2020年01月17日

恩師 芳賀徹先生

昨秋、さる宴席で恩師、芳賀徹先生にお会いした。お目にかかるのは二十数年ぶり。

先生は非常にお元気で、自然、近年の文芸・文芸批評など広範囲に話題は及んだ。その中には、高名な文学者・小説家などに対する辛辣な批評も含まれるが、今話題にしたいのは、そのことではない。

王朝文学について話題になったとき、『枕草子』について、最近私がとても感銘を受けた本があったので、それに言及した。

すると、ほんの二言三言概括的な話をしただけで、「それは山本淳子さんだな」とおっしゃった。私自身は、その本の名(『枕草子のたくらみ』朝日新聞出版)も忘れていて、もちろん著者名も失念していたのに、芳賀先生は、直ちにその本の著者を名指しされたのである。老齢に差し掛かっても、本質を見抜くこの目利きぶり、若い無名の仕事にも目配りを怠らず、その優れた独創性を鋭敏に感知していらっしゃる若々しい知性に、心から敬服した。

もともと先生のお仕事には、興味の赴くところ、どの分野であろうとかまわず跋渉してゆくという文人的な学風があったが、この非凡な新人に対する温かいまなざしに、つくづく人文学の王道を見る思いがする。

かたじけなくも、この学統の末席を汚すことを、私は心から誇りに思う。

今後とも、先生のますますのご活躍を祈念申し上げる。
  
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2020年01月08日

中東三十年戦争の悪夢

トランプ大統領の無分別によって、またもや世界は崩壊へ向かって一歩進めることになってしまった。これは、これから長らく続く戦争の序曲に過ぎない。どれだけ続くのだろうか?おそらくは三十年というところだろう。17世紀の三十年戦争も、ヴェトナム戦争も、我が国の昭和の戦争もおよそ三十年くらい続いて、大きな破局をもたらして終焉した。それ以上は、人間には持続するのが難しいのであろう。その間にはそっくり世代が代わってしまうから、憎悪の持続にも限界があるのだ。
 
トランプ氏は、ブラフに近い「取引」が得意で、破局をのぞまない相手からなら、有利な妥協を引き出すことも稀ではなかったろう。しかし、彼の狭隘な経験を超えたことが、歴史にはしばしば起こったのであり、それから何も学ぶ意志のない彼は、今回のことも高をくくっていたのであろう。我が国の知米派知識人も、強大な米国に対して本気で反抗する政治勢力があることは信じられないらしく、いずれイランが妥協に出るはずだと楽観している向きが多い。

実際、湾岸・イラク戦争はその後の混乱はさておき、思いのほかあっさり米国の勝利に終わったではないか?米ソ冷戦に勝利した米国に軍事的に勝てるはずがない、従って妥協しないはずがない、というわけだ。

四度に及ぶ中東戦争でも、ソ連に見捨てられたアラブ連合共和国は、アメリカとイスラエルの前に完全に敗北した。

しかし、イランと他の中東諸国とを同一に見ることはできない。他の中東諸国は、トルコを除けばいずれも軍事独裁国家であり、帝国主義諸国の植民地経営の産物として、帝国主義諸国の都合でつくられた国家にすぎず、近代国家としての体をなしていないものである。

『アラビアのロレンス』で描かれていたように、イギリスに利用されてトルコ軍に勝利したアラブ人たちは、たちまち部族対立を引き起こし、結局イギリス人たちの支配に服してしまったのである。サウジアラビアなどはそうやって帝国主義者の利権のために生まれた部族国家に過ぎない。それらの国は、民族的・政治的基礎が極めて脆弱であるため、非常に不安定である。

アラブの連帯を訴えたナセルのアラブ民族主義は、中東戦争でのみじめな敗北によって馬脚をあらわにした。フセインのイラクにしても、アメリカ軍に立ち向かうような実力にはほど遠かった。これらの敗北は独裁者の軍事政権が、見かけ以上に脆弱であることを示している。ちなみに、この点では日本帝国も同様であった。民主主義でないところでは、軍事力にはおのずから大きな限界があるのだ。実際、ペルシア戦争を記録したヘロドトスは、記している。

かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならず、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力でで凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。(『歴史』巻五78章)

この点で、イランこそ中東で唯一市民革命を経験した国であることを肝に銘じなければならない。それが可能であったのには、それなりの理由が存在するに違いない。何よりイランは、古代ペルシアのながれを汲む民族国家であり、誇り高い文化とペルシア語という由緒ある国語を持つ国家である。そのような国を相手にすることは、他の部族国家とは根本的に違うことを忘れてはならない。その点では、同様の市民革命を実現したヴェトナム民主共和国と類比される(ここで私が市民革命というのは、近代化にとって不可欠の農地革命のことである)。

こうした民主国家としての強靭さが忘れられているのは、石油利権に目がくらんだ米英諸国のプロパガンダがそれなりに奏功しているからである。彼らは、19世紀以来中東でしてきた数々の悪事を隠蔽し、今なおそこから吸い上げている利権を手放そうとはしないのである。そのようなイデオロギー工作にとって不可欠のものがイスラエルの存在である。イスラエルこそは、植民地帝国主義とアラブの王侯たちにとってのイチジクの葉にほかならない。

この戦争が、小康状態を挟みながらも、中東全域を巻き込み、コントロール不可能な長期戦になるのは明らかである。ちょうど、満州事変以後の三十年戦争のように。その過程で、サウジアラビアなどの湾岸王族国家が生き残ることはまず不可能であろう。そして、サウジ崩壊のさいには、いよいよアメリカ軍が総撤退することになろう。サイゴン陥落の時のような光景がまた再現されるのだ。もちろん、米軍将兵とイランその他の諸国に何百万もの人的被害を出した挙句の果てのことである。

イラン、イラクの歴史的遺跡などは、すべて灰燼に帰するであろう。それでもイランがアメリカに屈することはあり得ない。アフガニスタンやイエメンでさえ、米軍の敗退必至であるのに、民主国家イランを相手に勝てるはずがないのだ。

米軍が、威信も名誉も振り捨てて中東全域から撤退するときには、イスラエルはどうなるのであろうか? 米軍抜きで生き残ることは不可能である。その場合も、イスラエルはむざむざと降伏するはずはないと思う。必ずやイスラエルは狂気のような核攻撃に訴えるであろう。アメリカは、もはやそれを阻止することはできない。そのころは、イスラエルとアメリカの信頼関も地に落ちてしまっているからである。もちろんそれは、イランから直ちに核攻撃で報復されるほかない。恐ろしいことであるが、エルサレムは、この地上から消え去るであろう。ソドムとゴモラのように神の火がエルサレムの上に下る。人々はみな塩の柱に変身する。

アメリカ国民がありそうもない自制心を発揮する以外に、このシナリオの実現を阻むことは難しい。

我々に何かできることはあるだろうか? 中東への自衛隊派遣を我々の力で阻止できたとしても、そんなことで、この戦争を止めることはできない。もはや我々の力の及ばぬところまで、事態は悪化してしまっているのである。我々に残されているのは、ただ祈ることだけである。
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Posted by easter1916 at 20:08Comments(0)時局

2019年12月22日

(つづき)

デカルトに始まる自己理解は、ロック型の、またはロビンソン・クルーソー型の自由理解を生み出す。つまり、自己保存のために自然を相手に技術的に働きかけ(労働)、私有財産を生み出し管理する合理的主体性という自由観である。

しかし、演劇では、はじめからこのような自己完結的個人は存在しない。欲望自体が他者の欲望に媒介されているのである。
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Posted by easter1916 at 19:21Comments(2)哲学ノート

ルソーの『演劇論』

ルソーは、一般意志の不可分性・不可謬牲を想定しているが、このような想定の系として『演劇論』に現れているルソーの批判は注目に値する。それは演劇そのものについての洞察を与えるものとしては全くつまらないものではあるが、ルソー自身の偏見をあぶりだすためには非常に啓発的なのである。
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Posted by easter1916 at 02:56Comments(0)哲学ノート

2019年12月04日

千葉一幹氏『現代文学は震災の傷を癒せるか』(ミネルヴァ書房)

畏友、千葉一幹氏の新刊本についての書評を、大東文化大学の広報に委嘱されたので、以下のような文章を寄稿した。わたくしの文章は字数の制限があるので、決して十分なものではないが、氏の文学批評は、この度もまことに読み応えのあるものであるから、わたくしの書評はともかく、一読することを文学愛好家にも非愛好家にも強く勧めたい。


ここには、3・11震災の衝撃と死者の鎮魂をめぐる作品への評論が集められている。しかし「震災」は前景に過ぎない。問題は、災害によって露呈した我々の饐えた泥沼のような日常生活なのだ! それは山崩れや地震が古い地層をむき出しにするようなものである。

千葉氏は、絆や連帯を叫ぶ金切り声に背を向ける「不謹慎な」文学者に注目する。「不謹慎とは…思いやりのない、場違いな言動をすることである。それは決して不法な行動ではない。不道徳ですらない。ただ人々の期待に反するような、感情の共同体に適合しないふるまいをすること」(p−69)。「不謹慎」は同調圧力に閉塞する社会への鋭い批判を含んでいる。

近年、ライヴへの渇望が高まっていると聞く。アイドルとの握手会などがそれだ。社会自体が、それぞれの役割を演ずる仮想ゲームのようなものになるにつれて、人々はどこかに直接性や現実世界への投錨点を求める。だが、直接現実に触れようとするこうした試みは挫折する他ない。タレントとの出会いはその接触様式や秒数まで管理されたものであり、一点だけで現実と結びつこうとする試みは、たとえばリストカットの痛みさえも、いわゆる「セカイ系」の幻想に取り込まれてしまうだろう。

学校は、生徒に型通りの役割を押し付け、期待された演技をし続けることこそが生き残る道であることを徹底的に調教する場である。そこでは、実体のないヴァーチャルなもの(例えば成績とか協調性)が巾を利かし、あらゆる意味がその場の空気に合わせるノリに過ぎなくなる。要領よく思考停止して反射的に応答することが、成績を上げ協調性を高める道である。うまくノレない者はすぐいじめの対象になるだろう(p−87)。学校は生徒にとって、文字通りサヴァイヴすべき空間なのであり、いつ些細な偶然から「想定外」の災いが降りかかるかわからない。いかにして生き残るべきか? それを描いた松浦理英子氏の『最愛の子ども』では、生徒のサヴァイヴァル戦略が示されている。ニセの連帯を誇示しようとする教師の愚劣さに同調できない真汐は、そっとその場を離れる。これこそが「不謹慎」(!)。泥沼共同体への反逆を意味するからである。日夏はその場で真汐の頬を張る。それは真汐を救うためだ。ここでは、正しいだけでは十分ではない。愚行に加担しない真帆を守るためには、日夏のような機敏な勇気が必要なのである。真汐は日夏の心遣いを理解するからこそ、その場で日夏に従い、難を逃れるのだ。教師や同級生の視線を出し抜く狡猾なコミュニケーション・スキル――日常生活という荒野を生き抜くには、このような知性と戦略によって、「私たち」(p−219)の友情を守り抜くしかない。それは社会で呼号される「絆」よりずっと密やかなもの、選ばれた者たちにのみ通じる秘教的とも言える符丁だ。

千葉氏の評論は、ブッキッシュな教養と高度な理論的概念で武装した周到なものであるが、その底に流れる暖かく繊細な感受性こそが、その本領だと知れるところだ。その意味で本書は、一見した印象よりはるかに反時代的であり、反文壇的であり、反民衆的(貴族主義的)ですらある。
  
Posted by easter1916 at 02:53Comments(0)書評

2019年12月03日

ヴィトゲンシュタインの数学論

以下、すでに論じたこともある論点がいくつかあるが、繰り返しを厭わず、ヴィトゲンシュタイン解釈としてまとめてみた。

クリプキのパラドクス

 クリプキは、規則の従うことをめぐるヴィトゲンシュタインの解釈において、非常にラディカルな懐疑論を展開した。

たとえば、数学の加法計算において、いくつかの事例を通して加法を習得した人が、未だかつて計算したことのない数の演算において、突然(我々から見て)奇妙な答えを確信をもって出すとしたら、そのとき彼が加法として理解してきたもの(これをクリプキはプラス計算との違いを際立てつつクワス計算と名付ける)が、間違っているという根拠はあるだろうか? 加法の概念を習得するために使われたたかだか有限の事例をもとに、可能なすべての演算の正しいやり方を理解したと言える根拠として、我々は何か実質ある資源を有しているだろうか?
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Posted by easter1916 at 14:00Comments(0)哲学ノート

2019年11月27日

山形新聞への投稿

オフロードパス

ラグビー・ワールドカップが南アフリカの歴史的勝利をもって終わった。「試合が終われば、敵味方なくノーサイドだ」などと言ういかにもイギリス的な偽善に対しては、そこからいつもの階級闘争が始まるのだろう、と皮肉も言いたくなるが、それでも戦争よりはるかにましである。

今回、にわかラグビー・ファンが憶えた真新しい言葉には、何か新鮮な響きがある。そのひとつがオフロードパス。タックルされて倒れかけても、道途絶え進退窮まった所に、味方を信じて最後のパスをつなぐ、それがオフロードパスだ。

ネルソン・マンデラ大統領が南アフリカ共和国の痛ましい人種分断を前に、国民和解という途方もなく困難な課題を掲げたとき、まさか白人上流社会の象徴であったラグビーを使おうとは、誰も思いもしなかった。まことに偉人の想像力は、我々凡人のリアリズムをはるかに超えている。果たして南アフリカ代表は、一九九五年の南アフリカ大会に奇跡の初優勝を遂げた。映画にもなったので、ご存じの方も多いだろう。これはマンデラが彼の祖国に贈った強烈なメッセージとなったのだが、同時に我々にとっても最後に贈られた彼のオフロードパスではなかったろうか? なぜなら、我々の世界は、国内でも隣国に対しても、今なお民族和解には程遠いからである。

我々はそのパスをしっかり受け止めなければならないが、かといって、それを自分の私有物であるかのように握りしめて、何かに(例えば国威発揚に)利用するようなことをしてはならない。そんなことは、ノット・リリース・ザ・ボールの反則を犯すことになろう。
  
Posted by easter1916 at 00:39Comments(0)日記

2019年10月06日

「俗情との結託」

ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。

科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか?

と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。

ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。

私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議である。

おそらくコメンテイター氏にとって、「煽り」ということは、それだけで非難に値するとてもひどいことなのだろう。「煽り」という言葉の意味は、扇動とか、情動に訴えて自説に有利に聴衆を導くような態度のことであろうが、私にはそれのどこが悪いのかわからない。批評的議論では、ときには理性や論理ばかりでなく、感情や(怒りや羞恥心などを含む)全ての情動を総動員すべきだと思うからだ。

この点で、少し思い当たることがある。私は批評や論争を広義のイデオロギー闘争、政治闘争の一種と見ており、そのため単に事象そのものや論点を浮き彫りにするだけでなく、時には論敵の愚かさや卑しさを浮き彫りにすることも必要だと考えてきた。このような人格批判は、いわゆる「学会」の作法とは食い違うことはわきまえているが、政治闘争として批評活動に従事する際にはそれほど頓着すべきことではない。

そのことが、政治闘争の経験がない連中から見ると異様に見えるのかもしれない。その連中はたいてい、相手を追い詰めない「ごっこ遊び」のような議論に終始するのだが、それは実は自分が追いつめられることを避ける小ずるい護身術に過ぎないのだ。そこからは奇妙なシニシズムが体臭としてにじみ出ることになる。つまり、常に「結論にはコミットしませんが、取りあえずネタとしてこんなことを言ってみただけです(なんちゃって)」といった(笑)付きの発言に終始することになるのである。

ともかく私は、学会の作法に反して、主張の誤りは単に愚かさの現われにとどまらず、何らかの実存的な邪悪さの現れであると考えるマルクス主義的な批判手法の伝統を幾分か受け継いでいるのかもしれない。もっとも私自身は、こと政治論の領域では唯物論は退けるべきだと考えているが、マルクス主義以外にも、たとえばニーチェが似たような人格批判の手法を行っている。たとえば、キリスト教の信仰は愚劣であるばかりでなく、ルサンチマンといった卑しい心性の現われであるとして、信仰者の人格のトータルな批判に及ぶのである。議論が空疎に流れ、言説が議論の身振りに過ぎなくなる今日、ニーチェの人格批判論法がエッジのきいた批評として見直されるべきではないだろうか?

それはともかく、ミルの言葉に即して私がいかなる構造を浮き彫りにしようとしていたかは、もとの小文だけで明らかであるし、おまけに小学生でも理解できるような解説まで付け足したので、いまさら何も言うことはないが、とはいえ「俗情との結託」についてはいささか解説が必要かもしれない。というのは、「反知性主義」とか「ポピュリズム」に関しては、どこかの百科事典でも見れば明らかだが、「俗情との結託」に関しては、大西巨人の議論に密着して、その批評的骨格をよくよく会得しなければ、使い勝手がいいとは言えないからである。それだけ、論争構造が複雑なのだ。

それはもちろん、単純な「悪」のラベリングではないばかりか、イデオロギー的ラベリング(たとえば「人民の敵」といった)でさえない(もっとも私のように「人民の敵」をスターリン主義者のようにではなく、イプセンの意味でのみ使う場合は少しだけ複雑であるが)。

大西巨人のもともとの批評(1952『大西巨人文選1新生』みすず書房所収)では、陋劣・低級な今日出海の作品ばかりでなく、新日本文学の野間宏が同じくその射程に入っていた。このことだけから見ても、この概念のややこしさが理解できよう。コメンテイター氏は、俗受けしそうな一般大衆の価値感情におもねるような「エリート批判」のようなことが「俗情との結託」であると考えているようだが、そうではないのだ。たとえば、ワイド・ショウなどで声高に垂れ流されている「庶民感情」(たとえば、カルロス・ゴーン氏の給料が高すぎる…とか)などのことを意味しているわけではないのだ。

大西は、今日出海の作品の中の三木清という登場人物が、手淫という手段でおのれの性欲を処理するということをせせら笑い、一人前の男が女郎屋通いもできないことを見下している点を、鋭く批判している。その文脈では、「俗情」とは、一般に建前として流通している倫理原則のことではないし、大衆の普通の倫理感情のことでもない。一般に建前上、女郎屋通いがいいこととは考えられていないし、普通の大衆も本音でもそうは考えないだろう。そのように広く流通している点に「俗情」の本質があるのではないのだ。

己れの生活の中における倫理的反省において矛盾や葛藤に悩む人物(例えば作品中の三木)をしり目に、そんなことで悩むこと自体をせせら笑う今日出海が依拠している暗黙の「常識」――それが「俗情」なのである。今が女郎屋通いに何の痛痒も感じないでいられるのは、売春婦をもともと自分と対等の人間と見ていないからであり、そんなことがまかり通るのは、今日出海が金と権力にものを言わせて、異議申し立てもできない社会的弱者(売春婦)を搾取し、踏みつけにできる立場にいるからである。ちょうど、従軍慰安婦を相手に威張りかえっている最低男たちのようなものだ。

したがって、ここで「俗情」と言われているのは、今日出海の「常識」を支えている買春男の卑猥なニヤニヤ笑いであることになる。それらは常に暗黙に行使される暴力であり、相手が泣き寝入りしてくれる限り安泰であるが、一たび抗議の声を上げるや、金切り声を挙げて、自らの所業を否認することになるシロモノである。

ここまでは比較的わかりやすい話だ。問題は、野間宏の『真空地帯』が、同じく「俗情との結託」として批判されているということだ。大西の野間への批判の中心は、軍隊が世間一般とは違った論理と倫理が通用する特別な社会と見る点である。大西は、どんな特殊な事情の下でも、あくまでも普遍的な倫理や意味理論が通用すると主張し、それをこそ闘いの原点に据える。つまり天賦人権論に似た原理主義的立場である。

大西に鋭い批評的洞察を与えるのがこの「原理主義」なのだ。氏は「民主主義的立場」を逸脱してまで人権原理主義を貫く。ここで、「俗情」は「人民の敵」の敵として立ち現れることになるのだ。革命的勢力の中においてすら、「人民の敵」であることがいかに必要なことか――そのような文脈が示されているのである。大西が立ち向かう俗情の側は、自らの原理を持っているわけではないし、それを明示できるわけでもない。ただ、そんなことをあげつらうのは野暮であるとして、ただせせら笑いニヤニヤ目配せをするだけだ。

