2017年10月23日

『マックス・ヴェーバーとドイツの政治1890〜1920』

ヴォルフガング・J・モムゼンの『マックス・ヴェーバーとドイツ政治1890〜1920』を読んだので、それについて論じてみる。

本書は、第二次大戦後ナチズムの清算の下で、民主的ドイツのファウンディング・ファーザーの一人として列聖されてきたマックス・ヴェーバー像を突き崩し、一人の情熱的なリアリストとしてのヴェーバーを描き出した画期的な仕事である。ヴェーバーは、平和的な自由主義インテリなどではなく、徹底的に帝国主義的国民国家の利益を追求した自覚的なブルジョワ政治家であった。

今日ではこのような見方は、むしろ常識的なものとも言えようが、出版当初(1959)は、大きな議論を巻き起こしたものである。我が国では、いまだにヴェーバーを戦後民主主義と平和主義の思想家と見る向きも多いから、それとは正反対の理解を示す本書の意義は少なくないと思われる。

我が国のヴェーバー受容史は、それ自体が興味深い問題を含んでいる。戦後大塚史学で華々しく導入されたヴェーバーは、まず『プロテスタンティズムと資本主義の精神』のそれであった。大塚久雄は、イングランドで産業革命の主体を担ったヨ―マンリー層の禁欲的合理的主体のエトスの注目し、それを戦後を民主的改革に必要な主体のエトスとして導入しようとしたのである。

ヴェーバーの『プロテスタンティズム…』は、当該の宗教が歴史上転轍機として重要な役割を演じることを示したが、それは大塚にとって歴史の中で精神的なもの(主体性)が実効的な役割を果たし、物質的過程を変える力を持つことがあることを示す一例と感じられた。ある程度マルクス主義の影響を受けた多くの知識人と同様、歴史における人間の主体性の問題において、ヴェーバーは必要な補助線を提供するものと思われたのである。

しかしそこでは、あるべき近代的合理的主体像は、ロビンソン・クルーソー型人間としてすでに静的に前提されており、それが宗教的・非合理的起源から偶然に生い育った合理性である点も、それを論じるヴェーバー自身の特殊な非合理的情熱も等閑に附していたという意味では、非常に偏った紹介であり、それ自体歴史的に制約されたものであった。
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Posted by easter1916 at 19:58Comments(0)書評

2017年10月02日

山崎博昭君 追悼

10・8を前にして、このたび『かつて10・8羽田闘争があった』(合同フォレスト)が上梓された。
https://www.amazon.co.jp/dp/4772660976
私自身も「弁天橋の上のドン・キホーテたち」を寄稿している。

50年前の歴史を振り返るこのような試みに対して、連合赤軍事件を目撃したのちの人々からは、「何をいまさら…」と思う人々も多いに違いない。どのような出来事も思索的に経験せず、一過性の流行として水に流していくことが、古来、我が国の流儀だからである。神輿が、誰の思いとも知れず、ただ「なりゆくいきほひ」にまかせて進むようなものだ。そのような下では、経験の反省と継承もあり得ず、したがって真の伝統が根付くこともない。

私が、ドン・キホーテに言及したのは、滑稽とも英雄的とも見える一つの冒険が、どのように理念として結晶し継承されていくのかを示すモデルとして、である。

ドン・キホーテの冒険の最初の読者にして目撃者であったのは、彼に「従軍」したサンチョ・パンサであった。サンチョは、ドン・キホーテの理想に共鳴したわけでも、それを理解したわけでもない。それどころか、騎士物語も読んだことすらない、いささか鈍(どん)くさい人物であったが、それでもドン・キホーテの行動には、どこか高貴なものがあることを直感していた。

何度ひどい目にあいながらも、ドン・キホーテとロシナンテの後を追い続けたのは、そのためである。決して、どこかの島の領主になるという利益に目が眩んだためではなかった。だからこそ、結局彼には、恨みがましい後悔よりも、人生と世界についての真の洞察が残されたのである。

私自身、自分のロバにまたがってこの一行の後を追い、それ相応の辛酸を舐めたものの、そこから得た教訓は、決してサンチョに劣るものではなかったと思う。

ドン・キホーテたちも一様であったわけではなく、さまざまの背景と逡巡を抱えて羽田に向かったことを、私は強調したつもりであるが、それに続くサンチョたちの教訓も、当然さまざまであろう。それが、ドン・キホーテに先立たれたその後のサンチョの人生であり、その一部が本書に散りばめられている。それは、中世騎士物語の夢に浸ることではなく、長い時間をかけて思索し続けることである。

読者がそこに、何ほどか共有できるものを見つけられることを希望する。あまり有りそうもないことではあるが、これを読んで、あらたに旅立つドン・キホーテとサンチョ・パンサが出ないとも限らないではないか? それこそが有り得べき伝統である。
  
Posted by easter1916 at 21:06Comments(2)日記

2017年10月01日

危険の大きいところ、そこには…

加計疑惑について何ら十分な説明責任も果たさず、証人喚問もしないまま、憲法に定められた臨時国会さえ開かないまま、首相は解散に打って出た。本当なら、この疑惑隠しそのものの不当性を訴えて、野党は受けて立つ絶好の機会になるはずであった。

ところが、受けて立つはずの野党第一党党首が、公約も結党の理念も一貫性(インテグリティ)も裏切って、極右のご都合主義者(オポチュニスト)に身売りを、独断で決めた。事前にいかなる議論もないまま、突然言い出した解党の提案に、これまた党議員全員が何の意義も唱えずに了承したという。

これほど有権者を愚弄したことがあるだろうか?

有権者が選挙において意志を示すには、それなりの情報公開が前提である。候補者が自分の理念を裏切り、嘘を釈明もせずに迎える選挙で、有権者がいかなる選択をしようと、人民の意志の表現とは見なし得ない。与野党ともにおいて、これほどまでに発言の権威が失われ、言語の力が衰退したこともなかったのではないか?

いま噂の(絶望の)新党は、全てをリセットするという。自己の政治理念や憲法の伝統を、議論もなく一言でリセットするということが許されるなら、有権者は何をもって投票すればいいのか?候補者の何を信頼すればいいのか? 選挙が終われば、またリセットされるに違いない。そこでは法治主義も、民主主義も体をなしていない。

共謀罪に反対し、安保法制に徹底抗戦すると言ってきた党員が、一夜のうちにそのすべてを翻して、自民党以上に極右的な立場に乗り換えた。

前原氏が代表に選ばれたとき、我々は、党員がいったい何を考えているのだろうと驚いたものである。尖閣列島中国漁船衝突事件がもち上がったとき、中国船とのやり取りで火遊びめいたことをして、主観的意図はともかく、結果的には致命的に国益を損なった人物である。そこらの街宣車で無責任な対外過激策をわめいているチンピラと変わらない。こんな人物が、民衆の信頼を獲得すると考えているとしたら、とことん党員の感覚がずれているのだ。

一般にこの党は、その支持者の考えと大いにずれたところがあったものだ。支持者たちは、戦後民主主義に受けた恩恵を実感していて、基本的にはその路線を踏襲しいて欲しいと思っているのだが、議員たちは、身についた政治的教養が不足している分、出所の怪しい消息通や事情通から得た知識に基づいて、その時々の思い付きのような新奇な冒険に手を出してしまう(前原氏がたしか外相時代、尖閣沖で中国船の船長を逮捕しながら、中国の激しい抗議に遭うと、一転して釈放したのもその一つ)。これは、長い野党時代の癖で、官僚からの情報をうまく使いこなすことができないことにもよる。慎重さと首尾一貫性が欠けているので、その無責任さだけが際立つのである。

こんな党に野党第一党の議席を与えてきたのは、対する権力者の側に、目に余る傲慢と国益を害する復古主義があったからにすぎない。今度は、その最後の信頼さえも完全に裏切った。結局、民進党の大部分は、権力にありつきたいだけの立身出世主義者にすぎなかったことが、白日の下に明らかになったのである。

だが、一見して絶望的に見えるこのような時こそ、ある意味では政治家の真贋が明らかになり、より信頼できる者を選別できる好機なのではないだろうか?

小池百合子氏がいかにも傲慢な選別基準を設置したことから、民進党の「リベラル」は今更のように慌てふためいているが、これを機会に、少しはガッツのある連中だけが門外に残されることによって選別され、いよいよ真の政治家としての試練にさらされることになった。我々は、これをチャンスと見なければならない。

もちろん、極右二大勢力が翼賛して憲法改正に走らないとも限らない。そうすると、戦後積み重ねられてきた様々な人権に配慮した法制度や慣行も、全てご破算にされるだろう。しかし、これまでも民進党の過半数は、改憲勢力であったのだ。それを巧みに偽装しながら、権力にありつこうとしているだけだった。自民党では二世三世議員が蝟集しているため、権力への競争で勝ち目がないので、ライヴァルが少ない民進党で小賢しく出世の近道を狙おう、というようなあさましい連中が多数だったのである。

民進党があまり信用されなかったのは、そのことを有権者がうすうす見通していたからではないのか? もはやあいまいなごまかしは、有権者の政治的リテラシーを損なうだけである。結局、政治家の質と有権者の質とは、歩調を同じくしながら成長する他ないのである。

律令国家以来の家産官僚制の伝統を引き継いで、政治闘争が、官職階梯でより上位を目指す立身出世競争としてしか観念されない我が国の統治慣習において、政治家が今般のような本物の決断に立たされる経験はめったにない。

民進党のリベラル議員は、たとえ同様に立身出世主義者として出発していたとしても、この試練を乗り越えることによって、覚悟をもって権力闘争を闘い抜ける真の政治家に成長できるかもしれない。そうであれば、この衆愚政治的馬鹿騒ぎも、長期的視点からは有益な伝統を育むうえで、憲政史上必要な迂回であった、ということになるだろう。

しかし、危険の大きいところ、そこには、救いの力もまた育つ  F.ヘルダーリン
  
Posted by easter1916 at 20:17Comments(4)時局

2017年09月14日

ライプニッツ再論(G.Evansと共に)

カルチャーセンターでライプニッツについて講義することになり、改めて考えてみた。ライプニッツに対する共感は、若い時ほどではないが、それでも半端なものではない。ただ、それを厳密に考えてみるとなかなか難しいというのが実態だ。以下、以前に論じた点と重なるところもあろうが、重複をいとわずできるだけわかりやすい形で論じてみよう。  続きを読む
Posted by easter1916 at 00:33Comments(0)哲学ノート

2017年09月05日

「この最後の者にも」 『マタイ伝』20・14

山形新聞「ことばの杜」に投稿。

昨年、障碍者施設やまゆり園で大量殺傷事件が起きた時、人々はその惨状に言葉を失ったが、それにもまして戦慄させたのは、その犯人が犯行を悔いるどころか、「重度障碍者は安楽死させるべき」とし、「最低限度の自立もできない人間の支援は自然の法則に反する」と自己正当化をはかったことである。犯行自体は言語道断だが、この論理自体は、一般社会にも常識とされた考えを含んでいたからである。「報酬は労働の対価である」という考えは、逆に言えば、働く力がない人間、自力でそのチャンスをつかむことができなかった人間は、踏みつけにされても仕方がないという「自己責任」の論理につながる。

しかしそれは自明の理屈であろうか?市場で評価されないものは、存在価値がないのであろうか?だが、最も価値あるものは、たいてい市場では評価され得ない。誕生、言語、愛…それらは貨幣によって贖われるものではない。水も空気も太陽も、仏の教えもすべて無償(ただ)で与えられる。「最低限の自立」のできる者など一人もいないのだ。

『聖書』によれば、イエスはブドウ園の日雇い労働者の比喩を語った。朝から雇われた者も、昼からまたは夕方から雇われた者も、日没時に皆等しく支払われた。「この最後の者に対しても、私は等しく支払ってやりたいのだ」と主は言われる。ここに、賃金は労働時間や労働成果の対価として支払われるのではなく、ただ存在するだけで恩恵に与かれるのだという考えがある。障碍者が我々にどのような貢献をしているのかは、誰も知らない。成果とか効用といった短視眼的な尺度で、その存在の意味を推し量ることなど到底できないのだ。たとえば障碍者は、少なくともその存在の意味について深く我々に思考を促すことによって、健常者自身の存在の意味についても、新たに何か気づかせてくれるのではないか?我々に思考を促すものは、我々の思考そのものと同じくらい、我々にとって恵みではないのか?
  
Posted by easter1916 at 21:01Comments(0)日記

2017年08月23日

ステッキ

ついにステッキを買ってみた。紫檀だか黒檀だかの高級品である。少なくともそう見える。以前に傷めたことがある足腰が、増えた体重のせいもあって、痛み出したからである。もっとも、以前から一度やってみたいとは思っていた。かつてお世話になった方で映画プロダクションをやっていた人のステッキ姿が素敵で、密かにあこがれていた。「ステッキかっこいいですね」と言ったら、「私は足が悪いから」と言われた。あまりに様になっていたので、おみ足が悪いのに気づかなかったのである。

私の場合、どうもそうはいかないようだ。まだ使い慣れてないせいかもしれない。ショウウィンドウに写す姿を見ると、どう見ても老け込んでいる。少し研究して分かったことだが、杖に体重をかけ過ぎてはいけない。そうすると、ステッキが震える。これが、いかにも年寄りくさく見えるのである。

これではとても、アルセーヌ・ルパンとかモンテスキュー伯爵(プルーストのシャルリュス男爵のモデルとなった人物。フリック・コレクションにその肖像画がある)のような見栄えにはならない。スッとした印象がなくては、杖は老け込ませるだけだ。だいたい、スッとした印象を与えるには、かなり痩せていなくてはならない。肥っていたら、ドーミエのブルジョワみたいになってしまう。

ステッキを突きながら、自転車に乗るときには、一苦労する。手はふつう二本しかないので、荷物と杖を持ちながら自転車をコントロールするのは難しい。どの手に何を持ち替えようと、それで手が増えるわけではないから、どうしても駐輪場などではモタモタしてしまう。しかしそれでも、人は待ってくれる。杖を突く障碍者を焦らしてはいけない。そんな心遣いを引き出すのだ。

ところが、これがまた厄介なところだ。私は、元来がせっかちなたちなので、電車が発車しそうになっていると、どうしても飛び乗らずにはいられないし、閉まりそうな扉を見れば突進せずにはいられない。こんなとき、ステッキをどう使うべきか?

ちょこまかと杖を刻みながらドアに突進するのは、いかにもカッコがつかない。かといって、小脇に抱えて走り出すのでは、何かそれまで身分を詐称してきたみたいで具合が悪い。

だいたい杖を突く障碍者は、エスカレターではどうするのが正解なのであろうか? まあ、左に詰めて静かに乗っていれば無難ではある。しかし、エスカレターでも、登山者のように右をすり抜けていく習慣があるせっかち者はどうしたらいいか? 杖を突きながら右側を登るのは、相当に怪しい姿である。実際、右側をすり抜けるには、ステッキはかなり邪魔になるし、そもそも手すりを摑むことができないのだ。

もう一つ厄介なのは、スポーツ・ジムへ行くとき。「なにも、そう無理をしなくても…」と周囲でささやかれている気がする。そんなわけで、ジムへ行くときには、ステッキもつかず颯爽と歩いていくことにしている。いくらかびっこを引きながらではあるが。
  
Posted by easter1916 at 20:24Comments(2)日記

2017年08月16日

レヴィナス再論

レヴィナスは形而上学の中に宗教的洞察を大胆に取り入れ、従来の倫理学にない論点を導入して、倫理的考察を一新した。

従来倫理学は、形而上学の中に組み入れられ、人間存在の特殊な問題領域にかかわるものと見なされ、とりわけ、人間の理性的判断に基づく考察とされたため、人間実践における普遍妥当的な価値判断やその基準を与えることに重点が置かれていた。

たとえば、カント流の義務倫理では、自己の行動規範が普遍的道徳律と合致する限りにおいて正当とされたが、他方、功利主義では、「最大多数の最大幸福」に寄与する限りでの行動が普遍的に正当と見なされた。いずれにおいても、万人に普遍妥当な説得力を持つべきであり、今ここを超えて妥当するものであるべきであった。

そうであれば、「一般に〜を為すべきである」と言えたとしても、何ゆえ私がそれをせねばならないのかを教えるものではない。

また、しばしば多様な価値と複雑な状況においてなすべき行動を計算するには、慎重さと時間が必要であるとすれば、熟慮を切り上げて不確実な決断に踏み切ることがいかにして正当化されようか?

これらの問題は、従来の倫理学では無視されがちだったと言えよう。

レヴィナスは、これに対し、主体の存在を倫理学的決断の前に前提せず、むしろその結果と見なすことで、独自の主体存在論を展開する。

何より、隣人の急迫の呼びかけが先に存在する。アウシュヴィッツに引き立てられる隣人、亡命を企てて目の前の沈みかけたボートで叫び声をあげる難民が迫っている。そのような隣人たちの顔という形をとって、神が主体に呼び掛けるのだ。

主体は未だ存在しない。泥の中に眠りこけ、まどろみ続けているのである。しかし、死体となったラザロにイエスが呼びかけたように、この神の呼びかけに応えて死からよみがえったラザロのように、主体はむっくり起き上がる。

この呼びかけを聴いてしまったとき、主体は初めて死からよみがえるのである。難民の声を誰もが聴くわけではない。しかし、それを聴いてしまったのに気づくとき、主体は既に存在へと起ち上がってしまっている。主体はコギトとして存在するよりも、窮迫の声を聴いてしまったものとして存在し始めるのである。

これこそが、神が我々に存在を贈る瞬間だ。神は抽象的に「光あれ」などと語るのではない。個々人の急迫の声として、我々に襲い掛かるのだ。それを聴いた私は、すでに存在へと目覚めてしまっている。その声を聴いてしまっている。再び眠りに落ちることはできない。いや、すでに歩み始めた時にこそ、初めて私が隣人の声、神の声を聴いてしまったことに気づくのである。その声が決断を促したのではない。すでに決断した者だけが、その声を聴くのだ。

こうして、かつての倫理学の難問は一挙に解決されている。何故、私がそれをせねばならないのか? 
それを聴いてしまったのが、他ならぬ私だからである。何故、私がそれを聴いてしまったのか? たまたま私が隣人だったからであり、聴くことで隣人になったからである。何故、それをせねばならないのか? その声が、一刻を争う急迫として、私を存在へと呼び出したからである。何故、私にはそれ以外の道がないのか? 私の存在は、その呼び出しに答えることによって、初めて存在し始めたからである。

この倫理学を、精神分析的知見によって支えることも可能であろうし、また必要でもある。さもなければ、神の呼び出しによって初めて存在し始める主体という観念は、単に大げさな比喩にとどまるだろう。

精神分析によれば、我々が言語(象徴界)に参入するさい、あらかじめ大人たちが用意したセリフをしゃべる言語主体へと、飛躍せねばならない。それは母−子一体関係にある鏡像的自我に自足することを放棄し、自足的ナルシシズム的存在を断念することを含んでいる。

これ以後、決して十分には満たされることなき(象徴的)欲望に駆り立てられ、言わば言語という仮初の姿をまとって生きてゆかねばならない。これがまさに、言語によって呼びかけられ、言語主体へと生成する瞬間ということができよう。そのような脱自的実存として、主体は呼びかけを聴いてしまった存在、二度と戻れぬ路へと出で立った存在として、自らを自覚することになる。

しかし重要なことは、幼少期に起こるかかる象徴界への参入(失楽園)が、思春期以後にもう一度、いや何度でも相似形で繰り返されることである。宗教的決断もその一つ。レヴィナスの倫理が、宗教的決断の相を帯びているのもそのためである。宗教またはイデオロギー的呼びかけが、主体に呼び掛けていることに気づく。

アメリカで志願兵を募集するための有名なポスターがある。アンクル・サムと呼ばれるシルクハットの白人男が、こちらを指さしながら呼び掛ける図だ。このような形でイデオロギーは、主体を名指して呼び掛ける。それは、イデオロギーの中に主体の位置を用意し、そこへと招き入れるためである。

子どもは両親の言語テクストの中に、自分が演じるべく用意されたセリフがあることに気づき、それに成りすます形で主体化するが、イデオロギーも同様に、そのテクスト(経典)の中に、主体が演ずべき配役を用意しているのだ。

レヴィナスの倫理の特徴は、この名ざしが隣人からの急迫という形を取るところだ。

ハイデガーの読者は、決断へと急き立てられるけれども、何を決断すればよいのかわからない。ただ死を覚悟せよ、と言われるだけだ。何のために死を冒す必要があるのかわからない。

それに対して、レヴィナスの隣人の呼び掛けは、そのつど具体的であるように見える。存在とか良心の呼び掛けといった顔のない呼びかけではなく、具体的な隣人の顔で神が呼びかけるからである。

しかし、レヴィナスによって強調される待ったなしの急迫は、人に考える猶予を与えない。

その呼びかけの意味を取り違えることはないのか? 熟慮する必要はないのか? もちろん、熟慮しても間違えることはあり得る。

しかし、熟慮するだけでなく、熟議する必要はないのか? 他者の呼び掛けに対して、孤独に決断することのみが本来的なのか?

熟議したなら、必ずや意見の対立が生じるだろう。議論はしばしば紛糾してまとまらないかもしれない。それでも決断はせねばならない。

しかし重要なことは、異論を記録しておくことであろう。裁きは決着をつけるためにあるよりも、むしろ、決着がつかない事柄を蒸し返すためにある。裁きの誤りを記録するためにある。歴史をやり直すため、敗者をよみがえらせるために、記録は存在する。

レヴィナスは、 急迫の決断を、さながら最後の審判のように見ている。あるいは、直接最後の審判の法廷に登録されたものであるかのように。しかし、最後の審判の前にも、まだ我々にやるべきことはあるのだ。

結局、レヴィナスの倫理の欠陥は、体系的意味論の欠如、それゆえ弁証法の欠如であり、倫理(他者の呼び掛け)を一義的な結論的意味しか持たないものと見なし、したがって自由の余地、創造の余地を与えず、倫理を一つの道徳的恫喝にしてしまう点にある。「アウシュヴィッツ!」と叫べば、それだけで人々を平伏させることができるかのように。それは所詮ルサンチマン道徳の域を出まい。

しかし、どんな隣人の問いかけにも、ただ一つの正しい答えしかないわけではないのである。それが見つかるかもしれないし、複数見つかるかもしれない。またどの答えがより良いかについても、観点により議論が分かれることがある。

問題解決を、いまだ到来しない自由へと開かなければ、道学者的恫喝とルサンチマン道徳は避けがたいのである。
  
Posted by easter1916 at 00:40Comments(8)哲学ノート

2017年08月15日

右派の方への返答

最近、拙論「井上達夫氏の新著と憲法論」2,015 7・7に対して批判をいただいた。
http://eumajapan.blog.fc2.com/blog-entry-150.html

ありがたいことである。これに似た立場の方がほかにも多数いると思うので、いくつかの論点について応答してみよう。

もとより、政治的判断については非常に複雑な多数の要素を考慮したり、前提にせざるを得ないため、数学のような確実性は期し難く、また私自身も経験による免れがたいバイアスもあるだろうため、容易に相手を説得できるとも思わないが、自他ともに対して、ある程度の議論の整理や明晰化には資するかもしれないので、以下ざっくばらんに、またラプソディックに論じてみることにする。
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Posted by easter1916 at 19:50Comments(3)時局

2017年07月24日

アリストテレス『デ・アニマ』の解釈

拙著『古代ギリシアの精神』p−183〜188におけるテクスト解釈について、もう少しわかりやすく説明できるかもしれないので、以下少々詳しく論じてみよう。
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Posted by easter1916 at 05:10Comments(0)哲学ノート

2017年07月12日

アステイオン

先日堂島サロンでした講演が、有能な奈倉有里さんの手で要約されて、アステイオンに載っている。
http://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/essay/index.html?_ga=2.61694447.27440846.1499798261-1711785057.1499798261
例によって、私の実際の話より、よほど要領よくまとまりのいいものに仕上がっている。思わず、こんないいことを私が言ったのか、と錯覚してしまうほどである。
  
Posted by easter1916 at 03:50Comments(4)日記