2016年05月25日

美学散歩(13)ジジェクの解釈

ここでついでに、ジジェクの解釈に沿ってラカンの「現実界」の多様な面について、私の理解の及ぶ範囲でメモしておくことにしよう。(ちなみにle symboliqueを「象徴界」と訳すからと言って、le reel を「現実界」と訳すのには抵抗がある)

ラカンもさることながら、ジジェクにおいてさえも、le reel 享楽などをめぐる部分は特に難解であるが、ジジェクの多くの著作のエッセンスを総攬するような本(『イデオロギーの崇高な対象』河出文庫)が翻訳されているので、このさい私がどこに疑問を感じてきたかを、この本に即して明らかにしておきたいと思う。
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2016年05月24日

美学散歩(12)『紅葉狩』補論

『紅葉狩』における第二の変身、上臈の鬼への変身は、何を意味するのであろうか? ここには、精神分析学的に考えると、「死の欲動」「現実的なもの」(le reel)「享楽」などの諸概念でとらえられるべき典型事例がある。

非常に簡略化すれば、主体が言語を習得し、象徴界に参入してから顧みれば、この出来事(主体の生成)はそれ自体語りえず、考えることも記憶することもできない(なぜなら、そうすることのできる主体がまだ存在しないから)トラウマ的出来事であるが、それを神話として何とかつじつまを合わせようとする。それが例えばエディプスの物語である。

母子一体関係にあった鏡像段階は、失われた何ものかとしてのみ神話化され、エデンの楽園の如きものになる。そのイメージは、『源氏物語』における光源氏にとっての藤壺のように、桐壺の更衣の代替物として、その実際の実在そのものを超えた、いわく言いがたい魅力を備えるもの(これを対象aという)として主体の欲望の「原因」となる。

この欲望の「原因」とは、誤解を招く言い方である。プルーストの小説の中で、ジルベルトの黒い瞳に魅せられた主人公は、それを青い瞳と思い込んでおり、いつも青い瞳のジルベルトを思い出そうとする。

そののち長い間、彼女を思い浮かべるたびに、その眼の光の回想が、彼女はブロンドなのだから、目は鮮やかな空色だ、という風に直ちに私の頭に浮かんでくるのであって、したがっておそらく、もし彼女があれほど黒い眼をしていなかったら…私は彼女の中で、特にその青い目に、あんなに恋い焦がれはしなかったろう。「スワン家の方へ」

ここで、青い瞳は主体の欲望の対象、黒い瞳はその原因となってはいないだろうか? この点で、私は「欲望の対象=原因」というラカンの言い回しに悩まされてきた。
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2016年05月23日

列聖

山路を往くと、そこにはまだ鶯が鳴いている。山の鶯はまだ啼き方がへたで、ホーホケキョのホーの部分をたっぷりためて歌うことができない。

そこで、私が啼き方を伝授してやることにした。へたな者どうしで競争していては、この程度でも恋人が得られるものと、高をくくってしまうからである。

はたして私が歌ってやると、しばらくうっとりと私の啼き方を聴いていたかと思うと、やがて次々に鳴き交わして近寄ってくる。近くに侮りがたいライヴァルが出現したと思うのであろう。明らかに複数の声で方々から啼くのが聞こえてくる。よく聴くと、声のピッチも違えば、歌い方のクセも違っているが、どの鶯もおしなべて下手である。

上手な鳥だと、ホーォホケッキョのように歌うものだ。このホーォの部分が特に重要で、ホーと少しピッチを上げた後、ォの部分で心もち抑え気味にする。そして、ためにためておいた力を一挙に吐き出すかのように、巻き舌を使ってケッキョをすばやく転がすのだ。そうすると、女心はいちころである。

そうして5〜6分も口笛で模範演奏を聴かせてやっていると、比較的器用なひとたちは、以前より格段に上達したようである。もちろんまだ師の演奏に遠く及ばないのは致し方ない。

かつて、アッシジの聖フランチェスコは、小鳥たちに福音を説き聞かせたといわれているが、私の場合も、鶯に鳴き方を教えたという点が評価されて、列聖の参考にされないとも限らないと心配している。まあ、いずれにせよ百年以上後のことだろう。

もちろん私は、列聖してもらいたいわけではない。考えてみれば、カトリック教徒ですらないのだから、列聖される心配は、まずないのである。ただ、私が教えた鳥たちが、口伝えで他の鳥たちに私の歌を伝承し、蓼科山のほとんどすべての鶯が、私の孫弟子、ひ孫弟子になることを思うと、愉快である。
  
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2016年04月18日

美学散歩(11)Unto this last

ブルジョワ社会は、人間と人間の自由な契約に基づく社会であるから、市場で出会う人々は対等で自由であるはずだ。人々の自由な欲望のみが、市場の勝者を決定し、チャンスをつかむ才覚こそが個人の社会的承認につながり、個人と社会の対立を乗り越えさせるはずである。

ここに、共同体の因習を突き破り、大胆に社会への冒険へと乗り出す自由な気概あふれる人物類型が生み出された。初めからその地位を保証する身分的通行手形も、前もって個人を限界づける地域的刻印も持たない自由な個人が、己れの才覚のみに基づいてゼロから世界を築き上げる物語が成立する。ロビンソン・クルーソーの物語など。
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2016年04月15日

美学散歩(10)全体性つづき

時間を通じて意味が現れる様式が物語である。白鳥が魔法にかけられた王女であったことがわかるとか、小さな一寸法師が立派な手柄を立てる若者に成長するとか、醜いアヒルの子が、やがて立派な白鳥に姿を変えるとか、はたまたオヴィディウスの一連の変身物語…。

これらの物語では、いずれも隠れていた意味が現れるが、そこには自然的成長の場合のように、自然の中に潜在的に隠れているものが成長につれて現れたり、本来の意味が超自然的魔法によって隠されたり解かれたりする。それは、いわばアリストテレス的意味生成であって、意識の経験ではない。花は種の真理であるが、それは観察者にとってのこと。種自身はそのことを知らない。

しかし小説においては、このような形で隠されている意味が問題なのではない。むしろそれは、さまざまの人々の信念や欲望において、断片的ながらすでに現れているのである。主人公とともに、我々はそれらの断片から、全体的意味を読み取らねばならない。そのためにこそ、主人公は、さまざまな探究と冒険を経由せねばならない。そうして、世界の方々でこのような断片を拾い集めるのである。そのため、主体自体がみずから体現する真理を意識化・主体化せねばならない。真理は実体としてのみならず、主体としても捉えられねばならないのである。

バルザックに『あら皮』という小説がある。人生に絶望した青年が、ふとした偶然から魔法のあら皮を手に入れる。それは主人公が望むことを何であれ実現してくれる魔法の力があるが、それを達成するたびにあら皮は目に見えて小さくなってしまう。残されたあら皮の大きさは、残された命の時間を示しているのである。それでも主人公は、命をすりへらしても己れの欲望を諦めることはしない。

ここでも、物語に登場する魔法の小道具が存在するように見えるが、白鳥の魔法とは違っている。白鳥の魔法の場合は、それを解く力はもっぱら主人公の力を超えた超越的世界の秩序であるが、『あら皮』では、主人公は己れの欲望の真の意味(テロス)が死であることを知りつつも、それを断念することをしない。つまり欲望とその実現の間に存在する魔法のあら皮が、もはやその両者を隔てるヴェールではないのだ。主人公は己れの欲望の真の意味が死であることに気づきながら、死という帰結を引き受けるのだ。

『あら皮』の主人公の欲望を、『源氏物語』における六畳御息所の場合と比較すると、小説と物語の区別がいっそうはっきりするだろう。六畳御息所は、自分が寝ている間に生霊となって身を抜け出し、葵上に憑りつく。葵上はそのために発病し、阿闍梨たちを呼んで祈祷をさせる。寝覚めた御息所は、自分が生霊となっていた意識はないが、身に染まった祈祷の護摩の匂いによってそのことを思い知らされる。この場合、御息所の欲望は、自分自身にもどうにもならない宿命として現れており、御息所はそれを受忍するだけで、引き受けるとは言えないのだ。

