2008年09月06日

トクヴィル


 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』にふれたのは、20年以上前1986年5月の頃である。抄訳を一読して、ほとんど一行一行にあふれるその深い洞察に感嘆したのを忘れない。いずれ全巻を通して読むつもりで、フランス語の原本を手に入れたが、最近まで手付かずであった。今般、信頼できる全訳(松本礼二訳 岩波文庫)が出たのをきっかけに、ついに全巻通読できたのはありがたいことである。

 読み直して、その予言者的とも言える洞察に対する感銘は相変わらずであるが、時を隔てたこともよるが、抄訳と全訳の違いによるとも思われる印象の違いが感じられる。
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Posted by easter1916 at 20:14Comments(0)TrackBack(0)

2008年09月01日

奴隷の反乱

最近、普段は怜悧な考察で知られるブログ・サイトやチャット・サイトなどで、「ドストエフスキーに感動した事などない」とか「トルストイなど三流文士だ」などと平気で公言する人々が少なからずいて驚かされる。もちろん、これらの最高水準の文学が、誰にでも隅々まですぐに理解できるとは限らないのは当然のことである。しかし、恥ずかしげもなくこのように公言している者は、どうやら己れの愚かさをアピールするつもりでそう書いているのではないらしく、むしろこのように書くことで「大文豪」を批判・批評したつもりなのである。我々の国は、いつの間にどうしてこんな事になってしまったのだろうか?どうして彼らはドストエフスキーの小説を疑う前に、己れの幼稚な心性を疑わないのであろうか?どうして自分にドストエフスキーやトルストイを論じる資格があるなどと、途方もない考えを持てるのであろうか?オルテガやニーチェなら、これを「奴隷の反乱」と見なすに違いない。奴隷に特有の心性とは、何より畏敬の欠如――己れよりには何もないと見なす事だからである。
 何ゆえ、わざわざこんな説教臭い事を書き始めたのかといえば、先日、山形新聞のコラム「ことばの杜へ」で取り上げたのが、たまたまドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の一節であったからである。
つね日ごろあまりに分別臭い青年というのは、さして頼りにならず、そもそも人間としても安っぽい 第七編 
 これは、ゾシマ長老の遺体が腐臭を放つという有名な場面にある。アリョーシャが、その若々しい情熱からゾシマ長老を慕っているさまが縷々述べられた上で、そのアリョーシャまでもが、ついゾシマ長老の遺体に何か奇跡的なことが起こるかもしれないという軽薄な迷信に加担してしまうのである。一途な帰依が、ついこのような軽信へと彼を迷わせてしまったのだが、そのような帰依も畏敬の情熱も持たず、ただ分別臭い青年など、人間として安っぽいとさえドストエフスキーは断言するのだ。これがたとえアリョーシャの罪であったとしても、罪さえ犯さぬ若者には、初めから何の見所もないのである。
 さて、この出来事をめぐる人々の欲望の動きを活写するドストエフスキーの筆は残酷なまでに鋭く、まさにドストエフスキーならではのものである。実際そこに、フロイトの骨を担いで右往左往する僧侶たちの動きを重ね合わせてみてもいいだろう。また、奇跡を期待する群集は、みな一種の夢を見ていると言ってもいいだろうが、その夢の中にこそ耐え難いあの腐臭という現実が広がっていくのである。それが耐え難いのは、奇跡への期待という夢の中で臭うからであり、ただ自然の腐臭であれば、それほどまでにおぞましいと感じる事もなかったろう。この「現実」から逃れるためには、もはや軽信の夢から目覚める他はないのである。ドストエフスキーにとって、夢を引き裂くおぞましさの中に啓示される真実こそ、キリストの真実であった。
  
Posted by easter1916 at 15:47Comments(0)TrackBack(0)