2021年01月16日

市場原理主義

 このコロナ禍で明らかになったのは、公共財を次々に破壊していく「市場原理主義」がいかにこのパンデミックに対して社会を脆弱にしてしまっていたかということである。この点は、橋下徹府知事以来、維新勢力が制圧している大阪の惨憺たる医療崩壊の実態を見るにつけても明らかである。看護学校を次々と閉校にし、保健所を三分の一以下に削減し、大量に医療従事者を削減した維新の大阪は、今やコロナ死亡者最大を計測している。感染者数や感染率は、検査サンプルによって変わるが、死亡者数だけはそれほどごまかしの効くものではない。
 医療や保健衛生は、市場原理だけで合理性をはかることはできない。たとえば、コロナ患者を民間病院が受け入れるのは、経済合理性上難しい。実際、病院が入院患者を断るほどにひっ迫しているにもかかわらず、病院経営が悪化しているようだ。そのため、バーンアウトするほどに働いている看護師のボーナスが大幅にカットされているのである。
 一般に、投資に長期の観点が必要な部門では、投資のイニシアティヴをたんに私権にゆだねることはできない。安全とか、司法とか、教育とか…。医療もそのひとつである。どのような領域で、どの程度の市場的考察が必要か、可能かには議論の余地があるが、「市場原理主義」は、おしなべてその考察を排除して、投資をめぐる公共的・政治的考慮を狭隘化してしまうのである。
 これには、冷戦の終結でソ連型「社会主義」(スターリン主義)がすっかり評判を落とした結果、公共財の扱いについてすべてを市場に任せるべきだといったスウィーピングな議論がまかり通るようになったことが大きい。
 しかし、コロナ禍の下における政治の迷走には、単に市場原理主義とさえ言えないものがある。たとえば、いわゆる「go to」とやらの政策は、市場競争をゆがめる政治的介入という意味で、市場原理主義からは出てこないものである。あまつさえ東京都知事は、もっともコロナの感染にとってクルーシャルな時期に、go toに反対しなかったばかりでなく、この政策に東京都が除外されたことをめぐって、東京都をそれに含めるように、政権中枢と権力闘争を繰り広げた。この知事は、これまでも大衆の被害妄想や不公正感を巧みに動員して不毛な権力闘争を仕掛ける詐欺まがい政治手法にたけた札付きの人物であったから、このようなことも織り込み済みではあったが、いまだにこの政策がもたらした悲惨な現実には責任逃れを決め込んでいる。彼らの手法とは、自分の無策を一部の社会的弱者のせいとして責任を転嫁して、大衆を陰険ないじめへとけしかけることである。
 IRとかオリンピックとか、博打のような政策に固執することも、いかなる経済合理性とも無縁である。それらは、経済合理性を無視して国策として遂行された満州経営に近いものである。市場原理主義によって公共財が荒廃した社会の経営収益は、地滑り的に悪化する。たとえば、研究・教育という公共財の荒廃を考えてみるだけでよい。その結果、わが国の国際競争力は確実に低下した。その分を博打のような政策によって補おうとして、ますます社会が荒廃するのである。この数年、外国人富裕層頼みの観光事業に頼った地域振興に重点が置かれてきたが、それも自国の技術力ではもはや十分な競争力がなくなっている証拠なのである。そして、その観光事業こそがパンデミックに直撃されているのだ。
 ガス首相は、この事態に、あろうことか国民皆保険制度の見直しに言及した。パンデミックに対応するためにアメリカではオバマケアの拡大が検討されているときに、真逆の政策を打ち出す始末なのだ! この人は、ただおろおろしながらなすすべがないことを押し隠すために、官僚や記者を恫喝する以外ないのだ。要するに、ガス首相の頭にあるのは、公安警察・情報統制の政策だけなのだ。もちろん、このさい最大の国家機密とはガス首相の無能無策そのことである。


easter1916 at 20:38|PermalinkComments(0) 時局 

2021年01月13日

方法序説

山形新聞「ことばの杜」への投稿

「森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ち止まっていてはならないばかりでなく、あちこちとさまよい歩いてはならぬ。たえず同じ方向へとできるだけ真直ぐに歩くべきである。」   (デカルト『方法序説』第三部)


 はたして森の中で真直ぐに歩くことはできるものだろうか? 少しでも曲がっていれば、大きな円を描くだけに終わる。真直ぐに進むためには、真直ぐ進んでいるという確信だけでは不十分。普通は自分の心より、星座などを頼りにして歩かねばなるまい。
 スタンダールの『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは、家庭教師先のレナール夫人を自分のものにしようと、勇を鼓して彼女の手を握ろうと決意する。その時レナール夫人を愛していたのか? 彼は自分の意志にばかり囚われているので、彼女を本当に愛しているかどうかさえわからない。それならどうしてその手を握ろうとするのか? 自分の意志が本物かどうか確かめるためである。我々の心はしばしば我々を欺く。意志していると誤って思い込ませることもしばしばだ。ジュリアンは、その意志が本物であり、単に意志の空想ではないことを、自分自身に証明せねばならない。心に執拗に絡みつく幻想を払拭して、真の意志・真の思考を確保せねばならない。これこそデカルト的な懐疑の精神だ。
 何を疑おうとも、疑う私の存在のみは確実だ(われ思う、ゆえにわれあり)、などとデカルトが述べているからといって、それを鵜吞みにするようではいけない。「しつけ」と称して子供を虐待する親は思い違いをしているが、ともかく何かを考えてはいる、と言えるだろうか? デカルトは感情に任せて行動するような心理作用を、思考とも意志とも見なさなかった。そんなものは感情の嵐でしかない。それは、精神よりも身体に属している。
 しかし、ジュリアン・ソレルが意のままにならない自分の心を感じ、自分の意志の確証を求めたとき、その潔癖な懐疑の姿勢においてこそ、まさに彼はデカルトの申し子であった。


easter1916 at 18:41|PermalinkComments(0) 日記 

2021年01月11日

拙著新刊

拙著新刊『高校生のための人物に学ぶ日本の思想史』(ミネルヴァ書房)佐伯啓思編 が出版された。

https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB16%E6%AD%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%95%99%E9%A4%8A%E8%AC%9B%E5%BA%A7-1-%E5%85%AC%E7%9B%8A%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%AB%98%E7%AD%89%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80/dp/4623090345

私はそこに、宮澤賢治論と、太宰と漱石の比較論を寄せている。
 一応16歳の青年をターゲットにしていて、「高校生のための」と謳っているが、私自身は読者の年齢に合わせて水準を下げるようなことは一切していない。高等研というところでの講演をもとにしたものであるから、繰り返しを厭わない冗長な表現が目立つが、その分いくらかわかりやすくなっているかもしれない。とはいえ、公演でも口述でも、聴き手の知性を見くびって水準を下げるというようなことは、読者を侮辱することだろう。
 実際、同じ趣旨で高校生相手に講演した時も、極めて活発な議論を喚起したものである。特に私の太宰論は、聴衆の高校生から厳しい批判をいただけたのであり、今回書き改める際、『斜陽』論を補論として付け加えたのも、その時の高校生の疑問に答えるためでもある。議論に加わっていただいたすべての方に、深く感謝申し上げたい。
 一般に、年少者の知性を見くびってはならないと常々思っている。以前、小学生あての受験用パンフレットに書いた小論(『子供の難問』中央公論社 所収)でも、知的には一切妥協していない。ただ、一般の読書人には期待可能な「常識的な」知識を前提としていないだけである。もっともこのような「常識」も必ずしも期待できなくなってきた。「カリュブディスとスキュラのあいだの二律背反」と書いたとき、編集者から「わかりにくい」とクレームをいただいたことさえある。幸いこんな場合でも簡単に検索をかけられる昨今、あまり神経質になる必要がなくなっている。以前だとこんな場合、どの辞書を調べたらいいかがわからないで途方に暮れることになる。
 本書出版に際しては、時節柄、次々に順延になった。8月予定が9月に繰り延べられ、9月予定が10月になり…まるで砂漠に現れる蜃気楼のように先へ先へと遠のいてゆくのである。かねて私は、自分の文章は死後の出版にゆだねようと思っていたこともあるから、一年二年の遅れは何でもない。スタンダールが言うように for the happy few(幸福な少数者のために)書かれたものに、出版社の損害にならない程度のつつましい成功がもたらされることを祈るばかりである。


