2018年11月02日

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

人は自分の生活、自分の感性が本当に自分のものなのか、いぶかることがあろう。自分の考えが誰かからの借り物にすぎず、自分のちょっとした仕草やクセさえ、テレビや映画の真似事であるのに、それを忘れていることがある。たいがいの我々の欲望は他人の欲望の模倣であり、ほとんどの思考の断片やその表現は、他人の言葉の模倣から始まっているのであるから、それも当然なのだ。カズオ・イシグロのこの作品は、そんな誰でもが時には感じる不安に焦点を当てている。(十代の主人公たちが集団生活をしている)「コテージ」での生活について、次のように記している。
 
…コテージの先輩カップルについて気付いたことがあります。…それは、先輩の行動の多くがテレビからの物真似だったということです。(早川文庫版 以下同様p-185)

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Posted by easter1916 at 01:43Comments(0)批評

2018年10月23日

『ハムレット』について

以前ここで、『ボヴァリー夫人』について論じたことがある(2017年2月10日「『ボヴァリー夫人』について」)。

ボヴァリー夫人の死の床のわきで、神父と薬剤師の二人が論争するのを描くとき、我々はそこに、我々自身の現実の空疎な議論を見る思いがする。ここに、作品による現実の模倣とか、作品と現実の平行関係というものがあるのだろうか?

我々は、実際の議論がどんなに空疎なものであっても、自分では滞りなく充実した会話をしていると思い込んでいる。このような作品と出会うこと以外に、我々に、本当の実態を認識する路があるのだろうか?

スピノザやアリストテレスでは、日常会話の中にすでに真理のかけらが宿っているということになっている。もしそこに真理のかけらすら含まれていないとすれば、真と偽の区別も意味を失うだろうし、認識を目指すいかなる試みも無意味になるだろう。我々が、時として懐疑を抱き、虚偽を克服しようとすること自体、我々がすでにある程度以上、真理の中にいることを示しており、そうであるなら、むしろ例外的である虚偽を、我々が利用しうる資源を使って何とか克服しようとする努力が、意味を持つはずなのである。

それは大雑把に言って、全体論的な探求となる。できるだけ多くの経験を取り集めて、その中から共通の要素、合理的構造を見出し、それによって多くの現象を説明するという試みを始動させる。これが、弁証法という哲学の骨格に、大きなもっともらしさを与える論理である。

しかし、これとは逆に、現実そのものの中に、その真実を隠蔽する構造的な盲点が存在するとすればどうであろうか? 単に世界を普通に描写するだけでは、常に真実から目を背けることになるのではないだろうか? 現実の中に真なるものを見出すためには、むしろ日常的な自明性を遮断する必要があることになろう。我々は、自然の自然な描写ということに、素朴に信頼を置くことができないのではないか?
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Posted by easter1916 at 02:40Comments(0)批評

2018年10月16日

樹木希林さん

山形新聞 「ことばの杜」への投稿

「美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに」 (樹木希林)

樹木希林さんが亡くなった。女優として確かな力量で、多くの作品に貢献したが、上記のテレビ・コマーシャルで憶えている方も多いだろう。カラーフィルムの宣伝である。その演技も相まって、何とも言えないユーモアが漂う仕上がりになっていた。CMとしても成功したはずだが、もともとのセリフでは、「そうでない人も美しく」であったと言う。スポンサーにセリフの改変を提案するのも大した度胸だが、もとのセリフだったらこれほどのインパクトは不可能だったろう。「それなりに」が受け入れられたのも当然である。「そうでない人を美しく」写したら、もはや写真ではない。そんなものは消費者も望まない。ありふれた誇大CMとして受け流されてしまうだけだ。ここで彼女は、「美醜」の判断とかコマーシャリズムをめぐる我々の欲望自体を、さりげなく揶揄しているのである。

思えばこの人は、自分の置かれた状況に対する批評精神で際立っていた。コマーシャルや映画といった巨大な金と欲望が渦巻く場所で、自らを保持し続けることは難しい。「異色芸人」とか「個性派俳優」といった触れ込みも、売れ筋を狙う一様な身振りに流れ、強制された文脈での凡庸な類型を演じるだけに終わってしまうからである。そこからのどんな逸脱も、芸能産業全体への重大な裏切りとして罰せられかねない。「批判的な意見」の表明など何の意味もない。そんなものはすぐカットされるか、歪曲して伝わるだけだ。

要するに、強制された文脈を巧みにすり抜け、自分を韜晦すると同時に表現する高度に批評的な英知が必要なのである。樹木希林さんは、軽やかな機知でそれらの力をしのぎながら、自らの品位を少しも汚すことなく、見事に天職を全うされたと思う。

 あるほどの菊投げ入れよ棺の中(漱石)
  
Posted by easter1916 at 19:08Comments(0)日記

2018年10月01日

マクベスの末路

沖縄県知事選の勝利を祝福したい。

私のように、この選挙をもともと悲観視していた人も多いだろう。これまでにも、大かたの希望は無残に裏切られてきたからである。

それだけに、今般示された沖縄の人々の英知には、頭の下がる思いである。あなた方は、我々よりずっと困難な状況においても、勇気ある決断を示されたと思う。

翁長氏の志を継ぐことは、単なる弔い合戦ということではない。真実の歴史を引き受けるということである。祖先が被った苦難の歴史を無視して、アメリカの意志を無批判にごり押しする者たちに対して、歴史を引き受ける者たちが勝ったのだ。この意義ははかり知れない。

玉城氏とその支持者のありさまが写る映像の中で、創価学会の三色旗が力強く打ち振られていた。四分の一以上の数で示された学会員たちの良心は貴重である。あの三色旗は、本土の学会員に対しても勇気を与えるだろう。欲に目がくらみ、腐敗堕落した公明党指導部の終わりは近い。こうなっては、憲法改悪どころの騒ぎではないだろう。 

これからは、マクベスの終焉のようなアベやスガの末路を、ゆっくり見物することにしよう、泡盛でも傾けながら。
  
Posted by easter1916 at 03:52Comments(2)時局

2018年09月22日

『1987、ある闘いの真実』

チャン・ジョナン監督の映画をシネマート新宿で見た。期待通り、重厚な作品である。何度かの革命を経験した韓国の映画は、このようなテーマを描けば世界随一かもしれない。革命を実際に同時代の出来事としてごく身近に経験した人々が、まだ社会の中枢で活躍しているから、自分たちの歴史の細部に至るまでリアリティがつまっているのだ。(彼らのことを、1960年代生まれ、1980年代に闘争を経験して1990年代に30台の連中という意味で、386世代と言うらしい)

結局は全斗煥大統領を倒した革命は、ソウル大学生の拷問虐殺に対する人民の怒りに発していた。

今回の映画で、特に印象的だったのは二点。まず第一に、革命が進展する節々で、本来ならば体制を支える中心にある人々、検察官とか、公安部長とか、刑務所の保安係長とか、看守といった人々の中に、独裁者の闇を暴くのに大きな役割を果たす人々がいるということである。検視を担当する医者とか、刑事法の手続きにこだわる検事とか、カトリック教会とか仏教寺院のような宗教結社も、それぞれの持ち場持ち場で専門的権威を盾に抵抗の拠点となっている。もちろん、報道も例外ではない。ただ、報道は権力から最も目を付けられやすく、したがって易々とその面目を失ってしまうのだが、同時にいったん火が付くと、最も激しく燃えて革命を呼び寄せる力にもなるのである。映画の中では、はじめ沈滞した退嬰的雰囲気に包まれていた報道部に、革命が波及し始めるありさまがリアルに描かれていた。

いずれにしろ、このことは革命が決して(単一の価値理念という意味での)何らかのイデオロギーの問題ではなく、正義と真実の問題であることを鮮やかに示している。つまり、非常に異なった価値理念を持つ人々が、真実の暴露を要求し、正義を求めるとき、革命が俎上に載せられるのである。それに対して、権力を私物化する連中は、ますます無法な暴力や暴力組織に頼らざるを得なくなる。その結果、法秩序の担い手自身の中に、大きな亀裂が走り始めるのだ。