野間の作品中の人物(木谷)は、「輸送中の軍事物品を当番兵とぐるになって盗む」(p−230)ような窃盗犯に過ぎないが、それに対し野間は「木谷の事件、罪は確かにそのすべてをこの軍隊に帰すことができる」などと素っ頓狂な擁護をしているのだ。大西の批判は、ただ軍隊の内部でも外でも窃盗は罪だというまるで当たり前のことを言うに過ぎないが、そのことが野間のような人物に対しては、ことのほか鋭い批判的エッジを持っているのである。なぜなら、過酷な政治闘争においては、ともすれば力関係にのみ目を奪われて、規範的議論がなおざりにされがちであり、それが闘争そのものを致命的に棄損してしまうからである。

大西の問題意識は「再論 俗情との結託」(1956)においてさらに詳しく展開されている。そこで氏はあくまでもレーニン流のマルクス主義的階級闘争政治観に立ちながらも、それを乗り越える論点を潜在的に展開しているので注目に値する。それは、いかなる軍事的・国家的機関といえども、政治闘争の現場である以上は、単なる力関係に還元されず、規範的議論の現場となり得るという指摘である。具体的には、結局『神聖喜劇』という巨大な作品に結実されて、大きな説得力を持つに至った主張である。これは私のような非唯物論者にとっても、十分納得のいく主張である。

件のコメンテイター氏の用語法を見れば、氏が大西の彫琢した概念使用のすべてを無視し、文芸批評の伝統をないがしろにして、ただのペダントリーとしてカッコを付けているだけであることが明らかになるのである。まことに啓発的な事例であるので、あえて一言するゆえんである。
  
Posted by easter1916 at 17:38Comments(1)批評

2019年10月03日

ことばの杜――ミル『自由論』から

その国の主なる能力者をすべて統治団体の内に吸収することは、遅かれ早かれ、統治団体そのものの精神的能動性と進歩性にとって致命的となる。(J.S.ミル『自由論』)

かつて、統治という大事なお仕事のためには、優秀な人々を選抜して充てるべきだと考えて、実施した国があった。それは実に賢明なやり方のように見えたが、結局は長い停滞と、常態と化した腐敗を招いただけである。威信と権力を二つながら与えられた役人たちやお偉方には、甘味な自惚れと惰性への埋没しか残されていないからである。

統治の水準を維持するためには、統治に携わらぬ人々や専門外の広範な人々による監視と批判が不可欠なのだ。同調という泥沼にどっぷりつかった社会は、あらゆる規範を弛緩させ、自画自賛の夢の中でゆっくりと融解していく。

科学技術を誇っていたさる国では、長年科学者がお墨付きを与えていた原子炉が爆発し、取り返しのつかぬ汚染公害をまき散らしたが、その責任者を裁いた司法の専門家は、そこには何の責任もないと宣(のたま)った。きっと法律家とか科学者とか経営者には、我々の批判を許さない何か高尚な知恵や権威があるのだろう。そうやって連中は、常にエリートたちの仲間内で守られてきたのだが、それで守られたものは結局、卑しい利権と阿呆の楼閣だけだったわけである。かくて、今でもえらいさんたちが、阿呆の楽園で飲めや歌えとばかりに、浮かれ騒いでいるのだ!「おもてなし」接待業で結婚にこぎつけたタレントや、オリンピックや賭博でがっぽり稼ぐつもりの政治家たちで宴もたけなわの折から、どんな大洪水が押し寄せても、どこ吹く風である。故郷を追われた人々、棄民として見捨てられた民草は、塗炭の苦しみをなめ続けているだけでなく、とことん舐められ、コケにされたものである。
  
Posted by easter1916 at 02:31Comments(7)日記

2019年09月16日

第三アンチノミー

先日、カント・アーベントという席で講演を行ったが、もちろんはなはだ不評であった。そのときに十分に展開できなかった論旨をいくらかわかりやすくメモしたので、以下に貼り付けておく。  続きを読む
Posted by easter1916 at 14:23Comments(0)哲学ノート