2010年09月28日

花井一典氏の思ひ出

 北大の旧友からの電話で、花井一典氏の急逝を知らされた。24日に北大文学部でお別れの会があった。北大へは、ほぼ20年ぶりである。

 花井氏(以下敬称略)は、知る人ぞ知る中世・古代哲学者である。わたくしとは大学同期で、言葉に尽くせないほど彼にはお世話になったのだが、ここ15年ほどはほぼ絶交状態が続いていた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?
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Posted by easter1916 at 21:01Comments(0)TrackBack(1)

2010年09月21日

保護責任者遺棄致死?

 覚せい剤をパートナーに投与して異常をきたしながら、救急車を呼ぶこともなく死に至らしめたタレントの事件については、うんざりするほど報道されているので、知らない人はいないだろう。この事件の悪質性――証拠隠滅や他人への責任転嫁、不合理な言い逃れなど著しい反倫理性を考慮すれば、ほとんど殺人にも等しい非難に値すると見る人も多いだろう。2年6カ月というあまりにも軽い量刑には、遺族ならずとも意外に感じるに違いない。実際、私自身もそれに近い印象を持った。

 しかし裁判員は、専門医師の間でも、被害者を救命できる可能性の判断が大きく分かれた点を重視して、遺棄致死罪を認定しなかった。これは、裁判員たちが感情に流されず、あくまで証拠に基づいて理性的に判断したことを示している。この範例は、裁判員制度が定着してゆく歴史において、記念すべきものとして記憶されることだろう。その歴史的意義は決して小さなものではない。

 厳しい倫理的節度を自らに課して、見事責任を果たされた裁判員の方々に、心から敬意を表したい。

 彼らとて、無作為にごく普通の市民から選ばれているはず。何が彼らを、ここまで高い倫理的水準へと引き上げたのであろうか?(たとえば、テレビの評論家たちの放言と比べてみよ)ギリシア人ならば、「どのような神々が?」と問う所だ。当然「正義の神が」と答えねばならない。

 裁判員制は、「裁判に庶民感情を取り入れるため」にあるものではない。「一旦緩急あらば、義勇公に奉じ」という言葉があるが、たまたまクジ運によって選ばれた彼らこそは、法の守り手、祖国の御盾(みたて)へと召喚された者たちであり、それによって公共の輝きが、彼らにその責任を強制し、彼らに日常生活を離れ、私的関心を超えた政治的(ポリス的)倫理を呼び覚ますのである。
  
Posted by easter1916 at 19:35Comments(0)TrackBack(0)