はじめに

いまさらですが、自己紹介を

新ブログにしたことですし、改めて自己紹介を書いてみようと思います。
読んでくださる方々にとっても、「Earth Color」を書いている人間がどんなやつなのか、知った上で、このブログを読んでいただいたほうが、いろんなストーリーが入ってきやすいでしょうから。


子供のころの話と国際協力の仕事を志した理由

何度も書いていますが、出身は福井県です。

父親は大学病院の勤務医で、母親は元学芸員で専業主婦。兼業農家で、主に祖父母が畑や田んぼをやっていました。
兄弟は僕より5分早く生まれた姉(つまり、姉と僕が双子なのです)と3歳年下の妹がいます。ちなみに、双子の片割れと常に比較される、というのが双子の宿命なのですが、幼少のころ、勉強もスポーツもよくできた姉と比較されまくったため、性格はわりと気弱目、おとなし目に仕上がっています。

比較的のどかな子供時代で、農作業を手伝ったり、カブトムシやクワガタを追いかけたり、近所に秘密基地を作ったりしながら、大きくなりました。

中学は当時福井県下で最も荒れていて且つスポーツが強かった(ハンドボールが全中チャンピオン、剣道が全中3位)中学に通い、自分のcompetencyは勉強にしかないことを強制的に自覚させられました。高校は進学校だったので、入学したときは「ああ、これでやっと落ち着いた環境で勉強ができる」と思ったのを覚えています。






ところで、お医者さんの家庭というのはどこもそうなのかもしれませんが、
我が家には「おおきくなったら何かしら人様に感謝される仕事をやりなさい」という有言・無言のプレッシャーがありました。
そういう価値観で育つため、医者の子供は医者になる、というパターンは多いと思います。

その一方で、父親と息子の対立がどこの世界でもあるというご多分にもれず、僕は、どうしても医者になりたくありませんでした。

とにかく無条件に父親に反発するというのもあったし、何歳くらいで講師になって、助教授になって、教授になる、みたいなプロセスが見えて、それと同じ道を自分も通るのかと思うと、とにかく嫌でした。あと、人付き合いが比較的医療界の中で完結しているのも、なんとなく気持ち悪く思えたのでした。

それでも、父親に反発した以上、父親のやっている仕事を超える仕事をしなければいけない、という呪縛が自動的につきまとってきます。

いうまでもなく、医者は人の命を助ける仕事です。
一日何人もの患者さんの治療をするというのは、ものすごい社会貢献だと思うし、
自分は、医者にならなかった以上、それを上回る社会的効果のある仕事ができなきゃ、意味がないよなあ、と思っていました(今思うと、結構傲慢な発想ですけどね)。

そういう風に考えていた僕が、途上国開発、というテーマにたどり着くのに、それほど時間はかかりませんでした。

小さい頃から、母親にアフリカには飢餓に苦しむ子供たちがいるのよ、といわれていて(ちなみにうちでは食事を残すと、栄養失調の子供の写真を見せられた)、それなら、そういう子供たちに役に立つ仕事ができれば、それは、医者と同じくらいか、あるいはもっと立派な仕事だ、と思ったのでした。


こういう事情が背景で、僕は途上国開発の仕事をしたいと思うようになったわけで、そういう過去の呪縛的な要素で動いている以上、僕の開発への思いを根本的につきつめると、実はそんなにpureな動機ではないし、あるいは限りなく自己満足に近いものかもしれません。
(もちろん、その後いろんな途上国を旅して、いろんな人に会って、上記の理由以外で途上国に関わりたい様々な理由(途上国の魅力など)も見えてきましたけどね。)


いずれにせよ、こういった経緯で、途上国開発の世界に興味を持ち、
高校時代の僕の知識の範囲だと、「途上国開発といえば、ODA」だったので、
ODAを担当する外交官か官僚になりたいなあと思い、大学は東大の法学部に進みました。


空手に明け暮れた大学時代とインドネシアでのNGOインターン

大学に入った瞬間の僕の計画は、「楽しくテニスサークルでもやりながら、公務員試験の勉強をする」というものでした。

ところが、そんな甘い東京生活プランは、入学後数日で打ち砕かれます。

そもそも、東大男子が、きれいな女子大の子がいる楽しげなテニスサークルに入るためには、「セレクション」というものがあって、(1)テニスがうまい、または、(2)おもしろい一発芸ができる、のいずれかの条件を満たしているかどうかの審査を通らねばなりません。(要は上級生による面接みたいなものです)

テニス未経験な上、田舎から上京してイモくさい感じだった僕は、当然セレクションなど受かるはずもなく、入学早々、「大学の廊下をマフラーなしの原チャリで走ったろうかい!」と思うくらい、ひどくすさんだ気持ちになったのでした。

「ええい、ままよ。こうなったら体育会でも入るか」という勢いで、空手部に入部。
空手を選んだのは、小学校のときやっていたからもう一回はじめてみようかな、くらいの軽い理由。

軽い気持ちで入部した空手部でしたが、ここでの経験は、僕のメンタル面での基礎を作ってくれたと思います。

空手をやる環境としても、国立大学のチームの中では悪くなくて、高校時代にインターハイに出た先輩がいたり、同期や後輩に宮崎や長崎の国体強化選手がいたりして、結構いい練習ができていたと思います。

一番の思い出は、2年の秋に、団体戦で関東選手権を勝ち抜いて、全日本学生に出れたこと。
ベスト16進出をかけた試合で負けた桃山学院大学の選手との試合はいまでも夢に出てきたりします(なぜか負け試合ばかり覚えているものです。。。)。試合開始直後に反則をされてカッとなってしまったこともあり、放つパンチがことごとく相手の顔面に炸裂して、反則負け。完全に心が舞い上がっていたし、突き蹴りの完璧なコントロールといった技術面もまだまだでした。

あとは、旧帝国七大学対抗戦や、東京六大学戦も盛り上がったなあ。





充実した思い出の一方で、最後まで対処し切れなかった課題は、恐怖心の克服。
身長が170cmに満たない僕が、背が高くて体重の重い相手の突き蹴りに合わせてカウンターを打つのは、正直めちゃくちゃ怖かったです。
でも、心に恐怖心が入った瞬間、体が思い通り動きづらくなったり、持ち前のスピードが落ちていくので、いかに心を「無心」の状態に持っていくか、というのは非常に重要な課題でした。
でも、結局のところ、最後に恐怖を乗り越えさせてくれるのは、チームへの想いだったのかもしれません。団体戦のとき、コートに出て行く前、チームメートたちから、背中をドンドンと叩かれるのですが、この「喝」が入ると、いろんな雑念を忘れて、「無心」でベストな技を出すことに集中できた気がします。
チームのために勝ちたい!という強い気持ちを持ってチャレンジを乗り越える、という体験ができたことは、いま仕事をやる上でもとても役にたっていると思います。

* * *

4年の夏に部活を引退したあと、夏休みに、インドネシアのNGOでボランティアとして働きました。
これは僕にとって途上国開発に関する原体験になり、この経験が、いまの僕のキャリアパスを定めた、といっても過言ではありません。

やっていた仕事は、インドネシアのジャワ島中部のボヨラリという人口200人くらいの小さな村にホームステイをして、ひたすらアスパラガスの栽培と出荷の手伝いをする、というものでした。

なんで、アスパラかというと、アスパラは、インドネシアでものすごく高く売れるのです。
インドネシアの都市部には華僑の中国人がたくさん住んでいて、彼らは中華料理にアスパラを使います。しかし、アスパラは本来インドネシアのような熱帯地方では栽培が難しく、中国人たちは輸入品のアスパラを買うのが通常でした。
そういう状況の中で、僕が働いたNGOは、台湾の農業団体と提携をして、台湾から熱帯でも育つアスパラを導入しました。そのアスパラの栽培を村の農民に教え、栽培したアスパラを都市部に高い値段で売ることで、お金を儲けて、その儲けたお金で村を開発していこうという試みをしていました。

インターンはとても楽しい経験でした。
インドネシア語は文法がとても単純で、習得がとても簡単な言語です。
1ヶ月弱で基本会話が話せるようになり、言葉が話せるようになると、地元の人たちも自然と心を開いてくれ、村で結婚式があるたびに呼ばれてカラオケを歌ったり、祭りなどのイベントでは村人たちと一緒に伝統の踊りを踊ったり、地元の子供たちに空手や日本語を教えたりして、交流を深めることができました。
また、もともと農家出身の僕は、農作業は全く苦にならず、壮大な火山群やジャングルなどの美しい景色に囲まれて畑仕事をするのは、なんだかバケーションみたいなものでした。





ただし、プロジェクトへの貢献度は、とても限られたものでした。
理系ではなかったので技術系のアドバイスは何もできないし、商売の経験もまったくなかったので、アスパラを販売する際のバリュー・アッドな知恵も特に提供できないわけです。
やれることといったら、肉体労働だけでした。
日本に帰ったら、国際協力で役に立つ知識と経験を絶対に身に着けてやろうと強く思いました。

それでも、問題意識はいくつか持って帰ることができました。

ひとつは、ビジネスを学ぶ必要性。マージンの厚い商品作物を育てて、儲けたお金で開発をする、というのは、まさに商売の発想です。文系の僕にまずできることは、金儲けのできるビジネスパーソンになることかもしれない、と思いました。

もうひとつは、金融を理解する必要性。僕が働いたNGOは、いいアイディアを持っていたのですが、使えるお金が限られていて、プロジェクトをボヨラリ村以外に広げることができませんでした。もし、銀行や投資家や財団などからうまく資金を調達できれば、もしかしたらジャワ島全土にアスパラ栽培を広めることができたかもしれません。
なので、いいアイディアを持った人が、事業を拡大するために、どうやってお金を調達するのか学びたいなあ、と思ったわけです。

これらの二つの理由で、卒業後は、いつかはビジネスと金融の知識を国際協力に生かしたいという思いで、銀行か証券会社にいこうと思ったのです。
インドネシアに行く前は、ODAに関わりたいという理由で、官僚になりたいと思っていたのですが、インドネシアでの経験で、ビジネスパーソンになりたい、という思いがハッキリしました。

そこから1年留年して就職活動を行い、いろいろなご縁があって、またセクシーなお給料にも相当目がくらんで、当時「えげつなく」お金をもうけているという評判だった外資系の投資銀行(証券会社)にいくことにしました。


投資銀行での怒涛の日々

投資銀行では、企業同士の合併や買収が行われる際の財務的なアドバイスを行ったり、企業が株や債券を発行して資金調達をするときのお手伝いをする(株や債券を引受けて投資家に販売する)部署で、丸5年間働きました。

入った会社が、かなり軍隊的なカルチャーを持っていたこともあり、この5年間の経験は、僕の性格を根本から変えたようです。
姉や妹に言わせると、僕はもともと気弱で、大学を出るまではイモ臭い田舎者キャラだったのに、投資銀行に入って、頭の回転も少しはよくなったし、ハキハキ話せるようになったね、とのことです。
まあ一日睡眠時間4時間で、失敗は許されない環境の中で、激焼きされて黒焦げになりながら働くと、人間の性格というのは色々と矯正されるようです。

こうやって表現すると、げに恐ろしげな場所に聞こえますが、投資銀行での仕事は非常に楽しいものでした。
僕にとっては、お客様から「君の働きのお陰で、案件がうまくいったよ。ありがとう!」とおっしゃっていただけるのが、睡眠時間を削って働く唯一絶対のモチベーションだったと思います。資金調達や合併・買収などは、企業にとっては自らの命運を分ける一大事ですし、クライアント企業や日本経済にとって重要な局面で、自分なりの貢献ができる、というのは、僕にとって何者にも変えがたいやりがいでした。

こういう怒涛の日々を過ごす中で、当初の開発への思いは忘れかけていたのですが、3年目の終わりくらいにバケーションを取って沖縄にいって、ぼけーっと海を見ていたら、「そういえば、僕は途上国開発に役立てる知識を得るためにこの会社に入ったんだったな」ということをふっと思い出したのでした。
それで、「このまま投資銀行で働いても楽しいけど、人生どっかで途上国に関する仕事をやらないと、死ぬとき後悔する」と思いました。
そして、「これから開発業界に転職するには、修士号を取らなきゃいけないよなあ(注:開発業界はなぜか異様に高学歴社会で、一流のNGOや国連などに入るには博士号か最低修士号が必要なのです)」ということに気づいたのでした。修士号といっても、大学の成績がボロボロの僕が、いまさら公共政策だとか開発経済の大学院に入るのも難しそうだし、だったら、投資銀行での実績を振りかざして入学できるMBAに行こう、と考えました。

東京へ戻って、しばらくは忙しくて留学準備に手がつかなかったのですが、5年目のはじめごろ意を決して、TOFELやGMATと呼ばれる試験や、入学のための小論文準備を開始することにしました。
とてもラッキーなことに、直属の上司が留学や公共セクターへの転職について理解のある方で、その上司に「そういう志があるのなら、大いにやったらいい」と言っていただき、留学準備期間中は仕事を軽くしてもらえたり、ビジネス界の大物社長に推薦状をお願いしていただけるといった、一般的に社員のMBA留学に対してネガティブな投資銀行においては奇跡的なアレンジメントをしてもらうことができました。

そこから1年ほど準備をして、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に合格することができ、一昨年(2006年)の夏から留学をしました。


キャリア・プランを明確化できたハーバードでの経験

大学院にいって一番よかったことは、自分のこれまでのキャリアを生かしながら、どうやって途上国開発に関わっていくかという、今後のキャリアパスを鮮明に描くことができたこと、だと思います。

大学院に入る前は、「ビジネススキルを生かして、なんらかの形で途上国開発に貢献できたらいいなあ」という程度の、もやもやーっとしたことしか考えていませんでした。

2年間の留学を経て、いまは、
「僕が関わりたい地域はアフリカ。アフリカの人々が豊かになるには、競争力のある産業ができてくることが不可欠。そして産業振興のボトルネックのひとつが、民間企業が資本(特に株式などのリスク・キャピタルと呼ばれるお金)へのアクセスをそんなに持っていないこと。だから、僕は元投資銀行マンとしてのノウハウを生かして、アフリカの民間企業にリスク・キャピタルを提供する投資家になりたい」
という比較的明確なキャリアゴールがあります。


2年間を振り返ってみると、1年目は、授業を受けたり、いろいろな人(途上国出身の学生や、これまで開発分野で働いてきたクラスメートたち)と話す中で、様々な途上国開発の分野(緊急援助、平和構築、教育、医療、インフラ整備、などなど色々ある)の中でも、途上国のビジネス強化と産業振興(private sector development)に関わりたい、という思いが明確化した1年だったと思います。





僕の留学前の世界観というのは、貧困をなくすためには、まずは貧しい人たちがきちんとした教育を受けていくことが重要だし(それによって貧しい人たちが所得を増やすやり方を考えることができる)、きちんとした医療を受けて健康に生きていけるためのインフラを作ることが重要だ、というものでした。健康で賢い人が増えれば、自然に国は豊かになっていくだろうと思っていたわけです。
だから、UNICEFだとか、教育や医療分野のNGOのようなところで、ビジネスを通じて学んだ効率的なプロジェクト管理能力を生かしながら、働くことができたらいいなあと思っていました。

でも、いろいろな国の経済発展のケース(日本を含めて)を見てみると、教育や医療制度が充実して人々が豊かになれた背景に何があったか、というと、国の中に色々なビジネスが起こって、産業が強くなっていったから、という事象があったと思うのです(日本にもかつて「殖産興業」なんて言葉がありましたよね)。

つまり、日本だと、戦後の焼け跡からソニーやホンダのような企業が生まれてきて、それらの企業が、いい商品を作ってお金を稼ぎました。稼いだお金は、従業員の給料を増やしてあげたり、更に事業を大きく強くするための投資に使われました。そして、企業が、安くて、いい商品を作ってきたことは、日本の消費者の生活水準を実質的に上げるのに大きく貢献したはずだと思います。また、いい商品を作るためには、いいサプライヤー(納入業者)が必要なので、ある企業が強くなるということは、その企業のサプライヤーにも新たなビジネスと成長の機会を与える、という意味で、地域経済への波及効果を生み出したことでしょう。
また、企業の稼ぎの一部は、税金として、日本の政府に支払われました。そして、その税金が、責任感の強い(腐敗していない)政府によって、教育や医療といった人間開発の分野に使われたのだと思います。こうして、より質のいい教育を受けた人が増えていくと、その能力が更にビジネスを強くすることに使われて、強くなったビジネスがより富を生み出したり、雇用を生み出したりして、生み出した富の中から税金を払い、その税金が更なる教育や医療のアップグレードに使われる、といういいサイクルが回っていったと思うのです。


上記の考え方は、非常に単純で、しかもビジネス中心的な見方かもしれませんが、
要は、企業活動は国の豊かさに直結しているし、人間開発(教育・医療)と、ビジネス(あるいは産業)は、車の両輪みたいなもので、どっちかだけあっても国は豊かにならないし、貧困もなくなっていかないのではないかなあ、と思ったのです。

そうだとしたら、ビジネスパーソンとして、いままで培ったスキルを自然に使って、途上国に貢献できることは、「途上国において、雇用を生み出して、政府にちゃんと税金を払って、現地の経済に貢献する強い産業をつくるためのお手伝いをする」、ということなのかもしれない、と思ったわけです。


こういう思いが明確になって、HBSでの1年目が終了し、夏休みの間、モザンビークというアフリカの国のNGOでのインターンを経験しました。

詳細は、大学院時代のブログ「Earth Color」のエントリー(こちらこちらを見ていただきたいのですが、要は、モザンビークのゴロンゴザ地方という場所に、バナナや養鶏などの農業ビジネスを生み出すための事業計画と資金計画を策定する、というお手伝いをしました。
僕の計画は、現地の人たちのかなりの支持を集めたし、潜在的な投資家の興味を引いたりして(この事業計画に数億円出資してやろう!という投資家も現れたりした)、それなりの仕事はできたと思っています(もちろん一夏しかいなかったので、計画の実行には関わることができませんでしたが)。

このプロジェクト中、現地のビジネスパーソンや農家の人たちから色々な話を聞くことができ、結局のところ、現地の人たちが貧困から抜け出すために求めているものは、安定した雇用と、収入を拡大する機会なんだなあ、と感じました。そう思うと、途上国のビジネス強化や産業振興に関わっていこう、という僕の狙いは、あながち外れたものではない、と思いました。そして、プロジェクトの成功経験から、投資銀行やビジネススクールで学んできたことを使って途上国のビジネス強化のためにそれなりに役に立てそうだ、というポジティブな実感(自信に近いものかな)を持つことができました。

また、モザンビークでの滞在や現地の人たちとの交流がとても楽しかったので、「アフリカっておもしろいところだなあ、もっとアフリカについて知りたいなあ」と思うようになりました。





夏が終わり、再びHBSに戻って2年目がはじまりました。
2年目は、自分の興味やキャリアプランに応じた専門科目を学びます。
僕は、開発経済、途上国や新興国の経済、国際金融、非営利団体や社会企業の運営、などに関する科目を勉強しました。

その中で、途上国の産業振興のボトルネックのひとつとして、途上国の企業が資本へのアクセスをあまり持っていない、という問題があることが見えてきました。
日本やアメリカなどの先進国の企業であれば、企業が事業を拡大するときは、ちゃんとした事業プランを持っていれば、国内外の銀行や資本市場から資金調達をすることは、それほど大変なことではありません。また、いいアイディアを持った起業家は、そのアイディアの素晴らしさに応じて、ベンチャー・キャピタルなどから資金を調達できます。ところが、モザンビークのような途上国の企業だと、国内にしっかりした金融機関がそれほどないし、国外の投資家も「アフリカなんか、こわくて投資できるか!」と思っている人たちが多いので、なかなか起業だとか事業拡大のための資金調達が難しいのです。資金調達が難しいと、折角いいビジネスアイディアを持っていても、実行することができません。企業がいいビジネスアイディアを実行できず、成長できないとなると、企業の利益は増えないし、従業員の給料も増やせないし、新しい雇用も生まないし、いい商品を作って消費者を喜ばすこともできないし、政府の税収も増えません。すなわち、国が豊かになっていかないのです。

途上国で起業家としてビジネスを起こしたり、コンサルタントとして現地企業のアドバイスをする、というようなキャリアも考えましたが、
元投資銀行マンとしては、「途上国企業の資本へのアクセスをよくする」という課題に挑戦することが、一番自分の強みを生かしながら、途上国の産業振興に貢献できると思ったのです。

そう考えて、就職活動を行い、アメリカにある途上国向けの投資会社で働くことにしたのです。

仕事の内容は、途上国の産業強化に貢献するような有望な企業を見つけ出してきて、投資を行うこと。一般的にはリスクが高いといわれる途上国の市場で、いかにいい企業と経営陣をみつけるかという目利き力や、投資に伴う様々なリスクをヘッジするストラクチャリング能力が問われる仕事です。


将来の夢 - 日本企業とアフリカ企業を繋ぐ架け橋になりたい

将来できたらいいなあ、と思っているのは、「アフリカで、日の丸をしょって仕事をすること」、言い方を換えると、「日本企業とアフリカ企業の繋ぐ橋渡し役になりたい」ということです。

日本企業には、世界に類を見ないくらい優れた技術や経営ノウハウ(例えばトヨタ式生産方式のような)がたくさんあります。
そういった優れたものが、アフリカのビジネス界に入っていけば、アフリカ企業は飛躍的に競争力を増す可能性があるし(例えば、トヨタ式生産方式を入れたアフリカのカカオ企業が、世界でもっともおいしくて安いチョコレートを作れるようになるとか)、ひいてはアフリカの経済成長や貧困削減に大きく貢献できるのではないか、と考えています。

もちろん、日本企業としては、貴重な技術やノウハウをタダであげるわけにはいかないので、対価をきちんと取れる仕組みを考えなければいけません。

でも、日本企業にとっても、きちんと対価を取るのであれば、アフリカへの足がかりを作っていくことは決して悪い話ではないと思います。
日本はこれから人口も増えないだろうし、経済が飛躍的に成長する、ということはあまり望めないと思います。その中で企業が生き残っていくには、ニッチ向けの戦略を立てる(例えば高齢者市場に打って出る)などの策はありえますが、成長著しい途上国の市場に進出する、というのも、悪くない策だと思います。
そうなると、例えば、日本企業が、アフリカ企業に株式で出資をして、技術やノウハウを提供してそのアフリカ企業を成長させ、出資に対するリターン(配当やキャピタル・ゲインなど)を得る、というような戦略もあっていいと思います。
僕は、これからもっとアフリカのビジネス環境や投資について学んで、上記のような日本企業のアフリカ投資に際して、役に立てる動きができればいいなあ、と思います。

それをやるためには、今の会社に居続けるのがいいのか、自分でアフリカ向け投資ファンドを作るのか、投資コンサル業(あやしい響きだ。。。)みたいなものを立ち上げるのか、実際の実行手段は、これから要検討ですけどね。


最後に、元気のある日本のビジネス・パーソンが、もっともっと、途上国のビジネスや開発の分野に入ってきていただけたらいいなあ、と思っています。
ブログを書き続けているのもそういった理由からで、「ビジネス・パーソンだって途上国開発に大きく貢献できるんだ」というメッセージを細々とでも発信することで、もっと日本のビジネス・パーソンに途上国に興味を持っていただきたいなあ、と願っているのです。


以上、長くなりましたが、改めて自己紹介でした。
今後とも、「Earth Color 2」を宜しくお願いします!

プロローグ:「走ることについて語るときに僕の語ること」

村上春樹さんが、「走ることについて語るときに僕の語ること」という本の中で、こう書いています。


…それはたぶん、日本語で何かまとまったことを話そうとすると、自分が言葉の海に呑み込まれてしまったような感覚に襲われるからだろう。そこには無限の選択肢があり、無限の可能性がある。僕は文筆家としてあまりにもぴったりと日本語に密着してしまっている。だから日本語で不特定多数の人々に向かって話をしようとすると、その豊饒な言葉の海の中で戸惑い、フラストレーションが高まる。
日本語に関していえば、僕はやはりできる限り、机に向かって一人で文章を書くという営為にしがみついていたいと思う。文章というホームグラウンドでは、僕はそれなりに自在に有効に言葉と文脈をキャッチし、かたちに換えていくことができる − なにしろそれが仕事だから。しかしそのようにしてつかみ取られたはずのものを、人前で実際に声に出して語ってみると、そこから何かが(何か重要なものが)こぼれ落ちていくという切実な感覚がある。そのようなある種の乖離にたぶん僕は納得できないのだろうと思う。




僕は作家ではないので、村上さんの文章をリファーするのはとても気が引けますが、でも、「この何かがこぼれ落ちていくという切実な感覚」というのが、僕にはとても共感できるのです。


そして、僕は自分の人生に対して割と楽観的で、きっとこれからたくさん面白いことが僕の周りで起こるんじゃないかなあと思っています。
なので、これからの生活から掴み取れるものをできるだけ文章として残していきたいと思っています。


ですので、これからも地道ながらも書き続けたいと思っています。

Earth Color 2、どうぞよろしくお願いします。
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