2019年01月11日

ムン・ジェイン韓国大統領の発言

ムン・ジェイン大統領の記者会見での発言を拝見して、その品位と言うか、風格というものに深く感銘を受けた。「徴用工問題」に対して、文大統領が私と同じ見解をお持ちかどうかはわからないが、品格についての判断は、そんな意見とは無関係に可能なものである。それは我が国の政治家の子供じみた態度とは、およそ対蹠的なものであった。

こんなことを言えば、雲霞のごとき右翼たちがわめきたてるのはわかりきったことだが、取り急ぎ、私なりの感想だけは表明しておきたいのである。とりわけ、在日朝鮮・韓国人の人々は、このような政治家を自らの民族から生み出したことを誇るべきだということ、日本の愚劣な右翼的言論に後ろめたさを感じる必要など一切ないことを、はっきり明言しておく必要を感じて、あえて一言する。
  
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2019年01月06日

ピーコックの自由論

ピーコックは、決定論にも非決定論にも中立的な自由理解を手に入れようとする。その要となるのは、「他でもあり得た」「他のこともなし得た」could have done otherwise の理解である。物理法則は非両立論も両立論も支持しない。

ピーコックが主張するのは、「他もなし得た」は、現実の成り行きと近接的であるような可能的成り行きというものを考えることができるということであり、その初期条件の差が自由意志によってもたらされるか、必然的に(決定論的)に決まっているかは問題ではないということである。

そのうえで、ピーコックは1)φしようとする近接可能性が存在し、2)φしようとすればφしたであろうこと、これがφする自由があるということであると規定する。(Peacocke Being Known  p−311)

ここでφしようと試みる可能性が近接的可能性であると規定されているが、この近接性判断にテュケー(運)が介入することはないのか? ふと思いついてφしようとするかもしれないが、そうしなければ、φしようとなど決して思いつかないかもしれない。

ピーコックは近接可能性がすでに実在論的に与えられているかのように考えているようであるが、思いつかない場合には、φしようとはできないのであるから、それは可能ですらない。

結局、何らかのテュケーの介入によって、そのことを思いつくことによって、φしようとする可能性が生じるのである。三角形の内角が二直角であることの証明においては、底辺に平行で頂点を通る補助線を引くことが必要である。このような補助線を引くことは、果たして近接的可能性に含まれるのか?

さて、近接的可能性とか近接的世界とは何か? 特段の事情がない限り、現実世界で成り立つ法則がすべて同じように成り立つと言えるような世界として特徴づけられる。また、現実世界を構成する諸事物の諸性質で堅固なものはすべて近接世界においても保存される。さしあたって、特段の事情がなければ成り立つ法則が成り立たないような近接可能世界は存在しない。

しかし、何が近接世界であるかを決定的に規定することは難しい。特段の事情がない限り成り立つ法則なるものも、特段の事情が生じれば阻却されるのだから、この特段の事情が生じること自体が近接可能性であるかどうかを問題にできるはずである。というのも、ピーコックは次のように論じているからである。

問題となる近接可能性の体系の外側に、たまたま何が生じるかということにも、近接的可能性の評価は依存する。たとえば、地球が前世紀に宇宙の巨大な物体との衝突によってたやすく破壊され得たかどうかということを考えてみよう。この問いは、単に太陽系の天体の軌道の安定性を記述する、特段の事情がない限り成立する法則を考察し、また、太陽と惑星からなる大部分の恒星系の配置の堅固な性質というものを考察するだけでは答えられない。衝突するが近接的可能性かどうかは、また前世紀の地球から時空的に遠く隔たったすい星や小惑星が、容易にいくらか実際とは違ったコースをたどり得たかどうかにも依存している。(p-322)

このように、考察さるべき体系が何を含むかが未定であれば、客観的に近接的可能性が存在しているとはいえず、与えられた知識と相関的にのみそれが語りうることになろう。

もし可能性が知識に相関的であるなら、知らないことを知る可能性は、存在しないか、近接的可能性かそうでないか評価することができないことになろう。少なくとも、試みることさえ思いつかないことは、近接的可能性でないのみならず可能性ですらない。

ピーコックが、試みることさえ思いつかない可能性、したがって可能性にさえなっていない潜在的可能性を、まったく無視していることは、次の記述からも明らかである。

次のようなもっともな〔進化論的〕議論さえ立てることができよう。自由という〔主観的〕印象は、高等動物の成熟した個体においてなら、主要な場合には、ほぼ正確に正しいであろう。その個人によって、何らかの近接的可能性に置いて気付かれていない(not realizable)ところの選択肢について考察することは、時間とエネルギーの浪費であろう。(p−338)

しかしここでも、知覚の自己帰属と信念の自己帰属の違いについて論じたことが、ほぼそのまま当てはまる(2018年7月4日「命題的態度の自己帰属」参照)。すなわち、進化論的に論じることができる知覚と違って、信念の自己帰属に関しては、「正常性条件」が成立しない。それと同様、自由の自己帰属に関しても、動物たちにおいて(または人間においてもまた、その動物的諸行動において)自己帰属に正常性条件が成り立つようには、人間の概念的行動――計画的企画や高度に分節化された行動に関しては、正常性条件は成り立たないのである。コツをつかまなければそれを試みることさえなし得ない行動というものがあるのだ。(動物の場合に自由の自己帰属ができるかと言えば、そのような概念装置を持たない動物には無理かもしれない。しかし彼らも、自分がφしようとすればφできるということを知っている、という意味で自由であることは知っている、とは言えるだろう。その意味で、ここには正常性条件が存在している。)

たとえば、数学の証明とか難易度の高い体操の技(逆上がり)ができるかどうか、どうやればできるか、あらかじめ気づかれていない選択肢に属するものでないかどうか。目を閉じるとか口を開けるといった非常に基礎的な行為以外、単に直観に基づいて、自由を自己帰属することなど我々にはできない。

とりわけ自由が問題となる場面(我々が本当に自由かどうか、どの程度、またより自由かどうか…)では、そのような自己帰属はできないし、事後的に遡及的にしか自己帰属も他者帰属もなし得ない。

私自身は、物理法則であれ他のいかなる法則であれ、決定論も非決定論も根拠づけるものではないという点で、ピーコックに同意するが、自由が普遍的決定論と両立するという考えには同意できないし、「他もなし得た」ということが自由のもっとも重要な側面をとらえるものとも思わない。また。近接世界という道具立てによって自由の主要側面を理解できるとも、もとより思えない。そもそも選択肢という考え方が、自由を論じるうえで適当とも思わないのである。したがって、「自由意志」(それが何を意味するにしても)を主張するものでもない。もし選択肢ということを考えるとしても、可能な選択肢が問題ではなく、いずれも不可能な選択肢への直面こそが、つまりアンチノミーこそが問題なのである。
  
Posted by easter1916 at 18:53Comments(0)哲学ノート

2018年12月11日

自燈明、法燈明

山形新聞 「ことばの杜」への投稿

ブッダ涅槃に際して語られた言葉の漢語訳である。「燈明」に当たる言葉は「島」とも訳せるものらしく、新しい訳では、「自らを島とし頼りとし、…法を島とし拠り所とし」とされている。いずれにせよブッダは、他人を頼りにせず、自分自身と仏の教えを頼りにして修行に励め、と説いたのだ。問題は自分を頼ることと法を頼ること、この二つの関係である。それらは矛盾しないのであろうか。

サッカーのルールでは、審判は反則に対して笛を吹くことになっているが、他方では、むやみに笛を吹いて試合の進行を妨げてはならないとも規定されていたと思う。イギリスでは、競馬の最後の競り合いにおいて、トップに立つチャンスのない所で馬に鞭を当ててはならないとされている。一見すると曖昧さを助長するこのような規定を、なぜわざわざルールの内に入れるのだろうか? 「法を頼め」だけでは何が足りないのか? 

