2017年02月19日

『カルテット』

TBSのテレビで『カルテット』というドラマ(坂元裕二脚本)を見た。連続もので、断片的に見ているだけなので、たしかなことが言えるわけではないが、見どころがあるものなので、以下論じてみたい。(ネタバレあり)
 
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2017年02月13日

少年の春

「ことばの杜へ」2011年5月28日投稿

燭を背けては共に憐れむ深夜の月/花を踏んでは同じく惜しむ少年の春 『和漢朗詠集』

高校時代の漢文の教科書に李白の「春夜桃李園に宴するの序」があった。「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」(そもそもこの世はすべてを一時的にとどめておく旅の宿にすぎず、月日は次々に旅立ってゆくその宿の泊まり客のようなものだ)に始まる有名な名文である。続いて「浮生は夢のごとし、歓を為す幾ばくぞ。古人燭をとりて夜に遊ぶ、まことにゆゑあるなり」と言われる。その典雅な美文の中にも漂う哀愁に心惹かれて、全文を暗誦したものである。その時、前掲の白楽天の詩句も参考に挙げられていたような気がする。同じ唐の詩人でも、白楽天の方がいくらか後代のはずだから、白楽天は当然李白の文を意識していたであろう。李白の方は夜の宴で詩作を競い合い、詩がうまくできなければ罰杯の酒を飲む(罰は金谷の酒数によらん)というのであるから、何とも優雅な宮廷風であるが、白楽天の詩は昔一緒に貧しいアパートに暮らした友人の思い出を歌っているので趣は違う。実際には、晩年の李白より白楽天の方が華やかに恵まれていた。それでも、栄達を遂げたときから顧みて、貧しい少年の春をかけがえもなく貴いものと感じているのだ。

ちなみに我が邦には、『経政』(つねまさ)という能がある。若い頃帝の寵愛を受けた平経政が、琵琶の名手であったことから「青山」という名器を下賜されたというエピソード。西海に果てた経政の法要の中、祭壇に飾られたその琵琶が月光に照らされるとひとりでに鳴り出す。経政の満たされることのなかった雅びな妄執に代わって、主人の不在の館の中を、不思議な琵琶の音が嫋嫋と満ちてゆくのだ。そこでも、昔を偲びつつ「あら名残り惜しの夜遊やな」と謡われる。

大学に入ってアルバイトに精を出す学生を見ると、かくも貴重な青春をそんなものに空費して惜しくはないのかと思ってしまう。友情にせよ恋愛にせよ、学問・芸術にせよ、歓びに浸れる時間は短い。寝る間も惜しんで快楽を追求すべき時である。労働などしている暇はないのだ。
  
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2017年02月10日

モンテーニュ『エセー』から

「ことばの杜」2007年2月3日の投稿

「よい著作は私の主義と反対のことを論じても、魅力を失わない。」
ミシェル・ド・モンテーニュ(『エセー』3巻10章)

本があまり読まれなくなったという。確かにそれも問題だが、より問題なのは、それが精神のより深い頽廃の兆候であるかも知れぬことだ。

人々はじっくり考えるより結論を急ぐ。そして、論拠が弱ければ、それだけ一層はげしくそれを主張する。そうしないと、自分でも信じられなくなってしまうかのように。だから、自分と違う立場の声には耳を傾けられなくなる。本を読むときも、争って情報をあさるが、それも己れの立場を補強するためでしかない。「ディベート」が流行っても、相手をやり込める技術を磨くためである。人は自分の立場を守ろうとして「理論武装」しようとやっきになるが、他人の考えで武装してまで守ろうとする「自分」とは、何なのだろうか? それ自身がどこかからの借り物ではないのか?

