2019年07月14日

山本太郎氏の政治(その後)

先日、品川駅前で行われた山本太郎氏とその仲間たちの選挙演説会に行ってみた。駅の階段に至るまで、聴衆でびっしり詰まった会場の熱気は、とても他の選挙運動の類ではない。何が聴衆をそれほど熱狂させるのだろうか?
  
私は前に、この運動にそれほどの信頼は置いていない、と語った。それでも、一抹の希望を託して少額の寄付をしたと記した。その後、この政治運動を観察して気づいたことを記しておきたい。

まず、長らく待たされたうえで発表された他の候補者の面々、その異色の経歴にも驚かされたが、この間しみじみ感じているのは、候補者一人一人の発言が、まるでバラバラだということである。しかも、一人一人が自分の言葉を持っている。このことは、この社会で生きる者としては、実に例外的なことではなかろうか? 政治においても他の場所でも、クリシェを繰り返すのが一般的だからである。誰かの口真似、借りもののお題目、管理されたお仕着せの表現でないものはほとんどない。

「れいわ新選組」のひとたちは、てんでバラバラに自分が言いたいことを語っている。しかも自分自身の生きた言葉で!コンビニのオーナーとしての怒りをぶつける人がいる。派遣切りにあったシングルマザーがいる。しかしその声はなぜか明るい。ずっと辛酸をなめているのに、彼女はほとんどはしゃいでいるといってもいい。それほど自分自身の心の叫びの言葉を発することができるのが楽しいのであろう。 淡々と静かな口調で自然保護を訴える人がいる。子供を守れとしか言わない大学教授がいる。それは政策であろうか? かと思うと、何やらいかがわしい金融の専門家がいる。ただし彼は、大学教授のように理路整然と金融の錯誤を厳しく指摘している。

常識的に考えて、この人たちの間で意志一致ができているのであろうか?たとえば、山本代表は大胆な投資と強力な消費喚起を唱え、それによる経済成長を目指している。それと、環境を保護し身の丈に合ったつつましい暮らしを説く候補者の間に、対立はないのか? あるいは、特定の福祉政策だけを掲げるシングルイシューの候補者は、その政策と全体とのバランスをどう図るつもりなのか?

突っ込みどころは満載のようにも見えるが、このようなことは、いずれも枝葉末節のことに過ぎないことがわかってくる。この国は、そんな政策論議がもはや無効になるほど、徹底的に破壊されつつあるではないか? 政治の原点がそんなことにないことは、もはや明らかだ。

政策提言で見れば、山本氏の主張は、日本共産党の主張に似ている。私は、共産党の政策も、議会における活躍も高く評価する点で、人後に落ちないと思う。だが、共産党の選挙運動は山本氏の政治運動ほどの熱気が生まれているとは思えない。これはなぜか? 共産党の候補者の発言が、誰を取っても一律のように感じられることも理由の一つかもしれない。

山本氏たちは、それに対して、生活者の怒りの声を掬い取っている。いや、生活者の声を「代弁する」のではない。彼らは誰かをrepresent(代理)するのではない。自分自身をpresent(呈示) しているのだ。自分自身が生活者として登場しているのである。

とりわけ私が評価するのは、消費税を廃止すると言い出したことだ。もちろん共産党も昔から言っていたことではある。しかし、山本氏が本気で言い出して初めて、それが本当に現実的な課題であるということが、浸透したのではないだろうか? 大事なのは、この本気かもしれない。今や、「立憲」や「国民」までが、消費税凍結を言わずにはすまなくなっている。たった一人の国会議員が、政治的議論の地平を一新したのである。なんという力量であろうか!

