2022年05月16日

アリストテレス『魂について』第3巻第4章の解釈について

先日、カルチャーセンターの講義で、アリストテレスについて述べる必要から、新たに『魂について』の一節を読み返していて、思いついたことがあるので述べてみたい。
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2022年05月03日

ベンヤミンの政治哲学

ベンヤミンは、政治について多くは語っていない。その主たる関心は、芸術批評と美学に向けられていた。私は拙著『文学部という冒険』で現代芸術の政治性を強調し、ベンヤミンの美学にも言及したので、その政治哲学的含意について論じておきたい。
 もともとドイツ社民に対して深い軽蔑を抱いていたベンヤミンは、俗流マルクス主義に対しても何の共感も持たなかった。アーシャ・ラティスを通じて伝えられたロシア革命には大きな期待を寄せたが、それも公式のマルクス主義理論とかボルシェヴィキの組織に対してではなく、そこに示された新しいエトスやモラール(士気)に対してであったろうと思われる。
 結論から言えば、私はマルクス主義をベンヤミンによって刷新することを期待する多くの理論家と違って、むしろマルクス主義から、とりわけマルクス主義の唯物論や自然主義から切り離すことによって、ベンヤミンの政治哲学の革命的意義を生かし得ると考えている。
 ベンヤミンによれば、シンボルが何らかの全体性を前提し、それを表現するのに対し、「アレゴリー」はこの全体性の喪失を前提にし、その復帰が決定的に不可能になってしまっていることを踏まえている。したがってそこからは、全体性に失われた生命を吹き込むのではなく、ただ瓦礫を拾い集めることによって、別の世界の可能性を垣間見する事のみが期待できるのである。彼は、この瓦礫を拾い集める作業を芸術家の仕事と見た。
 私は拙著で、近代芸術が世界の異化から出発することを、ベンヤミンの瓦礫集めに重ねた。ルカーチの全体性は、世界市場の全体性に基礎を置き、あとはただその中でプロレタリアートの階級意識が世界市場の普遍的認識=階級意識として生成すれば、おのずから革命的ユトピアの実現になり得ると見なされた。
 それに対し、ベンヤミンでは芸術は全体性の復元を目指すのではない。見過ごされ、取りこぼされた存在に光を当てること。たとえば、カフカの中の奇妙な動物たちオドラデクなど(『父の気がかり』参照)。普通に生きる場を与えられず、月足らずで出現したためにこの世のどこにも適応の場のない者たち――カフカは彼らのために生きる意味や役割を見つけてやるわけではない。神の創造時の計画になかったはずの、何かの手違いで生まれてしまった者どもを示すことによって、世の中で早々と員数外の烙印を押されてしまった者たちに、確固とした根拠というよりはユーモラスな笑いとそこはかとない希望を与える。神の計画だけが全てではないかもしれないことを示すことによってである。こうして、ユトピアは数千年の階級闘争の歴史の果てに待ち望まれるものというよりも、彼ら無力な者たちの笑いのように、至る所に見出されるものとなる。
 たとえば、我々に『変身』のザムザ家のようなことが降りかかったとしよう。グレゴールの立場は、階級闘争を正規軍として戦うプロレタリアートの階級意識に統合できるものだろうか? 家の中にも、正規労働者として金を稼ぐ者と、「世間に顔向けもできないお荷物」要員との間で、利益対立が生じるであろう。それは労働者の家庭における専業主婦の立場と大差ないものとなる。私が、プロレタリアートは普遍性を代表し得ないと書いたのはこのためである。障碍者の福祉は政治的課題であり、プロレタリアートの実存可能性から自動的に流出するものではない。マルクス主義者の多くは、障碍者の福祉や婦人の解放に異を唱えないであろうが、それらの方針は唯物論からの論理的帰結ではないのだ。
 私は拙著で、マルクスの『経済学批判 序論』の言葉を引用してそれを批判した。

人間が立ち向かうのは、いつも自分が解決できる課題だけである。というのは、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、または少なくともそれができ始めている場合に限って発生するものだ…

これは、問題に対しては、認識に先んじてすでに解決が決定しているという考え方(問題解決の実在論)を意味している。たとえば、第一次世界大戦前夜、ドイツ労働者にとって、イギリスの労働者と連帯して、自国の資本家と対決する路(プロレタリア国際主義)と、はたまた自国の資本家と協調してイギリスの企業に打ち勝ち、貿易戦争を勝ち抜く路と、いずれの政策をとるべきかは、純経済的観点だけからは決定できなかったはずである。第二インターが自らのプロレタリア国際主義の大義を投げ捨てて戦争協力の途へ走ったことは、レーニンのようなマルクス主義者にとっては嘆かわしい裏切りと映ったとはいえ、ドイツ社民の戦争方針は、その唯物論的政治のひとつの自然な帰結に過ぎなかった。レーニンの即時無条件停戦は、実際にはプロレタリアートの利益に反するものではなかったが、唯一の帰結ではなかった。それはより高次の政治的英知に基づく決断であったのだ。
 宇野弘藏が主張したように、自由主義的な資本主義経済が恐慌を帰結することは論証できたとしても、その果てに帝国主義戦争をもたらす必然性も、ましてや社会主義をもたらすということも論証できるはずがない。
 ちなみに、プロレタリアートの革命的戦略が、常に戦争を回避すべきであるとか、あらゆる場合に平和主義を含意するはずである、などとは言えないのは当然である。植民地独立戦争や、反ナチ・パルチザンのように、戦う価値のある戦争も存在するからである。
 私は、マルクス主義の唯物論的前提に由来する実在論的形而上学こそ、スターリン主義の政治(むしろ政治の不在)の根本であると考えているのだが、これについてはいずれ詳しく述べる機会があろう。
 ここで述べておきたいのは、ベンヤミンのアレゴリ−としての芸術論が、政治哲学として生きるのは、かかる唯物論的・実在論的前提と決別する場合のみであるということ。
 一見自明に見える我々の社会の表層の意味の中に、隠れた亀裂を見出し、覆い隠された対立と問題の相を暴き出す暗号解読を行わねばならない。たとえば、漱石や荷風や大西巨人の作品の中には、旧幕藩体制の遺物が散らばっている。それらは、そのままで現代に意味を持つことはない。言はば廃物(ゴミ)。しかしそれらは、新しい文脈を与えてやれば、息を吹きかえし得るものであり、それによって現代に対し、通常では忘れられていた含意に気づかせる。これをベンヤミンはアレゴリーと呼んだが、我々は文脈の自由と呼ぶ。 
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easter1916 at 02:43|PermalinkComments(2) 哲学ノート 

