2021年02月06日

東京オリンピック絶対反対

かつて(2013年1月31日)私は「東京オリンピック絶対反対」を表明している。あの折は、イスタンブールという有力な候補者があったので、いささか楽観していたのだが、まことに残念な結果になったのは周知のとおりである。後々明らかになったところによると、招致委員会は賄賂として200万ユーロ以上の金をつぎ込んだとして、竹田恒和会長はフランス検察の訴追から逃れるために、IOC委員もJOC委員もやめて逃げ回っている。すでにわが国は国際的に大きく信用を失ったばかりでなく、オリンピック自体が金まみれ嘘まみれであることを白日のもとに晒してしまった。
 少し調べてみると、歴代のIOC会長は、異例に長い間その役職についていることがわかる。ブランデージ氏(1952〜1972)サマランチ氏(1980〜2001)ロゲ氏(2001〜2021)バッハ氏(2013〜)ほとんど20年という間、その地位についているのである。おそらく彼らをやめさせる合法的な方法が確立していないのだろう。これでは、腐敗しない方がおかしい。
 モハメド・アリの時代には、まだいくらかオリンピックには存在意義が残っていた。その金メダルを川に投げ込む程度の意味はあったからである。その表彰台も、トミー・スミス、ジョン・カーロス(そしてピーター・ノーマン)をのせる為には有益なものであった。しかし、今やそんなものには何の意味もないだろう。電通をはじめとする利権関係者にとって以外に、こんなものに何のニュース価値もない。もはや、オリンピックは廃止すべき時がとっくに来ている。 
 今般、森喜朗大会組織委員会長が何ともお粗末な発言を垂れ流して、世界中の笑いものとなっている。この機会に、どんなに不合理であっても、どんなに多くの反対があっても取りやめにすることができない愚かな政策を、あっさり取りやめにすることになるとしたら、愚かしいことだとは言え、大いに愉快なことである。



easter1916 at 00:13|PermalinkComments(0) 時局 

2021年01月29日

イシドロ・リバス神父の葬儀

リバス師は、私が駒場の学生時代居住したザビエル学生寮の寮長をしていたイエズス会の神父である。リバス神父が91歳で永眠したという訃報に接し、イグナチオ教会で執り行われたリモートのミサに参加した。
https://www.youtube.com/watch?v=0_W-obXbL_I
その死を悼み、私の狭い経験の範囲で見た神父のお姿について、思い出を書き記しておきたい。
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easter1916 at 05:14|PermalinkComments(2) 日記 

2021年01月27日

デカルトの読者

『方法序説』について書いたことに対して、批判をいただいたので、それについての私なりの返答をやや詳しく述べておこう。
 デカルトの普通の読者は、思考内容と思考態度を区別し前者を悟性、後者を意志に基づけるデカルトの考えに同意している。フッサールのように、前者を志向的内容として現象学的還元を通しても確保できると見なしている者もいる。しかし常々私は、Bedeutungの存在をSinnの探究の前提とするフレーゲ流の意味理論に共感を示してきた(「悪魔の現象学的還元」をめぐって、シェーラーを批判した若いルカーチの機知を引用したのも『読む哲学事典』p−142、それを示唆するためである。このエピソードは、パトナムの「外在主義」と並置することによって、さらに明確な意味を獲得するだろう)。
 だが、デカルト自身に即しても、悟性と意志の峻別などという安易な態度、または現象学的還元などという姑息な手段が、明晰な意味理解に結びつかないことを示すことができる。そのことを、先のエントリーでは示したつもりである。そのために、デカルトを読む従来とは一風違った文脈を、文学の伝統に求めたのである。哲学の研究者の中には、文学的教養が欠如していることを誇る手合いさえ稀ではないからである。そこで、「より普通の文体」でデカルトの意義について語ることにしよう。
 我々が思考しているつもりでも、何も思考していないことはないのか? 私が思考しているつもりでも、それを思考しているのは私でないことはないのか? 何が「思考」であり何が「思考」でないのかは、それほど自明なものなのか? たとえば、私が欲望しているつもりでも、本当にそれを欲望しているのは他者であった、というようなことはないのか? 私の無意識の「思考」が他者の言葉であることはないのか? これらのことを考えるにあたって、私の存在や私の認識についての従来の道具立てで十分なのであろうか?
 デカルト自身は、欲望を欲望の志向的内容部分(命題内容)と、欲望するという命題的態度の部分に分析する、ということで満足していたとは思えない。おそらくは、欲望は意志とは区別されて、身体に属すものとされ、精神の活動とは見なされなかったであろう。
 ここで、アリストテレスのアクラシア(意志の弱さ)の議論を参照するとどうであろうか? 酒を飲むとこが健康に悪いと知りながら酒を過ごす人は、健康を欲求し、酒を飲まないことが健康につながると信じているにもかかわらずつい酒を飲んでしまう。この問題を解決するために、デイヴィドソンはprima facieの欲求と信念という観念に訴えた。prima facieには、酒を飲まないという意志的行動を帰結する欲求と信念の組と、酒を飲むという意志的行動を帰結する組とが存在していると考えることができる。後者は、快楽を得たいという欲求と酒を飲めば快楽が得られるという信念である。いずれもprima facie な欲求・信念の組であるが、そこから実際の帰結した意志的行動からさかのぼって、真の欲求と信念を行為主体に帰属することができるのである。
 はたして、prima facieな態度は、主体に帰属できるものなのであろうか? 決断に届かない限り、それらは心の中を浮遊していたにすぎないものであろう。それらを「考えている」と言える実体が存在するという眼目がない。それを考えるもの(それが魂であれ人格であれ)の同一性が問われないからである。ここでも「存在」は「同一性」に準拠して導入されるのである。帰属の同一性がない限り、それらは「私の」思考内容とは言えまい。ちなみに、フロイトの無意識は言語的に構成されているから、おおむねこのような潜在的文脈を置くことによって合理的に説明できるものである。それは、ショーペンハウアーの「盲目の意志」のごときものでは決してない。
 ここで帰属主体とされる私は、人格(身体を備えてさまざまな行為を帰属し得る実体としての人物)であり、魂のように同一性の確保に困難のある幽霊的実体ではない。それはあくまでも時空的に定位され、公共的に同一性が確保できるような身体を備えた実体なのである。
 しかし、「私」をめぐる問題は、これだけでは片が付かない。というのも、同一性規準が明確な通常の単称名辞(固有名)と違った言語使用が「私」には存在するからである。これが事態をややこしくする元である。ヴィトゲンシュタインによって指摘され、後の人々に大きな影響を与えた、指示対象の同定に基づかない「私」の使用である。多くの場合「私は思う…」は、私の同定に基づかない。したがって、ここでは同定に基づく誤りから免れている。たとえば、「私はこの部屋を暑く感じる」という言明が、誰かがこの部屋を暑く感じているのであるが、それは私ではなかった、ということによって誤ることはあり得ない。これに対して、「私は犯罪者の子供である」という言明は、このクラスの誰かが犯罪者の子供であるが、それは私ではなかった(私は自分の親が犯罪者だと思い違いをしていた)ということがあり得る。これは誤同定を通じた誤りである。固有名(田島)を使えば、前者のような場合は存在しない。誰かが「暑い」と声を上げたのを聞き、「田島がこの部屋を暑く感じている」と思ったが、暑いと感じているのは田島ではなかった、ということがあり得るからである。
 このような同定によらない「私」使用は、アンスコムの「意図」が「観察によらない知識」とされることとも結びついて理解されることもある。デカルトは、そこから「私」を特別な実体(脱身体的実体)だと考えたのであるが、そもそも「私」は指示句ですらないとされることもある(無主体論)。
 同定によらない「私」使用が、何らの認識も含んでいないということはあり得ない。それが悩ましい所である。しかしそれは、私について経験を超えた認識を与えているということではない。我々の知覚や意図的行動には、必ず何らかの自己知が含まれている。目の前にドアノブがあるという知覚は、私がドアの前に位置しているということを含意しているであろうし、私はドアノブに手を伸ばそうとしようという意図は、私の手の位置や私の身体能力についての一定の理解を前提としているであろう。たしかに、「私がドアノブを見ている」という知覚認識は、私の誤同定による誤りからは免れている。誰かがドアノブを見ているが、それが私ではなかった、ということで誤ることはない。また、「私はドアノブを握ろうと意図している」が、ドアノブを握ろうと意図していたのは私ではなかった、という誤同定によって誤ることもあり得ない。いずれにおいても、私が同定されているわけではないからであある。
 しかし、それらの行為は、私を環境とのつながりに置くための十分に豊かな情報連関の中に位置づけられているのである。知覚が対象の知覚として成立するためには、受動的に対象から情報を受け取るだけではなく、対象に注意を向けて行動する(例えば見る位置を変えてみる、とか焦点を合わせるなど)知覚―行動連関に置かれていることが必要だ。知覚する場所についての認識が欠けている場合、知覚認識自体もあいまいなものとなろう(たとえば、それは対象の認識ではなく、何らかの光学的錯覚かもしれない)。
 また、ドアノブを握ろうとする意図的行動が成立するためには、自分の手とドアノブの間の距離を推し量り、それを縮めてゆくための制御的連関が成立していなくてはならない。これらには、自己の身体についての何らかの自己知が含まれているのである。かかる自己知は、ベルクソンの感覚―運動的な連関にすぎず、エヴァンズの「ここ」の理解を支える情報網の活用能力のことである。このように環境世界との複雑な情報的連関を用意していることこそが、知覚や行為を可能にしているのであり、その場合の自己知はもっぱら身体的情報連関であり、概念的理解ではない。我々以外の動物とも共有しているこのような情報連関による自己知の上に、人格的概念に基づく自己知も築かれているのである。
 しかしその接合は、必ずしもシームレスになされるわけではない。その亀裂がさまざまの弁証論的幻想を生み出すのだ。カントが論じた「誤謬推理」もそのひとつである。
 デカルトは、思考をめぐる感性的(時・空的)連関と、概念的(悟性的)認識との複雑な関係を捉え損ねているのである。しかるに、それ自体は彼の罪ではなく、その精神を取り損ね、彼の懐疑を自分自身のものとして遂行することを怠り、ただその「成果」のみをかすめ取ろうとした追従者の罪なのである。なぜなら、しっかりと彼の精神を受け継いだスタンダールのような人々を通じて、その精神は受け継がれたからである。



easter1916 at 21:22|PermalinkComments(6) 哲学ノート 

2021年01月16日

市場原理主義

 このコロナ禍で明らかになったのは、公共財を次々に破壊していく「市場原理主義」がいかにこのパンデミックに対して社会を脆弱にしてしまっていたかということである。この点は、橋下徹府知事以来、維新勢力が制圧している大阪の惨憺たる医療崩壊の実態を見るにつけても明らかである。看護学校を次々と閉校にし、保健所を三分の一以下に削減し、大量に医療従事者を削減した維新の大阪は、今やコロナ死亡者最大を計測している。感染者数や感染率は、検査サンプルによって変わるが、死亡者数だけはそれほどごまかしの効くものではない。
 医療や保健衛生は、市場原理だけで合理性をはかることはできない。たとえば、コロナ患者を民間病院が受け入れるのは、経済合理性上難しい。実際、病院が入院患者を断るほどにひっ迫しているにもかかわらず、病院経営が悪化しているようだ。そのため、バーンアウトするほどに働いている看護師のボーナスが大幅にカットされているのである。
 一般に、投資に長期の観点が必要な部門では、投資のイニシアティヴをたんに私権にゆだねることはできない。安全とか、司法とか、教育とか…。医療もそのひとつである。どのような領域で、どの程度の市場的考察が必要か、可能かには議論の余地があるが、「市場原理主義」は、おしなべてその考察を排除して、投資をめぐる公共的・政治的考慮を狭隘化してしまうのである。
 これには、冷戦の終結でソ連型「社会主義」(スターリン主義)がすっかり評判を落とした結果、公共財の扱いについてすべてを市場に任せるべきだといったスウィーピングな議論がまかり通るようになったことが大きい。
 しかし、コロナ禍の下における政治の迷走には、単に市場原理主義とさえ言えないものがある。たとえば、いわゆる「go to」とやらの政策は、市場競争をゆがめる政治的介入という意味で、市場原理主義からは出てこないものである。あまつさえ東京都知事は、もっともコロナの感染にとってクルーシャルな時期に、go toに反対しなかったばかりでなく、この政策に東京都が除外されたことをめぐって、東京都をそれに含めるように、政権中枢と権力闘争を繰り広げた。この知事は、これまでも大衆の被害妄想や不公正感を巧みに動員して不毛な権力闘争を仕掛ける詐欺まがい政治手法にたけた札付きの人物であったから、このようなことも織り込み済みではあったが、いまだにこの政策がもたらした悲惨な現実には責任逃れを決め込んでいる。彼らの手法とは、自分の無策を一部の社会的弱者のせいとして責任を転嫁して、大衆を陰険ないじめへとけしかけることである。
 IRとかオリンピックとか、博打のような政策に固執することも、いかなる経済合理性とも無縁である。それらは、経済合理性を無視して国策として遂行された満州経営に近いものである。市場原理主義によって公共財が荒廃した社会の経営収益は、地滑り的に悪化する。たとえば、研究・教育という公共財の荒廃を考えてみるだけでよい。その結果、わが国の国際競争力は確実に低下した。その分を博打のような政策によって補おうとして、ますます社会が荒廃するのである。この数年、外国人富裕層頼みの観光事業に頼った地域振興に重点が置かれてきたが、それも自国の技術力ではもはや十分な競争力がなくなっている証拠なのである。そして、その観光事業こそがパンデミックに直撃されているのだ。
 ガス首相は、この事態に、あろうことか国民皆保険制度の見直しに言及した。パンデミックに対応するためにアメリカではオバマケアの拡大が検討されているときに、真逆の政策を打ち出す始末なのだ! この人は、ただおろおろしながらなすすべがないことを押し隠すために、官僚や記者を恫喝する以外ないのだ。要するに、ガス首相の頭にあるのは、公安警察・情報統制の政策だけなのだ。もちろん、このさい最大の国家機密とはガス首相の無能無策そのことである。


easter1916 at 20:38|PermalinkComments(0) 時局 

2021年01月13日

方法序説

山形新聞「ことばの杜」への投稿

「森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ち止まっていてはならないばかりでなく、あちこちとさまよい歩いてはならぬ。たえず同じ方向へとできるだけ真直ぐに歩くべきである。」   (デカルト『方法序説』第三部)


 はたして森の中で真直ぐに歩くことはできるものだろうか? 少しでも曲がっていれば、大きな円を描くだけに終わる。真直ぐに進むためには、真直ぐ進んでいるという確信だけでは不十分。普通は自分の心より、星座などを頼りにして歩かねばなるまい。
 スタンダールの『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは、家庭教師先のレナール夫人を自分のものにしようと、勇を鼓して彼女の手を握ろうと決意する。その時レナール夫人を愛していたのか? 彼は自分の意志にばかり囚われているので、彼女を本当に愛しているかどうかさえわからない。それならどうしてその手を握ろうとするのか? 自分の意志が本物かどうか確かめるためである。我々の心はしばしば我々を欺く。意志していると誤って思い込ませることもしばしばだ。ジュリアンは、その意志が本物であり、単に意志の空想ではないことを、自分自身に証明せねばならない。心に執拗に絡みつく幻想を払拭して、真の意志・真の思考を確保せねばならない。これこそデカルト的な懐疑の精神だ。
 何を疑おうとも、疑う私の存在のみは確実だ(われ思う、ゆえにわれあり)、などとデカルトが述べているからといって、それを鵜吞みにするようではいけない。「しつけ」と称して子供を虐待する親は思い違いをしているが、ともかく何かを考えてはいる、と言えるだろうか? デカルトは感情に任せて行動するような心理作用を、思考とも意志とも見なさなかった。そんなものは感情の嵐でしかない。それは、精神よりも身体に属している。
 しかし、ジュリアン・ソレルが意のままにならない自分の心を感じ、自分の意志の確証を求めたとき、その潔癖な懐疑の姿勢においてこそ、まさに彼はデカルトの申し子であった。


(補論) 手を握ることは、感情の現はれでしかない場合もさうでない場合もあるでせう。デカルト的態度は、それを自分の真の意志と言へるかどうかを吟味することです。では、どのやうにして吟味できるのか? それは、そのほかの自分の行動や経験との関連を考へることによるしかないでせう。妻を愛してゐると思ってゐてもいつもDVをする人は、本当は愛してゐるとは言へないようなもの。この経験の全体的連関を思考や意味にとって本質的と見なすことが、デカルトには欠けてゐるのです。観念をひとつひとつ単独で明晰かどうか考へるからです。「森の中をまっすぐ進む」ことに対する私の疑問で示唆したかったのは、この点です。デカルトのもっともすぐれた点は、後にスタンダールやヴァレリーのやうなフランス文学に受け継がれました。我々がその精神を生かすためには、デカルト自身をも批判する必要があるのです。


easter1916 at 18:41|PermalinkComments(6) 日記 

2021年01月11日

拙著新刊

拙著新刊『高校生のための人物に学ぶ日本の思想史』(ミネルヴァ書房)佐伯啓思編 が出版された。

https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB16%E6%AD%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%95%99%E9%A4%8A%E8%AC%9B%E5%BA%A7-1-%E5%85%AC%E7%9B%8A%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%AB%98%E7%AD%89%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80/dp/4623090345

私はそこに、宮澤賢治論と、太宰と漱石の比較論を寄せている。
 一応16歳の青年をターゲットにしていて、「高校生のための」と謳っているが、私自身は読者の年齢に合わせて水準を下げるようなことは一切していない。高等研というところでの講演をもとにしたものであるから、繰り返しを厭わない冗長な表現が目立つが、その分いくらかわかりやすくなっているかもしれない。とはいえ、公演でも口述でも、聴き手の知性を見くびって水準を下げるというようなことは、読者を侮辱することだろう。
 実際、同じ趣旨で高校生相手に講演した時も、極めて活発な議論を喚起したものである。特に私の太宰論は、聴衆の高校生から厳しい批判をいただけたのであり、今回書き改める際、『斜陽』論を補論として付け加えたのも、その時の高校生の疑問に答えるためでもある。議論に加わっていただいたすべての方に、深く感謝申し上げたい。
 一般に、年少者の知性を見くびってはならないと常々思っている。以前、小学生あての受験用パンフレットに書いた小論(『子供の難問』中央公論社 所収)でも、知的には一切妥協していない。ただ、一般の読書人には期待可能な「常識的な」知識を前提としていないだけである。もっともこのような「常識」も必ずしも期待できなくなってきた。「カリュブディスとスキュラのあいだの二律背反」と書いたとき、編集者から「わかりにくい」とクレームをいただいたことさえある。幸いこんな場合でも簡単に検索をかけられる昨今、あまり神経質になる必要がなくなっている。以前だとこんな場合、どの辞書を調べたらいいかがわからないで途方に暮れることになる。
 本書出版に際しては、時節柄、次々に順延になった。8月予定が9月に繰り延べられ、9月予定が10月になり…まるで砂漠に現れる蜃気楼のように先へ先へと遠のいてゆくのである。かねて私は、自分の文章は死後の出版にゆだねようと思っていたこともあるから、一年二年の遅れは何でもない。スタンダールが言うように for the happy few(幸福な少数者のために)書かれたものに、出版社の損害にならない程度のつつましい成功がもたらされることを祈るばかりである。


easter1916 at 06:14|PermalinkComments(7) 日記 

2020年12月27日

スピノザ解説

最近、仕事でスピノザについて少々語る機会があった。それで、以前書いたことをごくかいつまんでまとめてみた。別に真新しいものではない。ただ、スピノザに興味はあるがとっつきにくくて困っているという人のために、以下掲載しておく。続きを読む

easter1916 at 00:50|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2020年11月13日

夜郎自大

山形新聞への投稿
「夜郎自大」      (司馬遷『史記』「西南夷列伝」より)
 前漢の時代(BC百年頃)、漢がインドへの陸路を開くため、蜀(今の四川省)の西南の諸国を支配下に置こうとした。夜郎とは、その地方の一部族である。その国王は、漢の使者に「漢とこの国とではどちらが大きいか?」と訊いたという。山岳で道も通じていないところにいたので、自分以外の世界の大きさを知らなかったのである。
 これは普通、己れの小ささを知らずにいっぱしの者と自惚れる驕慢な態度のことを揶揄して使われる言葉であるが、夜朗を嘲笑した漢人も、自らを以て世界の中心(中華)と見なした点では、他人を笑えたものでもあるまい。自分の視野を世界そのものと同一視し、自己を世界の中に位置づける視点を欠くことが夜郎自大なら、「夜郎自大」という視線の内に、すでに自らの夜郎自大を含んでいるのではないか? 漢は確かに広大無辺な文明国ではあるが、それでも世界を覆うものではない。国の大小を競うなら、それは程度の差である。
 このようなことは、「教養」についても言える。漢字の読み方や外国語を知らない者は、知っている者から見れば「無教養」に見える。このような情報格差の感覚が、「教養」という観念を生むのだろう。しかし、どれほど情報に通じていても、世界を知り尽くすことはできない。むしろ、知っているつもりになることから生じる盲点の方が、ずっとたちが悪い。
 こうして、己れの世界の狭さと限界に対する謙虚な意識こそが真の教養だ、というようなややひねくれたものの見方が生まれるのだ。世に誤解されがちな「反知性主義」というものも、本当は、無知なる者たちが、知性(日本学術会議?)に対して持つ嫉妬や怨恨感情(ルサンチマン)のことではなく、知性自身が自覚する知性の限界に対する醒めた意識のことだったのである。


easter1916 at 21:18|PermalinkComments(0) 日記 

2020年11月06日

Congratulations

Congratulations , America !
It's a great honour of you fellow citizen to have saved your country and your (and our) constitutional cause from the disgraceful Joker of Trump .


