絵描きぶらぶら

絵を描き、酒を喰らい、ぶらぶら生きている。 画家 平田浩之のブログです。

近所を描く

フェイスブックの方ばかりやっているので久しく、かなり久しくブログの存在を忘れていました。ホームページは作っていないのでその代りにブログを利用するつもりでいたのです。
私が講師をしている教室、アートカルチャーともリンクしているし、生徒やその他の訪問者も見に来ると思います。しかし、こんなにも更新していないと意味がないので、少しまじめに取り組むことにしましょう。
さて、フェイスブックには気ままに揚げていたのですがあれはすぐに流れてしまいます。空しい感、否めないのであらためてブログで掲出します。近所を描いた水彩です。
昨年の11月頃から描き始めました。
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近所の(小平市)のグリーンロードですね。四季をとおして実に美しい遊歩道です。

他人事

日曜日のこんな雨の昼下がり、みんな何をしているんだろう?
みじかな人の顔を何人か思い浮かべてみたもののどうせ憶測であるからして当てにはならない。そんなどうでもいいことなど考えていないで少しは自分のことをしろと叱責してみたりする。
雨の日は行動が鈍りがちだ。降りしきる雨音をぼんやり聞いているうちに他愛のないことが次々に勝手に思い浮かんでは消えていく。自分だけの時間が静かに過ぎてゆく。それを他人事のように雨の空から部屋の中にいる自分を眺めているような、そんな感覚になっている。

たまにはブログも書きましょうね。

ポッポ その後2

すでにフェイスブックではお知らせしたのですが、ポッポは3月19日(日)に巣立っていきました。ですから現在、私の元にはいません。どうやって飛び立って行ったのかは追ってこのブログでお話ししていきましょう。


さて、とりあえず靴の箱で落ち着いたものの蓋をかぶせるわけにもいかない。近所のDIYで小鳥用のケージを買ってくることにした。
ケージを組み立て、移してやった。小鳥用の狭いケージなので少しヨタつくけどひっくり返らないようだ。糞の始末もやり易い。ちねったパンくずは水の中に入れてやると食べた。これなら水分も同時にとれる。なんとか生きていけそうだ。

日中、仕事に出かけ夜戻ってくるとポッポは鳥かごの中でおとなしくしゃがんでいた。
まだ少し怯えているのだろうか、運命に身をゆだねるしかないと諦めたのか、それとも生きる希望を持ったのだろうか、小さな丸い眼の中にはなんとも曖昧な光が見て取れた。


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ポッポ その後1

そういえばポッポはどうしていますか?と最近聞かれることがある。
facebookなどではたまに載せていたのだけど気にかけてくれている人もいるんですね。私のブログを見てくれている人も少なからずいるようですからその後の顛末を報告しておきましょう。

ポッポは焼鳥にして食ってしまいました。
嘘です。

ポッポをアトリエに保護してからすでに半年になります。前回からの続きをお話ししましょう。
アトリエでポッポと一晩過ごした翌朝、そっと紙袋を開いてみた。ドブネズミのようにまっ黒に汚れ羽根もぼろぼろのポッポはやはり弱々しく身をすくめていました。
とりあえず水を与え小さくちねった食パンをあたえてみたが無理だった。飛ぶことはおろか、立っていられずにすぐひっくり返ってしまうのだった。
見れば尾翼(尻尾)が右に直角に曲がっている。羽の数も少ない。しかし、幸運なことに致命傷になるような傷は負っていないようだ。
そこで靴の箱に入れてみたら脇が支えられるのでひっくり返らない。うん、これでよし。
再度ちねったパンを嘴にもっていったけどやはり食べない。鳩は雑食だと聞いたがパンは嫌いなのかな?
それとも自分が(ポッポ)がどうなったのか、どこに連れてこられたのか、これから何されるのか現状を理解できず恐怖に怯えているのだろうか?
かなり弱っていることは見てとれたのでしばらくそっとして様子を見てみることにした。
これからのことを考えると名前があったほうがいいだろうと思って一瞬考えてみたけど、考えるまでもなく「ポッポ」に決めた。
私はおじさんらしからぬ間抜けたファルセットで「ポ〜〜っポッポ」とできるかぎり優しく呼んでみた。
一瞬、小さな頭を少し傾げたようだった。

ポッポのこと

そろそろポッポのことを話そうかな。
Facebookでも少し載せたことがあったけど、今アトリエの机の下に一羽の鳩がいる。
まだ残暑も厳しい9月6日火曜日の夜のこと。新宿で教室の仕事を終えいつもの様に行きつけの居酒屋Yへ向かう。入口のすだれ暖簾の下に一羽の鳩がうずこまっていた。不意のことだったので危うく踏んでしまうところだった。怪我をしているのか弱っているのは一目でわかった。しかし、どうする事も出来ないので踏まないようにして取りあえず店に入った。
いつものように入ってすぐ左のカウンターに座り飲み始める。振り向けば暖簾の下が見える位置だ。店のマスターに尋ねたら昨日から店の周りをらふらしているとのこと、何故か自分の店の前に戻ってくるのだという。猫にでも襲われたらかわいそうだなと思っていたけど飲食店であるから何ともできなくて成り行きにまかせるしかないと言った。
ふ〜ん、未定見な相槌を打って酒を飲む。たまに暖簾の下に目をやるとどうしたことか、仰向けにひっくり返って二本の足をばたつかせ藁をも掴まんとして必死にもがいていた。やっと自力で立ち直ったかと思うと二三歩してまたひっくり返ってしまう。後から来たお客さんも踏みそうになるので気が気ではなくなってきた。
もう、何度もひっくり返るので汚れてドブネズミのようだった。少し酔いも回って感情が高ぶってきたのか、ゆっくり酒を楽しんではいられない気分になってきたのだった。
酒にしびれた頭で考えあぐねた結果、こうすることにした。もし、俺が帰るまでにそこにいたら連れて帰ろう。介抱して元気になるまで面倒みよう。もし死んだら自宅の庭に埋めてあげればいい。
結局、それから二杯ほど飲んだ後、マスターに話し外に出て紙袋に包むようにして入れた。そのまま西武新宿線にのって小平まで帰ったのでした。
ポッポは鳴く元気もなく立つこともできない状態だったのでそのまま紙袋の中で一晩様子を見ることにし、私もアトリエに泊ることにした。