easter1916 at 06:14|PermalinkComments(0) 日記 

2020年12月27日

スピノザ解説

最近、仕事でスピノザについて少々語る機会があった。それで、以前書いたことをごくかいつまんでまとめてみた。別に真新しいものではない。ただ、スピノザに興味はあるがとっつきにくくて困っているという人のために、以下掲載しておく。続きを読む

easter1916 at 00:50|PermalinkComments(0) 哲学ノート 

2020年11月13日

夜郎自大

山形新聞への投稿
「夜郎自大」      (司馬遷『史記』「西南夷列伝」より)
 前漢の時代(BC百年頃)、漢がインドへの陸路を開くため、蜀(今の四川省)の西南の諸国を支配下に置こうとした。夜郎とは、その地方の一部族である。その国王は、漢の使者に「漢とこの国とではどちらが大きいか?」と訊いたという。山岳で道も通じていないところにいたので、自分以外の世界の大きさを知らなかったのである。
 これは普通、己れの小ささを知らずにいっぱしの者と自惚れる驕慢な態度のことを揶揄して使われる言葉であるが、夜朗を嘲笑した漢人も、自らを以て世界の中心(中華)と見なした点では、他人を笑えたものでもあるまい。自分の視野を世界そのものと同一視し、自己を世界の中に位置づける視点を欠くことが夜郎自大なら、「夜郎自大」という視線の内に、すでに自らの夜郎自大を含んでいるのではないか? 漢は確かに広大無辺な文明国ではあるが、それでも世界を覆うものではない。国の大小を競うなら、それは程度の差である。
 このようなことは、「教養」についても言える。漢字の読み方や外国語を知らない者は、知っている者から見れば「無教養」に見える。このような情報格差の感覚が、「教養」という観念を生むのだろう。しかし、どれほど情報に通じていても、世界を知り尽くすことはできない。むしろ、知っているつもりになることから生じる盲点の方が、ずっとたちが悪い。
 こうして、己れの世界の狭さと限界に対する謙虚な意識こそが真の教養だ、というようなややひねくれたものの見方が生まれるのだ。世に誤解されがちな「反知性主義」というものも、本当は、無知なる者たちが、知性(日本学術会議?)に対して持つ嫉妬や怨恨感情(ルサンチマン)のことではなく、知性自身が自覚する知性の限界に対する醒めた意識のことだったのである。


easter1916 at 21:18|PermalinkComments(0) 日記 

2020年11月06日

Congratulations

Congratulations , America !
It's a great honour of you fellow citizen to have saved your country and your (and our) constitutional cause from the disgraceful Joker of Trump .


easter1916 at 14:45|PermalinkComments(0) 時局 

2020年09月18日

アリストテレスの〈中庸〉

概念的意味と実在の関係について一言述べておこう。
 数の存在や場所の存在がその同一性規準や本質(たとえばペアノの公理とか座標)とともに我々の存在領域に導入されるように、実在性はその存在者の本質規定を伴って導入される。何らかのノエマ的意味に対して、魔法使いが魔法の棒を振るように、その本質や提示内容(意味)とは独立して、のっぺらぼうの実在性が付与されるというわけではないのだ。伝統的な神の存在証明に対するカントの批判に登場する「実在の百ターレル」と「観念の百ターレル」の話を一般化して、実在の意味論的役割、形而上学的身分について、軽薄としか言いようのない誤解(たとえば、フッサールの「現象学的還元」など)が広がっているので、明らかにしておきたいと思うのだ。
 もとより、「百ターレル」のような例だと、その概念の理解が、それが表示する対象の実在性を含意しないことは明らかであるが、「シーラカンス」のような自然種名や「ソクラテス」のような固有名だとどうであろうか? パトナムの双子宇宙の思考実験を待つまでもなく、フレーゲの意味の理論の枠組みでも、SinnはBedeutungの実在を前提とするはずだ。私は、このことを指摘した有名な逸話として、シェーラーに対するルカーチの機知にとんだ批判に言及したことがある(『読む哲学事典』p−142)。シェーラーは、「悪魔について、その実在の問題は括弧に入れてその現象学的吟味を行うことができる」と語ったというのである。
 存在は経験の意味の理解と不可分のものとして導入される。このことを非常に印象的に示すものとして、アリストテレスの〈中庸〉の観念を参照しよう。アリストテレスの〈中庸〉は、両極端の悪徳をたして二で割ったものが美徳であるというのではない。勇気が臆病と向こう見ずの中庸であるのは、「危険を嫌う性格」と「危険を好む性格」というそれ自体は没倫理的な規定を、勇気という美徳の発見によって、二種類の欠如として再定義するということである。
 勇気は、重装歩兵の戦法から、もっとも有効に力を引き出すという観点から、絶妙なバランスが決定されるという事に基づいている。この実在する一点の発見こそが、勇気を勇気として際立て、臆病と向こう見ずを、それぞれ勇気の欠如として、二つの悪徳として再規定するのである。
 ここでは実在(とその発見)こそが、その不在・欠如をあらためて差異化するのである。実在は自らを勇気として際立てることによって、他をその欠如として際立てるのであり、その逆ではない。ここにはアリストテレスの自然学(『デ・アニマ』)を貫く主題がある。ここにある非対称性を見逃すことはできない。実在と非実在、発見と隠蔽、真理(アレーテイア)とその欠如のあいだの非対称性に注目することこそ、古代ギリシア人の知恵であり、ダメットが反実在論と呼んだものの中心眼目なのである。
 勇気の例に見るように、実在が意味を伴って、あるいは一つの意味として生成するとき、実在性とその意味とを切り離すことができないのは明らかである。
 たしかに、「存在」がいわゆるレアルな(事象内容を規定する)述語ではないことはその通りであるが、それは存在が意味理解にかかわらないという事ではない。それはしばしばレアルな述語の意味理解そのものを可能にする。たとえば、「勇気がある」というレアルな述語は、勇気の実在によってはじめて可能になるのだ。
 意味と事実、本質と実存を峻別する通俗的意味理解を越えて、新たな実在の発見による新しい観点、新しい経験の可能性すなわち意味の生成に注目するなら、本質存在と区別される現実存在(一種ののっぺらぼうの実在性)の探究などに、存在論の眼目があるわけではないことは明らかである。かかる視野狭窄は、制作を意味論と存在論のモデルとしてしまう傾向――アリストテレスにおいてさえ、すでに一部始まっていた傾向――に由来しているのである。
 私は繰り返し、問題解決や証明自体を実在の生成と見なさねばならないとと論じてきた(『読む哲学事典』p−127)。さもなければ、解けなかった問題が解けるようになるという変化が、理解できなくなってしまうからである。(この変化は、指示同定できなかったものが、生成して指示できるようになる変化としてのみ理解できる。)
 そうなると、今度は問題の存在そのものも自動的に理解できなくある。解決できないことがわかっているものは、そもそも問題ではないし、解決がわかっているものも問題ではありえないからだ。解決や証明という実在が、のっぺらぼうであることはあり得ない。その生成は実在の生成であると同時に、意味の生成なのである。


easter1916 at 22:53|PermalinkComments(5) 哲学ノート 

2020年09月17日

ジョン・ルイス

山形新聞への投稿
「よきトラブルに身を投じよ」ジョン・ルイス

 先日亡くなったルイス下院議員は、キング牧師の公民権運動に若くして身を投じ、黒人の投票権獲得に努力した活動家である。というのは、憲法が保証する投票権も、選挙人登録の段階で様々な難癖をつけられ、差別的に閉ざされることが多かったからである(「町山智浩の言霊USA」参照)。
 トラブルに巻き込まれるのを避けることは、すべての親が子に望むことかもしれない。たとえ言い分があろうと、それがきっかけとなるトラブルをあらかじめ避けて沈黙するのが賢明というもの。こうして器用に世を渡る利口者たちが、雲霞のように輩出されてゆく。困った人、いぢめられてる子供がいても、むやみに手を差し伸べてはトラブルに巻き込まれる。しかし、そうやって小粒の利口者ばかりはびこる社会をつくって、何が面白いのか? たしかに、他人と関わろうとすると、必ず厄介なことがついてくる。結婚、子育て、介護もすべてそう。あらゆる予期せぬことが起こる。その多くはトラブルである。だが、それらをすべて避けようとすることは、生きる意味を避けることだ。
 『聖書』に「よきサマリアびと」の喩え話というのがある(『ルカ伝』10・25)。強盗に遭った旅人を見て見ぬふりで通り過ぎる人たちと違って、手厚く救助するサマリアびとの話。サマリアびとはこうしてトラブルに進んで身を投じる。ジャン・ヴァルジャンに一夜の宿を提供したミリエル神父もそうだ(『レ・ミゼラブル』)。実際そこから、ジャン・ヴァルジャンは燭台を盗むというトラブルを引き起こしている。だが、それがなければ、彼の回心もなかったのである。「義のあるところ火をも踏む」(与謝野鉄幹)ような、少々向こう見ずな人がいてこそ、この世はうまい味を出すものである。


easter1916 at 18:37|PermalinkComments(0) 日記 

2020年09月13日

大坂なおみ選手の快挙

大坂なおみ選手が、全米オープンで再度優勝を果たした。おめでとう! 
 今回の優勝は、二年前の壮挙にもまして喜ばしい。彼女は、7つの試合に、不当に虐殺された黒人の名を記したマスクをつけて現れ、敢然とBLM運動に連帯することを選んだ。くそ右翼たちから多くの憎悪を招くことを少しも恐れずに。
 たちの悪い愚か者たちが、「スポーツに政治を持ち込むな」という金切り声を挙げる中、彼女は「人権の問題だ」と反論した。右翼たちには、この反論の意味さえ理解できない。とりわけ、「セレブたち」が政治的イシューにタッチしないことが身過ぎ世過ぎに有利だ、と考えられているわが国の文化風土では、人権のために闘うことは、被害者のみならず万人の義務である(イェーリンク)ことが理解されないからである。オリンピックをはじめあらゆるスポーツ・文化・芸術が、政治と無縁でありうるわけはないという常識を、ここで繰り返す必要があるだろうか?
 今回、とりわけ印象的だったのは、優勝インタヴューで「マスクで何を伝えたかったのか?」という間抜けな質問に対して、「あなたはどんなメッセージを受け取ったのか?」と訊き返したことである。この問題に対して、傍観者でいることはできない。あなたはこれについてどう思うのか?あなた自身はどう行動するのか?
 観客も報道者たちをも巻き込んだパフォーマティヴな発話なのだ。そこに議論を巻き起こすことに比べれば、選手個人のメッセージなど、いかほどの重要性もないのである。クズ右翼たちの金切り声自身が、そのことを実証している。ここには大坂なおみ選手のマチュアーな叡智が輝いている。


easter1916 at 16:05|PermalinkComments(7) 時局 

2020年09月09日

『アンチゴネー』再論

ソフォクレスのアンチゴネーについて、前からよくわからないと感じていた。このヒロインの強烈な個性は、深い感銘を我々に残すとはいえ、その意義についてどう理解すればいいのかわからないままに謎に包まれるという印象である。このたび、木庭顕氏の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)を一読して、非常に説得力のあるアンチゴネー論に出会ったように思われたので、私の理解できる範囲でそれについて述べてみたい。本書は、すでに上梓されている氏の高度にブッキッシュな書物に比べて、はるかにとっつきやすく仕上がっているので、我々非専門家にも氏の考えの本質的な部分について、よき手ほどきを与えてくれる点でまことにありがたい。
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easter1916 at 22:12|PermalinkComments(0) 読書感想 
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