2007年03月

2007年03月28日

我が魂より我が祖国を愛する

 山形新聞のコラムで、マキャヴェリの言葉を取り上げた。冒頭の引用は、マキャヴェリの書簡集からのものである。他にも、彼の『フィレンツェ史』(第三巻)の中に、これに似たものがある。「市民はそこで、自分の魂よりも祖国に対してこそ、それほど多くの価値を置いたのだ。」教皇からの破門をも恐れず、祖国フィレンツェの為に戦った市民たちをマキャヴェリは賞賛したのである。新聞に書いた原稿を再現することはできないが(たぶん今週土曜日に掲載される)、ここではそれとは別の角度から、この言葉の含意を考えてみたい。

 イスラム教でスンニ派とシーア派の分裂の経緯をご存知であろうか? 

 預言者ムハンマドの死後、四代を正統カリフ時代と呼ぶようだが、そこではイスラム共同体(ウンマ)の総意で代表(カリフ)は選ばれていた。この第四代カリフ、アリが暗殺された。その結果、ウマイヤ家の世襲王朝が生まれる。ウマイヤ家は、ムハンマドに最後まで抵抗したメッカの名門であるから、ウマイヤ朝の成立はムハンマドの精神に対する裏切りと受け取る向きも多かった。このウマイヤ朝の支配もやむなしと受け入れたのがスンニ派であり、暗殺されたアリの系譜にあくまでもこだわったのがシーア派である。

 このように述べると、アリを暗殺したのが、ウマイヤの一派であろうと思われるかもしれないが、意外にもそうではない。ウマイヤ家とアリとの対立は、すでに第三代カリフの時代に生じていた。アリがカリフに立ってからも対立は続いたが、アリの勝利の方向で事態は進んでいた。追い詰められたウマイヤ家がアリとの和解を申し出たとき、アリがそれを受け入れたのに、一部の人々が反対をして分離派(ハーリジー派)を結成した。アリは、そのハーリジー派の人に殺されたのである。ハーリジー派は、イスラム教の原理を純粋に保持しようとして、結果的にもっとも敵対すべきウマイヤ家の支配を許してしまうのである。

 政治の場で、これと似たような事が幾度となく繰り返されてきたのではないか? 自らの原理を妥協なく純粋に貫こうとして、かえって重大な、最悪の結果を招いてしまう。政治においては(あるいは一般に、多くの異なる意見や利害の交錯する場で行動するときには)、魂の「純粋」を犠牲にしても、意にそまぬ妥協を重ねながら、粘り強く己れの理念の実現をめざさねばならないのである。「魂」への私的関心は、宗教や理念や信仰を口実にしてはいても、所詮は子供っぽいナルシシズムの域を出ない。もしその理念や信仰が本当に生きた力を持つものであれば、臨機応変に様々な戦術的妥協を重ねても少しも揺らぐものではないはずである。むしろ、時には大胆に妥協ができることこそ、信念の堅固さの証しとさえ言える。逆に、片言隻語にとらわれて柔軟な思考ができないのは、信念が借り物であるか、すでに己れの中でそれが干からびてしまって、当初の生命力を失いつつあることの兆候なのである。あらゆる純粋主義には、ナルシシズムの腐臭が漂っている。(もちろん我々は、ムスリムが常に純粋主義にとらわれているなどと言いたいわけではないので誤解なきよう!)

 さて、いよいよ近づいてきた都知事選挙であるが、いまさらイシハラ某に投票しようという人には何も言うことはない。ただそれ以外の候補者に投票しようとしている方には、それでイシハラ的なものに本当に勝てる候補なのか、よくよく考えていただきたい。吉田万三さんの主張やお人柄にも、ある程度共感はできる。(黒川さんも同様。)でも、それで本当に勝てるのか?いまや、単によく闘ったという自己満足(魂の救済)だけでは何にもならないのだ。もちろん、共産党の幹部の方々が吉田氏を応援するのは当然のことだ。しかし今回は、吉田さんの支援者の方や共産党の支援者の方々には、よくよく考えていただきたい。ここではイシハラ的なものをいかに阻止するかを考えるのが、「わが魂よりわが祖国を考える」ことではないだろうか? また、誰も理想の候補がいないとして棄権しようと思っておられる方々にも、この点を考えていただきたい。己れの理想や信念より、マキャヴェリの言う「祖国」のことを第一に考えよう。一票を投じたところで、自分の思うように世界が変わるわけではないが、投票によって最悪の事態を拒否することだけはできるのだ。いかに不愉快な妥協と思われようとも、自由と人権という憲法的価値のために、危急に瀕した祖国のために、投票に決起して欲しい。それは徴兵制に代わる我々の義務である。


easter1916 at 22:04|PermalinkComments(4)TrackBack(0) 日記 

2007年03月16日

ムハンマドの奇跡

 預言者ムハンマドは、あるとき多くの信徒の前で言った。「決して揺るがぬ信仰心を持ちなさい。それさえあれば、あの山をひざまづかせる事もたやすい。」そこで彼は、山を動かそうと一心に祈った。そうすると何と、山は…

 山はびくともしなかった。

 固唾をのんで見守っていた信徒たちの前で、ムハンマドは少しもあわてず言った「山がここへ来ないのなら、私が山の方へ赴こう。」

 この逸話は、何を意味しているのであろうか? ムハンマドが大法螺ふきのペテン師だった事を示しているのであろうか?

 決してそうではない。

 信仰が動かなければ、山が動く。山が揺るがなければ、信仰が揺らぐ。この因果が中断されるのだ。はじめ人々の関心は、多少の期待を込めて、山が動くかどうかに集中している。だが、山が動かぬとわかってからは、今度は信徒たち、ひいてはムハンマド自身の信仰がこれで揺らぐかどうかに、関心の焦点は移動する。しかし、いずれも動かない。いずれにおいても我々の期待は裏切られる。そこに、突き抜けたユーモアの感覚が漂うのである。我々は常識では絶対動かぬもの(つまり山)さえも、ひょっとしたら動かすかもしれないという信仰の強烈な力を予感する。しかし、期待に反して世界は揺るがない。

 しかし考えてみれば、山を動かすためには、必ずしも信仰は必要ではない。大量の爆薬があれば、少しは山も動くだろう。むしろ、揺るがぬ信仰を持ち続けるためにこそ、神の助力が必要なのではないか? ことに、こんな不面目を前にしてすら、少しもあわてず何事もないかのように信仰を貫き通すところにこそ、驚くべき信仰の力、神の奇跡が示されているのではないか?

 たとえば絶対的に信頼を置く人が、約束の時間に現われなかったとしたら、そんな時でも我々は彼に対する信頼を失うようなことはあるまい。むしろ、何か重大な支障か、よんどころない用事ができたのだと思うだろう。神に対するムハンマドの信頼が、山が動かなかった事くらいで揺らぐはずがないのである。



easter1916 at 02:54|PermalinkComments(5) 日記 

2007年03月07日

都知事選

 都知事選に関する集会が行われるようなので、以下にそれを紹介しておく。
 <都民のハートに火をつける3・9イベント>
 3月9日金曜日 18:30開場 19:00開演 中野ZERO大ホール(中央線 中野駅東口から徒歩8分 tel5340−5000 http://asano46.exblog.jp/ )話題の人も特別ゲストで見えるようだ。
 誰が都知事に最適かに関しては、様々な意見があるだろうが、今回の選挙では、石原再選をいかにして阻止するかこそが、喫緊かつ最重要な論点である事を、理解せねばならない。「イシハラ」でさえなければ、他の誰がなるかには大した重要性はないとさえ言える。その上で、誰が勝てるか、どれだけ圧倒的に勝てるかを、慎重に考えるべきである。
 イラク戦争開始の時もそうであったが、決定的な時点で行動を起こさず、シニシズムに身を任せていては、後悔を千載に残すことになるであろう。魂の自由のために決起しよう。

easter1916 at 23:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: