2022年11月26日

【近代政治哲学における自然】(1)


 近代政治哲学における社会契約説は、さまざまな形で自然状況に言及する。自然状況において社会契約を結ぶことによって、権力や法を人為的に設立するという理論的虚構が社会契約説の骨子である。しかし、自然状況がどのようなものと観念されるかによって、そこから創設される政治社会の性格もさまざまに異なることになる。たとえば、ホッブズの想定した自然状況は、万人が万人にいかなる留保もなく戦争状態にあるという極めて過酷なものであり、それに応じてそこから創設される権力も絶対的独裁制となる。
 ホッブズの自然状況では、死の恐怖から逃れるために己れの自然権を放棄することが合理的となる。しかし、自然状況においてはいかなる約束もいつでも裏切ることが許されており、それは単に相手を欺くマヌーヴァに終わる危険がある。それでは「社会契約」が成立することは不可能であろう。
 これに対してロックにおいては、自然状況ははるかにマイルドなものと見なされている。
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easter1916 at 21:06|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2022年11月25日

山形新聞への投稿――イザヤから

剣を打ちて鋤と為し、槍を打ちて鎌とせよ。(『イザヤ書』第2章第4節)
 一九九〇年代、英国で核ミサイル・トライデントの配備に反対して立ち上がった女性たちの運動があった。何十人か単位で基地に押しかけ、フェンスをよじ登り、核弾頭ミサイルを金槌で破壊しようとしたのである。彼らの行動は徹頭徹尾非暴力的なものであったが、当局には大きな脅威であった。当然、彼らは目標にたどり着く前に全員検挙されたが、繰り返し仲間があとに続いた。
 逮捕された者は口々に核兵器の違法性を叫び、胸を張って無罪を主張した。やがて長い裁判闘争が続き、己れのキャリアを棒に振る者も出たが、驚くべきことには、いくつかの裁判所が彼らに無罪を言い渡したのである。そしてついに核ミサイル撤去を勝ち取った。
 女たちは、自らをプラウシェアーズと名のった。それは「鋤」を意味する言葉。引用した『イザヤ書』から取られたのである。この女たちの伝説的な闘争の記録からは、まるで彼らの楽しげな会話が漏れ聞こえてくるようだ。彼らは今でも、その娘たちその孫娘たちに向かって、自分たちの誇らしい闘いの物語を、楽しく語り聞かせるのであろう。子供たちは興奮に目を丸くしてそれを聴く。
 さて、ヒトラーのパリ占領下での対独レジスタンスを戦い、強制収容所を生き抜いた女性アニエス・アンベールの手記を読むと、その末尾にもこの同じイザヤの一節が引用されているのだ。
 かたやカトリック、かたやマルクス主義と理念の違いはあれど、両者に共通するのは、横溢する奇妙な陽気さと、前後の見境のない勇気であろう。陽気さは、危険の中にあっても信頼する仲間たちの持ち味を際立てる活動そのものの悦楽から生まれ、勇気は試練の中で同志たちが美徳を競い合う結果なのだ。地位や利得は言うに及ばず、時には家族さえも切り捨てるその厳しさは深く我々の胸を打つ(アニエスは、対独協力者になりさがった息子を義絶している)。かかる怒れるアンチゴネーたちに、永遠(とわ)に祝福あれ!


easter1916 at 02:04|PermalinkComments(0) 日記 

2022年09月27日

山形新聞への寄稿「永山正昭『星星之火』」

「全校生徒六百が、二列になりて進む時」(永山正昭『星星之火』)

 著者は戦前・戦後にかけて船員労働組合の運動に艇身した活動家。ガリ版刷りで組合員に配られた小文を集めたものが近年みすず書房から出版された。そんな中に、小学校時代の恩師を描いた文章がある。ある日、先生は『長き行列』という詩を一行一行説明してくれた。「一行づつ進むにつれて、小学生の長き行列が進み」…全国数百万の小学生が進んでゆく。そしてそのうち先生の声がいつの間にか涙声になっているのに気づく。「…行進してゆくその長い長い行列を思い浮かべてごらん…」といって、しまいには本当に泣き出してしまわれたときには、私たちのほとんどが先生と一緒に涙を流していた。
 「本当のところ、私たちは先生がなぜ泣き出してしまったのか、そのときはよくわからなかったのだと思う。しかし、先生が泣き出し、私たちもいつの間にか一緒になって泣いてしまったことで、やはりなにがしかは分かったのだとも思う」。その日に母にその話をしたら、「たちまち涙ぐんで、いい先生でよかったね、と言った」。ここで子供たちがなにがしか理解していたもの、母がそれを聞いてすぐに理解したものがあったのだ。子供こそ国の宝だと信じる人々がおり、そのような先生の姿を鮮明に記憶している教え子たちがいた。
 我々はいつの間にか、共有された厳粛さをどこかに忘れ去り、あさましいまでに軽薄な民族になり果てたようである。今の世でどこに、生徒の身を案じて涙してくれる先生がいるか? そのことで子供を祝福する母たちがいるか?
 例のごとく、永山は結局党に裏切られて、日々の身過ぎにも困る境遇に陥ったが、その晩年を華飾のリースのように取り囲む数々の友情は、いずれもこの世の常ならず美しい。革命闘争の困難が友情をことさらに輝かせているのか、それとも友情の輝きこそが革命的ユトピアのリアリティを支えていたのであろうか?



easter1916 at 22:17|PermalinkComments(0) 日記 

2022年09月26日

救国

http://sogakari.com/?p=6119

easter1916 at 01:59|PermalinkComments(0) 時局 

2022年09月18日

デカルトの自己知

 カルチャーセンターの講義で、デカルトを取り上げたのだが、どうも話題が四方に散らばりまとまりに欠けるうらみがあったので、もう一度要点を整理してみることにした。
 デカルト的自己知について再考するのは、最近永井均氏や入不二基義氏によって、デカルト的自己知に基礎づけられた存在論的議論が展開されているのに、少々違和感を持つからである。永井氏は、この現実世界とは私が存在している世界のことであると述べている(『私・今・そして神』p−100)。そして、実在性にその真の意味を与えているのは、実在の一事例でしかない私の存在であると論じている。私は、自分が存在しているというだけでそれを現実世界ということはできないと感じる(なぜなら、私が存在していても、そこで私が財務省の役人である世界は現実世界ではないからである。可能的世界に実在している私は可能的な私であり、現実世界に実在するこの私ではない、というような言い方はややミスリーディング。なぜなら可能的世界に実在している私は、まさにこの現実世界に実在している私そのものであるから)。しかしまさか永井氏がそんな単純な見落としをするとは思えない。ともかく永井氏は次のように述べている。

概念自体が現実存在によってしか理解できない者の存在を、神の存在ではなく、私の存在と考えてみたらどうだろうか。「私」という概念の意味が分かるには、まずは私自身が存在しなければならない。確かにある観点に立てば、私は多くの「私」たちの一例であるにすぎない。しかし、一例に過ぎないはずのものこそが、その概念に初めて本当の意味を付与している。(p−88)

私自身はこの両氏の所説についてよく理解しているわけではないので(たとえば、引用文での「本当の」の意味が分からない)、周到な批評ができるわけもないのであるが、この機会に感じる違和感を手掛かりに、あらためてデカルトについて論じてみようと思う。もっとも、十全な理解なく批評することは不可避であるのみならず必要でもある。そもそもテクストの「十全な理解」が著者の自己理解に一致する必然性がないばかりか、もし批評が著者の自己理解をただなぞるばかりであるなら、それは批評と言うにも値しないことであろう。
 
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easter1916 at 17:58|PermalinkComments(16) 哲学ノート 

2022年08月16日

権利のための闘争

「権利のための闘争は義務である」(イェーリンク『権利のための闘争』)

 権利と義務の違いをわきまえる者には、この言葉は奇妙に響くかもしれない。権利を守ることは、自己の存在の尊厳を守ることである。つまり、単に自己の利益のための欲得づくの問題ではないのだ。そればかりではない。権利が社会全体の公共的・法的価値であるかぎり、権利の侵害を見過ごすことは、いわば国境の侵犯を見逃すようなものである、とイェーリンクは説く。自分の庭でなくとも、国境を一ミリでも侵犯されることは許してならないように、あらゆる権利の侵犯にも身を挺して闘わねばならないのだ。このような主張こそ、民主主義の根幹をなすものと言えよう。モンテスキューが民主制の法の精神は徳(ヴェルテュ)(個々人の気概=愛国心)であると言ったのはその意味である。
 しかし今日強調しなければならないのは、権利のために闘う市民的気概こそが国の支えであるということ。政府の不正を決して許さないような革命的市民の気概がなければ、いかに軍備に金をかけても国を守る役には立たないのだ。久しく封建的身分制度のもとで市民社会の経験に乏しかった東欧諸国は、たやすくヒトラーやスターリンの軍門に下った。冷戦後、せっかく民主化を達成しても、権威主義的な極右政権や汚職・縁故政治が絶えない。国家主導に慣れた社会では、市場経済は必ずしも市民的自由につながらない。イノヴェーションで自由競争に勝ち残るより、国有財産をかすめ取り権力と癒着して巨万の富を築く(オリガルヒ)方が手っ取り早いからだ。それを妬む連中も、すぐに暴力に訴えようとする。かくて内戦と独裁が交互に繰り返される。ここには権利のための闘争はなく、単なる私闘があるばかりだ。しかし大義なきマフィアの抗争がいつまでも続くわけではない。今般のウクライナの戦争は、人々に塗炭の苦しみを与え続けるが、やがて長い時を経て、パルチザンを戦い抜く革命的市民の気概を育て、成熟した市民社会の礎になってゆくだろう。


easter1916 at 22:55|PermalinkComments(0) 日記 

2022年07月15日

安倍晋三氏の国葬に反対する

安倍晋三元首相の国葬の企てに反対します。以下ご賛同できる人は署名できます。

https://www.change.org/kokusouhantai

政治理念や政治決断の是非についてはいろいろの考へがあるでせうが、この人物が国民に嘘をつき続けたことは明らかです。このやうな人物を顕彰することは、国民の道徳的品位を著しく毀損ことになると考へます。


easter1916 at 15:41|PermalinkComments(9) 時局 

2022年07月13日

統一教会について

https://live.nicovideo.jp/watch/lv337692945

easter1916 at 14:51|PermalinkComments(1) 時局 

2022年06月10日

奈倉有里氏の『夕暮れに夜明けの歌を』

山形新聞への投稿

「人が恋をするのは、恋愛小説を読んだからなのだ。」(奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』)

 若い頃ドストエフスキーとトルストイの作品を一通り通読して以来、ロシア文学こそ世界文学の最高峰という私の確信は揺らいだことがない。だが奈倉氏の本を読むと、直接原語で読む醍醐味をつくづく羨まずにはいられない。我々が愛読する作品も孤立した星ではなく、広大なロシア語という共生の森の一員として見えてくるからである。
 氏のロシア留学は、ほとんど大学と図書館の往復で占められ、これといった遊びも娯楽もない。就活とも婚活とも観光とも無縁。それが、これほどみずみずしい感性の冒険を生むのである。「すべての学理は灰色」などとうそぶく体験至上主義者は恥じ入るがいい!ロシア語という深い森を行くとき、そこには妖精のような魅力をたたえた学友たちが飛び回り、さらに奥には白いひげを蓄えた森の主のごとき教授たちが佇んでいる。省みて我々に、母語とその文学に対するこれほどの信頼があるだろうか? 彼らと共に繰り広げられる魂の冒険は、青春の香気を帯びて輝き、苦悩さえもが祝福されている。
 二葉亭四迷によれば、ロシアの作家たちはテロの爆弾を投ずるような覚悟で作品を世に投じた。彼らにとって「筆と爆裂弾は一歩の相違があるばかり」だったのである。しかも、幾多の革命が次々に屍をさらしても、なおロシア文学は不滅である。進化生物学によれば、島嶼部の動物は天敵が少ないため小型化する傾向がある。逆に、大陸にあって巨大化せざるを得ない動物にもそれなりの苦労があるように、巨大な帝国の民衆にも深い哀しみがある。どの時代でも、粗暴で鈍重な現実と高貴すぎる理想に引き裂かれるロシアの苦悩には、何かしら崇高な所があるのだ。大所高所からのもの言いに流れず、自分が経験した学園生活と文学を足場に、帝国の知識人の苦悩に静かに寄り添う奈倉氏の文章は、文学に生きる者の覚悟を示して余すところがない。



easter1916 at 20:46|PermalinkComments(0) 書評 

2022年06月08日

大澤真幸氏『〈世界史〉の哲学妓殿緤咫戮砲弔い

大澤真幸氏の『世界史の哲学』の第一巻を読んだ。今なお継続中の巨大な仕事であり、極めて広範な問題を扱いながら、一貫した問題意識のもとに実に見事な統合を果たしつつある立派な仕事である。もちろん本格的な検討は、全巻を熟読して初めてなしうるに違いないが、劈頭の第一巻には巨大な仕事を貫く志と方針がすでに現れていると思うので、その中でやや疑問と感じる点についてのみ論じてみたい。幸い講談社文庫版には、山本貴光氏による適切な解説がついていて便利である。続きを読む

easter1916 at 02:39|PermalinkComments(2) 書評 
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