もう一つ印象に残ったのは、拷問やリンチといった汚れ仕事を担う悪役でさえ、単なる矮小な人物ではないこと。治安本部の中でも特に「対共」と呼ばれる反共治安機関のパク所長(キム・ユンソク)は、ナチの突撃隊のような無法者たちを束ねる悪逆非道な人物ではあるが、決して私利私欲で動く矮小な人間ではなく、極めて明確な使命感に突き動かされる信念の愛国者である。脱北者でもあるこの人物を深く掘り下げて描いたことで、この作品は一段と高い品格を帯びることになった。

観客の中には、顧みてわが国の現状を嘆く声が当然上がるであろうが、これが本物の市民革命の経験を経た国と、それを経ないで形ばかりの張りぼて「民主主義」で満足している政治的後進国の違いである。
  
Posted by easter1916 at 04:28Comments(0)批評

2018年08月22日

勝海舟(山形新聞 ことばの杜)

「誰を味方にしようなどというから間違うのだ、みんな敵がいい。」(勝海舟『海舟座談』)

かつて職場で労働組合をつくったことがある。きょうび組合と言っても、親睦を深め、労使協調を図るものばかりだが、私のは闘う組合だ。私たちの要求は、「表現の自由」とか「性差別撤廃」とか慎ましいものばかりであったが、そんな最小限の人権のためにさえ、どれほど徹底的に闘わねばならないか痛感させられたものだ。職場の大ボス・小ボスとことごとく対決したので、危惧を感じた同僚は次第に遠ざかり、やがて私は完全に孤立した。

だが、みんな敵になってみると、それが存外心地よいことに気づく。とことん嫌われているので、愚劣な懇親会に出る必要も、スモール・トークに付き合う義理もない。もはやそれ以上嫌われることがないので、自分を曲げて人に合わせることはない。いかなる忖度も気兼ねも一切不要。よどんだ空気を読むこともさらにない。思えば、人に嫌われたくないばかりに、いかにしばしば不本意なことをやらされ、あらずもがなの愚行に手を貸すことだろう!

あるとき、職場の皆を集めて大ボスの訓話を拝聴する会を、私が例のごとく欠席すると伝えると、「どうしてか?」と訊かれる。「愚劣だから。愚行には手を貸すな、というのが死んだ親の言いつけです」と答えたら、周囲が凍り付くのがわかった。気の毒なことである。

最悪の奴だと思われていると、まれに気まぐれから親切をするだけで、「意外にいい人!」となる。それに対して、「いい人」という評判を維持し続けることは難しく、またやりがいもないことだ。一度でも期待を裏切ると、たちまち評判を落としてしまうからである。

周りがみな敵である状態は、まるで希薄な山嶺の空気にさらされるような爽快な孤独と自由をもたらし、幸福とは言わないまでも、少なくとも矜持を与える。

  
Posted by easter1916 at 00:53Comments(13)日記

2018年07月15日

フレーゲ周辺

カルチャーセンターの講義で、フレーゲについて語る機会に、改めてフレーゲやその周辺について自分の考えを整理してみた。以前に書いたことも多いが、まとめてみるのもいいと考えるのである。  続きを読む
Posted by easter1916 at 01:50Comments(0)哲学ノート

2018年07月04日

命題的態度の自己帰属

「私は考える」「私は見る」「私は信じる」「私は意図する」…など、これらはいずれも、命題内容を志向的内容として持つ命題的態度の自己帰属である。かかる志向的経験の自己帰属が確実な知識となることこそ、デカルト的コギトの主張の一つの眼目であった。その点について、あらためて批判的に論じてみたい。  続きを読む
Posted by easter1916 at 23:12Comments(24)哲学ノート

2018年06月28日

山形新聞ことばの杜(大森荘蔵先生)