山本氏は、公務員をもっと増やせと主張している。これには、私自身の盲点を気づかされた。私も気づかないうちに、公共部門の非効率性という神話に惑わされ続けてきたのだ。部門によっては、もちろん市場化によって効率化が実現するセクターも存在するが、それが根本的に適合しない分野、たとえば教育とか医療とか水道事業とか、また部分的にしか適合しない分野、たとえば農業とか都市開発とかが存在することを忘れてはならない。

高度に複雑化する現代社会において、公共的分野は当然拡大する傾向にあるのに、それを削減することばかり考えてきた結果、我が国の教育や福祉の現場は、見るに堪えないほど荒廃し続けているのではないか? この点に共感する人はまだ少数であろうが、これまでの我が国の論壇の盲点を突く議論であることは明らかである。学界がペダンティックなひけらかしに走ったり、流行を追ううちに次第に白痴化していく中にあって、このような言説は、大胆に公論の地平を変えるインパクトを持つものと言えるだろう。

個々の候補者の政策に様々のヴァライエティがあること、異論があることも問題ではない。どれがほんとに正しいのかなど誰にも分らないのだから、初めからきっちり決めておいてもどうなるものでもあるまい。そんなことは、ただのお体裁にすぎないのである。このようなことこそ、松下政経塾以来わが国の政治文化において忘れられていることである。おしなべて政経塾出身者たちは、見掛け倒しの体裁屋にすぎないではないか!野田、前原、松沢、玄葉… (自民党が少ないのは、政経塾が世襲自民党に足場のない立身出世主義者=権力亡者の温床に過ぎないからである)

大局を見なければならないのだ。政治の大局とは、問題設定の地平を支配することである。山本氏の消費税廃止は、それによって大局を動かしつつある。この度の参議院選挙には、ひょっとして間に合わなくても、確実に次の衆議院選挙にはつながるだろう。


ご参考までに、福島における山本候補の演説を紹介しておこう。特にこの後半部分に、山本候補に真剣に反論する紳士が声を上げる部分があるので、それをめぐる火花の散るような討論に注目していただきたい。ここにこそ、生きた言論がある。官僚が準備した原稿を見なければ何もしゃべれない(しかも、しばしばその原稿の漢字を誤読する)連中と、際立った違いがここにある。

https://www.youtube.com/watch?v=cnPy-YfT6DU



  
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2019年07月02日

新たな中東の危機

トランプ大統領と金正恩委員長の電撃会談は、もちろん我が国にとっても、韓国にとっても、米朝両国にとっても、喜ばしいことには違いない。これを歓迎しないのは安倍政権だけである。この出来事を何とか過小評価しようとしている日本のちょうちん持ちマスコミは、実に涙ぐましい無意味を垂れ流し続けている。

しかし、今注意すべきなのはそのことではない。我々は、これが新たな中東の差し迫った危機につながることを忘れるべきではないのだ。明らかにトランプの取り巻きは、イラン侵攻、または小規模武力行使のチャンスを虎視眈々とうかがっているのであり、たとえトランプ自身が今のところそれに踏み切るのを望まなくても、今後、自身の選挙戦が不利に進行した場合には、トランプ自身も戦争に抵抗し続けることはないだろう。

トランプがその為の布石を打つために、今般の電撃会談を行ったのは明らかであり、トランプの取り巻きが(特にボルトンやクシュナーが)それを容認しているのは、イラン攻撃をすでににらんでいるからであろう。というのは、金正恩との会見だけであれば、全米ではさほどのインパクトを与えることはできず、いつものトランプ流パフォーマンスに過ぎないと受け流されてしまうからである。それゆえ、この出来事だけで、大統領選挙が劇的に有利に展開するということはない。

しかし、イラン戦争となれば、そうはいかない。それは、トランプ陣営を一段と結束させるだろうが、それだけではない。民主党は、それに対抗することができるだろうか? もちろんユダヤ系マスコミやハリウッドが有効な抵抗をすることはない。ただでさえ、戦争となると一致して大統領を支持する傾向のある議会や有権者が、そのような無法な戦争に抵抗するのも難しいだろう。ニューヨークやカリフォルニアでは、激しい反戦運動が巻き起こるが、それでも戦争は起こるだろう。湾岸戦争イラク戦争において、百万人のデモが起こっても戦争自体を阻止することができなかったことを思い起こすべきである。

