2021年09月12日

デカルト的なもの(つづき)

前回、概念的理解には誤りの可能性が付きまとうこと、したがって自己知に関しても、直接的確実性は保証されないことを見てきた。それゆえ、概念的理解には弁証法的吟味が必要なのである。たとえば、自分の感情が「愛」と言えるかどうか、さまざまの現象を取り集めて判断するしかない。これは「愛」という概念的認識にかかわるからである。
 デカルトのコギトは、懐疑という概念的思考にかかわっている。それゆえ、それが真の思考(真の懐疑)であるか、それとも思考の想像に過ぎないのか吟味が必要である。一見有意味に見えるがその実無意味な思考内容を持つものでも、思考といえるのかどうかについては、考慮の余地があるが、その問題をいったん迂回して、非概念的な自己知というものがないかどうかを考えてみよう。非概念的な直接知があるかもしれない。そうすれば、デカルト的明証性を、非概念的自己知の方向に探す余地があることになる。
 たとえば痛み。痛みは直接的感性的に与えられるように見えるが、果たして認識と言えるか?痛みを感じるとは痛がることであるとすれば、痛がる主体つまり痛がる身体なしには存在し得ない。痛みを感じる、ゆえに我あり、と言えそうである。しかし、痛みは身体の認識であると言えるのか?痛みについては真偽の区別が存在しない。痛みを感じることがすなわち痛みがあることである。
 しかし、夢の中でけがをしていたいと感じている場合、それは本当に痛がることではないだろう。単に痛いと想像しているにすぎないと見なすべきであろう。もとよりデカルトの懐疑は、身体の存在などは疑いが可能だと見なしていた。自分の痛みの体験が本当の痛みであろうと、夢の中の痛みであろうと、それを疑っている自分の疑いだけは確実だというのが、デカルトの懐疑ではなかったか? 
 痛みのような現象を身体の認識と言えるのかどうも怪しい。少なくとも認識の限界事例であろう。このような現象をデカルト的明証の一つと見なすのは無理だろう。デカルト的な自己知としては、非概念的認識を考えるにしても、別の道を考えるべきである。
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easter1916 at 21:57|PermalinkComments(0)

2021年08月25日

書を読んで羊を失う

山形新聞「ことばの杜」への投稿

「まことにものを知らない人間には知る喜びがある。」(鶴ヶ谷真一『書を読んで羊を失う』)


 偽書ともいわれるが、ショスタコーヴィチの自伝にも、これに似た言葉がある。作曲家の若い頃、ペトログラード音楽院のグラズノフ教授が、ブラームスの交響曲を知らなかった若者に向かって「君たちは何と幸せなのだろう。君たちはこの先、まだまだたくさんの美しいものに出会えるのだから」と言ったというのだ。
 中国の故事が語られる。どこかで聞いたことのある話だと思って読んでいると、『雨月物語』の菊花の約(ちぎり)の本歌(もとうた)だ。あるいはまた、栃木県の龍紅寺という寺に貨狄(かてき)像と伝わる妙な木彫があるという。それが、夜な夜な出歩くという噂が立った。ある晩それを狩人が撃ったので、その跡が像の腰についている。その後、その彫刻を詳しく調べると、十六世紀オランダの艦船エラスムス号の船尾を飾っていたエラスムスの像だったということが判明した。それがどうした、と言う勿れ。そのほか、漱石が稲を知らなかったとか、三島由紀夫が松を知らなかったとか、どうでもいい話が詰まっている。これら何の役にも立たぬ話を暇に任せて読み進むことは、何という快楽であろうか!まさに本読みの冥利に尽きる。
 そういえば、この本を私に勧めてくれた亡き友も、大の読書家であった。本好きが嵩じて、ついには自分で出版社を始めた。まだ一冊の本も出版しないうちに、自社用の原稿用紙を特注した。大方、誰か文士のひそみに倣ったのであろう。どこといって奇を衒ったとこのない用紙に、「千年社」という社名がつつましく印(しる)されていた。やがて出版社は、千年はおろか十年もしない内につぶれた。主のいなくなったアパートを訪ねると、いかにもゆかしい上品な文机(ふづくえ)が一つ残されていた。


easter1916 at 16:10|PermalinkComments(0) 日記 

2021年07月14日

デカルト的なもの

カルチャーセンターで「デカルト的なもの」について講義することになったのをきっかけに、デカルトについて再考してみた。再考を通じて次第にわかってきたのは、私があらゆる直接性の敵であるということである。つまり、私はデカルトの懐疑さえも、ソクラテスのギリシア的伝統の中に置いて考えているということである。続きを読む

easter1916 at 15:16|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2021年06月29日

山形新聞「ことばの杜」――マルタとマリア

「マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかしなくてはならぬものは…一つだけである。マリアはそのよい方を選んだのだ。」(『ルカによる福音書』第10章41)

 イエスはマルタとマリアの姉妹に招かれる。そのときマリアは、イエスの傍に座ってその話にただ耳を傾けていた。イエスを接待する仕事に忙しくしていたマルタは、イエスに不服を申し立てる。「マリアに手伝うように言ってください」。これをたしなめてイエスが言ったというのである。
 このイエスの言葉に納得できるだろうか? マリアは精神労働に専念し、マルタは肉体労働にかまけて精神をないがしろにしたと言うなら、明らかに不当であろう。いかなる肉体労働も、それが誠実に行われる限り、極めて多くの精神労働を伴わずにはいない。
 私自身、四十年ほど前に大切な人の看病をしていたとき、このエピソードの意味をかみしめたものである。病人の看病には、マルタの仕事もマリアの仕事も不可欠だ。その多くはマルタの仕事、額の汗を拭くとか、寝返りを打たせるとか、シーツを代えるとか…。でもマリアの仕事も大事。病人の寝息やふと漏らす片言に耳を澄ませるとか…。けっしてその優劣を競えるものではない。
 しかしそんな中で、汚れたシーツを取り換えるマルタは、マリアにも手伝わせよと文句を言うだろうか? たまたま自分がシーツの汚れに気づけたことを喜ばないだろうか? また、夜中に水を欲しがる病人の訴えに気づいたマリアは、それを聞き逃さなかった自分の幸運を喜ばないだろうか? 私たちはいつまでも看病を続けていくことができるわけではないのだ。それならどうして、その貴重な一瞬を味わおうとしないのか? 押し寄せる絶望と哀しみのただ中で、なおもその喜びを汲み尽くそうとしないのか? ひっきょうマルタの唯一の思い違いは、彼女が自分の仕事に真の充足を感じていないところにあるのだ。


easter1916 at 20:14|PermalinkComments(2) 日記 

2021年06月15日

現代芸術の存在証明

佐伯啓思氏編集の雑誌『ひらく』(5)が刊行の運びとなった。
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F-5-%E4%BD%90%E4%BC%AF-%E5%95%93%E6%80%9D/dp/4909355251/ref=sr_1_1?dchild=1&qid=1623686476&s=books&sr=1-1
そこに私も「現代芸術の存在証明」という短いエセーを寄せている。ご高覧いただければ幸いである。


easter1916 at 01:11|PermalinkComments(0) 日記 

2021年05月19日

マルクス主義の政治(つづき)

マルクス主義の政治は、プロレタリアートという特殊な実存形態が、それ自体特殊な利害を代表するものでありながら、他の諸階層の立場と違って、同時に普遍的立場に立つ客観的可能性をもつということに基礎をおいていた。
 それに対する批判としては、一つには、フェミニスト的観点を挙げた。すなわち家事労働を全面的に市場化することはできないということ。もう一つには、世界市場が全世界を市場化することできないという点である。これは低開発地域の農業部門に典型的に現れるが、このように世界市場において役割の違いが現れる「不均等発展」のゆえに、それぞれの地域における政治的課題にも違いが現れざるを得ないのである。
 (ちなみに、世界を市場化することの限界という点は、今日的問題につなげるなら、環境的な外部(不)経済的要因を排除することができないこと、またそれを市場の自由にゆだねることが、概して環境破壊的な結果をまねくという問題につなげることもできよう。)
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easter1916 at 00:41|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2021年05月17日

パレスティナを見捨てるな

パレスティナの人々に対する無差別の大虐殺が始まっている。シオニスムに共感するか否かに関係なく、このような無辜の人々に対する虐殺には我慢がならないはずだ。とりわけユダヤ人とその文化的伝統に誇りや敬意を持つ人々であればなおさら、ネタニヤフ首相によるかかる野蛮な民族殲滅の暴挙を許してはならない。これは彼らの恥辱であるばかりではなく、我々すべての人間の恥辱である。

署名に賛同いただける方のために、リンクを貼っておく。

https://secure.avaaz.org/campaign/jp/palestine_sheikh_jarrah_sig_loc/?avcscbb&post_action=1&cid=43854&lang=jp&duplicate_signature=1


easter1916 at 01:15|PermalinkComments(0) 時局 

2021年05月05日

崔杼(さいちょ)、荘公を弑(しい)す

山形新聞「ことばの杜」への投稿
「崔杼(さいちょ)、荘公を弑(しい)す」   (司馬遷『史記』「斉太公世家第二」)
 古代ギリシア悲劇ソフォクレスの『アンチゴネー』では、テーベの政争で兄弟相争うが、その一方のポリュケイネスがテーベを追われ、他国の軍を率いて故国に攻め入る。結果として、同士討ちで共に果てる。その後テーベの支配を預かったクレオンは、故国に対する裏切者としてポリュケイネスの遺体は、そのまま葬らずに野ざらしにせよと命じた。王女アンチゴネーは、その命に背き死んでゆく。一途で強烈なアンチゴネーの性格には不思議な魅力があるが、彼女は何のために死を賭けてまでクレオンと争うのか? 死者は敵味方を越えて尊重されるべき、というのは何のためか?
 ここで彼女が、歴史家の立場を代表していると考えてみてはどうだろう? 歴史家も、政治家や兵士と同様に祖国に貢献するが、その貢献の仕方は違っている。
 漢の武帝に仕えた司馬遷は、漢の正式の歴史家であったが、目につかぬ形で武帝に抵抗した痕跡が『史記』の至る所に残っている。引用した斉の国の崔杼は、斉の荘公に仕える大臣であった。彼は、人望のない荘公を殺害してその異母弟を王位につけた。その功罪には議論の余地があるが、時の斉の歴史家(太史)は「崔杼、荘公を弑す」と記録した。崔杼が太史を殺したら、その弟がまた同様に記録した。崔杼はそれをも殺したが、その末弟がまた同じように記録したのを見て、崔杼はそれを放置したと『史記』には記されている。それを記した司馬遷の心を思いやるべきであろう。歴史の真実は、時の党派を超える。斉も漢もとうに滅んだが、歴史家の志は今にまで伝えられている。一時の嘘が祖国の利益のため、あるいは名誉のためになると思えても、歴史家の目で見るとそうではない。今だけの政治のために死者を利用してはならない。死者に対する敬虔とはそういうことである。


easter1916 at 20:41|PermalinkComments(0) 日記 

2021年05月01日

コロナ禍における賃貸料

 コロナ禍はいつまでも続くものではなかろうが、その間に倒産する事業者を再び取り戻すことができるとは限らない。
 たとえば、銀座のクラブなどが休業要請を受ける場合、持ちこたえることは困難であろう。銀座などにおいては、地代やビルのレント料金が高額にかかるから、通常の営業ができないとたちまち負債を抱えることにならざるを得ないからである。このような業種では、おなじみの客というものがあり、店は彼らとの信用によって結ばれた共生関係にあるのが常である。それが築かれるためにも長い時間がかかっており、複雑な人間関係のネットワークこそが、店の強みなのである。このような伝統と文化を伴う企業体は、いったん倒産したら二度と同じような形では復活することはできないだろう。新しい店がその後釜に出店しても、それは似ても似つかぬものにならざるを得ない。同じ従業員(ホステス)が返ってくることもなければ、同じ客がつくこともない。
 このような事情は、劇団や劇場の経営についても言えるだろう。小劇場が拠点としている劇場などは、財政基盤が弱いから高額な賃貸料を払い続けることができない。劇場が倒産すれば、そこに拠点を置く劇団や楽団や芸人が働く場を失うことになる。劇場の華やぎが消えると、客が立ち寄るカフェや酒場が立ち行かなくなる。こうしてその街全体が衰亡し始める。そしてたとえ景気の波が戻っても、街の灯が戻ることはない。かかる文化事業体は、ほとんど常に財政危機を抱えており、熱心な支持者によってかろうじて存続しているのである。これらの支持者たちは、長いひいき筋といったものであり、劇団や俳優を教育し励まし、仕事と誇りを与え続けるのだ。劇団が解散になると、団員の仕事がなくなるだけでなく、彼らの希望が失われ、俳優とか楽団員として、芸術家として精進する機会と動機を奪ってしまう。
 かかる文化産業が地域社会に与える経済的効果は、普段はそれほど目立ったものでないかもしれないが、それらの事業体が次々撤退した後になれば極めて顕著なものになるだろう。銀座界隈は、今日一番地価が高い土地として有名であるが、その理由は、長い歴史的伝統や文化的名声によるところが大きい。今でも文士が飲んだ酒場があり、映画になった街並みがあり、ファッション・リーダーとなった女たちが歩いた店々がある。これらのファッション・アイテムに銀座のホステスも貢献しているのである。コロナ禍において、地主だけが何の工夫もせずに利益を上げ続けるのは、社会的公正に欠けると言わざるを得ない。
 すると、地域の文化的景観を維持することこそが、かかる地域の地主たちが心掛けるべきことであろう。だからこそ、地代を減免することが、これらの地域産業の事業主や労働者にとって必要であるのみならず、地主たち自身にとっても長期的利益にかなうことなのである。クラブの場合も劇場の場合も、長期的に営業を続けることが、信用の維持にも経営の存続にも有益である。
 しかし、地主たちが単独で賃貸料の減免を言い出すことは難しい。単独で賃貸料を引き下げることは、その資産価値の低下を招くかもしれないからである。だからこそ、政治的リーダシップが必要なのである。政府は、少なくともコロナが猖獗を極める期間に限り地代を半減するという強力なリーダシップを取るべきであろう。
 そのためには、地主と事業主や労働組合や地域住民などをまじえた協議会を開催すべきであろう。そのさい、地主から協力を得るために、地域開発事業などを込みにした提案を行うべきである。たとえば、電信柱の地下化とか、日本橋の上を走る首都高速道路の地下化など、従来から期待の声が上がっている都市計画などをバーゲンとして提案することが考えられる。いずれにしても、この提案がその地域の土地の資産価値を高めることに資するものであるという説得が肝要であろう。


easter1916 at 04:38|PermalinkComments(0) 時局 

2021年04月11日

マルクス主義

マルクス主義について、論争史的に論じてみることにする。わが国では、マルクス主義の理論的研究の歴史が厚いにもかかわらず、冷戦終結以後ほとんど顧みられなくなっているという現実がある。一般にこれは、我が国の思想史一般に言える傾向であり、次々になりゆく勢いにつれて流行を追うあまり、伝統とか正統というものが形成されず、以前に論じられた論争も結論も見ずにただ忘却されてしまうことになる。せっかく江戸時代に議論されてきた儒教の伝統が、明治になってほとんど顧みられなくなったようなものである。今日、マルクス主義が再び脚光を浴びつつあるが、そこでも以前に論争の的になった問題圏が忘却されているように見えるので、あらためて論争史的に議論してみたい。
 順不同でこれまで論じられたことのある問題を列挙してみよう。
1) 何故「社会主義革命」が、マルクスの予言したように先進諸国で起こらず、後進地域においてのみ成功したのか? 「労農派」と「講座派」の論争、「ボルシェヴィキ」と「社会革命党SR」の論争。
2) 「唯物史観」と『資本論』の関係
3) 「唯物論」と「弁証法」の関係
4) プロレタリアートの普遍性
5) 主体性とスターリン主義
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easter1916 at 01:42|PermalinkComments(0) 哲学ノート 
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