私は、そもそも自分の考えが大したものだとは思っていないので、誰かそれを論破したり、より良い信念に改善してくれる人がいたら、いつでも歓迎である。だから、時々新興宗教の勧誘に訪問するような人も、むげに追い払う事はしない。だが大抵そのような人も、熱意はあるが説得力の乏しい論拠しか持たないようだ。

自分と異質なものを恐れて排除していると、自身が貧しくなるばかりか、「異質なもの」の方が膨らんでいき、やがて想像を超える恐ろしいものになってしまう。そうなると、もはやどうそれと付き合えばよいのか、途方にくれるばかりだ。かくて、人は無知によって恐れ、また恐れることによってますます無知になるわけである。
  
Posted by easter1916 at 23:12Comments(0)TrackBack(0)日記

『ボヴァリー夫人』から

2009年4月11日山形新聞への投稿を以下に張り付けておく。それ以外にも、今までここで載せていない新聞への投稿があるので、順次載せていくつもり。

シャルルが行ってしまうと、薬剤師と司祭はまた議論を始めた。
「ヴォルテールをお読みなさい!ドルバックをお読みなさい!『百科全書』をお読みなさい!」と一方が言えば、「『ユダヤ系ポルトガル人の書簡集』をお読みなさい。前司法官ニコラの『キリスト教の意義』をお読みなさい」と相手は答えた。  フローベール『ボヴァリー夫人』岩波文庫 下p−240

フローベールの代表作『ボヴァリー夫人』は、十九世紀半ばのフランス地方都市の窒息するような日常生活の中に、夢を裏切られ、その人生をすりつぶしていく人妻エンマ・ボヴァリーの運命を、生体解剖のようなリアリズムで描く第一級の文学作品である。

ここに引用した個所は、小説の終わり近く、服毒自殺したエンマの枕元で、薬剤師オメーとブールニジエン神父が、死者のことも忘れて、不毛な神学論争を繰り広げるところである。このオメー氏こそは、そのリアルな描写で文学史上有名な、進歩的俗物とでもいうべき人物である。抜け目のない才覚もあり、流行の啓蒙思想にも目配りを忘れない進取的人物であるが、真実の情味も深みもない矮小な成り上がり者である。フランス革命は、その情熱を戦争の中に蕩尽したあげくの果てに、このように思い上がった小金持ちたちの群れを残していったのだ。

他方、神父の方は、当然古いカトリックの教義にしがみついているのだが、無神論者・進歩派に対する過剰な敵意のために、本来のキリスト教精神からも、古き良きカトリックの伝統からも、すっかり遠ざかっているのに自分では気付かないのである。彼ら双方にとって、その信条は、もはや自分の生活や精神に深く根ざしたものではなく、論争相手を凌駕するというしみったれた自己満足の手立てになっている。それが証拠に、彼らはそれぞれの信念を自分の生きた言葉で語ることはできず、最後は、各々が権威と頼る愛読書を列挙することしかできないわけである。

我々はときに、あまりにも自分の信条に固執しているために、他人の異なる意見を、愚昧で邪悪でさえあるものとして、どうしても論破しなければならないと感じるかもしれない。説得し論破することで、邪悪と戦い、善に奉仕していると感じるのだ。しかし、そんなものは往々にして他人からの借りものにすぎない。もし己れ自身に深く根ざした感情や信念であるならば、それと違う意見に出会っても、むやみに否定したり論破したりする必要も感じないだろう。借り物の信条に内心不安を感じているからこそ、それを否定する意見を許容できないのである。

われわれは、ただ他人を論破して自己の優越を感じたいがために、そんな信念に取りつかれているだけではないのかと、ときどき疑ってみる必要があるだろう。さもないと、知らず知らずのうちに、オメー氏のようなことにもなりかねないからである。


  
Posted by easter1916 at 21:29Comments(10)TrackBack(0)日記

2017年01月25日

頭上に広がる天空の弧は長い

例によって、山形新聞「ことばの杜」への投稿。1月21日の記事。

頭上に広がる天空の弧は長い、だがそれは正義に向かって伸びている。 (マルチン・ルーサー・キング)

1966年公民権運動のデモ隊が蹴散らされた後、キング牧師が語った言葉である。それは、40年以上後の2008年11月5日、バラク・オバマ大統領の勝利演説の中に埋め込まれて再登場する。幾年月にわたる先人たちの艱難と苦闘の末、それでも歴史の長い歩みが大きな弧を描いて、正義の実現へ向かって再び曲げ直される時が来た、とオバマは力強く語った。「1年や一期だけで我々はそこに到達できないかもしれない…しかし私は約束する、一つの人民として我々はそこに到達すると」。