トランプを取り巻く妄想的極右勢力(これはもちろんトランプと同じイデオロギーではない)は、限定的武力行使にとどめることをもくろんでいて、それを大統領にも具申するであろうが、そんな夢想通りに事が進むはずはない。イラク戦争やトンキン湾事件の例を見ても、いったん始まった戦争は予見不可能な進行をするものである。場合によっては、核使用に訴えることも十分あり得ることを忘れるべきではない。戦況が不利になった場合、この政権に最小限の自制心を期待できないからである。
  
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2019年06月13日

山形新聞への投稿――マルク・ブロック

「私はフランスに生まれ、フランス文化の泉から多くを享受した。フランスの過去を自分の過去とし、フランスの空の下でなければ安らげない。だから今度は私がフランスを守る番だと、最善を尽くしたのだ。」   (マルク・ブロック『奇妙な敗北』)

ヨーロッパ中世史の碩学にして、アナール学派の総帥としてヨーロッパ中に高名を馳せたマルク・ブロックは、二度の大戦をフランス軍将兵として戦った。そして、自らの経験をもとに、その敗因を、歴史家的分析によって容赦なく暴き出した。それを記したのが『奇妙な敗北』である。そこには軍隊組織のみならず、フランスの社会と文化にまでわたって根を張った脆弱性や敗北の背景が、徹底的に掘り下げられている。愛国者なればこそ、その欠陥を見過ごせなかったのである。

その後、ヴィシー政権が易々とヒトラーの軍門に下り、祖国の自由を敵に売りわたしたのに抗して、ブロックはあえてナチズムとヴィシー政権と闘うレジスタンスの隊列に加わった。彼は、持ち前の気品と優雅さを少しも失わずに、レジスタンスの中に厳格な規律と軍隊的組織性を浸透させて、マキ(レジスタンス軍事組織)の中心人物の一人として活躍したのである。時代が雪崩を打って狂気へと流れていった中にあって、学問の真実と祖国の自由のために献身したこの老教授は、ついに1944年6月ファシストどもの手に落ちて、26人のレジスタンス戦士とともに銃殺された。最後の瞬間まで仲間たちを励まし続けていたと言われる。

「なぜならブロックがどのように死んだのか、今では知られているからだ。彼の傍らで16歳の少年が震えていた。「痛いだろうな」。マルク・ブロックは優しく少年の腕を取って、ひとこと言った。「とんでもない、痛くなんかないよ」。そして「フランス万歳!」と叫びながら、最初に倒れた」(同 序文より)。
  
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2019年06月08日

ミキ・デザキ監督『主戦場』

渋谷で『主戦場』を見てきた。

http://www.shusenjo.jp/

この映画は、いわゆる「従軍慰安婦」をめぐる論争を、その主要な当事者にインタヴューしながら、ていねいにたどっていくドキュメントである。あくまでも言論とそのアリーナを信じる点で、いかにもアメリカらしいということができる。

我が国の監督だったら、このような問題では、対立する両陣営があまりにもかけ離れているから、水掛け論になるのは見えているとばかり、早々と「議論」は諦めてしまうだろう。かくて初めからどちらかの陣営のプロパガンダとなり、その結論を説得しようとして、過剰な感情に訴えることになる。そのような態度が初めから顕わだと、対立する陣営は警戒して、率直なインタヴューなどには応じないのが普通だ。ところが、ミキ・デザキ監督は我々から見るとどこまでもタフで、平気で中心部に切り込む。たやすくシニシズムに流れる我が国の政治風土とは、まったく違う土壌にできた作物のように見える。

もっともこの監督の成功は、彼がアメリカ市民であるという点が有利に働いているに違いない。我が国の右翼は、アメリカの腰巾着のような立場を無意識に取るのに慣れていて、幇間根性が習い性となっているため、自分がアメリカの代弁者である以上、アメリカ様のご意向をいつも反映していると思い込み、どんな人でも英語を流ちょうに話すだけで自分の仲間であると信頼する傾向があるようである。だから。ミキ・デザキ監督が現れたとき、無条件で自分の仲間だと思い込み、仲間内でならいつも通用していた放言を無警戒に連発したのであろう。

自民党では、仲間内だと思って不用意な失言をすることが相次いでいるが、彼らのメンタリティが、小ボスたちのお座敷で受けを狙った一発芸で笑いを取る、といった程度のものであることを、雄弁に示している。ちやほやしてくれる取り巻きをはべらせたお大尽が、酔った勢いでつい気を許して大ぼらを吹くと言ったところなのである。それが生粋のアメリカ市民を相手に通じるはずもない。恥をさらしてしまうのも当然なのである。

果たせるかな、彼らの幼稚さが浮き彫りになる。いっぱしの歴史家を自称する者が、「他人の書くものは読まない」とのたまうし、「国家は一度でも謝罪したら終わりだ」などと放言する。奴隷貿易を謝罪した英国や、日系人の強制収容を謝罪したアメリカは、終わったのだろうか?と突っ込んでも始まらない。彼らはただへべれけ共同体でくだを巻いているにすぎないからである。要するに仲間内で、とりわけ目下の者を相手に、無責任な放言をものするが、かくて肥大化した彼らのナルシシズムが、他者の視線を無視する極端に閉鎖的世界を作り上げるのだ。

この映画は、論争を忠実に追っていくが、その決着よりも興味が惹かれるのは、取材された者が醸し出す雰囲気であり、幼稚さであり、傲慢さである。それは映像のみが雄弁に語るものだ。気色の悪いニヤニヤ笑いや、人を小ばかにする不謹慎な発言や、甘やかされた育ちの悪い子どもに特有の目に余る無作法が、至る所で横溢しているのである。我が国における「エリート」なるものがいかに矮小であるかが、いやというほど示されていて、あらためて同胞として恥ずかしいと思う。

誰かがパンフレットに記していたように、このように論争をあくまでもフェアに扱うと、相手を過大に評価することになる、というのはあたっているが、それでも素朴なまでに議論を公平に追うという態度のみが、期せずしてかかる腐敗臭を映像に記録することができたのである。その意味で、映像作品として成功している。

とはいえ、このような作品を創ることができたのは、アメリカ社会の伝統なのであり、残念ながら我々の社会の伝統ではないことを十分にわきまえるべきであろう。作品パンフレットに書かれてあるように、南京大虐殺の当事者として、「野田少尉は、最終的には374人の中国兵を斬り殺したと地方紙(鹿児島新聞と鹿児島朝日新聞)で語り、講演会などでも同様の発言をしている。また向井少尉については、ついに305人斬りを達成して500人斬りを目指しているとの記事が、東京日日新聞1939年5月19日版に掲載されている。武器が日本刀であることを考えれば、殺された人の多くは兵士ではなく市民と考えるべきだろう」(あるいは、捕虜である可能性もある。いずれにせよ完全に違法である。)

これら新聞の記事は、つい先ほどまで、これらの蛮行を嬉々として日本国民が受け入れていたことを示している。「中国人や韓国人は、嘘をつくよりも嘘をつかれる方が悪いと教えられているのだ」などという根拠もない民族差別に染まっているこんな連中であれば、やはり今でも実際にやりかねないのではないか。当時のことを何も反省しないのだから、いざとなれば同じことをしかねないのである。

わが民族は、いつになったら立ち直ることができるのであろうか?
  
Posted by easter1916 at 03:24Comments(0)日記

2019年06月06日

山本太郎氏の政治運動

山本太郎参議院議員がこの度始めた政治運動(新党ひとりひとり)に、思い立ってごく少額の寄付をしてみた。

https://www.hitori2.jp/

これまで、特定の政治組織に個人的に寄付したことはなかったと思う。この新党は、山本氏が小沢一郎氏らのグループが国民民主党に加わることがきっかけで生じたものらしい。政党の離合集散は近年激しいものがあるし、たいていそのたびに有権者として裏切られ続けてきたように思う。

したがって、今回の政党組織にも大した期待はよせていない。ただ、選挙の時に一票を投じるだけの政治参加は、はなはだこころもとないものであり、これまでも無力感にさいなまれてきた。政治資金の寄付による政治参加の道も、老兵にとってはそれほど捨てたものでないかもしれない。馬券を買わずに競馬を見ても面白くないものだが、コミットせずに政治を眺めていてもあほらしいものだろう。
  
Posted by easter1916 at 03:34Comments(0)時局

2019年05月13日

レヴィナスの意味論

レヴィナスは我々の感覚や感情のような非志向的経験に注目して、それらが志向性に還元できないものであることを強調する。同時に、ノエマとして主題化されず、それゆえ存在の体系の中に(つまりは言語で語られたものの中に)収まらない意味を見出す。

志向的経験は、志向的内容という意味に還元されてしまうが、食べる満足のような意味は、志向的内容をはみ出す。もちろん、食べる満足を主題化してその内容を取り出すことは可能だが、その経験が、その何であるかということに尽きるわけではない。ラーメンを食べるという内容、またそれによって私が満たされたという内容は、志向的内容として表現されるかもしれないが、実際に食べることで与えられる感覚は、体験されなければわからない。

このような非志向的経験をとらえようとすること自体は正しい。
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Posted by easter1916 at 01:43Comments(0)哲学ノート

2019年04月16日

骨髄バンク

山形新聞への投稿
「骨髄バンク」

池江里佳子選手の白血病の公表は、多くの人々に、胸を締め付けられるような衝撃を与えた。しかし、深刻な病を負わねばならない可憐な少女が、そんな苦難の中で表明した声明には、トップ・アスリートにふさわしい品位英知が示されていた。骨髄バンクへのドナー登録が増えていることを、支援者に感謝したのである。

骨髄バンクに登録しても、血液型によっては池江氏に直接助けになるとは限らない。しかし、池江氏への注目は、結果的には同じ病に苦しみながら骨髄移植を待つ多くの人々の救済につながるのだ。

大相撲では、ひいきの力士の取り組みに懸賞旗を立てることができるが、それがその力士の手取りになるのは、彼が勝ち星を挙げた時だけである。ひいき力士への応援は、相手の力士への応援にもなる。ここには深い知恵がある。個人への応援が、そのまま公共的意味へと昇華されるということである。

今般示された池江氏支援のためのドナー登録では、他の多くの患者の救済になり得るということが、池江氏への声援を削減するどころか、かえって強化することが示された。なぜなら、それは多くの患者を共に救済することによって、池江氏への声援の意味を一層高めるからであり、彼女自身そのことを明確に実感しているからである。自己の存在が他の患者の救済につながるという自覚そのものが、彼女に勇気を与えているのだ。

たとえオリンピックなんかに出場できなくても、すでに池江氏の闘いは、出場をはるかに超える社会貢献を成し遂げているのである。もとより選ばれたスターだからこそできる貢献には違いないが、このような人が我々に与えられていることを、私は多くの患者たちとともに祝福し、感謝したい。
  
Posted by easter1916 at 19:11Comments(0)日記

2019年03月07日

大澤氏の自由論(2)

大澤氏は、江夏豊投手と落合選手の対話からきわめて興味深い洞察を切り出している。江夏投手は、麻雀の席で落合選手が投手の在り得る投球すべてに対して、周到に備えて球を待つ落合の態度では、江夏のような天才の球を打つことはできないと言うのである。「どうしてお前は『この一球』を待てないのか?」と江夏は語ったと言うのである(p−203)。

打者は、さまざまな球種に備えようとすると自然に、かえって、それまでの投球内容から次の球として最も確率的に高いと判断される球種を待つ態勢を作ってしまう。この確率についての判断は、実際の配球によって変わるので、打者の態勢にも少しづつ変化が見られる。この変化から、投手は、打者が何を待っているかがわかってしまうというのだ。だが、「この一球」を待つことができる打者には、こうした「迷い」からくる態勢の変化が現れないので、どのコースのどんな球種を待っているかを見抜くことができないというのだ。(p−205)

これは実に興味深い考察である。投手も打者も、相手の行動を観察して、何を次にしようとしているかを推測せねばならない。投手が投げなければ勝負は始まらないのであるから、勝負の主導権は投手にある。

しかし、投手がいったん球を手から離せば、それ以後コントロールできないのであるから、打者の方が一瞬後に対応できることになる。つまり、ほんのわずか打者が後出しじゃんけんをしていることになる。

ところが、この一瞬の後出しこそが打者の罠なのだ。打者は、その優位を利用しようとするあまり、球を一つに絞りきることができない。この迷いが投手に読まれてしまう。それを避け、少なくとも投手と対等の立場に立とうとするなら、打者は一球に絞ってそれに賭けなければならない。これが江夏投手の教訓だ。

ところが、大澤氏はこの話を劇的に誇大なものにする。江夏の言う「この一球」を単なるパタンではなく、直知の対象とするのだ。直知(acquaintance)とは、顔見知りの顔のように、一目見ればそれとわかるような、概念に依存しない知識のことである。それは対象が実在して、そこから豊かに情報を得られるような場合に成り立つ関係であるから、いまだ到来していない投球を「この一球」として直知することは本来できない。

「この一球」と指し示すことができる、単一(シンギュラ)の球を待つ――待ち続ける――ことができる者のみが、江夏のような傑出した投手の球を打つことができるのだ。(p−203)

ここでは、いまだ到来していない(それゆえ待ち続けられる)この一球がシンギュラなものとして指し示すことができる、という不思議な関係にあることが強調されている。いまだ実在していないものに対してアクウェインタンスを持つという観念の奇妙さに大澤氏は十分に気付いたうえで、このような表現をしているのである。

確かに、他の類似物ではなく、ただそれをのみ待ち続けていたのだと思わせるものの到来を、我々はまれに経験するようなことがある。『ラ・トラヴィアータ』の第一幕でヴィオレッタが歌う絶唱「ああそは彼の人か」ah,forc'e lui che l’ animaは、ヴィオレッタが長いこと夢見ていた人が、実際に目の前に現れた驚きを歌っている。アルフレードは、この時まさに江夏のこの一球のように、ヴィオレッタの前に現れたのではないだろうか? それは、この人との出会いがまさに運命であったと感じる瞬間である。この出会いの偶然を運命にするものが、大澤氏の「第三者の審級」である。

直接の直知の担い手は、実は、「私」ではないのだ。蓋然性を直知しているものは、まずは「他者」なのである。厳密にいえば、それは、私の自由に可能条件を与えるような、超越論的な「他者」――第三者の審級――である。それゆえ、蓋然性の直知とは、そうした蓋然的事態を直知している第三者の審級を想定することができる、ということなのだ。(p−206)

ブラヴィッシモ! 大澤氏も、このくだりを書いているときには、さすがに「してやったり!」と感じていたことであろう。

それでも私の散文的な(凡庸なといってもよい)理性は、「ちょっと待て」と言わずにはいられないのである。それらすべては、美しい幻想ではないのか? ヴィオレッタはただありふれた乙女らしい類型的な夢を見ていただけなのであり、それにかなう理想的な青年が目の前に現れた時、「この人こそ、私が夢見ていたシンギュラなその人である」と錯覚しただけではないのか? 江夏の教えを受けた落合は、それ以後ただヤマを張るようになっただけではないのか? 東郷元帥がバルチック艦隊の進路を対馬海峡と読んだ時、運命を直知したと感じる(信じる)必要があっただろうか? それらすべては、事後的合理化ではないのか?

大澤氏が来るべき未来に「第三者の審級」になりうる他者を設定するときにも(p−524)、同じようなことがより際立って現れる。未来はいまだ実在していないのであるから、アクウェインタンスの対象にはなり得ず、ただ確定記述によって描写されるだけである。シンギュラなものとして指示できるものではない。それは想像によって自由気ままに設定できるものであり、決して象徴界を担えるようなものではありえない。

大澤氏も「いまだに存在していないものの存在の、この先取り的な想定」(p−524)が「抽象的な不定の〈他者〉のこと」(p−525)であると認めている。つまりシンギュラな指示ではないのだ! そのうえで、「ともあれ、こうした恋人たちと同様に、我々の任意の営みは、これを対象化し――つまり未来の時点から反省的に捉え――、我々の営みから快楽を得ることになる、未来の〈他者〉を措定することができる。〈自由〉とは、この未来の〈他者〉を措定することの能動性=選択性である。」(p−525)と述べる。

この〈他者〉は、「対象化し」「反省的に捉え」ると言うのであるから、少なくともアクウェインタンスの対象ではないだろう。

これに見る限り、大山鳴動して鼠一匹という印象をぬぐい得ない。このような〈他者〉はせいぜい想像の産物にすぎず、それが想定する自由とは、若いカップルがまだ生まれもしていない子供たちの将来を語るようなものである。第三者の審級はどこに行ったのだろうか? どこに運命があるのか? どこに自由があるのか?
  
Posted by easter1916 at 03:22Comments(0)書評

2019年03月06日

大澤真幸氏の『〈自由〉の条件』(1)

大澤氏の同書を拝読して、あらためてその光彩陸離たる健筆ぶりに刺激を受けた。これほど多くの専門分野を領域越境的に横断して、しかも的を外さない書き手はほとんど現代のわが国にはいないのではないだろうか? であるからして、叙述に多少の瑕瑾があったとしても、それを意地悪くあげつらうようなことは避けた方がよかろう。むしろその勇気をたたえるべきなのである。
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Posted by easter1916 at 04:42Comments(0)書評

2019年02月19日

ハンニバル

山形新聞「ことばの杜」への投稿

〔カルタゴが圧倒した〕あらゆる新たな戦闘後も、彼〔ハンニバル〕がローマの将軍に〔個人として〕優ったように、ローマ人はカルタゴ人よりも〔ポリスとして〕優位にあったこと、そのようなことを彼は極めてはっきりと見抜いていた…ハンニバル自身が幸運の絶頂にあっても決して以上の点を思い違いしなかったことは、彼の極めて驚嘆すべき戦闘以上に驚嘆に値する  (モムゼン『ローマの歴史』「ハンニバル戦争」より)

ローマがまだ共和国であったころ、カルタゴと地中海覇権を争った戦争において、ハンニバルが登場する第二次ポエニ戦争こそ、両国の存亡をかけたハイライトであった。共和制は、合議を要するから素早い軍事的決断では遅れを取りがちだが、国民一人一人の献身を引き出す点で、長期的にはしぶとさを発揮することもできる。独裁者は、しばしばその点を読み間違うものだ。 

ハンニバルのカルタゴは、貴族・有力者が、国の存立より己れの利に走るあまり、国民の意志一致が難しかった。そんな国情を知り尽くしていたハンニバルは、次々と奇策を繰り出してローマ軍を圧倒したが、祖国は彼を十分には支援しなかった。さしもの彼もザマの戦いで敗れ(BC.202)、カルタゴはついには灰燼に消えてゆく(BC.146)。

ここには、軍事力より政治こそが長期にはものを言うという深い教訓がある。しかし分けても悲劇的と思われるのは、これらすべてをハンニバルが誰よりも明晰に認識していたということ。自国・自陣営の弱点や欠点を認めることは誰にとってもつらく難しいことだが、連戦連勝のさなかにあってさえ、決して夜郎自大に流れず、この点でいかなる幻想も抱かなかったハンニバルの恐るべき慧眼、その深い憂国の熱情は、敵国ローマの歴史家たちの筆を通して我々に伝えられている。
  
Posted by easter1916 at 22:11Comments(0)日記