2016年11月29日

偏屈哲学者の弁明(2)

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Posted by easter1916 at 20:42Comments(0)TrackBack(0)

偏屈哲学者の弁明(1)

私自身の著作について、いろんな方面から批判をいただいているが、いくらか誤解もあると思うので、少々弁解を試みよう。

そもそも、すでに書いた書物について弁解するという態度そのものが、妙に未練がましく、書き手としての覚悟のなさでしかないとも言えよう。

私もできれば、言うべきことはすっかり言ったから、あとはそこから何とでも読み取ったらいい、とばかり悠然と構えていたいものである。

だが、今日日そんなことも言ってられない。それほど日本語が崩壊に瀕しており、また出版界もそれ以上に危機状態にある。物書きも、富山の薬売りのように、自分自身で自分の本をお買いいただいた家に出向いて、一文一文解説をして回るくらいのことが求められているのかもしれない。

トーキーになる前の映画では、弁士がついて映像について解説したものである。落語でも、登場人物のセリフを語る以外に、噺家は当時の風俗や街並みや、今では使われなくなった家具に至るまで、いちいち説明してくれる。このように我が国の伝統芸能では、演じつつ解説を加えるという芸風がたくさん存在したのである。
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Posted by easter1916 at 01:06Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年11月15日

「量から質への転化」エンゲルス (山形新聞コラム)

マルクスの友人にして、有能な協力者であったエンゲルスではあるが、独立の理論家としての評価はあまり高くない。例えば「空想から科学への社会主義の発展」といった言葉がある。政治的変革をあらかじめ「科学的に」基礎づけることなどできるものだろうか? 何か変革が起こるときも、実際に政治にかかわる者には、「科学的歴史理論」よりも、「永久平和」「核廃絶」のような空想的理念の方が、よほど頼りにも力にもなる。

「量から質への転化の法則」というのも悪名高い。これに付される説明は、たいていは凡庸な常識か観念遊戯の域を出ない。水を少しづつ温めていけば、百度のところで沸騰する…といった類い。つい「それがどうした?」と言いたくなる。

しかし、これを「物事にはそこから始まる最初の時点はない」(『自然学』第六巻5章)というアリストテレスの言葉に照らして理解するならば、そこに重要な洞察が浮き彫りになるだろう。つまり「意味の変化が現れるとき、それは回顧的にしか語り得ない」ということである。ひとは恋に落ちるとき、この瞬間から恋をし始めると意識することはない。誰しも、すでに恋してしまっていたのに気づくだけだ。そのとき、これまであいまいだったさまざまの行動が、一挙に恋のしるしという意味に輝き照らされる。おそらくは、密かに恋心は芽生え始めていたのであろう。それが量的変化。しかし「これが恋!」と気づくことによって、これらすべてが全く新たな意味から解釈される。これが質的変化。ある時代には「不良の音楽」とされていたビートルズが、顧みて新しいカウンター・カルチャーの先駆けであったことがわかる。いつでも意味は、遅まきながら事実の後を追って現れるのだ。それゆえ、何が起きようとすべて想定の内として説明できると思い上がっている知性は、しばしば新たに現れつつあるものを見逃してしまうのである。
  
Posted by easter1916 at 17:16Comments(0)TrackBack(0)日記

2016年11月14日

The arc of universe is long.

The arc of universe is long, but it bends toward justice.

This line was spoken by Dr. King just after the march of the Civil Rights Movement was turned back in 1966.

These words were reappeared again embedded in the victory address of the president Barak Obama on November 5th 2008 .

After a long time of difficulties and struggles in the history , there comes the critical moment that the steps of the history bends once again toward justice.

One year or even one term may not be enough to get there , ”but I promise: we , as a people , will get there “ spoke Obama to the public in the Grant square , who easily understood that “there” meant the “promised land” words spoken by Dr. King.

It was shown by the people’s chant ” Yes, we can” suddenly arisen from the crowd of 200,000 people who filled the square.

Recently the person who insulted and demolished the American tradition of the Constitution so radically was elected to the President.

In the face of this disaster a lot of people might be worrying about their future and despairing bitterly.

But they should remind the continual ups and downs of the huge tide of the history and keep in mind that “the long arc of the history still bends toward justice”.

  
Posted by easter1916 at 18:10Comments(0)TrackBack(0)時局

2016年10月21日

Davidsonの言語哲学

デイヴィドソンの言語哲学ついて、初期から後期に至るまで一貫して見られる盲点について論じてみることにする。  続きを読む
Posted by easter1916 at 21:37Comments(5)TrackBack(0)哲学ノート

2016年10月03日

『ヨブ記』再論

このたび、並木浩一氏の『ヨブ記の全体像』(日本キリスト教団出版局)を読んで、大いに学ぶところがあったので、私の『ヨブ記』に対する見方を再検討することにした。

並木氏の本で特に啓発されたのは、ヨブ記作家の立場を、『申命記』に代表される正統イデオロギーとの対立において、論争的にとらえるところ、並びにその時代の問題を背景として見る必要があるという指摘である。

その結果、従来の私の見方を一部修正する必要があると考えるので、以下、『ヨブ記』全体について概観してみたい。
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Posted by easter1916 at 03:48Comments(8)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月23日

倫理の戦線

山形新聞への投稿。今回はアリストテレス。

「戦闘において総退却が生じるとき、一人が踏みとどまると、もう一人が踏みとどまり、さらにまた他の人がとどまるというようにして、〔反撃の〕最初の出発点〔が確保される〕まで続く。」アリストテレス『分析論後書』第二巻19章

古代ギリシアの陸戦では、重装歩兵団と言って、盾をぴったりと並べ立てて戦う形をとっていた。この戦闘形式がギリシア人に与えた精神的・政治的意義は、いくら強調してもしすぎることはない。同僚とごく身近に接して戦うので、自分の勇気は直ちに同僚に伝わり、逆にいかなる恐怖心もすぐに伝染する。ここから互いにあい励ます連帯の重要性を、彼らは肌で学んだのだ。

かつて東京湾の谷津干潟が、ゴミ捨て場とされて荒廃の極みに達したとき、森田三郎という一人の新聞配達員が起って、黙々とゴミ拾いを始めた。少年の時に潮干狩りをした思い出が、彼を突き動かしたのである。何年もの間、森田氏は一人孤独な奮闘を続けたが、やがてその活動は周囲の人々を動かしていく。その孤独な戦いを見守る心弱き人々の気持ちを推し量ることはたやすい。初めは嘲笑し、やがて当惑し、ついには恥じつつも、なかなか声を上げることができない。そんな人々が、それでもやがて大きなうねりを作り出し、ラムサール条約への登録を勝ち取り、干潟の保護につながったのだ。

我々でも、一人くらいはいいだろうとばかりモラルの戦場を放棄すれば、それが他人にも感染し、たちまち社会のモラルは瓦解に瀕する。しかし皆が潰走する中にあっても、踏み止まる人はいるものだ。その最初の一人になるほどの勇気はなくとも、二人三人と踏みとどまって作り出された戦列に並ぶくらいの気概は誰にでもある。それによって、不可能と見えたものが可能になる。味方に数倍するペルシアの大軍を撃破し、そこから永遠に色あせない文化的偉業の基を築いたのも、もとはと言えばそんな諸個人の連帯に基づいていたのである。
  
Posted by easter1916 at 23:13Comments(0)TrackBack(0)日記

2016年09月12日

パリサイびと

パリサイ人とは、ユダヤ教の改革派で、サドカイ人と対立していた。サドカイ人は、ユダヤ社会上層に位置し、ローマ帝国の支配とも妥協する必要上、律法を緩める傾向があった。

そんな彼らに対して、パリサイ人は律法を立て直す改革派として登場した。

イエスは、いずれとも対立していたが、とりわけパリサイ人に対する厳しい批判が福音書には顕著である。

これはやや意外の感がある。腐敗した神殿勢力や、ローマ帝国支配と妥協するサドカイ人に対する道徳的批判を展開するパリサイ人に、どんな落ち度があるというのであろうか?
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Posted by easter1916 at 01:54Comments(2)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月03日

社会契約とロールズ

社会契約説は、国家を理性のみによって正当化する野心的な試みである。

だが、自然状況でいかにして約束を守ることができるかに答えることは難しい。

理性と恐怖だけを頼りに議論を進めるホッブズの言うように、自然状況が誰から見ても耐え難いとしても、そこで社会契約を結ぶことがどうして可能なのであろうか? それをしも利用して、相手を出し抜こうと考えるのが本来「自然状態」なのではないか?

ルソーの場合は、少し状況が複雑である。自然状態から始めるのではなく、文明によって堕落した自然から出発するほかない。そこで、不自然なものを取り除くことが必要となる。そのために国家の暴力が必要だろう。
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Posted by easter1916 at 22:29Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月02日

倫理的判断の真理値

以前、「Peacocke(2)倫理の法廷」2015年10月26日で述べたように、倫理学に対する私のスタンスは、ほぼアリストテレスに沿ったものである。

私の議論にお付き合いいただく人には、倫理が我々の単なる感情の表明などではなく、規範的で合理的な言語活動であることを、とりあえず認めていただくことにしよう(吟味や批判が可能な、理由づけられた発話の活動)。そうでなければ、議論に付き合うことは必要でも可能でもないからである。

もっとも議論に開かれているといっても、議論が常に決着可能だということではないし、どの倫理命題にも真偽が確定しているとか、二値原理や排中律が成り立つということでもない。これは倫理学における反実在論であるが、それは、真理値付与を一般に否定するものではない。

しばしば、すべての倫理命題に真理値がなければ、まじめな倫理的議論が不可能だと考えるような非常に素朴な議論が見られるので、この点は特に強調しておきたい。倫理命題に非認知主義を取らない(真理値を認める)ということと、倫理命題に常に二値原理は成り立つわけではないとする反実在論とは、両立するのである。
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Posted by easter1916 at 19:20Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート