2016年08月21日

「全体的」「本来的」

亡き人が何をもたらしてくれたのかは、すぐにはわからない。生きている間には、それを考えることは難しい。なぜなら、生きている人には、応答し、かかわり続けなければならないからである。

かかわる時間、生きる時間は、互いに積み上げ、紡ぎあう時間であり、何が与えられたのかを考える時間ではない。

意味を考える時間は、亡き人を思う時にやってくる。終わった生を全体としてまとめ上げ、その存在の意味を問い直すこと、その言動を一つのテクストとして読解することは、死後に初めてやってくる。

その時、言動の相互間連やその生前には伏せられていた意味が浮き彫りになってくる。時間をおいて眺めれば、相互の部分の軽重が変化し、見逃されていた細部の意味とその連関に新たな理解がもたらされるからである。

死者との対話は、生きている者との対話と違って、一方的であるがゆえに、死者の言葉を我々自身が考えねばならない。生きている者との対話であれば、不明なところがあれば、直接問いただせばいい。そこで考えるべきことは、自分自身が本当は何を考えているかである。生きている者との対話は、実際には我々自身が何を考えているかを明確化するためになされ、死者との対話は、彼が実際何を考えていたのか、あるいはその存在の意味が何であったのかを考えるためになされる。

死者はそのとき、書物という形を取ろうと否とにかかわらず、テクストとして現れるのだ。言葉がその真の意味で立ち現れるのはここである。

これに比べれば、生者との対話は、相互行為の延長、殴り合いや愛撫のようなものである。そこにも意味は現れるとはいえ、それらは次々と後に続く行為の意味によって上書きされ、深部へと沈下し、層をなして堆積してゆく。当面われわれの意識が集中するのは、表層にある意味だけである。

それゆえ、人間の言動の(テクストとしての)意味が――つまりは意味として問われる人間存在そのものが、全体的かつ本来的に問われ得るのは、死によって遠く隔てられた他者の存在としてのみである。

それゆえ、愛し合うことは、本来不可能であることがわかる。我々は生きてかかわりあう限り、その存在を互いに全体的に本来的に考えることができないからである。

愛は意味に向かうのではないし、まして意味によって愛が生じるのでもないが、我々を亡き人の存在の意味へ向き合わせ、その意味への問いへと駆り立てる。愛は問うのであり、意味を求めるのであり、意味に安住させ満足させるのではない。どのように考え続けようと、問いかけようと、決して我々はその答えに満足することはないだろう。その意味で、愛は感性でも悟性でもないし、いかなる認識でもない。ただ認識への起動力ではある。愛は亡き人との関係として初めて完結する。永遠に未完の問いとして。

イエスの犠牲の意味は何であったのか? いかなる教義によっても、すでにすっかり与えられているわけでもない。それは、イエス自身から彼を愛する力を与えられた人々、その力に突き動かされる人々すべての固有の問であり続けている。
  
Posted by easter1916 at 16:38Comments(2)TrackBack(0)哲学ノート

2016年08月14日

法と倫理

ソクラテスは、クリトンの示唆にもかかわらず、逃亡を肯ぜず法に従って刑死した。これをもってしばしば法と倫理との食い違いの例とされてきた。しかし私は、ソクラテスの例を違った風に理解している。

根っからのアテナイ人であったソクラテスが、ポリスの政治的価値と区別された個人的倫理を生きていたとは信じがたい。たしかに、個人の魂の吟味というソクラテスの営みには、古典的ポリスの徳とはどこかしら異質な、個人の魂の救いといった個人主義的なところがあるように見えるのは否みがたい。このようなところを、ニーチェはソクラテスの卑小さと見ていたのは周知のところである。

プラトンによって、このような個人主義的関心は、死後の魂の運命といったところにまで誇張され(『国家』第10巻「エルの神話」参照)、その後のキリスト教にすんなりつながるようなものを準備していた、といえるかもしれない。

しかし、もともとソクラテスの活動は、公開の場における対話とイロニーを駆使するといういたって政治的なものであり、『弁明』の言葉を信じるならば、ポリスの政治と言説を健全化するという動機に基づいていたのであり、それを文字通りに取るべきであろう。ソクラテスにとって、自分の魂よりもアテナイの運命が重要だったのであり、その意味では、彼の活動は徹頭徹尾政治的・教育的といえるものであった。さもなければ、法廷で自分の命がかかってところで、かえって反感をそそるような言葉を吐く必要はなかったはずである。

そう考えるなら、法廷での弁償も死刑の受容も、教育的配慮に基づく政治的芝居と見なければなるまい。それゆえ、ソクラテスにとって、ポリスの政治を離れて殉じるべき個人の倫理的価値があったわけではなく、広い意味で彼のすべての言動がアテナイの政治教育の一部であり、それゆえ政治闘争の一部なのである。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 20:19Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年08月03日

アスリートのメディア戦略 

女子レスリングの吉田沙保里選手が「スポーツ紙記者に間で評判を落としている。荒稼ぎ体質に変わり、取材するなら三万円とギャラを要求するようになった」からだという。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160730-00511064-shincho-spo

吉田選手の態度に「荒稼ぎ体質」しか見ないのは、いかにも安物のスポーツ紙記者らしい「見識」であるが、もちろん問題はそんなところにはない。

以前ここで記したことがあるが(2008年12月15日「反抗的な弟子」参照)、吉田氏のような一流アスリートにとって、メディア対応は極めて難しく、扱いにくい問題となるのが常である。

今は問題を単純化するために、スポーツ・メディアに限定して話を進めよう。1990年ミラノにおける対西ドイツ戦で、ユーゴスラヴィア・チームを率いたイビツァ・オシム氏は、チームが1−4で敗れた後、記者会見で語った、「記者諸君が使え使えとうるさいタレント選手3人を一緒に使うとどうなるかを君たちに見せつけるためにわざと負けたのだ」(木村元彦『オシムの言葉』集英社p−63)。

アスリートが闘うためには、いかに巧みに(自国の)記者とも闘わねばならないかを、鮮やかに示す例がここにある。重要なことは、単純にメディアを敵に回していいわけではないということだ。適度に挑戦的な言葉で刺激し、適度におだてながら、メディアの裏をかく高度に政治的な戦略が必要なのだ。中田英寿、本田圭佑、吉田敦也、有森裕子…などという超一流アスリート諸氏は、たいてい半ば本能的に、このようなメディア戦略を駆使しているものである。

しかし、誰でもがイビツァ・オシム氏ほど巧みに、メディアを操ることができるわけではない。

水泳の千葉すず選手が、水着の自由選択権を求めて、またオリンピック選考基準をめぐって、日本水連といかに立派に闘ったかは、よく知られている。しかし、彼女に対して当時のメディアがいかに残酷であったかは、ほとんど忘れられている。これほど日本のメディアの厚かましい無恥無能ぶりを示す歴史的事例は、少ないのではなかろうか?

千葉氏の闘いは、スポーツ界における正義の実現にとっては十分に有意義なものではあったが、彼女自身の栄光を目指すためには、必ずしも賢明なものではなかった。

その点では、吉田沙保里選手の戦略も、賢明なものとは言えない。厚かましいメディアに距離を置くのはいいとしても、取材フィーを要求するのは戦略として筋悪である。

取材を拒否する権利は誰にもあるが、記者は普通そのような態度に慣れていない。彼らは、メディアに露出すること自体が取材対象にとっても「利益」になると固く信じていて、長い間には、それが自分の功績であるかのように、自分が相手にもたらし得る恩恵であるかのようにうぬぼれることが多い。よほどの意識を持たない限り、記者がそのような心得違いを免れるのは難しい。だからこそ、それを拒否するようないかなる態度も、記者たちに根深い反感を刺激せずにはおかないのだ。

アスリートが気を付けなければならないのはここである。メディアに乗せられて我を忘れたりすると、致命的なしっぺ返しを覚悟せねばならないのはもちろんだが、かといってメディアを敵に回していいことは何もない。

アスリートは、このような軋轢を最小限にやり過ごす術を身につけなければならない。正面突破を試みるのは、エネルギーを無駄づかいして、肝心の勝負にとって障害となりかねないからである。相撲取りによくあるように、馬鹿なふりをする、または日本語が苦手な(語彙が極端に乏しい)ふりをする(何を訊かれても「そうですねえ」「頑張ります」しか言わない)、のもうまい手かもしれない。

要するに、マスコミの餌食にならずに生き残るためには、単なる反発や敵意とは違う賢明な悪意を備えなければならないということだ。うまくすれば、それによっていつかはリスペクトを(あるいは付き合いづらい人間という評判を)勝ち取ることも不可能ではない。自由であるためには善意だけで十分だと考えるのは、間抜けなお人よしだけである。

  
Posted by easter1916 at 21:05Comments(0)TrackBack(0)批評

2016年07月31日

囲碁における運の要素

囲碁の勝敗が棋士の実力によることは、自明のことのように思われる。勝つ確率の高い人を強いというのであるから、強い人が勝つのは当然である。

それでも、今のところ必勝の手筋が初めからわかっているわけではないのだから、下手でもまぐれで勝つことはあるかもしれない。

しかし、碁ほど棋力の差が明らかなゲームはない。初心者が有段者に互先(ハンディキャップなしの試合)に挑戦して勝つ見込みは、万に一つもないものだ。したがってこのゲームには、運の要素はほとんど介入する余地はなく、ほとんどすべての勝敗が囲碁に関する知性の差であるように思われよう。

先日、ゼミの学生とその点で議論になった。私は囲碁で運の要素が顕著にかかわることがある、という議論をしようとして、学生から反撃された。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 23:07Comments(0)TrackBack(0)日記

2016年07月16日

鳥越俊太郎の選挙スローガン

鳥越氏の都知事選出馬によって、我が国の政治を転換するチャンスが生まれた。我々はこの機会を絶対に生かさねばならない。憲法改正を阻止しなければならない。平気で嘘を垂れ流し、言論を封殺する政治を、今こそ転換せねばならない。

鳥越氏とその支援者に対し、私としてぜひアドヴァイスしたいのは、些末な都政論に拘泥する必要などはないということである。税金の使い道とか、舛添都政における公私混同の是正なども、重要でないことはないが、このさい問題ではない。東京都よりも祖国を救うことの方が百倍も重要である。

スローガンは、ただ「安倍の暴走を止めよう!」であるべきだ。安倍から祖国を守ることにのみ焦点を合わせるべきである。敵は増田や小池ではない。ただ安倍であり、菅である。それを都民の前に鮮明にすれば、鳥越氏の出馬の意義が浮き彫りになるはずである。かつて美濃部氏は、「ストップ、ザ、佐藤」をスローガンにして当選したことがある。今、美濃部氏にはあまりいい印象を持たない都民も多いが、それでもあの時の戦略には学ぶべきものがあろう。
  
Posted by easter1916 at 13:40Comments(2)TrackBack(1)時局

2016年07月10日

出家

仏教思想史の研究者である佐々木閑氏によれば、釈迦によって考案された出家制度は、単に狭義の宗教的な制度にとどまるものではないという。直接の効用を離れて、道を究める修行の在り方は、さまざまの学問、芸術、芸能など各種の創造的な分野にも適用可能なものなのである。出家者は、それを信頼する在家の人々からお布施によって支えられるのである。

クリエイティヴでイノヴェイティヴな仕事であるほど、あらかじめ予想もつかず、またその効用も思いつかないものであろう。したがって、市場的価値によって評価しにくいものである。基礎科学研究の大部分が市場的に評価しにくいものであるから、それを市場的基準にまかせるなら、科学研究は壊滅的なことになるだろう。事実、その危険も現実的で差し迫ったものかもしれない。。

すぐに役に立たない研究部門の衰退は、大学院進学者の減少などの形で現れる。他方で修行者は、早い段階で目に見える「成果」(学会誌への投稿とか、コンクール入賞とか、科研費取得…など)を出して就職に役立てようとする。この結果、修業の長期的視点の欠落、「成果」とその提示様態のジャーナリズム化が昂進する。これは、事象そのものへの集中と、伝統への無私の献身を不可能にしてしまう。

出家とは、そのような献身と集中とを可能にするべく設計された制度なのである。いろんな「出家者」によってこそ、それぞれの道は究められ保全され得るのである。問題は、いかにして在家の人々が出家者の権威を信じることができるかである。というのも、出家者の独創的な道は、在家の人々の想像を超えたものにならざるを得ないからである。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 01:35Comments(2)TrackBack(0)時局

2016年06月29日

ジジェク批判(追補)

ジジェクは、シェリングの悪や自由意志に関する論考を肯定的に言及することによって、あらゆる感性的パトローギッシュな関心から独立した純粋悪意のような意志が存在していること、それがいかなる因果的な知の網を打ち破る外傷的なものであること、つまりle reelの次元に属するものであることを強調している。(『最も崇高なヒステリー者』p−255)

私は、自由と合理性そのものを可能にしている象徴界への参入そのものが、外傷的なものであり、その痕跡は象徴界の中に一つの穴を穿つような形で存在するle reelであるということは認めてもよい。しかし、それがシェリングの純粋な意志の自由とか、純粋の悪意となどとは程遠いものであると言わざるを得ない。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年06月22日

地域通貨とベーシック・インカム

以前ここで、ベーシック・インカムについて論じたが(2016年4月18日美学散歩(11)Unto this last参照)、果たしてその制度にどの程度実効性があるか、疑問を持たれる向きもあるだろう。それが、財政規律と矛盾することなく機能するものであろうか?

私はそれを、地域通貨と組み合わせることを提案したい。つまり、ベーシック・インカムは、何らかの地域通貨で支払われるのである。地域通貨は、それぞれの地域の特性を反映するべきものであるから、一様に論ずることはできないが、1)基本通貨(国際為替市場で流通する通貨)と併用されるものであり、基本通貨に代わり得るものではない。2)狭い地域で流通し、その地域社会での情報と信用に支えられるが、それを超えた普遍的信用を持ちうるわけではない。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 03:47Comments(0)TrackBack(0)時局

2016年06月01日

サイン会

先日友人と飯を食ったとき、私の本がさっぱり売れないという話題になった。

実は私は、売れないことにはさほど心配はしていない。突然バイロンの『チャイルド・ハロルド』ように、爆発的に売れ出さないとも限らないからだ。

むしろ心配なのは、その時のことである。

売れっ子の著者は、大手の本屋のサイン会に呼ばれたりするものである。このとき自筆のサインが求められる。字が下手なのは構わない。下手でも味のある字はある。作家に求められるのは字のうまさではない。むしろこの味である。私の字もうまくはないが、亡くなった母がつくづく述懐したのは、「あんたの字は品格がないの」であった。どうも字には、性格とか品格とかがにじみ出るものらしい。どんなに練習しても、こればっかりはごまかしがきかない。サイン会で、あこがれの著者から、品格のない字のサインをもらった愛読者の心中はいかばかりであろうか?

そんなわけで、私は目下自分の品格を鍛えているところだ。これにはやや時間がかかる。

さて、しかるべき品格が私に備わったところで、いよいよサイン会である。サイン会では、たいてい二人くらいの売っ子作家が呼ばれる。最近売れ行きがいいのは、若く美形の作家たちだ。以前だと、荷風や谷崎にしろ、宮本百合子や野上弥生子にしろ、とても美形と(まで)は言えなかったものだ。今や美人の作品は、内容が陳腐で凡庸でも、これが飛ぶように売れる。

私がそんな著者と机を並べたとして、長々と列をなすのは、私の前だろうか? 万に一つも、そんなことはあるまい。隣には何十人ものファンが並んでいる横で、私の前には閑古鳥が鳴いているのを見て、書店員は気の毒そうに、また申し訳なさそうに、せっせとお茶を運んだり、一向に減らないサイン本を積み直したりすることになる。

私の本に人気がないとしても、それは私の責任なのだからどうということはないが、自分のせいでもないのに、書店員が申し訳なさそうに目を伏せるのを見るのは、つらいものがあるだろう。

そんなわけであるから、たとえサイン会に来てくれと言われても、なるべく断ることに決めている。幸いそういう申し出はいまのところ来ていない。
  
Posted by easter1916 at 04:14Comments(4)TrackBack(0)日記

2016年05月30日

「重版出来」

いつものように山形新聞への投稿であるが、今回は少々面白いことがあった。まずは投稿記事をあげておこう。

――
「重版出来(じゅうはんしゅったい)」(松田奈緒子)

いま評判のテレビ・ドラマ。大手出版社の新人スタッフ役の黒木華氏の熱演が光る。もともとは松田奈緒子氏の名作漫画の表題だ。

著者の側から言えば、とにかく自作が出版にこぎつけることが大問題であるが、出版の側から見れば、出版した本の重版が問題。というのは、初版だけではそれを売り切ったところで、コストや手間を考えるとほとんど儲けにならないからである。しかし、初版を売り切れば自動的に「重版出来」となるわけではない。売れ行きの「勢い」こそが重要だ。さもなくば、重版しても在庫を重ねるだけでは元も子もない。

ドラマは出版不況が続く中で、企画・編集・営業と、いかに涙ぐましい努力をしているかを描き尽し、共感を呼ぶ。とりわけ身につまされるのは、独りよがりの作家に対して、編集が厳しい注文を出すところ。漫画界のように、独創的な才能がひしめいているところで生き残るほどの作家は、当然、圭角(けいかく)ある個性の持ち主だ。編集の注文を容易に聞き入れるわけもない。

しかし、才能ある個性に対してこそ、編集者の厳しい批判は不可欠なのだ。どんな葛藤を引き起こしても、それは必ず実りをもたらす。著者は常に褒め言葉に飢えていて、どんな空疎な賛辞にもしがみつくが、それ以外は受け付けようとしない。自惚れに満ちた強烈な思い込みが、いかなる批判にも耳を閉ざしているからである。

私もいくつか売れない本を出したことがあるが、売れないには、本人にはわからない相応の理由があるものだ。気取った文飾、こけおどしの晦渋(かいじゅう)さ、あらずもがなのナルシシズム…。編集者はすぐにそのような欠点を見抜く。作品に対する彼女の醒めた視線は、実際は著者の怒りを買ってまでも、育ての我が子を守り抜こうとする愛から来る。編集の言うままにすればいいとは限らないが、それでも厳しい指摘によって作品が改善されないことはまずない。
――

実は、この文章は、一か所修正が要求されていた。「こけおどしの晦渋さ」の部分が、「こけおどしの難解さ」に書き換えてはどうかと、やんわりと編集者に提案されたのである。「晦渋さ」はやや晦渋すぎる、というのである。つまり、私の表現そのものが、すでにしてこけおどしの晦渋さだというわけだ。なかなか機知にとんだ編集者ではある。

もちろん私は型通り気分を害し、「晦渋」さえも通用しないのだとしたら、それは読者が悪いだろう…とか何とかブツブツつぶやいたものの、「こけおどしの晦渋」を押し通すほどの面の皮はさすがになかったので、苦々しい思いをかみ殺して、言われるままに従うことにした。はなはだ不愉快なような、愉快なような話ではある。

ところが、ゲラの段階で一転、「晦渋」で構わないということになった。編集の中にも「晦渋」を押す者がいたのかもしれない。それとも、「すべてお任せします」と言った私の言い方が、まるで開き直った啖呵のように聞こえてしまったのか、そこのところは不明である。

しかし、そうしてみると、今度は自分の言葉使いに、にわかに自信が持てなくなってきた。私の日本語が、どこもかしこもグラグラ・ガタガタ音を立てて揺らぎだした。こうなると、ちょうどこれまでなにげなく使っていた漢字が、突然相貌を変え、そんな字があったかどうかさえ確信が持てなくなってしまったような具合だ。すべての文字や言葉が溶けだして、普通であるものとそうでないもの、自然なものと不自然なものの区別もわからず、何とも情けないありさまである。編集者から「それほど自信があるなら、全部自分の思った通りに書けばいい」とばかり、放り出されてしまったようで、妙にさみしい気分でもある。編集さん、どうか私を見捨てないで!
  
Posted by easter1916 at 04:52Comments(2)TrackBack(0)日記