2016年09月23日

倫理の戦線

山形新聞への投稿。今回はアリストテレス。

「戦闘において総退却が生じるとき、一人が踏みとどまると、もう一人が踏みとどまり、さらにまた他の人がとどまるというようにして、〔反撃の〕最初の出発点〔が確保される〕まで続く。」アリストテレス『分析論後書』第二巻19章

古代ギリシアの陸戦では、重装歩兵団と言って、盾をぴったりと並べ立てて戦う形をとっていた。この戦闘形式がギリシア人に与えた精神的・政治的意義は、いくら強調してもしすぎることはない。同僚とごく身近に接して戦うので、自分の勇気は直ちに同僚に伝わり、逆にいかなる恐怖心もすぐに伝染する。ここから互いにあい励ます連帯の重要性を、彼らは肌で学んだのだ。

かつて東京湾の谷津干潟が、ゴミ捨て場とされて荒廃の極みに達したとき、森田三郎という一人の新聞配達員が起って、黙々とゴミ拾いを始めた。少年の時に潮干狩りをした思い出が、彼を突き動かしたのである。何年もの間、森田氏は一人孤独な奮闘を続けたが、やがてその活動は周囲の人々を動かしていく。その孤独な戦いを見守る心弱き人々の気持ちを推し量ることはたやすい。初めは嘲笑し、やがて当惑し、ついには恥じつつも、なかなか声を上げることができない。そんな人々が、それでもやがて大きなうねりを作り出し、ラムサール条約への登録を勝ち取り、干潟の保護につながったのだ。

我々でも、一人くらいはいいだろうとばかりモラルの戦場を放棄すれば、それが他人にも感染し、たちまち社会のモラルは瓦解に瀕する。しかし皆が潰走する中にあっても、踏み止まる人はいるものだ。その最初の一人になるほどの勇気はなくとも、二人三人と踏みとどまって作り出された戦列に並ぶくらいの気概は誰にでもある。それによって、不可能と見えたものが可能になる。味方に数倍するペルシアの大軍を撃破し、そこから永遠に色あせない文化的偉業の基を築いたのも、もとはと言えばそんな諸個人の連帯に基づいていたのである。
  
Posted by easter1916 at 23:13Comments(0)TrackBack(0)日記

2016年09月12日

パリサイびと

パリサイ人とは、ユダヤ教の改革派で、サドカイ人と対立していた。サドカイ人は、ユダヤ社会上層に位置し、ローマ帝国の支配とも妥協する必要上、律法を緩める傾向があった。

そんな彼らに対して、パリサイ人は律法を立て直す改革派として登場した。

イエスは、いずれとも対立していたが、とりわけパリサイ人に対する厳しい批判が福音書には顕著である。

これはやや意外の感がある。腐敗した神殿勢力や、ローマ帝国支配と妥協するサドカイ人に対する道徳的批判を展開するパリサイ人に、どんな落ち度があるというのであろうか?
  続きを読む
Posted by easter1916 at 01:54Comments(2)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月03日

社会契約とロールズ

社会契約説は、国家を理性のみによって正当化する野心的な試みである。

だが、自然状況でいかにして約束を守ることができるかに答えることは難しい。

理性と恐怖だけを頼りに議論を進めるホッブズの言うように、自然状況が誰から見ても耐え難いとしても、そこで社会契約を結ぶことがどうして可能なのであろうか? それをしも利用して、相手を出し抜こうと考えるのが本来「自然状態」なのではないか?

ルソーの場合は、少し状況が複雑である。自然状態から始めるのではなく、文明によって堕落した自然から出発するほかない。そこで、不自然なものを取り除くことが必要となる。そのために国家の暴力が必要だろう。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 22:29Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月02日

倫理的判断の真理値

以前、「Peacocke(2)倫理の法廷」2015年10月26日で述べたように、倫理学に対する私のスタンスは、ほぼアリストテレスに沿ったものである。

私の議論にお付き合いいただく人には、倫理が我々の単なる感情の表明などではなく、規範的で合理的な言語活動であることを、とりあえず認めていただくことにしよう(吟味や批判が可能な、理由づけられた発話の活動)。そうでなければ、議論に付き合うことは必要でも可能でもないからである。

もっとも議論に開かれているといっても、議論が常に決着可能だということではないし、どの倫理命題にも真偽が確定しているとか、二値原理や排中律が成り立つということでもない。これは倫理学における反実在論であるが、それは、真理値付与を一般に否定するものではない。

しばしば、すべての倫理命題に真理値がなければ、まじめな倫理的議論が不可能だと考えるような非常に素朴な議論が見られるので、この点は特に強調しておきたい。倫理命題に非認知主義を取らない(真理値を認める)ということと、倫理命題に常に二値原理は成り立つわけではないとする反実在論とは、両立するのである。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 19:20Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年09月01日

「ソフトな決定論」再論

必要上、アイザヤ・バーリンの『自由論』を読み直すことになった。バーリンはいわゆるソフトな決定論(倫理的責任と決定論の両立可能論)を批判し、奔放rampantで骨太robustな自由意志論を主張している。

結論から言えば、私はバーリンの両立可能論批判には共感するが、必ずしも説得的な議論にはなっていないと思う。ソフトな決定論は学者のひねり出したへ理屈にすぎないというのが、バーリンの本音なのである。だからこそ、まともに議論する気が起きないのだ。

その点も理解できなくもないが、敵陣営には、E.H.カーのような重鎮までいるのだから、イギリスではどちらかといえば敵方の方がファッショナブルなのであろう。

決定論は、カントのアンチノミーの議論によれば、因果律をリサーチ・プログラムとは見ず、物自体の本性と見なすものである。探求方法の性質を探求対象の性質と見なしてしまう形而上学的投影の一種であるから、もとより決定論に、何か科学的ないし合理的裏付けがあるわけではない。

因果律だけからは、すべてが決定されているという決定論が正しいか、それとも原的な偶然性が当たり前のように存在しているのか、いずれとも決しない。

そのようなものに頭を悩ますいわれはないのであるから、それを、本来まともに相手にするには及ばない。

しかし、ソフトな決定論は、単に誤っているというより、人間存在の特異性を逆からあぶりだすことになるので、詳論するに値するのである。以前にも「ソフトな決定論について」(2014年5月9日)で論じたが、より詳しく論じてみたい。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 03:57Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年08月21日

「全体的」「本来的」

亡き人が何をもたらしてくれたのかは、すぐにはわからない。生きている間には、それを考えることは難しい。なぜなら、生きている人には、応答し、かかわり続けなければならないからである。

かかわる時間、生きる時間は、互いに積み上げ、紡ぎあう時間であり、何が与えられたのかを考える時間ではない。

意味を考える時間は、亡き人を思う時にやってくる。終わった生を全体としてまとめ上げ、その存在の意味を問い直すこと、その言動を一つのテクストとして読解することは、死後に初めてやってくる。

その時、言動の相互間連やその生前には伏せられていた意味が浮き彫りになってくる。時間をおいて眺めれば、相互の部分の軽重が変化し、見逃されていた細部の意味とその連関に新たな理解がもたらされるからである。

死者との対話は、生きている者との対話と違って、一方的であるがゆえに、死者の言葉を我々自身が考えねばならない。生きている者との対話であれば、不明なところがあれば、直接問いただせばいい。そこで考えるべきことは、自分自身が本当は何を考えているかである。生きている者との対話は、実際には我々自身が何を考えているかを明確化するためになされ、死者との対話は、彼が実際何を考えていたのか、あるいはその存在の意味が何であったのかを考えるためになされる。

死者はそのとき、書物という形を取ろうと否とにかかわらず、テクストとして現れるのだ。言葉がその真の意味で立ち現れるのはここである。

これに比べれば、生者との対話は、相互行為の延長、殴り合いや愛撫のようなものである。そこにも意味は現れるとはいえ、それらは次々と後に続く行為の意味によって上書きされ、深部へと沈下し、層をなして堆積してゆく。当面われわれの意識が集中するのは、表層にある意味だけである。

それゆえ、人間の言動の(テクストとしての)意味が――つまりは意味として問われる人間存在そのものが、全体的かつ本来的に問われ得るのは、死によって遠く隔てられた他者の存在としてのみである。

それゆえ、愛し合うことは、本来不可能であることがわかる。我々は生きてかかわりあう限り、その存在を互いに全体的に本来的に考えることができないからである。

愛は意味に向かうのではないし、まして意味によって愛が生じるのでもないが、我々を亡き人の存在の意味へ向き合わせ、その意味への問いへと駆り立てる。愛は問うのであり、意味を求めるのであり、意味に安住させ満足させるのではない。どのように考え続けようと、問いかけようと、決して我々はその答えに満足することはないだろう。その意味で、愛は感性でも悟性でもないし、いかなる認識でもない。ただ認識への起動力ではある。愛は亡き人との関係として初めて完結する。永遠に未完の問いとして。

イエスの犠牲の意味は何であったのか? いかなる教義によっても、すでにすっかり与えられているわけでもない。それは、イエス自身から彼を愛する力を与えられた人々、その力に突き動かされる人々すべての固有の問であり続けている。
  
Posted by easter1916 at 16:38Comments(2)TrackBack(0)哲学ノート

2016年08月14日

法と倫理

ソクラテスは、クリトンの示唆にもかかわらず、逃亡を肯ぜず法に従って刑死した。これをもってしばしば法と倫理との食い違いの例とされてきた。しかし私は、ソクラテスの例を違った風に理解している。

根っからのアテナイ人であったソクラテスが、ポリスの政治的価値と区別された個人的倫理を生きていたとは信じがたい。たしかに、個人の魂の吟味というソクラテスの営みには、古典的ポリスの徳とはどこかしら異質な、個人の魂の救いといった個人主義的なところがあるように見えるのは否みがたい。このようなところを、ニーチェはソクラテスの卑小さと見ていたのは周知のところである。

プラトンによって、このような個人主義的関心は、死後の魂の運命といったところにまで誇張され(『国家』第10巻「エルの神話」参照)、その後のキリスト教にすんなりつながるようなものを準備していた、といえるかもしれない。

しかし、もともとソクラテスの活動は、公開の場における対話とイロニーを駆使するといういたって政治的なものであり、『弁明』の言葉を信じるならば、ポリスの政治と言説を健全化するという動機に基づいていたのであり、それを文字通りに取るべきであろう。ソクラテスにとって、自分の魂よりもアテナイの運命が重要だったのであり、その意味では、彼の活動は徹頭徹尾政治的・教育的といえるものであった。さもなければ、法廷で自分の命がかかってところで、かえって反感をそそるような言葉を吐く必要はなかったはずである。

そう考えるなら、法廷での弁証も死刑の受容も、教育的配慮に基づく政治的芝居と見なければなるまい。それゆえ、ソクラテスにとって、ポリスの政治を離れて殉じるべき個人の倫理的価値があったわけではなく、広い意味で彼のすべての言動がアテナイの政治教育の一部であり、それゆえ政治闘争の一部なのである。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 20:19Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート

2016年08月03日

アスリートのメディア戦略 

女子レスリングの吉田沙保里選手が「スポーツ紙記者に間で評判を落としている。荒稼ぎ体質に変わり、取材するなら三万円とギャラを要求するようになった」からだという。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160730-00511064-shincho-spo

吉田選手の態度に「荒稼ぎ体質」しか見ないのは、いかにも安物のスポーツ紙記者らしい「見識」であるが、もちろん問題はそんなところにはない。

以前ここで記したことがあるが(2008年12月15日「反抗的な弟子」参照)、吉田氏のような一流アスリートにとって、メディア対応は極めて難しく、扱いにくい問題となるのが常である。

今は問題を単純化するために、スポーツ・メディアに限定して話を進めよう。1990年ミラノにおける対西ドイツ戦で、ユーゴスラヴィア・チームを率いたイビツァ・オシム氏は、チームが1−4で敗れた後、記者会見で語った、「記者諸君が使え使えとうるさいタレント選手3人を一緒に使うとどうなるかを君たちに見せつけるためにわざと負けたのだ」(木村元彦『オシムの言葉』集英社p−63)。

アスリートが闘うためには、いかに巧みに(自国の)記者とも闘わねばならないかを、鮮やかに示す例がここにある。重要なことは、単純にメディアを敵に回していいわけではないということだ。適度に挑戦的な言葉で刺激し、適度におだてながら、メディアの裏をかく高度に政治的な戦略が必要なのだ。中田英寿、本田圭佑、吉田敦也、有森裕子…などという超一流アスリート諸氏は、たいてい半ば本能的に、このようなメディア戦略を駆使しているものである。

しかし、誰でもがイビツァ・オシム氏ほど巧みに、メディアを操ることができるわけではない。

水泳の千葉すず選手が、水着の自由選択権を求めて、またオリンピック選考基準をめぐって、日本水連といかに立派に闘ったかは、よく知られている。しかし、彼女に対して当時のメディアがいかに残酷であったかは、ほとんど忘れられている。これほど、日本のメディアの厚かましい無恥無能ぶりを示した歴史的事例は、少ないのではなかろうか?

千葉氏の闘いは、スポーツ界における正義の実現にとっては十分に有意義なものではあったが、彼女自身の栄光を目指すためには、必ずしも賢明なものではなかった。

その点では、吉田沙保里選手の戦略も、賢明なものとは言えない。厚かましいメディアに距離を置くのはいいとしても、取材フィーを要求するのは戦略として筋悪である。

取材を拒否する権利は誰にもあるが、記者は普通そのような態度に慣れていない。

彼らは、メディアに露出すること自体が取材対象にとっても「利益」になると固く信じていて、長い間には、それが自分の功績であるかのように、自分が相手にもたらし得る恩恵であるかのようにうぬぼれることが多い。よほどの意識を持たない限り、記者がそのような心得違いを免れるのは難しい。

だからこそ、それを拒否するようないかなる態度も、記者たちに根深い反感を刺激せずにはおかないのだ。

アスリートが気を付けなければならないのはここである。メディアに乗せられて我を忘れたりすると、致命的なしっぺ返しを覚悟せねばならないのはもちろんだが、かといってメディアを敵に回していいことは何もない。

アスリートは、このような軋轢を最小限にやり過ごす術を身につけなければならない。正面突破を試みるのは、エネルギーを無駄づかいして、肝心の勝負にとって障害となりかねないからである。

相撲取りによくあるように、馬鹿なふりをする、または日本語が苦手な(語彙が極端に乏しい)ふりをする(何を訊かれても「そうですねえ」「頑張ります」しか言わない)、のもうまい手かもしれない。

要するに、マスコミの餌食にならずに生き残るためには、単なる反発や敵意とは違う賢明な悪意を備えなければならないということだ。うまくすれば、それによっていつかはリスペクトを(あるいは付き合いづらい人間という評判を)勝ち取ることも不可能ではない。

自由であるためには善意だけで十分だと考えるのは、間抜けなお人よしだけである。

  
Posted by easter1916 at 21:05Comments(0)TrackBack(0)批評

2016年07月31日

囲碁における運の要素

囲碁の勝敗が棋士の実力によることは、自明のことのように思われる。勝つ確率の高い人を強いというのであるから、強い人が勝つのは当然である。

それでも、今のところ必勝の手筋が初めからわかっているわけではないのだから、下手でもまぐれで勝つことはあるかもしれない。

しかし、碁ほど棋力の差が明らかなゲームはない。初心者が有段者に互先(ハンディキャップなしの試合)に挑戦して勝つ見込みは、万に一つもないものだ。したがってこのゲームには、運の要素はほとんど介入する余地はなく、ほとんどすべての勝敗が囲碁に関する知性の差であるように思われよう。

先日、ゼミの学生とその点で議論になった。私は囲碁で運の要素が顕著にかかわることがある、という議論をしようとして、学生から反撃された。
  続きを読む
Posted by easter1916 at 23:07Comments(0)TrackBack(0)日記

2016年07月16日

鳥越俊太郎の選挙スローガン

鳥越氏の都知事選出馬によって、我が国の政治を転換するチャンスが生まれた。我々はこの機会を絶対に生かさねばならない。憲法改正を阻止しなければならない。平気で嘘を垂れ流し、言論を封殺する政治を、今こそ転換せねばならない。

鳥越氏とその支援者に対し、私としてぜひアドヴァイスしたいのは、些末な都政論に拘泥する必要などはないということである。税金の使い道とか、舛添都政における公私混同の是正なども、重要でないことはないが、このさい問題ではない。東京都よりも祖国を救うことの方が百倍も重要である。

スローガンは、ただ「安倍の暴走を止めよう!」であるべきだ。安倍から祖国を守ることにのみ焦点を合わせるべきである。敵は増田や小池ではない。ただ安倍であり、菅である。それを都民の前に鮮明にすれば、鳥越氏の出馬の意義が浮き彫りになるはずである。かつて美濃部氏は、「ストップ、ザ、佐藤」をスローガンにして当選したことがある。今、美濃部氏にはあまりいい印象を持たない都民も多いが、それでもあの時の戦略には学ぶべきものがあろう。
  
Posted by easter1916 at 13:40Comments(5)TrackBack(1)時局