ことばの杜(山形新聞)への投稿

私たち〔ホワイト夫妻〕を名前で呼ぶように、またその逆も許してくれるようにという申し出を、彼〔大森荘蔵〕は断固拒んだ…多くの他の日本人はこの問題に関しては柔軟になっていたが、大森は違っていた。私たちは彼のことを、一皮むけば一種のサムライであると考えるようになった。(ホワイト『日本人への旅』)

著者モートン・ホワイトは、戦後日米アカデミズムの懸け橋として活躍したプリンストンの哲学者である。本書は、戦後間もない頃から三十年ほどにわたる交流の思い出を記したものだ。その中に、何人か私自身面識のある先生方が出てくるが、とりわけ印象的なのが大森荘蔵先生の姿。先生は、ファーストネームで呼び合おうというホワイトの申し出を断固として退け、最後まで敬称を外そうとはなさらなかった。これは、他の日本人にはないところで、ホワイトに特に印象深く映ったのであろう。そこに、誇り高いサムライの礼儀作法を感じていたのだ。まさに先生の面目躍如たるところである。

時あたかも敗戦直後で、彼我の間に経済的・政治的・学術的に大きな格差が感じられていたという背景を忘れるべきではない。米国との親しさを誇示すること自体が、社会的威信のしるしとなり得た時代なのである。いまでも、誇りのかけらもない政治家たちが、米国大統領とファーストネームで呼び合い、ともにゴルフに興ずることを自慢するしまつである。何をか言はんや。

思えば大森先生は、我々とるに足らぬ学生に対しても、「あなたの仰ることは無意味なたわごとです」といったふうに常に敬語でお話しになり、御自身にも我々にも、決して馴れ馴れしさを許そうとはなさらなかった。しかも、酒に酔えば酔うほど、どんなに崩そうとしても崩せない身に付いた端正な礼儀作法が、ついつい現れてしまうといったふうであった。私は、自由な精神というものが、厳格な形と古風な作法に守られて初めて可能になることを、つくづく教えられたものである。

  
Posted by easter1916 at 01:17Comments(5)日記

2018年05月18日

パレスティナの勝利とイスラエルの破滅

私はかつて次のように書いた。

イスラエルはいずれ消滅するだろう。私は、イスラエルが何らかの形で共存する道もあるかもしれないと、以前は期待していたが、もはやそんなことは不可能である。もうこうなっては、この国家が出来るだけ速やかに歴史から消えてゆく事が、人類にとってもユダヤ人自身にとっても最善の道である。

今やこの「国家」の体を為さない暴力装置が、最後のあがきを繰り返しながら、中東やその他の地域で恐ろしい殺戮と暴力を繰りかえしている。私は、今ではこの鋼鉄製の暴力の嵐が、できるだけ速やかに、できるだけ犠牲を最小限にとどめながら、この地上から永遠に消え果ることをただ祈っている。そうして初めて、ユダヤ人同胞にも法の下の平和が与えられるであろう。「二国家共存」とか、アパルトヘイトさながらの棲み分けなど、言語道断である。そんな平和秩序の可能性は、とっくに踏みにじられているのであり、そんな幻想にすがるのは、シオニストに原則で妥協することでしかない。

この問題は決して根深い宗教対立でなく、単なる土地所有の問題にすぎない。土地を暴力で巻き上げた盗人たちと、全てを失って曠野へと駆り出された被害者の群れがあるばかりである。

かつてのオスマントルコの法秩序に似た、緩やかなイスラム法支配のもとに、多様な宗教が共存する生活圏を実現するしか、正義と平和への道はないのではあるまいか。それ以外はすべて根本的に正義に反するゆえに、おびただしい流血を生み出すだけであり、決して安定解に導くこともないであろう。

いずれこの地域から、イスラエルやサウジアラビアを含む全ての帝国主義勢力は駆逐されていくだろう。欧米は、結局極めて不名誉な役割を果たしながら、全ての利権を失ってしまうだろう。

何故そのようなことを断言できるのか? 正義に反するからである。

長々と時は流れるが、まことのことは起こる。(ヘルダリン)
  
Posted by easter1916 at 06:09Comments(1)時局