2024年07月13日

山形新聞「ことばの杜」への投稿

希望なき人たちのためにのみ、希望は我々に与えられている。  ベンヤミン『親和力論』

漱石の『硝子戸の中』で、突然見ず知らず女が訪ねてくる。女は悲惨な宿命を背負っていて、その話を聞いてほしいと言うのだ。話し終わると女は、この話を小説に書くとしたら、最後に女は自殺することにするか、それとも生かすことにするか?と問いかける。女にはおそらく人生をやり残す時間も残されてはいまい。その意味で彼女は、確実に「希望なき者」の一人なのだ。それでも希望は与えられているとベンヤミンは言う。この言葉はゲーテの『親和力』を論じた論考の末尾にあるもの。この小説は二組のカップルの「不倫」とその悲しい結末を描いたものだが、そこには宿命に流されて没落してゆく人間の悲哀が満ちている。恋の情熱にせよ、世間のしがらみにせよ、ここで動かしがたく見える運命の糸――それをベンヤミンは神話的なものと呼ぶ。王女を湖の白鳥に変えた魔法のようなものである。
 しかし、この運命の「必然」は見かけに過ぎない。現実には、魔法にからめ取られて虚しく没落していった人々にあっても、それを逃れる道はあったのではないか?王女様と王子様が結ばれる密かな杣道がひょっとしたらあったのかもしれない。物語の悲哀をかみしめるとき、我々の心をかすめるのはこのような逆説的な希望なのだ。それは当事者にとっての希望ではなく、物語を語る者とそれを聴く者にとっての希望だ。つまり、自分も半ば魔法の沼に浸かりながら、それゆえにこそ一層身につまされて耳を傾ける我々全てにとっての希望。たとえ最初の白鳥が虚しく倒れたとしても、その次の姉妹たちが、さらにそのまた次の姉妹たちが手にするかもしれない希望。希望なく死んだ者たちの上に運命の重い石が高く積み上げられるほど、一層切実に感じられる希望。だからこそ漱石は女に向かって、そのような話を物語ることができた以上、すでにあなたの人生は半ば救われているのではないか?それならその物語を胸に生きていく事もできるのではないか、と呼びかけるのである。

(追補)私は以前、ここで漱石の『硝子戸の中』についての批評を述べておいた(2005年7月26日「硝子戸の中」)。それは、ここで今回記したものとは違った趣旨を含んでいた。
 ベンヤミンは『親和力』の主人公たちに、古典的悲劇特有のインテグリティ(内的一貫性)を見るのではなく、むしろ中途半端さに基づく悲哀のみを見る。それこそが「魔法」とか「神話的なもの」を延命させのさばらせているのだ。しかし私は、『硝子戸の中』に、古典悲劇的なものを見ようとしていたのである。
 漱石のテクストに古典的悲劇的なものを見るか、それともベンヤミンの「哀悼劇」的なものを読み込むかは、ある程度までその時々の批評家のスタンスによると言えよう。私があえて二つの批評を並べて参照を請うのは、ここに文脈の自由の具体例を示すためである。