一般に『源氏物語』の主人公たちは、己れの意志と欲望によって人生を切り開くのではない。皇室の人間であってさえ、権力の中枢から遠ざけられた場合、見るも無残な零落を覚悟しなければならない(たとえば、桐壺帝の第八皇子が、都に住むこともできず宇治に隠棲したり、常陸宮の一人娘末摘花が、日々の生活にも困るほど困窮するなど)。市民社会が、小説の主人公たちに準備したものが、ここに欠けていることが明確にわかるのである。

小説や物語は、人生そのものの写しではない。実人生の中から夾雑物を取り除き、意味生成の純粋な形式を浮き彫りにする。それによって人生の縮約を表現するとも言える。読者は、その縮約の中において、己れの実人生そのものの記録よりも、いっそう鮮やかに己れの人生の意味を読み取るのである。小説がフィクションでありながら、より真実性を表現できるのはそのためである。

日記の様な一人称視点からの心理記述だけでは、その観点そのものの変容は描きにくい。心理は次々に走馬灯のように移り変わっても、それを眺める主体は何ら変化しないからである。他方、出来事の経過を客観的に描いても、それを眺める主体の変化を表現することはできない。主体の観点自体が変容し、意味理解自体の構造が一変することを描くためには、内在的視点と外在的視点との二重の観点が必要である。ここに、小説特有の話法が成立する必然性がある。

自伝的に書かれた小説でも、観点の二重性や意味の生成を描く点は変わらない。トーマス・マンの自伝的小説『トニオ・クレーゲル』は一貫してトニオの観点で語られているが、その観点が不動なまま自明に前提されているわけではない。主体と意味理解の変容を描くために、作者は独特の工夫を凝らしているのだ。

主人公の前に現れる二つの形象ハンス・ハンゼンとインゲ・ボルクホルムは、その特徴を表すいくつかの典型的表現とともに反復され、非常に寓話的に類型化されている。彼らの形象は、さまがら音楽のモティーフや主題のように反復して登場するため、時を経てそれが再び回帰するとき、実際それが同じ人物か、それともよく似た別の人物なのか、わざとあいまいにされている。実際の経験を構成するはずの細部から、主題とは無関係の夾雑物がすっかり剥奪され、純化された意味の構造のみが反復されるのだ。

そこから返って、彼らに相対する主人公トニオの意識が、単に自明に同一のまま前提されるのではなく、変容していることが浮き彫りになるのである。類型化された形象の反復こそが、その意味とそれを捉える主体の変容とを知らせるのだ。

ここに、主人公が自分自身に対して距離をとることが可能になるのであって、それが、見方によってはイロニーともフモールとも言える味を醸し出すのだ。出発点をなす主人公の立場に内在的に見れば、その観点がみずからの論理を追及したあげく、その否定に至るイロニーと見えようし、到達点から見れば、それ以前の意識はフモールを持って見守られる。トーマス・マンの小説なら、『ブッデンブローク家の人々』『フェリクス・クルルの冒険』『ファウスト博士』は、どちらかといえばイロニーの作品、『ワイマルのロッテ』『選ばれし人』『ヨゼフとその兄弟』はフモールの作品と言えよう。

これが、自然主義的私小説が陥る心象の羅列主義をいかに免れているか、すでに明らかであろう(心象羅列主義では、それぞれの事象の意味は平坦に等距離なまま受容されるだけで、異なる観点から捉え返されるようなことがない)。小説はこのように、意味に対する多様な観点を交錯する様式であり、それによって個人的意識を社会性に向けて解放する装置なのである。言い換えれば、それは社会の自己意識の縮約的表現なのだ。

このような芸術様式が出現したのも、世界の全体が市場によって結び付けられる近代世界市場の成立を背景としている。近代では欲望は市場において実現され、超自然的神秘は、すべて「市場の神秘」に還元される。

たとえば、バルザックの『幻滅』では、主人公の詩人リュシアン・ド・リュバンプレは、詩人としての成功を夢見てパリに出てくるが、つまらぬ作品をほめあげ、すぐれた作品を貶すような批評家や出版業者に翻弄される。これが、ドン・キホーテの場合なら、何か悪しき魔法にかけられていると感じるところであろう。ドン・キホーテにとって魔法として現象する神秘は、我々読者にとってさまざまの社会的からくりとして説明されるから、それがわからない主人公は滑稽な印象を与える。

しかし『幻滅』においては、このような「魔法」は、市場を支配している批評家―作家―出版社が一体となった持ちつ持たれつの利益共同体のためである。出版社の社長や編集者の欲望、作家同士の嫉妬心や野心、恥をかかされた批評家のルサンチマン、身内や情人を抜擢したいパトロンやジャーナリストの欲望…それらのものが複雑に組み合わされて、結果として、まるで魔法にかかった庭園のような現象を市場社会が呈することになるのだ。いずれにしろ、すべての謎は社会内部で行動する主体にとって解決可能な問題として現象するのである。

通常、政治的統治は、神秘的な血筋(ライオンの末裔など)や(神からの)知恵によって権威づけられる。これが、さまざまの半獣神(ミノタウロス)の跋扈を生み出す。それに対して、ギリシア人のみは、人が人を統治することに何の神秘もないことを強調した。巨大な迷路のような神秘で包まれた宮殿の奥まった一室にひっそりと生息し、めったに姿を見せない形で統治した従来の王の支配と違って、あからさまに見える形で人前に現れる裸形性をギリシア人は尊んだ。ただ「運」だけがなお残された神秘と見なされたのである。

ブルジョワ社会では、市場での勝利は、運によるのではなく、人々の欲望に広く応えることである。

  
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2016年04月12日

美学散歩(9)全体性

我々は出発点において、ヘーゲルの定式「絶対的理念の直感的表現としての芸術」に言及し、それを近代特有のものという歴史哲学的展望を見た。ここでもう少し詳しくヘーゲル的絶対的理念とか絶対精神を吟味しておこう。

すでに記したように、「絶対的」という規定は、他の者に還元不可能なそれ自体で価値がある、ないしそのことを自己主張しているものという含意がある。その意味で近代芸術は絶対的な価値を自己主張しているが、それと同様なものは芸術だけではない。科学においては真理がこのような絶対的理念であろう。医学においては、健康がそのような理念であろうし、倫理学においては幸福が絶対的理念かも知れない。もっとも科学にとって絶対的理念は、単なる真理ではなく、むしろ体系的で簡潔な説明ないしその知識であると考えた方がよいだろう。雑多なデータが無数に積み上げられただけでは、それが真理であっても、科学の追求するものとは言えないからである。言い換えれば科学は多様な現象の合理的説明を求めるのである。そして、それ以上に合理的説明が不可能であるほど有力である説明は、単なる仮説にとどまらず、真理と見なすほかないという意味でのみ科学は真理を目指すとしなければならない。

これら絶対的理念同士の間の関係はどうなのであろうか? それぞれに独立した価値理念だと言うだけであろうか? ヘーゲルの考えは明らかにそうではない。それぞれの分野における絶対的理念は、唯一の絶対精神のさまざまの表現と見なされているのである。それは、宗教哲学において、伝統的な神が絶対的理念の表象的表現とされていることからも理解できる。つまり、絶対的理念とはかつての宗教的理念の代替物なのである。ただしヘーゲルは、それを最も本来的に表現するのは、今や学問における概念的知識であると見なしているのだが。

ヘーゲルの『美学』の奇妙な点は、それが小説の章を欠いていることである。詩について論じたところで終わっているのだ。しかし、小説について彼は論じる必要がなかった。それはすでに『精神現象学』において論じられたことであったからである。

近代芸術が、みずからをかつての宗教に代わるものという自負を持って登場したとき、すべての芸術に何らかの統一した課題があるという観念を担うことになった。そしてそれは、芸術を超えたすべての生を意味づけるはずであった。それが全体性の理念である。

絵画においてはオランダ絵画に典型的にあらわれる全体性の理念は、何の変哲もない市民生活の取り立てて重要ではない一瞬が、他の場面と同様に世界の全体にそのままつながり、それを凝縮して体現する、という形で表現されることになった。これは、世界市場が成立し、オランダがその中心に躍り出たことを背景にしている。個々人の日常はそのまま世界市場につながっているのである。かつては、特権的人物(王侯貴族や神々)の特権的瞬間が、世界の中で描くに値する特権的テーマとされていたが、今やすべての事物や場所は、等しく世界市場の中でしかるべき位置を占め、しかるべき評価を受けるようになる。

それと同様の全体性は、小説においても現れる。世界においてはバラバラに支離滅裂の仕方で、あたかも乱丁の多い書物のようなやり方で現れている現象が、互いに密接な意味連関において全体性の表現とされる。個々の現象がバラバラなまま意味を伏せられたまま現れていたものが、統合されることによってその本来の意味を自覚することになるという経過が、小説作品では描かれるのだ。一番わかりやすい例は、探偵小説であろう。さまざまの形で犯人が残した手掛かりの断片を取り集めて、そこに名探偵が推理を加える形で、そこに真の意味、すなわち真犯人をあぶりだす。これが物語の時間を形成する。

時間経過とともに、全体的意味が現れる、それが物語一般の形式である。小説では、社会のさまざまの部分におけるさまざまの登場人物たちの意識が、それぞれに限定された信念を持ちながら、物語の進展とともに意識の変転を経由しながら、最終的に何らかの高次認識に至る。小説こそは、ヘーゲルの現象学における意識の経験を芸術様式としたジャンルに他ならない。

ギリシアにおいて叙事詩が世界についての彼らの根本経験のモデルを示し、他の芸術や人生観などのすべてを規定したように、近代の芸術は小説の様式に倣って形作られる。

たとえば、古典音楽のソナタ形式は、それ以前の様式を、小説的精神で一変するものであった。すなわち、聴き手は、曲の中に印象的な個性を放って提示される主題に注目し、それがその後どのように展開されていくかに意識を集中する。それはいわば曲の主人公である。やがてそれは、元の形を残さぬほどに解体されてしまうが、再現部において再び元の姿を現す。ソナタ形式の音楽は、このようにテーマに集中しながらその経過を追って体験する様式と言える。それは、テーマが表す主人公が社会と激突して繰り広げるドラマであり、社会と個人の対立と和解とを表現するものである。

特にヴァイオリン協奏曲の形は、独奏ヴァイオリンが主人公の主体性を表現し、トゥッティが社会的一般性を代表するのが一般的である。もともとヴァイオリン協奏曲は、複数のソロとトゥッティで演じられるコンチェルト・グロッソの形をとっていた。バッハやモーツァルトのドッペル・コンチェルトやヴィヴァルディの四季をはじめとする多くのコンチェルト・グロッソなどのようなもの。ところが、それから次第に独奏ヴァイオリンが一つだけ独立してきて、ついには一人のソロだけでオーケストラ全体と相対するようになる。これこそまさに、近代化とともに共同体から個人が独立してくる経過に対応するものである。それ故、ヴァイオリン協奏曲こそ、近代の小説的主観性をもっとも端的に表現する様式なのである。

だからこそ、このような近代的主体に対する信頼が揺らぎ始めると、真っ先に時代遅れになるのもヴァイオリン協奏曲という様式なのである。現代音楽家の悲劇を描いたトーマス・マンの小説『ファウスト博士』の中で、主人公アドリアン・レーヴェルキューンのヴァイオリン協奏曲について次のように書かれている。

この作品は音楽的な手法からすれば見まごうべくもなくレーヴェルキューンの曲であるにもかかわらず、彼の最高にして最も誇り高い曲の一つではなくて、少なくとも部分的には愛想のいい、謙虚な所があった。あるいは腰の低さがあった。(邦訳下p−75)

それは、音楽的な姿勢が名演奏家、演奏会向きで一種愛想がいいために、レーヴェルキューンの仮借なく急進的で妥協するところのない全作品の枠から少々ずれている、という意味のものであった。(p−101)


当然予想されるように、ソナタ形式の音楽においての山場は、主題が回帰してくる再現部におかれることになる。個人と社会個体性と普遍性とが対立し和解するドラマが、こうして時間的経過を通して描かれるわけだ。

ハイドンより前の音楽は、このようではなかった。バッハが徹底的に開発したフーガなどソナタ形式以前の形式では、主題はまったく別の形をとる。それは、反復されるバスという形で、一貫して曲をブロックのように枠づけているのである。

このような様式が発達するのには、音楽をめぐるヨーロッパ独自の観念によるところが大きい。ピタゴラスにはじまる音楽理論は、世界の数学的秩序としての音楽という観念を生み出し、やがてキリスト教的な解釈を伴って、神の秩序の表現としての音楽があり、人間の音楽はその不完全な模倣にすぎないとされた。中世に歌われたグレゴリアン・チャントは、それ自身神的なものであるゆえに、決して人間が手を加えることができないもの。

だがやがて、個人の感情を表現する欲求が次第に目覚めてくる。それでも音楽の基盤が神的な秩序であるとされていたために、グレゴリアン・チャントの枠組みは長らく維持され続けた。ただその上に、それを装飾するかのように高音部が付け加えられ、低音部のラテン語と同時にフランス語で歌われるようになる。ルネサンス期のモテットと呼ばれる合唱曲である。これがヨーロッパ音楽において、ポリフォニーが生まれてくる理由である(岡田暁生『西洋音楽史』p−39以下参照)。

ポリフォニー音楽から記譜法の必要が生まれ、また記譜法の工夫からポリフォニーが加速し、複雑化することが可能になったと言えるだろう。それらは、互いに原因となり結果となりながら、ヨーロッパ音楽を一段と高度化することに貢献したのである。

最初のポリフォニー音楽は、パッサカリアとかシャコンヌといった様式で、単純なバスを繰り返しながら、その上に次第に多彩化していくヴァリエーションを上乗せしていくようなものであるが、そこからカノンとかフーガといった様式が生まれてくる。これらの音楽は、反復されるバス主題の枠でがっちりと積み上げられていくブロックからなる。そのために、その複雑さにもかかわらず、与える印象はいたってスタティックなものである。そのブロック構造に、一分の揺らぎがないためである。

バッハ以前のこのような音楽がソナタ形式の音楽に対して持つ関係は、さながら『源氏物語』が近代小説に対して持つ関係に似ている。実際『源氏物語』では、我々読者は、主人公(光源氏)に自己同一化してその運命に注意を集中しながら読むのではないだろう。巻ごとに、いわば印象的な一帖の絵を見るようにして、一幅の世界を眺めることができる。だから、それから『源氏物語絵巻』が編纂されることほど自然なことはないのである。逆に言えば、すべての巻を桐壺の巻から順々に一気に読み通すことは、必ずしも必要ではないのだ。これと同様に、たとえばシャコンヌやカノンのヴァリエーションが少し順番を替えられて演奏されたとしても、さほどの大過はないであろう。パッヘルベルのカノンのヴァリエーションの順番も同様である。しかし小説の時間的筋道が替えられえないのと同様、古典的ソナタ形式の曲の筋道を取り換えることは考えられないのである。

光源氏は、パッサカリアの反復主題(バッソ・オスティナート)のようなもので、それをいわばとしながら、その上にさまざまの女君のヴァリエーションがとして展開されることになるわけだ。

パッサカリアやシャコンヌにおける反復主題が、和声進行を示すだけのそれ自身いたって単純なものであるのに対し、ソナタ形式における主題は非常に個性的で、はじめから聴取者の注意を引き付けるものである。ソナタ形式では、テーマが図として浮き彫りになり、聴取者の関心はその運命の展開に注意を集中するのである。つまり、主題の有り方が地―図反転するのである。

古典的ソナタ形式は、神の秩序の表現から、主体の冒険と認識のドラマへと音楽の舞台が変貌したことを示している。このような主体は、自立的でありながら、時間をかけて世界と対峙し、世界の普遍性と和解してゆかねばならない。

しかし、小説が成立したごく初期のころから、たとえばゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の末尾において、主人公の成長とともに期待された世界との和解に、早くも暗雲が垂れ込めているのがわかる。そこには早くも訪れつつある産業革命の不吉な足音が聞かれ、分業と階級闘争の時代が到来しつつあること、主人公たちは己れの人格的理想の実現を、ただ新大陸への移住にかけるしかないことが描かれているのである。

  
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2016年04月11日

大木を切る

山形新聞への投稿。
この美しい樹は、屋敷の中を車が走り回るのには少々邪魔になったらしい。私の聞いたところでは、どの世継ぎの息子も、若いときには、実際的な理由からこの樹を片付けてしまおうとして父と争うのであるが、他日自分が屋敷の主人になると、今度は自分の息子の要求と戦ってこの樹を守るのだそうである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)

たとえ自分の地所にあるとしても、祖先たちが守ってきた古木を自分の都合で伐採するようなことが許されるだろうか? 法的に許されても、そんなことは野蛮であるばかりか悪趣味であり、非道徳的でさえあるだろう。なぜそうなのか理由を述べるのは難しい。逆に、樹を切る理由の方はいくらでもある。名木を見ようと殺到する観光客が、無断で所有地に入り込み田畑を荒らす。枝を切り取る。何より目障りで静穏な生活を妨げる…。

だが、このような当世風の理由を言い立てるほど、その底に流れるみみっちさ、心の貧しさが現れよう。樹を切ろうとする者は、本当はその「実際的な理由」から、そうするのではあるまい。我々はただ、どこか「絶対不可侵の自分の領域」を確保したいのだ。しかし、我々自身よりはるかに長い時間存在してきた古木たちは、いかなる存在もそれ単独で存在するものではなく、隣接する諸存在と密接に交流し、はるかに遠い過去と、また果てしない未来を結ぶような形で今を生きているということを告げている。すべては相互に浸透し、どこにも「絶対不可侵なもの」などない。彼らが何か畏敬の念を起こさせるとしたら、このような無言の教えのため。

彼らはおそらく、存在の意味についても、「所有」とか「効用」といった尺度を超えて、我々とはかなり違った感覚を持っているのだろう。それがかえって我々に不安を呼び起こすのだ。「そんなもの、いっそ切ってしまえ!」

とはいえ、時間をかけて人も成長する。やがて人生の黄昏を迎えて、古木の呟きにも耳を澄ますことができるようになる。有るものすべては己れをまっとうし、ゆるやかに流れ去ろうとしている。そのとき若い頃の浅はかな思い上がりに気づき、存在と時間のほろ苦い真理を噛みしめるが、次世代の人を説得する力はもはやない。

  
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2016年04月05日

美学散歩(8)プルーストの美学

以下(特にベルクソンと印象派の下り)は、すでにここで論じたことであるが(2014年2月21日「ベルクソンと印象派」参照)、繰り返しをいとわずあえて記しておく。  続きを読む
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2016年04月01日

美学散歩(7)縮約

レヴィ=ストロースは、『野生の思考』において独自の芸術論を展開している。フランス・ルネサンスの宮廷画家フランソワ・クルエの「エリザベート・ドートリッシュの肖像」に言及しながら、その絵で描かれた「レースの襟飾りが綿密に糸一本一本まで実物と見まがうばかりに描かれていて、それが説明のつかぬたいへん深い感動を引き起こす」と述べている(邦訳p−29)。

結局そこからレヴィ=ストロースが引き出す結論は、芸術作品の本質は我々の経験対象の何らかの縮約にあるということである。すでにあらゆる絵画は、三次元の風景を二次元平面に縮約している。ラスコー壁画の動物たちは、動きを静止へと縮約しているわけである。なぜなら、動きが激しいときには、我々は対象を十分に正確に知覚できないので、動きの印象が薄れるからである。ラスコーの壁画の中の動物たちは、その動きをいわば結晶させて瞬間の中に縮約し閉じ込めることによって、かえって一層激しい動きを感じさせるのだ。

縮約模型が与える感動も、巨大な対象がそれによって一挙に全体として知覚できることの満足から来ている。典型的なのは盆栽であろう。盆栽は樹木をただ縮約して小さくして見せるだけではない。むしろ、そこで重んじられるのは、空間のみならず時間の縮約を感じさせることである。我々が経験できるのはほんの数分間にすぎないのに、そこで何十年もの時間の経過が結晶しているように見えるとき、ことのほか盆栽は珍重されるのである。

縮約は、それ自身ある大きさの経験でありながら、それを超えた大きさをそこに感じさせるという二律背反を背景にしている。空間的にも時間的にも制限された我々の可能的経験の内部にあって、それを部分的にでも超越する経験の直感をいかに可能にするかが問題なのである。

有名な能に『紅葉狩』という曲がある。平維茂(これもち)が山に分け入ると、あたり一面が紅葉真っ盛りである。するとやがてその中に、上臈たちが宴を張り紅葉狩りをしているのに出くわす。女たちに誘われて、公達はともに酒を酌み交わす。やがてほろ酔い気分になるが、俄かに嵐が起こると見るや、上臈たちは鬼に姿を変え、維茂を取り殺そうとする。

ここでは、二度変身が起こっている。初めの変身は、全山の紅葉が上臈たちの姿に変わる変身である。第二の変身で、その上臈がさらに鬼に姿を変えるのである。

第二の変身についてはいづれ触れるとして、はじめの変身は、紅葉の縮約ということができよう。我々は、全山にわたる紅葉に出会って、どちらに目を向ければよいか戸惑う。それらすべてを一挙に見渡すことができないからである。すべてを同時に感じることは、我々の可能的経験を超えている。そのため我々は、紅葉のいわばエッセンスを捉えようとして、対象の凝縮を望むのである。上臈に化身した紅葉は、我々の視線の焦点を絞ることを可能にする。

上臈の美しさは、それ自体で美しいというよりも、それが紅葉の化身であり、紅葉の美の置き換わったものである点にある。何故、置き換わったりすることによっていっそう美しくなるのか? 白鳥に変身した王女、ウサギの格好をしたバニー・ガール、それにプルーストの小説の主人公の前にバルベック海岸の堤防の上に、群れ集うカモメたちのように現れる「花咲く乙女たち」…。それらは人間の欲望の有り方に基づいていると思われるが、後に触れよう。ともかく、ここでも縮約という芸術作品の特徴と類比的なものが出現していることがわかる。

  
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2016年03月31日

カルチャーセンター

4月9日から、一年通してキリスト教について論じることになった。詳しくは
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/18045020-7ec1-caeb-80ef-5698d116d771

キリスト教や聖書について、神学的または聖書学的アプローチには、すでにうずたかい研究の伝統がある。それぞれに興味深いものであるが、教養や学知としてしか問題にしないのであれば、信仰の本義にもとると言わざるを得ない。とりわけ、宗教がもっぱら支配の補完物に成り下がり、信仰の伝統が途絶してしまった我が国において、その水脈を探るためには、よほど深く魂の地層を掘り下げる必要があるというもの。

私自身いたって世俗的な家庭に育ったこともあり、18歳の春キリスト教の学生寮に入るまで、神仏に縁のない生活をしていたので、当時はじめて身近に接したキリスト教に対する違和感は相当のものであった。とはいえ今では、この出会いに深く感謝している。

あえて言えば、裸の魂をやすりで削るような、または焼きごてを当てるような違和感をもたらさない信仰などはない。激しい違和感と反発こそ、信仰との真の出会いの証しなのである。

私は今でも、生活習慣を通して自然に宗教になじむような連中、僧侶の説教に素直になびくような連中に対しては、深い疑惑を持っている。ひとさまの信仰に文句をつけるのもナンだが、このような所に私は深い信仰を見ず、むしろ性格の弱さ、精神の未熟さを見る。

信仰と本当に出会うためには、天使と相撲を取ったヤコブのように、腰の骨が折れるほど強く踏ん張らねばならない。やすやすと土俵を割るような輩は、結局は風の前の塵、水面に漂うわら屑にすぎない。

以上、バチあたりの妄言でした。
  
Posted by easter1916 at 21:52Comments(2)TrackBack(0)日記