2011年01月20日

陸軍の立身出世主義者たち

 NHKの特集番組で、戦争開始に陸軍が果たした役割について分析がされていた。それによれば、その実態は単純ではない。つまり、陸軍は何か一貫した意志のもとに戦争政策を追求したのではないということだ。丸山真男の有名な論文以来、日本の政治指導部が意志と主体性を欠いた無責任の体制であったことはよく知られている。しかしすでに軍部自体が、近代官僚制としての要諦としての規律や統制さえ欠いた、多頭的怪物にすぎなかったのである。

 今回の特集では、軍の若手エリートによって結成された一夕会というグループが大きな役割を演じたことが指摘されていた。彼らは当初、元老として陸軍に君臨していた山形有朋ら旧指導部に対抗して、軍部の革新をもくろんでいた。彼らは若手エリートとしてドイツに留学して、新しい軍事技術や総動員体制に通暁していて、日本軍がそれに対応する必要を痛感していたとは言えるだろう。しかし実際に彼らを突き動かしていた主要動機は、むしろ彼らの立身出世が旧世代によって阻まれている不満と、それを打破することであり、最新の軍事的技術の導入や組織の改革は、いわばそのための口実に過ぎなかったことが分かる。その証拠に、彼らが首尾よく旧世代を駆逐して、自分たちグループが首脳部の主要ポストを独占したあとは、まことに熾烈な派閥争いが起こるからである。それは、彼らの中で一番の俊秀と目されていた永田鉄山軍務局長の殺害に及ぶほどである。

 彼らの心性が、根っからの立身出世主義に侵されていたことが浮き彫りになるが、これが組織原理優先主義、セクショナリズムと密接不可分であることを認識せねばならない。彼らの統合の原理は、常に想像的同一化(組織へのナルシスティックな一体化)であって、特定の教義や価値理念ではなかったこと、それゆえ、一旦分裂した場合、相互に議論したり妥協を探るための共通の基盤(言語化された原理原則)が欠けていたこと。

 立身出世主義は、教義や掟のような言語的理念を欠いた、中心への接近ないしは上昇でしかない。天皇またはそれに代替する組織(軍、連隊、派閥)や象徴(日の丸、勅語、天皇)への想像的同一化や惑溺、これのみが彼らの統合原理であった。

 もともと近代化によって農村共同体から切り離され、脅かされた脆弱な主体にとって、かかる対象への想像的同一化は、よりかかるべき唯一の支えと見なされてしまうのである。彼らの攻撃的で妄想的な自己主張は、その自己の脆弱性のしるしであり、傷つきやすいナルシシズムの現れに他ならない。

 かくて彼らは、想像的自己イメージへと関心を集中させ、自己が臣従すべき言語や掟の世界(象徴界)での位置づけ(象徴的同一化)を見失い、恐るべき視野狭窄に陥る。天津方面軍の軍事参謀長として、日中戦争の引き金を引くことになる軍事作戦を起こした酒井隆の動機が、他の司令官たちがすでに獲得していた勲章や軍功への渇望という、実に幼稚なものであったことが紹介されていたが、彼には、これらの地方における軍事的挑発が中国人の間にいかなる反応を引き起こすか、またその地方に権益をもっていた米英諸国にいかなる懸念を引き起こすか、というごくごく常識的な考慮すら、すっぽりと抜け落ちていたのである。ナルシシズムで膨れ上がった立身出世主義者たちは、国際秩序や公共的言論に顧慮することなく、ますます幻想的なナルシシズムへと退行するため、かかる視野狭窄に陥るのである。
 
  

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2011年01月18日

アジアカップ、シリア戦

 アジアカップでのフル代表の活躍は素晴らしく、リーグ戦を一位通過した。

 しかしここではシリア戦での戦いについて一言記しておきたい。シリア戦前半35分の攻撃は理想的なパスワークからの連係プレーで、今後の日本代表を十分期待させるものであった。我々はこれを見て、ザッケローニに対する信頼を深めることができた。

 しかしなんといっても今回強調しなければならないのは、後半30分のレフェリーの判断で、ゴールキーパー川島が退場になった後の彼らの闘いである。もともと日本代表はフェアーな戦いをするので有名だ。それはサッカーが日本ではまだ未熟な歴史しか持っていないことによるかもしれない。国際舞台にデヴューしたばかりの明治政府が万国公法にこだわったように、日本代表もルールに律儀にこだわる。しかしそれゆえに、相手が狡猾にゲームを進めたり、レフェリーが期待されたほどフェアーでなかった場合、たちまち弱点をさらけ出してしまう。

 レフェリーに過度な公正さを期待するあまり、それが実現しないとわかると、レフェリーなどいない方がましだなどという考えるのは愚かというものだ。しかし、しばしば権力(司法権力とか検察権力)に過度な正義を(つまり人として期待し得る限度を超えて)期待するあまり、権力などない方がいいという考えに走る人が時々いるのである。これは、公正な裁きをお上から下賜されたものと見なす習慣の名残ではないだろうか?

 一般にサッカーやラグビーでは、ルールは我々が普通考えるよりかなりルーズなものである。だからこそ、ホームとアウェーではあれほどの差が出てくるのだ。たとえばレフェリーは、ゲームをあまりしばしば止めてはいけないことになっている。厳密にルールを適用することよりも、スムーズにゲームを進めることの方が重要視されるのである。

 今回のシリア戦は、その意味では大きな試練であった。たとえアンフェアーなジャッジであったとしても、それにこだわったり反発したりして、ゲームを台無しにしてはならない。くさることなく気分を切り替えて闘い続け、ついに運を呼び込んだ日本代表は立派である。並々ならぬ自制心、克己、忍耐、持続する志――ここに我々は未来の日本を見た。
  
Posted by easter1916 at 18:06Comments(2)TrackBack(0)