2016年07月16日

鳥越俊太郎の選挙スローガン

鳥越氏の都知事選出馬によって、我が国の政治を転換するチャンスが生まれた。我々はこの機会を絶対に生かさねばならない。憲法改正を阻止しなければならない。平気で嘘を垂れ流し、言論を封殺する政治を、今こそ転換せねばならない。

鳥越氏とその支援者に対し、私としてぜひアドヴァイスしたいのは、些末な都政論に拘泥する必要などはないということである。税金の使い道とか、舛添都政における公私混同の是正なども、重要でないことはないが、このさい問題ではない。東京都よりも祖国を救うことの方が百倍も重要である。

スローガンは、ただ「安倍の暴走を止めよう!」であるべきだ。安倍から祖国を守ることにのみ焦点を合わせるべきである。敵は増田や小池ではない。ただ安倍であり、菅である。それを都民の前に鮮明にすれば、鳥越氏の出馬の意義が浮き彫りになるはずである。かつて美濃部氏は、「ストップ、ザ、佐藤」をスローガンにして当選したことがある。今、美濃部氏にはあまりいい印象を持たない都民も多いが、それでもあの時の戦略には学ぶべきものがあろう。
  
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2016年07月10日

出家

仏教思想史の研究者である佐々木閑氏によれば、釈迦によって考案された出家制度は、単に狭義の宗教的な制度にとどまるものではないという。直接の効用を離れて、道を究める修行の在り方は、さまざまの学問、芸術、芸能など各種の創造的な分野にも適用可能なものなのである。出家者は、それを信頼する在家の人々からお布施によって支えられるのである。

クリエイティヴでイノヴェイティヴな仕事であるほど、あらかじめ予想もつかず、またその効用も思いつかないものであろう。したがって、市場的価値によって評価しにくいものである。基礎科学研究の大部分が市場的に評価しにくいものであるから、それを市場的基準にまかせるなら、科学研究は壊滅的なことになるだろう。事実、その危険も現実的で差し迫ったものかもしれない。。

すぐに役に立たない研究部門の衰退は、大学院進学者の減少などの形で現れる。他方で修行者は、早い段階で目に見える「成果」(学会誌への投稿とか、コンクール入賞とか、科研費取得…など)を出して就職に役立てようとする。この結果、修業の長期的視点の欠落、「成果」とその提示様態のジャーナリズム化が昂進する。これは、事象そのものへの集中と、伝統への無私の献身を不可能にしてしまう。

出家とは、そのような献身と集中とを可能にするべく設計された制度なのである。いろんな「出家者」によってこそ、それぞれの道は究められ保全され得るのである。問題は、いかにして在家の人々が出家者の権威を信じることができるかである。というのも、出家者の独創的な道は、在家の人々の想像を超えたものにならざるを得ないからである。
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2016年06月29日

ジジェク批判(追補)

ジジェクは、シェリングの悪や自由意志に関する論考を肯定的に言及することによって、あらゆる感性的パトローギッシュな関心から独立した純粋悪意のような意志が存在していること、それがいかなる因果的な知の網を打ち破る外傷的なものであること、つまりle reelの次元に属するものであることを強調している。(『最も崇高なヒステリー者』p−255)

私は、自由と合理性そのものを可能にしている象徴界への参入そのものが、外傷的なものであり、その痕跡は象徴界の中に一つの穴を穿つような形で存在するle reelであるということは認めてもよい。しかし、それがシェリングの純粋な意志の自由とか、純粋の悪意となどとは程遠いものであると言わざるを得ない。
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2016年06月22日

地域通貨とベーシック・インカム

以前ここで、ベーシック・インカムについて論じたが(2016年4月18日美学散歩(11)Unto this last参照)、果たしてその制度にどの程度実効性があるか、疑問を持たれる向きもあるだろう。それが、財政規律と矛盾することなく機能するものであろうか?

私はそれを、地域通貨と組み合わせることを提案したい。つまり、ベーシック・インカムは、何らかの地域通貨で支払われるのである。地域通貨は、それぞれの地域の特性を反映するべきものであるから、一様に論ずることはできないが、1)基本通貨(国際為替市場で流通する通貨)と併用されるものであり、基本通貨に代わり得るものではない。2)狭い地域で流通し、その地域社会での情報と信用に支えられるが、それを超えた普遍的信用を持ちうるわけではない。
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2016年06月01日

サイン会

先日友人と飯を食ったとき、私の本がさっぱり売れないという話題になった。

実は私は、売れないことにはさほど心配はしていない。突然バイロンの『チャイルド・ハロルド』ように、爆発的に売れ出さないとも限らないからだ。

むしろ心配なのは、その時のことである。

売れっ子の著者は、大手の本屋のサイン会に呼ばれたりするものである。このとき自筆のサインが求められる。字が下手なのは構わない。下手でも味のある字はある。作家に求められるのは字のうまさではない。むしろこの味である。私の字もうまくはないが、亡くなった母がつくづく述懐したのは、「あんたの字は品格がないの」であった。どうも字には、性格とか品格とかがにじみ出るものらしい。どんなに練習しても、こればっかりはごまかしがきかない。サイン会で、あこがれの著者から、品格のない字のサインをもらった愛読者の心中はいかばかりであろうか?

そんなわけで、私は目下自分の品格を鍛えているところだ。これにはやや時間がかかる。

さて、しかるべき品格が私に備わったところで、いよいよサイン会である。サイン会では、たいてい二人くらいの売っ子作家が呼ばれる。最近売れ行きがいいのは、若く美形の作家たちだ。以前だと、荷風や谷崎にしろ、宮本百合子や野上弥生子にしろ、とても美形と(まで)は言えなかったものだ。今や美人の作品は、内容が陳腐で凡庸でも、これが飛ぶように売れる。

私がそんな著者と机を並べたとして、長々と列をなすのは、私の前だろうか? 万に一つも、そんなことはあるまい。隣には何十人ものファンが並んでいる横で、私の前には閑古鳥が鳴いているのを見て、書店員は気の毒そうに、また申し訳なさそうに、せっせとお茶を運んだり、一向に減らないサイン本を積み直したりすることになる。

私の本に人気がないとしても、それは私の責任なのだからどうということはないが、自分のせいでもないのに、書店員が申し訳なさそうに目を伏せるのを見るのは、つらいものがあるだろう。

そんなわけであるから、たとえサイン会に来てくれと言われても、なるべく断ることに決めている。幸いそういう申し出はいまのところ来ていない。
  
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2016年05月30日

「重版出来」

いつものように山形新聞への投稿であるが、今回は少々面白いことがあった。まずは投稿記事をあげておこう。

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「重版出来(じゅうはんしゅったい)」(松田奈緒子)

いま評判のテレビ・ドラマ。大手出版社の新人スタッフ役の黒木華氏の熱演が光る。もともとは松田奈緒子氏の名作漫画の表題だ。

著者の側から言えば、とにかく自作が出版にこぎつけることが大問題であるが、出版の側から見れば、出版した本の重版が問題。というのは、初版だけではそれを売り切ったところで、コストや手間を考えるとほとんど儲けにならないからである。しかし、初版を売り切れば自動的に「重版出来」となるわけではない。売れ行きの「勢い」こそが重要だ。さもなくば、重版しても在庫を重ねるだけでは元も子もない。

ドラマは出版不況が続く中で、企画・編集・営業と、いかに涙ぐましい努力をしているかを描き尽し、共感を呼ぶ。とりわけ身につまされるのは、独りよがりの作家に対して、編集が厳しい注文を出すところ。漫画界のように、独創的な才能がひしめいているところで生き残るほどの作家は、当然、圭角(けいかく)ある個性の持ち主だ。編集の注文を容易に聞き入れるわけもない。

しかし、才能ある個性に対してこそ、編集者の厳しい批判は不可欠なのだ。どんな葛藤を引き起こしても、それは必ず実りをもたらす。著者は常に褒め言葉に飢えていて、どんな空疎な賛辞にもしがみつくが、それ以外は受け付けようとしない。自惚れに満ちた強烈な思い込みが、いかなる批判にも耳を閉ざしているからである。

私もいくつか売れない本を出したことがあるが、売れないには、本人にはわからない相応の理由があるものだ。気取った文飾、こけおどしの晦渋(かいじゅう)さ、あらずもがなのナルシシズム…。編集者はすぐにそのような欠点を見抜く。作品に対する彼女の醒めた視線は、実際は著者の怒りを買ってまでも、育ての我が子を守り抜こうとする愛から来る。編集の言うままにすればいいとは限らないが、それでも厳しい指摘によって作品が改善されないことはまずない。
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実は、この文章は、一か所修正が要求されていた。「こけおどしの晦渋さ」の部分が、「こけおどしの難解さ」に書き換えてはどうかと、やんわりと編集者に提案されたのである。「晦渋さ」はやや晦渋すぎる、というのである。つまり、私の表現そのものが、すでにしてこけおどしの晦渋さだというわけだ。なかなか機知にとんだ編集者ではある。

もちろん私は型通り気分を害し、「晦渋」さえも通用しないのだとしたら、それは読者が悪いだろう…とか何とかブツブツつぶやいたものの、「こけおどしの晦渋」を押し通すほどの面の皮はさすがになかったので、苦々しい思いをかみ殺して、言われるままに従うことにした。はなはだ不愉快なような、愉快なような話ではある。

ところが、ゲラの段階で一転、「晦渋」で構わないということになった。編集の中にも「晦渋」を押す者がいたのかもしれない。それとも、「すべてお任せします」と言った私の言い方が、まるで開き直った啖呵のように聞こえてしまったのか、そこのところは不明である。

しかし、そうしてみると、今度は自分の言葉使いに、にわかに自信が持てなくなってきた。私の日本語が、どこもかしこもグラグラ・ガタガタ音を立てて揺らぎだした。こうなると、ちょうどこれまでなにげなく使っていた漢字が、突然相貌を変え、そんな字があったかどうかさえ確信が持てなくなってしまったような具合だ。すべての文字や言葉が溶けだして、普通であるものとそうでないもの、自然なものと不自然なものの区別もわからず、何とも情けないありさまである。編集者から「それほど自信があるなら、全部自分の思った通りに書けばいい」とばかり、放り出されてしまったようで、妙にさみしい気分でもある。編集さん、どうか私を見捨てないで!
  
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2016年05月25日

美学散歩(13)ジジェクの解釈

ここでついでに、ジジェクの解釈に沿ってラカンの「現実界」の多様な面について、私の理解の及ぶ範囲でメモしておくことにしよう。(ちなみにle symboliqueを「象徴界」と訳すからと言って、le reel を「現実界」と訳すのには抵抗がある)

ラカンもさることながら、ジジェクにおいてさえも、le reel 享楽などをめぐる部分は特に難解であるが、ジジェクの多くの著作のエッセンスを総攬するような本(『イデオロギーの崇高な対象』河出文庫)が翻訳されているので、このさい私がどこに疑問を感じてきたかを、この本に即して明らかにしておきたいと思う。
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2016年05月24日

美学散歩(12)『紅葉狩』補論

『紅葉狩』における第二の変身、上臈の鬼への変身は、何を意味するのであろうか? ここには、精神分析学的に考えると、「死の欲動」「現実的なもの」(le reel)「享楽」などの諸概念でとらえられるべき典型事例がある。

非常に簡略化すれば、主体が言語を習得し、象徴界に参入してから顧みれば、この出来事(主体の生成)はそれ自体語りえず、考えることも記憶することもできない(なぜなら、そうすることのできる主体がまだ存在しないから)トラウマ的出来事であるが、それを神話として何とかつじつまを合わせようとする。それが例えばエディプスの物語である。

母子一体関係にあった鏡像段階は、失われた何ものかとしてのみ神話化され、エデンの楽園の如きものになる。そのイメージは、『源氏物語』における光源氏にとっての藤壺のように、桐壺の更衣の代替物として、その実際の実在そのものを超えた、いわく言いがたい魅力を備えるもの(これを対象aという)として主体の欲望の「原因」となる。

この欲望の「原因」とは、誤解を招く言い方である。プルーストの小説の中で、ジルベルトの黒い瞳に魅せられた主人公は、それを青い瞳と思い込んでおり、いつも青い瞳のジルベルトを思い出そうとする。

そののち長い間、彼女を思い浮かべるたびに、その眼の光の回想が、彼女はブロンドなのだから、目は鮮やかな空色だ、という風に直ちに私の頭に浮かんでくるのであって、したがっておそらく、もし彼女があれほど黒い眼をしていなかったら…私は彼女の中で、特にその青い目に、あんなに恋い焦がれはしなかったろう。「スワン家の方へ」

ここで、青い瞳は主体の欲望の対象、黒い瞳はその原因となってはいないだろうか? 欲望の対象は、必ずしもその原因ではない。この点で、私は「欲望の対象=原因」というラカンの言い回しに悩まされてきた。
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2016年05月23日

列聖

山路を往くと、そこにはまだ鶯が鳴いている。山の鶯はまだ啼き方がへたで、ホーホケキョのホーの部分をたっぷりためて歌うことができない。

そこで、私が啼き方を伝授してやることにした。へたな者どうしで競争していては、この程度でも恋人が得られるものと、高をくくってしまうからである。

はたして私が歌ってやると、しばらくうっとりと私の啼き方を聴いていたかと思うと、やがて次々に鳴き交わして近寄ってくる。近くに侮りがたいライヴァルが出現したと思うのであろう。明らかに複数の声で方々から啼くのが聞こえてくる。よく聴くと、声のピッチも違えば、歌い方のクセも違っているが、どの鶯もおしなべて下手である。

上手な鳥だと、ホーォホケッキョのように歌うものだ。このホーォの部分が特に重要で、ホーと少しピッチを上げた後、ォの部分で心もち抑え気味にする。そして、ためにためておいた力を一挙に吐き出すかのように、巻き舌を使ってケッキョをすばやく転がすのだ。そうすると、女心はいちころである。

そうして5〜6分も口笛で模範演奏を聴かせてやっていると、比較的器用なひとたちは、以前より格段に上達したようである。もちろんまだ師の演奏に遠く及ばないのは致し方ない。

かつて、アッシジの聖フランチェスコは、小鳥たちに福音を説き聞かせたといわれているが、私の場合も、鶯に鳴き方を教えたという点が評価されて、列聖の参考にされないとも限らないと心配している。まあ、いずれにせよ百年以上後のことだろう。

もちろん私は、列聖してもらいたいわけではない。考えてみれば、カトリック教徒ですらないのだから、列聖される心配は、まずないのである。ただ、私が教えた鳥たちが、口伝えで他の鳥たちに私の歌を伝承し、蓼科山のほとんどすべての鶯が、私の孫弟子、ひ孫弟子になることを思うと、愉快である。
  
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2016年04月18日

美学散歩(11)Unto this last

ブルジョワ社会は、人間と人間の自由な契約に基づく社会であるから、市場で出会う人々は対等で自由であるはずだ。人々の自由な欲望のみが、市場の勝者を決定し、チャンスをつかむ才覚こそが個人の社会的承認につながり、個人と社会の対立を乗り越えさせるはずである。

ここに、共同体の因習を突き破り、大胆に社会への冒険へと乗り出す自由な気概あふれる人物類型が生み出された。初めからその地位を保証する身分的通行手形も、前もって個人を限界づける地域的刻印も持たない自由な個人が、己れの才覚のみに基づいてゼロから世界を築き上げる物語が成立する。ロビンソン・クルーソーの物語など。
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Posted by easter1916 at 21:44Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート