2019年10月06日

「俗情との結託」

ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。

科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか?

と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。

ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。

私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議である。

おそらくコメンテイター氏にとって、「煽り」ということは、それだけで非難に値するとてもひどいことなのだろう。「煽り」という言葉の意味は、扇動とか、情動に訴えて自説に有利に聴衆を導くような態度のことであろうが、私にはそれのどこが悪いのかわからない。批評的議論では、ときには理性や論理ばかりでなく、感情や(怒りや羞恥心などを含む)全ての情動を総動員すべきだと思うからだ。

この点で、少し思い当たることがある。私は批評や論争を広義のイデオロギー闘争、政治闘争の一種と見ており、そのため単に事象そのものや論点を浮き彫りにするだけでなく、時には論敵の愚かさや卑しさを浮き彫りにすることも必要だと考えてきた。このような人格批判は、いわゆる「学会」の作法とは食い違うことはわきまえているが、政治闘争として批評活動に従事する際にはそれほど頓着すべきことではない。

そのことが、政治闘争の経験がない連中から見ると異様に見えるのかもしれない。その連中はたいてい、相手を追い詰めない「ごっこ遊び」のような議論に終始するのだが、それは実は自分が追いつめられることを避ける小ずるい護身術に過ぎないのだ。そこからは奇妙なシニシズムが体臭としてにじみ出ることになる。つまり、常に「結論にはコミットしませんが、取りあえずネタとしてこんなことを言ってみただけです(なんちゃって)」といった(笑)付きの発言に終始することになるのである。

ともかく私は、学会の作法に反して、主張の誤りは単に愚かさの現われにとどまらず、何らかの実存的な邪悪さの現れであると考えるマルクス主義的な批判手法の伝統を幾分か受け継いでいるのかもしれない。もっとも私自身は、こと政治論の領域では唯物論は退けるべきだと考えているが、マルクス主義以外にも、たとえばニーチェが似たような人格批判の手法を行っている。たとえば、キリスト教の信仰は愚劣であるばかりでなく、ルサンチマンといった卑しい心性の現われであるとして、信仰者の人格のトータルな批判に及ぶのである。議論が空疎に流れ、言説が議論の身振りに過ぎなくなる今日、ニーチェの人格批判論法がエッジのきいた批評として見直されるべきではないだろうか?

それはともかく、ミルの言葉に即して私がいかなる構造を浮き彫りにしようとしていたかは、もとの小文だけで明らかであるし、おまけに小学生でも理解できるような解説まで付け足したので、いまさら何も言うことはないが、とはいえ「俗情との結託」についてはいささか解説が必要かもしれない。というのは、「反知性主義」とか「ポピュリズム」に関しては、どこかの百科事典でも見れば明らかだが、「俗情との結託」に関しては、大西巨人の議論に密着して、その批評的骨格をよくよく会得しなければ、使い勝手がいいとは言えないからである。それだけ、論争構造が複雑なのだ。

それはもちろん、単純な「悪」のラベリングではないばかりか、イデオロギー的ラベリング(たとえば「人民の敵」といった)でさえない(もっとも私のように「人民の敵」をスターリン主義者のようにではなく、イプセンの意味でのみ使う場合は少しだけ複雑であるが)。

大西巨人のもともとの批評(1952『大西巨人文選1新生』みすず書房所収)では、陋劣・低級な今日出海の作品ばかりでなく、新日本文学の野間宏が同じくその射程に入っていた。このことだけから見ても、この概念のややこしさが理解できよう。コメンテイター氏は、俗受けしそうな一般大衆の価値感情におもねるような「エリート批判」のようなことが「俗情との結託」であると考えているようだが、そうではないのだ。たとえば、ワイド・ショウなどで声高に垂れ流されている「庶民感情」(たとえば、カルロス・ゴーン氏の給料が高すぎる…とか)などのことを意味しているわけではないのだ。

大西は、今日出海の作品の中の三木清という登場人物が、手淫という手段でおのれの性欲を処理するということをせせら笑い、一人前の男が女郎屋通いもできないことを見下している点を、鋭く批判している。その文脈では、「俗情」とは、一般に建前として流通している倫理原則のことではないし、大衆の普通の倫理感情のことでもない。一般に建前上、女郎屋通いがいいこととは考えられていないし、普通の大衆も本音でもそうは考えないだろう。そのように広く流通している点に「俗情」の本質があるのではないのだ。

己れの生活の中における倫理的反省において矛盾や葛藤に悩む人物(例えば作品中の三木)をしり目に、そんなことで悩むこと自体をせせら笑う今日出海が依拠している暗黙の「常識」――それが「俗情」なのである。今が女郎屋通いに何の痛痒も感じないでいられるのは、売春婦をもともと自分と対等の人間と見ていないからであり、そんなことがまかり通るのは、今日出海が金と権力にものを言わせて、異議申し立てもできない社会的弱者(売春婦)を搾取し、踏みつけにできる立場にいるからである。ちょうど、従軍慰安婦を相手に威張りかえっている最低男たちのようなものだ。

したがって、ここで「俗情」と言われているのは、今日出海の「常識」を支えている買春男の卑猥なニヤニヤ笑いであることになる。それらは常に暗黙に行使される暴力であり、相手が泣き寝入りしてくれる限り安泰であるが、一たび抗議の声を上げるや、金切り声を挙げて、自らの所業を否認することになるシロモノである。

ここまでは比較的わかりやすい話だ。問題は、野間宏の『真空地帯』が、同じく「俗情との結託」として批判されているということだ。大西の野間への批判の中心は、軍隊が世間一般とは違った論理と倫理が通用する特別な社会と見る点である。大西は、どんな特殊な事情の下でも、あくまでも普遍的な倫理や意味理論が通用すると主張し、それをこそ闘いの原点に据える。つまり天賦人権論に似た原理主義的立場である。

大西に鋭い批評的洞察を与えるのがこの「原理主義」なのだ。氏は「民主主義的立場」を逸脱してまで人権原理主義を貫く。ここで、「俗情」は「人民の敵」の敵として立ち現れることになるのだ。革命的勢力の中においてすら、「人民の敵」であることがいかに必要なことか――そのような文脈が示されているのである。大西が立ち向かう俗情の側は、自らの原理を持っているわけではないし、それを明示できるわけでもない。ただ、そんなことをあげつらうのは野暮であるとして、ただせせら笑いニヤニヤ目配せをするだけだ。

野間の作品中の人物(木谷)は、「輸送中の軍事物品を当番兵とぐるになって盗む」(p−230)ような窃盗犯に過ぎないが、それに対し野間は「木谷の事件、罪は確かにそのすべてをこの軍隊に帰すことができる」などと素っ頓狂な擁護をしているのだ。大西の批判は、ただ軍隊の内部でも外でも窃盗は罪だというまるで当たり前のことを言うに過ぎないが、そのことが野間のような人物に対しては、ことのほか鋭い批判的エッジを持っているのである。なぜなら、過酷な政治闘争においては、ともすれば力関係にのみ目を奪われて、規範的議論がなおざりにされがちであり、それが闘争そのものを致命的に棄損してしまうからである。

大西の問題意識は「再論 俗情との結託」(1956)においてさらに詳しく展開されている。そこで氏はあくまでもレーニン流のマルクス主義的階級闘争政治観に立ちながらも、それを乗り越える論点を潜在的に展開しているので注目に値する。それは、いかなる軍事的・国家的機関といえども、政治闘争の現場である以上は、単なる力関係に還元されず、規範的議論の現場となり得るという指摘である。具体的には、結局『神聖喜劇』という巨大な作品に結実されて、大きな説得力を持つに至った主張である。これは私のような非唯物論者にとっても、十分納得のいく主張である。

件のコメンテイター氏の用語法を見れば、氏が大西の彫琢した概念使用のすべてを無視し、文芸批評の伝統をないがしろにして、ただのペダントリーとしてカッコを付けているだけであることが明らかになるのである。まことに啓発的な事例であるので、あえて一言するゆえんである。
  
Posted by easter1916 at 17:38Comments(0)批評

2019年10月03日

ことばの杜――ミル『自由論』から

その国の主なる能力者をすべて統治団体の内に吸収することは、遅かれ早かれ、統治団体そのものの精神的能動性と進歩性にとって致命的となる。(J.S.ミル『自由論』)

かつて、統治という大事なお仕事のためには、優秀な人々を選抜して充てるべきだと考えて、実施した国があった。それは実に賢明なやり方のように見えたが、結局は長い停滞と、常態と化した腐敗を招いただけである。威信と権力を二つながら与えられた役人たちやお偉方には、甘味な自惚れと惰性への埋没しか残されていないからである。

