2018年01月21日

平昌オリンピック南北合意

今般、平昌オリンピックにおける統一選手団の結成など、南北合意が一応の結着を見た。まだ予断を許さないとはいえ、極東の平和に対する重要な貢献として心から祝福したい。これは、朝鮮民族全体の努力の結果であり、とりわけ大韓民国ムン・ジェイン政権の英知と度量の賜物として、いずれ高い評価と栄誉をもって歴史に刻まれる可能性がある。

無責任な軍事的火遊びを期待する連中は、この妥協を「オリンピックの政治利用」などと言って、くやしまぎれのケチつけをしているが、愚劣なたわごとでしかない。ナチスによるベルリン・オリンピックも、ネルソン・マンデラによる南アフリカのラグビー・ワールドカップも、もとより政治利用である。そもそもオリンピックが「平和の祭典」とされる以上、政治利用は不可避である。問題はその政治が賢明で正当なものかどうかである。

多くの戦争が思惑に反して偶発的に始まること、また当初小規模の戦闘行為に限定されて企てられた策謀が、たちまち制御不可能な形で拡大され、また容易に停止することができないことを、歴史の教訓として踏まえるなら、楽天的な子供じみた火遊びが、いかに多くの国民を死の危険にさらすものであったかが理解されるだろう。

今後も、トランプがロシア疑惑で追い詰められた場合、先制攻撃に出るような危険が未だ完全に去ったわけではないが、平昌で始まった和平ムードが、トランプを取り巻く軍人たちの正常な理性に働きかけて、トランプの愚かな冒険を制御してくれる可能性は、ますます高まるに違いない。

いずれにせよ、アメリカの中間選挙までの十か月を何とか乗り切ることが、極東の平和にとって極めて重要な意味を持つのである。中間選挙で共和党が敗北すれば、世界にとってのトランプの脅威は、一応過ぎ去ったと見ることができるようになるからである。

かつて冷戦時代、上官の命令を無視して、ソ連の偶発的対米核戦争を踏みとどまらせたミサイル警戒網監視将校がいたことが知られている(スタニスラフ・ペトロフ)。今後、次々に出現するだろうポピュリズム指導者の無謀な企てに対して、持ち場持ち場で独断のサボタージュによって世界を救う、こうした名もなき人々の役割が増大するに違いない。アイヒマンとは違って、上官の命令より正義と人間の常識を重んじる人々。トランプ政権下での司法長官とか、州裁判官とか、入国管理当局とか、在外公館職員とか…。杉原千畝のような人々…。汝らは地の塩なり。
  
Posted by easter1916 at 19:11Comments(2)時局

2018年01月05日

『君の名は』

新海誠監督の『君の名は』を初めて見る機会があった。美しい作品であるが、その細部は早くもぼやけて、まるで夢のようにすでに忘却に沈みつつある。そして、このことこそが、私の知る限りこの作品の本質なのである。(以下、ただ一回の視聴によるため、ネタバレのみならず、記憶に不正確なところ、意図的な誤解や歪曲さえも含むが、あしからず。)
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Posted by easter1916 at 00:59Comments(0)批評

2017年12月30日

文脈(講演ノート)

堂島サロンの講演の時の覚え書きを、以下掲載しておく。  続きを読む
Posted by easter1916 at 19:12Comments(0)哲学ノート

2017年12月26日

権威

山形新聞「ことばの杜」への投稿

「権威の喪失は世界の土台の喪失にも等しい」(アレント『過去と未来の間』)

アレントは、ナチズムの下であらゆる権威に反逆するゴロツキたちの怨恨感情(ルサンチマン)の暴走が、自由の根絶に導くことをつぶさに目撃した政治哲学者である。権威は理由を超えたものであるから、かかる「奴隷の反乱」(ニーチェ)「大衆の反逆」(オルテガ)に直面すると、それに対抗することは難しい。

近代は、宗教をはじめとする権威を揺るがし、懐疑に基づく理性の自律を尊重したが、その行き着く果てに、社会のあらゆる部分が液状化し、どこにも確かなよりどころがなくなってしまう。「識者の権威」を疑うのはいいが、そのあげく最も子供じみた迷信や風説の類にさえ、やすやすと騙されてしまう(「スタップ細胞」とか「空中浮遊」のたぐい!)。

例えば教育では、権威が果たすべき役割と責任はあまりにも自明であったので、生徒やその父兄がそれに疑義を呈するとき、彼らを説得する用意をふつう教師は持っていない。世論やメディアが、怨恨に唆(そそのか)されて教師の権威をたえず嘲笑し、大学人すら文科省の小役人の言い分に戦々恐々として、仕事も手につかぬありさま。つまり、今や教師自身も自分の権威を信じていないのだ。かくて教育現場は見るも無残に荒廃する。

法の権威はどうか。権力者自身が遵法責任をないがしろにするところでは、政権の中枢から法の権威は崩壊し、役所の秩序は根底から糜爛(びらん)する。しかし絶対権力の恣意的行使は、長い目で見れば各部門のサボタージュと機能不全を招く。独裁権力は見かけほど効率的でも機敏でもないのだ。法の支配と自由こそが、活力と創意を生むのである。

権威の存在は、自由に敵対的と見なされがちであるが、むしろ自由の基礎なのである。権威と伝統は、決して過去を模倣しマニュアルに従うだけの機械的惰性ではない。むしろ、その精神に立ち返り、進んでそれを担う責任感を喚起するのである。
  
Posted by easter1916 at 20:59Comments(0)日記

2017年12月22日

サロンの批評と政治

統計研究会の雑誌『学際』4号が出版された。拙稿「サロンの批評と政治」も掲載されている。以下でご覧いただける。
http://www.isr.or.jp/TokeiKen/publication/gakusai/gakusai_new.html

本稿では、芸術批評と政治闘争の関連に焦点を置いたので、ファッションをめぐるサロンの文化闘争を例に取り上げている。この点を補完するものとして、飯田隆氏の『新哲学対話』の「アガトン」への私の書評(2017年11月18日)を合わせてお読みいただきたい。

ファッションと古典的芸術作品とは、「永遠の新しさ」という点では違いがある。ファッションにはそれが欠けているのだ。それゆえ、それはすぐ古びる。そこでも、古い様式が時を隔てて回帰するという現象は見られるけれど、古典的芸術作品の場合と違って、パタンとして繰り返されるにすぎない(スカートの長さとか、流行の色合いとか…)。古典的作品のように、違った側面が新たに注目されることによるわけではない。

政治闘争には、ファッションに似た側面と、芸術作品に似た側面の両方がある。アラブの春や東欧革命、アジア・アフリカの植民地独立闘争などのように、一つの政治闘争がたちまち他の地域に伝播する場合があるが、それらはパタンの模倣と反復という点で、いくらかファッションに似ている。

しかし他方、革命的偉業には、その時代のスローガンやアジェンダを超えた永遠の新しさが付きまとう。これが革命の伝統の永遠性である。後の時代は、そのつど異なる課題で政治闘争を繰り広げるのであるが、それでも革命の伝統はそのつど想起されてよみがえる。それは、革命が単なる反乱とか政権移行ではなく、伝統を打ち立てた古典としても理解されるからである。ステンカラージンの乱などは政治の伝統を打ち立てたとは言えないが、ソロンの改革とかアメリカ革命とかパリ・コンミューンは、政治の古典として永遠なのである。そこでは、きまったパタンが模倣されるわけではなく、後の歴史から伝統の新たな意味が学び直され続けるのである。


なお、「アガトン」書評を補完してくれる詩の一節をエミリー・ディキンソンの中から見つけたので、以下に引用しておく。

This was a Poet ---It is That      
Distills amazing sense
From ordinary Meanings---
And Attar so immense

From the familiar species
That perished by the Door---
We wonder it was not Ourselves
Arrested it ---before---

 詩人とはこういうものだったのだ――それは
 ありふれた意味どもから
 驚くべき感覚を――
 また戸口のそばで枯れ果てた普通の草花から
 はかり知れぬ香水を蒸留する者――
 それ以前に――それを捉えた者が
 自分自身ではなかったことが不思議。
  


  
Posted by easter1916 at 23:00Comments(0)日記

2017年12月07日

ヘーゲルの「否定性」

カルチャーセンターでヘーゲルについて語る機会があった。ヘーゲルについて1時間で話すというのも無謀な話だが、長々と時間をかけたからといって、わかりにくい話が分かりやすくなるものでもない。問題は、ヘーゲルを誇大な物語としてではなく、今でも十分に活用可能な生きた思考装置として見直すことがいかにして可能かということである。以下、「否定性」ということに焦点を合わせながら、ヘーゲルに通常浴びせられる批判に対して、ヘーゲルが擁護できる合理性を、いくらかなりとも持つかどうかを検討してみることにしよう。  続きを読む
Posted by easter1916 at 23:00Comments(0)哲学ノート

2017年12月01日

呻きつつ求める者

このたび、親鸞仏教センター発行の『アンジャリ』34号に、拙文「呻きつつ求める者」を投稿した。以下のアドレスでご覧いただける。

http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/publish/publish01.html
  
Posted by easter1916 at 12:43Comments(0)日記

2017年11月29日

ヴァントゥイユの娘たち

プルーストの小説では、ヴァントゥイユという作曲家が登場して重要な役割を演じる。初めは、コンブレーの近所に住むぱっとしない音楽家として我々の前に登場する。彼は我々(語り手)の家族が訪問すると、それがうれしくてたまらず、その機会に我々の前で自分の曲を演奏できるかもしれないという期待があまりに膨らむので、その欲望を実際に表明することができなくなってしまう。彼は、その楽譜をさりげなくピアノの上に置いておくのだが、我々が部屋に入ると、そそくさとその楽譜をしまい込む。そんなわけで、我々はついぞその曲を聴く機会はない。

ヴァントゥイユの娘は、やがてレスビアンの嗜好を見せ、不品行を重ねて、晩年のヴァントゥイユの悩みの種となる。印象的な場面――娘がその愛人を家に連れ込んで、快楽にふけるのを「私」は盗み見る。そのとき、死んで間もない父の写真を机の上に飾っている。愛人はそれを見つけて、父の視線の下で不品行がやれるかしら、とけしかける。娘は、父を死後においてまで辱め、反抗というその不孝の味で、自分の快楽を刺激しようとするのだ。

そもそも娘がレスビアンに走るのも、それが社会的悪徳とされているからかもしれない。この娘は、自分が悪を犯すという刺激と快楽とを混同する。あまりにも慎み深いので、率直に欲望を目指すことができない。それゆえ、欲望の実現に障害があることから、障害自体を快楽と取り違え、やがて障害があること自体を欲望するようになるのだ。かくて罪=禁忌=快楽という図式が成立する。そこで、父を冒涜するという背徳を、薬味として快楽に加えようとするのである。これは父に対するサディズムのように見えるが、実際には、己れの欲望の中に障害を巻き込もうとするマゾヒズムに他ならない。

しかしなぜ、父がそのような対象になるのか?

父への冒涜は、父への深い畏敬の表現なのだ。ヴァントゥイユは社会的には憶病で小心な慎み深い人間だが、(それゆえ、社会的に恵まれなかったが)実際には人一倍プライドが高く、自負するところが高かった。その求道的姿勢を娘は身近で知っており、自分はヴァントゥイユの犠牲にされたと感じている。その才能が、己れはもちろん家族をも犠牲にするものであることを、身内として痛感しているのだ。そこで、その反撥には同時に畏敬が混じっている。愛人は娘のそんな感情を読み切っていて、その背徳のゲームに乗っているのである。

やがてヴァントゥイユが無名なまま死に、その思い出から反発の部分が消えてゆくと、父に対する贖罪の意識が目覚めるのである。そこで、娘と愛人の二人は、協力してヴァントゥイユの遺稿を解読し、その楽譜を出版する。

彼女らの背徳と罪がなければ、父娘は幸せな関係を結び、娘は幸福な結婚をしたかもしれない。しかしその場合、父の思い出は大事に静かにとっておかれ、その遺稿も打ち捨てられていったであろう。

娘の父に対するひどい仕打ちは、実際にはヴァントゥイユの才能が周囲の者に強いた犠牲の反動なのであり、それによって結局激しい悔恨が生まれ、遅まきながらの贖罪が生じるのである。それによってかろうじてヴァントゥイユの遺志が実現されたのである。罪や悪徳のような否定的なものを迂回して、初めて実現されるこのような意味は、キリスト教的と呼べるかもしれない。
  
Posted by easter1916 at 02:24Comments(8)文学

2017年11月18日

飯田隆氏の『新哲学対話』

飯田隆氏から新著『新哲学対話』(筑摩書房)をいただいた。初めの対話編「アガトン」を一読して深く感銘を受けたので、それについて論じてみたい。

飯田氏は、我が国の分析哲学を旗艦として牽引してきた本格的哲学者であり、亡き大森荘蔵先生の高弟である。その著作は、常に周到かつ精妙であり、一般より専門家の中で評判の高い玄人好みのものと言ってよい。しかし今般氏が出版した本書は、質の高さは従来のものと変わらないが、その語り口の平明さや入門的親切心もさることながら、ひときわ遊び心にあふれた滋味豊かな作品に仕上がっている。氏を身近で知る人になら、こういう遊び心が氏の持ち味の一つであることはよく知られているが、本書ではそれが大きな魅力となっている。

有名なプラトンの対話編『饗宴』を下敷きに、その後日談を対話でつづるという形式は、単にプラトンの模倣にはとどまらない文学的出来栄えを見せて瞠目させる。特に、プラトンでは、ソクラテスばかりが議論を主導し、対話相手は相槌を打つばかりのところが多いが、ふつう感じられるこのようなプラトンに対する不満を、飯田氏は解消してくれる。他の人物もそれぞれの個性を備えつつ、かなり積極的な発言で対話に貢献しているのだ。

その結果、普通のプラトン対話編以上に劇的構成が成功しているのだが、哲学的内容がそれによって薄まっているわけではない。この両立はまことに驚嘆に値する水準で成功している。おそらく、これは哲学初心者にとって最良の入門書であると同時に、本編をもとにして哲学界のシンポジウムが打てる水準のものである。
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Posted by easter1916 at 02:00Comments(7)哲学ノート

2017年10月31日

ベラ、チャオ

山形新聞「ことばの杜」への投稿
ベラ、チャオ(さらば恋人よ)    (「イタリア・パルチザンの歌」より)

今ではあまり歌われることもないかもしれないが、反ファシズム・イタリアパルチザンの歌というものがある。「我をも連れ行け、さらば、さらば恋人よ。連れ行けパルチザンよ、やがて死す身を」と歌われる。ここで、「さらば、さらば恋人よ」のリフレインが、イタリア語では「ベラ、チャオ、ベラ、チャオ、ベラ、チャオ、チャオ、チャオ」である。

この歌には思い出がある。七十年代、私の一家が白馬の家でユーゴスラヴィア大使クレアチッチ夫妻をスキーにもてなしたことがあった。クレアチッチ氏は、チトー元帥に従軍したかつての反ナチ・パルチザンの闘士であり、その夫人はパルチザンの取材をした学生新聞の記者だったという。二人は山岳パルチザンのベースで知り合い結ばれた。夫人は私に、パルチザンというのがわかるか、と尋ねた。私はそのとき、ベラチャオを歌って大使夫妻の心をつかんだものだ。「パルチザンで知り合ったなんてロマンチックですね」と私が言うと、「そんなもんじゃない」とおっしゃったが、その遠く思いを馳せるような眼差しは、やはりその労苦に含まれる何がしかのロマンチシズムを物語っているように思われた。

その後、チトーが死に、ユーゴスラヴィアは崩壊したが、大使夫妻がその激変をどう乗り越えたのかは何もわからない。みずから命を賭けて独立に尽くした祖国が、目の前で崩壊するのを見る気持ちは、如何ばかりであろうか? 一度アドリア海を見に遊びに来てくれとも言われたが、もちろんそのままになってしまった。私の方でも無職で暗黒の十数年を経るうちに、連絡方法も途絶えてしまったのである。

今年は、10・8羽田闘争で山崎博昭君が亡くなって五十年。その頃歌い継がれていたベラチャオが、再び忍び寄る歴史の暗い影の中で、今でもふと口をついて出ることがある。
  
Posted by easter1916 at 21:16Comments(6)日記