的な事件としての健康被害だけだったものから、社会的な関係性の中で、いわれのない、ある種差別的なプレッシャー受ける方向に押し流されていくことになります。
被害に遭った人は、たまたまその時間、その場所に居合わせただけ。不運な偶然に見舞われてしまった人たちです。落ち度など何一つもありません。ところが事件後、後遺症を理解されず、不当な扱いを受けている人たちがいます。好奇な目で見られる人たちもいます。結局、どうにもできないまま行き詰ってしまう人も出てきます。
これはどうしたことでしょう。この事件での悪はオウムであることに間違いはないでしょう。にもかかわらず、被害者がその後世間の中で疎外され、苦しむ現実もまた確かにあるのです。
ここに至って、考えないわけにはいきません。これはいったどういうことなのかと。インタビュアーである村上春樹はその問題に行き当たったのでしょう。
イスラエルでの講演で彼が述べた「壁」=「THE SYSTEM」という存在についてですが、それは「体制」という意味にとどまらず、『共同体意識』や『暗黙の了解』、『世間体』というものまで含まれるような気がします。
『1Q84』の中に出てくる新興宗教やいじめ、ドメスティックバイオレンス、貧困、社会秩序などといったテーマは、そういった身近にある社会関係的な力学を具体的に表現しているように見えます。実は国家体制も共同体意識も、通常は「わたしたちを守るべき役割を担っているもの」です(The System is supposed to protect us)。
ところがどこかでボタンを掛け違えると、そのシステムの力は歪んだ方向にねじ曲がって進んでしまいます。その結果、まさに村上春樹が述べている通り、システマチックに人の命を投げ出させ、オートマチックに殺す凶暴な力を振るうことになります。国家という大きなところから、教室、家族という小さなところまで、組織と名のつくものはすべて同じ振る舞いをするようです。
救いがありませんね、これでは。そしてこれで終わってしまうのでは、『1Q84』に青豆と天吾が出てくる必要もないわけです。さて、村上春樹は青豆という女性と、天吾という男性に何を託したんでしょうか?