easter1916 at 14:45|PermalinkComments(0) 時局 

2020年09月18日

アリストテレスの〈中庸〉

概念的意味と実在の関係について一言述べておこう。
 数の存在や場所の存在がその同一性規準や本質(たとえばペアノの公理とか座標)とともに我々の存在領域に導入されるように、実在性はその存在者の本質規定を伴って導入される。何らかのノエマ的意味に対して、魔法使いが魔法の棒を振るように、その本質や提示内容(意味)とは独立して、のっぺらぼうの実在性が付与されるというわけではないのだ。伝統的な神の存在証明に対するカントの批判に登場する「実在の百ターレル」と「観念の百ターレル」の話を一般化して、実在の意味論的役割、形而上学的身分について、軽薄としか言いようのない誤解(たとえば、フッサールの「現象学的還元」など)が広がっているので、明らかにしておきたいと思うのだ。
 もとより、「百ターレル」のような例だと、その概念の理解が、それが表示する対象の実在性を含意しないことは明らかであるが、「シーラカンス」のような自然種名や「ソクラテス」のような固有名だとどうであろうか? パトナムの双子宇宙の思考実験を待つまでもなく、フレーゲの意味の理論の枠組みでも、SinnはBedeutungの実在を前提とするはずだ。私は、このことを指摘した有名な逸話として、シェーラーに対するルカーチの機知にとんだ批判に言及したことがある(『読む哲学事典』p−142)。シェーラーは、「悪魔について、その実在の問題は括弧に入れてその現象学的吟味を行うことができる」と語ったというのである。
 存在は経験の意味の理解と不可分のものとして導入される。このことを非常に印象的に示すものとして、アリストテレスの〈中庸〉の観念を参照しよう。アリストテレスの〈中庸〉は、両極端の悪徳をたして二で割ったものが美徳であるというのではない。勇気が臆病と向こう見ずの中庸であるのは、「危険を嫌う性格」と「危険を好む性格」というそれ自体は没倫理的な規定を、勇気という美徳の発見によって、二種類の欠如として再定義するということである。
 勇気は、重装歩兵の戦法から、もっとも有効に力を引き出すという観点から、絶妙なバランスが決定されるという事に基づいている。この実在する一点の発見こそが、勇気を勇気として際立て、臆病と向こう見ずを、それぞれ勇気の欠如として、二つの悪徳として再規定するのである。
 ここでは実在(とその発見)こそが、その不在・欠如をあらためて差異化するのである。実在は自らを勇気として際立てることによって、他をその欠如として際立てるのであり、その逆ではない。ここにはアリストテレスの自然学(『デ・アニマ』)を貫く主題がある。ここにある非対称性を見逃すことはできない。実在と非実在、発見と隠蔽、真理(アレーテイア)とその欠如のあいだの非対称性に注目することこそ、古代ギリシア人の知恵であり、ダメットが反実在論と呼んだものの中心眼目なのである。
 勇気の例に見るように、実在が意味を伴って、あるいは一つの意味として生成するとき、実在性とその意味とを切り離すことができないのは明らかである。
 たしかに、「存在」がいわゆるレアルな(事象内容を規定する)述語ではないことはその通りであるが、それは存在が意味理解にかかわらないという事ではない。それはしばしばレアルな述語の意味理解そのものを可能にする。たとえば、「勇気がある」というレアルな述語は、勇気の実在によってはじめて可能になるのだ。
 意味と事実、本質と実存を峻別する通俗的意味理解を越えて、新たな実在の発見による新しい観点、新しい経験の可能性すなわち意味の生成に注目するなら、本質存在と区別される現実存在(一種ののっぺらぼうの実在性)の探究などに、存在論の眼目があるわけではないことは明らかである。かかる視野狭窄は、制作を意味論と存在論のモデルとしてしまう傾向――アリストテレスにおいてさえ、すでに一部始まっていた傾向――に由来しているのである。
 私は繰り返し、問題解決や証明自体を実在の生成と見なさねばならないとと論じてきた(『読む哲学事典』p−127)。さもなければ、解けなかった問題が解けるようになるという変化が、理解できなくなってしまうからである。(この変化は、指示同定できなかったものが、生成して指示できるようになる変化としてのみ理解できる。)
 そうなると、今度は問題の存在そのものも自動的に理解できなくある。解決できないことがわかっているものは、そもそも問題ではないし、解決がわかっているものも問題ではありえないからだ。解決や証明という実在が、のっぺらぼうであることはあり得ない。その生成は実在の生成であると同時に、意味の生成なのである。


easter1916 at 22:53|PermalinkComments(5) 哲学ノート 
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