2022年04月26日

イエスとニーチェによるルサンチマン批判

私は、ニーチェのルサンチマン道徳批判が、すでにイエスによって先取りされていると論じてきた(2021年10月15日のエントリー「道徳の系譜」参照)。これに異論を感じる人もいるだろう。普通ルサンチマンは、持てる者に対する持たざる者の逆恨みのように理解されている。持てる者は、何を所有しているというのか?富、権力、才能、栄誉…。これらの価値を持たず、いかにしても持てる者を凌駕することができないと感じる者が、それを獲得しようとするのではなく、それを所有することの無価値、ないし反価値を主張することによって、これまでの価値尺度を打ち壊し、価値の転倒をはかること。こうして奴隷たちは、彼らの反乱を完成すると言われるのである。
 これに対して、私が福音書の中に指摘したエピソードに、いかなる類似性があるというのか? マルタはすでに、マリアの方がイエスに認められていることを感じているのだろうか? マリアにあって自分にないこの是認ゆえに、マルタはその不在を何とか挽回しようとしているのだろうか? マリアが落ち着いているのに、マルタに焦りがあるように見えるのはそのためだろうか? それがゆえに、マルタはイエスに向かって、マリアにもっと働くように叱ってくださいと訴えるのではないか? マルタはすでに、マリアに対する鬱憤や反感を抱えているのである。これを私は、ニーチェが描いたルサンチマンと同類のものと見なしたのである。
 パリサイびとの律法原理主義はどうか? 生活の隅々にまで律法の網を張り巡らし、隙間を埋めようとするのはなぜか? ルサンチマンは、自らに固有の価値原理を持たず、他人への反感によって自らを支えているとすれば、パリサイ主義は何に対する反感なのか? これらに共通するものがあるのか? それがルサンチマン的心性であろうか?
 このように考えると、ルサンチマンが通常考えられているように、何らかの社会的価値に対する劣者の僻みと考えるより、より本質的には自分自身の内的価値評価にかかわるものであることがわかる。たとえ律法遵守とか道徳的であるとして社会的に高い威信を与えられても、内的に充足していないこともあり得るのであり、その場合、その飢餓感に発する反感や鬱憤が発生し得るのである。その証拠に、律法原理主義者は、それによって社会的に高い評価を獲得していても、決してそれで充足しているということはなく、たいてい些末な点で律法を遵守できていない者たちを批判し断罪して倦まないものである。彼らは、律法遵守に内的な喜びを感じているというよりも、律法から外れた者たちを風紀取締官よろしく摘発することに、隠微な喜びを見出しているにすぎない。「罪びと」に対する禁欲主義者たちの反感は、単に禁欲主義者が断念した快楽を彼らがむさぼっていることによるのであろうか? 禁欲主義者が進んで断念しようとしている快楽とは、いかなるものであろうと想像されているのか? なぜなら、彼らが断念した「快楽」は一度も味わわれたことなく、単におぞましいものと想像されるままに忌避されているにすぎないからである。
 律法の普遍化・全面化は、ひとつの合理主義的情熱に基づくものである。モーゼの十戒に代表されるような基本的掟は、基本的人権の憲法的規範と同様に、社会の秩序と福祉にとって不可欠のものであった。他の神々への偶像崇拝の禁止は、基本原則を排他的に遵守せよという自己言及的規範であるが、殺人とか、姦通や偽証の禁止は、それ自体社会の維持存続にとって不可欠のものである。安息日条項も、社会の持続的発展を保証する社会法の一種と見ることができよう。
 これらの律法はもともと極めて有益なものであるが、問題は律法合理主義の精神を徹底的に隅々にまで敷衍することによって、それが不条理な結果を生み出すことである。十戒の規定の及ばないところにも、その精神を生かして律法の細部を埋めていくこと――たとえば、故意による殺人と過失による致死を区別するなど…。これ自体、通常の法実務的な発展である。
 しかし、かかる司法の健全な発展を越えて、法合理主義が推し進められると、結局はすべての可能的行為について、法的にその是非が決定されているはずだという観念が生まれよう(極端な法実在論)。それを実務的な問題を越えて実現しなければならないという情念――このような情念は、それ自体実際の社会問題の必要から生じるものではない。純粋に非合理的(経験的には無根拠の)情熱である。あるいは、律法による裏付けがないことに対する不安からくるものということもできる。この不安は、偶然を忌避し、裏付けを求め、思考の余地を拭い去ろうとする。
 掟と掟のあいだには、実際には両立しにくい二律背反的側面が存在するものだが、その問題を隠蔽することから、この原理主義は絶えず不条理を生み出すのだ。こうして、非合理性から合理主義が徹底され、合理主義の果てに不条理が生み出される。この前半のロジックは、ヴェーバーの宗教社会学になじみのあるものであり、後半はアドルノの「啓蒙の弁証法」によってよく知られているものである。
 思考が自由を前提とする限り、思考を機械化しようとする情熱が、暗黙裡に自由への反感(ルサンチマン)を内蔵していることを見て取ることはたやすい。言いかえれば、思考の合理化への情熱は、思考への敵意、それゆえ自由に対する敵意に裏付けられているということである。
 法的思考を機械化・マニュアル化しようとする律法原理主義に対する抵抗の試みとして、私は以前、サッカーの奇妙なルールに言及したことがある(2014年9月7日「暗黙のルール」)。サッカーでは反則に対してレフェリーが笛を吹くことになっているが、他方では、むやみに笛を吹いて試合の進行を妨げてはならないとも定められている。しかし、いかなる場合が試合の進行に障害となるかは、定められていない。
 このようなあいまいさが、わざと規定されているのは、定められたルールが全てではないことを、ルール自体で示すためではないか? 我々の思慮の余地を、ルールは奪ってはならない。ルールは、我々の思考を実効的にするためのものなのだ。
 では、思考とは何なのか? それは、ルールが全てではないとして、意味の生成する余地を残すことであり、そのさいに開かれる可能性の空間である。この自由の空間は、そこに意味の生成が期待されているとはいえ、取りあえずは単なる可能性であるかぎり、偶然性の空間に過ぎない。この空虚を直ちに機械的マニュアルで埋め尽くしてしまわない配慮と忍耐――これを時間的空虚として捉え返せば、希望ないし待望と呼ぶこともできよう。
 逆にパリサイ的ルサンチマンとは、真空恐怖なのだ。我々の存在が常に意味の空虚を抱えている限り、この空虚に対処するのに次のいずれかの途しかない。空虚を耐え忍び、意味の生成を待望するか、あわただしくこれを出来合いのもので埋め、この空虚を否認するのか。
 一般に、道徳家や倫理学者は、利己・非利己といった観念に重点を置きすぎるように思える。我々は実際のところ、良くも悪くも個人的利害などに、それほど大きな関心を置いていないのではないだろうか? もちろん、ギリシア人にとって栄光といった価値が重視されたことさえ、「利害」といった言葉で解釈することもできるかに思えるかもしれない。しかし栄光は、もともと個人が所有できるようなものではない。それは、ある種の現われの空間と注視する他者の存在を前提とするものであり、その空間に主体が現れ注視されることを含むが、それを求めることを、利害といった言葉で理解しようとすることは適切ではない。そこに浮き彫りになる意味は、祖国の栄光といった公共的な形をとるのであり、個人の栄与はその一部を構成するにすぎない。それは、サッカーのチームの勝利がチームの上に輝くのであって、個人の所有などではないようなもの。このように政治的価値を目指すことを、利己心などの観念で理解することはできない。栄光をつかむことはもちろん人々が望み求めることに違いないが、そのことは他人の栄光に喝采することと矛盾するものではない。それらはいずれも祭りの祝祭的瞬間を讃えることに似ているのだ。
 
 ちなみに、イエスによるルサンチマン批判とニーチェのそれとは、正面から対応するものとはなっていない。それゆえ、イエス自身によるルサンチマン批判があることは、必ずしもニーチェによるキリスト教批判を阻却するものではない。イエスの活動にもかかわらず、ニーチェによるキリスト教批判は基本的に正しい。しかし、そのルサンチマン解釈が主として利益とか階級的憎悪などの通俗的価値競合をめぐっている限り、イエスによる批判の深みに届くものではない。むしろそれぞれの批判は、互いに無関係に、共に正しい。


easter1916 at 02:26|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年04月13日

カフカ『変身』

「ザムザ嬢がまっさきに立ち上がって、若々しい手足をぐっと伸ばした。その様は、ザムザ夫妻の目に、彼らの新しい夢と善き意図の確証のように映った」(カフカ『変身』)

 これは『変身』の末尾である。冒頭、一家の長男グレゴリー・ザムザがある日大きな甲虫に変身している――この箇所で誰しもギョッとしてしまうに違いない。読み進むうちに、我々がこのことに驚きや嫌悪を感じるほどには、ザムザ家の誰もさほどに驚いていないことに気づいて、なおのこと驚く。しかしやがて、グレゴリーはひっそりと死んでしまって、一家は元の生活を取り戻す。病人の看病をするように兄の世話を引き受けてきたザムザ嬢は、末尾でぴちぴちした妙齢の女に成長しているのだ。この小説の本当の恐ろしさは、主人公が奇怪な虫に変身する所よりも、彼の死後、他の者がせいせいしたとばかりに普通の明るい日常に復帰していく所にある。
 家族の一員が突然何かの不適応を起こし「一家のお荷物」になる。「失職」「出戻り」「引籠り」「認知症」…何でもいい。それがザムザ家に起こったことだ。失業して家にごろごろしている私が身を持て余し、老人特有の愚痴ばかりこぼし、家族に疎まれるとしよう。そうなると私は、そのことをさらに愚痴ることになる。やがて家族は私をまったく相手にせず、三度の餌を運ぶだけ。これでは虫同然の扱いではないか? 私は家族みんなに迷惑をかけていることはわかるが、それでどうなるものでもあるまい。やがて離れの一室でひっそりと死んでいるのを見つけて、家族はホッとするだろう。そのとき、初めから私など存在しなかったかのように、一家の幸福が到来する。
 あらゆる厄介を、週末の燃えるゴミのように片付けようとすれば、結局このような「幸福」と「健康」しか残るまい。それは私のような「厄介者」にとってだけでなく、他の者にとっても恐ろしいことではないか? 誰しもがいつでも容易に虫に変身し得るからである。