これらの規定の根底にあるのは、考えさせるということである。機械的にマニュアルに従うような態度は許されない。法(仏の教え)とは何か、決して自明ではないのだ。それについて自分の頭で考えることが求められている。法は我々の思考を免除するものではない。むしろ考えるための手掛かりを与えるものなのである。このような場合「審判(神官たち)」の判断だけが絶対だとは言えない。もちろんそれは尊重されるべきだが、それについての議論が許されないわけではない。むしろ、観客も含めた皆がゲームの当事者なのであり、審判の判断についてその是非を議論することで、共にその文化的伝統を担っていくのである。

ブッダは、戒律の重要でない細部は変更してよい、とも言われたらしい。しかし、どの部分が重要でないのかについては、何も語られなかった。
  
Posted by easter1916 at 19:42Comments(0)日記

2018年12月09日

進化論再考

ある環境の激変によって、ある種は生き延び、ある種は絶滅する。それは前者に、より大きな適応力があったためだと言われる。また、ある環境にはある種が、また別の環境には他の種がより多く生存できているのは、それぞれの種が、それぞれの環境により適合的であるためであると説明される。これは、それ自体が世界の在り方についての客観的描写であるというよりも、リサーチ・プログラムとしてよりよく理解できよう。「適者生存」は、その意味で生物学の法則というよりも、生物学のリサーチ・プログラムなのである。

実際に、当該の種のどの特性がどのようにその環境への適合性として働いているのかの説明は、具体的な考察によって埋めていかねばならない課題である。そのさい、その種の「環境適合性」が具体的にいかなる内実であるかの説明が見つからない場合でも、「適者生存」のリサーチ・プログラムが反証されたり、用済みになったりすることはない。ただ、探究が未完成であることが示されるだけである。

これは、ちょうど「因果律」の場合と同様である。因果律も、自然自体の普遍的法則というより、リサーチ・プログラムとして理解されるべきである(これがカントの「コペルニクス的転回」)。それは、「結果の差異は、原因の差異によって説明されねばならない」という探究方針を意味する。食塩は水に溶けるが、石英のつぶは水に溶けない。この差異は、前者は水溶性を持つが、後者は持たない、というのでは十分な説明とは言えないだろう。「水溶性」の内実がさらに突き止められるべきだろう。これが、例えば食塩のイオン化といった化学的特性から説明がつくとしたら、その同じ化学的特性は、他の現象の説明(たとえば、食塩水の伝導性の説明)にも参照され得るものでなければならない。

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Posted by easter1916 at 02:21Comments(2)哲学ノート

2018年12月06日

ハンニバルの場合

問題に対して、一義的な解が存在するとは限らないことを最も印象的に示すのは、軍事的事例であろう。

そもそも戦争で問題を解決しようとする動機が存在可能なのは、勝敗の不確実性ということがあるからである。もし戦力の優劣で勝敗が決定されるのなら、戦力が劣った側が戦争に訴える合理的理由は存在しないだろう。負け戦ほど理に合わないものはないからである。

しかし、勝敗のゆくえが不明であるからこそ、ブラフが可能になる。ブラフの存在は、単なる勝敗に対する認識論的不確実性を、一種の形而上学的不確実性に変える。少なくともそれは、事実認識を増やすことによって克服可能な、通常の意味での認識論的不確実性ではない。というのも、勝敗は部分的には死の覚悟――死を冒す主体の自由な意志に依存するからである。

時々刻々に変わる状況と主体のかかわりという戦場の現場に身を置いている軍人にとって、自由と運(テュケー)とのかかわりほど身近なものはない。「勝敗は時の運」というわけだ。好機を機敏にとらえることによって主体の可能性が開け、その可能性を利用して次の好機を見出さねばならない。このような主体にとって自由とは、好機(テュケー)を呼び込み、それを生かすことに他ならない。
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Posted by easter1916 at 01:13Comments(0)哲学ノート

2018年11月02日

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

人は自分の生活、自分の感性が本当に自分のものなのか、いぶかることがあろう。自分の考えが誰かからの借り物にすぎず、自分のちょっとした仕草やクセさえ、テレビや映画の真似事であるのに、それを忘れていることがある。たいがいの我々の欲望は他人の欲望の模倣であり、ほとんどの思考の断片やその表現は、他人の言葉の模倣から始まっているのであるから、それも当然なのだ。カズオ・イシグロのこの作品は、そんな誰でもが時には感じる不安に焦点を当てている。(十代の主人公たちが集団生活をしている)「コテージ」での生活について、次のように記している。
 
…コテージの先輩カップルについて気付いたことがあります。…それは、先輩の行動の多くがテレビからの物真似だったということです。(早川文庫版 以下同様p-185)

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Posted by easter1916 at 01:43Comments(0)批評

2018年10月23日

『ハムレット』について

何の奇跡も神秘も存在しない近代世界において、芸術作品はその世界が隠蔽している不条理や亀裂を暴露する役割をおう。それはありのままの世界の写実ではありえない。ありのままの写実では、真実の隠蔽に加担することにしかならないからである。ありのままに流れる日常に何の違和感もなく従う人々とは別に、それを当たり前とは見ない見方、芸術の見方はどのようにして生まれるのであろうか?

例えばセルバンテスは、10年間にわたる流浪によって、同時代のスペインから無理やり引きはがされることによって、世の中と違和によって隔てられた主人公という主題を得ることができた。浦島太郎のような経験をしたセルバンテスは、騎士物語の理想主義によって現実不適応を起こすドン・キホーテを造形したのである。
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Posted by easter1916 at 02:40Comments(0)批評

2018年10月16日

樹木希林さん

山形新聞 「ことばの杜」への投稿

「美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに」 (樹木希林)

樹木希林さんが亡くなった。女優として確かな力量で、多くの作品に貢献したが、上記のテレビ・コマーシャルで憶えている方も多いだろう。カラーフィルムの宣伝である。その演技も相まって、何とも言えないユーモアが漂う仕上がりになっていた。CMとしても成功したはずだが、もともとのセリフでは、「そうでない人も美しく」であったと言う。スポンサーにセリフの改変を提案するのも大した度胸だが、もとのセリフだったらこれほどのインパクトは不可能だったろう。「それなりに」が受け入れられたのも当然である。「そうでない人を美しく」写したら、もはや写真ではない。そんなものは消費者も望まない。ありふれた誇大CMとして受け流されてしまうだけだ。ここで彼女は、「美醜」の判断とかコマーシャリズムをめぐる我々の欲望自体を、さりげなく揶揄しているのである。

思えばこの人は、自分の置かれた状況に対する批評精神で際立っていた。コマーシャルや映画といった巨大な金と欲望が渦巻く場所で、自らを保持し続けることは難しい。「異色芸人」とか「個性派俳優」といった触れ込みも、売れ筋を狙う一様な身振りに流れ、強制された文脈での凡庸な類型を演じるだけに終わってしまうからである。そこからのどんな逸脱も、芸能産業全体への重大な裏切りとして罰せられかねない。「批判的な意見」の表明など何の意味もない。そんなものはすぐカットされるか、歪曲して伝わるだけだ。

要するに、強制された文脈を巧みにすり抜け、自分を韜晦すると同時に表現する高度に批評的な英知が必要なのである。樹木希林さんは、軽やかな機知でそれらの力をしのぎながら、自らの品位を少しも汚すことなく、見事に天職を全うされたと思う。

 あるほどの菊投げ入れよ棺の中(漱石)
  