easter1916 at 20:18|PermalinkComments(0) 日記 

2024年07月10日

敗戦の総括? 幇間芸人たちの十八番

今般の都知事選での敗戦は残念であるが、その総括とか反省と称してシャシャリ出てくるさまざまの言説に、惑わされないように注意しなければならない。
 たとえば東国原英夫は、蓮舫氏は「批判する能力はすごくあるが、首長というのはみんな、全てを包含しなくてはいけないところがあって、その能力に欠けているということを都民が見抜いた」のが敗因と言っている。また「反自民・非小池を選挙に持ち込んだ作戦、最初からビジョンをボンと掲げなかった…そういうところもある」とも語った。
 こういう言説が、勝ち馬に乗って既得権益層に阿る俗説であることは、少し考えれば明らかであるが、いつでも風の流れを窺い、時勢の赴くところならどこまでも落ちていくのが習い性となっている連中には、もっともらしく響くのかもしれない。
 だが一方で、何のビジョンもボンと掲げることなく、パワハラまがいの罵倒だけで二位に入った石丸伸二に対しては、どう言うつもりなのであろうか?
 デンツーと三井不動産の手先、利権まみれの小池の支持者や、石丸に投票した極右のチンピラどもを含めて、「すべてを包含する」などということが、可能なことでも望ましいことでもないことは言うまでもない。小池の嘘を見抜けない心底のバカ者たちはともかく、石丸に投票したチンピラの言うことなどに耳を傾けて何が生まれるというのか? そんな連中は、風が変わればコロコロと立場を変える野次馬にすぎず、理性的説得の対象と見なすべきではない。ワイマール共和国で、ナチス支持者にも説得を続けるべきであった、などと本気で考える人がいるだろうか?そんな敵は叩き潰す対象であって、説得すべき対象ではないのだ。
 そもそも政治闘争は、対立を際立て、友ー敵を明確にすることにこそ眼目があるのだから、「すべてを包括する」などというたわ言は、真の敵対性を隠蔽しようとする欺瞞以外の何ものでもないのだ。 
 その意味では、現職有利の情勢下で、反自民・非小池の旗を明確にした蓮舫氏の勇気に敬意を表したい。確かに、応援団には野田とか枝野といったあまり信用できない連中もいたが、そんなことはどうでもよい。むしろ、芳野とか玉木などが名を連ねていなかったことがよかったのだ!そもそも野党共闘などにあまり大きな期待をかけない方がよいのだ。重要なのは、大同団結などではなく、敵を明確にすることなのである。
 その点で、今回の闘いの大きな成果のひとつは、性差別がいかに深く今日の社会に根を張っているかをいつになく浮き彫りにしたことである。蓮舫氏の言説を「キツイ」とか「コワイ」という連中が、いかに深くどす黒い怨恨感情を抱えているか、どのように俗情と結託しているかが明らかになった。その一つ一つをしらみつぶしにつぶしてゆく闘いは、気が遠くなるほどの道のりだが、今回明らかになったのは、東国原やNHKといったマスコミ太鼓持ち連中が、何食わぬ顔で中立を装いながらも、いかに陰険な性差別主義やいじめ体質に毒されているかということである。彼らの化けの皮をはがしたという意味でも、蓮舫氏の闘いは大きな成果を上げたと言える。ここでも重要なのは、すり寄って彼らの賛同を得ることではなく、逃げ隠れする敵の尻尾をつかんでその正体を暴き立てることなのである。彼らと和解して、仲間に引き入れる必要はない。
 実際、蓮舫氏ならずとも、東国原のような「コバンザメお座敷芸」幇間男とお友達呼ばわりされることなど、誰しもまっぴら願い下げであろう。ああ気持ち悪い!


easter1916 at 23:25|PermalinkComments(0) 時局 

2024年07月06日

レンホウ応援 ひとり街宣

いよいよ都知事選最後の一日となった。空模様が嵐の到来を告げてゐるので、うっかりするとひとり街宣のチャンスを逃すと思はれ、いよいよ最寄りの駅に一人でプラカードを掲げて立つことにした。ただ、あまりにむさくるしい恰好では悪い印象を持たれかねない。それではかへって候補者に迷惑をかけると思って、なるべくこざっぱりした格好で武装して出かけた。
 もちろん初めは気恥づかしいやら不安やら、おっかなびっくりであるが、それも5分ほど。だんだん勇気が湧いてくるし、誇らしい気持ちにもなる。前線の兵士が孤塁を守るときの心持である。わづか30分ほどのひとり街宣の闘ひであったが、ひっそりとたたずんで意気揚々と引き上げた。
 ところがその帰り道、自民党の方々が都議補選の応援演説をしてゐるのに出くはした。少し聴いてゐるとはなはだ不愉快な気持ちになって来たので、思ひ切って真正面に陣取って「嘘つき自民」のパレーシア・コールを始めた。すると敵もさるもの、私の胸にふれんばかりの所にまで接近して「応援ありがたうございます」と大声でやり始める。こちらも負けじと「嘘つき自民、嘘つき自民」とくりかへしてやりあった。相手の男は小太りの脂ぎった中年で、見るからに不動産やくざといった風情であるが、向かうの方でも私のことをホームレスか精神異常と見てるのは間違ひない。これは、特定候補応援ではないから、私にいささか品位が欠けてゐたとしても私の恥になるだけで、候補者の迷惑にはならない。警察も札幌の事件のことがあるので、迂闊には介入してこないやうだ。相手も根負けし、私も声が枯れてきたところで引き上げることにした。久しぶりに思ひっきり闘った清々しい気分である。はなはだ愉快!
 この後すぐがやってきたので、そのまま帰って静養してもよかったのだが、気分がのって来たので、続いて新宿南口のレンホウさんの応援に駆け付けることにした。レンホウさんとともに最後の一日を駆け抜けよう!
Dans tes yeux je vois des voyages des nuages des orages avec moi !