「そこ」が、かつてキング牧師が語ったあの「約束の地」の事であることは、「一つの人民として我々は」の下りで、シカゴのグラント広場を埋め尽くした20万人の聴衆にははっきりとわかった。はからずもそのとき「イエス・ウイ・キャン」のチャントが沸き起こったことが、それを示している。オバマのスピーチは、キングのそれを踏襲しており、キングの言葉にはまた、旧約聖書の言葉(約束の地)とアメリカ憲法前文の言葉が残響していた。こうして、アメリカ憲政史の精神の伝統が、言葉から言葉へと受け継がれてきたのである。それぞれの背景には、もちろん血なまぐさい多くの犠牲があったが、それらは決して完全には忘れ去られることなく、伝説となったそれぞれのスピーチの中にその記憶を刻んできた。「憲法」が単なる条文のことではなく、まさしくこうして受け継がれ言い継がれてきた人民の記憶であり、精神の伝統であることを、これほど雄弁に示すものはない。

今般、憲政史の伝統を徹底的に愚弄し、憲法の理念を蹂躙する人物が大統領に選出されてしまった。この大惨事に胸塞ぎ、これから降りかかるだろう様々の災いに、決意を固めて耐え抜こうとしている人々は、これまでにも繰り返された歴史の潮の満ち干に遠く思いを巡らし、それでも歴史の長い弧は正義に向かって伸びていると、毅然としてつぶやくことだろう。
  
Posted by easter1916 at 03:45Comments(0)TrackBack(0)時局

2017年01月15日

『走れメロス』と『坊っちゃん』における友情

先日、京都の高等研というところに呼ばれて、このテーマで話をした。以前、ここで何度か論じたことがある話題であるが、当日の話はまくらが長くなりすぎて、やや尻切れトンボになったきらいがあるので、もう一度ここで論じておく。もっとも、結論部分は以前に「革命的法創造の理論」として何度か論じたことがあるので、省略する。  続きを読む
Posted by easter1916 at 19:13Comments(2)TrackBack(0)批評

2016年12月22日

自由人の教育

「2003年東北芸術工科大学紀要」に掲載された拙論を、ここに転載する。
楽譜部分を載せる技術がないので、これまでためらってきたものであるが、その部分を省略しても全体の論旨に差しつかえるほどのものではないので、思い切って転載することにした。以前に発表した『時局論』(『紳士二人正々堂々時局を論じてあひ譲らず』)の続編と考えていただいてよい。
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Posted by easter1916 at 04:30Comments(0)TrackBack(0)時局

2016年12月14日

太宰治『斜陽』を読む

このたび必要に迫られて太宰治の『斜陽』を読んでみた。それについて考える所を記しておく。
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Posted by easter1916 at 04:52Comments(0)TrackBack(0)批評

2016年11月29日

偏屈哲学者の弁明(2)

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Posted by easter1916 at 20:42Comments(5)TrackBack(0)

偏屈哲学者の弁明(1)

私自身の著作について、いろんな方面から批判をいただいているが、いくらか誤解もあると思うので、少々弁解を試みよう。

そもそも、すでに書いた書物について弁解するという態度そのものが、妙に未練がましく、書き手としての覚悟のなさでしかないとも言えよう。

私もできれば、言うべきことはすっかり言ったから、あとはそこから何とでも読み取ったらいい、とばかり悠然と構えていたいものである。

だが、今日日そんなことも言ってられない。それほど日本語が崩壊に瀕しており、また出版界もそれ以上に危機状態にある。物書きも、富山の薬売りのように、自分自身で自分の本をお買いいただいた家に出向いて、一文一文解説をして回るくらいのことが求められているのかもしれない。

トーキーになる前の映画では、弁士がついて映像について解説したものである。落語でも、登場人物のセリフを語る以外に、噺家は当時の風俗や街並みや、今では使われなくなった家具に至るまで、いちいち説明してくれる。このように我が国の伝統芸能では、演じつつ解説を加えるという芸風がたくさん存在したのである。
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Posted by easter1916 at 01:06Comments(0)TrackBack(0)哲学ノート