2023年05月19日

「帝国臣民」の醜態(山形新聞への投稿)

燃ゆる火の火中(ほなか)に死にて、また生(あ)るる不死鳥のごと…  (安倍能成作詞)

 私の記憶に残っているある学校の校歌の一節。それなりに伝統のある学校のはずだが、戦後の再出発のとき校歌も一新した。他にもそんな例は多いだろう。たいてい「自由」や「平和」を歌い上げる言葉が含まれているのでそれとわかる。この歌の場合は、「破(や)れ寂し廃墟の上に立ち上がれ…」とつづく。戦後の焼け野原の上に孜々として新時代を築こうとする若者たちの姿が思い浮かばれて、頼もしい。
 時代の証言を読むと、敗戦をただ絶望と受け取った人は少なく、むしろ抜ける青空のような解放感を感じた人々が圧倒的に多い。小津安二郎の映画『秋刀魚の味』の中で、笠智衆と加東大介が演じる旧海軍の戦友ふたりが、軍艦マーチを聴きながら敗戦を振り返る場面がある。加東が「もし我々が勝っていたら、今頃ニューヨークあたりで…」と言うのに対して、笠は「負けてよかったんじゃないか」と答える。加東は「そうかもしれねえな、馬鹿な野郎が威張らなくなっただけでもねえ」と続けるのだ。軍人や警官やえらいさんばかりが、やたらに威張っていた時代を思えば、ニューヨークにまで出かけて行って更にふんぞり返っている様を想像するのは、何ともやりきれないのである。
 残念ながら、軽薄で夜郎自大の国民性を考えると、戦争で勝った帝国臣民ほどみっともないものは、またとなかったはずである。節度を守っている限りはそれなりに格好もつくが、ドンチャン騒ぎに羽目を外すときには、手が付けられない醜態をさらすのが、美しい日本のお国柄のようである。まあ、オリンピック招致とかカジノ(賭博場)誘致とかの、醜悪この上ない愚行を考えてみるだけで十分だろう。お祭り騒ぎの過ぎ去った廃墟の上に、再び立ち上がる未来はあるのだろうか? やはり負けてよかったのである。


easter1916 at 01:52|PermalinkComments(0) 日記 

2023年04月03日

「自己知」再論

近藤一輝氏の論文「自己知における可謬性条件」を読んで、自己知についての現代の所説を知り、触発されて自分のこれまでの考えを反省する機会を得た。
 近藤氏は自己知が可謬的であるという諸家の議論を受け入れたうえで、その可謬性条件を逆に成功の条件(正常性条件)と捉え返すという野心的試みを提案されている。ごく簡略化すれば、主体の合理性ということ(ならびに誠実性)が成立する場合には、自己知は信頼できるとするものである。
 この合理性がどのように保証されるのか、その非同一性や可変性の余地はないのか、可変的であるとすれば、それは収斂する必然性があるのかなど問題はなお残るかもしれない。
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easter1916 at 00:56|PermalinkComments(10) 哲学ノート 

2023年03月24日

香炉峰の雪

例によって山形新聞への投稿

香炉峰の雪いかならむ     清少納言『枕草子』

『枕草子』で最も有名なエピソードのひとつ。京の冬は寒い。まして雪の日は。女房達はつれづれをかこち、気分も沈みがち。そこで中宮定子さまは、ちょっとした遊びを思いつかれた。唐の詩人白居易の詩を引いて、女房達に謎をおかけになる。それに対する清少納言の当意即妙な応え(御簾を掲げた)に、姫君はいと貴(あて)にきよらに微笑み給う。
 これを読んで、「それがどうした」と鼻白む生徒も教室には多いだろう。ただ学識をひけらかしてるだけじゃないのか? 実際、ほぼ同時代の紫式部も日記で「大した学でもないくせに」と嫌味を言っている。実は紫式部自身、清少納言よりずっと漢籍に詳しかった。
 だが、主従の息の合ったこの機知に、その場が華やいだのは間違いない。それは単なる学識の披露ではない。その状況を、都を追われた詩人の文脈に即座に見立てる発想の自由さ。何という華と雅(みやび)がそこにあったろう! ここには、定子に迫りつつあった悲劇も暗雲も、その影さえ差してはいない。残酷な時の流れに抗して、華だけが掬い取られたからである。
 こんな遊びは、たとえば中国の文化人には通用しないだろう。彼らにとって、その程度の教養は常識の域を出ない。これは、偉大な隣国の文明に強いあこがれを持つ我々周辺国の知識人にのみ成立する、一種のスノビスムを前提しているのだ。
 だがこのことは、我々の単なる弱点ではない。中国でも西欧でも、もちろんギリシア・ローマでも、順序も関連も無視してすぐに翻訳して咀嚼してしまう文化。我々は先輩諸文明を深く敬愛するばかりではない。我々自身の状況へと常々雑多に引用して、それらの古典をもとの文脈から切り離し、新しい文脈へとよみがえらせる。そうして、古い言葉に新しい意味を吹き込むのだ。これを私は「文脈の自由」と呼びたい。文脈の自由こそ、「独創性」に乏しき我々の誇るべき独創性である。


easter1916 at 20:37|PermalinkComments(0) 日記 

2023年03月11日

福田恒存の保守主義

宇野重規氏の『日本の保守とリベラル』(中央公論新社)を読んで、そこで論じられた福田恒存と丸山眞男の所論に対していくらか思うところがあるので論じてみたい。
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easter1916 at 02:38|PermalinkComments(3) 哲学ノート 

2023年02月22日

ニーチェ覚書(3)

同僚
「友情の感情こそが、古代の人々にとっては最高の感情であった。それは、自足の境地にある賢者の名誉ある誇りよりも高貴なもの、いわば唯一それにも勝る神聖な兄弟と思われていた。」(『喜ばしき知恵』61)ニーチェがこう記したとき、彼にとって位階の概念が友情のそれと密接に結びついていたことを示している。そしてそのような友情の観念を、彼は古代ギリシアの経験から学んだのである。それはギリシア人の他のすべての主要な関心と同様に政治的なものであった。
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easter1916 at 03:01|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2023年02月20日

ニーチェ覚書(2)

位階の教説
位階に対する本能というものが存在するが、これはすべてのものにまして、すでに一つの高い位階に属している徴候である。畏敬のニュアンスに対する悦びというものが存在するが、これは高貴な素性と習慣とを窺わしめるものである。ある魂の繊細さと善良さと高さは、第一の位階に属しているが、なお慄然たる権威により厚かましい扱いや無作法から守られていないもの――目立たず、見出されず、誘惑的に、おそらくわざと包み隠され、仮装して、さながら生きた試金石のようにその道を行くもの――が傍らを通り過ぎていくとき、危険にも試練にかけられる。魂を探究することをその任務とし、それに習熟している者は、ある魂の究極の価値、その魂が属している揺るがしがたい生得の位階を確認するために、さまざまな形で他ならぬこの技法を利用するであろう。彼はその魂をそれの畏敬の本能を目途として試練にかけるであろう。〈差異は憎悪を生む〉。大抵の卑俗な人物は、何かある神聖な容器、何かある閉ざされた筐から出た宝物、何かある大きな運命の前兆を示した事物が持ち出されるとき、たちまち汚水のように跳び上がる。(『善悪の彼岸』第9章後期とは何か263節)

 ここには「位階」という特殊な範疇の特質がいかんなく 表わされている。それは、生物学的特質とか社会的身分といった何か客観的な性質ではなく、〈位階〉というこの観念、ないし言い立てに対しての態度の中に現れてくるような区別立てだということ。
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easter1916 at 02:28|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2023年02月19日