easter1916 at 22:22|PermalinkComments(0) 時局 

2024年06月30日

応援スタンディング

今日は日曜日。レンホウさんの応援が出てるかしらと思って、最寄りの駅に行ってみたけど、見当たらない。もし出てたら、私も飛び入りで三十分ほどでも応援スタンディングに参加しようと思ってたが、雨なので仕方がない。今後機会を見て、R 看板を持って立つつもりです。あと一週間しかないが、憂国の士は気軽にご参加ください。
 昔、吉武輝子さんの選挙応援(の下働き)をしたことがあるが、選挙は投票だけするより、選挙活動に参加する方が断然楽しいものだと思ったものである。


easter1916 at 22:57|PermalinkComments(0) 時局 

2024年06月29日

agent causation(行為者因果性)について

久しぶりの読書会に出て、agent causationについて自説を述べる機会があった。すでにいろんな所で述べてきたことであるが、この機会にまとめてみた。取り立てて新味があるわけではないが、説明の力点は違うかもしれない。続きを読む

easter1916 at 01:42|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2024年06月20日

都知事選挙の選択

東京都知事選に対する考えを表明しておく。地方首長の選挙に当たっては、広範な問題がかかわっているから、どこに焦点を絞るかが難しい。したがって政策論争が効果的に行われにくく、いきおい印象操作の泥仕合に流れやすい。そこで、デンツーなどの扇動や売込みのプロが幅を利かすことにもなるのだ。我々市民は、ナチスまがいの宣伝工作に惑わされずに判断力を研ぎ澄まさなければならない。
 人によって重視するポイントは様々であろうが、私が重視するのは一言で言えば公開性――つまり、嘘がなく、包み隠すことなく情報を公開する姿勢である。それがなければ、どんな政策を口走ろうとも、結局ゲッベルス流の情報操作の餌食となり、公約も画餅に帰するしかない。
 近年、議会答弁で質問をはぐらかしたり、記者会見でお気に入りの記者だけを指名したり、不都合な質問に対して「次の質問どうぞ」と繰り返したりする傲慢な政治姿勢がしばしば見受けられるが、それらは有権者をコケにするものである。このような態度の常態化は、個々の政策運営の正否をこえて、政治と公論の基礎を侵食し、シニシズムを助長し、結果的に時代遅れになって久しい既得権益を延命させるだけである。我々は、何よりかかるシニシズムや諦めと闘わなければならないのである。モンテスキューは、民主主義の精神はヴェルテュ(愛国的情熱)であると言った。それは、したり顔のシニシズムやどうせ政治などやくざな仕事だといった諦めに流れず、政治的共同体を担う市民としての公共的責任にコミットし続ける情熱のことである。
 政治は一般に、将来の不確実性に立ち向かうものであるから、どのような理念・イデオロギーに基づくものであれ、その政策が本当に有効かどうかは定めがたい。たとえば、ハイエク流の新自由主義と、ロールズ流のリベラルのいずれが我々の社会にとって望ましいかについて、あるいはウクライナ戦争について対ロシア融和政策を取るべきか、それとも断固とした対ロシア強硬策を取るべきかについて、理論的決着をつけることができるわけではない(もちろん我々は当面の決断を下していかねばならないが、いずれにしろその決断には絶対確実な根拠があるわけではない)。しかし、事実を隠蔽したり捻じ曲げたり、過去の過ちを直視しないような政治家が極めて有害であることだけは明らかである。今回私が重視するのは、政策や人柄や政治手腕よりもこのことである。嘘や隠蔽の多い政治家を確実に落選させるために、棄権せず我々の選挙権を行使したいものである。