6

年賀状

今年もたくさんの年賀状が届いた。教室で指導していることもあって、出すのも頂くのも年々増えて行く傾向にあります。
この頃ではメールやスマホなどで一度に簡単に送れるようになったこともあって年賀状を出さない人が増えているという。私はさぼった時期もありましたがなるべく出すようにしています。

考えてみると宛名も住所もパソコンでプリントできるし、絵柄だって一枚の原画を描くだけで済むのでずいぶんと楽になったと思う。それ以前は住所も手書きだったし絵柄もプリントごっこや孔版画で一枚一枚丁寧に作っていました。
これは、父の影響もあるのだ。教師だった父は律義に毎年たくさんの年賀状を出していました。二百枚以上は出していたのではないだろうか。
その絵柄を小学2年生の頃から木版画で作らされていたのです。その年の干支を木版で彫り私と姉と父の3人で刷るのが年末の一大行事だった。晩年、病床に伏していた頃は私が代筆して東京から送っていました。

話がそれてしまった。私の経験談になるけども遠くにいる古い友人や世話になった人には出しておいた方が良いと思う。
お互いの近況や安否を知るのもあるけれど十数年を経て再会する切っ掛けになったりするものである。
メールなどと違って手元に残るから気に留めてしまうのだろうか。
一年に一度たった一枚のハガキが人の心を繋いでいると思うと書かないではいられない。毎年落ち着かない年末になるのである。

ちなみに今年の絵柄です。2パターン描きました。

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アトリエの花

アトリエに花が増えました。
この季節は見慣れた街の風景でも花の彩りがめっきり少なくなりますね。すると柄にもなく、殺風景なアトリエに小さな可憐なお花が欲しくなる。
近くの西友では切り花が安く買えるし、鉢植え用の花もホームセンターに行くといろんな種類がある。買ったお花はこうやって窓側に並べたりパレット兼作業台の上に置いたりしている。
そんで興に乗った時には(ほとんど夜、酔っぱらっている時が常なのですが)やおら筆を持って花を酔い描きしてしまいます。
花に酔っていればとてもロマンテックなおじさんなんでしょうが、だいたい酒が進んでしまってただの酔っ払いおじさんになってしまうようです。
(* ̄∇ ̄*)エヘヘ

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そしてまた冬が

これはもうたまらん、寒いです。
今年の冬はエアコンの暖房では到底越せそうもない。
去年もきつかった。凍えながら過ごしていたことを思い出す。エアコンの暖房はすぐに温まらない上に外が寒いと室外機が凍って停止する仕組みになっている。震えながら再可動するのを待つしかない。
あんなに寒くては仕事に集中できるわけもなく、いたずらにじれったい日々を過ごしていた。

そしてまた冬がやってくる。こうして季節が移ろい時は巡って行くのでしょう。

最近、時は前に進み、想いや感情は過去に向かって遡って行くようだと思うようになった。過去に遡って何かを掬い取ってこれから先を見据えていこうとしているのだろうか。

それは何だろう?うまく言えないのだが、過去にたどった温もりの記憶、適当かどうかわからないけれど、今のところ敢て言葉にするなら「懐かしさ」というものかもしれない。寒いせいではあるまいが、それに触れたがっているようだ。

この冬は早目に石油ストーブを購入することにしよう。

困ったおっちゃん

こう天気が良いと何していいかわからなくなってしまう。
やりたいことが多くて困っているのではなく、まったくなくて困っているのだ。
あれをやりたい、これをやりたい、どこかへ行きたい、なにか食べたい・・・・とかそういう意欲が全くない。ましてや予定や計画などあるわけもない。
屁理屈っぽくいうとやりたくないことの方が多すぎて困っているのです。
一応、絵を描くことも仕事にしているのだがそれも正直あんまりやりたくないんだな。
あえていえば熊谷守一画伯のように日がな一日、庭でありんこを眺めていたり、紙くずを燃やしていたりして日が暮れるのを待っているのも悪くないなと思ったりする。
一言で言うとどうしようもない怠け者。
ああ、50はとうに過ぎたのに天命など知る知る由もない。
まったく困ったおっちゃんになったものだ。ヽ(TдT)ノ

虚しき言葉

流行に遅れまいと,まがいなりにもSNSなんかやっている。
しかし、どうにも虚しさを感じてしまう。
誰へと言うわけでもなくこぼれた独り言や、少しだけ共感してほしい想いを言葉に変換してネット上に揚げてみる。ところがその言葉は短時間のうちに川のように流れ、消え去って行く。

口から発せられた言葉は儚いよね。すぐに消えてしまうから。だから人は想いを伝えるために文字に残したり歌を歌ったり絵を描いたり、何かを作って残したくなるのだろう。

本や歌、作品となったものはSNSとは違い少しは長持ちする。またその気になれば何度でもいつでも見直せる良さがある。
忘れ去ってしまった感情が甦り、さらに想いが募るのである。そうやって人は豊かになり、人生を愉しむことができるのだ。形あるもの残されているものにもっと目を向けてみたいです。そういうものですら、やがてなくなるものではあるが。
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