2006年05月19日

新刊

 拙著『読む哲学事典』が、講談社現代新書の一冊として刊行された。きょう、東京渋谷の本屋で見かけたから、一両日中には、どこででも手に入れられるようになるだろう。
 著者というものは悲しいもので、こんな時、つい何か余計な説明や弁明をしたくなってしまうもののようだ。いかにも禁欲的なたたずまいを見せる丸山真男の『日本政治思想史研究』でさえも、あの「あとがき」には、思わずもらされた感慨が、軍隊への応召に発つときの新宿駅の情景とともに書き記されている。あの本を終わりまで読み進めてきた人々に、ひとしお深い印象を与えるところである。
 しかし所詮は、本自体が語ること以上の説明や弁明は、どのようにしたって無駄なものに違いない。いまさら、どのような気持ちで書き進めたのか、どこに新味があると自分で自負しているのかなどと、見苦しい弁明を重ねても、本それ自身が証言する以上の弁明を与える事はできないのである。
 値段は税別で760円。  

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2006年05月14日

自慢話

少々自慢話を許していただこうか。
 毎週、哲学の読書会をしている仲間がいるが、テクストを読む合間によく雑談をする。今から十年以上前、メンバーの一人であったM氏が高校数学の問題を二つ持ってきたことがある。彼がしていた家庭教師の子供からもらってきたのである。数学の問題は、簡単なものでもいったん袋小路に迷い込むと、なかなか出口が見つからないことがあるものである。
 その第一問。
 正五角形の対角線を結んで出来る星型(ペンタグラム)をつくり、その頂点をそれぞれA,B,C,D,Eとする。ACとBEの交点をF、BDとCAの交点をGなどと順に符号を付けると、内側に正五角形FGHIJができている。今、ここに直線を2本だけ引いて、小さい三角形を10個作るには、どのように線を引けばよいか?ただし、ここで「小さい三角形」というのは、その三角形がいかなる線分によっても分割されていない三角形のことを言う。たとえば、△BFGはよいが、△CEFはだめということである。
 その第二問。
 ひとつの線分の中に任意の二点を取ったとき、そこを折り曲げて三角形を作れるようになる場合の確率を求めよ。
 
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Posted by easter1916 at 19:49Comments(0)TrackBack(0)

2006年05月08日

5月のMozart

ぼくらはあの五月の花咲きかをる真昼、苦しいほどの歓びと、むせるやうな花のにほひとあこがれに、はげしく胸をこがしつつ、共に丘をのぼっていった。耳もとで、蜜蜂の羽音がここちよく響き、生まれ出でんとするすべてを光がつつみ、風が祝福したときに、ぼくらはおたがひに、どちらが深くMozartを愛してゐるかを競ひあったものだった。ぼくらは口をきはめて自分の幼い愛を告白しはしたが、いかなる賛美をもはるかに超えてなりひびき、光り輝くものがある事をますますはっきりと感じながら、二人の貴重な沈黙へともどっていったのではなかったか。そのとき、ぼくは君を、君は雲を、雲はぼくらを見つめて流れてゐたね。

あのときケルビーノのアリアを歌ひ出したのは、君だったらうか、ぼくだったらうか?

再び沈黙がもどったとき、ぼくらは互ひに前よりずっと近くに立ってゐることに気づいてほほゑんだ。横に君の肩を感じて耳をすませば、今度は草木や花々までが、ぼくらにならって静かに歌ひ出すのがきこえるのだった。
  
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2006年05月05日

亀田一家

亀田某が、ボクシング界の若手としてデヴューしているようだが、ボクシング好きの私でさえうんざりするのはこの兄弟である。兄弟で互いに区別がつかないくらい、いずれ劣らず品格もマナーもないならず者面であり、父親からさえも自立できないほどのクソガキぶりを発揮しているのだ。このようなクソガキチンピラを前にすると、対戦相手の外国人選手のマナーのよさが際立つので、誰だって対戦相手の方を応援したくなってしまう。テレビ局の軽薄スタッフが、自明のようにこの未熟なチンピラを応援しているのも、不快極まりない。例によって馬鹿騒ぎのテレビ局のお調子者たちが、よってたかって亀田一族の肩を持ち、ただでさえ心細く周りじゅう敵だらけの日本へ出稼ぎにやってきた相手ボクサーを、血祭りにあげようとしているのだ。多分、あまり実力がありすぎない、盛りを過ぎた選手とか、減量に苦しむ選手とか、スランプ続きのボクサーなどを念入りに選んでいるのだろう。ただ、「日本人」が勝利する馬鹿騒ぎを盛り上げるためである。  続きを読む
Posted by easter1916 at 08:07

2006年05月01日

回帰する問い

講談社の宣伝用小冊子に、短いエセーを書くように頼まれた。二通りのヴァージョンを書いて送ったら、その一つを選択してきたので、残りの方をここに載せることにした。いはば、感謝祭のときに大統領の恩赦から外れた方の七面鳥である。

ある世代が命がけで提起する問題というものがある。だがそれも、その世代で解決されるとは限らない。フェルマーの謎が解けるには三百年ほどを要したし、平行線公理を証明しようとした何世紀にもわたる数学者の試みは、十九世紀になって非ユークリッド幾何学の発明という予期されなかった決着を見た。幾世代にわたって徹底的に問い直され、問い続けられたあげく、何の決着も見ずに、ただ飽きられ忘却されてしまう問題も少なくない。三位一体の問題とか、原罪の問題などはそれだろう。時代情勢が変化しているので、今となっては何ゆえこれらの問題に命がけで人々が争いあったのか、理解するのは難しい。しかしそれでも、そこに何の実質もなかったなどとは、とうてい言えないだろう。それらは、形を変えて必ず回帰してくるものなのだ。
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Posted by easter1916 at 04:39Comments(1)