easter1916 at 22:51|PermalinkComments(0) 日記 

2022年04月06日

拙著 補遺

先日『読書人』紙で、拙著『文学部という冒険』を取り上げていただいた(3月11日版)。ありがたいことである。
 その中で、小林秀雄の『私小説論』への私の言及に対して、「こうした文学部が直面する諸問題・諸状況に背を向け「靴の塵を払い落として立ち退こう」とは思わない…本書の各章の分析は、現在の研究状況を踏まえているとは言えない。私小説論が小林秀雄のままでは困る」と述べられていた。批評氏にはご自分なりの私小説への切り口があるのであろうが、この批評だけからはそれがわからないのが残念な所。
 私自身の小林秀雄に対する見方は概して厳しいものであることは、このブログをご覧の方々には自明のことであろうが、私としては彼の初期の批評に見られる鋭さを愛でて、そのエッジの効いた言葉を引用したつもりであった。そのような大きな文脈の中では、小林の代わりに丸山眞男の「近代日本の思想と文学」(『日本の思想』所収)でもよかったのである。
 初めは気づかなかったのであるが、批評氏がかみついているのが、主として私の(あとがき)の中の言葉であるということだ。私は次のように書いている。

本書は、そんな世の流れに真っ向から反抗して、臆面もなく緩き良き人文学の意義を唱えようとしている。今日、文学部が社会の要請に十分に応え得ていないとしたら、それは社会の要請に妥協し、安易にそれに応えようとしているからに他ならない。文学部は、より深く反時代的に、その伝統と本文に立ち返ることによってのみ、その使命を果たすことができる

本書を通覧していただければ、私の美学的・芸術批評的試みが、一貫してアクテュアルな政治闘争へと方向づけられていることがわかるはずだ。それがパンとサーカスに狂奔する大勢に順応せず、そこから靴の塵を払い落として立ち退こうとしていることを、隠す必要はあるまい。(あとがき)


この前半部分と後半部分を繋げて、後半の表現が直接前半の主張の実践的帰結であるかのように、批評氏は読んでいるのではないか?
 これは私には思いもよらないことであるが、そう考えれば氏の反発も理解できぬことではない。教育現場では、文科省を相手に「ぎりぎりの攻防」が繰り広げられているのであろう。その中には日本文学をテーマとする国際学会とかシンポジウムのような試みもあり、そこでは「私小説におけるポスト・フェミニスム」とか「私小説におけるポスト・モダン的技法」といった流行のトピックも含まれよう。私は、そうした試みが無意味だと思っているわけではない。それらには有意義なものもそうでないものもあろう。しかしいずれにしても、それらがおおむね非政治的な安全地帯を前提としていることは昔の私小説と大差ない。批評氏には、学部の既得権を守ろうとする必死の小政治と無関係に、気楽に昔の夢を追うことが無責任な放言のように映るのかもしれない。
 しかし、引用文の後半は、我が国の文学研究の現状に対する批判を述べているのではなく(というのも、その現状について私は詳しく知らないから)、それを書いていた時点で我が国で渦巻いていたオリンピックの狂騒に対して、政治的敵対を突き付けるものであった。「パンとサーカス」と書いただけで間違いようがない、と思っていたのが迂闊であった。批評氏には、政治闘争と言っても、学部の既得権を維持する闘いくらいしか思いつかないのかもしれないが、私にとってそんな矮小な関心が想像もつかないものであった。不明のそしりを受けても仕方がない。
 その点で返すがえすも悔やまれるのは、ゲラ・チェックの最終段階で、末尾に記されていた2021年夏という日付を、2021年冬に差し替えることに同意したことであった。この本はいろんないきさつから、出版予定日が延期に延期を重ねた。「あとがき」を書いたのは、いよいよ8月出版が本決まりになったときであったため、私は2021年夏と書きつけたのである。その後さらに延期になった結果、編集の方から2021年冬と変更するように示唆を受けた。2021年冬は、同じように愚劣な北京の冬季オリンピックと重なっていたから、それでもいいとばかりにその変更に同意してしまったのだ。その結果、もともとの日付の持っていた毒々しい政治的インパクトが弱まってしまったのが残念である。
 ことほど左様に、文脈へのリテラシーが低下しているので、書き手はよほど気を付けなければならない。今日では、暗黙の文脈を自明に前提とすることが難しくなっているのだ。
 たとえば、私は脚注でギリシア悲劇のアンチゴネにふれている。そこでヘーゲルの有名な解釈(神々の掟vs人間の掟)に対抗して次のように記している。

アンチゴネーはポリスの掟を体現するクレオンの命令に反してテーベの反逆者として倒れた兄ポリュケイネスを葬った。それによって、ポリスを超えた価値理念(例えば神々の掟)を対置したのではなく、ポリスの正義をめぐって、現在至上主義のクレオンに対して過去(死者たち)を招聘しているのである。しからば、現在の政治闘争は、一応の決着を見たとしても、そしてクレオンの統治がその限りで正統性を獲得したとしても、その権威は決して死者たちにまで及ぶわけではない。なぜならポリスは生きた市民だけのものではなく、死者たち・先祖たちの祖国でもあるからである。したがって、政治的権威が歴史を改ざんしたり隠蔽したりすること、死者を正当に扱わず、ただ己れの権威付けに利用することは許されない。アンチゴネーが体現するこの理念は、決して彼女の個人的感情とかかたくなさではなく、おそらくは奢り高ぶる同時代の民主的アテナイでは久しく忘却されてしまっていた古い声なのではなかろうか? それはたとえば、司馬遷と漢の武帝のあいだに密かに闘われた闘争にも響いていたものである。『史記』「斉太公世家第二」によれば、荘公に仕える大臣、崔杼は、愚行を重ねる荘公を殺し、その異母弟の王子を王位にすえた。ときの歴史家(太史)は、「崔杼荘公を弑す」と記した。崔杼がその太史を殺すと、その弟がまた同様に記録した。崔杼は、それをも殺したが、その末弟がまた同じように記録したのを見て、崔杼は、それを放置した、と『史記』には記されている。

私はここでクレオンとアンチゴネの文脈に漢の武帝と司馬遷の文脈を重ねて見せたのであるが、さらにこれに、近年財務省で行われた陰惨な文書改ざん事件を重ねる人がどれくらいいるだろうか?
 ディオゲネスがアレクサンダー大王に「そこをどいてほしい。陰になっているから」と述べたエピソードを読んで、沖縄に居座る米軍のことを思い浮かべよというのは無理なことだろうか? 文脈の自由について述べるテクストが、読者に文脈の自由を行使することを求めるのは無理な注文なのであろうか?



easter1916 at 02:42|PermalinkComments(10) 日記 

2022年03月20日

神様について(つづき)


 神が主体を召喚する言葉であるとすると、言葉以外の招きはないのか?野や山が招き、自然界の春がいざなふやうなことがあるのではないか、とお尋ねです。
 ギリシア人は、驚嘆すべき現象すべてに神の業を見ました。たとへば、戦争で戦線が膠着したとき、突然人間の力を越えた偶然の介入を感じるとき、そこに神の助力があると考へたのです。「人事を尽くして天命を待つ」と言はれるやうに、運の神秘的な力が介入する、このやうな戦場での経験から、他のさまざまの偶然=幸運に神の業を見たのです。取り立てて美しくもない平凡な女の姿が、突然神秘的な魅力を帯びて我々の心を引き付けるとき、それを恋の神が働いたと考へるわけです。
 ここまでは、神々は特に言葉と関係づけられません。このやうな神秘一般であれば、魔術や呪術でも成り立ちます。しからば、宗教とか神とかの言葉の定義の問題facon de parlerにすぎないかもしれません。では何ゆゑ、言葉による呼びかけをことさら重視するのか?それは、神を倫理的な文脈に置くこと、また信仰批判を通じて、我々の神観念が深化することを重視するからです。感動・驚嘆だけであれば、それを神の業とする必要はありません。だけど、この感動とあの感動は同じ種類だが、こちらは別種だなどと語るところに、神の存在への言及が生まれます。そして、意味の発生に神々が与かるとして、それら相互にいかなる関係があるのかをめぐる思弁が生まれます。これが神々の系譜学(ヘシオドス)です。
 また単なる偶然であれば、その原因が知られてゐないといふだけで、ことさら神秘と言ふ必要はありません。ギリシア人が単なる〈偶然〉(ギリシア語ではアウトマトンと言ひます)と区別して、〈運〉(ギリシア語でテュケーと言ひます)と呼ばれる神秘が注目されねばなりません。ギリシア人にとって神の業と見なされた〈運〉とは、重要な意味が生成する経験のことです。「風が吹けば桶屋が儲かる」と言ったり、バタフライ効果と言ったりしますが、原因が些末なことなのに結果が重大な意味を帯びる場合。
 意味の生成といふからには、やはり言語的に表現できる必要があります。もちろん言語化しがたいものが生まれる場合もありますが、それが何であるかを議論しようとすればやはり言語に頼るほかありません。すばらしい食事にありついた場合、それを言語化する必要はありませんが、その結果の意味に理解の対立が生じる場合、やはり何が生成したのかを言語化する必要があります。つまり、神々を感じるだけであれば、感動だけで十分なのですが、その経験の意味を明らかにしようとすれば、ある種の神学が必要になるのです。そして最小限の神学が付随する場合に、我々の神々の経験はある種の倫理的意味を帯びることになるでせう。なぜなら、生成する意味は我々人間にとっての意味でしかないからです。
 このやうに考へると、万物の意味が語られることが思ひつかれるでせう。でもこれは迷妄です。ほとんどのことは言葉にならない。でも大方の重要な事柄は言葉で表す必要がある。それは、重要なことは、ほとんどいさかひの焦点に現れるからです。このこと自体、非常に不自然なことかもしれません。普通の動物なら、いさかひを起こすにしても、ある程度のところで決着をつけます。餌を争ふにしても、雌を争ふにしても、力の差が明らかになれば、そこで決着がつきます。すると、自然界にはある程度の「正義の秩序」が存在してゐて、それが乱されることは少ないといふことになるでせう。
 しかし人間界では、言葉が存在するために、自然に備はった秩序が支配することはなく、言語の掟が支配するのです。逆に言へば、言葉が出現してから初めて、人間固有の言ひ争ひが存在し始めたのです。おそらく一般の動物たちにとっては、自然が神であり、その掟が厳然と支配するのですが、人間においては自然の秩序が壊れてをり、言語といふ不十分なものでそれを補完しなければならない。自然の懐(エデンの園)から迷ひ出た結果、言語を持たざるを得なくなったのか、言語を手にしたために自然の楽園を追ひ立られたのか、いづれとも言へるでせう。
 ここで、二つの思弁的飛躍が起きました。一つは唯一神の観念の発明――それは、アブラハムの功績とも言はれますが、イクナアトンとネフェルティティ夫妻の功績とも言はれます。もう一つは、この唯一神の不完全性の発見であり、BC六・七世紀頃『ヨブ記』に現れ、その後イエスとキリスト教に受け継がれました。先程言及したジャンヌ・ダルクもこの伝統を受け継いでゐることは言ふまでもありません。
 言語が不完全であるからこそ、争ひが絶えることがなく、次々に暫定的な弥縫策を講じるほかなく、その結果、神のためにそれを弥縫する助力が絶えず我々に呼び掛けられざるを得ないのです。神が言葉で我々に呼び掛けるのは、彼が完全な存在ではなく、むしろ不完全の存在であるからこそなのです。我々は、それに対して言葉をもってその言語の穴を埋めるべくはせ参じるといふわけです。神の不完全性ということこそ、キリスト教のもっとも深遠な真理だと私は確信してゐます。
 今般、ウクライナに起こった惨劇を見るにつけ(もちろん当事者の決断をよそに軽々しく論じることはできませんが)ゾパル、ビルダテ、エリパズのやうにただ現実を受け入れて、敵前から逃亡せよと説く賢しらな「識者たち」が大勢ゐるのに気づきます。彼らは、有力者たちに自己同一化するあまり、現状に対して問ひの声を上げることすらが大それた不遜と感じるのです。自称キリスト教徒の中にも、このやうな柔弱者たちが大勢ゐるのは言ふまでもありません。




easter1916 at 00:29|PermalinkComments(3) 哲学ノート 

2022年03月11日

拙著書評

 12日(土)毎日新聞で、張競先生が拙著の書評を書いてくださるそうである。
https://mainichi.jp/articles/20220306/k00/00m/040/209000c
まことに光栄である。


easter1916 at 02:39|PermalinkComments(0) 日記 

2022年03月03日

神様とは?

以前の学校の元学生さんから、最近お尋ねのメールをいただいた「神様についてどう考へるか?」といふのである。それに対して最近考へてゐることを、かひつまんでご返事してみたので、以下その一部をここにご紹介する。

 神についてお尋ねですね。一言で言へるものではありませんが、一般に信仰は理論的に論じるべきものではなく、縁のやうなものが大事です。宮沢賢治の『ビジテリアン大祭』について論じたとき書いたことですが、我々は仏教とかキリスト教とか…の優劣を論じることができる立場に立つことはできません(ビジテリアンのイデオロギーとユトピア 拙著『神学・政治論』勁草書房 所収)。我々は神や仏と、どのやうに出会ひ、またどのやうに出会ひ損ねるかといふことを離れて、いかなる信仰もないのです。その点でそれは、人と人との出会ひに似てゐます。
 私の場合、学生の頃カトリックの寮でキリスト教と出会って以来、特に信仰者であったわけではないのですが、近年その比重が自分の中でますます増してきたと感じてゐます。
 私にとって信仰とは、聖書といふテクストの中に、主体が自らの姿のアレゴリーを見出すといふことです。これはちょうど親鸞が、比叡山にこもって仏典を読みふけったあげく、つひに仏典の中に、迷ひに迷った一人の修行僧――いくら山にこもって修行しても悟りが得られずに苦しんでゐる修行僧を見出し、それが自分の姿だと発見したやうなもの。このとき彼は、何千年も前から弥陀はここで親鸞一人が来るのを待ってゐたのだと感じるのです。これを親鸞は「弥陀の五劫思惟の本願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人が為」と語った『歎異抄』の言葉に集約されてゐます。
 しかし、人によって、仏典の中に、あるいは聖書の中に、自分自身の姿を見出すのだとしたら、どの書物と出会ふかは、まったくの偶然といふことになるのか?その通りだといふのが私の意見です。仏典でも聖書でもコーランでも何でもいいのです。ただ深く出会ふことが重要なのです。その点でも、誰と出会ひ、誰を愛することになるかは問題ではなく、ただ深く愛することが重要なのと似てゐます。さらに言へばテクストとの出会ひは、どんな人との、またどんな言葉との出会ひとも等価なのです。誰か隣人が私に呼び掛け、突然私がまどろみから覚めて、存在へと呼び出されます。ここに一瞬、神が姿を現してゐるのです。これを最も劇的に描くなら、聖ミカエル(St.Michel)がジャンヌ・ダルクを呼び出した場面をイラストとして使ってもいいでせう。神は、その困窮と急迫の中で、我々を泥の中から呼び出します。我々は初めから存在してゐたわけではありません。その呼び出しの声を聴き届けることによって、それによって存在へと召喚されることによって、初めて存在へと出で立つ(ex-ister)のです。だから神は、我々を呼び出すこの声、この言葉、この呼び出しであると言へるでせう。誰が語ったとも言へない声が、野に山に、また街に、吹く風のやうに流れざわめいてゐる。おそらくは死者たちの声、呻吟する民衆の声に混じって聞こえる声がある。昔の歌に、the answer is blowing in the wind といふのがありましたが、the calling is blowing in the wind あるいはthe question is blowing in the wind といふわけです。その中に私だけが私への呼びかけを聴き取るのです。ですから、神とは(私に呼び掛けてゐた)言葉のことだと言ってもいいわけです。


easter1916 at 02:32|PermalinkComments(3) 哲学ノート 

2022年02月14日

ラカンとフェミニスム

 ラカンによれば、男児は母の欲望の秘密を、ファルスの欠如ゆえに父のファルスを求める欲望と解釈する。これは、すべてのシニフィアンをファルスの欠如から解釈する一元的意味論である。男児が、原理的一元的説明原理が与えられると期待するのは、もちろん早とちりの幻想による。あまりにも鮮やかな解釈が得られたと思い込むことから、彼らは意味一般の解釈原理を手にできたと思うのである。これがそれ以後の彼らの意味論の基本形を形成するのだ。
 しかしそれなら、男は皆そのような愚かさを宿命づけられているのか? そうではない。そもそも鏡像段階のデッドロックを突破できたのは、男女を問わず母の欠如(母の欲望)から、言語への道が開いていたからである。
 男児は、それを大文字の他者A への母の欲望と見なし、自らもAを求める。そして、Aの中に己れのセリフを見出す。しかし、このAが完全でもすべてでもないことを見出さなくてはならない。さもなければ、彼にはいかなる主体性の余地もなくなるだろう。これでは象徴界にすっぽりと飲み込まれることを意味する。
 かくて、神の全知性の幻想を突破せねばならない。これが、思春期や反抗期における自立の問題であり、旧約聖書におけるヨブの立場であり、共産主義における主体性の問題である。また、律法主義に対するイエスの闘い――つまり、律法が全てだとする申命記主義に対する闘いの意味である。
 ラカンの第一の功績は、Aの不完全性をはっきりと示したことであろう。初期のラカンは、一種の構造主義者として、想像的なものに対する象徴界の優位を主張した。これは、さまざまな婚姻の掟や神話によって表現されている民俗文化を論じるレヴィ=ストロースの立場に似ている。彼は、それを論じる文化人類学者の認識それ自体がいかなる神話なのかという問いは立てなかった。
 ラカンは、はるかにラディカルであった。この点でマルクス主義が参考になる。ブルジョワ社会はおしなべて商品の物神性によって覆われている。それは、商品・貨幣・資本の魔法にかかった魔術化された庭園である。ディズニー映画『魔法使いの弟子』の世界。そこでは、魔法にかけられた商品(掃除道具など)が自動的に動き出し、制御不可能となる。資本の運動は、資本家の手を離れて制御不可能になる。かかる魔術化された庭園において、理論家だけが物象化を逃れることなどできない。この夢から目覚めるのはいかにしてか?こういう理論的問題にラカンは徹底的に通じていた。
 とはいえ、ラカンは他方でフランス・カトリックの伝統にどっぷりつかっていた。この影響が彼に重要な洞察を与えている。これが我々には理解しにくいところ。サルトルのような無神論なら我々にわかりやすい。しかし、メルロ・ポンティのような反スターリン主義者やアルチュセールのようなスターリン主義者が、立派な知性と教養を備えながら、ともにとことんカトリックであることがどうして可能なのか?
 アルチュセールは、イデオロギーの召喚について語った。これは、オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクを聖ミカエルが呼び出したのと同型である。風のように漂って響くざわめきのような声の中に、ジャンヌだけが自分への呼びかけを聴く。おそらくは、死者たちの声、苦しみあえぐ民衆の声だろう。我々は泥からこの声によって長きまどろみから目覚め、存在へと召喚されるのである。初めから存在しているのではない。呼びかけを聴き届けることによって存在へと出で立つ(ex-ister)のだ。だが、ジャンヌを神が召喚したことは、神の困窮・欲望=欠如のしるしなのである。ジャンヌの立場は、ヒステリー者が、父の無力の補完をすることに自己の使命を見出すのといくらか事情が似ている。
 後期になるにつれ、象徴界は、夢や神話、イデオロギーの世界のように見なされていく。したがって、『マトリクス』のようにイデオロギーの支配する夢からの覚醒という問題がせり出してくる。あらゆるイデオロギーは不完全であり、象徴界の穴・不完全性、それが全てでないこと――これを発見したことでラカンは、構造主義的な立場を二重の意味で乗り越えた。
 ひとつには、構造のもとにある主体が、いかにして自由な主体性を獲得するかを説明できる。これは、歴史的全体知を僭称するマルクス主義的宿命論に対して主体性を可能にする。
 もう一つは、構造について語る理論家の立場を、理論の中に繰り込むこと。この点はよくわからない点が多いが、大雑把に言えば、神経症も理論家もエディプスに対する何らかの不完全な対応に過ぎないとすること。つまり分析自体が病のひとつであるとすることである。
 マルクス主義であれば、資本主義が生み出した問題のひとつであるプロレタリアートが、解決の可能性でもあること。キリスト教であれば、ヨブの苦悩という形で現れた世界の不完全性が、それにさしあたっての対処をする唯一の可能性が、ヨブによって与えられること。
 いずれにせよ象徴界が不完全であるなら、原理に基づいてすべてを解釈する男性的意味論は完成がおぼつかないことになる。遠からず彼らは、それが全てではないこと、原理上それが全てであり得ないことに至りつかねばならない。
 ちなみに「申命記主義者」は、主体のなすべきことが全て律法によって決定されていると考える点で、象徴界Aの完全性を信じるスターリニストと構造的に同形である。それと対決したヨブやイエスは、大文字のAの全体性・完全性を否定したことで、ユダヤ教を一新したのである。
 かくて、男女とも別々のルートを通って、Aが全てではないことに至りつかねばならない。このような観点に立って、フェミニスムの政治について考えるとどうなるか? 以下、ジョン・フォード監督の西部劇を例にとって、考えてみよう。
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easter1916 at 03:25|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年02月02日

魂の存在証明

「魂の存在証明」について記したことについてつけ加えておこう。
 私は、デカルトの懐疑について書いたおり、意識の反省的明証性を直接的明証性としてそのまま受け取ることができないことを示した。ジュリアン・ソレルにとってレナール夫人の手を取ろうとする意図が真の意図であるか、それとも意図の想像(夢想)に過ぎないか、決して意識の内省だけから決定できなかったように、またキリーロフの自殺が真に彼の意図的行動であったのか、それともひょっとしたらショパンを神経質に演奏しなければならないと思い込みすぎたため、結果的に神経質に演奏してしまう愚かな演奏家のように、逸脱因果(deviant causal chain)の結果にすぎないかどうかを、彼の内在的直接性だけから決定できないように、デカルトのラディカルな懐疑に立ち向かうには、いわゆるコギトの明証性は不十分なのである。
 同様に意識の還元不可能な直接性を言い立てるものとしては、クオリアの議論がある。クオリアという概念の批判については、拙著『古代ギリシアの精神』(講談社メチエ選書)p−208以下で議論している。
 クオリアにせよデカルト的コギトにせよ、独我論的直接性に立てこもる連中に対する私の立場を「あらゆる直接性の敵」と呼んできた。これは、もはや単に理論的問題ではなく、政治的問題であるから、形而上学のアリーナで論じても、「敵」を納得させることはできないだろう。もっとも、独我論者を議論で説得することに意味があるとしての話だが。
 そこで私は、論争状況を美学へとシフトすることが有益であると考えた。ここに賭けられているのが、単に理論的真理価値ではなく、人生の意味をめぐる美的価値でもあることを示すことが重要だからである。(ちなみに、ここで「人生の意味」というのは、「家名を高める」とか「国に貢献する」といった明確な内容を持った目的論的価値のことではない。むしろ「幸福」といった総合的判断のことである。幸福は悟性的(パタン的)認識の対象ではなく、判断力の対象である。その意味で審美的価値と言ってもよい)
 私は拙著の中で、カズオ・イシグロの作品に描かれた臓器奴隷制の奴隷たちが、もしシューベルトの作品のようなものを創り出したら、その魂の存在証明によって、「彼ら」を奴隷として扱っていた「我々」の魂の不在の証明になったであろう、かくて臓器奴隷制はジェリコの壁のように崩壊したであろうと記した。
 ここでは註にも触れなかった二つの含意について明らかにしておこう。
 ひとつは、石原吉郎の『望郷と海』の中での鹿野の発言を踏まえていること。シベリアのラーゲリで無期限ハンストを敢行したとき、迎合しない鹿野に業を煮やした保安委員が取調室で「人間として話そう」と切り出したのに対して、鹿野が「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えた(ちくま文庫版p−41)発言を下敷きにしている。ここには、還元不可能な敵対性が示されているのだ。
 もう一つは、なぜシューベルトかという点。ここで私は、畏れ多くも自分の無教養をも省みずに言うのだが、シューベルトがそれほど高い音楽教養を身につけているようには見えないということである。たとえば『未完成』のスコアを見て、これほど単純な簡素と言っていいような音符に驚かない人はいないのではないか? それはほぼピアノの両手で収まる程度の複雑さしか持っていない。また、ベートーヴェンやブラームスが得意としたような展開部の豊かさも、ほとんどそっけない形で片付けられている。
 しかしそれにもかかわらず、ここに何という天才性がほとばしり出ているであろうか? 冒頭の呻くようなバスのテーマが終わった後、弦の刻みのさざ波の上に重なってくる木管のテーマが出現する所――この世のものとも思えない。単純素朴な天才性には何のハッタリもケレンもない魂の裸形があるのだ。だからこそ、技巧や教養とは区別される純粋な精神性という点において、シューベルトほど奇跡的と感じられる芸術家は存在しない。我々はもちろん、モーツァルトやベートーヴェンの前にひれ伏すが、それらが我々にとってははるかに及びがたいのは自明に思えるのに、シューベルトがこれほど素人臭く身近に感じられながら、これほど及びもつかぬ魂の純粋性の高みに存在することに、何度でも驚かされるのである。
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easter1916 at 15:34|PermalinkComments(0) 哲学ノート 
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