2016年06月29日

ジジェク批判(追補)

ジジェクは、シェリングの悪や自由意志に関する論考を肯定的に言及することによって、あらゆる感性的パトローギッシュな関心から独立した純粋悪意のような意志が存在していること、それがいかなる因果的な知の網を打ち破る外傷的なものであること、つまりle reelの次元に属するものであることを強調している。(『最も崇高なヒステリー者』p−255)

私は、自由と合理性そのものを可能にしている象徴界への参入そのものが、外傷的なものであり、その痕跡は象徴界の中に一つの穴を穿つような形で存在するle reelであるということは認めてもよい。しかし、それがシェリングの純粋な意志の自由とか、純粋の悪意となどとは程遠いものであると言わざるを得ない。
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2016年06月22日

地域通貨とベーシック・インカム

以前ここで、ベーシック・インカムについて論じたが(2016年4月18日美学散歩(11)Unto this last参照)、果たしてその制度にどの程度実効性があるか、疑問を持たれる向きもあるだろう。それが、財政規律と矛盾することなく機能するものであろうか?

私はそれを、地域通貨と組み合わせることを提案したい。つまり、ベーシック・インカムは、何らかの地域通貨で支払われるのである。地域通貨は、それぞれの地域の特性を反映するべきものであるから、一様に論ずることはできないが、1)基本通貨(国際為替市場で流通する通貨)と併用されるものであり、基本通貨に代わり得るものではない。2)狭い地域で流通し、その地域社会での情報と信用に支えられるが、それを超えた普遍的信用を持ちうるわけではない。
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2016年06月18日

安倍首相に直言

もし安倍さんが近所に演説に来られたら、私はたった一人でも、次の三つのことは直言するつもりです(パレーシア)。1)政治家の方は憲法を尊重してください。2)安倍さんは「立法府の長」ですか? 3)国会の議事録の改竄はやめてください。
 
皆様も、もしどうしても言いたいことがあったら、演説に来たところで直言して差し上げることをお勧めします。そのさい、もちろん過度に攻撃的な態度に出ないことが肝要です。あくまでも率直に自分の疑問をぶつけるのです。有権者には当然その権利があるのです。みんなで静かに安倍さんを追い詰めましょう。警護の警察を敵に回す必要はありません。
  
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2016年06月01日

サイン会

先日友人と飯を食ったとき、私の本がさっぱり売れないという話題になった。

実は私は、売れないことにはさほど心配はしていない。突然バイロンの『チャイルド・ハロルド』ように、爆発的に売れ出さないとも限らないからだ。

むしろ心配なのは、その時のことである。

売れっ子の著者は、大手の本屋のサイン会に呼ばれたりするものである。このとき自筆のサインが求められる。字が下手なのは構わない。下手でも味のある字はある。作家に求められるのは字のうまさではない。むしろこの味である。私の字もうまくはないが、亡くなった母がつくづく述懐したのは、「あんたの字は品格がないの」であった。どうも字には、性格とか品格とかがにじみ出るものらしい。どんなに練習しても、こればっかりはごまかしがきかない。サイン会で、あこがれの著者から、品格のない字のサインをもらった愛読者の心中はいかばかりであろうか?

そんなわけで、私は目下自分の品格を鍛えているところだ。これにはやや時間がかかる。

さて、しかるべき品格が私に備わったところで、いよいよサイン会である。サイン会では、たいてい二人くらいの売っ子作家が呼ばれる。最近売れ行きがいいのは、若く美形の作家たちだ。以前だと、荷風や谷崎にしろ、宮本百合子や野上弥生子にしろ、とても美形と(まで)は言えなかったものだ。今や美人の作品は、内容が陳腐で凡庸でも、これが飛ぶように売れる。

私がそんな著者と机を並べたとして、長々と列をなすのは、私の前だろうか? 万に一つも、そんなことはあるまい。隣には何十人ものファンが並んでいる横で、私の前には閑古鳥が鳴いているのを見て、書店員は気の毒そうに、また申し訳なさそうに、せっせとお茶を運んだり、一向に減らないサイン本を積み直したりすることになる。

私の本に人気がないとしても、それは私の責任なのだからどうということはないが、自分のせいでもないのに、書店員が申し訳なさそうに目を伏せるのを見るのは、つらいものがあるだろう。

そんなわけであるから、たとえサイン会に来てくれと言われても、なるべく断ることに決めている。幸いそういう申し出はいまのところ来ていない。
  
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2016年05月30日

「重版出来」

いつものように山形新聞への投稿であるが、今回は少々面白いことがあった。まずは投稿記事をあげておこう。

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「重版出来(じゅうはんしゅったい)」(松田奈緒子)

いま評判のテレビ・ドラマ。大手出版社の新人スタッフ役の黒木華氏の熱演が光る。もともとは松田奈緒子氏の名作漫画の表題だ。

著者の側から言えば、とにかく自作が出版にこぎつけることが大問題であるが、出版の側から見れば、出版した本の重版が問題。というのは、初版だけではそれを売り切ったところで、コストや手間を考えるとほとんど儲けにならないからである。しかし、初版を売り切れば自動的に「重版出来」となるわけではない。売れ行きの「勢い」こそが重要だ。さもなくば、重版しても在庫を重ねるだけでは元も子もない。

ドラマは出版不況が続く中で、企画・編集・営業と、いかに涙ぐましい努力をしているかを描き尽し、共感を呼ぶ。とりわけ身につまされるのは、独りよがりの作家に対して、編集が厳しい注文を出すところ。漫画界のように、独創的な才能がひしめいているところで生き残るほどの作家は、当然、圭角(けいかく)ある個性の持ち主だ。編集の注文を容易に聞き入れるわけもない。

しかし、才能ある個性に対してこそ、編集者の厳しい批判は不可欠なのだ。どんな葛藤を引き起こしても、それは必ず実りをもたらす。著者は常に褒め言葉に飢えていて、どんな空疎な賛辞にもしがみつくが、それ以外は受け付けようとしない。自惚れに満ちた強烈な思い込みが、いかなる批判にも耳を閉ざしているからである。

私もいくつか売れない本を出したことがあるが、売れないには、本人にはわからない相応の理由があるものだ。気取った文飾、こけおどしの晦渋(かいじゅう)さ、あらずもがなのナルシシズム…。編集者はすぐにそのような欠点を見抜く。作品に対する彼女の醒めた視線は、実際は著者の怒りを買ってまでも、育ての我が子を守り抜こうとする愛から来る。編集の言うままにすればいいとは限らないが、それでも厳しい指摘によって作品が改善されないことはまずない。
――

実は、この文章は、一か所修正が要求されていた。「こけおどしの晦渋さ」の部分が、「こけおどしの難解さ」に書き換えてはどうかと、やんわりと編集者に提案されたのである。「晦渋さ」はやや晦渋すぎる、というのである。つまり、私の表現そのものが、すでにしてこけおどしの晦渋さだというわけだ。なかなか機知にとんだ編集者ではある。

もちろん私は型通り気分を害し、「晦渋」さえも通用しないのだとしたら、それは読者が悪いだろう…とか何とかブツブツつぶやいたものの、「こけおどしの晦渋」を押し通すほどの面の皮はさすがになかったので、苦々しい思いをかみ殺して、言われるままに従うことにした。はなはだ不愉快なような、愉快なような話ではある。

ところが、ゲラの段階で一転、「晦渋」で構わないということになった。編集の中にも「晦渋」を押す者がいたのかもしれない。それとも、「すべてお任せします」と言った私の言い方が、まるで開き直った啖呵のように聞こえてしまったのか、そこのところは不明である。

しかし、そうしてみると、今度は自分の言葉使いに、にわかに自信が持てなくなってきた。私の日本語が、どこもかしこもグラグラ・ガタガタ音を立てて揺らぎだした。こうなると、ちょうどこれまでなにげなく使っていた漢字が、突然相貌を変え、そんな字があったかどうかさえ確信が持てなくなってしまったような具合だ。すべての文字や言葉が溶けだして、普通であるものとそうでないもの、自然なものと不自然なものの区別もわからず、何とも情けないありさまである。編集者から「それほど自信があるなら、全部自分の思った通りに書けばいい」とばかり、放り出されてしまったようで、妙にさみしい気分でもある。編集さん、どうか私を見捨てないで!
  
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2016年05月25日

美学散歩(13)ジジェクの解釈

ここでついでに、ジジェクの解釈に沿ってラカンの「現実界」の多様な面について、私の理解の及ぶ範囲でメモしておくことにしよう。(ちなみにle symboliqueを「象徴界」と訳すからと言って、le reel を「現実界」と訳すのには抵抗がある)

ラカンもさることながら、ジジェクにおいてさえも、le reel 享楽などをめぐる部分は特に難解であるが、ジジェクの多くの著作のエッセンスを総攬するような本(『イデオロギーの崇高な対象』河出文庫)が翻訳されているので、このさい私がどこに疑問を感じてきたかを、この本に即して明らかにしておきたいと思う。
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2016年05月24日

美学散歩(12)『紅葉狩』補論

『紅葉狩』における第二の変身、上臈の鬼への変身は、何を意味するのであろうか? ここには、精神分析学的に考えると、「死の欲動」「現実的なもの」(le reel)「享楽」などの諸概念でとらえられるべき典型事例がある。

非常に簡略化すれば、主体が言語を習得し、象徴界に参入してから顧みれば、この出来事(主体の生成)はそれ自体語りえず、考えることも記憶することもできない(なぜなら、そうすることのできる主体がまだ存在しないから)トラウマ的出来事であるが、それを神話として何とかつじつまを合わせようとする。それが例えばエディプスの物語である。

母子一体関係にあった鏡像段階は、失われた何ものかとしてのみ神話化され、エデンの楽園の如きものになる。そのイメージは、『源氏物語』における光源氏にとっての藤壺のように、桐壺の更衣の代替物として、その実際の実在そのものを超えた、いわく言いがたい魅力を備えるもの(これを対象aという)として主体の欲望の「原因」となる。

この欲望の「原因」とは、誤解を招く言い方である。プルーストの小説の中で、ジルベルトの黒い瞳に魅せられた主人公は、それを青い瞳と思い込んでおり、いつも青い瞳のジルベルトを思い出そうとする。

そののち長い間、彼女を思い浮かべるたびに、その眼の光の回想が、彼女はブロンドなのだから、目は鮮やかな空色だ、という風に直ちに私の頭に浮かんでくるのであって、したがっておそらく、もし彼女があれほど黒い眼をしていなかったら…私は彼女の中で、特にその青い目に、あんなに恋い焦がれはしなかったろう。「スワン家の方へ」

ここで、青い瞳は主体の欲望の対象、黒い瞳はその原因となってはいないだろうか? 欲望の対象は、必ずしもその原因ではない。この点で、私は「欲望の対象=原因」というラカンの言い回しに悩まされてきた。
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2016年05月23日

列聖

山路を往くと、そこにはまだ鶯が鳴いている。山の鶯はまだ啼き方がへたで、ホーホケキョのホーの部分をたっぷりためて歌うことができない。

そこで、私が啼き方を伝授してやることにした。へたな者どうしで競争していては、この程度でも恋人が得られるものと、高をくくってしまうからである。

はたして私が歌ってやると、しばらくうっとりと私の啼き方を聴いていたかと思うと、やがて次々に鳴き交わして近寄ってくる。近くに侮りがたいライヴァルが出現したと思うのであろう。明らかに複数の声で方々から啼くのが聞こえてくる。よく聴くと、声のピッチも違えば、歌い方のクセも違っているが、どの鶯もおしなべて下手である。

上手な鳥だと、ホーォホケッキョのように歌うものだ。このホーォの部分が特に重要で、ホーと少しピッチを上げた後、ォの部分で心もち抑え気味にする。そして、ためにためておいた力を一挙に吐き出すかのように、巻き舌を使ってケッキョをすばやく転がすのだ。そうすると、女心はいちころである。

そうして5〜6分も口笛で模範演奏を聴かせてやっていると、比較的器用なひとたちは、以前より格段に上達したようである。もちろんまだ師の演奏に遠く及ばないのは致し方ない。

かつて、アッシジの聖フランチェスコは、小鳥たちに福音を説き聞かせたといわれているが、私の場合も、鶯に鳴き方を教えたという点が評価されて、列聖の参考にされないとも限らないと心配している。まあ、いずれにせよ百年以上後のことだろう。

もちろん私は、列聖してもらいたいわけではない。考えてみれば、カトリック教徒ですらないのだから、列聖される心配は、まずないのである。ただ、私が教えた鳥たちが、口伝えで他の鳥たちに私の歌を伝承し、蓼科山のほとんどすべての鶯が、私の孫弟子、ひ孫弟子になることを思うと、愉快である。
  
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2016年04月18日

美学散歩(11)Unto this last

ブルジョワ社会は、人間と人間の自由な契約に基づく社会であるから、市場で出会う人々は対等で自由であるはずだ。人々の自由な欲望のみが、市場の勝者を決定し、チャンスをつかむ才覚こそが個人の社会的承認につながり、個人と社会の対立を乗り越えさせるはずである。

ここに、共同体の因習を突き破り、大胆に社会への冒険へと乗り出す自由な気概あふれる人物類型が生み出された。初めからその地位を保証する身分的通行手形も、前もって個人を限界づける地域的刻印も持たない自由な個人が、己れの才覚のみに基づいてゼロから世界を築き上げる物語が成立する。ロビンソン・クルーソーの物語など。
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Posted by easter1916 at 21:44Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年04月15日

美学散歩(10)全体性つづき

時間を通じて意味が現れる様式が物語である。白鳥が魔法にかけられた王女であったことがわかるとか、小さな一寸法師が立派な手柄を立てる若者に成長するとか、醜いアヒルの子が、やがて立派な白鳥に姿を変えるとか、はたまたオヴィディウスの一連の変身物語…。

これらの物語では、いずれも隠れていた意味が現れるが、そこには自然的成長の場合のように、自然の中に潜在的に隠れているものが成長につれて現れたり、本来の意味が超自然的魔法によって隠されたり解かれたりする。それは、いわばアリストテレス的意味生成であって、意識の経験ではない。花は種の真理であるが、それは観察者にとってのこと。種自身はそのことを知らない。

しかし小説においては、このような形で隠されている意味が問題なのではない。むしろそれは、さまざまの人々の信念や欲望において、断片的ながらすでに現れているのである。主人公とともに、我々はそれらの断片から、全体的意味を読み取らねばならない。そのためにこそ、主人公は、さまざまな探究と冒険を経由せねばならない。そうして、世界の方々でこのような断片を拾い集めるのである。そのため、主体自体がみずから体現する真理を意識化・主体化せねばならない。真理は実体としてのみならず、主体としても捉えられねばならないのである。

バルザックに『あら皮』という小説がある。人生に絶望した青年が、ふとした偶然から魔法のあら皮を手に入れる。それは主人公が望むことを何であれ実現してくれる魔法の力があるが、それを達成するたびにあら皮は目に見えて小さくなってしまう。残されたあら皮の大きさは、残された命の時間を示しているのである。それでも主人公は、命をすりへらしても己れの欲望を諦めることはしない。

ここでも、物語に登場する魔法の小道具が存在するように見えるが、白鳥の魔法とは違っている。白鳥の魔法の場合は、それを解く力はもっぱら主人公の力を超えた超越的世界の秩序であるが、『あら皮』では、主人公は己れの欲望の真の意味(テロス)が死であることを知りつつも、それを断念することをしない。つまり欲望とその実現の間に存在する魔法のあら皮が、もはやその両者を隔てるヴェールではないのだ。主人公は己れの欲望の真の意味が死であることに気づきながら、死という帰結を引き受けるのだ。

『あら皮』の主人公の欲望を、『源氏物語』における六畳御息所の場合と比較すると、小説と物語の区別がいっそうはっきりするだろう。六畳御息所は、自分が寝ている間に生霊となって身を抜け出し、葵上に憑りつく。葵上はそのために発病し、阿闍梨たちを呼んで祈祷をさせる。寝覚めた御息所は、自分が生霊となっていた意識はないが、身に染まった祈祷の護摩の匂いによってそのことを思い知らされる。この場合、御息所の欲望は、自分自身にもどうにもならない宿命として現れており、御息所はそれを受忍するだけで、引き受けるとは言えないのだ。

一般に『源氏物語』の主人公たちは、己れの意志と欲望によって人生を切り開くのではない。皇室の人間であってさえ、権力の中枢から遠ざけられた場合、見るも無残な零落を覚悟しなければならない(たとえば、桐壺帝の第八皇子が、都に住むこともできず宇治に隠棲したり、常陸宮の一人娘末摘花が、日々の生活にも困るほど困窮するなど)。市民社会が、小説の主人公たちに準備したものが、ここに欠けていることが明確にわかるのである。

小説や物語は、人生そのものの写しではない。実人生の中から夾雑物を取り除き、意味生成の純粋な形式を浮き彫りにする。それによって人生の縮約を表現するとも言える。読者は、その縮約の中において、己れの実人生そのものの記録よりも、いっそう鮮やかに己れの人生の意味を読み取るのである。小説がフィクションでありながら、より真実性を表現できるのはそのためである。

日記の様な一人称視点からの心理記述だけでは、その観点そのものの変容は描きにくい。心理は次々に走馬灯のように移り変わっても、それを眺める主体は何ら変化しないからである。他方、出来事の経過を客観的に描いても、それを眺める主体の変化を表現することはできない。主体の観点自体が変容し、意味理解自体の構造が一変することを描くためには、内在的視点と外在的視点との二重の観点が必要である。ここに、小説特有の話法が成立する必然性がある。

自伝的に書かれた小説でも、観点の二重性や意味の生成を描く点は変わらない。トーマス・マンの自伝的小説『トニオ・クレーゲル』は一貫してトニオの観点で語られているが、その観点が不動なまま自明に前提されているわけではない。主体と意味理解の変容を描くために、作者は独特の工夫を凝らしているのだ。

主人公の前に現れる二つの形象ハンス・ハンゼンとインゲ・ボルクホルムは、その特徴を表すいくつかの典型的表現とともに反復され、非常に寓話的に類型化されている。彼らの形象は、さまがら音楽のモティーフや主題のように反復して登場するため、時を経てそれが再び回帰するとき、実際それが同じ人物か、それともよく似た別の人物なのか、わざとあいまいにされている。実際の経験を構成するはずの細部から、主題とは無関係の夾雑物がすっかり剥奪され、純化された意味の構造のみが反復されるのだ。

そこから返って、彼らに相対する主人公トニオの意識が、単に自明に同一のまま前提されるのではなく、変容していることが浮き彫りになるのである。類型化された形象の反復こそが、その意味とそれを捉える主体の変容とを知らせるのだ。

ここに、主人公が自分自身に対して距離をとることが可能になるのであって、それが、見方によってはイロニーともフモールとも言える味を醸し出すのだ。出発点をなす主人公の立場に内在的に見れば、その観点がみずからの論理を追及したあげく、その否定に至るイロニーと見えようし、到達点から見れば、それ以前の意識はフモールを持って見守られる。トーマス・マンの小説なら、『ブッデンブローク家の人々』『フェリクス・クルルの冒険』『ファウスト博士』は、どちらかといえばイロニーの作品、『ワイマルのロッテ』『選ばれし人』『ヨゼフとその兄弟』はフモールの作品と言えよう。

これが、自然主義的私小説が陥る心象の羅列主義をいかに免れているか、すでに明らかであろう(心象羅列主義では、それぞれの事象の意味は平坦に等距離なまま受容されるだけで、異なる観点から捉え返されるようなことがない)。小説はこのように、意味に対する多様な観点を交錯する様式であり、それによって個人的意識を社会性に向けて解放する装置なのである。言い換えれば、それは社会の自己意識の縮約的表現なのだ。

このような芸術様式が出現したのも、世界の全体が市場によって結び付けられる近代世界市場の成立を背景としている。近代では欲望は市場において実現され、超自然的神秘は、すべて「市場の神秘」に還元される。

たとえば、バルザックの『幻滅』では、主人公の詩人リュシアン・ド・リュバンプレは、詩人としての成功を夢見てパリに出てくるが、つまらぬ作品をほめあげ、すぐれた作品を貶すような批評家や出版業者に翻弄される。これが、ドン・キホーテの場合なら、何か悪しき魔法にかけられていると感じるところであろう。ドン・キホーテにとって魔法として現象する神秘は、我々読者にとってさまざまの社会的からくりとして説明されるから、それがわからない主人公は滑稽な印象を与える。

しかし『幻滅』においては、このような「魔法」は、市場を支配している批評家―作家―出版社が一体となった持ちつ持たれつの利益共同体のためである。出版社の社長や編集者の欲望、作家同士の嫉妬心や野心、恥をかかされた批評家のルサンチマン、身内や情人を抜擢したいパトロンやジャーナリストの欲望…それらのものが複雑に組み合わされて、結果として、まるで魔法にかかった庭園のような現象を市場社会が呈することになるのだ。いずれにしろ、すべての謎は社会内部で行動する主体にとって解決可能な問題として現象するのである。

通常、政治的統治は、神秘的な血筋(ライオンの末裔など)や(神からの)知恵によって権威づけられる。これが、さまざまの半獣神(ミノタウロス)の跋扈を生み出す。それに対して、ギリシア人のみは、人が人を統治することに何の神秘もないことを強調した。巨大な迷路のような神秘で包まれた宮殿の奥まった一室にひっそりと生息し、めったに姿を見せない形で統治した従来の王の支配と違って、あからさまに見える形で人前に現れる裸形性をギリシア人は尊んだ。ただ「運」だけがなお残された神秘と見なされたのである。

ブルジョワ社会では、市場での勝利は、運によるのではなく、人々の欲望に広く応えることである。

  
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