2023年01月26日

山形新聞 ことばの杜への投稿

私たちは何も知らない。(永井愛)
 この言葉は、劇団二兎社を主宰する永井愛さんの戯曲のタイトルだ。青鞜社に集った女性たちが前代未聞の闘いに臨んで、未来を先取りするいかなる賢しらな知恵も持ち得ないことを象徴的に示すもの。
 映画『おくりびと』で、本木雅弘さん演じる主人公が、大事な人から石ころを託されるという場面があった。それと同じようなモチーフが『パラサイト・半地下の家族』にもあったと思う。こちらの石は大きくて持ち運びにくい。つまりは持つ者を危険にさらす。いずれの作品も、地下に眠る死者たちの声なき声を主題にした美しい映画だが、石は死者からの大切なメッセージのように主人公に託される。それがいかなるメッセージなのかは、我々にも主人公にもわからない。ただ運命のように手渡され、重大な責任のように担われる。
 『パラサイト』の中では、誰かが「計画を立てるから失敗する。立てなければ失敗することもない」と述べていた。実際、未来にはっきりとした見通しを持つことは難しい。コロナや戦争を誰が予想したか? 大地震や津波が来ることは皆知っていたが、知ってどうなるものでもない。備えるにはコストがかかりすぎるのだ。
 対して、石が課す責任は違う。それが次々に難儀や災難を呼び込むとしても、ついに主人公はある明察に導かれる。結局、託された石の沈黙を前に、何をすることが責任を果たすことなのか繰り返し問い続けることこそが、その責任を果たすことなのである。借金を返済する責任ならはっきりしているが、我々が過去に負う負債は漠として測りがたい。そんな責任など感じない人もいるだろう。しかし祖先たちが果たし得なかった悲願や課題を気にも留めない連中は、身軽なのではなく単に軽薄なだけだ。
 大西洋の向こうにインドがあると信じて船出したコロンブスのように、先人たちが大きな思い違いをしていたこともあり得ないことではない。だが、それを深く認識することで我々は責任を全うする。かくて失敗や過ちさえも、未来を幽かに照らす恵みに転化するのである。それが我々に見出されるべき「新大陸」なのだ。


easter1916 at 20:20|PermalinkComments(0) 日記 

2022年12月25日

(隠喩、謎、証明)

デイヴィドソンは隠喩に、字義通りの意味とは区別される「隠喩的意味」を拒否した(『真理と解釈』第12章「隠喩の意味するもの」)。これは、「隠喩的意味」をパラフレイズによってであれ他の何によってであれ、明確に規定することが難しいということに加えて、意味というものを発話主体の理解や信念とは独立に、表現に客観的に備わった何ものかと考えているからである。そしてそれは、真理条件として与えられるはずである。そうなると、意味は理解と切り離されてしまう。
 たとえば、スフィンクスの謎として有名な謎(明日に四本足、昼間に二本足、夕方には三本足で歩くものは…)のような謎、一般に「〜とは何か?」という問題の真に意味は、その答えが与えるべきものと考えられよう。だが、その答えが見つかっていない段階でも、その謎や問題が全くの無意味であったわけではあるまい。初めから無意味な問いを問うこと自体無意味であろうはずだからである。したがってここには、少なくとも二通りの意味が存在しているはずだ。当初の問いの意味と、答えが新たに与える問いの意味である。
 我々は、いまだにその意味がはっきりしない謎々の意味は、隠喩のようなものであると考えることができる。スフィンクスの謎の意味は、その文字通りの意味はともかく、その真の意味は知られていないという印象を持つ。それが人間だと言われても「どういう意味だ?」と問い返されるだろう。「人間だ」と答えたオイディプスは、そこで得意然としながらおもむろに解説し始める。「スフィンクスの謎が、一貫して時間性に焦点を当てていることに注意したまえ。「朝」、「昼」、「夕」というのがそれ。そこで、世界でとりわけ時間ということに深くかかわっている存在を考えてみればいいのだ。…そうすればおのずから人間の存在が浮かび上がるだろう」。このような説明は、幾分名探偵の謎解きに似ている。そこでは、いくつもの証拠を首尾一貫した観点のもとに取り集め配列して見せることが問題になるだろう。その結果、例えばそこで言われた「朝」は、必ずしも文字通りの朝であるわけではなく、たとえば「幼年期」であることが知られる。つまり隠喩であったことが知られる。言いかえると、隠喩は何らかの形でその真意を隠しつつほのめかしていたことによって、謎であったことがわかるのである。つまり、隠喩はその真偽に中立的な単なる表現技術ではなく、それを裏打ちする何らかの真理を前提としているのだ。
 数学において、「2の2乗」は2を二回掛け合わせることを意味する。一般に「2のn乗」は2をn回掛け合わせることを意味する。その定義からは「2の−2乗」とか「2の1/2乗」のような表現は意味を欠いている。しかし、2のn乗×2のm乗=2の(n+m)乗であることから、
2の−2乗×2の2乗=2の(−2+2)乗
=2の0乗=1
∴=1/(2の2乗)
この証明モドキの図解において、厳密には「2の−2乗×2の2乗」の部分は意味が与えられていない。したがってこれは証明としては無効であろう。しかし我々は、何かしらこのような説明によって、「2の−2乗」という表現に意味の説明を与えることができるであろう。それは「2の−2乗」という表現をある種の隠喩として理解することであろう。なぜならそれは、「2の−2乗」を「2を−2回掛け合わせる」という意味のみならず、「2の2乗を掛けて1になる数」という意味でも理解することになるからである。
 有名なゴールドバハの推測「あらゆる偶数は二つの素数の和で表せる」の意味は、我々が「偶数」とか「素数」とか「和」の意味を理解している限り、当面字義通りの意味を理解できていると言える側面を持つだろう。確かに我々は、4が3と1の和、10が7と3の和などで表せるということを理解できている。しかしすべての偶数を見通すことができるような立場に未だ立ち得ていない限り、この推測を理解できているわけではない。それはちょうど、「2の−2乗」を「2を−2回掛け合わせる」という意味だけで理解しているような状態である。あるいは「北海道は三角形である」という隠喩表現の意味を、「北海道」や「三角形」の(真理条件への貢献という意味での)Bedeutungだけから「理解できている」ような状態とも言えよう。我々は、北海道を真横から見るというような視点を与えられて初めて、この隠喩表現の意味が十全に理解できたと言えるのである。このような見方を与えるものこそ、証明に他ならない。
 したがって我々としては、デイヴィドソンと違って、隠喩の意味が与える意味が存在する、あるいはむしろ隠喩表現の意味の説明(証明)によって与えられる意味が存在すると言うべきであろう。
 一般にある言語表現の意味は、定義とか真理条件の習得によって、くまなく十全に与えられるものではない。特定の表現の適切使用条件の習得が、それ以後の一切の使用基準を確立するというような見方は、まことに非現実的であろう。むしろ我々は当面の言語習得(有限の事例の習得)によって開かれた言語実践を通じて、当初考えられていなかった使用場面に導かれるのであり、そのことがしばしば弁証法的問題を生み出すのである。我々の言語理解は、それらの諸問題を首尾よく解決することを通じて、世界の在り方の認識と同時に深化し拡大する言語の認識へと開かれているのである。


easter1916 at 03:20|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年12月14日

(4)つけたし

(つけたし)
 デリダは、ラカンによるポーの小説についての有名な読解(『エクリ』の冒頭を飾るセミネール)を批判する一文をものしている。Le facteur de la verite である。
 この批判は注目すべき論点を含んでいるが、ここではそこに深く立ち入ることはできない。ただ、その批判の必要をデリダに感じさせたものを、推測することはできる。ラカンの議論は、まさにデリダの〈声〉の議論に欠けているものについて語っていたからである。デリダは、声というシニフィアンたりうるものについて語りながら、ついにそれがどうして意味と結びつくシニフィアンとなるかということには、少しも触れることができていないが、ラカンの議論はまさにこの点を明らかにしているのだ。
 つまり、ポーの小説『盗まれた手紙』の中の手紙(シニフィアン)が、王妃から大臣、大臣からデュパンへと移動するというアレゴリーの中で、母のファルス(phallus)の欠如が、いかにして幼児にとってすべての言語を可能にするシニフィアンになるかの解明である。ファルスそれ自体は何も意味しないにもかかわらず、全ての欲望の(抑圧された)シニフィアンになるというエディプスの構造の見事な説明がここにあった。
 それに対するデリダの反論は、いささか難解なものではあるが、全面的な批判にはなっていない。手紙は誤配送されることもある――シニフィアンは当初目指されたシニフィエを達成しないこともある、と言うだけだからである。たとえば、王妃(母)のファルス(の欠如)が、過たずその目的地(たとえば「正常な」異性愛)に行き着くとは限らない。もちろん、そんなことはラカンにとって自明のことに過ぎなかった。だからこそ、ポーの小説が、ポー自身の意図を越えて、さまざまな読解に開かれていたからである。それは、同じ言語表現が別の文脈で異なる意味に用いられるという比喩の問題(文脈 の自由という問題)である。ラカンはそれを、「クッションの綴じ目」として定式化することになる。(ちなみに、ここで「文脈の自由」というのは、フレーゲの「文脈原理」とは何の関係もないので注意!)
 だが問題はそれ以前に、いかなる欲望であれ、それを意味する意味作用が、そもそも何の意味もない所にいかにして起ち上るか、我々を象徴界へと飛躍させる最初の一歩が、いかなるトラウマ的出来事によってもたらされるか、また反復されるかを示すことであった。
 つまり、ここでファルスは、私論では「死者の名」の役割を担っているということである。「差延」(例えばヴィブラート)とか、「代補」(たとえばオナニー)とか、「(原)エクリチュール」(たとえば、狩りの成功ごとに木の幹に、または投げ槍などに刻まれたしるし)などはすべて、言語獲得以前に自然状況の中に見られる現象であることは明らかであるから、これらを強調するデリダの議論が、言語がもたらしたトラウマ的断絶を否認するものになっていることがわかる。ラカン派であれば、これも去勢否認の一種と見なすであろう。

(あらずもがなのつけたし)
 フレーゲ的意味理論に対して、フォースの違い(言語行為論でいうパフォーマティヴの違い)を未決定のままでは、意味理解の基礎たる真理条件を知ることができないという反論がなされることがある。フレーゲ的枠組みでは、真理条件の理解を基礎にしてSinnが確保され、それをもとにしてフォースの違いが論じられるという順序になっている。それゆえ、フォースの理論はSinnの理論に「寄生」していると言うこともできるかもしれない。もし、その発話が演技なのか真面目なのかを確定できないのだとしたら、その適切使用条件として真理条件を習得することもできないだろうという反論ができるだろうか? もちろんできない。個々の発話を単独で取り出してそのフォースを直ちに見て取ることができないからと言って、その発話の文脈を知ることが原理的にできないことにはならない。発話内行為は、その使用文脈のコンヴェンションによって決定されるのであるから、もしその文脈が原理的に理解できないのであれば、言語行為論そのものが意味を失うはずである。言語行為論に依存しながら、Sinnの理論に反論するのは無理筋であろう。言語現象の多くは全体論的性格を持っていることを忘れてはならない。
 国会で開会を宣言するとか、結婚式場で結婚を宣言するとか、進水式で命名するとか…それぞれの言語内行為にはしかるべきコンヴェンションが決まっているのであり、それらに紛らわしいケースがあることは、それらのフォースが原理的に確定しないことにはならないのだ。実際見紛いようのない主張的発話行為が存在するのであり、それら典型的ケースから真理条件を学ぶことに原理的困難はない、と言うだけで十分である。
 もしそうでないとしたら、どうしてSinnが習得されよう。そして、Sinnの理解のない所で、どうして発話内行為が理解し得よう。ド・マンは「どこが違う?」という発話は、質問というフォースも、反論というフォースも持ち得ると言うが、その発話と「アブダカタブラ」という発話とを区別するものはないのか? 明らかに後者は、質問にも反論にも使用できない。この差を生み出すのがSinnである。ド・マンの議論は、それ自体この言語表現のSinnを前提にしているのだ。あまりにも常識的な指摘で恐縮ではあるが、健全な常識を思い出すことも時には必要であろう。
 概してデリダは、「手紙の誤配送」について語るさい、ファルスというシニフィアン(シニフィエなきシニフィアン)が欲望の意味作用を生み出すさいの機能不全の問題から、情報の劣化現象とか、名宛人に届かないコミュニケーションの不全といった現象へと横滑りしてゆく傾向がある。前者の問題は確かに意味理論の問題だが、後者はたかだか言語行為論の問題。
 この事情は、隠れキリシタンに伝承されたオラショと呼ばれる聖歌のことを考えてみればわかりやすい。それが当初の名宛人(長崎のまたはスペインの信者たち)とは違う人(皆川達夫のような音楽学者)に届けられたという意味での誤配送。またそのメロディが元の聖歌の音程を隠滅しながらも、その上がり下りという大まかな進行においては、かろうじて保存していること (たとえば長崎県生月島に伝承された『ぐるりよーざ』はO gloriosa Dominaが元歌であることが知られている)。
 メロディがシーニュのひとつでありながら、言葉と違うところがここに現れている。古代の碑文とかテクストであれば、それが隠滅によって解読不能になることはあるにしても(その場合にはそれはもはやシニフィアンではない)、それがシニフィアンでありテクストであるかぎり、依然としてもともとの名宛人にとってと同様に解読可能であろう。その同じテクストが、もとの名宛人と現代の我々とで異なった文脈で異なった理解を持つとしても、その理解はテクストの語彙がもともとの真理条件で与えられた意味を前提としたものであることは揺るがない。もちろん、「ロゴス」とか「アレーテイア」といった言葉が古代語として担っていた意味を、現代語に正確に翻訳することが難しい場合もあろう。しかしその場合でも、我々は古代人の信念を可能な限り全体論的に動員することによって、必ずしも逐語的にではないにせよ、理解に接近することができる。
 より重要なことは、古代人の文脈と我々の置かれた文脈の違いが、創造的な解釈に資する場合があるということ。これは、一定の言語表現が当初想定されていなかった文脈に置かれることによって、新しい用法を発見させ、そこに新しい真理を見さしめるという意味で、一種の隠喩と言えよう。私自身がよく用いる事例では「北海道は三角形」という隠喩。この隠喩表現が有意味になるのは、それが新しい見方(北海道を真横から見る)を提案していることが了解される場合である。このように適切な隠喩は、我々に新しい洞察と可能的経験の拡大をもたらす。その点で、数学の証明に似ている。2の−2乗とか、2の1/2乗を考えてみればよい。
 しかしこれは、決してデリダが言うような「手紙の誤配送」ではない。それは、新しい名宛人に届くとしても、すでに古い名宛人を前提にしている。つまり、「三角形」「北海道」などのBedeutungを前提としている(あるいは−2や1/2のBedeutung)。隠喩や証明は、それをもとにしながらこの文の適切使用条件(Sinn)を変更する。それこそまさに、「証明が命題のSinn を変容する」というヴィトゲンシュタインの『数学論』とくに「概念変容論」のポイントであった。
 デリダは、「手紙の誤配送」という隠喩を、いつしか文字通りのものとしてしまう傾向を示す。それは、彼の理論の中には、自然的事物の中にシニフィエを立ち上げる理論装置が全く欠けているため、すでにシニフィアンということで一定の情報を運ぶツールであることが暗黙の前提になっているからである。ここで、シニフィアンに代わって情報という概念に訴える所が症候的であろう。言語を、免疫や、遺伝子や、神経伝達… など(これらをデリダはエクリチュールの一種とみなす傾向がある)に汎通的な情報の一種として取り扱うことは、言語的シニフィアンの特異性を無視することによって、結局は自然と言語の間の深い深淵を無視することになるのである。これでは、加齢による遺伝子の劣化と、ラカンやデリダによる華麗な引用や地口を同一視することはできないのだ。


easter1916 at 01:08|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年12月12日

(3)デリダの『グラマトロジー」

ルソーについて論じるにあたって、デリダの作品に触れるべきであったかもしれない。デリダは『グラマトロジー』においてルソーのテクストに徹底的に即したルソー論をものしているからである。続きを読む

easter1916 at 20:42|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

近代政治哲学における自然(2)ルソーの場合

ルソーにおいては、〈自然〉は規範的価値理念として現れる。学問・芸術を人為によって自然をゆがめると批判し、歴史は、不平等を生み出しそれを拡大することで、自然から文明への頽落として描かれる。ホッブズにおいては、ただ恐怖から克服すべきものとだけ想定された自然状況は一転して文明批判の尺度と見なされるのである。続きを読む

easter1916 at 02:59|PermalinkComments(2) 哲学ノート 

2022年11月26日

【近代政治哲学における自然】(1)


 近代政治哲学における社会契約説は、さまざまな形で自然状況に言及する。自然状況において社会契約を結ぶことによって、権力や法を人為的に設立するという理論的虚構が社会契約説の骨子である。しかし、自然状況がどのようなものと観念されるかによって、そこから創設される政治社会の性格もさまざまに異なることになる。たとえば、ホッブズの想定した自然状況は、万人が万人にいかなる留保もなく戦争状態にあるという極めて過酷なものであり、それに応じてそこから創設される権力も絶対的独裁制となる。
 ホッブズの自然状況では、死の恐怖から逃れるために己れの自然権を放棄することが合理的となる。しかし、自然状況においてはいかなる約束もいつでも裏切ることが許されており、それは単に相手を欺くマヌーヴァに終わる危険がある。それでは「社会契約」が成立することは不可能であろう。
 これに対してロックにおいては、自然状況ははるかにマイルドなものと見なされている。
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easter1916 at 21:06|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年11月25日

山形新聞への投稿――イザヤから

剣を打ちて鋤と為し、槍を打ちて鎌とせよ。(『イザヤ書』第2章第4節)
 一九九〇年代、英国で核ミサイル・トライデントの配備に反対して立ち上がった女性たちの運動があった。何十人か単位で基地に押しかけ、フェンスをよじ登り、核弾頭ミサイルを金槌で破壊しようとしたのである。彼らの行動は徹頭徹尾非暴力的なものであったが、当局には大きな脅威であった。当然、彼らは目標にたどり着く前に全員検挙されたが、繰り返し仲間があとに続いた。
 逮捕された者は口々に核兵器の違法性を叫び、胸を張って無罪を主張した。やがて長い裁判闘争が続き、己れのキャリアを棒に振る者も出たが、驚くべきことには、いくつかの裁判所が彼らに無罪を言い渡したのである。そしてついに核ミサイル撤去を勝ち取った。
 女たちは、自らをプラウシェアーズと名のった。それは「鋤」を意味する言葉。引用した『イザヤ書』から取られたのである。この女たちの伝説的な闘争の記録からは、まるで彼らの楽しげな会話が漏れ聞こえてくるようだ。彼らは今でも、その娘たちその孫娘たちに向かって、自分たちの誇らしい闘いの物語を、楽しく語り聞かせるのであろう。子供たちは興奮に目を丸くしてそれを聴く。
 さて、ヒトラーのパリ占領下での対独レジスタンスを戦い、強制収容所を生き抜いた女性アニエス・アンベールの手記を読むと、その末尾にもこの同じイザヤの一節が引用されているのだ。
 かたやカトリック、かたやマルクス主義と理念の違いはあれど、両者に共通するのは、横溢する奇妙な陽気さと、前後の見境のない勇気であろう。陽気さは、危険の中にあっても信頼する仲間たちの持ち味を際立てる活動そのものの悦楽から生まれ、勇気は試練の中で同志たちが美徳を競い合う結果なのだ。地位や利得は言うに及ばず、時には家族さえも切り捨てるその厳しさは深く我々の胸を打つ(アニエスは、対独協力者になりさがった息子を義絶している)。かかる怒れるアンチゴネーたちに、永遠(とわ)に祝福あれ!


easter1916 at 02:04|PermalinkComments(0) 日記 

2022年09月27日

山形新聞への寄稿「永山正昭『星星之火』」

「全校生徒六百が、二列になりて進む時」(永山正昭『星星之火』)

 著者は戦前・戦後にかけて船員労働組合の運動に艇身した活動家。ガリ版刷りで組合員に配られた小文を集めたものが近年みすず書房から出版された。そんな中に、小学校時代の恩師を描いた文章がある。ある日、先生は『長き行列』という詩を一行一行説明してくれた。「一行づつ進むにつれて、小学生の長き行列が進み」…全国数百万の小学生が進んでゆく。そしてそのうち先生の声がいつの間にか涙声になっているのに気づく。「…行進してゆくその長い長い行列を思い浮かべてごらん…」といって、しまいには本当に泣き出してしまわれたときには、私たちのほとんどが先生と一緒に涙を流していた。
 「本当のところ、私たちは先生がなぜ泣き出してしまったのか、そのときはよくわからなかったのだと思う。しかし、先生が泣き出し、私たちもいつの間にか一緒になって泣いてしまったことで、やはりなにがしかは分かったのだとも思う」。その日に母にその話をしたら、「たちまち涙ぐんで、いい先生でよかったね、と言った」。ここで子供たちがなにがしか理解していたもの、母がそれを聞いてすぐに理解したものがあったのだ。子供こそ国の宝だと信じる人々がおり、そのような先生の姿を鮮明に記憶している教え子たちがいた。
 我々はいつの間にか、共有された厳粛さをどこかに忘れ去り、あさましいまでに軽薄な民族になり果てたようである。今の世でどこに、生徒の身を案じて涙してくれる先生がいるか? そのことで子供を祝福する母たちがいるか?
 例のごとく、永山は結局党に裏切られて、日々の身過ぎにも困る境遇に陥ったが、その晩年を華飾のリースのように取り囲む数々の友情は、いずれもこの世の常ならず美しい。革命闘争の困難が友情をことさらに輝かせているのか、それとも友情の輝きこそが革命的ユトピアのリアリティを支えていたのであろうか?



easter1916 at 22:17|PermalinkComments(0) 日記 

2022年09月26日

救国

http://sogakari.com/?p=6119

easter1916 at 01:59|PermalinkComments(0) 時局 

2022年09月18日

デカルトの自己知

 カルチャーセンターの講義で、デカルトを取り上げたのだが、どうも話題が四方に散らばりまとまりに欠けるうらみがあったので、もう一度要点を整理してみることにした。
 デカルト的自己知について再考するのは、最近永井均氏や入不二基義氏によって、デカルト的自己知に基礎づけられた存在論的議論が展開されているのに、少々違和感を持つからである。永井氏は、この現実世界とは私が存在している世界のことであると述べている(『私・今・そして神』p−100)。そして、実在性にその真の意味を与えているのは、実在の一事例でしかない私の存在であると論じている。私は、自分が存在しているというだけでそれを現実世界ということはできないと感じる(なぜなら、私が存在していても、そこで私が財務省の役人である世界は現実世界ではないからである。可能的世界に実在している私は可能的な私であり、現実世界に実在するこの私ではない、というような言い方はややミスリーディング。なぜなら可能的世界に実在している私は、まさにこの現実世界に実在している私そのものであるから)。しかしまさか永井氏がそんな単純な見落としをするとは思えない。ともかく永井氏は次のように述べている。

概念自体が現実存在によってしか理解できない者の存在を、神の存在ではなく、私の存在と考えてみたらどうだろうか。「私」という概念の意味が分かるには、まずは私自身が存在しなければならない。確かにある観点に立てば、私は多くの「私」たちの一例であるにすぎない。しかし、一例に過ぎないはずのものこそが、その概念に初めて本当の意味を付与している。(p−88)

私自身はこの両氏の所説についてよく理解しているわけではないので(たとえば、引用文での「本当の」の意味が分からない)、周到な批評ができるわけもないのであるが、この機会に感じる違和感を手掛かりに、あらためてデカルトについて論じてみようと思う。もっとも、十全な理解なく批評することは不可避であるのみならず必要でもある。そもそもテクストの「十全な理解」が著者の自己理解に一致する必然性がないばかりか、もし批評が著者の自己理解をただなぞるばかりであるなら、それは批評と言うにも値しないことであろう。
 
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easter1916 at 17:58|PermalinkComments(16) 哲学ノート 
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