統治の水準を維持するためには、統治に携わらぬ人々や専門外の広範な人々による監視と批判が不可欠なのだ。同調という泥沼にどっぷりつかった社会は、あらゆる規範を弛緩させ、自画自賛の夢の中でゆっくりと融解していく。

科学技術を誇っていたさる国では、長年科学者がお墨付きを与えていた原子炉が爆発し、取り返しのつかぬ汚染公害をまき散らしたが、その責任者を裁いた司法の専門家は、そこには何の責任もないと宣(のたま)った。きっと法律家とか科学者とか経営者には、我々の批判を許さない何か高尚な知恵や権威があるのだろう。そうやって連中は、常にエリートたちの仲間内で守られてきたのだが、それで守られたものは結局、卑しい利権と阿呆の楼閣だけだったわけである。かくて、今でもえらいさんたちが、阿呆の楽園で飲めや歌えとばかりに、浮かれ騒いでいるのだ!「おもてなし」接待業で結婚にこぎつけたタレントや、オリンピックや賭博でがっぽり稼ぐつもりの政治家たちで宴もたけなわの折から、どんな大洪水が押し寄せても、どこ吹く風である。故郷を追われた人々、棄民として見捨てられた民草は、塗炭の苦しみをなめ続けているだけでなく、とことん舐められ、コケにされたものである。
  
Posted by easter1916 at 02:31Comments(7)日記

2019年09月16日

第三アンチノミー

先日、カント・アーベントという席で講演を行ったが、もちろんはなはだ不評であった。そのときに十分に展開できなかった論旨をいくらかわかりやすくメモしたので、以下に貼り付けておく。  続きを読む
Posted by easter1916 at 14:23Comments(0)哲学ノート

2019年09月06日

美術館

丸山真男は「盛り合わせ音楽会」という小論で、芸術作品をそれが芸術作品であるというだけの理由から、傾向と問題意識においても様式においても価値観においても全く食い違う諸作品を、安んじて一緒くたに並べる無神経さを批判している。彼はラートブルフに言及しながら、それぞれの作品をその真の精神性において鑑賞せず、いわば等しく文化財としての価値を証明されたものとして物神化する「精神的文化の無差別的享受性」を批判する(著作集第三巻p−340)。

このような批評も、ある種の文化物神的権威主義に対しては一定の意義を持つだろうが、次のように説くに至っては、さすがに偏狭な文化保守主義という別種の権威主義ではないかという疑いをぬぐい切れないのである。

僕の論法を進めていくと何々アーベントといったふうに同一人の、もしくは同傾向の作品だけを選んだ音楽会以外は無意味だという結論にならざるを得ません。(同P―338)

この伝で行くと、メンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を演奏したようなことはどうなるのだろうか? バッハとはまるで異質なメンデルスゾーンの音楽を同じ演奏会で演奏するのは、やはり「内面性を欠いた」「盛り合わせ音楽会」ということになるだろうか?

しかし、メンデルスゾーン自身は自らとバッハの受難曲のあいだにある明確な一貫性を感じていたのであり、自らをバッハの音楽の伝統の中に位置づけることができたのである。丸山は、ベートーヴェンとドュビッシーを同じプログラムの中に入れることが困難であるかのように論じているが、ダン・タイ・ソンの演奏会ではしばしば両者は実にうまく共存しているものだし、そこに演奏家のベートーヴェン観がにじみ出ているとさえ言うことができるだろう。ベートーヴェンのコンチェルトの連続演奏会の演奏でさえ、そこにドュビッシーの響きさえ感じられたものである。

丸山自身が思想史を演奏にたとえているように、演奏自体が批評的行為であるかぎり、諸作品の内的連関を新たに見出すことは、それ自体批評的行為なのである。ベートーヴェンを、一刀両断にドュビッシーから切り離してしまうことは、ある偏った作品観にとらわれた偏見でしかないのである。ベートーヴェンの音楽が、たとえばバルトークよりブラームスの音楽に親和的であると考える必然性はない。それはヘーゲルの哲学が、アリストテレスよりシェリングのそれに近いと考える必然性がないようなものである。

このような点で、アドルノの「ヴァレリー、プルースト、美術館」というエセーが参考になる(『プリズメン』所収)。ヴァレリーは美術館について、おおよそ丸山真男が言うような批判を展開している。美術館では、あらゆる作品があたかもその生前には互いに激しく闘争する場に存在していたことを忘れて、墓地のような静寂に包まれて存在するが、それは作品を正当に生きた活力において問題にする態度ではない。すべての作品は、そのもともとの配置から切り離されて美術館に安置された途端、死の静寂の中に存在することになるのだ。