ニーチェ覚書(1)ルサンチマンと位階

カルチャーセンターの講義でニーチェを取り上げることになったので、このところニーチェについて考えることが多い。以前『ニーチェの遠近法』で一応のことは論じたので、いまさら特に新しいポイントがあるわけではないが、以前考察したものより具体的な文脈や広い連関が目につくようにはなっている。そこで、それらについて思いつくままに狂詩曲風に書き散らしておこう。できれば、よりコンパクトに体系的に叙述することができればいいのかもしれないが、体力や気力の限界も感じるし、無理に体系化することで失われるものもあろうから、取りあえずの議論の材料を並べるだけで、今は満足することにしよう。続きを読む

easter1916 at 20:19|PermalinkComments(2) 哲学ノート 

2023年02月08日

兄の仕事の紹介

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/scienceview/
2月7日の所で紹介されています。

easter1916 at 21:51|PermalinkComments(5) 日記 

2023年01月26日

山形新聞 ことばの杜への投稿

私たちは何も知らない。(永井愛)
 この言葉は、劇団二兎社を主宰する永井愛さんの戯曲のタイトルだ。青鞜社に集った女性たちが前代未聞の闘いに臨んで、未来を先取りするいかなる賢しらな知恵も持ち得ないことを象徴的に示すもの。
 映画『おくりびと』で、本木雅弘さん演じる主人公が、大事な人から石ころを託されるという場面があった。それと同じようなモチーフが『パラサイト・半地下の家族』にもあったと思う。こちらの石は大きくて持ち運びにくい。つまりは持つ者を危険にさらす。いずれの作品も、地下に眠る死者たちの声なき声を主題にした美しい映画だが、石は死者からの大切なメッセージのように主人公に託される。それがいかなるメッセージなのかは、我々にも主人公にもわからない。ただ運命のように手渡され、重大な責任のように担われる。
 『パラサイト』の中では、誰かが「計画を立てるから失敗する。立てなければ失敗することもない」と述べていた。実際、未来にはっきりとした見通しを持つことは難しい。コロナや戦争を誰が予想したか? 大地震や津波が来ることは皆知っていたが、知ってどうなるものでもない。備えるにはコストがかかりすぎるのだ。
 対して、石が課す責任は違う。それが次々に難儀や災難を呼び込むとしても、ついに主人公はある明察に導かれる。結局、託された石の沈黙を前に、何をすることが責任を果たすことなのか繰り返し問い続けることこそが、その責任を果たすことなのである。借金を返済する責任ならはっきりしているが、我々が過去に負う負債は漠として測りがたい。そんな責任など感じない人もいるだろう。しかし祖先たちが果たし得なかった悲願や課題を気にも留めない連中は、身軽なのではなく単に軽薄なだけだ。
 大西洋の向こうにインドがあると信じて船出したコロンブスのように、先人たちが大きな思い違いをしていたこともあり得ないことではない。だが、それを深く認識することで我々は責任を全うする。かくて失敗や過ちさえも、未来を幽かに照らす恵みに転化するのである。それが我々に見出されるべき「新大陸」なのだ。


easter1916 at 20:20|PermalinkComments(0) 日記 

2022年12月25日

(隠喩、謎、証明)

デイヴィドソンは隠喩に、字義通りの意味とは区別される「隠喩的意味」を拒否した(『真理と解釈』第12章「隠喩の意味するもの」)。これは、「隠喩的意味」をパラフレイズによってであれ他の何によってであれ、明確に規定することが難しいということに加えて、意味というものを発話主体の理解や信念とは独立に、表現に客観的に備わった何ものかと考えているからである。そしてそれは、真理条件として与えられるはずである。そうなると、意味は理解と切り離されてしまう。
 たとえば、スフィンクスの謎として有名な謎(明日に四本足、昼間に二本足、夕方には三本足で歩くものは…)のような謎、一般に「〜とは何か?」という問題の真に意味は、その答えが与えるべきものと考えられよう。だが、その答えが見つかっていない段階でも、その謎や問題が全くの無意味であったわけではあるまい。初めから無意味な問いを問うこと自体無意味であろうはずだからである。したがってここには、少なくとも二通りの意味が存在しているはずだ。当初の問いの意味と、答えが新たに与える問いの意味である。
 我々は、いまだにその意味がはっきりしない謎々の意味は、隠喩のようなものであると考えることができる。スフィンクスの謎の意味は、その文字通りの意味はともかく、その真の意味は知られていないという印象を持つ。それが人間だと言われても「どういう意味だ?」と問い返されるだろう。「人間だ」と答えたオイディプスは、そこで得意然としながらおもむろに解説し始める。「スフィンクスの謎が、一貫して時間性に焦点を当てていることに注意したまえ。「朝」、「昼」、「夕」というのがそれ。そこで、世界でとりわけ時間ということに深くかかわっている存在を考えてみればいいのだ。…そうすればおのずから人間の存在が浮かび上がるだろう」。このような説明は、幾分名探偵の謎解きに似ている。そこでは、いくつもの証拠を首尾一貫した観点のもとに取り集め配列して見せることが問題になるだろう。その結果、例えばそこで言われた「朝」は、必ずしも文字通りの朝であるわけではなく、たとえば「幼年期」であることが知られる。つまり隠喩であったことが知られる。言いかえると、隠喩は何らかの形でその真意を隠しつつほのめかしていたことによって、謎であったことがわかるのである。つまり、隠喩はその真偽に中立的な単なる表現技術ではなく、それを裏打ちする何らかの真理を前提としているのだ。
 数学において、「2の2乗」は2を二回掛け合わせることを意味する。一般に「2のn乗」は2をn回掛け合わせることを意味する。その定義からは「2の−2乗」とか「2の1/2乗」のような表現は意味を欠いている。しかし、2のn乗×2のm乗=2の(n+m)乗であることから、
2の−2乗×2の2乗=2の(−2+2)乗
=2の0乗=1
∴=1/(2の2乗)
この証明モドキの図解において、厳密には「2の−2乗×2の2乗」の部分は意味が与えられていない。したがってこれは証明としては無効であろう。しかし我々は、何かしらこのような説明によって、「2の−2乗」という表現に意味の説明を与えることができるであろう。それは「2の−2乗」という表現をある種の隠喩として理解することであろう。なぜならそれは、「2の−2乗」を「2を−2回掛け合わせる」という意味のみならず、「2の2乗を掛けて1になる数」という意味でも理解することになるからである。
 有名なゴールドバハの推測「あらゆる偶数は二つの素数の和で表せる」の意味は、我々が「偶数」とか「素数」とか「和」の意味を理解している限り、当面字義通りの意味を理解できていると言える側面を持つだろう。確かに我々は、4が3と1の和、10が7と3の和などで表せるということを理解できている。しかしすべての偶数を見通すことができるような立場に未だ立ち得ていない限り、この推測を理解できているわけではない。それはちょうど、「2の−2乗」を「2を−2回掛け合わせる」という意味だけで理解しているような状態である。あるいは「北海道は三角形である」という隠喩表現の意味を、「北海道」や「三角形」の(真理条件への貢献という意味での)Bedeutungだけから「理解できている」ような状態とも言えよう。我々は、北海道を真横から見るというような視点を与えられて初めて、この隠喩表現の意味が十全に理解できたと言えるのである。このような見方を与えるものこそ、証明に他ならない。
 したがって我々としては、デイヴィドソンと違って、隠喩の意味が与える意味が存在する、あるいはむしろ隠喩表現の意味の説明(証明)によって与えられる意味が存在すると言うべきであろう。
 一般にある言語表現の意味は、定義とか真理条件の習得によって、くまなく十全に与えられるものではない。特定の表現の適切使用条件の習得が、それ以後の一切の使用基準を確立するというような見方は、まことに非現実的であろう。むしろ我々は当面の言語習得(有限の事例の習得)によって開かれた言語実践を通じて、当初考えられていなかった使用場面に導かれるのであり、そのことがしばしば弁証法的問題を生み出すのである。我々の言語理解は、それらの諸問題を首尾よく解決することを通じて、世界の在り方の認識と同時に深化し拡大する言語の認識へと開かれているのである。


easter1916 at 03:20|PermalinkComments(0) 哲学ノート 
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