Posted by easter1916 at 19:08Comments(0)日記

2018年10月01日

マクベスの末路

沖縄県知事選の勝利を祝福したい。

私のように、この選挙をもともと悲観視していた人も多いだろう。これまでにも、大かたの希望は無残に裏切られてきたからである。

それだけに、今般示された沖縄の人々の英知には、頭の下がる思いである。あなた方は、我々よりずっと困難な状況においても、勇気ある決断を示されたと思う。

翁長氏の志を継ぐことは、単なる弔い合戦ということではない。真実の歴史を引き受けるということである。祖先が被った苦難の歴史を無視して、アメリカの意志を無批判にごり押しする者たちに対して、歴史を引き受ける者たちが勝ったのだ。この意義ははかり知れない。

玉城氏とその支持者のありさまが写る映像の中で、創価学会の三色旗が力強く打ち振られていた。四分の一以上の数で示された学会員たちの良心は貴重である。あの三色旗は、本土の学会員に対しても勇気を与えるだろう。欲に目がくらみ、腐敗堕落した公明党指導部の終わりは近い。こうなっては、憲法改悪どころの騒ぎではないだろう。 

これからは、マクベスの終焉のようなアベやスガの末路を、ゆっくり見物することにしよう、泡盛でも傾けながら。
  
Posted by easter1916 at 03:52Comments(2)時局

2018年09月22日

『1987、ある闘いの真実』

チャン・ジョナン監督の映画をシネマート新宿で見た。期待通り、重厚な作品である。何度かの革命を経験した韓国の映画は、このようなテーマを描けば世界随一かもしれない。革命を実際に同時代の出来事としてごく身近に経験した人々が、まだ社会の中枢で活躍しているから、自分たちの歴史の細部に至るまでリアリティがつまっているのだ。(彼らのことを、1960年代生まれ、1980年代に闘争を経験して1990年代に30台の連中という意味で、386世代と言うらしい)

結局は全斗煥大統領を倒した革命は、ソウル大学生の拷問虐殺に対する人民の怒りに発していた。

今回の映画で、特に印象的だったのは二点。まず第一に、革命が進展する節々で、本来ならば体制を支える中心にある人々、検察官とか、公安部長とか、刑務所の保安係長とか、看守といった人々の中に、独裁者の闇を暴くのに大きな役割を果たす人々がいるということである。検視を担当する医者とか、刑事法の手続きにこだわる検事とか、カトリック教会とか仏教寺院のような宗教結社も、それぞれの持ち場持ち場で専門的権威を盾に抵抗の拠点となっている。もちろん、報道も例外ではない。ただ、報道は権力から最も目を付けられやすく、したがって易々とその面目を失ってしまうのだが、同時にいったん火が付くと、最も激しく燃えて革命を呼び寄せる力にもなるのである。映画の中では、はじめ沈滞した退嬰的雰囲気に包まれていた報道部に、革命が波及し始めるありさまがリアルに描かれていた。

いずれにしろ、このことは革命が決して(単一の価値理念という意味での)何らかのイデオロギーの問題ではなく、正義と真実の問題であることを鮮やかに示している。つまり、非常に異なった価値理念を持つ人々が、真実の暴露を要求し、正義を求めるとき、革命が俎上に載せられるのである。それに対して、権力を私物化する連中は、ますます無法な暴力や暴力組織に頼らざるを得なくなる。その結果、法秩序の担い手自身の中に、大きな亀裂が走り始めるのだ。

もう一つ印象に残ったのは、拷問やリンチといった汚れ仕事を担う悪役でさえ、単なる矮小な人物ではないこと。治安本部の中でも特に「対共」と呼ばれる反共治安機関のパク所長(キム・ユンソク)は、ナチの突撃隊のような無法者たちを束ねる悪逆非道な人物ではあるが、決して私利私欲で動く矮小な人間ではなく、極めて明確な使命感に突き動かされる信念の愛国者である。脱北者でもあるこの人物を深く掘り下げて描いたことで、この作品は一段と高い品格を帯びることになった。

観客の中には、顧みてわが国の現状を嘆く声が当然上がるであろうが、これが本物の市民革命の経験を経た国と、それを経ないで形ばかりの張りぼて「民主主義」で満足している政治的後進国の違いである。
  
Posted by easter1916 at 04:28Comments(0)批評