しかし、作品が本来置かれる場とはどこなのであろうか? モーツァルトの作品は、王侯たちの昼食の背景に配され、ベラスケスの肖像画は、スペイン王宮の壁を飾ることこそふさわしい場所なのであろうか? もちろん老練なアドルノが、そんなバカげた文脈に作品を押し込めることがいいと言うはずもない。

蝋燭の灯りの下で演奏されるモーツァルトは、コスチューム・プレイに堕してしまうものだし、演奏の隔たりを脱して直接的な生の連関の中に呼び戻そうとする努力には、どうしようもない救いがたさがあるばかりか、おまけに何か社会的に後ろ向きの悪意を含んでいるようにさえ感じられる。ある人がよかれと思ってマーラーに、雰囲気を出すために演奏のさいホールを暗くさせてはと進言したとき、周囲を忘れさせないような演奏は何の役にも立たないとマーラーが答えたのは、もっともなことだった。(『プリズメン』p−266)

「コスチューム・プレイに陥ってしまうモーツァルトの演奏」は、芸術作品をその「本来の生活の場」に置こうとする時代錯誤を皮肉っているのは明らかだが、マーラーの言葉は何を象徴しているのであろうか? 作品には、その置かれるにふさわしい本来の雰囲気があるはずである、という考えを嘲笑しようとしているのであれば、モーツァルトの場合と同様の批判であると受け取ることができる。段落替えもないのであるから、そう受け取るのが自然というものであろう。

そもそも、この例はヴァレリーの立場なのか、それともプルーストの立場なのか? アドルノは両者を対比しつつ論を展開しているのだが、プルーストは美術館を享受するディレッタントの立場から一貫して芸術作品を見ている点で、そして、作品をあくまでも鑑賞者の生の一環において享受する点で、作品の絶対的な自立性を目指す製作者の観点に立つヴァレリーと対立するものとされるのである。

美術館が、生活における本来の作品の場ではないとする点では、これらの例はヴァレリーの主張を裏書きするように見える。ヴァレリーが目指す絶対的な作品の自立性を否認する点で、「コスチューム・プレイ」も「暗いホールの演奏」も、似たり寄ったりだからである。

しかし、プルーストが美術品のもともとの享受の場所が失われて久しいことを十分に理解している点で、そしてヴァレリーのようなノスタルジーにとらわれていない点で、これらの例はプルーストの立場に近いとも言うことができるのである。

アドルノによれば、作品本来の文脈は、すでにとっくの昔に失われて久しいものであることを、ヴァレリーは気付いている。彫刻と絵画についてヴァレリーは語る。

絵画と彫刻は置き去りにされた子供たちなのだ。…建築が彼らの母なのだが、その母は死んでしまった。(p−270)

してみると、建築の中におかれることこそが、作品のふさわしい位置なのであろうか? そうではない。貴族の館や宮殿の壁におかれるとしても、美術館以上にふさわしいわけではないのだ。

夕食を取りながら見つめられる傑作は、もはやあのうっとりさせる幸福感を我々に恵むことはない。(p−273)

バロック時代のターフェル・ムジークのような環境音楽こそが音楽鑑賞の理想だ、などとはとても言えないのである。つまり、「本来の場所」など実はどこにもないものなのだ。

そうであれば、あらゆる作品はすでに死物なのである。

神話にあっては英雄たちは…いつも母を亡くしていたことが思い出されねばなるまい。完全な「幸福の約束」のために、芸術作品はその養いの地から引き離され、自らの没落への道をゆくのである。(p−285)

作品を美術館に置くことは、さながら墓地に安置することに似ているのだが、かと言ってそれらの作品に復活の日が来ないわけではない。むしろすべての作品は、その「養いの地」から切り離され、復活の日を待ち望む暗号に成り代わっている。

精神の博物標本室は、芸術作品をまさに本質的に歴史の象形文字に変え、芸術作品が有していた古い内実がしぼんでいく一方で、それに新しい内実を与える。(p-286)

かくて、作品は死と再生との両義性にさらされることになる。現実の文脈から遊離することによって、かえって作品は自由な文脈を獲得するのだ。

作品を美術館に展示するのは批評である。批評によってはじめて、作品が等しく芸術作品として評価されることになる。それ以前には固定された文脈に置かれていた工芸作品が、自由な文脈を獲得する。美術館に置かれるとは、自由な文脈を獲得するということである。個々の作品は、それぞれ先行する作品の様式に挑戦しながら、自らを主張し、批評的に対峙するけれども、それでもそれらが自由に向けて挑戦したことこそが、芸術作品としての品質証明であり、美術館への入場資格なのである。
  
Posted by easter1916 at 04:32Comments(0)哲学ノート

2019年08月22日

キム・サン『アリランの歌』

私は以前学生の頃、韓国の留学生と話していた時、この『アリランの歌』をぜひ読んでほしいと勧められたことがあった。そのころ手ごろに入手できなかったためか、長い間読まずにきた。

しかしこの度手にとってみて、これまで読まずにきたことが悔やまれる。そのとき彼がどんな気持ちで「読んで見てくれ」と話したのか、その気持ちをいまさら考えてしまうのである。

本書は、アメリカ人ジャーナリストのニム・ウェールズ(エドガー・スノーの元妻)が、中国革命の聖地延安に乗り込んでいたとき、偶然に巡り合った朝鮮革命の闘士の身の上話を聞き、それを克明に書き留めたものである(こんな所にもアメリカ人ジャーナリストたちの底力を見るべきだろう)。キム・サンというのはその闘士の偽名(のひとつ)である。
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Posted by easter1916 at 19:21Comments(4)書評

2019年08月19日

美学ノート(デュシャンの『泉』)

佐々木健一氏の『美学への招待』増補版(中公新書)を読んだので、それに触発されてあらためて美学について少し述べてみたい。

何が美学の対象であるかは、ただその語の適用の変遷を追っていくだけでは分からない。今日われわれが「芸術」と認めるものに、古代は一者とのかかわり(プロス・ヘン)を認めていなかったのである。つまり、芸術一般という 等質性を認知していなかったということだ。 

それゆえ、一旦は近代の視点に立った上で、その批評精神を引き受け、それを自分自身にも向けねばならない。美学は、その成立やその対象領域そのものが論争的な、優れて批評的な認識なのである。その意識が希薄だと、無批判的順応主義に陥るか(その場合、世に認められたもの、高い値が付くものが芸術作品だということになる)、流行モードを報告する風俗ジャーナリズムに陥ることになる。いずれにせよ、美学は、当初掲げていた規範的原理を放棄することになる。

近代においてにわかに美学が芸術一般の学的認識として成立したこと、その為に「芸術」を統一的に捉える視点が成立したことを基礎にしてこそ、その前史ならびにその解体としての芸術史が、統一的に捉えられるのである。

そのうえで、近代芸術の野心を、世界をその全体性において縮約するという市場経済に由来する夢として見る必要があろう。今日では、その夢はほぼ断念されているし、それを実現する社会的基盤もかけていることが知られているとはいえ、それでもいったん成立したこの理念に由来する批評精神はなお生きているのである。夢の虚妄を突いたり、欺瞞性を暴露したり…。したがって、芸術のジャンルは解体していくが、批評は、また芸術の批評性は残るだろう。そしてそれは政治性を含むものとなる。いや、もともと芸術は政治闘争の場であり続けているのだ。というのも我々(近代の美学的立場)から見て、ということだが。

我々は、ベンヤミンと同様、芸術を近代の見果てぬ夢の約束として、したがって裏切られ続けながらも、闘争へと再三挑戦させ続ける呼びかけとして、つまり敗北しながらも後継者を待ち続ける、かなえられなかった夢と見なす。

我々がまず芸術作品に読み取るのは、そのはかり知れなさであり、謎である。なぜなら、我々は作品の重要性は直感的に理解できるものの、それが何故重要であるか説明できないからである。もちろん、後から批評家がそれを悟性的に説明してくれることもあり、それに我々が納得することもある。

しかし、その説明は別の作品の説明にも同じように適用できるとは限らないし、その「重要性」の概念をパタン化して習得すれば、それに基づいて同じように重要性を持つ作品を自在に生産できるわけでもない。つまり、それは反復適用可能なパタン認識・技術化可能な知ではないのである。作品の価値を判断する判断力は、感性的なもの(色とか形)にせよ抽象的概念にせよ、適用基準が明確なものではないし、技術的に操作可能なものでもない。

もしわれわれが、たとえば時計のようなものの内部構造をよく調べ、その部分部分がどのように作られ、どのように組み立てられながら、それぞれどのような役割を果たしているかを知り尽くしたなら、それを部品からそっくり作り上げることもできるだろう。このような場合、我々は当面、時計についてはすっかり知るべきものは知り尽くしたと言えるに違いない。(もっとも時計の装飾部分など、時計として持っているのではない部分については、なおまだ知り尽くしてはいない部分が残っているかもしれないが。)

ところがこれに対して、芸術作品は、たとえそれが与える感動が説明されたところで、それで作品について知り尽くされたとは言えない。なぜなら、その概念の適用によって作品が製作されたとは思えないし、他の人には他の理由に基づいて感動を与えるかもしれないからである。いや、同一の人物に対しても、初めと時間を経た後では、別の側面が感動を与えるということもあり得る。

感動という心理的なものを絶対化するのは不都合であるかもしれないが、それなら重要性と言ってもよい。「重要性」も「感動」に劣らず複雑な観念だが、それを分析する余地がある点で、「感動」に訴えるよりはましであろう。たとえば、その事柄がいくつかの、あるいは多くの重要な事柄と密接な連関がある場合、その事柄が重要であると言えるかもしれない。その場合、当の事柄をより広い文脈の中に置くことによって、実り豊かな探求方針が示されるであろう。

とにかく作品の重要性は、一人の関心や一つの側面の指摘だけから示されるわけではなく、多くの人々の議論の的になったり、その作品を理解する多方面性に支えられるから、単一の説明で作品の本質を汲み尽くせないこと自体、作品から直感できるのである。

それゆえ、デュシャンの『泉』とかジョン・ケージの『四分三十三秒』のような作品は、それが芸術史上重要な批評的出来事であるとはいえ、それはほぼ単一の意味しか持たず、そのインパクトがいったん与えられてしまえば、もはやそれ自体によって、以後重要性を失うという意味で、永続した重要性を持ちえないものである。実際、『四分三十三秒』を再演することほど間抜けなことがあろうか?

  
Posted by easter1916 at 00:02Comments(0)哲学ノート

2019年07月29日

背水の陣

山形新聞「ことばの杜」への投稿。
「人事を尽くして天命を待つ。」    胡寅(こいん)『読史管見』

胡寅とは、南宋の儒学者らしい。もとの出典では少し違った表現のようだが、我々はこのような形で教えられてきた。

さて、「人事を尽くした」と言えるのはいつであろうか? あらゆる努力を尽くしたと思っても、まだやり残したことが次々見つかるものだ。しからばまだ天命を待つ段階ではない。しかし、どこまでも努力し続ければ何とかなる、という思い込みは錯覚でしかない。そんな態度で臨む限り、決して天命を聴くことはおろか、人事を尽くすことさえできないだろう。いずれ死によって不本意な終わりを迎えるのがせいぜいのところ。だからこそ、人為的に時間を限って、制約を設ける必要があるのだ。そのときの結果をもって天の声と聴く覚悟を持ってこそ、人事を尽くすことも可能になるというもの。

するとこの格言は、「背水の陣」に似てくる。『史記』によれば、漢の劉邦の将軍韓信は、河を背にして戦って趙軍を打ち破った(井陘(せいけい)の戦い)。「背水の陣」で空間的に自ら退路を断つ代わりに、時間的に退路を断つ。これが「天命を待つ」である。いずれも、自然にはない制約を自ら設けることによって、天祐を呼び込むのである。有限性の自覚こそ肝要なのだ。

だが、今この瞬間に全力を投入することができるとしても、これでは長期にわたる仕事を手掛けることはできない。いつ完成するともわからない仕事に、身をささげることができるためには、有限性の自覚だけでは足りない。何百年もかけてゴシックの教会堂を建造した石工たちは、自らはその完成を見ることなく、またそれをつゆ期待することなく、次世代・次々世代へと仕事を託すことができた。彼らが「人事を尽く」せたのは、逆に永遠なものへの信頼があったためである。未だそこに目に見える形では存在していないものを、ありありと感じ、その中に自分の存在を一片の石材のように埋め込むことができたのであろう。


  
Posted by easter1916 at 02:57Comments(0)日記

2019年07月27日

参議院選挙の総括

すでに多くの人が指摘していることであるが、今度の参議院選挙でのハイライトは山本太郎氏の運動であった。前回は、その異色のタレントぞろいの立候補者に注目したが、山本氏の選挙応援スタイルも異色であった。私が最も注目していた選挙区は宮城選挙区である。ここでは例によってヴェテランの世襲自民党議員に対して、野党として立憲の女性候補者石垣のり子氏が挑戦していたが、石垣氏は、公然と党中央の生ぬるい「消費税凍結」政策を批判していたのである。ここには、見かけ以上に大きな違いが現れている(政策や考え方の違いだけでなく、パースナリティの違いが大きい)。

枝野氏の「立憲」は、当初の期待を大きく裏切りつつあり、やがて跡形もなく消えていくだろう。私は枝野氏が立党したときには、大きな期待を持って見守っていたが、それは彼が小池新党から外されて、危機に陥ったところから、大きく成長することができるかもしれないと期待したためである。しかし、その後の足取りを追うと、この政治家がちっとも成長していないことが見えてくる。この人物は、相変わらず「人体に危険を及ぼす数値ではありません」の枝野であり、しょせん小さな組織をそつなくまとめていくだけの小人物に過ぎないのだ。

そんな枝野的なものに対して、石垣のり子氏は、公然と挑戦していた。山本太郎氏の触媒がなかったら、石垣氏がこれほど大胆な一歩を踏み出せたかどうかわからない。枝野氏の凍結は消費税廃止とは対極的な政策だ。それは依然として緊縮財政主義の路線の延長にある。枝野氏は結局一般の生活より、財務省の役人の中でだけ通用する通念の方を重視し続け、役人の利害を社会の利害と混同するのだ。
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Posted by easter1916 at 23:31Comments(2)時局

2019年07月26日

おとなの難問

野矢茂樹氏の新刊『そっとページをめくる』(岩波書店)が出版の運びとなった。

https://www.iwanami.co.jp/book/b458088.html

主に新聞書評に載せた小文を集めたものであるが、私自身もエセーを寄せている。というのも、この本の一部に、氏の編纂による『子供の難問』(中央公論社)の中の拙文に対する野矢氏の詳しい解説があり、それについて私自身のリプライを求められたことによる。私のほかに、熊野純彦氏の文も取り上げられており、同様にリプライが載っている。

野矢氏の書評は、勘所を得たすばらしいものであり、いつもそのひょうひょうとした文章でも多くの読者をひきつけてきたが、今度の本でもその期待が裏切られることはあるまい。それ以外にも、文学批評など他では見られない珠玉の小品が含まれている。

私自身は、リプライの中で「どうしてきれいな人を好きになるの?」という大人の難問を論じている。ついでにご笑覧いただければありがたい。
  
Posted by easter1916 at 02:51Comments(4)日記

2019年07月14日

山本太郎氏の政治(その後)

先日、品川駅前で行われた山本太郎氏とその仲間たちの選挙演説会に行ってみた。駅の階段に至るまで、聴衆でびっしり詰まった会場の熱気は、とても他の選挙運動の類ではない。何が聴衆をそれほど熱狂させるのだろうか?
  
私は前に、この運動にそれほどの信頼は置いていない、と語った。それでも、一抹の希望を託して少額の寄付をしたと記した。その後、この政治運動を観察して気づいたことを記しておきたい。

まず、長らく待たされたうえで発表された他の候補者の面々、その異色の経歴にも驚かされたが、この間しみじみ感じているのは、候補者一人一人の発言が、まるでバラバラだということである。しかも、一人一人が自分の言葉を持っている。このことは、この社会で生きる者としては、実に例外的なことではなかろうか? 政治においても他の場所でも、クリシェを繰り返すのが一般的だからである。誰かの口真似、借りもののお題目、管理されたお仕着せの表現でないものはほとんどない。

「れいわ新選組」のひとたちは、てんでバラバラに自分が言いたいことを語っている。しかも自分自身の生きた言葉で!コンビニのオーナーとしての怒りをぶつける人がいる。派遣切りにあったシングルマザーがいる。しかしその声はなぜか明るい。ずっと辛酸をなめているのに、彼女はほとんどはしゃいでいるといってもいい。それほど自分自身の心の叫びの言葉を発することができるのが楽しいのであろう。 淡々と静かな口調で自然保護を訴える人がいる。子供を守れとしか言わない大学教授がいる。それは政策であろうか? かと思うと、何やらいかがわしい金融の専門家がいる。ただし彼は、大学教授のように理路整然と金融の錯誤を厳しく指摘している。

常識的に考えて、この人たちの間で意志一致ができているのであろうか?たとえば、山本代表は大胆な投資と強力な消費喚起を唱え、それによる経済成長を目指している。それと、環境を保護し身の丈に合ったつつましい暮らしを説く候補者の間に、対立はないのか? あるいは、特定の福祉政策だけを掲げるシングルイシューの候補者は、その政策と全体とのバランスをどう図るつもりなのか?

突っ込みどころは満載のようにも見えるが、このようなことは、いずれも枝葉末節のことに過ぎないことがわかってくる。この国は、そんな政策論議がもはや無効になるほど、徹底的に破壊されつつあるではないか? 政治の原点がそんなことにないことは、もはや明らかだ。

政策提言で見れば、山本氏の主張は、日本共産党の主張に似ている。私は、共産党の政策も、議会における活躍も高く評価する点で、人後に落ちないと思う。だが、共産党の選挙運動は山本氏の政治運動ほどの熱気が生まれているとは思えない。これはなぜか? 共産党の候補者の発言が、誰を取っても一律のように感じられることも理由の一つかもしれない。

山本氏たちは、それに対して、生活者の怒りの声を掬い取っている。いや、生活者の声を「代弁する」のではない。彼らは誰かをrepresent(代理)するのではない。自分自身をpresent(呈示) しているのだ。自分自身が生活者として登場しているのである。

とりわけ私が評価するのは、消費税を廃止すると言い出したことだ。もちろん共産党も昔から言っていたことではある。しかし、山本氏が本気で言い出して初めて、それが本当に現実的な課題であるということが、浸透したのではないだろうか? 大事なのは、この本気かもしれない。今や、「立憲」や「国民」までが、消費税凍結を言わずにはすまなくなっている。たった一人の国会議員が、政治的議論の地平を一新したのである。なんという力量であろうか!

山本氏は、公務員をもっと増やせと主張している。これには、私自身の盲点を気づかされた。私も気づかないうちに、公共部門の非効率性という神話に惑わされ続けてきたのだ。部門によっては、もちろん市場化によって効率化が実現するセクターも存在するが、それが根本的に適合しない分野、たとえば教育とか医療とか水道事業とか、また部分的にしか適合しない分野、たとえば農業とか都市開発とかが存在することを忘れてはならない。

高度に複雑化する現代社会において、公共的分野は当然拡大する傾向にあるのに、それを削減することばかり考えてきた結果、我が国の教育や福祉の現場は、見るに堪えないほど荒廃し続けているのではないか? この点に共感する人はまだ少数であろうが、これまでの我が国の論壇の盲点を突く議論であることは明らかである。学界がペダンティックなひけらかしに走ったり、流行を追ううちに次第に白痴化していく中にあって、このような言説は、大胆に公論の地平を変えるインパクトを持つものと言えるだろう。

個々の候補者の政策に様々のヴァライエティがあること、異論があることも問題ではない。どれがほんとに正しいのかなど誰にも分らないのだから、初めからきっちり決めておいてもどうなるものでもあるまい。そんなことは、ただのお体裁にすぎないのである。このようなことこそ、松下政経塾以来わが国の政治文化において忘れられていることである。おしなべて政経塾出身者たちは、見掛け倒しの体裁屋にすぎないではないか!野田、前原、松沢、玄葉… (自民党が少ないのは、政経塾が世襲自民党に足場のない立身出世主義者=権力亡者の温床に過ぎないからである)

大局を見なければならないのだ。政治の大局とは、問題設定の地平を支配することである。山本氏の消費税廃止は、それによって大局を動かしつつある。この度の参議院選挙には、ひょっとして間に合わなくても、確実に次の衆議院選挙にはつながるだろう。


ご参考までに、福島における山本候補の演説を紹介しておこう。特にこの後半部分に、山本候補に真剣に反論する紳士が声を上げる部分があるので、それをめぐる火花の散るような討論に注目していただきたい。ここにこそ、生きた言論がある。官僚が準備した原稿を見なければ何もしゃべれない(しかも、しばしばその原稿の漢字を誤読する)連中と、際立った違いがここにある。

https://www.youtube.com/watch?v=cnPy-YfT6DU



  
Posted by easter1916 at 04:52Comments(0)時局