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死から甦った人間たちが送る闘争劇。死=終わりを意味しないことが、命のやり取りの先に見える物語の存在を大きくさせていた。

垣間見える裏社会の様相は、「眠れぬ羊と孤独な狼」と世界観が直接繋がっていることを強く納得させられる。前作とは違って、ただダークな世界観を映し出すのではなく、ひとつの物語として綺麗に昇華させた点が良かった。

この作品を通して深く考えさせられるのは、やはり死生観についてだろう。”ただ生きているだけ”でも頭について離れない死という概念を、より近親めいたものとしている設定とそれを活かしたストーリーは、なるほどDEAD DAYSと呼ぶに相応しい。

主人公の置かれた状況と境遇もこの物語に親近感を芽生えさせる多大な要因となっている。特に信頼と同じ大きさの拒絶が綯い交ぜとなった思春期特有の複雑な関係を結ぶ幼馴染・真魚の存在は大きい。

日々、あれだけ拒絶を繰り返しながらも、真魚を失った時に弾ける主人公の慟哭の悲痛さがどれだけ「幼馴染という存在は絶対」なのかを伺わせる。

存在の大きさは失った時にこそ分かるのだ。

それは、真魚との関係だけを表しているのではなく、作品における漠然と漂い確固たるテーマとして佇む全般的な死生観に向き合う人間の心情が見せる傾向を示しているのだろうと思う。

いつかは訪れる死のことを考えてはいても、現実に訪れるのは遠く先の未来なのだろうと平穏な空気に包まれて暮らす人間達は考える。特段の事情が無い限りは、明日、自分を含む誰かが死ぬことを予期できる人間などいない。

誰かを一番深く考える瞬間は、誰かの死が起きてから訪れ、突然降って湧いた死について思考し行動する人間はお話として映える。

死を起因とする精神状態の変化は多岐に渡り、哀愁、絶望、復讐、猜疑……あるいは、プラスの感情を芽生えさせる異常者の存在も少数ながら無視出来ない。

そういった死を、何度も何度も繰り返す本作であるが、決して死の価値が薄れることはない。なぜなら繰り返す死に揺れる心の向かう先が変わる様こそが、最大の魅力となっているからだ。悪質なエンターテイメントは、人が持つ暗い心を躍らせる。

そういった通念が渦巻く世界に、幼馴染との恋愛要素をぶち込んだ思い切りの良さが功を奏していた。死という全ての終わりに等しい暗いだけの概念が、甘いハッピーエンドに繋がるための道を塞ごうとする障壁に早変わりである。

その死を生々しく克明に、億劫もなくそのままの形で描いていたから最後のご都合主義も決して甘美なだけの概念として存在を許すことはない。

トゥルールートで散ったキルルと天願は勿論、”あったかもしれない”物語が確かな記憶となってプレイヤーの脳裏に蠢き、いつか確実に訪れる死という存在は消えない。そんな当たり前の概念への気付きが、あのハッピーエンドがどれだけ歪な甘さなのかを思い知らせてくれるのだ。

いくらひとつの物語が幸せな結末(≒はじまり)を迎えたところで、薄く、時には濃く、確実に漂う「死」の香りを嗅ぎ続けて生きていく私達プレイヤー・作中キャラクターが送る死の日々は終わりを告げることは決してない。

魂の消滅を迎えない限り、永遠にDEAD DAYSの終焉はやってこないのだから。