2012年02月07日
原発都民投票
先日もお知らせした「原発の是非を決める都民投票」の締め切りが、いよいよ2日後に迫った。地方自治法で決められている「直接請求」を求めるもの。街頭署名に協力しようという意思のある人は、渋谷駅ハチ公前(2月9日まで12時から19時まで)か、新宿駅西口小田急ハルク前(2月9日まで、15時から19時まで)を利用するのが便利。
お問い合わせは、事務局03−6434−0579まで。
お問い合わせは、事務局03−6434−0579まで。
2012年02月03日
信仰
プラトンは、精神を「欲求的部分」「気概的部分」「理性的部分」に三分した。前二者を理性的部分が統御すべきものとされる。欲求的部分を理性がコントロールするというのはわかりやすい。これはフロイトの快楽原則と現実原則のようなもので、快楽を最大化するためにも、理性は欲望を統御しなければならない。だから欲求的部分と理性的部分の間に不整合は存しないはずだ。
しかし気概的部分と理性との間はどうか?
ソクラテスは、恐れるべきものを恐れ、恐れる必要のないものを恐れないことこそ、真の勇気だとした。(『国家』430)。したがって、何を恐れるべきかを知ることこそが、気概を導かねばならないわけである。
しかし、危険の範囲があらかじめ知られているのなら、何を恐れる必要があろうか?次にどんなことが起こるか予見できるのなら、恐れも勇気も必要ない。
コロンブスは、インドをめざして大西洋を西へ西へと進んだ。すぐに故郷の港は水平線の下に消え、行けども行けども尽きぬ水ばかりの中で、水夫たちの不安は増してくる。水や食料から推して、ここを超えて進めばもとに引き返せないという一線がある。この一線が近づいたとき、行く手に何があるかもわからず、大陸があるとしても、どのくらい先にあるかもわからないとき、なおも突き進むことが実際に「恐れるべきこと」か、それとも「恐れる必要のないこと」なのか、誰が知ろう?ここでは理性は役に立たない。
発揮すべき気概のさじ加減が問題だとは分かっていても、そのさじ加減をあらかじめ知ることはできない。
アリストテレスは、このさじ加減のことを「中庸」と呼んでいる。アリストテレスが勇気を向こう見ずと臆病との中間と規定することができたのは、彼にとっては、このさじ加減を厳密に規定できる場面が具体的に想定できていたからである。それは重装歩兵団による戦闘の場面である。
重装歩兵が戦うとき、各人左手に持った盾を互いに隙間なく突き合わせ、槍を右手にして集団で闘う。このような戦闘方式では、何より大事なことは、同僚と一致団結して戦列を乱さないことであるから、一人飛び出して、的に突進することも、臆して戦列に穴をあけることも、同じように敗北を招くことになる。したがって、重装歩兵から最大の戦力を引き出す程度に気概を持つことこそが、勇気と呼ぶにふさわしいのである。
しかし、このような規定が、コロンブスにとって何の役にも立たないものであったのは言うまでもない。
実際には、アリストテレスの時代、既に市民団による重装歩兵の戦法は、時代遅れになりつつあった。もちろん、それは依然として重要な戦力の一部ではあったが、アレクサンダー大王はよく訓練された騎馬隊を自ら率いて、機動力を生かした大胆な戦術によって、成功を収めつつあったのである。職業軍人と天才的指令官による戦争の時代が到来しつつあったのである。
死の危険が避けがたい軍事においては、理性がすべてを掌握することはできない。死を覚悟して戦うことによってこそ、勝利する可能性、したがって死を逃れる可能性も高まるという逆説が付きまとうものだ。その経験があればこそ、「哲学者」による理性の専制下においても、「気概的部分」を無視することができなかったのである。
やがて、キリスト教的見方が広がるにつれて、勇気の問題圏は、信仰、希望、愛の領域にまで浸透する。これらにおいても、理性の圏域の中にすべてを閉じ込めることはできないからである。信仰や希望や愛に、合理的な十分な根拠を与えることはできない。それが自己犠牲やリスクを伴う場合、勇気とか気概の出番となる。
続きを読む
しかし気概的部分と理性との間はどうか?
ソクラテスは、恐れるべきものを恐れ、恐れる必要のないものを恐れないことこそ、真の勇気だとした。(『国家』430)。したがって、何を恐れるべきかを知ることこそが、気概を導かねばならないわけである。
しかし、危険の範囲があらかじめ知られているのなら、何を恐れる必要があろうか?次にどんなことが起こるか予見できるのなら、恐れも勇気も必要ない。
コロンブスは、インドをめざして大西洋を西へ西へと進んだ。すぐに故郷の港は水平線の下に消え、行けども行けども尽きぬ水ばかりの中で、水夫たちの不安は増してくる。水や食料から推して、ここを超えて進めばもとに引き返せないという一線がある。この一線が近づいたとき、行く手に何があるかもわからず、大陸があるとしても、どのくらい先にあるかもわからないとき、なおも突き進むことが実際に「恐れるべきこと」か、それとも「恐れる必要のないこと」なのか、誰が知ろう?ここでは理性は役に立たない。
発揮すべき気概のさじ加減が問題だとは分かっていても、そのさじ加減をあらかじめ知ることはできない。
アリストテレスは、このさじ加減のことを「中庸」と呼んでいる。アリストテレスが勇気を向こう見ずと臆病との中間と規定することができたのは、彼にとっては、このさじ加減を厳密に規定できる場面が具体的に想定できていたからである。それは重装歩兵団による戦闘の場面である。
重装歩兵が戦うとき、各人左手に持った盾を互いに隙間なく突き合わせ、槍を右手にして集団で闘う。このような戦闘方式では、何より大事なことは、同僚と一致団結して戦列を乱さないことであるから、一人飛び出して、的に突進することも、臆して戦列に穴をあけることも、同じように敗北を招くことになる。したがって、重装歩兵から最大の戦力を引き出す程度に気概を持つことこそが、勇気と呼ぶにふさわしいのである。
しかし、このような規定が、コロンブスにとって何の役にも立たないものであったのは言うまでもない。
実際には、アリストテレスの時代、既に市民団による重装歩兵の戦法は、時代遅れになりつつあった。もちろん、それは依然として重要な戦力の一部ではあったが、アレクサンダー大王はよく訓練された騎馬隊を自ら率いて、機動力を生かした大胆な戦術によって、成功を収めつつあったのである。職業軍人と天才的指令官による戦争の時代が到来しつつあったのである。
死の危険が避けがたい軍事においては、理性がすべてを掌握することはできない。死を覚悟して戦うことによってこそ、勝利する可能性、したがって死を逃れる可能性も高まるという逆説が付きまとうものだ。その経験があればこそ、「哲学者」による理性の専制下においても、「気概的部分」を無視することができなかったのである。
やがて、キリスト教的見方が広がるにつれて、勇気の問題圏は、信仰、希望、愛の領域にまで浸透する。これらにおいても、理性の圏域の中にすべてを閉じ込めることはできないからである。信仰や希望や愛に、合理的な十分な根拠を与えることはできない。それが自己犠牲やリスクを伴う場合、勇気とか気概の出番となる。
続きを読む
2012年01月30日
原発国民投票
原発国民投票の試みが今取り組まれている。以下、参照
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012013002000015.html
私自身も、日曜日に戸越公園の居酒屋まで署名に行ってきた。渋谷駅前では、連日署名所がおかれていて署名できるはず。2月9日までに、あと数万名分の署名を集めなければならない。次世代のために、我々にできることをする責任を果たしたい。
、
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012013002000015.html
私自身も、日曜日に戸越公園の居酒屋まで署名に行ってきた。渋谷駅前では、連日署名所がおかれていて署名できるはず。2月9日までに、あと数万名分の署名を集めなければならない。次世代のために、我々にできることをする責任を果たしたい。
、
2012年01月29日
好きになるってどんなこと?
昨年、『ドリーム・ナビ』12月号に「好きになるってどんなこと?」という題でエッセーを書いたが、その時発表しなかった別ヴァージョンの原稿を貼りつけておくことにする。
―好きになるってどんなこと?―
「大きな愛と小さな愛」
オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』というのがある。北の国のある街に、幸福の王子と呼ばれる彫刻があった。至る所、宝石や金銀で飾られた実に立派なものだ。その彫刻の王子様が、街の方々にある貧しい家の事を、ツバメから聞く。そこで彼は、自分を飾っている宝石を一つづつ取って分け与えるように、ツバメに命じるのだ。やがて夏が終わり、ツバメが南の国への渡りに出発しないといけない季節が来ても、王子の使いとしての働きは果てることがない。それだけ世の中には不幸な人が多いのである。やがて、王子の像は惨めにぼろぼろになってしまうが、ツバメは王子のために勤めを果たしたあげく、その足元で凍えて死んでゆく。
あまねく惜しみなく不幸な人々に注がれる幸福王子の愛は、自分を分かち与え、自分を犠牲にして多くの人たちを救うけれど、この童話を読む人は、彫刻だけに何か冷たい感じがしないだろうか? その心は大きく気高いが、血の通ったものではない。
この物語を救っているのはツバメの存在だ。本当の主人公はツバメなのだ。彼こそは王子様のことを、その小さな身体と心の全部で愛している。
王子様の自己犠牲的な愛にも、それなりの事情があったのかもしれない。貧しく不幸な多くの人々の中にあって、一人きらびやかに飾り立てられて立ち尽くすのも、きっと楽ではなかったろう。いっそ裸同然にまで落ちぶれても人々に尽くしたい、そう思うようになったとしても不思議ではない。それをも理解して、ツバメは王子を愛している。ところが、王子の方は自分の大きな愛にばかり気を取られていて、足元に凍えているツバメの小さな愛に気づかないのだ。
だけど、ツバメの方が本物で、王子の方はニセモノだというわけじゃない。もしそうなら、ニセモノを愛したツバメの愛もニセモノになってしまうだろう。大きなものを恵まれた者は大きなものを与えることができるし、小さなものを恵まれた者は小さなものを与えればいい。どちらも立派なことだ。王子様の贈り物は、多くの人々を喜ばせたが、ツバメのことには誰も気を留めない。ツバメは誰知ることもなく、ただ一途に王子様への小さな愛を貫いて死んでゆく。
おそらく神様から見れば、愛に大きいも小さいもないのだろう。だがそれよりも大事なことは、ここで救われているのが、貧しい人々ばかりでなく、王子様でもあり、またツバメでもあるということだ。王子様にもツバメにも、やり遂げた幸福の微笑みがあったにちがいない。
人を好きになることには、王子様の愛のように、どこまでも広がるとらわれない雄大さがあると同時に、また一方ツバメのように、人知れずただ人を理解し、その小さな胸いっぱいに憧れる、秘められた小ささもあるということだ。おそらくそのどちらも、大切なことなのだろう。
―好きになるってどんなこと?―
「大きな愛と小さな愛」
オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』というのがある。北の国のある街に、幸福の王子と呼ばれる彫刻があった。至る所、宝石や金銀で飾られた実に立派なものだ。その彫刻の王子様が、街の方々にある貧しい家の事を、ツバメから聞く。そこで彼は、自分を飾っている宝石を一つづつ取って分け与えるように、ツバメに命じるのだ。やがて夏が終わり、ツバメが南の国への渡りに出発しないといけない季節が来ても、王子の使いとしての働きは果てることがない。それだけ世の中には不幸な人が多いのである。やがて、王子の像は惨めにぼろぼろになってしまうが、ツバメは王子のために勤めを果たしたあげく、その足元で凍えて死んでゆく。
あまねく惜しみなく不幸な人々に注がれる幸福王子の愛は、自分を分かち与え、自分を犠牲にして多くの人たちを救うけれど、この童話を読む人は、彫刻だけに何か冷たい感じがしないだろうか? その心は大きく気高いが、血の通ったものではない。
この物語を救っているのはツバメの存在だ。本当の主人公はツバメなのだ。彼こそは王子様のことを、その小さな身体と心の全部で愛している。
王子様の自己犠牲的な愛にも、それなりの事情があったのかもしれない。貧しく不幸な多くの人々の中にあって、一人きらびやかに飾り立てられて立ち尽くすのも、きっと楽ではなかったろう。いっそ裸同然にまで落ちぶれても人々に尽くしたい、そう思うようになったとしても不思議ではない。それをも理解して、ツバメは王子を愛している。ところが、王子の方は自分の大きな愛にばかり気を取られていて、足元に凍えているツバメの小さな愛に気づかないのだ。
だけど、ツバメの方が本物で、王子の方はニセモノだというわけじゃない。もしそうなら、ニセモノを愛したツバメの愛もニセモノになってしまうだろう。大きなものを恵まれた者は大きなものを与えることができるし、小さなものを恵まれた者は小さなものを与えればいい。どちらも立派なことだ。王子様の贈り物は、多くの人々を喜ばせたが、ツバメのことには誰も気を留めない。ツバメは誰知ることもなく、ただ一途に王子様への小さな愛を貫いて死んでゆく。
おそらく神様から見れば、愛に大きいも小さいもないのだろう。だがそれよりも大事なことは、ここで救われているのが、貧しい人々ばかりでなく、王子様でもあり、またツバメでもあるということだ。王子様にもツバメにも、やり遂げた幸福の微笑みがあったにちがいない。
人を好きになることには、王子様の愛のように、どこまでも広がるとらわれない雄大さがあると同時に、また一方ツバメのように、人知れずただ人を理解し、その小さな胸いっぱいに憧れる、秘められた小ささもあるということだ。おそらくそのどちらも、大切なことなのだろう。
2012年01月17日
哲学者って何してるの?
先日、『ドリーム・ナビ』のための二度目の原稿を送った。お題は「悪い事ってど
んなこと?」である。多分一月か二月後には店頭に並ぶはず。
元締めの野矢茂樹氏からは、お題は「哲学者って何してるの?」になりそうだと聞いていたので、ここではそちら
のお題で書いてみたのを掲載しておく。 続きを読む
んなこと?」である。多分一月か二月後には店頭に並ぶはず。
元締めの野矢茂樹氏からは、お題は「哲学者って何してるの?」になりそうだと聞いていたので、ここではそちら
のお題で書いてみたのを掲載しておく。 続きを読む