easter1916 at 16:58|PermalinkComments(0) 時局 

2024年06月03日

港区長選勝利

子育て支援などを訴えて、清家愛さんが港区長選挙に当選! いよいよ自公腐敗政権の落日近し。
 長生きしてると、たまにかすかな希望の見えるときがある。これからも絶望せず、棄権せず、このような時を祝いたい。おめでとう港区民!


easter1916 at 00:11|PermalinkComments(0) 時局 

2024年05月17日

小日本主義

山形新聞 ことばの杜への投稿
「大日本主義の幻想」 (「石橋湛山評論集」)

民主主義では少数意見にも十分なチャンスを与えて、熟議することが肝要と言われる。それは必ずしも正しい決断に導くためではない。まして、少数派に一定の配慮をしたというアリバイや「ガス抜き」のためではない。
 いくら熟議を尽くしても意志一致に至らないことは多いが、それでも決断する必要がある。そしていつでもその決断が誤る可能性はある。しかし、誰の目にもその路が誤りであったと明らかになったとき、もしそれが全会一致の決定によるものだったなら、「一億総ざんげ」しか道はない。もちろん懺悔して済むものではないが、それだけではない。茫然自失した我々は、どこからやり直せばいいのか、何を反省すればいいのか、皆目わからないだろう。しかし、もし採用されなかった異論が記録されていたとしたら、我々はその再検討からやり直すことができるのである。本当にその可能性はなかったのか?何故その検討が早々と断念されてしまったのか?…なども含めて、かつてなされた決断が何であったのかを冷静に検討することから歩み始めることができるだろう。
 かつてわが国は「火の玉一丸となって」満蒙の侵略に狂奔した。しかしその時でさえ、満州、朝鮮の「権益」をすべて手放す方が経済合理的であり、日本の生存には有利でさえあるという「小日本主義」を唱えた石橋湛山のような異論が存在した。我欲に舞い上がった輿論の中にあって、当時耳を貸す人は少なかったものの、「大東亜共栄圏」の野望が虚妄にすぎぬことが誰の目にも明らかになったとき、それでもそこに残されていた一筋の希望の光を「小日本主義」に見ることができたのは、何という幸いであったろう! 未来は不確実であるゆえに決断は避けられず、我々は多数派であれ少数派であれ常に誤り得る。それゆえ誤ったときそこへと立ち返る材料として、熟議とその記録を残さねばならないのだ。




easter1916 at 19:48|PermalinkComments(0) 日記 

2024年05月05日

ベルクソン

大学院時代、山本信先生に提出したレポートが引き出しの底から見つかったので、書き写しておく。ちなみにこれは、私の修士時代、つまり修士論文以前のものであり、当然現在の私の立場とはかなり違っている。一番違うのは、超越論的哲学に対する態度においてである。当時、カントの超越論的立場を、さらに先鋭にしたものこそ私が目指していたものであった。
続きを読む

easter1916 at 23:58|PermalinkComments(5) 未発表原稿 

2024年04月11日

Congratulations Korean people!

韓国の総選挙で、野党が圧勝した。注目していただけに、まことに喜ばしいことである。私自身に韓国の事情を詳しく知る手立てがあるわけではないが、私の信頼する韓国人の友人たちは、すべて以前から野党系の勢力を熱心に応援しているので、彼らを信頼していつも韓国の民主化勢力に肩入れしてきたのである。おめでとう韓国人民!おめでとう韓国の未来!

easter1916 at 13:07|PermalinkComments(0) 日記 
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: